高橋 一良 
(磐南文化協会会員)



【はじめに】

明治、大正と中泉府八幡宮祭典の余興について「明治期の府八幡宮祭典」「大正期の府八幡宮祭典」という拙稿で論考を進めてきた。
 
明治期は資料も乏しく落ち穂拾いの如き観は否めないが、従来までの論考に新しい資料を加え現状の集大成とすることができたと思う。大正4年以降は余興の正式な記録『集会申合規約及記録』等が残されているため、これを丹念に読めば相当なことがわかる。
 
これらが残され、そして現在までその「記録」と「資料綴り」を正式な祭典組織「府八幡宮祭典委員会」が継承していることは誠に幸せなことであり、貴重な民俗資料として大きな価値を持っている。  
しかし、その年々の祭青年(世話係)が、記述した内容には、祭典余興の歴史全体を俯瞰する視点は皆無とはいわないが乏しい。これはいたしかたないことだといえよう。

従ってこの貴重な一級一次資料を基に、中泉祭典余興庶民史を敷衍する作業はそれなりに意味があることだと考える。その技量到底及ばないが、大正期に引き続き昭和以降の祭典余興史を構築してみようと思う。

【江戸後期から大正まで】

まずは、大正以前の祭典余興について簡単に振り返る。
 (詳細は前出・拙稿参照)

おそらく江戸末期には、山車を出す祭典余興が行われていた。その頃は「久保若」「西若」「東若」の三連だったと思われる。

明治六年に久保若が分かれ玉匣社が創設されたという記録があるので、同じ時に盛友社(田町)石溪社(石原町)が始まったと想像できる。こうして明治期には、それぞれの町内が「連」をつくり一基の山車を動かすようになった。  

いつ、どの町内が山車を有したかという記録はわずかしかない。しかもそれが最初の山車かどうかも判然としないため、明治時代は最大九つの「連」があり、大正4年に新栄社(栄町)が加盟し初めて「十ヶ町組織」ができたということまでしか言えない。

山車のコースについては、大正期のものが明確に残されているため、明治期にも同様のコースで祭典余興がなされていたのではないかと想像できる。
 
それは、初日、二日とも八幡宮に参集し、初日は東西二組に分かれ、二日目は全町が神輿巡行のお供をしほぼ同様のコースをとるというものである。
 
まさに神事と不可分の余興が実行されていた。祭典日については明治42年までは、毎年祭典日が変わる旧暦の8月14、15日、43年から新暦9月14、15日に固定された。大正11年には10月1、2日に変更された。

【規約の変更】

昭和という時代も大行天皇の大喪と新天皇即位の儀式で始まった。世相は、共産主義者への取締り、金融恐慌、米の暴落、農村の疲弊、戦渦の始まりなど、概して暗いものだった。
しかし大正に生まれた宝塚歌劇団は昭和2年日本初のレビューを公演、昭和11年にはプロ野球が始まるなど日本人の生活は欧米に真似た近代的な暮らしに近づいてもいた。

中泉はまだ中泉町だった。見付町、天竜村、西貝村と合併し磐田町となるのは昭和15年11月である。昭和2年、昭和最初の年番は、前年に東新町から名前を変更した中町だった。当番という呼び方が年番に変更されたのは、大正14年の「八幡宮祭典余興申合規約」による。以下同規約。

