大鳥居
大鳥居

参道
参 道


楼 門





寛永12年建立(1635)
【県指定文化財】

 本殿は元和三年(1617)に徳川二代将軍秀忠の娘・東福門院によって寄進されました。









 
 府八幡宮は、天平年間(729〜748年)に遠江国司(現在の知事にあたる)であった天武天皇の曽孫桜井王(さくらいおう)が、遠江国府の守護として赴任された時、遠江国内がよく治まるようにと府内に奉られたのが、この神社の始まりです。
 遠江国府
は、最初に現在の二之宮・御殿地区に勧請
(かんじょう)され、その後、見附地区に移転されるまでの間、一時、府八幡宮内に置かれていた、と伝えられている。


<国 府>
 こくふ

 国府は、日本の奈良時代から平安時代に、令制国の国司が政務を執る施設が置かれた場所や都市を指す。国衙ともいう。

<国 司> こ く し

 国司は、古代から中世の日本で地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で四等官である、(かみ)(すけ)(じょう)(さかん)等を指す。郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持っていた。

<遠江国府八幡宮の三祭神>

仲哀天皇
(足仲彦命・たらしなかひこのみこと)/御父君
神功皇后
(息長帯比売命・おきながたらしひめのみこと)/御母君
応神天皇(誉田別命・ほむだわけのみこと)/主祭神(御子)

 八幡神は、応神天皇を主神として、母親の神功皇后、比売大神(ひめおおかみ)を合わせて八幡三神するところが多いが、比売大神に代わって応神天皇の父である仲哀天皇を祭っているところもあります。府八幡宮もその例です。武内宿禰を祭神としてお祭している神社もあるようです。


八幡宮の総元締である九州宇佐八幡宮は、比売大神をお祭している。

比売大神は、多岐津姫命(たきつひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、多紀理姫命(たきりひめのみこと)のことで、宗像三女神(むなかたさんじょしん)とも呼ばれる神で、宗像大社の祭神としても有名です。

国府が二之宮、御殿地区から移転したのは、海水の浸食化が進んで危険な状態になったため、移転を余儀なくされたのではないかと推測されている。

鎌倉時代になると、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が建武の新政を始めたとき、秋鹿家がこの地に来て、国府の跡地にお屋敷を建て、府八幡宮の神主を務めた。その後、徳川家康にその地を譲り、家康が御殿を造り、秋鹿家は久保村に移転した。

府八幡宮境内には、徳川二代将軍秀忠の娘・和子(まさこ)が建立した江戸時代の建物(楼門等)が現存している。
明治の神仏分離迄は神宮寺(阿弥陀如来)を祀り、死後の西方浄土への帰衣をも願い、現世と来世とを安堵する神社であった。


武内宿禰(たけのうちのすくね)は、長く天皇家に仕えた伝説上の家臣で、特に神功皇后を助けた人物である。成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇に仕えた初期の大和朝廷の大臣で、超人的な長寿で有名です。

神功皇后は、九州から朝鮮半島に渡り、自ら弓を取り、いわゆる「三韓征伐」をしたといわれている。

「遠州中泉」という呼び方は、江戸時代になってからのものである。






 奈良時代、聖武天皇は都である平城京に東大寺を建立、各国に国分寺の建立を命じた。
遠江国にも国分寺(現・磐田市国府台)が建てられた。

 遠江国の国司として赴任した桜井王が聖武天皇に宛てた歌が残されている。

 桜井王は、この地から歌を一首、聖武天皇に送った。
天皇も早速返歌をお返しになった。
これが「万葉集」に残っている。
 *万葉集(4500首)7〜8世紀


 奈良時代・府八幡宮を勧請した遠江守桜井王が渡ってくる雁の群れを眺めながら、遠い奈良の都を慕って詠(よ)んだ歌
(万葉巻第八・1614)






『九月のその初雁の使にも思ふ心は聞こえ来ぬかも』
(ながつきのそのはつかりの使いにも思うこころは聞こえこぬかも)



【訳】 九月になるとやって来る初雁、その初雁をお使いとして、はるかに思いやって下さるお気持ちが、ここまで届かないものでしょうか。秋に南下する雁を、遠江から都へ「思う心」を伝える使いに見立てた歌。

 その歌に対して聖武天皇は都より遠江の桜井王を偲んで返された歌。(万葉巻第八・1615)




『大の浦のその長浜に寄する浪寛けく君を思ふこのころ
(おほのうらの そのなが浜にきする波ゆたけく君を思うこのころ)


と返歌されました。

【訳】
 大の浦のその長浜に寄せる波のように、ゆったりと君を思うこの頃である。

 「自分を思って下さるというお気持ちを初雁の便りにでもお聞きしたい」と言ってきた桜井王に対し、「あなたはご無事だと安心している」と応えたもの。個人的な親近感あってこその贈答と思われるが、天皇の国司に対する信頼感もおのずと漂ってくるかのようで、まことに帝王らしい堂々とした歌。

