遠州中泉 府八幡宮祭典について

 明治2年の『西光寺日記』に八幡宮祭礼の様子が記述されている。8月15日に「境松八幡宮賑々敷屋体出手踊アリ夜に入見物ニ行」とある。屋台の引き回しがあり、手踊りがあったのは、これによって明らかである。少なくとも江戸時代の末期には、山車祭があったことは、近隣の横須賀や森町などの祭礼史から類推しても間違いないところであろう。祭礼の日付は、旧暦の8月15日である。

  久保町に伝わる文書や古老の話によれば、明治6年にそれまでの「久保若」が「奥久保」、「田町」、「石原」に分かれ、奥久保の若連は「玉匣社」となったという。この命名者は府八幡宮の神官・大場重光だと伝えられている。また、それまでは、「久保若」「西若」「東若」の三若連であったとも書かれている。

「久保若」=久保町、田町、石原町/「西若」=西町、坂上町、西新町/「東若」=東町、七軒町、中町。

 遠州中泉府八幡宮祭典余興の公式記録は大正4年(1915)から始まり、それまで九ケ町だったが、新道(現在の栄町)が正式に西町から分離独立し、十番目の祭参加町となり、いわゆる十ケ町組織ができあがり70年後の昭和59年に新たに6ヶ町の参加を得て16ヶ町となり、現在まで続いている。

 山車の運行は、大正期から戦前までは初日、2日目とも府八幡宮に参集し、初日は東西二組に分かれ、2日目は全町が御輿巡行のお供をするというコースを毎年行っていた。
 戦後になり、時代が変わり、氏子の考え方や世間の諸事情により、次第にコースの変更が行われるようになり、今では八朔集会では決まらず、毎年「臨時外交集会」を招集して決めるようになった。

 祭は、お宮を中心とした神事を行なうことが目的である。「宮から始まり、宮で終わる」当然のことであって議論の余地はない。
 しかし、だからといって余興である山車の曳き廻しは、付け足しだから、どうでもよい存在ではない。

 京都の祇園祭は、町中に疫病が流行して困っていた町民が疫病退治を八坂様(神社)にお願いしたことが、お祭りの始まりです。疫病神(事件事故などで殺されたり、不慮の死を遂げて成仏できずに、苦し紛れに世間を惑わす霊のことをいう。)をおびき寄せる為に山車を繰り出し、お囃子や舞を踊ることで町民を楽しませ、それにつられて一緒に出てきた疫病神を稚児の体を借りて降りてこられた神様のお力でそれらの疫病神を霊界に封じたとされています。それ以来、恒例行事となり、全国に広まった。

 年に一度、神様がお乗りになった御神輿が本宮を出て御旅所に行き、氏子の町を廻って願いを叶えてくださる。
 山車は、その御神輿のお供をして町を廻り、日頃の苦労を忘れて、氏子皆で楽しい一時を過ごし、より多くの人々に楽しんでいただく。

 府八幡宮祭典においても昔は当然のことながら、祭典当日にはすべての山車がお宮に集まり、神事に参列してから曳き廻しを始め、最後は必ず府八幡宮に集まって解散式を行って修了していた。

 府八幡宮の祭には多くの素晴らしい要素(由緒ある神社、立派な山車、手古舞、お囃子、etc.)が揃っている。祭の原点に立ち返り、祭典に於ける神事を重んじて全体の体系を整え、本来の伝統を大切にして、ほんの少しだけ頑張って工夫してみれば、もっともっと素晴らしいお祭になる筈である。

  



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