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戦国の女性 (五十音順)
朝日姫
阿茶局・雲光院
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生駒吉乃
稲姫・小松姫
五郎八姫・天麟院
お愛・西郷局
お市の方
大政所
お江・崇源院
五徳・徳姫
於大の方・伝通院
おね・北政所・高台院
お初・常高院
甲斐姫
帰蝶・濃姫
京極竜子・松の丸・寿芳院
慶誾尼
三条の方
寿桂尼
諏訪御料人
瀬名姫・築山殿
仙桃院
千姫・天樹院
立花誾千代
茶々・淀殿
千代・見性院
豊臣(羽柴)完子
日秀尼・瑞龍院
細川ガラシャ
まつ・芳春院
愛姫・陽徳院
義姫・保春院
朝日姫 あさひひめ (1543~1590)
豊臣秀吉の異父妹(同父妹とも)。尾張の農民に嫁ぐ。この農民は秀吉の出世と共に取り立てられ佐治日向守と名乗ったとされる。1586年、徳川家康を上洛させるため、佐治日向守と無理やり離縁させられ、家康に嫁いだ(諸説あり)。駿河府中に居を構えたため、駿河御前と呼ばれたが、のちに上洛して聚楽第に住んだという。心労のためか、家康に嫁いでからは病気がちになり、47歳で没した。
阿茶局・雲光院 あちゃのつぼね・うんこういん (1554~1637)
徳川家康の側室。武田家臣・飯田直政の娘。武田信玄の異母弟・一条信龍に属していた夫が亡くなると、家康に召しだされ側室となった。賢女で家康の信頼厚く、徳川秀忠と松平忠吉の母・西郷局が亡くなると、その養育を引き継ぐだけでなく、奥向きの諸事の一切を任された。大坂冬の陣では徳川方の代表として豊臣方の常高院と交渉を行い和睦に尽力した。
井伊直虎 いい なおとら (?~1582)
井伊直盛の娘。母は新野親矩の妹・祐春尼。直盛に跡取りとなる男子がいなかったため、直盛の従弟・直親を井伊家の後継者とするために許婚となった。しかし、直親の父・直満が謀反の疑いで今川義元に謀殺され、命を狙われた直親も信濃へ逃亡。その事を知らされなかった直虎は、直親が亡くなったと思って出家し、次郎法師と名乗った。その後、直親は帰国するが、出家の身では結婚することができず、直親は、奥山家の娘と結婚し、虎松(のちの井伊直政)が生まれる。桶狭間の戦いで直盛が討死し、家督を継いだ直親も徳川家康との内通を疑われて今川氏真に殺されると、まだ幼い虎松を引き取り、井伊家の低迷期を乗り越えて虎松を家康に仕官させ、井伊家再興の道を開いた。
生駒吉乃 いこま きつの (1528?~1566)
織田信長最愛の女性で、信忠、信雄、徳姫の母。名は「類」とも。生駒家宗の長女で、初めは土田弥平次に嫁いだが、戦で弥平次は討死してしまい死別。実家に戻っていたところを信長に見初められ側室となった。信長の正室・濃姫(帰蝶)に子がなかったため、信忠が織田家の嫡男と定められ、生母ということで正室と同等の扱いを受けたという。徳姫を産んだのち、産後の肥立ちが悪く、しばらくして亡くなった。蜂須賀小六(正勝)が同郷ということで縁があり、小六に仕えていた頃の秀吉を信長に推薦したという説がある。
稲姫・小松姫 いなひめ・こまつひめ (1573~1620)
本多忠勝の娘。真田信幸(信之)の正室。天正壬午の乱後、豊臣秀吉の命で、徳川家康の与力大名となった真田昌幸との関係を深めるため、家康の養女となり、徳川家の娘として昌幸の嫡男・信幸に嫁いだ。関ヶ原のとき、敵となった昌幸と幸村(信幸の弟)が、留守を預かっていた沼田城に来ると、甲冑に身を包んで城門に立ち「義父といえども、今は敵味方の間柄」といって入城を拒み、昌幸を感嘆させた。しかし、翌日に昌幸らが宿泊していた寺を子供たちと訪ね、昌幸に孫との面会をさせるという気遣いをみせている。良妻賢母の誉れ高い女性で、彼女が亡くなったとき、信幸は「我が家の灯りが消えた」と言って落胆したという。
五郎八姫・天麟院 いろはひめ・てんりんいん (1594~1661)
