昭和期戦後の
府八幡宮祭典余興
その一

高橋一良
(磐南文化会員



【空襲と山車】
 
昭和20年8月15日、終戦。敗戦は日本に未曾有の痛手を与え混乱を引き起こした。現在のかぶと塚公園にあった陸軍通信隊『百二九部隊はすみやかに解散・復員となり磐田町長の管理下におかれた』と磐田市史通史編下巻(374ページ原文のママ)は記し、こう続けている。『八月二十一日、敗戦を迎えた県民へ県知事より訓令があった。これには開戦の時と同様に、「聖慮に対し奉るよう、憤激・動揺することなく、この責任は国民が均しく分かつべき深い反省をなし、市町村民の一糸乱れぬ秩序の維持と難局打開及び建設の努力を期す」とある』

中泉町は昭和15年11月、見付町、西貝村、天竜村と合併し「磐田町」となっていた。『磐田は浜松空襲に伴う余波を受けて、十九年十一月より二十年八月二日に至るまでの六回(筆者注:実際には七回)の空襲で多くの民富を焼失した』(同磐田市史下巻373ページ)磐田町全体で、合計333軒が全焼全壊、301軒が半焼半壊、死者は162人と記録されているが、実際にはもっと甚大な被害、犠牲であった。罹災者2900人という数字も挙げられている。20年2月15日の空襲では、栄町・新栄社山車が惜しくも残骸と化してしまった。この山車は、田町・盛友社が大正2年に現四輪山車(中泉初)を建造するまで同町で使用されていた由緒ある二輪山車だったのだが…。

高橋廣治氏(磐南文化協会員)の労作『昭和二十年五月十九日の中泉地域に於ける被爆記録』(磐南文化第三十一号)を読むと、よくぞ栄町一台(栄町は2月15日)のみで済んだものだと慄然とする。(もちろん山車云々以前に戦慄すべき事態だ…。)

それによれば、石原町山車蔵至近の『田中神社の西側に並んでいた数本の松の木を一発の爆弾がなぎ倒し、もう一発は正面鳥居の東側にあった大きな太い楠の樹上で爆裂した…』とある。この時磐田工業学校生徒3人が死亡した。さらに『東町四一五地内 金山神社東側にあった長屋北側の井戸を爆弾が直撃して、周辺の家が全半壊した…』とあり、ここは東町山車蔵まで東へ2、30メートル、七軒町山車蔵まで北に数10メートルではなかろうか。この日だけでも47発の爆弾と51名の死者を数えた中泉地域の被災状況の中、被爆地点が少しずれれば最悪、西新町、石原町、坂上町、田町、西町、東町、七軒町、中町等(中泉農学校生徒5名が犠牲)の山車が灰燼に帰しても不思議ではなかったのである。山車直撃、類焼を回避できたのは、八幡神の思し召しとしか思えない。

【八朔集会通知】
 
8月30日連合軍総司令官マッカーサー元帥は厚木飛行場に降り立ち、9月2日には東京湾上ミズーリ号甲板で日本政府代表から降伏文書に調印を受ける。磐田町へ占領軍が進駐するのはこの先、11月6日、米第八軍第25師団歩兵第35連隊第一大隊長レーイン少佐率いる1350名は、129部隊跡の施設を接収することとなる。

混乱の極み、空襲の被害・焼土があちこちに見える中泉では、8月末、年番東組が各町へ次の通知をなした。

         御通知 
来ル拾月二日三日執行ノ縣社府八幡宮祭典ニ関シ吉例ニ依リ左記ノ通リ各町集會開催可仕候ニ就而規約ニ基キ各町世話係弐名御出席相成度此段御通知申上候

           記
一. 日時 昭和二十年九月一日午後七時(時間厳守)
二. 會場 府八幡宮社務所追而当日協議事項提出ノ向ハ豫メ八月三十日迄ニ其ノ内容ヲ必ズ年番迄提出被致度為念申候
 
