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三英傑年表
年代 | 織 田 信 長 | 年代 | 豊 臣 秀 吉 | 年代 | 徳 川 家 康 |
1534 1539 1548 1551 1553 1555 1556 1557 1559 1560 1562 1563 1567 1568 1569 1570 1571 1572 1573 1574 1575 1576 1577 1578 1579 1580 1581 1582 |
織田信秀の子として勝幡城で生まれる。 那古野城を与えられる。 斎藤道三の娘・帰蝶と結婚する。 信秀の死により家督を継ぐ。 傅役・平手政秀が奇行著しい信長を諫めるために自害する。 尾張・正徳寺で斎藤道三と会見。 尾張下四郡守護代・清州織田家・織田信友を攻めて清州城を手に入れ、居城とする。 斎藤道三、長良川の戦いで討死。 弟・信勝が謀反。稲生の戦いでこれを破る。 再び謀反を企んだ信勝を自ら殺害。 上洛して足利義輝に謁見。 尾張上四郡守護代・岩倉織田家・織田信賢を追放して尾張を統一する。 桶狭間の戦いで、今川義元を討ち取る。 清州同盟。松平元康(家康)と同盟を結ぶ。 清州城から小牧山城に居城を移す。 近江の浅井長政に妹・お市を嫁がせる。 稲葉山城攻め。斎藤龍興を追放して美濃を平定し、井ノ口を岐阜と改名する。 伊勢に侵攻を開始する。 足利義昭を奉じて上洛。義昭を室町幕府15代将軍の座につける。 本圀寺の変。足利義昭が三好三人衆に襲われるが救出する。 次男・信雄を養子にすることを条件に、伊勢国司・北畠具教と和睦(事実上降伏させる)。 足利義昭に諫言。義昭との対立が始まる。 越前・朝倉攻め。快進撃を続けるが、浅井長政の裏切りにあい撤退(金ヶ崎の退き口)。 姉川の戦い。徳川家康の援軍を得て、浅井・朝倉連合軍に勝利する。 野田城・福島城の戦い。三好三人衆と戦う。本願寺が三人衆に味方し石山合戦も始まる。 ※この頃より、足利義昭が信長包囲網を築き始める。 志賀の陣。朝廷を動かし、勅命により浅井、朝倉家と和睦する。 第一次・長島一向一揆攻め。 浅井・朝倉家に加担したことをなどを理由に比叡山を焼き討ちする。 松永久秀が信長包囲網の一環として謀反。 武田信玄病没。包囲網が瓦解し始める。 槇島城の戦い。足利義昭を攻めて追放し、事実上室町幕府が滅亡する。 一乗谷の戦い。朝倉義景を自害させ、朝倉家を滅ぼす。 小谷城の戦い。浅井長政を自害させ、浅井家を滅ぼす。 第二次・長島一向一揆攻め。 松永久秀が再び服属。 東大寺秘蔵の香木・蘭奢待の切り取りを奏請して許される。 第三次・長島一向一揆攻め。伊勢を完全平定。 長篠の戦い。徳川家康に協力して、武田勝頼に大勝する。 越前一向一揆を攻略。柴田勝家に北ノ庄城と越前の地を与える。 嫡男・信忠に家督を譲り、尾張、美濃二国の支配を任せる。 丹羽長秀を総普請奉行として、安土城の築城を始める。(79年に完成) 第一次・木津川口の戦い。織田水軍が毛利水軍に大敗する。 紀州征伐(雑賀攻め) 手取川の戦い。上杉謙信に大敗。 松永久秀が再び謀反。信忠に命じて久秀を攻め、信貴山城にて自害させる。 羽柴秀吉を中国地方方面、毛利攻めの総大将に命じる。 荒木村重が有岡城で謀反。 第二次・木津川口の戦い。九鬼嘉隆に命じて鉄甲船を造らせ、毛利水軍に圧勝する。 荒木村重が逃亡。城に残っていた村重の一族、家臣をことごとく処刑。 徳川家康の嫡男・信康と正室・築山殿(瀬名姫)を、武田家内通の疑いで処刑するよう家康に命じる(諸説あり)。 本願寺顕如と和睦。石山合戦が終わる。 重臣・佐久間信盛と林秀貞を追放。 京都御馬揃えを行う。 甲州攻め。武田勝頼を天目山の戦いで自害させ、武田家を滅亡させる。 本能寺の変。秀吉の援軍に行くはずだった明智光秀の謀反にあい、本能寺に散る。 ※本能寺の変直前の織田家の勢力範囲 上野国の一部、信濃、甲斐、尾張、美濃、 飛騨、越中半国、能登、越前、若狭、近江、 伊勢、伊賀、大和、山城、丹波、丹後、但馬、 摂津、和泉、河内、播磨、備前 |
