高橋 一良 
(磐南文化協会会員)




中津川宗全氏が『磐南文化第24号』掲載の「府八幡宮例大祭の山車引き回しの事」で指摘されているとおり、中泉府八幡宮の祭典余興<山車引き回し>に関する公式記録は大正4年以降であり、それ以前の記録は極めて少ない。当然当時を知る人々の多くはすでにおられないため、記憶としても残っていない。中津川氏は、同稿の中で四点ほど明治期の貴重な祭礼庶民史の証拠を挙げられたが、その後判明した事柄を若干の考察を含めて報告をする。

【江戸から明治へ】
 
中津川氏も報告しているが、明治2年の『西光寺日記』(正式には『日鑑』)に八幡宮祭礼の様子が一行だけ記述されている。これは、見付加茂川の時宗寺院東福山西光寺住職の日記である。新暦採用は明治5年12月であるから、当然旧暦である。

8月15日に「境松八幡宮賑々敷屋体出手踊アリ夜に入見物ニ行」とある。住職は只来の坂を登り、八幡宮の境内まで中泉の夜祭を見物に行ったのである。<屋体>とあるのは、当然<屋台>のことで、これが何かはこの文章からは読みとれない。手踊とあるのは、踊り手が女子なのかも判然としないが、賑やかなのは間違いない。屋台の引き回しがあり、手踊りがあったのは、これによって明らかである。少なくとも江戸時代の末期には、山車祭があったことは、近隣の横須賀や森町などの祭礼史から類推しても間違いないところであろう。祭礼の日付は、旧暦の8月15日。見付の裸祭が旧暦の8月10日だから、5日しか違わないことになる。

【久保若の分離】
 
久保町に伝わる文書や古老の話によれば、明治6年にそれまでの「久保若」が「奥久保」、(現・久保町及び国府台の大部分の地域)「田町」、「石原」(現・石原町)に分かれ、奥久保の若連は「玉匣社」となったという。この命名者は府八幡宮の神官大場重光だと伝えられている。また、それまでは、「久保若」「西若」「東若」の三若連であったとも書かれている。

この文書は当時のものではなく、戦後の『玉匣社大老会記録ノート』に「玉匣社の由来」と題して書かれているもので、資料としては一級品とは言えない。ただし、『中泉町誌』(112ページ)の消防組の項に「明治六・七年頃、西新町ニ志組、東町ニ東組 火消組トシテ設置」とあるように、祭組織名ではないが、「志組」や「東組」が誕生した史実もある。さらに、明治9年9月には、坂ノ上(現・坂上町)は「心誠社」を結成、「世話係六人、補佐三人」という記録が同町浅野家に文書で残されている。この時、坂ノ上は「西若」より分離独立したものと推定されている。

また、江戸時代の中泉の成り立ちが、八幡宮領久保村(奥久保、田町、石原)と幕府領中泉村(西町、東町、他)と分かれていた時代があったこと、明治初年の中泉村の名主はそれぞれ東町名主、西町名主、また久保村は田町庄屋となっている。(『中泉町誌』64ページ)このように三つの地域共同体があったこと、「志組」や「心誠社」等の創設時期から類推すれば、三若連の存在及び「久保若」の分割は蓋然性高いものと思われる。

また、神官大場重光の先祖代々の墓地または墓地跡が現・久保町白山神社境内に以前(現在の久保町公民館ができる昭和三十五年頃まで)あったことからして、同家同人と久保村の繋がりは深い。寺子屋を開いていた教育者でもあった大場重光は、神道はもとより道教、儒教、仏教などにも造詣深い知識人であった。したがって「玉匣」という道教のことばを「想い」を込めて若連名(祭組織名しいては山車の名前)としたことは十二分に考えられるのである。

『中泉学校校務日誌』

江戸時代の末には山車・屋台による祭典余興が中泉でも行われていた。当然府八幡宮の神事としての例大祭は余興以前に存在した。
その日取りは、旧暦の8月15日だった。では、明治5年12月に新暦が採用されてからは、祭典の日取りはいつだったのだろうか。やはり、旧暦に合わせた日付で執行されていたのだろうか。今までこのことを確認することができなかったが、「中泉学校」の『校務日誌』により明治33年(1900年)以降については、以下のとおり判明した。

