【十ケ町組織誕生】
遠州中泉府八幡宮祭典余興の公式記録は大正4年(1915)から始まり現在まで続いている。明治という「坂の上の雲」を目指した偉大な時代が終焉し、明治天皇の服喪、更に皇太后の崩御、服喪と重苦しい空気で始まった大正という時代がようやくその主張を始める。それは思いがけず平和な大正ロマンであり、政党政治・大正デモクラシーでもあった。
大正3年(1914)に勃発した第一次世界大戦は行き詰まっていた日本経済に束の間とはいえ好景気をもたらした。中泉駅の乗降客は大正8年には乗車で対前年比164%、降車で123%の急激な増加を示した。
(『磐田市史通史編下巻』310ページ)
中泉町は明治22年(1889)の東海道線開通中泉駅誕生とともに発展繁栄し、中・北遠地域への物資中継拠点となっていった。大正4年における二之宮を含む中泉町の戸数は、1260戸、人口約7000人であった。
(『中泉町誌』17ページ)
府八幡宮祭典余興は、それまで九ケ町だったが、新道(現在の栄町)が正式に西町から分離独立し、十番目の祭参加町となり、いわゆる十ケ町組織ができあがった。当番(現在の年番)東町は早速新たな祭典申合事項を策定することとし各町に諮った。そして成立をしたのが、次の「八幡宮祭典余興申合規約」である。
【八幡宮祭典余興申合規約】
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第一条 |
余興ハ既定期日九月十四日夜ヨリ十五日迄トス |
第二条 |
各町集会ハ九月一日トス
但 臨時祭典ノ場合ハ其都度之ヲ定ム
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第三条 |
各町集会ニ於テ決議スベキ事項左ノ如シ |
一、 |
余興ヲ行フヤ否ヤ |
二、 |
出発時刻 |
三、 |
経路及停車時間 |
四、 |
其他 |
第四条 |
各町集会ニ於テ決議シタル事項ニ
之ヲ変更スルコト能ワザルモノトス
但 特別ノ事情アル場合ハ集会開催ノ上変更スルコトヲ得
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第五条 |
決議事項ハ多数決トス
但 相半スル場合ハ再協議ヲ行フモノトス
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第六条 |
祭典余興ニ関スル一切ノ事務ハ当番ヲ定メ之ヲ処理セシム |
第七条 |
当番ハ奥久保。西町。東町。七軒町。東新町。西新町。坂ノ上。石原。田町。新道ノ順序ヲ以テス |
第八条 |
当番ノ任期ハ一月一日ヨリ十二月末日ニ至ル満一個年トス |
第九条 |
当番ノ任務ハ左ノ如シ |
一、 |
各町集会ノ通知ヲスルコト |
二、 |
祭典余興ニ関スル許可ノ申請ヲナスコト |
三、 |
経路ノ注意 |
四、 |
記録及会計 |
五、 |
宮前ノ溝ヲ埋ムルコト |
六、 |
其他 |
第十条 |
臨時集会ノ開会ヲ希望スル場合ハ当番ニ申出ツルコト
但 此ノ場合ニ於テ他ノ二ケ町以上ノ同意アルニ非サレバ開会スルコトヲ得ズ
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第十一条 |
本規約ハ各町集会ノ決議ニヨリ変更スルコトヲ得 |
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以上 大正四年九月一日之ヲ定ム |
【決定は多数決】
当時と現在の祭の違いがこの「余興祭典申合規約」からもいくつか判明する。