1537 1554 1561 1566 1567 1570 1571 1573 1575 1577 1578 1579 1580 1581 1582 |
木下弥右衛門の子として生まれる。 (諸説あり) ※この間、遠江・頭陀寺城主・松下之綱に奉公していたとされる。 この頃から織田信長に仕え始めたとされる。 (以後、織田家臣時代) おね(北政所・高台院)と結婚。 美濃攻略のため、墨俣城を築城する。 稲葉山城攻めで活躍。その後、竹中重治(半兵衛)を軍師として迎える。 金ヶ崎の退き口で殿軍をつとめて活躍する。 姉川の戦いに従軍。勝利後、小谷城の抑えを任せられ横山城に入る。 ※この間に羽柴に改姓したとされる。 比叡山焼き討ちに参加するが、包囲網を緩やかにし非戦闘員は見逃したという。 一乗谷の戦いに従軍。 小谷城の戦いに従軍。落城に貢献し、浅井家の旧領と小谷城を与えられる。その後、長浜城の築城を開始する。 第二次・長島一向一揆攻めに従軍。 長篠の戦いに従軍。勝利に貢献する。 ※この頃、長浜城が完成する。 手取川の戦い。柴田勝家の援軍を命じられるが無断で帰還。信長の怒りを買う。 信長に許され、信貴山城攻めに参加する。 中国方面軍総司令に命じられる。黒田孝高(官兵衛)を配下に加えて姫路城に入る。 尼子勝久、山中鹿介の守る上月城の援軍に行けず、結果、見殺しすることになる。 三木の干殺し。別所長治の籠る三木城を兵糧攻めにする。 三木城の別所長治が自害。播磨を平定。 黒田官兵衛から姫路城を譲り受ける。 備前の宇喜多直家を織田家に臣従させる。 鳥取の飢え殺し。毛利家臣・吉川経家が籠る鳥取城を兵糧攻めにする。 備中高松城攻め。毛利家臣・清水宗治が籠る備中高松城を水攻めにする。 備中高松城攻めの最中に本能寺の変を知る。直ちに毛利家の外交僧・安国寺恵瓊と交渉。高松城主・清水宗治の自害などを条件に毛利家と和睦し上方へ折り返す(中国大返し)。 山崎の戦い。主君の仇である明智光秀を破り、織田家中での発言力が増す。 清須会議。柴田勝家と激しく対立するが、丹羽長秀、池田恒興を味方につけて有利に進める。その結果、織田家の跡取りは秀吉が推した三法師(のちの織田秀信)に決まる。 |
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松平広忠の子として岡崎で生まれる。 今川家の人質として駿河へ出発するも、戸田康光の裏切りで織田信秀に引き渡される。 ※この間に信長と初めて出会ったとされる。 松平広忠、暗殺される。 織田信広との人質交換が行われ帰還。その後、駿府へ出発する。 (以後、今川家人質時代) 今川義元の姪・瀬名姫と結婚。 桶狭間の戦い。大高城への兵糧入れなどで活躍するが、今川義元が討死したため撤退。 今川家が捨てた岡崎城に帰還。 清州同盟。織田信長と同盟を結び、今川家より独立する。 三河一向一揆。多くの家臣が離反する。 三河一向一揆を平定する。 松平から徳川に改姓する。 武田信玄と手を組み、遠江に侵攻する。 掛川城に入っていた今川氏真を降伏させる。今川家が滅亡する。 武田信玄に備えるため、居城を浜松に移す。 信長を助けて朝倉攻めに参加するが、浅井長政の裏切りにあい撤退(金ヶ崎の退き口)。 姉川の戦い。織田信長の援軍として、朝倉軍を破り、勝利に貢献する。 三方ヶ原の戦い。信長包囲網の一環として上洛を始めた武田信玄に大敗する。 武田信玄病没。危機を脱出する。 武田勝頼に遠江・高天神城を奪われる。 長篠の戦い。織田信長の協力を得て、武田勝頼に大勝する。 ※長篠の戦いの勝利後、遠江国の武田方諸城の攻略を始める。 信長の命により、武田家との内通の疑いで、正室・築山殿(瀬名姫)を殺害、嫡男・信康に切腹を命じる(諸説あり)。 武田勝頼から遠江・高天神城を奪回する。後詰に行けなかった武田家の衰退が始まる。 織田信長と共に甲州攻めを行い、武田家滅亡に協力する。 織田信長より駿河国を拝領する。 駿河国拝領の謝辞を述べるため、安土城の信長を訪問。その後、信長の薦めで堺見物へ赴く。 堺見物の帰路で本能寺の変を知る。街道を行くと殺害される可能性が高かったため、伊賀越えして岡崎に帰還する。 天正壬午の乱。北条氏直と武田家の旧領、甲斐・信濃をかけて戦う。のちに和睦して甲斐と信濃をほぼ手に入れる。 |