伊達政宗の娘。母は正室・愛姫。京都・聚楽第の伊達屋敷で生まれる。政宗と愛姫にとって、15年目の初子で、男子を強く望んだ政宗は、男子の名前しか考えておらず、そのまま名付けられたといわれる。豊臣秀吉の死後、伊達家との関係強化を狙った徳川家康の策謀により、家康の六男・忠輝と婚約し、1606年に正式に結婚した。しかし、大坂夏の陣後、忠輝は、2代将軍・秀忠の不興をかって改易されたため、離縁となる。その後は父・政宗の元に戻り、生涯再婚はせず、仙台で暮らした。
お愛・西郷局 おあい・さいごうのつぼね (1561?~1589)
徳川家康の側室。家康最愛の女性という。今川家に属した遠江上西郷の住人・戸塚忠春の娘。従兄妹である西郷義勝に嫁ぐが、義勝が合戦で討死し、母のもとに身を寄せていたところを家康に見初められ側室となった。美女というだけでなく、温和で誠実であったため、家康だけでなく、家臣や侍女たちにも好かれていたという。家康との間に秀忠、忠吉の二男を儲けたが、二人の成長を見届けることなく28歳の若さで亡くなった。極度の近眼であったため、盲目の女性に対して生活の保護をしていたと伝わる。
お市の方 おいちのかた (1547~1583)
織田信秀の娘。信長の妹。戦国一の美女と伝わる。兄・信長の命で北近江の戦国大名・浅井長政と結婚した。完全な政略結婚だが、夫婦仲は良好で、茶々・お初・お江の三姉妹を産んだ。長政が信長を裏切ったときには、両者の間で悩みながらも両端を紐で結んだ小豆袋を信長に送り、浅井・朝倉の軍勢に挟撃されそうになっていることを伝え危機を救う。浅井家滅亡後は、娘たちと共に信長に引き取られ、兄・信包の元で不自由のない生活を送っていたという。本能寺の変で信長が亡くなると、清須会議を経て織田家の重臣・柴田勝家と再婚する(秀吉主体で終わった会議に対し、勝家の不満を抑える効果を狙ったとも)。その後、勝家と秀吉の対立が深まり、勝家が賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れると、勝家と共に北ノ庄城で自害した。
<辞世の句>
お市: さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜に 別れを誘う ほととぎすかな
勝家: 夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす
茶々・淀殿 ちゃちゃ・よどどの (1569?~1615)
浅井長政、お市の方の長女。母と同様、美女と伝わる。父・長政の小谷城、養父・柴田勝家の北ノ庄城と2度の落城を経験する。その後は羽柴秀吉に引き取られて側室となり、鶴松(3歳で死去)と拾(のちの秀頼)を産んだ。秀吉の死後は、秀頼の後見として積極的に内政に参加する。関ヶ原の戦い後、豊臣家に代わって天下を狙い始めた徳川家康と対立するようになり、大阪夏の陣で最後の抵抗を見せるも敗れて、秀頼と共に自害した。
お初・常高院 おはつ・じょうこういん (1570~1633)
浅井長政、お市の方の次女。茶々(淀殿)の妹。父・長政の小谷城、養父・柴田勝家の北ノ庄城と2度の落城を経験する。その後は羽柴秀吉に引き取られ、秀吉のはからいで、浅井家の主筋にあたり、従兄でもある京極高次に嫁いだ。大坂冬の陣では、姉・淀殿が豊臣秀頼の母、妹・お江が徳川秀忠の正室ということもあり、豊臣方の使者となって徳川家との和睦に尽力している。浅井三姉妹の中で一番長生きをした。
お江・崇源院 おごう・すうげんいん (1573~1626)
浅井長政、お市の方の三女。茶々(淀殿)、お初(常高院)の妹。父・長政の小谷城、養父・柴田勝家の北ノ庄城と2度の落城を経験する。その後は、羽柴秀吉に引き取られ、佐治一成と結婚するが、一成が小牧・長久手の戦いで徳川家康に協力したため、秀吉によって離縁させられた。2度目の相手は秀吉の甥・羽柴秀勝だったが、文禄の役で病没してしまい死別。その後、徳川秀忠と再嫁して将軍御台所となり、千姫、家光、忠長ら二男五女をもうけた。羽柴秀勝との間にも娘・完子がおり、藤原氏摂関家・九条幸家の正室となった。子孫の九条節子は、大正天皇の皇后(貞明皇后)となっているため、今上天皇の先祖にもあたる。