民俗や祭礼の伝統を継承する力をこの一通の通知から読み取ることができる。国家としての存亡さえ危うい時、しかも神道は、戦前「国家神道」として「軍国主義」を強化するものだとされた戦後思想の「論調」からすれば、鎮守の杜の祭典は忌避されてもおかしくないものだったろう。しかし、こう考えることができるのは、まだ先のことで昭和20年8月の時点ではただ目の前の混乱と不安があるのみである。民衆の一群である青年たちは「吉例に依り」「規約に基き」淡々とそして祭りができる歓びをもって通知をなしたものと思われる。

ただし、多くの祭り青年はいまだ戦場から帰還してはいない。また永遠に帰らぬ人となった戦争戦没者は、磐田町全体で19年だけで672人、20年が652人を数え、昭和3年の日中戦争勃発から戦後に判明したものまで加えると、1926人だと、磐田市史編纂資料は伝えている。同通史編下巻は『戦死者の中に、女性13人が看護婦として従軍し戦没者となっている』と記し、その名前を綴っている。

『玉匣社祭典若者名簿』によれば、昭和19年度当初には学生を除く若者50名中8人(うち世話係12人中では2名)が出征中と備考欄に書かれている。この19年には学生を含め70人近くいた若者が、20年9月祭典直前調査では30人に激減しており、応召されていた筆者の父親の名前も記載されていない。
しかし、祭典余興・山車引廻しを例年どおり実施しようとする青年たちの意思は粉砕されていなかった。年番・東組の求めに応じた九ケ町の世話係外交は、定刻どおり昭和20年度各町集会(八朔集会)出席のため、府八幡宮社務所に集合した。

【謎の落丁部分】

大正4年以降残っている府八幡宮祭典余興の公式記録(記録簿)は、幾冊かの帳簿に分かれている。第二冊目に改めたのが、この昭和20年である。だから戦前の記録は第一冊に纏まっている。それを書き始めた年番(当初は当番)がいずれも東町・東組というのも不思議な巡り合わせだ。大正4年に新規約を策定し、記録を正式に残すことになったのは、10番目の余興参加町、栄町が加盟し10ケ町組織がスタートした区切りの年だったからであろう。それからちょうど30年、敗戦という未曾有の混乱と国家再建へのスタートの年に、偶然とはいえまたもや東組が年番にあたっていた。何か府八幡宮の神のなせる不可思議な力を感じるのは筆者だけであろうか。

さて、その第二冊目の冒頭は、いきなり欠落となっている。通常なら12月31日付け前年年番からの引き継ぎで始まるのだが、『九月十六日、町長ヲ訪問当局ノ意向ヲ報告具体的山車奉納方法ニ就テハ十七日開催ノ各町集会ニ於テ協議決定ノ上文書回答ヲ約ス…』となっている。数ページと思われる戦後冒頭の記録に何が書かれていたのだろうか。記録にとどめるにはまずい事柄があったのだろうか。年番が町長に「当局」の意向を報告しなければならない事態となり、17日に山車運行について各町集会で決定するという文章は何を意味するのだろうか。ここで言う「当局」とは、町長自身に報告するのだから磐田町当局ではない。とすれば、あとは警察当局又は各区(現在の自治会)当局しかありえない。

各区当局とは現在からみればおかしな表現であり考えだが、どうやら後に出てくる文脈からすると、ここで言う当局とは各町内会役員を指しているようだ。通常戦前の祭典余興では9月1日の八朔集会で「山車引廻し方法」まで決定し、
(異議申し立てがなければ)そのまま祭典を迎える。しかも、その引廻し基本コースは、八幡宮に集合し八幡宮で終わる。この基本が少しずつ変わってきた様子や意味については、拙稿『昭和期戦前の府八幡宮祭典余興』(磐南文化第32号掲載)で論じたとおりである。戦後最初の八朔集会において、その夜のうちに具体的コースまで決定することができたのかどうか、肝心な部分が落丁のため確認することができない。