1583年以降
年代 | 豊 臣 秀 吉(豊臣家) | 年代 | 徳 川 家 康 |
1583 1584 1585 1586 1587 1588 1589 1590 1591 1592 1593 1595 1596 1597 1598 1600 1603 1605 1611 1614 1615 |
賤ヶ岳の戦い。清須会議以来、敵対していた柴田勝家を破る。その後、北庄城まで攻め込み、勝家とその妻・お市を自害に追い込む。 小牧・長久手の戦い。織田信雄、徳川家康と対峙するが、決着がつかず、家康の次男・於義丸(秀康)を養子に迎えて和睦する。 その後、家康に対して上洛を要求するが拒否される。 石山本願寺跡に大坂城を築城して居城とする。 菊亭晴季の斡旋により、「関白」の位につく。 紀州征伐。雑賀衆、根来衆を服従させる。 四国征伐。長宗我部元親を服従させる。 10月、九州に向け惣無事令をだす。 ※この頃より、各地で検地(太閤検地)を始める。 天正大地震 朝廷から、「太政大臣」の位と「豊臣」の姓を与えらえる。 実母・大政所を家康の元に送るという実質的な人質策によって、家康を上洛させ臣下にする。 九州征伐。島津義久を服従させる。 京都に聚楽第を築城し、この城で政務を執り行うようになる。 伴天連追放令を出す。 北野大茶会を開催。 12月、関東、奥羽に向け惣無事令をだす。 後陽成天皇、聚楽第に行幸。 海賊禁止令発布。 刀狩令発布。 側室・茶々(淀殿)が鶴松を出産。 茶々(淀殿)と鶴松のために淀城を築城。 小田原征伐。北条氏直を降伏させ高野山へ追放。主戦派だった北条氏政は切腹となる。この時、伊達政宗ら多くの東北大名らも参陣して秀吉の臣下となる。 奥州仕置を行い天下統一を成し遂げる。 奥州で九戸政実の乱など一揆が勃発し、豊臣秀次を総大将とする奥州再仕置軍を派兵する。 嫡男・鶴松が3歳で亡くなる。 弟・豊臣秀長が病死する。 千利休に切腹を命じる。 朝鮮出兵に備えて、肥前に名護屋城を築城する。 甥・豊臣秀次に関白職を譲り、自身は太閤を称する。 太閤の政務場所として、伏見城(指月山)を築く。 文禄の役 茶々(淀殿)が、拾(秀頼)を生む。 秀次事件。秀次を謀反の疑いで切腹させる。 ※拾(秀頼)の誕生で、秀次が邪魔になったともいわれる。 慶長伏見大地震。伏見城(指月山)が崩壊する。 木幡山に、新たに伏見城を築城する。 禁教令を出す。キリシタン26名が処刑される。(日本二十六聖人) 慶長の役 醍醐寺三宝院で花見を開く(醍醐の花見) 五大老・五奉行制を敷く。諸大名の届出なしの婚姻などを禁止する。 伏見城にて病没。享年62。秀頼が家督を継ぐ。 (以後、豊臣秀頼時代) 関ヶ原の戦い。 秀頼、徳川家康の労をねぎらう。 ※関ヶ原の戦いは東軍、西軍とも「秀頼公のため」を大義名分としており、豊臣家は中立の立場だったため。 秀頼、徳川秀忠の娘・千姫と結婚する。 秀頼、徳川家康に、二条城での会見を申し込まれるが、母・淀殿の反対を受けて断る。 秀頼、加藤清正らに守られ上洛。二条城にて家康と会見。 方広寺鐘銘事件。奉納した梵鐘の銘文「国家安康 君臣豊楽」が、家康を呪っていると解釈され、弁明のために片桐且元、大蔵卿局を駿府城へ派遣するが、家康に利用され、且元が城内で孤立する。 内通を疑われた片桐且元が大坂城を退去する。 大坂冬の陣。真田幸村が真田丸で奮戦する。しかし、徳川方の砲撃が天守に命中し、怖気づいた淀殿の意見により和睦。 和睦の条件として二の丸を埋めることになっていたが、約束に反して徳川家に二の丸まで埋められ、大坂城を裸城にされる。 徳川家康に浪人の解雇か移封を求められるが、拒否し、和睦が決裂。 大坂夏の陣。真田幸村、後藤基次(又兵衛)は討死。大野治長が、千姫を通じて秀頼と淀殿の助命を申し出るが、認められず、毛利勝永の介錯で秀頼と淀殿が自害する。 ※豊臣家滅亡 |
