中門下からの拝殿
元和3年建立(1617)
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八幡神社の御祭神は、
第15代・応神天皇(おうじん てんのう)=(誉田別命・ほむだわけのみこと)
・御母の神功皇后(じんぐう こうごう)=(息長帯比売命・おきながたらしひめのみこと)
・比売大神(ひめおおかみ)の三神で、応神天皇の御父にあたる仲哀天皇(ちゅうあい てんのう)=(足仲彦命・たらしなかひこのみこと)
・御子の仁徳天皇(にんとく てんのう)をあわせて奉る場合や、玉依姫命(たまよりひめのみこと)をお奉りする例などもあります。
『日本書紀』によると、仏教が日本に正式にもたらされたのは欽明天皇13年(552)の頃で、受け容れるか否かをめぐって、他の国はみな信仰しているという賛成意見と古来の神が怒るという反対意見に分かれたという。
その後しばらくの間、仏と神の関係で目立った動きはないが、八世紀半ばになると、神が仏に帰依する、ときには神が菩薩になるという、両者の不思議な接近がみられる。これは仏教側からの接近と思われるが、神の方から積極的に仏教に接近したのが九州の宇佐の神である八幡神である。
八幡神が資料に登場するのは天平9年(737)のことで、八幡神は聖武天皇の信頼を得て、奉幣や封戸施入、神階叙位、あるいは宇佐八幡の神職への賜姓や叙位が行われた。平安時代中期には、日本の神々は実は仏の仮の姿であるとする本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)が唱えられるまでになり、八幡様は阿弥陀如来の仮の姿であると考えられていたのです。
江戸時代後期の府八幡宮境内絵図には、楼門の東側に神宮寺、本殿の東側に本地堂(阿弥陀堂)が描かれています。
その後、江戸時代までは、寺と神社が隣接する。神社境内に寺院が建立されたり、寺院の敷地内に神社が祭られることは、ごく一般的であった。八幡神が仏の姿で現されるのもそれ故である。府八幡宮にも神像が祭られていました。人の目には見えない神様を仏像のように彫刻して祭っていたのです。僧形八幡像(そうぎょうまちまんぞう)といいます。今も宝物庫に社宝として残されています。
八幡信仰は、大分県宇佐市の宇佐神宮(明治4年までは宇佐八幡宮)に始まったといっても過言ではない。その後、源 義家(幼名・八幡 太郎/はちまんたろう)が石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう/京都府八幡市/貞観二年・860年勧請)の社前で元服をした機縁で源氏の氏神となり、さらに源 頼朝により鎌倉に鶴岡八幡宮が創建されてからは、武家の守護神として各地に勧請されました。 |
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寛平年間(889〜898)には、薬師寺に休ヶ岡八幡宮が勧請されました。
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全国の神社分類
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2007年2月22日(木)の朝日新聞に掲載された國學院大の岡田荘司教授(神道史)らのグループの研究をまとめたものが発表された。
それによると各神社に祭られている祭神による包括的な信仰による分類を行った。八幡神社、八幡宮、若宮神社、若宮八幡神社などは、名前が違っても同じ八幡信仰とした。神明社、皇大神社、天祖神社、大神宮などは伊勢信仰に天満神社、天神社、菅原神社、北野神社などは天神信仰に取りまとめて分類した。
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その結果、 |
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@八幡信仰=7817社 |
J春日信仰=1072社 |
A伊勢信仰=4425社 |
K愛宕信仰=872社 |
B天神信仰=3953社 |
L三島・大山祇信仰=704社 |
C稲荷信仰=2970社 |
M鹿島信仰=604社 |
D熊野信仰=2693社 |
N金毘羅信仰=601社 |
E諏訪信仰=2616社 |
O住吉信仰=591社 |
F祇園信仰=2299社 |
P大歳信仰=548社 |
G白山信仰=1893社 |
Q厳島信仰=530社 |
H日吉信仰=1724社 |
R貴船信仰=463社 |
I山神信仰=1571社 |