この校務日誌等の資料は、現在磐田市立磐田中部小学校に保存されている。その内容は、天気や欠席者、特記事項などが簡単明瞭に書かれているものだ。
例えば明治33年9月6日の記事は「明日七日ヨリ来タル九日マデ三日間県社八幡宮祭典ニツキ休業」とある。これによりこの年は、9月7日(金)8日(土)9日(日)が祭典日だったことがわかる。新旧暦対照表(『暦の百科事典』新人物往来社)によれば、9月1日が旧暦の8月8日にあたり、9月8日がぴったり旧暦8月15日となる。したがって、推測のとおり、旧暦の当たり日に行われていたのである。

【三日間の祭典休業】

明治34年九月25日(水)の項には、天候も記載され「時に雨」以下「明二六日ヨリ八日マデ三日間県社府八幡宮例祭ニツキ休業ヲナス」とあり、三日間とも「曇」だったことも記載されている。27日が旧暦の8月15日である。またこれより前9月23日(月)曇の項には「昨夜ヨリ見付町矢奈比賣神社祭典、故ニヤ本日ハ遅刻セル生徒及ヒ欠席セル生徒多カリキ」とあり旧暦8月10日の見付天神裸祭に多くの子供たちが見物に行ったことがわかる。

以下明治35年、9月15日(日)晴、16日(月)晴、17日(火)晴、記事はなし。明治36年、10月4日(日)5日(月)6日(火)が祭典休業で、記事には5日(晴)鈴木校長が磐田郡振武会に招待され八幡宮境内に行ったこと、6日(晴)皇太子殿下を乗せて関西方面に下る列車が中泉駅を通過するため、職員が送迎したとある。学校休業のため生徒たちは列席できず、また通過予定時刻が急遽繰り上がったため校長らが見送りできなかったむね記されている。

以下明治42年まで、旧暦の当たり日が祭典日として記録され、三日間(旧暦8月14日が休業日初日)の休業となっている。当時は三日間の休みをとって鎮守の杜の祭礼を祝っていたことがわかる。なお、二之宮鹿苑神社祭礼は別の日取りで行われていた記録も残されているが、学校は一日のみ休業としている。

【女子手踊りはあった】
 
明治42年は、9月28日から三日間行われたが、その前日の記事が興味深い。

「雨。田町女児明日ヨリ祭典準備ノ由ニテ第一時限リ早引申出シニ付其區青年世話係ヲ招キ斯ルコトナキ様致シ度相談セシ処右ハ町ノ希望ニアラズ手踊師匠ノ失言ニ付本日ノ授業ヲ完カラシメ度申出アリタル」

この内容だけでは花屋台があったのかはさだかではない。しかし、師匠が指導をして女子の手踊りが行われていたのは間違いない。手踊りがあるからには、お囃子などもなければならず具体的にどのようなものだったか不明だが、師匠といい女児といい相当入れ込んでいる様子がうかがえる。明治2年の『西光寺日記』に記録された「手踊り」が引き継がれているととらえることができよう。また学校に呼び出された世話係が事情を懸命に説明している様子も目に浮かぶ。

さらに祭典翌日の記事にこうある。

「前日来ノ祭典ノ為メ児童大ニ疲労シ授業ニ耐ヘズト認メシニ付二時間授業ス。午後協議会ヲ開キ運動会施行ニ付協議ス」

子供たちは相当頑張って祭に参加したようだ。きっと夜更かしもしたに違いない。子供たちの疲れた状況をみて、即刻短縮授業に変更する非常に弾力的な学校の対応に驚く。

【明治四十三年から祭典日固定】

旧暦の当たり日は、明治42年までとしたが、それが何故断定できるかといえば、明治43年の『校務日誌』が、9月14日(水)15日(木)の両日祭典休業で記録され、この日は旧暦8月15日(新暦では9月18日)に当たらないからである。残念ながら44年は記録なく、翌45年は9月13、14、15日に後出の引用記事があり、改元して大正2年も9月13、14、15日となっている。大正3年も記録がないが、以降四年からは『当番記録』にあるとおり9月14、15日が祭典日となっている。     