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小牧・長久手の戦い。織田信雄と手を組み、羽柴秀吉と戦うが、決着がつかず、和睦する。和睦条件として次男・於義丸(秀康)を秀吉の養子に出す。その後、秀吉から上洛を要求されるが拒否する。 第一次・上田城の戦い。大久保忠世らが真田昌幸に敗れる。 重臣・石川数正が出奔する。 秀吉の妹・朝日姫を正室に迎えるが、上洛要請は拒否する。 秀吉の母・大政所が岡崎へ下向。実質的な人質策に対し、上洛を決意、秀吉に謁見し、臣下の礼をとる。 (以後、豊臣家臣時代) 居城を浜松城から駿府城に移す。 秀吉の推挙で、朝廷から従二位・権大納言に叙任される。 小田原征伐。先鋒として山中城攻めなどで活躍。韮山城攻めでは城主で旧知の仲であった北条氏規を説得して降伏させる。 秀吉の命により、関八州(関東)に移封。江戸城を居城とする。 奥州再仕置に参加し、一揆などの鎮圧に貢献する。 文禄の役。肥前・名護屋城に詰めるが、渡海せず。 秀次事件。細川忠興など、秀次に連座させられそうになった多くの大名の弁明を手助けする。 ※これが、関ヶ原の戦いのとき、諸将が東軍につく一因となる。 秀吉の推挙により、「内大臣」に叙任される。 慶長の役。この時も渡海せず。 ※文禄の役につづき、2度とも渡海しないことで無駄な出費を抑え、国力を高めたとされる。 五大老筆頭となり、秀吉から前田利家と共に豊臣家の後事を託される。 秀吉の遺言を破り、有力大名との婚姻関係を立て続けに結ぶ。 ※秀吉の遺命を厳守しようとする石田三成との対立が深まる。 石田三成ら奉行衆が、家康の真意を確認するべく派遣した三中老(生駒親正、堀尾吉晴、中村一氏)を一喝して追い返す。 ※三中老の存在に関しては諸説あり。 前田利家の糾弾を受け、一時行動を抑える。 前田利家病没。利家によって抑えられていた加藤清正、福島正則ら武断派七将が石田三成を襲撃するが、三成を保護し、これを理由に三成を中央政治から遠ざける。その後、伏見城へ入り政務を取り仕切る。 伏見城から大坂城西の丸に入り政務を取り仕切る。 前田利長(利家嫡男)が家康の暗殺を企てたとして加賀征伐を決めるが、利長が生母・芳春院(利家正室・まつ)を人質に出したため、中止する。その後、独断で各地の大名に加増などを行い、石田三成、上杉景勝、宇喜多秀家ら反家康派の諸大名を挑発する。 上杉景勝が上洛要請を拒否したことなどを理由に会津討伐を決め、諸大名を率いて出陣する。 石田三成が毛利輝元を総大将に家康打倒の兵を挙げる。 家臣・鳥居元忠が守る伏見城が西軍の手に落ちる。 小山評定。軍を西国に返す決定をする。 関ヶ原の戦い。西軍に勝利する。戦後、捕らえた石田三成、小西行長、安国寺恵瓊を京都・六条河原で処刑する。 朝廷より征夷大将軍の宣旨を受け、江戸に幕府を開く。 子・秀忠に将軍職を譲り、大御所となる。 豊臣秀頼に、二条城での会見を申し入れるが拒否される。 江戸城から駿府城へ移る。 豊臣秀頼と二条城で会見。 ※この時、家康が上座に座り、秀頼が下座に座ったことから、主従が逆転した瞬間だとされる。(諸説あり) 禁教令を出す。 公家諸法度、勅許紫衣法度を発布する。 方広寺鐘銘事件。秀頼が方広寺に奉納した梵鐘の銘文「国家安康 君臣豊楽」の部分を、「家康の名を分断して呪ったうえで、豊臣を君主として楽しむ」と解釈し、秀頼に弁明を求める。 大坂冬の陣。真田幸村の激しい抵抗にあうが、包囲網を崩さず、用意した大砲を天守に命中させて、大坂城の淀殿に和睦を決意させる。 和睦の条件として大坂城の外堀と三の丸を埋めることになっていたが、豊臣家が担当する予定だった二の丸まで埋めてしまう。 大坂方が雇った浪人に不穏な動きがあるとして、浪人の解雇か移封を求めるが、断られ、再び大阪攻めを決める。 大坂夏の陣。真田幸村に本陣まで迫られるが、最終的には勝利。 武家諸法度、禁中並公家諸法度を発布。 朝廷から太政大臣に任じられる。 病没。遺言により久能山に埋葬される。 |