折敷に三つ巴
(橘姓/藤原を称す)
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秋鹿家の由来
秋鹿氏の祖は橘諸兄である。その後、二十代の後裔・出雲守朝芳が出雲国秋鹿郡に地頭として住し、その地名をもって秋鹿を称した。
*秋鹿「あいか」と読む。
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橘諸兄(たちばなのもろえ)=奈良時代の政治家。
聖武天皇に仕え、国政は事実上橘諸兄が担当し、天皇を補佐する事になる。
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秋鹿家略系図
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橘朝芳の四代の孫・朝慶は、鎌倉4代将軍・藤原頼経(ふじわらの よりつね)に仕え、その一族に列して姓を藤原に改めた。
室町時代初期に六代/左京亮朝治が南北朝の争乱に遭遇し、 朝治は足利尊氏に仕え、その時の戦功で出雲国秋鹿郡(松江市)から遠江国羽鳥庄の貴平郷・中泉郷・南郷の地頭に任じられ赴きました。
以来30代にわたり、ある時は武将、旗本、徳川家康に仕え遠州代官(72,000石)として、また府八幡宮の神官として活躍しました。
第十四代・右馬助(朝延)が永正元年(1504)に秋鹿家の菩提寺である泉蔵寺(石原町)を地元に寄進しました。
室町時代になると、遠江守護の今川氏に仕え、地頭職とともに、府八幡宮の神主を勤めた。
元亀5年(1571)、徳川家康は、浜松城に入城。
磐田市二之宮にある大池にしばしば鷹狩りに来ては、その近くに屋敷を構える秋鹿邸を宿舎と定めて遊猟していた。
天正六年(1578)、秋鹿直朝は、秋鹿邸を家康に献上し、代わりに久保の地(此所)に移り住みました。御殿の地には天正6年に仮別荘が建てられ、さらに12年からは城砦を築き要害を備えた新御殿の建設に着手、15年(1587)に堅固な新御殿の落成となった。
*中泉御殿は、磐田原台地の南端に位置し、標高は2m〜6mである。敷地は約一万坪といわれる広大な敷地で、水源に恵まれた土地である。その南側約1kmには、大池(10ha)が広がっており、今でもその一部が磐田大池として、市民憩いの場所として親しまれている。
戦国時代、朝兼は今川氏親に仕え、その子の朝延は今川義元に仕えた。朝延が弘治3年(1557)に没すると、直朝が家督を継ぎ、天正11年(1583)、家康の娘が北条氏直に嫁いだとき、付属せられて小田原に至った。
後を継いだ朝矩は徳川家康に仕えて、天正12年(1584)の長久手の役に出陣して討死した。
慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦ののち、遠江国の旧領を賜り、秋鹿弥太郎直朝が幕府代官「遠州代官」(7万2千石)に登用され、朝正、朝重、道重と四代にわたって幕府代官職を継いでいる。
その後、15代・直朝は、家康の元で天正18年(1590)の小田原攻めに参戦し、家康の関東移ふうと共に常睦国(茨城県)に移り、8年過ごし忠誠を尽くした。
家康が関東に転封されると、常陸国に住したが、小田原城が落ちると、上総国武射郡に籠居して死去した。
「大坂冬の陣」慶長19年(1614)
16代・秋鹿朝正の時、徳川2代将軍/徳川秀忠軍は、大坂で秀吉軍と戦っていた。家康は、慶長20年(1615)2月7日に駿府城を出発し、中泉に到着、秀忠が大阪冬の陣を終えて駿府城に戻る途中、中泉に陣をおいて待機して居る父・家康と対面するため、朝正(秀忠の御小姓をしていた)の屋敷で出迎えの父家康と対面して、「大阪城二の丸の堀埋め」の報告をし、今後の作戦を練る密議を行った。
同年3月15日にいたり、懸念していた通り大阪方が再び挙兵したとの報に、家康は4月4日、駿府を出発し西上、6日に中泉に到着。7日に西国諸大名に出陣の準備を命じている。
5月7日総攻撃、両軍激戦、大阪方大敗、5月8日大阪城は落城、天下は徳川の世となり、天下統一の重要な役目を果たしていたのは中泉、まさしく久保村の秋鹿家と中泉の家康御殿であったと云われています。
八幡宮領は南北朝期以来守護使不入の地であったが、慶長8年(1603)、徳川家康より改めて中泉村のうち250石(久保村分)が社領として寄進された。支配地は元和5年(1619)には遠州川西筋56か村、7300石余であったが、元禄期には敷知・浜名・引佐・長上・豊田・山名郡の合わせて2万石以上に増加している。
府八幡宮の本殿は、元和三年(1617)に、秀忠公と妻・江(ごう)の間に生まれた家康の孫娘・和子(まさこ)の寄進による再建である。
さらに、元和七年鳥居は、秀忠公によって建てられている事からも、家康と秋鹿家との深い関係性が裏付けられる。
他方、朝兼の三男政朝は、永禄四年(1691)に家康に仕え別家を立てた。しかし、元禄10年(1697)に道重が没した後は代官職から離れ、府八幡宮の神職となり、以後、子孫は徳川旗本として続いたが、19代綱吉の時に故ありて代官を罷免され、朝就の代より、府八幡宮神主に専従した。