【八幡宮祭典規約余興申合規約】
<大正十四年九月改正>

第一条

八幡宮祭典ニハ山車ヲ出ス事

第二条

各町集会ハ九月一日トス
但、臨時祭典ノ場合ハ其都度之ヲ定ム

第三条

各町集会ニ於テハ各町世話係二名出席シ祭典に関する一般事項ヲ協議スルモノトス 
但、年番ハ世話係三名出席ノ事

第四条

各町集会ニ於テ決議シタル事項ハ厳守スル事 
但、特別ノ事情アル場合ハ再集会ノ上変更スル事ヲ得

第五条

決議ノ方法ハ多数決トス
但、年番ハ決ニ加ハハザル事

第六条

各町ニ関スル一切ノ事務ハ年番ヲ定メ之ヲ処理セシム。
但、奥久保、西町、東町、七軒町、東新町、西新町、坂ノ上、石原、田町、榮町ノ順序ヲ以テ定ム

第七条

年番ノ任期ハ一月一日ヨリ十二月末日ニ至ル満一ケ年トス

第八条

年番ノ任務左ノ如シ

一、 

各町集会ヲ召集スル事

二、 

祭典ニ付山車引廻シニ関スル許可ノ申請ヲナス事

三、 

経路ノ注意

四、 

記録及会計

五、 

其他


第九条

臨時各町集会ヲ希望スル場合ハ他ノ二ケ町以上ノ同意ヲ得テ年番ニ申出ズル事 但シ年番ハ必要ニ応ジテ臨時各町集会ヲ召集スル事ヲ得

第拾条

本規約ハ各町集会ノ決議ニ依リ変更スル事ヲ得

<内規>


第一条

祭典中ハ特ニ親睦ヲ旨トシ紛擾ヲ起サザル事

第二条

万一紛擾ヲ醸シタル場合ハ年番之ヲ処決ス

第三条

第二条ニ関スル各町集会ノ決議ニハ絶対ニ服従スル事

第四条

如何ナル事情アリト雖モ故意ニ他町ノ山車ヲ毀損ス可カラズ之ヲ犯ス時ハ事ノ如何ヲ問ズ除名処分ニス
     以上

傍線の箇所が大正4年規約になく、新たに追加変更された部分。当番が年番となり、大正14年の記録の冒頭署名に初めて「年番東町」と書かれた。前年までは「当番西町」だった。
第五条の年番は決議に加わらないというのは、大きな変更である。決議権数が九となり、多数決ならば5対4でシロクロがついてしまうからだ。  
また、注目すべきは「内規」が追加されたことだ。その内容は、大正の終わりから頻発していた紛擾・対立への対応策となっている。中立性を保つために議長である年番の議決権を無くす一方、内規によって非常事態への年番の権限を強化している。
良くも悪くも現在の中泉の祭の特徴は、山車のコースが固定ではなく、毎年集会によって決まることだ。
しかし、明治、大正、昭和初期とほぼ固定していたコースが、徐々に年がわりのものに変わっていった最初の要因は、大正9年のある事件に求められる。

【廻路及宮詰時変更案】

それは「大正期の府八幡宮祭典余興」の中で指摘した御神輿のお供をする経路(榮町付近)において予定時間にズレが生じ神輿と山車が摺合いをしてしまった事件だ。
 
この時は「栄町ニ於テ山車トノ摺合ヲ致シタコトニ関シ各町世話係二名浅間神社ニ参集シ神社側ヨリ注意有之自今山車ハ御輿ノ御供ヲナシ引廻ス様懇々談合アリタリ」と記録され治まったかのように思われた。

ところが、7年後、昭和2年9月18日西町中老より「山車廻路及宮詰時変更案」が各町中老会に提出された。年番中町もこれを受け規約第九条に基づき、臨時外交集会を開催するはこびとなった。  

つまり、9月1日の八朔集会(会場・西町魚弥太)において決定していた例年のコースを変更するよう中老会を通じて申し出たところ、年番はこれを集会に掛けることを承諾し、臨時外交集会が年番の権限で9月22日中町集会所に召集されたのである。しかし、規約第四条の「特別の事情あるや否や」を図ったところ、投票結果は3対6で否決であった。

西町は昭和3年(年番・西新町)にも今度は世話係として八朔集会(会場・西新町小清水)に「神輿渡御に基づき山車順路変更案」を提出する。議論百出の大議論となるが、投票の結果四対五で否決される。これで2年続けて西町案は拒否されたことになる。

西町は執念を燃やし昭和4年(年番・坂之上)にも変更案(新コース案)を、八朔集会(会場・田町開莚楼)において二日目行路協議の際「山車行路が神輿と逆コースを辿り如何にも不敬に当たる」という理由で提案する。栄町、石原は反対、奥久保は賛成など大激論となり、年番は3回も休憩を取る、意見聴取のため退席するなど、八朔集会始まって以来の異例の集会初日となった。結局無記名投票により、西町案賛成3、反対5、無効1でまたもや否決となった。  

西町提案の新コース案は「別紙に掲載」と記録にはあるが残されていない。その為具体的論点が残念ながら明白ではない。

【西町脱退事件】

西町は「否決されたこと」ではなく「神輿に向って逆コースを辿る事は神に対して不敬の為に忍びず」という理由で組織からの脱退を申し込んだ。9月2日、続いて各町集会が開催され、西町脱退問題が協議された。脱退は認めない、自由行動は認めないなど七項目を決定し、西町に示した。が、西町は一切拒否の構えを崩さないため、再度協議の結果、西町の脱退を承認、自由行動を許可しないと決定し集会を解散する。当然西町は、前項は承諾するが、後項は納得しない。