【余興中止論台頭】

幸いなことに9月17日に決定した『各町集會決議事項20・9・17』が残されている。それによれば、山車集合時刻は2日とも府八幡宮参集(初日午後2時、2日目午前八時半参集御輿渡御直後出発)で戦前の伝統を継承している。引廻し方法は、初日は「大体ニ於テ自町廻リ」2日目は「山車全部ヲ一組トシ仲町(ママ)東町各五分間停車、七軒町十分間停車、駅前ヲ通リ榮町石原各十分間停車、元キ道(筆者注:元軌道のこと、現在の東海文化専門学校前の道を指す)ヲ通リ西新町坂之上十分間停車、田町五分停車、久保川畔ヲ通リ久保町十分間停車、東町中町通過八幡宮ニ至リ解散」となっている。2日目コースの不可解さに気づいたろうか。そう、西町がコースに入っていないのである。しかも、この年山車がなかった榮町には停車するにもかかわらずだ。確定的なことは言えないが、八朔集会から17日までの話し合いの中に「西町がらみ」の問題があっただろうことは、この9・17決議コースから推測できる。

また、磐田町と警察、さらに各区(自治会)と各町祭青年(世話係)との間に、山車奉納の実施自体について意見の相違があったのは間違いない。というのは、9月19日年番は再び府八幡宮社務所に臨時各町集会を招集し「各町ヨリ区長ノ意見ヲ発表結局五対三ヲ以テ山車奉納ニ決定ス」と振り出しに戻った議論採決をしていることから窺うことができる。つまり、世話係は八朔集会以降、山車引廻し・山車奉納を着々と準備してきたが、敗戦直後の疲弊混乱した社会情勢を鑑み、各町内会役員、磐田町当局あるいは警察当局等より引廻しを中止すべきという「祭典余興遠慮論」が強く出てきたのである。

結局、多数決で実施することに決定するが、9月29日には、自粛委員会(自粛委員は世話係が兼務)を開催し「自粛委員会強化ニ関スル具体的方策ニツキ協議」している。翌30日は浜垢離だが、その夜まで臨時各町集会(会場・千鉄旅館)を開催し「修正ヲ要スベキ箇所ニ就キ協議」している。最終的に10月2日(初日)は町内廻り(格納午後8時)、3日(2日目)は、午後2時宮参集、御輿渡御午後3時見送り後、自由行動(格納午後10時)と決定する。

【夜明かしの祭復活】

ところが、実際にはこのとおり行われなかった。初日午前7時山車順番宮抽籤、山車を有しない新栄社は当然順番はない。「天気晴朗、絶好ノ祭典日和」となったが、山車九台の祭典余興である。格納間近の午後八時前、年番に志組、心誠社、盛友社、玉匣社より緊急の申し入れがあった。田町の十束屋のウインドウ硝子を何者かが破壊する事故が発生、同店前には志組山車が停車していたが、被害者である十束屋主人は強硬な姿勢、強弁なため、山車発車できず、現場は収拾できない事態となったとのこと。
年番は直ちに年番会所に緊急臨時各町集会を招集し、同事件が解決するまで、山車引廻しの時間を「やむなく」延長することを提案、各町賛成する!。事故の解決には、自粛委員会にあたってもらうこととし、委員会を開催、早速(押っ取り刀で?)自粛委員が現場に駆けつける。その頃には解決の兆しがあり、地元盛友社に本日中の解決を依頼し自粛委員会は解散する…。実際の格納が何時になったか記録にないのでわからないが、相当遅くまで山車を出していたのではなかろうか。この事故は「やらせ」の可能性が高い。みんながグルになって、戦後初の山車引廻しを大いに楽しんだのではなかろうか。