大政所 おおまんどころ (1516~1592)
豊臣秀吉、秀長、日秀尼、朝日の母。名は仲。妹に福島正則の母・松雲院、加藤清正の母・聖林院(従妹とも)がいる。織田家の雑兵・木下弥右衛門に嫁いで秀吉と日秀尼を産み、弥右衛門死後に竹阿弥と再婚して秀長、朝日を産んだ(秀長、朝日も弥右衛門の子とする説もある)。秀吉が長浜城主となると、呼び寄せられ、以後は秀吉の元で過ごし、秀吉の正室・おね(北政所・高台院)とは、親密な関係だったといわれる。1586年、徳川家康を上洛させるために、秀吉は妹・朝日を家康の正室として送り込むが、上洛の気配がなかったため、姫の見舞いと称して岡崎に赴き、実質人質となって家康を上洛させた。その後、朝日、秀長と子に先立たれるたび、病がちになり、1592年に亡くなった。
五徳・徳姫 おごとく・とくひめ (1559~1636)
織田信長の長女。母は生駒吉乃。徳川家康の嫡男・信康に嫁ぐ。今川家出身の姑・築山殿とは不和で、信康とも夫婦仲がこじれていたといわれる。1579年、父・信長に、信康と築山殿が武田家と内通していることなどを伝えた12ヶ条の訴状を送ったことにより、信康は切腹、築山殿も殺害されると、翌年、家康に見送られて安土城へ移った。本能寺の変後は、次兄・織田信雄、豊臣秀吉、松平忠吉らの庇護を受け、最後は京都で隠棲した。
於大の方・伝通院 おだいのかた・でんつういん (1528~1602)
尾張知多郡の豪族・水野忠政の娘。松平広忠の正室。徳川家康の母。父・忠政の方針で、三河で勢力を広げつつあった松平氏との関係を密にするため、広忠に嫁ぎ、竹千代(のちの徳川家康)を産んだ。忠政の死後、家督を継いだ兄・信元は、織田家と結んだたため、今川家と結んでいた広忠に離縁され、久松俊勝と再婚する。桶狭間の戦い後、家康が今川家から独立すると、生母ということで迎えられ、俊勝と俊勝との間にできた息子たちは松平姓を与えられて徳川家臣となった。俊勝死後は、落飾して伝通院と号し、京都・伏見城で亡くなった。
おね・北政所・高台院 おね・きたのまんどころ・こうだいいん (?~1624)
豊臣秀吉の正室。14歳のときに秀吉と結婚。当時としては珍しい恋愛結婚であったという。身分の低かった秀吉を常に支え、譜代家臣がいなかった秀吉のために、福島正則や加藤清正など、秀吉や自身の親戚縁者の子らを養育して家臣団をつくりあげるなど、秀吉の天下統一に多大な貢献をした。秀吉の死後は、秀頼の後見に淀殿(秀頼生母)と共にあたり、秀頼と千姫(徳川秀忠娘)の婚儀を見届けたのち、落飾して京都東山に高台寺と屋敷を建て移り住んだ。大坂の陣では、監視役をつけられ、何もすることができないまま豊臣家の滅亡を見届けた。しかし、その後も徳川家との関係は良好で、徳川秀忠の訪問を受けるなどしている。
甲斐姫 かいひめ (1572~?)
武蔵・忍城主・成田氏長の娘。「東国無双の美女」といわれ、武勇に秀でていたことでも知られる。小田原征伐では、豊臣秀吉の大軍を相手に、鎧兜と成田家の名刀「波切」携えて自ら戦い、父・氏長不在の忍城を成田長親(氏長の従弟)と共に小田原城が開城するまで守り切った。降伏後、成田家中は蒲生氏郷の預かりとなるが、浜田兄弟が謀反を起こし、義母が殺されると、弟・十左衛門を討ち取り、兄・将監を生け捕りにして謀反の鎮圧に貢献、その後、その武勇を聞いた秀吉に召し出されて側室となる。大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると、秀頼の娘・奈阿姫を連れて大坂を脱出、鎌倉・東慶寺に入って尼になったといわれる。
帰蝶・濃姫 きちょう・のうひめ (1535~?)