そのお屋敷(幕府からの拝領地)は、明治維新に於ける廃藩置県により、一時、明治政府に返上し、お屋敷跡は「中泉公園」として親しまれた。そして明治政府により払い下げられ、再び秋鹿家の所有となり、明治の中頃には一部が料亭(旧・開莚楼)、遊郭、芝居小屋、そして、「照日座」、借家、一般住宅として使用されるようになり、現在はそれらの建物は存在しないが、当時の中庭「常磐の森」と「扇子の池」は今もその面影を残している。
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秋鹿家当主・葬儀行列
(昭和6年9月)
秋鹿家の由来
中津川家・蔵前
開莚楼前
秋鹿家・墓所
(泉蔵寺)
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中泉公園
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遊 郭
常 盤 楼
常盤楼
漆喰画
(戸袋壁画)
漆喰彫刻 : 明治29年に地元の大親分・大場平太郎によって建てられた常盤楼・建物所正面の左右両脇にあった戸袋に漆喰彫刻・4面(上の写真2枚=牡丹の花を持って踊る天女&強弓を持った若武者・鎮西八郎為朝)が施されていました。そして入母屋造りの屋根の三角面にも「牡丹に唐獅子」彫刻(上の写真)が有りました。
これらの漆喰彫刻は、磐田郡井通一言(現・磐田市一言)の左官・清水文六の作である。 |
常盤楼・石門
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旧中泉公園について
幕府より拝領された秋鹿家の屋敷は、明治維新により所領没収となり、浜松県の収めるところとなりました。そして、明治6年11月3日より中泉公園として開園しました。その後、元の所有者である秋鹿家に払い戻されました。
その庭園内には歴代当主が趣向を凝らした常磐木の巨木が深い林を成し、中に梅桜の林、楓の森があり、庭石の奇観、草花が彩りを添え、全景が松島を模した「扇子池」があり、その昔には、久保川の上流から池まで清流を引き込み、生活水としても使われ、湧き水と共に豊かな水源に恵まれていました。
*当時の池はもう少し南側に広がっていました。
遠州に於いて有数の名園といわれた。池の北東側には、趣味の集会等に使われた「不老斎」と名付けた平屋の建物がありました。
不老齋
「不老斎」
明治34年の春、当時の朝鮮の志士で朴泳孝が、同志の金応元、鄭東淳とともに此処「不老斎」に滞在して、朝鮮における政権再興のための秘策を練っていたことがあった。当時の朝鮮は政変が繰り返されていて、明治33年には朝鮮の内閣を転覆させ、李太王を率いて帰国し、政権を掌握しようという朴泳孝の陰謀が暴露されてしまった。朴泳孝は全宏集内閣の内務大臣を務めた人である。
日韓併合に協力し、併合後侯爵・総督府中枢顧問官、ついで貴族院議員となる。
スバル劇場
公園内では、明治13年8月9日〜12日、園内に小屋がけして芝居が上演されたり、同14年には日本伝統の最後の手品師といわれた養老瀧五郎の手品が演じられたりしました。明治22年には「照日座」が建てられ、後の大正2年に建て替えられ「中泉座」と改名される。そして戦時中に戦火を避けるために取り壊されたが、戦後、昭和21年には中泉座の跡地に「スバル劇場」が建てられ、映画、芝居、歌謡ショー、成人式、立会演説会等々に利用され、大衆に親しまれた社交の場でした。その後に「開苑楼」「遊郭/常磐楼、三浦楼」なども建てられました。
現在、その地の一部(池の周りの敷地約千坪)は磐田市の公園「中泉歴史公園」として、住民の憩いの場として存在しています。
現在の公園
現在は、旧中泉公園の一部(約1080坪)が市の公園として残されています。
2008年に旧開莚楼が所有していた敷地を市が購入しましたが、10数年間手入れがされていなかったため、荒れ放題になっていて、行政としては大胆な公園整備計画を予定していましたが、財政不況に伴い、予定していた公園化事業が頓挫しまして、2009年春より、地元有志のボランティアにより、密林のように生い茂っていた樹木の剪定、伐採、遊歩道の整備、池の清掃、石垣等の修理、竹柵設置等々を行い、2009年の10月から『中泉歴史公園』として、一般開放されています。
現在も植樹、剪定、草取り、荒地の開墾等を継続し、公園整備を行っています。
庭園と里山の風情を併せ持った昔ながらの風情を残した公園として、地元市民の憩いの場として愛されるものにしていきたいと思っています。
最近では、狸、カワセミの姿も見ることができます。 |
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スバル劇場
石原裕次郎
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