【説明】
 “大の浦”とは、
 弥生時代には東海道新幹線の辺りまで海であったことが分かっているが、いつ頃まで海であったかは定かではない。安政の大地震で御前崎が5m位隆起したといわれていることから、その影響でこの辺りも現在のように陸になっていったのだろうか。
 桜井王がいた頃の天平時代には御殿地区の南側が入江になっていたことからここを“大の浦”と呼んでいたのか?
 それとも、その東側に中泉と城之崎の丘陵地帯に挟まれた場所、現在”今之浦”と呼ばれている地区がある。そこが“大の浦”と呼ばれていたのか?

ここは府八幡宮から東に見下した位置にあり、その北地区は見附宿である。

 御殿地区の地名の由来は、徳川家康の御殿があったため、それに因んで明治後期に付いた町名だ。家康が浜松城にいた頃から、ちょくちょく、ここに来て釣りや鴨狩りを楽しんだり、“冬の陣、夏の陣”の時には此処で秘密裏に作戦を練ったのではないか?といわれている。

 この地区の遺跡調査に於いて、弥生時代から江戸時代に於ける様々な住居跡、井戸、塀などの遺跡が見つかった。時の豪族が好んで住んでいた場所である。桜井王も此処に・・・!?興味は尽きません。



*玉匣社山車の後ろに掛かっている「見送り幕」にこれらの歌が刺繍されています。






 日本には天照大御神
(あまてらすおおみかみ)をお祀りする伊勢の神宮をはじめ、多くの神社がお祀りされています。日本人の信仰は、人々の生活の中で培われ、人々の神々への祈りによって、神社が創建されました。神社は、地域の崇敬を集め、「お祭り」を通して常に地域の発展、人々の繁栄が祈られてきました。

 神社の入り口には、そこが神様をお祀りする神聖で清らかな場所であることを示す、鳥居が立っています。鳥居は、古くから日本人が神聖なものを表すシンボルとしてきました。神社の本殿は、神々のお鎮まりになる殿舎です。その他にも多くの神々をお祀りするための施設があります。

 神社の建築様式には、神明造り
(しんめいづくり)、大社造り(たいしゃづくり)、春日造り(かすがづくり)、流造り(ながれづくり)、権現造り(ごんげんづくり)などがあり、いずれも時代ごとの技術の粋が集められた様式です。神社の建物は、周囲の森や景観にとけこむように、自然と調和して建てられていることが特徴的です。神社は、私たち日本人の祈りと技術とが作り上げた、聖なる造形といえるでしょう。

 府八幡宮の本殿の形式は、「三間社・流れ造り」です。流れ造りというのは、切妻造りで平入りの建物ですが、前の屋根が曲線的に前に伸びていて後拝となっています。

 神社では、年間を通じて様々な「お祭り」が行われます。

 春にはその年の豊かな実りを祈る春祭り祈念祭
きねんさい)、夏には、五穀豊穣を願い、作物への災害と人々への災厄を祓う・夏祭り、秋には収穫を感謝する秋祭り新嘗祭(にいなめさい)が行われます。冬には新しい年の生命を育む・冬祭りが行われます。
 
 四季の節目ごとに、また、生産生業の段階ごとに、お祭りは行われます。

 お祭りは、季節ごとに神社の神様の神徳を讃え、感謝の気持ちを表し、すべての人々が豊かな社会生活を営むことができるように行われます。神社では、個人の祈願も行われますが、神社の本義は公共的なものであり、本来は地域の人々によってお祭りが営まれてきました。

 お祭りは、日本人がもっとも日本人らしく振る舞う場面であり、私たちは、お祭りを通して、今日まで神社の信仰を伝えてきました。お祭りは神と人、人と人とを繋ぐ、大切な信仰的、文化的なコミュニケーションの場でもありました。









昔の楼門/現在楼門前にある一対の石灯籠は無く、左奥に見える白壁塀は今は無い。


 八幡神社の御祭神は、第15代・応神天皇(おうじん てんのう)=(誉田別命・ほむだわけのみこと)・御母の神功皇后(じんぐう こうごう)=(息長帯比売命・おきながたらしひめのみこと)比売大神(ひめおおかみ)の三神で、応神天皇の御父にあたる仲哀天皇(ちゅうあい てんのう)=(足仲彦命・たらしなかひこのみこと)、御子の仁徳天皇(にんとく てんのう)をあわせて奉る場合や、玉依姫命(たまよりひめのみこと)をお奉りする例などもあります。

 『日本書紀』によると、仏教が日本に正式にもたらされたのは欽明天皇13年(552)のことで、受け容れるか否かをめぐって、他の国はみな信仰しているという賛成意見と古来の神が怒るという反対意見に分かれたという。

