なか   いずみ  き    どう



中泉停車場前風景/左端 :旅館・友愛館、中央右側:友愛館支店千鐵旅館

 写真は、大正時代の中泉停車場(現・磐田駅北側)前風景である。
 ここに写っている乗物、なんだか分かりますか?

 写真を拡大して見ると、この乗物の後ろに人がいるが分かる。これを人が押しているのである。このような乗物を『トロッコ』と呼んでいる。
 先日、年配の方から、「私が子供の頃は『人車』と呼んでいたよ。」とお聞きした。

 最初は、「ここは何処だろう?」から始まって、「これは何だろう?」「何処まで行ったのか?」・・・等々、沸々と興味が沸いてきた!

 そこでいろんな人に聞き込み調査・・・、しかし、知っている人はなかなかいない。なるべく年配の方にお聞きしてみると、少しずつ分かってきた。
 「たぶん、これはトロッコだよ!」「何処まで行ってたのかな?」「それは分からん!」 ・・・てな具合です。

 ある日、友人にこの話をすると、「昔、俺の親父(93才)から、『うちの近くにトロッコが走っていた。』と聞いたことがある。」 これは耳寄りな話!!!
 「もっと詳しく、聞いてくれん!」しばらくして、その報告をもらって、そのコースが判明した。「やった!!」

 地図上の赤い点線が軌道です。

 これが作られた目的は、浜松市佐久間町(旧磐田郡佐久間町)の久根鉱山(現在は閉山)から掘り出された銅の鉱石“黄銅鉱”(金色の綺麗な石)や材木を船で磐田市池田(旧磐田郡池田町)の船着場へ運んで、それをトロッコに乗せて、中泉停車場(現磐田駅)から貨物列車に積み替えて、東京・大阪方面へと運んでいったということです。

 この“中泉軌道”を使って、“人車”(6人乗り)が人も運ぶようになったということです。

 *明治42年から昭和5年まで創業。

 *この写真には、その他に「人力車」「自転車」「大八車」が写っている。




磐田駅 → @栄町・新通り南側を線路に沿って西へ → A小田薬局前を通過して北上 → B亀文西側から北側へ左折、敷地内を通過して西へ → C澤西商店の一部敷地内を通過して → 旧東海道(現・県道)の南側松並木・側路(現・歩道)を通って → 豊田郷社前通過 → しばらく行って右折し → 池田の渡し場(船着場)/終点。





 小田薬局のあたりから旧亀文商店辺りまでの道は、お祭には欠かせない山車の団体コースに入っている。しかし、昭和5年に軌道が廃業になってから終戦頃までは、お祭の団体コースとしては使われていない。どの様になっていたのか?

 そこで記録を調べて分かったことは、軌道廃業後の翌年、昭和6年には祭関係者の要望があって軌道線路を取り外したことが分かった。しかし、戦前のお祭のコースとして使われた事実は記録に出てこない。

 それもその筈、戦前の団体コースは、御輿の順路に伴った伝統に基づいたコースであったため、この道が使われることはなかったのだ。その後、昭和22年の年番記録に10ヶ町のコースにおいて初めてこの道が使われた、と記されている。

 戦後の祭は次第にコースが乱れ、各町の思惑で決められたコースになっていったため、今度はこの道がちょうほうされた。ココを通ることによってコースに多様性が出てきたのだ。この道の開通に伴い戦後の祭は大きく変わっていった。


(今も旧亀文商店の北側に【中泉軌道跡】の石碑がある。)

以上、いま分かっている事から推測した軌道コースを描いてみました。尚、間違いがありましたら、是非、教えてください。