【徳川 家康
中泉御殿】


 徳川家康は、浜松に居城しているとき、見付・中泉支配の拠点として天正14年(1587)初代代官を務めた秋鹿家(秋鹿家は久保村に移転)のお屋敷があった所に中泉御殿を造りました。当時、この辺には一軒も民家はなく、閑静なところで一万坪の敷地に水堀をめぐらせた城砦を造り、東海道往来時の家康の宿泊施設として利用されました。また、西方の反徳川勢力に備えた作戦基地・軍略の場ともなりました。

 大池周辺での鷹狩り時の休憩所や、宿泊施設としても使われました。家康の関東移封後も、豊臣秀吉から仕様が認められ、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの時にも立ち寄っています。その後、家康は豊臣家を倒し、天下を取る為、この城砦に立てこもり大阪冬の陣(1614)、夏の陣(1615)の戦略を練ったともいわれています。寛文10年(1670年)に廃止され、建物は近隣の諸寺院に払い下げられました。今は地名(磐田市・御殿)として伝えられています。


           
              中泉御殿裏門/現・西願寺表門

中泉御殿の表門は見付の西光寺に、裏門は中泉の西願寺に移築されました。


天保9年(1839)
幕府領・中泉村・家屋数303軒、八幡社領・久保村・家屋数101軒。
【農家・多数、医師・5軒、大工・5、木挽・4、桶屋・5、屋根葺・1、鍛冶屋・1、石屋・1、
 井戸堀・1、造酒屋・1、糀屋・1、油屋・1、酢造屋・1、紺屋・1、郷宿(宿屋)・3】



【中泉代官陣屋】

 江戸幕府は遠江の天領(直轄地)支配のため、中泉御殿の敷地内東側に中泉代官所・陣屋が建てられました。遠州地方の重要な拠点として中泉に代官とその執務を取った陣屋を置きました。中泉代官は伊奈忠次や大草左衛門、羽倉簡堂、林鶴梁など有能な官僚が務めました。林鶴梁は渡辺崋山に師事した儒学者で、在任中に安政の大地震の対処にあたりました。鶴梁の義母は中泉で病没し、その墓所は満徳寺にあります。初代の代官を勤めた秋鹿(あいか)氏の墓所は菩提寺である泉蔵寺にあります。


            
                    陣屋表門
            

 明治政府が成立すると徳川家は静岡に移され、静岡藩となりました。
中泉代官は廃止され、かわって静岡藩の奉行が置かれました。初代の奉行には前嶋来助が任命され、かつての中泉陣屋で執務をとりました。前嶋はのちの近代郵便制度を創設した前嶋密です。
前嶋は中泉奉行所管内に移住した士族の世話や、その師弟の教育にあたりました。
 また、窮民や障害者の救済のため、救院の設置を呼びかけました。



              
                      陣屋跡
          
 中泉陣屋の表門は市内新島の伊藤家に移され、御殿遺跡公園には陣屋内にあった稲荷へ通じる道「軍兵稲荷道」の石碑があります。
中泉御殿の表門は見付の西光寺に、裏門は中泉の西願寺に移築されました。



 久保村絵図  八 幡 宮  遠江国分寺
 旧見附学校  桶ヶ谷沼  日本神道
 秋 鹿 邸  磐田駅今昔  磐田駅前商店街


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