よって、『中泉町誌』127ページには「例祭日九月十四日十五日、神饌幣帛料供進、明治四十年一月十三日、指定年月日、告示、第十二号」とあるが、指定日はそうであっても実際の変更は明治43年の祭典からだったのである。

ところで、明治45年の記事内容は、明治天皇崩御による諒闇の様子である。同年7月30日明治天皇が崩御された。

9月13日の記事は、「九月十四、十五日ハ授業休止。当日後庭(筆者注:原文のまま)ニ祭壇ヲ設ケ神官大場禎一外二名ヲ招シ祭事ヲ奉伺シ誄詞ヲ奏上シ一同遙拝式ヲ挙行ス。同夜十二時府八幡宮遙拝所ニ於テ本日遙拝式ヲ挙行ス。校長他主任職員参拝ス」とある。
 ここから類推できるように、歌舞音曲は遠慮、当然山車引廻しも中止である。

しかし、翌大正2年(1912)には、9月14、15日に祭典が盛大に執行された様子が次の記事からうかがえる。
「九月十六日、晴。本日ハ八幡宮祭典ノ翌日故欠席児童モ多数ニ及ヒ且ツ出席児童ニモ睡眠不足ノモノアルニヨリ午前十時マデニテ退散」。

「神道指令」

したがって、「新栄社」として山車引廻しを始めたのは大正2年又は3年だったと推定される。十番目の若連として正式な認知は、おそらく大正4年だったのではなかろうか。東町当番のこの年『八幡宮祭典余興申合規約』が新たに制定され、第七条当番順序の項に十番「新道」とあるからである。なお、中泉町より新字として「榮町」が正式に認められたのは大正4年の祭典の後、10月30日であった。(磐田郡中泉町梅原村組合・議第六十号)よって『当番記録』には、大正4年は新道、5年より榮町と記載されている。田町より譲渡された二輪山車は、残念ながら昭和20年の戦災により焼失した。  

【明治時代の山車】
 
田町の現山車が大正2年に建造されたとすでに書いた。中泉地区初の四輪山車である。この後、大正9年に西町、10年に西新町がそれぞれ現在の四輪山車を完成させ、中泉の山車は二輪、四輪混合の時代を迎える。その後、久保町が平成10年新山車を完成させるまで、当地域で新造された山車は、石原町(昭和九年)、坂上町(昭和12年)、御殿(昭和55年)、栄町(昭和59年)などなど、すべて四輪山車となる。現在活躍中の二輪山車は、東町、七軒町、中町の三台のみとなった。このうち、七軒町と中町は大正時代の建造、東町だけが明治28年建造と伝えられている。

確かな証拠がある明治時代の中泉二輪山車は、坂上町の旧山車である。現在も小笠郡菊川町四丁目の山車として活躍している。
 その山車には明確に「明治三拾五稔花車新調 大工中泉町山本菊次郎 彫刻師見付町高柳與三郎 塗師掛川町松本與作 心誠社世話係伊藤貞吉 大石藤四郎 平野善四郎 鈴木萬吉 鈴木長五郎」と後方欄間に刻まれている。昭和十三年に坂上町は現在の山車を建造したが、その後菊川町に譲渡された。

 ところが、この山車の車輪軸(鉄製)には、明治20年と書かれている。これは何を意味するのだろうか。土台部分は20年頃より使用し、その後彫刻や漆塗りなどすべてを完成したのが、明治35年ということなのであろうか。いずれにしても、明治中頃に現在の形、いやもっと背の高い三階建て二輪山車が複数、祭典余興に参加していたことは間違いない。それは次の新聞記事からも明かである。

明治30年(1897)9月14日付『静岡民友新聞』には「中泉八幡宮祭去十日ニ執行セシガ山車六台ヲ引出シ却々賑カナリシ」。

また同月15日付『静岡新報』には「中泉八幡宮祭礼十日夜山車五台」とある。        

なお、西町先代二輪山車、西新町同、などの古い写真が、ある方々の努力により発見された。これらに加え石原町同(現在磐田市大藤二区所有)や旧心誠社などすべての中泉二輪山車の写真が掲載されている