この後祭典当日の様子が報告されていないために、西町山車がどのような行動をとったのか、脱退の状態がいつまで続いたのか不明である。但し、年番は調停に乗り出す用意があることを9月2日集会最後に示唆し各町の理解を求めている。
 
また9月27日には各町集会(会場・田町フレンド)を開催し、次年度へ向けて二つの協定を結んでいる。一つが、二日目コースの変更で、東西を入れ替え、初日コースの逆コースを行うということ。もう一点は、神輿に世話係各町一名以上お供することだった。この集会に西町が出席していたのかも不明だし、この協定が西町を納得させるものだったのかなども判然としない。ただ、翌昭和5年(年番・石原町)の集会には何事もなかったように西町は出席している。

【年番辞任】

昭和5年の各町集会(会場・石原町松葉楼)は、前年の協定に基づき年番が新行路案を提案し、数時間の「理由研究」の後「大多数決」で承認された。ところが、東町、栄町、七軒町、中町から変更要求の共同動議が提出され、7日臨時各町集会が田中神社社務所で開催されることとなった。  
西町、奥久保、坂之上、田町の四町はこれに反発。提案四町側に西新町が加わり、五ヶ町対四ヶ町の対立は、四ヶ町側が別行動を希望する決議書を提出するに至り決定的なものとなってしまった。

12日より年番石原町は各町を訪問し意見を聞き最大限の努力をするが「年番立場を失う」までになってしまう。そしてついに光明を見いだすことなく集会は閉会となってしまった。おそらく中老の仲介などがあったのだろうが、21日、「特別臨時集会」という聞き慣れない名前の集会が持たれることとなる。ここで年番は和解案を提案する。
 
四ヶ町側は賛成するが、五ヶ町側は不賛成となり、年番は「立場上止むを得ず任務を辞す」こととなってしまった。石原町を除く九ヶ町は会議を開き、年番の留任を一致して求めた。石原町は「会議の目的は和解を念頭にすることを約す」を条件に再び年番の座に就いた。
 
一瞬のこととはいえ、年番辞任は史上初の事態であった。結局和解委員を西町、西新町、東町から二名選出し年番と新和解案を内定。各町集会で満場一致可決された。ここでも修正案コースなどが残されていないために、具体的な検証を行うことはできない。

言えることは、明治、大正、昭和初期と続いた固定コースが、ここに来て一部変更され、各町集会の場で山車コースを激しく議論する土壌ができたということであろう。
 
その要因は、神輿と山車がすれ違うのは不敬であるという大義だったものが、徐々に各町のエゴや体面、地域性に変化しているように思われる。また、外交や世話係にとって、自町の誇りを掛けて他町の代表とやり合うことは、非常に魅力的な面白いものであるのは間違いない。
 
昭和の初期には、八朔集会一夜のみでコースまで決まっていたのが、ここにきて臨時集会や特別臨時集会などというものが生まれ大いに揉めている。現在まで続く府八幡宮祭典余興の準備の仕方が大きな変化を遂げ始めているといえよう。

 その端緒は、昭和2年西町が提出した「山車廻路及宮詰時変更案」にあったのである。

【朝帰りの祭】

昭和5年の記録に、訪問の際は黒名刺、答礼には赤名刺を使うよう変更するという箇所がある。外交または世話係は会所を訪問した(「わたりをつける」という)時に、当時は名刺交換をしていたことがわかる。また各町の外交は「白の山形徽章を左腕に付すること」とあり、現在の外交腕章とは違う形だったこともわかる。

昭和6年、田町が年番を務める。記録には揉め事や議論があったことなどは書かれていない。有り難いことに、この年の「各町集会決議事項」が残されており、おそらく前年年番石原町が苦労して調停した「新和解案」なるコースがここに書かれているものだろう。

これによって、昭和6年の祭典余興を再現してみよう。初日は東西に分かれた大正期のコースとほぼ同じで、伝統が継承されている。
正午、一番から順次自町を出発し、午後2時までに八幡宮へ参集する。

(※1)西班は午後5時半、東班は8時半出発である。記録と照合すると、西班は午後11時半石原で解散、東班は午前1時半西町で解散している。  

問題は二日目のコースだ。西町からの変更提案、同町の脱退事件、石原町年番辞任問題などここ数年の様々な事象を経て新和解案となったのがこの部分だからである。
 
二日目の第一回のコースは、西班と東班を入れ替えて行った。つまり、西班の五ヶ町が前夜の東班のコースを逆に辿り、東班の五ヶ町が、前夜の西班のコースを逆に辿り、御神輿出発前の時間(夕方)までに宮へ戻るというものである。
 