斎藤道三の娘で、織田信長の正室。母・小見の方は明智光秀の叔母という説があり、光秀とは従兄妹の可能性がある。敵対関係にあった織田信秀との和睦にあたり、信秀の嫡男・信長に嫁いだ。ふたりの間には子がいなかったとされ、斎藤家の菩提寺・常在寺に父・道三の肖像画を寄進したこと以外その生涯には謎が多い。側室・生駒吉乃に長男・信忠が生まれると離縁されたとも、本能寺の変で共に戦い討死したとも、本能寺の変後も生き延びたなど諸説あるが、どれも決定的なものはない。
京極竜子・松の丸・寿芳院 きょうごくたつこ・まつのまる・じゅほういん (?~1634)
京極高吉の娘。母は京極マリア(浅井久政の娘)。浅井長政の姪にあたり、兄に京極高次、弟に京極高知がいる。若狭守護・武田元明に嫁ぐが、元明が本能寺の変後に明智光秀に与して謀殺されると、秀吉に捕らえられ側室となった。浅井三姉妹の従姉妹にあたるが、京極家は浅井家の主筋にあたり、家格が上であったことから、醍醐の花見では淀殿と杯の順番を争った。秀吉死後は、兄・高次の大津城に身を寄せる。大阪夏の陣後、処刑された豊臣秀頼の遺児・国松の遺体を引き取り埋葬した。
慶誾尼 けいぎんに (1509~1600)
龍造寺隆信の母。隆信の近くにあって度々意見し、家中での影響力は強かったという。隆信の従弟・鍋島直茂の才能を見抜き、ふたりの関係を強化するため、すでに未亡人だったのを利用して、同じく妻を亡くしていた直茂の父・清房に再嫁、ふたりを義兄弟にしている。1570年、大軍の大友勢に佐嘉城を包囲され、隆信、直茂共に弱気になっていると、ふたりを𠮟咤激励し、その後、直茂が奇襲を提案、今山の戦いを勝利に導いた。沖田畷の戦いで、隆信が討死すると、家督を継いだ政家を補佐しつつ、豊臣秀吉の意向もあって、直茂に事実上、国政を委ねる決断をした。
三条の方 さんじょうのかた (1521?~1570)
武田信玄の継室。左大臣・三条公頼の次女で、姉は細川晴元の正室、妹には本願寺顕如に嫁いだ如春尼がいる。信玄との間に三男二女をもうけたが、長男・義信は信玄との確執がきっかけで幽閉され死去(自害とも)、次男は幼少期に盲目となり、三男は早世、長女は甲相駿三国同盟が結ばれた際に北条氏政に嫁ぐが、同盟崩壊と共に離縁され、その後まもなくして病死するなど子供たちの不幸にみまわれた。唯一、末娘の見性院(穴山梅雪の正室)だけが生き残って徳川家の庇護を受け、徳川秀忠が侍女・お静に産ませた子・保科正之の養育係となっている。
寿桂尼 じゅけいに (?~1568)
今川氏親の正室。氏輝、義元の母。右大臣・藤原不比等を祖とする藤原四家のひとつ藤原北家傍流の出身。家中における影響力の強さから「尼御台」と呼ばれた。晩年、中風を患って病床に伏した氏親の補佐に始まり、氏親死後、若年で家督を継ぐことになった氏輝の後見など国政を取り仕切った。氏輝が謎の急死を遂げると、出家していた梅岳承芳を還俗させて義元と名乗らせ、側室の子・玄公恵探との家督争い「花倉の乱」に勝利し義元を今川家の当主に据えた。桶狭間の戦いで義元が討死すると、氏真を後見して名門今川家を支え続けるが、1568年に死去。翌69年に武田信玄、徳川家康の侵攻を受け今川家は滅亡してしまった。
諏訪御料人 すわごりょうにん (1530?~1555)
諏訪頼重の娘。実名は不明。武田信玄最愛の女性で勝頼の母。父・頼重は、初め武田家と婚姻関係にあったが、信玄に無断で関東管領・上杉憲政と単独講和して領土分割を行ったため、怒った信玄に攻められ降伏、幽閉されたのち自刃した。信玄は、諏訪の地を諏訪家に連なるものに統治させることを考え、頼重と側室の間に生まれた娘・諏訪御料人を側室に迎え、勝頼が生まれることになる(側室入りには山本勘助の意見があったともいわれる)。「かくれなきびじん」と讃えられるほどの美女と伝わるが、25歳前後で亡くなった。