『西町決算調書』
 
西町の関係者から明治時代の祭に関する文書を見せていただくことができた。それは、表紙に『明治三拾五年以降決算調書鑾留閣』(以下『西町決算調書』)とある綴り他その付属伝票などである。『西町決算調書』は明治35年から43年までの分でその年の鑾留閣世話係が西町区長へ会計報告をしているものだ。

 <例えば明治35年の内容。>
一、金壱円弐拾銭 笛吹 二人謝儀
一、金壱円五拾銭 同上 宿泊料
一、金四円三拾七銭 提灯修繕費
一、金八拾五銭 真棒代
一、金七拾銭 同作料
 一、金六拾五銭 印半天壱枚染代
 一、金六円 人形損料 
 一、金弐円 衣掌損料 
 一、金九円五拾銭 人足拾人 
 一、金八拾銭 会所お礼 
 一、金八拾銭 大橋妻吉作料 
 一、金弐円八拾銭 御酒代 
 一、金五十銭 八朔集会費 
 一、金壱円弐拾銭 八幡宮掃除費 
 一、金八円四拾銭 中老膳部 
 一、金七銭五厘 臨時費 
 一、金弐円拾五銭 協議費 
   
この支出合計七拾弐円余に対し、収入「祭典費割収入金」八拾円余があり差引金約拾円也を若連世話係に預け置くことを、時の長沼区長が承認押印をしている。日付は明治35年9月で、佐藤幸吉以下八名の世話係の署名がある。

このように明治43年分まであるわけだが、これを子細に見ていくといくつかの疑問点や興味深い事実に気がつく。ここでは二点のみ疑問点を挙げてみよう。

第一に、明治37、38年分には、山車運行に関わる支出がなされていないことである。35年など他の年にはある「笛吹謝儀」「同宿泊料」「真棒代」「人形損料」「人足代」「会所お礼」などが、すっぽり抜けている。また、収入は37年には激減しており、38年には町民からの割金が収入されていない。どうみても、西町はこの2ヶ年山車を出さなかったとしか思えないのである。

この頃日本は日露戦争の最中であった。『磐田市史』(通史編下巻232ページ)は当時の世相をこう記している。

(明治37年:筆者注)二月頃より日露開戦切迫に伴い物価以外(原文のまま:同)に高騰し、二月上旬の召集より大不景気となり商売によってはまったく商いにならなかったものもあった。人気深々沈み、また政府よりは神社仏閣の普請法要等悉く見合わせるように通達があり、民家においても遠慮したり、不景気により普請・修繕・買い物等一切見合わせる動きがあった。さらにそれに追い打ちをかけたのは、軍事費の不足を補うための増税であった。…」

日露戦争は勝利に終わったが、国民に大変な犠牲をしいた。同じく『磐田市史』によれば、この戦争で中泉町より161人が出征し5人が戦病死している。『西町決算調書』にも応召の記事が見られ餞別が支出されている。

【山中共古の「証言」】
 
このような世相であったから、中泉八幡宮祭典余興そのものが「遠慮」された可能性も高い。しかし、先の『中泉学校校務日誌』を見ると、この両年、学校は例年通り三日間の休業を確かに与えている。特記事項はない。神事だけの祭典に学校が生徒たちに三日間の休業を与えるとは思えない。何か原因があり、西町山車だけが参加を見合わせた…と考えざるを得ないが判然としない。

ところで中津川氏も触れているのが、日本民俗学の草分けといわれる山中共古が著した『見付次第』の次の一文である。
「中泉八幡祭礼に曳出せるだしのはやし、調子左の様に聞へるなり。スチャコラドンドン スチャコラドンドン、此外の囃子をきかず、何れのだし車もかく囃す。」

明治38年(1905)6月、キリスト教メソジスト派の牧師として見付に赴任した山中共古は、中泉八幡宮祭礼で複数の山車のお囃子を聞きどれも同じだったと貴重な証言を残した。もし、山中共古が明治38年の祭礼を見たとすれば、山車引廻しは行われ西町山車だけが出なかったと断定できる。