 その後しばらくの間、仏と神の関係で目立った動きはないが、八世紀半ばになると、神が仏に帰依する、ときには神が菩薩になるという、両者の不思議な接近がみられる。これは仏教側からの接近と思われるが、神の方から積極的に仏教に接近したのが九州の宇佐の神である八幡神である。

 八幡神が資料に登場するのは天平9年(737)のことで、八幡神は聖武天皇の信頼を得て、奉幣や封戸施入、神階叙位、あるいは宇佐八幡の神職への賜姓や叙位が行われた。平安時代中期には、日本の神々は実は仏の仮の姿であるとする本地垂迹説
(ほんちすいじゃくせつ)が唱えられるまでになり、八幡様は阿弥陀如来の仮の姿であると考えられていたのです。

 江戸時代後期の府八幡宮境内絵図には、楼門の東側に神宮寺、本殿の東側に本地堂
(阿弥陀堂)が描かれています。

 その後、江戸時代までは、寺と神社が隣接する。神社境内に寺院が建立されたり、寺院の敷地内に神社が祭られることは、ごく一般的であった。八幡神が仏の姿で現されるのもそれ故である。府八幡宮にも神像が祭られていました。人の目には見えない神様を仏像のように彫刻して祭っていたのです。僧形八幡像
(そうぎょうまちまんぞう)といいます。今も宝物庫に社宝として残されています。

 八幡信仰は、大分県宇佐市の宇佐神宮
(明治4年までは宇佐八幡宮)に始まったといっても過言ではない。その後、源 義家(幼名・八幡 太郎/はちまんたろう)が石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう/京都府八幡市/貞観二年・860年勧請)の社前で元服をした機縁で源氏の氏神となり、さらに源 頼朝により鎌倉に鶴岡八幡宮が創建されてからは、武家の守護神として各地に勧請されました。

寛平年間(889〜898)には、薬師寺に休ヶ岡八幡宮が勧請されました。
 


全国の神社分類

 2007年2月22日(木)の朝日新聞に掲載された國學院大の岡田荘司教授(神道史)らのグループの研究をまとめたものが発表された。

 それによると各神社に祭られている祭神による包括的な信仰による分類を行った。八幡神社、八幡宮、若宮神社、若宮八幡神社などは、名前が違っても同じ八幡信仰とした。神明社、皇大神社、天祖神社、大神宮などは伊勢信仰に天満神社、天神社、菅原神社、北野神社などは天神信仰に取りまとめて分類した。

 その結果、
@八幡信仰=7817社 J春日信仰=1072社
    A伊勢信仰=4425社 K愛宕信仰=872
B天神信仰=3953社      L三島・大山祇信仰=704
C稲荷信仰=2970社 M鹿島信仰=604社
D熊野信仰=2693社     N金毘羅信仰=601
E諏訪信仰=2616社 O住吉信仰=591社
F祇園信仰=2299社 P大歳信仰=548社
G白山信仰=1893社 Q厳島信仰=530社
H日吉信仰=1724社 R貴船信仰=463社
I山神信仰=1571社 S香取信仰=420社
   以下、えびす、浅間、秋葉、荒神、賀茂、水神 と続く。

 この分類に対しては、それぞれの見識による異論はあると思うが、神社本庁の「全国神社祭祀祭礼総合調査」(1995)のデータを用いた神社名による単純集計はあったが、どんな神社がどこにいくつあるのかが、初めて示されたことは、大変貴重なものである。




       


【浜垢離】
 例祭に先立ち、宮司以下神職、祭典役員が身を浄めるために、早朝、遠州灘の浜に出向き、禊ぎをします。これを浜垢離といいますが、禊ぎの後、浄めのしるしとして「清め砂」(浜砂)を持ち帰り、神輿渡御の際に世話係二名が後ろ向きになって御神輿が通る順路に砂を蒔き清めます。(各町世話係が自町内を担当する。) 


「清め砂」=神道には水と塩で不浄の物を清め祓うという習わしがある。地鎮祭等にも使われる。

【当日祭】
 神社本殿にて宮司以下神職、宮世話人が10月 1日(14:00〜)を本来の当たり日として、大神様をお奉りします。

【前夜祭】
 例祭前夜(19:00〜)、いよいよ明後日に控えた祭の執行を大神様に御報告いたします。

【例 祭】
 毎年10月第一土曜日(10:30〜)、府八幡宮では例祭が厳かに執り行われます。参加者は、神職、氏子総代(宮世話人)、崇敬会、祭典委員、来賓、舞子、各町中老、世話係です。
 祭は、本殿東側・祓場において参加者全員のお祓いから始まり、拝殿に上がって神に神饌を献じて、宮司が国の平和と氏子の安泰を祈り、参列者も玉串を捧げ、舞子は浦安の舞を奉納して泰平を願います。神事がすべて行われた後、神に捧げた神酒をいただいて終わります。