まず、第一条にあるとおり祭典日は9月14、15日だった。しかもわざわざ14日は夜からと書かれている。このわざわざ書くところが非常に怪しい。実態は朝からあるいは前夜から祭同様のことをやっていたのが、奢侈を戒めるために規約を作った可能性も十分ある。ただし、滋賀県日野町の「日野祭」等の伝統的な祭礼では、「宵山」として現在でも初日の夜からというところが多い。
祭典日変遷の詳細については、拙稿「明治期の府八幡宮祭典余興」(『磐南文化』第30号)に明らかにされている。
次に第五条のとおり、当時は決定の方法が「多数決」であった。中泉の祭を経験した人ほど不思議に感ぜられるであろう。現在は全町一致でないと、外交集会は前に進まない。いつ何故変わったのか、非常に興味深い。その答は戦後の祭典にあるのだが、それは戦後編に譲り、以下「当番記録」等をもとに、大正4年の祭典余興を再現してみよう。
大正4年9月1日、当番・東町は各町集会を招集し、十ケ町出席のもと「祭典余興申合規約」第三条に基づき次のことを決定した。 まず、府八幡宮祭典の余興として「山車を出すこと」、その出発時刻、経路及び停車時間、その他若干の注意事項である。
初日、9月14日の出発時刻は、「午後五時一番出発」とある。この出発場所はそれぞれの町内のようである。一番とは、宮抽選の第一番の順番を引いた町を指している。各町が自町会所を順次午後5時以降出発し、午後8時までに八幡宮に集まる。
従って、会所から宮まで思い思いの経路を通って集合をした。勢揃いした山車は、一台田町のみが現在の四輪山車、残り九台はすべて二輪山車である。田町・盛友社現山車は大正2年に新造、見事な彫刻が完成するのは大正6年、自慢の虎の幕がつくのは同12年まで待たなければならない。粋と華やかさを競い合う十台の山車は3時間八幡宮に停車し、午後11時宮出発となる。なんと遅い山車引き回しの始まりであろうか。
十台の山車は、砂利道の狭い東海道を中泉停車場(現・磐田駅)方面へ下り、東町四つ辻で二班に分かれる。この二班は現在と違い宮抽選により決定する。一番から五番が西組、六番から十番が東組である。地域性によりいわゆる西班、東班が固定したのは、この後大正13年西町当番の年からである。
大正12年までは、抽選という偶然性によって西班・東班が決まっていた。当番記録の記述は「東組・西組」である。東町の祭組織名も「東組」のため、非常に紛らわしい。混同を避けるために、当稿ではあえて東班・西班と記述していることをお断りしておく。
さて、初日夜11時に宮を出発した十台の山車は、東班の五台だけは、東新町(現・中町)東町で停車する。西班の五台は両町を通過して、東町四つ辻を右折、西町、田町を通過、西新町まで行き停車、戻って坂ノ上停車、続いて田町停車、石原小路に入り石原で停車、解散という経路を辿る。ここでいう石原小路とは、現在のいわゆる「お祭小路」のこと。
一方、東班の五台は、東新町、東町停車の後、東町四つ辻を左折し、七軒町停車、新道停車、西町停車、奥久保停車、解散という経路である。お気づきの事と思うが、西班の停車箇所は四町、東班は六町である。これも、固定された二班ではないから可能なのである。必ずしも自分の町内に山車が入らないということを想像していただくと、よりリアルに大正期の祭典を仮想体験できる。この年の宮抽選結果は不明である。まったくの偶然性が、祭典余興を支配していた。
【経路はほぼ固定】
二日目、15日は八幡宮へ正午より午後2時までに各町参集する。神事の終了、御神輿の出発を待って、その後十台行動をとる。停車時間は原則最後部の山車が停車してから五分となっている。ただし西町停車時間のみは1時間以上である。東新町停車、東町停車、七軒町停車、新道停車、石原停車。
石原小路を経由して、坂ノ上停車、西新町停車、戻って田町停車、西町停車、奥久保に入って停車、久保川沿いを通って八幡宮に戻り解散という経路である。宮に戻る時刻は、例年の記録にないため判然としないが、唯一記載されている大正九年(当番・石原)の記録では、「午前四時・・」となっている。二日目も夜明かしの山車引き回しであった。