 2日目も「怪しい盛友社?」の提案により祭典は一挙に盛り上がる。午後2時に山車は予定通り宮前に参集し、御輿渡御を見送る。この時、盛友社が玉匣社と心誠社の同意を得て、緊急動議を年番に提案、年番は社前で緊急各町臨時集会を召集した。決議事項では2日目山車行動予定は「自由行動」だったが、提案の内容は、「山車引廻しを有意義たらしめるために全町引廻しのコースにすべきだ」というものだった。多数決で同提案は可決され、9台10ケ町廻りが開始される。細部は不明だが、同コースは東廻り、最終久保町経由宮散の戦前の伝統的御輿追従コースだと推定される。

ところが午後10時前、田町地内に停車の際、「沛然タル降雨」となってしまう。コースはまだ道半ば、西新町まで行き折り返し、久保町まで戻り、八幡宮へ帰らなければならない。一時は、即解散・格納の方向となるが、志組、心誠社、玉匣社はすべてのコースを履行すべきと提案、結局全町賛成し予定通り山車行動を終了したのは4日の早朝となった。手打式が終わったのは、午前6時半のことだった。昭和12年シナ事変以降、自粛していた「夜明かしの祭り」
(昭和10年手打式午前6時、11年社前終了式午前7時)の再現がなったのである。

 なお戦後初の浜垢離は、この年9月30日に行われている。

 【格納時間論争】

昭和21年元日、天皇は「新日本建設に関する詔」を発しいわゆる「人間宣言」をなされた。年番は前日大晦日七軒町・騰龍社に引き継がれていた。

8月27日府八幡宮主催による懇談会が町役場議場で開催され、町長、氏子総代、各町中老・世話係各1名が出席した。昭和14年8月に制定された国民精神総動員法により毎月1日が「興亜奉公日」となったため祭典日を10月2日・3日(もしくはそれ以降の日)としてきたが、本年より従来の1日・2日に戻すことを決定した。神社側より、御輿渡御を賑やかにするため、各町中老2名のお供を出すこと並びに御輿輿役12名を青年側より出すことの懇請があり、各町集会に諮ることとなった。

9月1日、社務所にて各町集会が開催された。これより前、鑾留閣は年番に対し、協議事項を提出。その内容は「山車引廻し最終時刻」の提案で、具体的には初日午後八時、2日目午後10時とし、理由として「若者は昼間勤労者が多い。また町民も同様に昼間は家事に従事したり勤労しているので、一日の勤労を終えた後の夜間山車を引き廻す事は有意義なり」を挙げている。このような提案があったことは、山車引廻しを昼間のみ夕方までとする流れがあったことを裏付ける。

おそらく、8月27日の懇談会で町当局などがそのような提案をしたのではなかろうか。前年の決議事項では、鑾留閣が提案したとおりの時刻で決定しているのだから。また、各町側も夜間山車引廻しに掛かる経費の問題があったようだ。年番記録は次のように書いている。「其ノ他決議事項ハ二日目ノ山車格納時刻及ビ引廻シ方法ヲノゾク外決議セリ。本年ハ各町予算ノ膨張ニ依リ二日目ノ山車格納時間ハ一致ヲ見ズ。決議ハ困難ナリト認メ次回ノ臨時集会ヲ約シ十一時散会ス」


前年度戦後最初の祭りで、図らずも?再現できた戦前の「夜明かしの祭り」は、中泉各層に様々な論争を引き起こしたに違いない。しかも、物資や食糧が徹底的に不足している時に、いかに年に一度の祭典とはいえ「やりすぎではないか」という世論が生まれても不思議ではない。おそらく、それが常識として山車引廻しは昼のみとする考えが世論の大勢を占めたのだろう。危機感を抱いた鑾留閣が、各町集会に協議事項として提出したのではあるまいか。初日格納時刻は鑾留閣の提案通りにはならず、記録がないので判然としないが、おそらく世論の様子を窺いながら午後6時ないし7時としたことだろう。

