【御殿】・・・とは?

立派な家のことですが、ここでは将軍などが旅行や外出の才に休んだり泊まったりするために城とは別に建てられた邸宅のことです。
利用目的としては、宿泊用と娯楽用に分けられます。
宿泊用の場合は、上洛・駿府往復・日光社参(家康の死後の東照宮参り)、娯楽用としては、鷹狩りが主となります。

中泉御殿の場合は、宿泊用・娯楽用を兼ねていました。
その他、東海道沿線上にある重要拠点として、軍事の際には作戦会議の場になり、上洛の際にも度々利用されました。
その後、各地の御殿の大部分は元禄期(18世紀初頭)までに廃止されました。

「遠州中泉古城記」(中泉町誌)には、天正6年(1578)、家康は、この地に小堡(しょうほ=小さな砦)を築き、天正14年(1586)に城を営み、翌年に完成したことが書かれています。


【徳川 家康と中泉御殿】

徳川家康は、浜松に居城しているとき、見付・中泉支配の拠点として天正14年(1587)初代代官を務めた秋鹿家(秋鹿家は久保村に移転)のお屋敷があった所に中泉御殿を造りました。当時、この辺には一軒も民家はなく、閑静なところで一万坪の敷地に水堀をめぐらせた城砦を造り、東海道往来時の家康の宿泊施設として利用されました。また、西方の反徳川勢力に備えた作戦基地・軍略の場ともなりました。

大池周辺での鷹狩り時の休憩所や、宿泊施設としても使われました。家康の関東移封後も、豊臣秀吉から仕様が認められ、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの時にも立ち寄っています。

その後、家康は豊臣家を倒し、天下を取る為、この城砦に立てこもり大阪冬の陣(1614)、夏の陣(1615)の戦略を練ったともいわれています。寛文10年(1670年)に廃止され、建物は近隣の諸寺院に払い下げられました。今は地名(磐田市・御殿)として伝えられています。

家康は、この「中泉御殿」に何回くらい訪れたか?
『松平家忠日記』『当代記』駿府記』『駿府政事録』御年譜』などに残る記録から、天正16年(1588)〜慶長20年(1615)の間に21回中泉御殿を訪れています。

    
           
中泉御殿裏門
             /現・西願寺表門


中泉御殿の表門は見付の西光寺に、裏門は中泉の西願寺に移築されました。

天保9年(1839)
幕府領・中泉村・家屋数303軒、八幡社領・久保村・家屋数101軒。
【農家・多数、医師・5軒、大工・5、木挽・4、桶屋・5、屋根葺・1、鍛冶屋・1、石屋・1、井戸堀・1、造酒屋・1、糀屋・1、油屋・1、酢造屋・1、紺屋・1、郷宿(宿屋)・3】



 
中泉御殿の廃止に伴い、その周辺の土地は明治維新以後に中泉地区に移住してきた幕臣(江戸幕府の武士)に配分された土地を含み、その時に付けられた字名であると考えられます。

絵図の最下部に「一本松」とありますが、これは現在磐田市石原町にある「田中神社」
(主神=手長男命・足名椎命・手名椎命)がこの地に有り、その境内に有った「手長神木」(てながしんぼく)という一本松が神社が移転した後も、ここに残っていました。
(新幹線工事前まで存在していたと思います。)






現在の大池と比べるとかなり大きな池であったことが分かります。北側(下図)に壕と土塁を作ることで、城として堅牢な守りができたことが伺えます。




中泉御殿が取り壊された跡地は、「御林」(おばやし);江戸幕府が直接管理・保管する御用林や畑になっていました。
ここに、家康と関係が深かった小笠寺
(しょうりゅうじ;現大乗院三仭坊の前身)の住職であった慶存(けいそん)が、家康を祀る東照宮「御主殿」を建てました。

上記絵図が、その時に建てた東照宮・御主殿
(14間 X 13間)や濠(ほり)、土塁の様子が分かります。この東照宮は、寛文10年(1670)御殿廃止から20年以内にに建てられたものです。

 東海道中泉】

東海道は、奈良時代から駅路(えきろ)として整備され、平安時代後期には、京都と鎌倉を結ぶ幹線として、益々重要になっていきました。
慶長6年(1601)、徳川家康によって天馬(てんま)を常備させた宿駅が定められ、河川の渡しや松並木、一里塚など街道の整備が行われました。
管理は、幕府の道中奉行があたり、寛永元年(1624)までには、東海道五十三次の宿場が揃いました。
磐田市内を横断する東海道は、東西から多くの人々や物資・文化をこの地にもたらし、地域が発展する基礎となりました。

宿場として栄えた見付宿、中泉陣屋のある中泉、天竜川渡船をつかさどった池田をはじめ、沿道の村々は、東海道から大きな恩恵を受けていたといえます。
徳川家康は、中泉を市街地として発展させるため、税金を免除するなど商家を保護しました。東海道を見付宿から中泉にお曲げたのも、このためだと云われています。
また、中泉陣屋
(遠州地方すべての幕府直轄地を治める役所)が置かれたことで、支配地内から多くの人々が集まりました。絵図を見ると、米屋・油屋・居酒屋・そば屋・うなぎ屋などの商家や陣屋へ訪れた各村の庄屋などの代表者が泊まる郷宿( 陣屋訪問者専用の宿泊所)が軒を並べている様子を伺うことができます。