 そこで、『見付次第』を再読し、山中共古の足跡を調査してみるが、残念ながら山中はそのはしがきに「…余の記せしは明治丗八年の六月より同四十年の五月迄の二ケ年なり。」としているのみで、38年の祭か39年の祭かは明確ではない。もしも38年と確定できれば、祭典余興・山車引廻しは行われた、小学校も休みになった、しかし西町山車は出なかった、ということになるのだが…。

『西町決算調書』に戻ると、明治38年3月16日にこうある。

「一、金五拾三銭 各町と和解 会費」
 
西町は、他の町内と何らかのトラブルがあったことがこれによってわかる。西町の世話係は、署名入りの決算を提出しているので組織そのものが解散状態に陥っていたわけではない。37年も38年も支出に「八朔集会費」や「協議費」が支出され祭典余興連合組織の青年責任者の会である「中泉各字青年世話係協議會」(筆者注;後出)から脱退しているわけでもない。ただ36年から37年にかけて何か対外的な事件があったことは間違いない。

【「当番」順を遡る】
 
第一の疑問にも通ずるものがあるが、第二の疑問は、明治39年の『西町決算調書』の次の一行である。
「一、金壱円七拾六銭 八朔集会費 ※当番に付茶代を出す」
 これによれば、明治39年に西町は「当番」(現在の年番)を受けている。当番がはっきりしているのは、大正4年以降記録が残っているもののみである。それ以前は、そこから遡っていくしかない。大正4年は「東町」、すると前年は「西町」前々年、大正2年が「奥久保」となる。「新道」こと「栄町」はこの時点では組織未加盟だから、大正元年は「田町」となる。田町は旧二輪山車最後の年が当番だったのである。明治44年が「石原」、43年「坂ノ上」、42年「西新町」、41年が現在の「中町」となる。

この頃、中町は「北新町」という町名だった。(後に「東新町」更に「中町」と変遷する)その記録が、明治41年8月1日開催の『中泉各字青年世話係協議會』議事録である。この時は電話線問題が議題であった。
神谷組合長(町長)より、「産業軍事上重要な電話線を切断するようなことがあってはならないので、本年は従来のような山車引廻しはやめよう」という内容の提案があり、これを協議したのである。これは大変なことだ。相当な激論の後、世話係はこれを(おそらく渋々)受け入れ、「連合引廻しなし・町内山車据え置き」と決定した。

中泉町梅原村組合役場の専用用紙に墨書きされた議事録の冒頭に世話係出席者名がある。おそらくは役場吏員である書記役が、9ヶ町の最初に記録したのは「北新町」の二名「青島正太郎・平口栄八」である。後の順序は必ずしも若番順ではないが、このような時、世話係の代表として当番の町内を一番先に記録するはずである。とすれば、先の推測どおり、ここまでは各年の当番は間違っていないこととなる。41年は「北新町」、すると40年は「七軒町」、39年は「東町」となる?ここで「39年の当番は西町」と記録する『西町決算調書』との食い違いが出てきた。しかし、当方が勝手に「東町」と推測したに過ぎないから、一級資料である『西町決算調書』のとおり、明治39年の当番は「西町」だったのである。

おそらく順番からすれば明治38年に受けるべき当番を、何らかの原因で前年から山車を出すことができずにいた西町に変わって、東町が当番を受けたのではなかろうか。3月に「各町と和解」はなったが、その年38年も西町は山車を出さなかった。(出せなかった?)当番は東町が順番を飛ばして奥久保から引き継いだ。西町は山車が出せるようになった翌39年に当番を受けたというふうに考えられる。でなければ、後年の「当番順」に狂いが生じてしまい、辻褄が合わなくなるからである。
 
以上、明治期の府八幡宮祭典余興について現在分かり得る範囲の事項を考察や推理も含めて並べた。収集の努力が足りないことを棚に上げてはいけないが、なにしろ資料が少ない。何処かに大事な資料が眠っている気がする。山車引廻しはいつの時代も多くの青年たちの心を魅了した。祭典余興の実態を調査することによって判明する中泉庶民史を後世に残しておきたいと願う。
                    
●大正3年以前の資料をお知りの方はぜひお教え頂きたい。
以上、当「遠州中泉祭研究会」の高橋一良が『磐南文化第30号』に寄稿した記事を転載しました。

 
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