大正5年(1916)もほぼ同じ。6年以降、西班の初日経路が一部変更となる。つまり、西班の五台は、八幡宮出発後、まずは奥久保へ入り停車することとなった。ただし、現在ならそのまま久保川端を通り田町に向かうが、当時は西町経由田町となっている。
二日目の経路も大正4年に見るとおり、順路は逆だが田町から西町に入り、西町から奥久保へ入って八幡宮に帰る経路である。田町、久保町間が経路として認められるのは昭和10年(当番・東町、相当紛糾した祭典)になってからである。川端の道が土手のようなもので山車は通ることができなかったのであろうか。
いずれにしても大正期の山車経路は多少の変更はあるものの、大方決まっていたと考えることができる。二日目経路は、御神輿の順路をおおよそ追いかける経路であった。それは大正9年の次の記録からも推測できる。
「栄町ニ於テ御輿ト山車トノ摺合ヲ致シタコトニ関シ各町世話係二名浅間神社ニ参集シ神社側ヨリ注意有之自今山車ハ御輿ノ御供ヲナシ引廻ス様懇々談合アリタリ」おそらく、御神輿を追いかけ付きそう形で十台の山車は運行されたが、一部のみ対面する箇所があった。時間が経つうちに予定にズレが生じる。通年ならすれ違わない時間設定だが、山車は駅方面から石原へ、御神輿は西新町を戻り石原から陸橋方面に向かう。その時刻が重なってしまったのである。この御神輿渡御と山車順路の問題は、昭和2、3年まで尾を引き4年「西町脱退問題」まで発展する。
引き回しの中で特筆すべきは、停車時間が各町は五分間であるのに比し、西町だけが二日目のみだが「一時間以上」となっている点であろう。これは、やはり御神輿渡御と関係している。西町にある浅間神社に、御神輿ご神体が、しばし留まったからである。つまり各地の祭礼にみられる「御旅所」が浅間神社だったのである。現在も中泉各町にある神社に御神輿は必ず止まるが、それは西新町:愛宕神社、石原町:田中神社、西町:浅間神社、久保町:白山神社の四宮である。
しかし、戦時下昭和18年(1943)の府八幡宮社務所発行「縣社府八幡宮大祭ニ就イテ」というお知らせによれば、田中神社と浅間神社のみである。また、一連の御祭事を挙げているが10月3日(18年は2日、3日が祭典日だった)の内容は次のとおりである。「十月三日、午前九時朝祭執行、午後四時神輿発御、御清水御旅所ニテ命之魚奉献ノ神事、午後九時神輿浅間神社御旅所発還御」となっており、浅間神社で夕食をとることも明記されている。
つまり戦前はもちろん大正時代においては、浅間神社での神事の位置づけが明確にされていたのであり、ご神体のお供をする山車も御旅所のある西町では1時間以上の停車が当然であった。八幡宮出発前3時間十台の山車が宮で停車することと同じことだった。この神事があることに由来して、西町の人々は「鑾留閣(らんりゅうかく)」と若連を命名した。鑾とは「天子の車。また、天子」(『新字源』角川書店)であり天子しいては神(八幡神・応神天皇)が留まる神社・組織・山車であるという意味である。
【大正七年奥久保不参加】
現在、正式に継承されている当番記録では、大正7年分が落丁している。この年何があったのか。実は祭典余興に一ケ町が参加しなかったのである。別のところにあった「大正七年度各町集会決議事項概要」(実はこれが落丁部分)にこうある。「一、余興 山車ヲ出スコト 但シ、奥久保一ケ町ハ見合ワス」また、以降出発時刻や経路などが記されているが、当然経路上に奥久保は入っていない。
当番は西新町で、この年は見付裸祭と同日になったため、例年の事項に加えて「六、見付町ニ対スル警固」がある。この概要だけでは、何故奥久保が祭典余興参加を取りやめたのか不明である。何か事件や揉め事があったようにも、前後の記録からは読み取れない。