【大きな転換点】
 
9月7日引き続いて開催された各町集会において、8対1の賛成多数で2日目山車格納時刻は鑾留閣の提案通り午後10時とし、また、山車引廻し方法も決定された。

ここで重要なことは、事の内容もさることながら最初の各町集会・八朔集会において決議事項の眼目である山車引廻し方法及び格納時間がその夜のうちに決定をみなかった事実である。戦前においては、数年の例外を除いて、八朔集会のみですべての決議事項が決定されている。例外は、昭和4年・5年、西町提案の「山車新行路案」による論争のあった年である。戦前は基本的な山車コースがあった為、9月1日の一夜のみで、各町決議事項はすべて決定することが通例だった。

昭和21年のコースも詳細は判然としないが、2日とも宮に参集し、初日は所定の町内で解散、
(西組は石原町散、東組は西町散)2日目は宮で解散という基本コースであったと思われる。にもかかわらず、山車格納時間という案件により山車引廻し方法を次回の集会に廻すことができるという前例がこの年確立してしまったのである。これが戦後の府八幡宮祭典余興を準備する方法の大きな転換点のひとつとなる。そして『昭和期戦前の府八幡宮祭典余興』の中で筆者が指摘した「山車コースを議論する土壌ができた」ことに直結する。

なお、昭和21年の祭典余興は「騰龍社樽御輿と東組衝突事件」が初日夜に勃発、東組世話係が行方不明となり…紆余曲折、新世話係を選出することによりようやく円満解決するなど番外エピソードに事欠かないものとなった。結局同事件の影響もあり手打式は3日午前3時10分となったと記録されている。また、新栄社は二代目山車を建造、引廻しに参加している。組み立て式の花屋台的山車だった。実はこの山車も10数年後火災に遭う…。

11月1日には、鑾留閣より憲法公布記念日に山車を出す提案があり、年番は各町集会を開催し諮ったところ、六対四で「出さない」ことになった。ところが、当日3日になると鳴鶴軒、志組、盛友社、玉匣社、鑾留閣、東組、騰龍社が山車を出すこととなり、午後5時に中町に集合、出発前には石湲社も参加を申し出、結局心誠社、新栄社を除く8ケ町が合同引廻しを実施、夜中12時半頃石原で解散した。

新憲法発布に伴う余興が、宮発・宮散ではなく実施された意味はどうとらえるべきだろうか。この府八幡宮祭典とは直接関係のない余興が、自由なコースによってなされたことも、翌年以降の引廻し方法に影響を与えたのではないかと思われる。というのは、翌年からの引廻しコースは、戦前の基本コースではなく、まったく自由な発想によるコースに変わっていくからである。


【決議から申合せへ】

昭和22年、年番は鳴鶴軒。3月31日に教育基本法・学校教育法が公布され4月1日から新たな教育制度となり、いわゆる6・3・3学制がスタートした。また同日「町内会・部落会・隣組」が廃止された。中泉でも町内会がなくなることは、祭典余興の母体、特に資金の供給先が失われることを意味し大きな問題だった。そこで、盛友社と志組は7月16日、年番に「町内會開散に伴ふ祭典余興費に関する件」(原文のママ)を提出し、「祭典余興費捻出方法に関し一応御懇談仕り度」いので各町世話係を召集するよう提案した。年番はこれを受け21日会合を持ち、各町各世帯の「自発的寄付ヲ待チ後ハ各青年ニテアガナフ事」を確認した。

9月1日、各町集会は中町集会所で開催された。ここで、従来の「各町集会決議事項」は「各町集会申合事項」に改められた。その理由は「民主々義事勢ニ処スル為」(原文のママ)「協議事項モ慎重ヲ期シ」とされている。つまり、戦争が終わり新憲法も施行され、世は「民主主義」の時代となったのだから「決議」ではなく「申し合わせ」とする、というわけである。具体的にいえば、採決はしないで、全会一致で行く、多数決の論理ではなく、各町すべて納得しなければ前へは進まないということだ。これは、どのような心理から生まれた変化だろうか。