S香取信仰=420社 |
以下、えびす、浅間、秋葉、荒神、賀茂、水神 と続く。 |
この分類に対しては、それぞれの見識による異論はあると思うが、神社本庁の「全国神社祭祀祭礼総合調査」(1995)のデータを用いた神社名による単純集計はあったが、どんな神社がどこにいくつあるのかが、初めて示されたことは、大変貴重なものである。
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拝 殿
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【浜垢離】
例祭に先立ち、宮司以下神職、祭典役員が身を浄めるために、早朝、遠州灘の浜に出向き、禊ぎをします。これを浜垢離といいますが、禊ぎの後、浄めのしるしとして「清め砂」(浜砂)を持ち帰り、神輿渡御の際に世話係二名が後ろ向きになって御神輿が通る順路に砂を蒔き清めます。
(各町世話係が自町内を担当する。)
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「清め砂」=神道には水と塩で不浄の物を清め祓うという習わしがある。地鎮祭等にも使われる。 |
【当日祭】
神社本殿にて宮司以下神職、宮世話人が10月1日(14:00〜)を本来の当たり日として大神様をお奉りします。
【前夜祭】
例祭前夜(19:00〜)、いよいよ明後日に控えた祭の執行を大神様に御報告いたします。
【例 祭】
毎年10月第一土曜日(10:30〜)、府八幡宮では例祭が厳かに執り行われます。参加者は、神職、氏子総代(宮世話人)、崇敬会、祭典委員、来賓、舞子、各町中老、世話係です。
祭は、本殿東側・祓場において参加者全員のお祓いから始まり、拝殿に上がって神に神饌を献じて、宮司が国の平和と氏子の安泰を祈り、参列者も玉串を捧げ、舞子は浦安の舞を奉納して泰平を願います。神事がすべて行われた後、神に捧げた神酒をいただいて終わります。
*明治時代の例祭は、旧暦の8月15日に行われていた。
「山車順番抽籤祭」
例祭の前に世話係外交が午前8時に神社に集まり、山車の運行順番を決めるくじ引きを行います。
【夕 祭】
毎年10月第一土曜日(20:00〜)、神社本殿にて宮司以下神職、巫女が奉仕し、宮世話人、祭関係者等大勢の参列者を迎え厳かに執り行われます。
すべての電気を消して社殿を真っ暗にして神様を御神輿に移します。
【神幸祭】 《神輿渡御》
毎年10月第一日曜日(11:50〜)、御神輿巡行に先立って、神社北東の「お清水」の広場で「命魚奉献の儀」の神事が行なわれた後、御祭神を神輿に奉遷し、氏子町内をしめやかに巡行されます。
【御輿渡御(巡行)】
神輿は各町中老に担がれ(現在では、御所車の上に載せて巡行する)、宮司以下神職、宮世話人、祭関係者等により執り行われます。
錫杖2名、大榊1名、金幣・銀弊2名、猿田彦(次年度年番町大老)、太鼓、唐櫃、弓・矢、御幣、稚児・舞子などの威儀物を持つ所役、供奉員(神輿に随行する所役)が従い、御神輿、神官、警護がお供して荘厳な行列となります。
巡行は氏子町内を通り、石原町/田中神社、西新町/愛宕神社、西町/浅間神社、久保町/白山神社、の各御旅所を回ります。
昔は今とは順路も違い、最後に浅間神社にお泊まりした後日、浅間神社にて還御の儀を執り行い本宮/府八幡宮に戻られていましたが、近年は諸事情により、還御の儀はお宮に戻られてから行っています。
氏子町民は神輿巡行のお供として後に付き、各町内を曳行することを供奉(ぐぶ)といいます。本来、神輿渡御がお祭の目的といっても過言ではありません。その供奉が習わしとなっていましたが、戦後次第にお供しなくなっていましたが、20年ほど前にはその習わしを再現しようと、玉匣社の山車がお宮から久保町までの間をお供しました。それも数年間でとぎれてしまいました。
平成20年度の第1回祭典委員会の場で宮司から伝統を再開することの要望がありましたが、残念ながら実際には実行している町は少なく、未だ実現には至っていませんが、これからに期待したいものです。
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昔のままに全山車が供奉することが望ましいのですが、それは難しいので、自町又は可能な区間のみのお供で行えば良いと思います。 |
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本 殿
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