ここに久保町に伝わる貴重な資料がある。表紙に「大正拾年参月 山車改造塗込費用集金簿 玉匣社」とある和紙の綴りである。これによれば、奥久保では大正10年7月から11年12月にかけて、山車改造と漆塗りのために各戸よりその原資を集金した。集金簿に掲載された世帯は69戸。最高金額は秋鹿朝成家の40円、最も低い金額が1円45銭となっており、家によって異なるが約一年半の間に大概6回分割で支払っている。
筆者の祖父、高橋伊太郎はやはり6回に分けて1回7、80銭ずつ計4円50銭を完納している。帳簿は1世帯1ページを使用、上段枠外に横書きで氏名と割当金額が記され、上段に支払った月日と金額、中段に小計金額、最下段には完納と記されている。町内総集金額は533円75銭となっているが、現在のどのくらいの価値になるのだろうか。
奥久保が山車を出すことを見合わせた大正7年(1918)は「米騒動」があった大変な年である。全国で米騒動の口火をきったのは8月3日富山県下新川郡魚津町の漁師の「おっかあ」たちだった。
「当時の魚津町の小漁師部落の米価は、高騰の波に煽られて、米一升二十銭だったものが七年七月の声を聞いた途端に四○銭を上回っていた(中略)そのころの漁民の平均月給は50銭、(中略)米積荷や沖仲仕の月給は十銭ないし二十銭だったから、一升四十銭もする米はとうてい買えなかった。七年ころの男子工の平均月給は八九銭、茶摘み女のそれは四五銭(賄い付)小学校校長の月給が二九円で...」(『明治・大正・昭和の世相史上巻』228ページ、山路健著、明治書院)町内総集金額533円は、当時の校長の月給29円の約18ケ月分である。現在の金額にすれば1千万円程度だろうか。
お金の価値はもっと高かったから、実際には山車を改造し漆を塗るには十分なものだったのだろう。支出の部を見ると、改造費282円55銭、ぬしやへの支払い250円となっている。ぬしやの氏名はわかるのだが、肝心の大工が誰か帳簿からは判然としない。支出の部の詳細を見ると、「第一回掛塚橋賃」などとあるため、当時天竜川(現在の堤防はなく、下流域は数本の河川に分かれていて、町を挟むように流れていた。)の西側中州にあった掛塚の大工であることが推測される。
支払いは、集金された年月よりも早く、最初の大工支払い244円は大正10年4月4日となっている。同年4月に「白山社金借入」とあり、白山神社の会計から借り入れた上、支払いに充てたことがわかる。また「某所ヨリ借入」、後に利息を付けて返済している。借入先は違うが当時も先に借金をして、あとで各戸から寄付金、割当金を集金し返済をする方法だったのである。
しかし、この貴重な資料からいくつかの疑問点も生じる。ここでいう山車とは、玉匣社先代二輪山車を指している。「塗込」は意味が分かるけれども、山車改造とは具体的に何をいうのだろうか。新造ではなく、改造である。そもそもこの山車はいつ新造されたのだろうか。田町盛友社が大正2年に中泉初の四輪山車として建造されたことは、すでに述べた。七軒町騰龍社現二輪山車が、新造されたのは大正6年と言われている。また、西町鑾留閣現山車が大正9年、西新町志組現山車が大正10年に完成している。
大正期は、中泉山車の新造ブームだったのである。中町鳴鶴軒現山車もこの頃と言われ、最近では東町東組現山車大正4年建造説がその証拠とともに確定しそうな気配もある。(従来は明治28年といわれてきたが...)とすれば、玉匣社先代山車も大正中期建造と推定できる。しかし、その一級資料は大正10年祭前に改造と漆塗りがなされたとだけ証言する。そして大正7年には、奥久保は山車を出していない。