記録によれば、東西とも午後4時半に宮西大通りに参集した。神輿は拝殿を出て、いったん「命の魚の儀」を境内北東にある御清水付近で執行するため、鳥居外まで出てくるには時間がかかる。それでも、この年は午後5時には、山車十台も神輿の列の後ろにつき出発できたようだ。  

中町、東町、七軒町各停車、中泉駅前にも5分停車、栄町停車、石原十分停車、田町小路を通り、坂之上停車、西新町停車(亀屋付近にも少分間停車)、折り返し、坂之上通過、田町停車、西町20分停車、奥久保停車、奥久保出発が午前四時。八幡宮に還宮し午前6時、各町世話係二名が参列し、神前で終了式を挙行、「各町満悦裡に解散」したのである。山車の格納は一体何時になったろうか。

こう見てくると、二日目も大正期のコースと基本は変わっていないことがわかる。だから、全く白紙で臨む戦後のコース決定とは大きく違うとは言える。但し、繰り返すようだが、山車コースは永久的なものではなく、話し合いによって変更することができるという事実が祭青年に刷り込まれたのは間違いない。

【宮の希望で変更】

こうして、昭和7年には西町対西新町事件(西町某氏が西新町某氏と口論の末、頭に傷を負わせたことに端を発した山車運行に関わる事件)はあったものの、7年(年番・栄町)、8年(年番・奥久保)はコースに変更なく終わった。9年(年番・西町)には、宮側(この時の社司は秋鹿朝成氏)から祭典に関し「種々希望あり」、八朔集会(会場・駅前友愛館)では「各町共反対意見続出し相当論戦を交えて」コースを以下のように変更した。  

初日は、東西班とも西町、石原解散後、御神霊移行式に参加するため、もう一度宮へ参集する。二日目は、一回目の東西入れ替えコースを取りやめ、大正期前期のとおり十ケ町十台コースのみとした。なお、石原は現在の山車を新造したが、その新調披露の為に、初日同一行動に遅れ、西班の行動はなんと3時間遅れとなった。

【久保川端が初めてコースに】

昭和10年(年番・東町、八朔集会会場・駅前大塚屋)にも、大きなコース変更があった。  
大変揉めた集会となり、年番がいったん辞職するという事態にもなった。8月28日(※2)久保町、石原、田町が「第一日山車引廻し経路一部変更の件」を提出した。これが、その後の山車コースを大きく変えた「田町から久保川端を通り久保町へ」というコースの誕生である。
 
それまでは、必ず田町、西町、久保町、その逆も久保町、田町とは行かず、必ず西町を経由していた。その理由は、おそらく浅間神社というお旅所が西町にあったからだろうと思われる。それが神事に対応した山車運行の伝統だった。これを変更しようというのだから、簡単にいくわけがない。この年も二日目の神輿お供十台コースは、例年通り田町から西町を経て久保町に入っている。

結局、辞職まで覚悟し努力奮闘、変更案を可決させた年番に敬意を表したのか、初日西班コースは最終、田町から川端を経て久保町停車後、(現在の)五差路を右折いったん西町地内に入り「繭市場通り」(現在のかにやの通り)を通り、東町中町を通過し八幡宮に参集することとした。この変更コースも伝統的なコースをベースにしている。

翌昭和11年(年番・七軒町、八朔集会会場・三浦家)はコースの変更なく、境松区(現・中央町)に会所が設置されたため、各町山車通過の際には挨拶することを承認した。

【戦争突入、山車出せず】

昭和12年7月7日夜、北京郊外の蘆溝橋で日本軍に向け何者かが発砲した。いわゆる「蘆溝橋事件」が勃発、当時シナ事変といわれた日中戦争に突入する。この年の年番は中町、八朔集会は吉例どおり9月1日東町鳥伊佐で開催された。
 
結局、9月20日「時局重大に鑑み」山車を出さないことに決定する。以下16年まで山車引廻しは基本的に中止となる。この中止に祭青年がすんなりと頷いたとは思えない。
 
現に、町長自身が青年たちを説得する場面などの記録が残る。14年9月5日の記録には「町公会堂に於て午後八時半町長司会者として審議に入り種々意見の発表あり。事変処理途上にある今日山車引廻しは遠慮すべく申し述べ…」とある。
 