*明治時代の例祭は、旧暦の8月15日に執り行われていました。

 例祭の前に世話係外交が午前8時に神社に集まり、山車の運行順番を決めるくじ引きを行います。「山車抽籤祭」

【夕 祭】
 毎年10月第一土曜日(20:00〜)、神社本殿にて宮司以下神職、巫女が奉仕し、宮世話人、祭関係者等大勢の参列者を迎え厳かに執り行われます。
 すべての電気を消して社殿を真っ暗にして神様を御神輿に移します。

【神幸祭】《神輿渡御》
 毎年10月第一日曜日(11:50〜)、御神輿巡行に先立って、神社北東の「お清水」の広場で「命魚奉献の儀」の神事が行なわれた後、御祭神を神輿に奉遷し、氏子町内をしめやかに巡行されます。 

【御輿渡御(巡行)
 神輿は各町中老に担がれ
(現在では、御所車の上に載せて巡行する)、宮司以下神職、宮世話人、祭関係者等により執り行われます。

錫杖2名、大榊1名、金幣・銀弊2名、猿田彦
(次年度年番町大老)太鼓唐櫃弓・矢御幣稚児・舞子などの威儀物を持つ所役、供奉員(神輿に随行する所役)が従い、御神輿神官警護がお供して荘厳な行列となります。

 巡行は氏子町内を通り、石原町/田中神社、西新町/愛宕神社、西町/浅間神社、久保町/白山神社、の各御旅所を回ります。

 昔は今とは順路も違い、最後に浅間神社にお泊まりした後日、浅間神社にて還御の儀を執り行い本宮/府八幡宮に戻られていましたが、近年は諸事情により、還御の儀はお宮に戻られてから行っています。

 氏子町民は神輿巡行のお供として後に付き、各町内を曳行することを供奉(ぐぶ)といいます。本来、神輿渡御がお祭の目的といっても過言ではありません。その供奉が習わしとなっていましたが、戦後次第にお供しなくなっていましたが、20年ほど前にはその習わしを再現しようと、玉匣社の山車がお宮から久保町までの間をお供しました。それも数年間でとぎれてしまいました。

 平成20年度の第1回祭典委員会の場で宮司から伝統を再開することの要望がありましたが、残念ながら実際には実行している町は少なく、未だ実現には至っていませんが、これからに期待したいものです。

昔のままに全山車が供奉することが望ましいのですが、それは難しいので、自町又は可能な区間のみのお供で行えば良いと思います。






平成22年度府八幡宮祭事予定表


元旦祭
1月1日
午前11時


節分祭

2月3日
午後3時


祈年祭

2月17日
午前9時


春分祭
3月21日
午前9時


末社祭
3月21日
午前9時


昭和祭
4月29日
午前9時


東照宮祭
6月6日
午前9時


夏越大祓式

6月30日
午後2時


伊雑宮祭

7月7日(弁天)
午前9時


児童祈願祭

7月下旬〜
   8月上旬
午前9時


物故神職総代
慰霊祭

9月15日
午後3時


秋分祭

9月23日
午前9時


 浜垢離
上 記
午前11時


 当日祭
10月1日
午後2時


 前夜祭
10月第一金曜日
午後7時


 例 祭
10月第一土曜日
午前10時半


 夕 祭
十月第一土曜日
午後8時


 神幸祭
十月第一日曜日
午前11時50分


七五三
10月中旬より
随時



新嘗祭
11月23日
午後3時


天長祭
12月23日
午前9時


大祓式
12月29日
午後2時


除夜祭
12月31日
午後11時


地鎮祭
結婚式

お祓い(車等)
個別祈願


上記のようにお祭りを行いますので、御町内の皆様方、多数御参拝下さい。
毎月1日(1月・10月を除く)午前9時に月次祭を行っていますので、ご自由に拝殿に上がって、ご参列下さい。
車のお祓い、初宮参り、地鎮祭他諸祈願、神前結婚式等、毎日御奉仕致します。
節分祭の年男、年女の募集をしております。(1月10日締切)
祈年祭、例祭、新嘗祭には、“浦安の舞/豊栄の舞” 奉納の予定があります。

府八幡宮
0538−32−4762





楼門/寛永12年建立(1635)・県指定文化財



楼門から中門へ


中門と本殿
中門寛永12年建立(1635)



中門下からの拝殿/元和3年建立(1617)



拝 殿



本 殿




 中泉御殿と中泉代官所 市内詳細地図  遠江国分寺
 旧見附学校  桶ヶ谷沼  日本神道
 秋 鹿 邸  磐田駅今昔  磐田駅前商店街
久保村絵図  

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