埼玉県加須市本町『龍神の山車』


開府400年祭・特別展示(丸ビル内)

     開府400年祭特別展示
 天下祭特別イベントの一環として、丸ビル内に展示された「加須市本町(かぞしほんまち)」の大変古い山車『龍神の山車』です。

 文久二年、江戸日本橋、田所町・通油町・新大阪町の三町合同で造られたものであるが電信・電話線等により巡行不能となり、苦慮していた際、加須市本町在住の青縞中継商・故清水善兵衛氏(現当主・清水延浩氏曾祖父)が商用の定宿であった神田淡路屋に滞在中、これを耳にし譲渡方につきお願いしたところ、日頃有徳の清水善兵衛氏であるならと、明治16年に金伍百円で譲り受けたものと伝えられている。
 受け渡しについては、町内世話人・野本助次郎、町内の加藤猪之助、及び萬田太夫の三名にて上京し、江戸川より船で関宿運河を経て利根川を上り、加須市大越にて陸揚し馬車で陸送されたと言われている。
 現在本町に保存されているこの龍神山車は「屋根付鉾台型」と呼ばれ、江戸の山王祭の山車一覧番付表に「二十一番龍神山車・二重鉾台型囃子台欄間」として記載されており、江戸で造られ現存する同型最古の山車であり、最も豪華であると言われている。山車を装飾している錺金具は、鋳物師・太田貞治郎勝房作、その彫物は彫物師・玉木大助義延の銘がある。

「蘭陵王」の面について

 幕末の名匠・高村東雲の作である。師がモデルを求め三年間全国行脚した結果、現在国宝指定となっている鎌倉鶴ヶ岡八幡宮所有の蘭陵王の古図面を基に彫られたものと言われている。
 尚、山車とそれに飾る織田信長、龍神舞人形及び蘭陵王面を共に飾ると、どのような旱魃の折にも必ず雨を呼ぶと伝えられている。


 説明プレートには、昭和58年に全面改修して現在に至ると書かれていました。
 「天下祭」の面影を醸し出す風情があります。
 この山車は三輪式(前二輪、後一輪)で本来は牛に曳かせた、ということで「テギ」が細くてかなり低い位置に着いています。楫を切るときはテギを下に押して、後輪を浮かせて回転させるそうです。



山車人形の展示










 徳川家康(三河出身)が、天正18年(1590)、時の関白・豊臣秀吉の命により江戸に国替えとなり、後に「冬の陣」「夏の陣」を経て家康が政権を取り、江戸幕府が開かれます。家康は赴任後、積極的に近隣の神社に寄進を行い、祭祀を支援しました。

 特に、日枝神社の山王祭神田明神の神田祭が将軍によって保護され「天下祭」となりました。
 この天下祭という名称は、「神輿行列が江戸城を訪れ、天下の将軍が「上覧」する。」習わしから、そう呼ばれるようになったと言われています。普通なら町人が「将軍様」にお会いできることなど叶わぬこと、さぞかし名誉なことであり、喜びに満ちていたことでしょう。天下祭では、神輿行列の後に続いて、屋台、山車、練り物、曳き物とお囃子で町中を練り歩き、舞や歌物を演じて町中を賑やかしました。

 しかし、現在ではこれら天下祭の屋台等、数台の山車を除いて曳き物は殆ど存在していません。町の近代化に伴う電線の敷設、区画整理事業(道路拡幅等)、天災(関東大震災)、戦争等による町の変転により、明治22年を境に祭の衰退が進み・・・、現在、東京の祭は神輿が主役となっていますが、神御は神幸祭の折に使用されるべきもので、町を練り歩く物では・・・、残念ですね!
(神輿は神様がお乗りになって氏子町内を清めて廻る神聖なもの)
 ところが現在でも近隣の町(横須賀、青梅、川越、飯能や栃木等々)には、当時の天下祭を彷彿させる山車等が残っています。
 今回の400年祭では、里帰りのような形で天下祭の再現と銘打って行なわれました。本来の「天下祭」ではありませんが、ものすごく沢山の人々が楽しんでおられたので本当に良かったと思いました。
 東京の町に「天下祭」が再興することを切に願っています。

山車 @山王祭・九段三丁目「牛若丸」 A山王祭・三番町「東郷元帥」 B山王祭・九段四丁目「弁慶と牛若丸」 C神田祭・神田松枝町「羽衣」 D青梅市森下町「武内宿禰」 E遠州横須賀・川原町「川中島」 F遠州横須賀・東田町「五条大橋」 G熊谷市本三四「戸隠」 H鴨川市・「恵比寿」 I川越市志多町「弁慶


神輿>千代田区内の神輿9基

行列山口県萩市の大名行列民謡の流し踊り

       これらが、江戸に「里帰りしました。


開府400年祭に参加した山車
の写真の一部をご紹介します。



熊谷の山車


川越の粋なお姉さん


横須賀の山車


青梅の山車


神田の神輿


九段三丁目の山車





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