13年(年番・西新町、八朔集会会場・西新町魚清)には、現在の坂上町山車が新調され上棟式が行われている。  
戦争となり兵隊にとられ始めた仲間がいる(大正13年以降残る『玉匣社祭典若者名簿』には、昭和13年から「出征中」の記述が出てくる)とはいえ、青年たちは山車引廻しが中止になったことを歯噛みする思いでいたに違いない。
 
15年(年番・石原、八朔集会会場・開莚楼)には、山車を出すと決議した祭青年と区長(現在の自治会長)とが対立する町内が続出、中町は世話係総辞職にまでなってしまう。  
警察もいったんは内諾した引廻しを「絶対に遠慮せよ」と年番を派出所に呼び出し申し渡した。
ところが、実際には山車引廻しを実行してしまったようで、10月10日、見付警察署に祭典役員全員が呼び出されお叱りを受けている。
更にこの年は皇紀2600年の奉祝式典が全国的に行われた年である。11月11日、雨の中ではあったが、東西班に分かれたコースを引廻した。

【栄町、山車奉納を実現】

昭和12年以降、山車引廻しは事実上禁止となった。戦時状態の生活が続きフラストレーションが溜まっているのは容易に想像できる。当時の人々は、その時代を精一杯生き、真剣に日本の行く末を考え、16年から始まった日米戦争の勝利を信じていた。
 
現代人の目でそのことを批判することは無意味なことだ。17年に年番を務めた栄町の人々は、山車を出すための戦略を練った。それは、対磐田町長であり、警察であり、国家であった。戦時という重大時局に、笛や太鼓に浮かれ騒ぐのは良くないが、戦いの勝利を祈願し山車を神社に奉納するならば、誰も文句を言わないのではないか。おそらく栄町の知恵者はそう考えた。

八朔集会(会場・西町魚弥太)から年番はこの方針を明確に打ち出す。記録には「本年は、山車引廻しの行事は祭典と一体不離の関係にあるものなりの信念のもと、山車を社前に奉納することに大綱を定め、綱目は各町より一名委員を選出して定めることに決議…」と書かれている。  

委員会は、山車奉納の趣意書を作成し、役場町長、警察署長らを説得、理解を求め成功する。各区長(自治会長)の同意も取り付けるなど、委員会は懸命な努力を続ける。9月30日午前11時には警戒警報が発令されるという状況の中、警察現場も昼間の引廻しに承諾を与える。  

10月1日に警戒警報解除され、2日、3日と12年以来の山車奉納がなされた。各町の山車は、宮に集合し、初日は神事の後、そのまま町内に帰り、二日目は御神輿の渡御を自町まで警護し、それぞれ帰町した。

【そして敗戦】

18年(年番・久保町、八朔集会会場・開莚楼)19年(年番・西町、同・魚弥太)と同様な方法で山車奉納が実施された。

記録の最後署名に18年初めて従来の久保町ではなく「玉匣社」と記し、19年、冒頭署名には西町ではなく「鑾留閣」と記した。19年記録の記述方法は、従来の町名ではなく、社名を使用している。当然、最後の署名も鑾留閣である。その記述方法が戦後継承され今日に至っている。

昭和19年の玉匣社祭典若者名簿によると、若者が90人、うち世話係12人、中老は11人となっている。若者のうち、12人が学生、7人が出征中と記されている。

20年2月15日、栄町・新栄社山車が空襲により焼失した。この山車は大正2年に田町が現山車を新調するまで使用していた由緒ある二輪山車だったのだが…。

昭和期戦前の祭典余興、山車引廻しを整理すると次のような時代区分となる。

昭和2年から11年、大正期の伝統的コースを継承しながらも徐々に変更をしていった戦前の最も華やかな祭典が行われた時代。

昭和12年から16年、シナ事変に始まる戦渦のため、山車引廻しを中止さざるを得なかった時代。

昭和17年から19年、栄町を中心に青年たちは「山車奉納」という手法を編み出し、山車引廻しを短時間だが味わった時代。

かくして昭和20年8月15日、日本の敗戦が国民に知らされる。

その年の9月1日八朔集会まで二週間しか残されていなかった…人々は想像を絶する混乱と貧困の中にいた…マッカーサーは厚木へ降り立った…年番・東組は各町集会の通知を出すことができたのだろうか。敗戦という時代の巨大な溝、それを乗り越え中泉青年たちは祭典余興を継続していくのである。


1.

本来は「西組・東組」だが、東町の社名「東組」と区別するため本稿では「西班・東班」と表記した。


2.

奥久保は昭和九年「久保町」と改名した。

       

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