改造の数年前に新築しているとすれば、新造記録が残っているはずである。玉匣社世話係が代々受け継いできた資料には、同資料の他「大正拾参年十月 祭典若者名簿 玉匣社」「大正拾四年九月 格納庫建築費集金台帳 玉匣社」の二冊の和綴じ重要資料はあるが、山車新造と記したものはない。とすれば、これはほとんど新造に近い改造だったのではなかろうか。明治期から引き回してきた山車を利用して車輪、擬宝珠、欄干、柱など部材ほとんどすべてを新調し取り付け、その上に漆を塗り、他町と同じ形の山車に改造をしたのではなかろうか。それは支出内容から一部証明することができる。
当時、大きな商店は一軒もなく百姓衆が点々と住んでいた奥久保は、大商人のいる田町や西町に比べれば富裕な町内ではなかった。そこで、山車改造・漆塗りという大事業にあたって、世話係・若者に節約、我慢、奉仕をするよう求めた。それが大正七年苦渋の祭典余興不参加になった。と、このように考えるとすべての辻褄があうのである。
大正10年の祭は、苦労した玉匣社の人々には感慨一入の祭だったに違いない。この時の記念写真には、世話係(当時は数名のみ、筆者の祖父もその一人)を初め子供から若者まで多くの社員が改造なった山車の前で誇らしげに並んでいる。山車人形は「福の神子ども遊び」である。数年前の新造ならその記念写真もあるはずだが、それもない。ということは、この改造こそ実質上の新造だった何よりの証左である。祭典の前日「九月十三日、金壱百円(注:第一回支払い)ぬしや新野菊次郎」と支出の部にある。支払先は中泉東町のぬしやであった。
【大震災で余興遠慮】
大正期の祭典余興で忘れてならないのは、12年(1923)の記録である。当番は奥久保。9月1日、吉例にしたがい午後7時より開莚楼において八朔集会(各町外交集会)を開催した。前年より祭典日は10月1、2日に変更されており、祭当日まで従来と違い一ケ月あった。集会は例年の決定事項に加えて新決議を採択し無事終わった。「年番ハ各町ヲ代表シ浜垢離ヲ行ヒ浜砂ヲ持チ帰リ抽籤ノ時各町ニ分布スル事」。現在に続く「浜砂配布」はこの年に始まったのである。また、「当番」よりも「年番」という記述が増え始める。時代とともに用語も変遷する。
この日午前11時58分南関東地方に大地震が発生した。関東大震災である。磐田地域でも「九回にわたって揺れ返しを感じた」と当時の鎌田村村長の日記にある。(『磐田市史通史下巻』340ページ)しかし被害の惨状が伝わったのは3日に到着した「静岡新報」などの新聞によってであった。死者・行方不明者14万2800人という未曾有の大惨事だった。これを受け、9月5日、山車引き回しは「遠慮」(中止)することを決定した。しかし、祭典日が近づくにつれ祭青年たちは祭気分が盛り上がってしまう。
そこで、28日再度協議した結果、従前の決定を覆し、六ケ町賛成で山車を出すことを内定。しかし重要案件なので、各町持ち帰り中老に相談することとする。その結果八ケ町の中老が反対の姿勢を示す。一方、町当局も青年と各町世話係の動きを心配、当時の長沼町長(正確には組合長)は各町の自治会や神社の総代を公会堂に集め対策を協議していた。午後八時半、町長は年番を呼び出し、各町総代との協議結果を披瀝した。
「今度ノ大震火災害ハ日本有史以来ノ大天災ニシテ罹災者ノ救助ニ心痛ナシツツアル秋ニ際シ是非本年ノ處ハ余興引廻シノ件ハ遠慮有之度...」要するに「被災者のことを考え山車引き回しは中止してもらいたい」ということであった。
各町世話係は、山車を出したいという青年たちと遠慮すべしという中老そして町当局の間で、折衷案を模索する。結果29日午前3時まで掛かって「一日目山車据え置き、太鼓を叩かないこと、法被を着ないこと。二日目余興規約の二日目の行動を取ること」という内容をまとめる。同案に各町青年たちは賛成するが、長沼町長は断固反対。