本来、近代欧米に生まれ育まれた民主主義とは多数決の論理なのだ。それが、言ってみれば、聖徳太子の十七条の憲法「和をもって尊しとなす」という精神、「話し合い至上主義」の論理へと回帰している。今から考えればまったく不可思議なことだが、当時の中泉の祭り青年たちは、「全会一致」「話し合い至上主義」こそ「民主主義」だと考えたのである。これは、国連安全保障理事会が「拒否権を持つ常任理事国」のみで構成されている状態と同じだ。1ケ町でも反対があれば何事も成立しない。


そして、これ以降長い府八幡宮祭典余興各町集会の歴史において現在に至るまで一度も「多数決の決定」はなされていないのである。

【東西対立の時代へ】

「年番記録」の記述の仕方にも町内の特徴がある。詳しく書く町もあれば、簡略に書く町もある。もちろんその年番ごとの書記を初めとする世話係役員の個人差はある。しかし、常に字数が少なく簡略化する町内は、中町・鳴鶴軒である。おそらく「余分なことは書かず、結果のみ事実のみ書け」とでもいうような申し伝えがあるのではなかろうか。この昭和22年の記録も実にすっきりとしている。
例えば、別紙綴りには警察当局の注意として「山車行動及ビ停車中進駐軍トノ出合ノ場合ハ交通妨害ニナラザル様…」という通知があるが、記録ではこのことには触れていない。

八朔集会の最後に、一旦は盛友社案で引廻し方法について決定を見るが、西3ケ町の申し入れにより二度ほど集会を持ち、9月21日午前五時に決定したコースは、祭典余興史上初、八幡宮集合・解散ではないものとなった。残された別紙によれば次の通り。

「初日、東西組とも二時に西新町集合、二時半出発、東組は、軌道を通り石原、榮町、駅前、東町、中町通過八幡宮に至り停車、参拝。中町、東町、七軒町各停車、西町停車、学校小路(現在の駅前交番前、見付岡田線)を経て榮町、解散。西組は、西新町発後坂ノ上ダルマ小路を通り久保町中部配電裏通を経て八幡宮停車、中町、東町、七軒町、西町を通過して田町停車、石原小路を入って石原停車、折り返し石原小路を経て坂ノ上停車、西新町停車折り返し、坂ノ上ダルマ小路を経て久保町停車、田町解散。

二日目、東西組とも一時七軒町集合、一時半出発、東組は、まず八幡宮参拝、中部配電裏を通り久保町停車、久保川畔を経て田町、坂ノ上、西新町停車、軌道を通り石原停車、榮町停車、駅前を通り七軒町停車、西町、東町、中町停車、八幡宮に至り解散。西組は、七軒町発後、駅前停車、榮町停車、次郎三小路を経て西町、東町、中町停車、八幡宮停車、中部配電裏を経て、久保町停車、田町停車、石原小路を経て石原停車折り返し石原小路を経て、坂ノ上停車、西新町停車折り返し坂ノ上解散。」

途中、両組とも八幡宮に参拝・停車しているのでお宮をないがしろにしてはいないが、2日目の御輿渡御八幡宮出発を見送りもしない、完全に戦前基本コースとは違うものになっている。まさに自由と民主主義の従来の枠にとらわれない「戦後の祭り」の出発点がここにある。手打ち式は3日午前3時と記録され、場所の明示はない。この引廻し方法の基本は、東西二組に分かれた引廻しである。それぞれの町内に一票があった時代は去り、東西二陣営の駆け引きの祭りになりつつある。これはこの後昭和23年以降より顕著なものとなっていく。
東西対立の時代の幕開けである。

それは、第二次世界大戦後、まるで国際情勢が米ソを中心とする冷戦構造になっていくことと歩調を合わせているかのように思える。
戦争は終わり新しい時代がやってきた。中泉の青年たちは、戦の痕跡の残る中で、伝統的であるべき祭典をどう継承しどう変革していくべきか模索していた。   
 
 
 
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