【中泉代官
陣屋】

江戸幕府は遠江の天領
(直轄地)支配のため、中泉御殿の敷地内東側に中泉代官所・陣屋が建てられました。遠州地方の重要な拠点として中泉に代官とその執務を取った陣屋を置きました。中泉代官は伊奈忠次や大草左衛門、羽倉簡堂、林鶴梁など有能な官僚が務めました。

林鶴梁は渡辺崋山に師事した儒学者で、在任中に安政の大地震の対処にあたりました。鶴梁の義母は中泉で病没し、その墓所は満徳寺にあります。初代の代官を勤めた秋鹿
(あいか)氏の墓所は菩提寺である泉蔵寺にあります。

    
           陣屋表門

明治政府が成立すると徳川家は静岡に移され、静岡藩となりました。
中泉代官は廃止され、かわって静岡藩の奉行が置かれました。初代の奉行には前嶋来助が任命され、かつての中泉陣屋で執務をとりました。前嶋はのちの近代郵便制度を創設した前嶋密です。
前嶋は中泉奉行所管内に移住した士族の世話や、その師弟の教育にあたりました。
また、窮民や障害者の救済のため、救院の設置を呼びかけました。

        
             陣屋跡
          
中泉陣屋の表門は市内新島の伊藤家に移され、御殿遺跡公園には陣屋内にあった稲荷へ通じる道「軍兵稲荷道」の石碑があります。
中泉御殿の表門は見付の西光寺に、裏門は中泉の西願寺に移築されました。

【関ヶ原の戦い】

関ヶ原の戦いは、慶長5年
(1600)9月15日の朝に始まり2時間ほどで終わり、徳川軍が勝利しました。
「御年譜」によれば、家康は9月1日に江戸を発ち、中泉には7日に到着しています。その軍勢3万と云われています。
翌日に中泉御殿を出発、滞在中には最前線の情報収集を基に重臣との会議を行ったとされています。
9日に岡崎、10日に熱田、13日に岐阜、14日に赤坂
(大垣市)に着陣しています。翌15日の午前10時頃、関ヶ原に移動し、合戦となりました。

家康は、関ヶ原の戦いの前から諸大名と書状を交わし、情報収集や工作に努めていました。特に、豊臣家に恩義のある大名の中でも反石田光成派だった福島・藤堂・丹羽などとの連絡を頻繁に行い、その様な緻密な作戦により、勝利への道を切り開く事ができました。

 
【大坂冬の陣


関ヶ原の戦いが終わり、家康は戦後処理
(処罰・褒美)を主導することで実権を握りました。
この戦で豊臣家の所領は、戦前の3割程度となり、摂津・河内・和泉の約65万石程度まで減らされました。

慶長8年
(1603)2月、家康は征夷大将軍に就任し、幕府を開きました。そして、江戸城を始めとした土木工事を行うなどの政策に取りかかります。
更に、慶長10年4月には、将軍職を辞し、息子の秀忠に譲ることで徳川家が将軍職を代々継ぐことを天下に示しました。
一方、豊臣家では慶長16年以降、親しい大名が相次いで亡くなり、次第に孤立していきました。

豊臣家はその後、無断で朝廷から官位を受け、主のいない武士や浪人、食料を集めるなど幕府と対決姿勢を前面に押し出したのです。
こうして、京都・方広寺の鐘に『国家安康』
(家康の名が切られている)と刻んだ事件をきっかけに「大坂冬の陣」が始まりました。

慶長19年10月、家康は駿府を出発。
13、14日に「中泉御殿」に滞在し、ここでも情報収集をしています。11月に戦闘が始まり、その後、豊臣方は大坂城に籠城。総兵力は浪人を含め10万。これを取り囲む徳川方は20万。
豊臣方の兵力は徳川方に及ばず、12月には和議交渉を進め、20日に交渉が成立して、いったん戦いは終わりました。


 【大坂夏の陣】

大坂冬の陣の和議は、大坂城の一部を壊すこと、外堀を埋め立てることが条件になっていました。また、二の丸が豊臣方、三の丸と外堀は徳川方の持ち分となりました。
これに反し、徳川方は慶長20年1月には、二の丸を埋め立て始め、更に、門や櫓も破壊します。駿府に帰る道中の家康は「中泉御殿」で埋め立ての進展について聞いています。工事は23日には完了し、諸大名は帰国しました。
 
同年
(1615)3月末、家康は豊臣方の軍備強化をとがめ、豊臣家は大坂を立ち退いて伊勢国・大和国に移るか、浪人を手放すかのいずれかを行うよう命じました。これに反発した豊臣方は、開戦準備に取りかかりました。
 4〜5月には、豊臣方は大坂城近郊で徳川軍と戦いを繰り返しました。しかし、兵力で勝る徳川軍に次第に追い詰められ、大坂城に退きました。6月には、大坂城に徳川軍が殺到しますが、堀を埋められた大坂城には防ぐ方法は無く、頼りであった真田信繁
(幸村)隊も壊滅し、徳川軍が城内に続々と乱入して、6月8日、午の刻(午前12時頃)、ついに豊臣秀頼やその母・淀君ら32人は自害し、豊臣家は滅亡しました。



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