町長はもし山車を出せば「官憲の力」を使っても制止すると強硬論を吐く。年番は、怯むことなく町長を説得するが、
「断固トシテ同意セズ。然レバ各町青年ガ群衆的団ヲナシテ特別行動ヲナスニ当リ各町幹部ハ勿論ノ事中老迄モ極力之レガ鎮撫ニ勤ムレド不能トナリタル場合ハ組合長トシテ如何ナル処置ヲナス成ト追究スンバ其ノ場合ハ町トシテ万策ヲ以て極力鎮撫スル事ヲ言明ス」。翌30日まで年番は町長と交渉するが遂に断念、次の五箇条を臨時集会で決議する。
「一、本年度ハ各町会所ヲ廃スル事。二、太鼓ヲタタカサル事。三、御輿ノ供ヲナササル事。四、抽籤ヲ行ハサル事。五、各町共何等行動ヲ為ササル事。」
【底抜け屋台騒動】
問題はこれで終わらなかった。事件は10月2日夜起こった。西町青年が底抜け屋台を引き回してしまったのである。しかも西町は長沼町長の地元だった。3日午前1時年番召集により開莚楼で緊急臨時集会が開かれた。「町長の責任」を問うことを決議する。午前四時、年番は町長を呼びに赴くが、風邪を理由に自宅から出て来ない。8時、町長は年番に対し、自分には責任はなく西町青年の責任を徹底的に追及することを「各町総代会議」で決定したと発表。年番はこれを各町に伝達した。5日、西町中老が年番を訪れ、町長は西町青年の責任を明確にするため西町自治団体に「解散ニ近キマデノ鉄槌ヲ下ス」ことにしたと説明。「年番より友情をもって善後策をとってほしい」と懇願した。
年番は早速奥久保集会所で各町集会を開催、議論の末「友情をもって復旧の件を努力すること」を決議し午前1時閉会した。翌夜、西町集会所に各町世話係代表が集合、西町総代と面談した。年番から経緯を説明すると、総代は「各町の友情に深謝し一切を委任する」と頭を下げた。年番と各町代表は西町中老会にこれを報告、相談の結果、西町青年の団体としての復旧が成立した。
当番はこの箇所を次のように記しその年の責務を終えている。「...西町中老会ノ諸氏ニ面談シテ相談シ同会ノ解意ヲ得テ此ニ団体ノ成立復旧ヲ見ルニ至ル依テ目出度ク正午十二時各町解散ス」。
【大正から昭和へ】
かくして大正13年(1924)、西町に当番が引き継がれる。そして山車引き回し方法のエポックともいうべき「東西分離」を決定する。
「此ノ際各町ノ決議ニヨリ一日ノ行動ハ西部ノ町ノ山車ヲ以テ西組トシ東部ノ町ノ山車ヲ以テ東組ヲ組織スル事ニ定ム」。但し、15年までの三年間は東班、西班の町内分けを決議し定めている。大正13年、坂ノ上対七軒町の紛糾事件が起こった。坂ノ上山車が七軒町に入った時、「渡り」(町内へ入る挨拶)を付けたにもかかわらず、該当の七軒町中老が交替した為、七軒町側が文句を付けたことに起因する坂ノ上若者数10名による七軒町山車急襲暴力事件である。
この年、この事件は解決することができなかった。「終ヒニ解結ヲ見ズシテ重々遺憾乍ラ其ノママ立別ルル事ニ到ル」と当番・西町は無念を滲ませ擱筆した。14年(当番・東組)も紛糾は鎮まらず、今度は坂ノ上若者が一時解散という事態にまでなってしまう。平穏な大正が終わろうとし、激動の昭和へと時代は移っていく。
中泉祭典余興史も昭和の声とともに事件や対立、紛糾が増えていく。この事件は、大正11年「西新町停車時紛糾事件」(記録に残る最初の紛糾。発生場所は西新町。関係町名、紛糾内容などは不明。高等小学校で徹夜集会の末無事解決)とともに、激動の昭和祭典余興史を予感させるものであった。
しかし、中泉の青年たちは次なる指針を立てることも怠っていなかった。時代に合った新たな規約策定のために「規約改正起草委員会」を設置、各町集会において「大正十四年改正規約」を決議するのである。
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