瀬名姫・築山殿 せな・つきやまどの (?~1579)
徳川家康の正室。信康、亀姫(奥平信昌正室)の母。関口親永の娘で、今川義元の姪にあたる(諸説あり)。今川家の人質であった松平元信(のちの徳川家康)の有能さに惚れた義元が、元信を一門に加えるため、結婚を決めたという。桶狭間の戦い後、家康が今川家から独立すると、石川数正によって救出され岡崎へ移り住むが、織田信長との間で清州同盟が結ばれると、今川家出身ということで冷遇され、岡崎城外の屋敷に住んだという。そのため、信康の正室・徳姫(信長の娘)とは不和で、武田家との内通を含む12ヶ条の訴状を信長に送られ、浜松へ向かう途中、家康の命により殺害された(諸説あり)。
仙桃院 せんとういん (1524?~1609)
長尾政景の正室。長尾為景の娘で、異母弟に上杉謙信、子に景勝がいる。父・為景の死後、家督は晴景(謙信の兄)が継ぐが、のちに晴景は謙信に家督を譲って隠居、それに不満をもった上田長尾家の当主・政景との和睦のため、政景の正室となった。政景死後は、子・景勝と共に春日山城に招かれる。謙信死後、御館の乱では、上杉景虎(北条氏康の七男)の正室となった娘と共に御館に籠るが、乱の終結後は景勝の元に戻り、以後は会津、米沢への転封にも従った。景勝の近習として直江兼続を推薦したといわれる。
千姫・天樹院 せんひめ・てんじゅいん (1597~1666)
徳川秀忠の娘。母は織田信長の姪・お江(崇源院)。豊臣秀頼の正室。江戸幕府3代将軍・家光の姉。1603年に豊臣家との関係を親密にするという名目で秀頼に嫁ぐ。実質、人質であったが、秀頼との仲は良好だったといわれる。大坂夏の陣では、秀頼と淀殿の助命嘆願を大野治長から依頼されて大坂城を脱出するが、願いは聞き入れられず、秀頼は自害、死別となった。その後、本多忠刻(忠勝の孫)と再婚。本多家が播磨姫路に移封となると、「姫路姫君」と呼ばれ家臣、領民にも慕われたが、忠刻が31歳の若さで病没すると、弟・家光の勧めもあって江戸に戻り、落飾して天樹院と号した。
立花誾千代 たちばな ぎんちよ (1569~1602)
立花道雪の娘。立花宗茂の正室。父・道雪には男子がいなかったため、大友宗麟の許可を得て、わずか7歳で家督を継いだ。その後、道雪は高橋紹運の子・宗茂(当時の名乗りは統虎)を養嗣子に迎えて跡取りとし、誾千代は宗茂の正室となる。しかし、本来城主は自分だという自負からか、夫婦仲は悪く、宗茂が筑後・柳川13万石を得てすぐに別居状態となった。それでも、家を守る気持ちは同じで、関ヶ原で宗茂が留守にした際には、甲冑を身にまとい、鍋島水軍の進軍を阻止、加藤清正も彼女の武威に軍を迂回させたといわれる。宗茂改易後、行動は共にせず、肥後に移り住み、1602年に病を得て34歳の若さで亡くなった。
千代・見性院 ちよ・けんしょういん (1557~1617)
山内一豊の正室。出自は諸説あり、浅井家臣・若宮友興、もしくは郡上八幡城主・遠藤盛数の娘というのが有力。「内助の功」で知られ、嫁入りの際の持参金(へそくり)で一豊が欲しがった名馬(鏡栗毛)を購入して織田信長の賞賛と加増を受けた話や、関ヶ原の際、一豊に届いた大坂方(西軍)からの誘いの手紙を未開封のまま徳川家康に渡すよう提案して家康の信用を得た話が有名(笠の緒文)。一豊の死後は京都に移り住み余生を過ごした。
豊臣(羽柴)完子 とよとみ(はしば)さだこ (1592~1658)
豊臣秀勝とお江の娘。父・秀勝が文禄の役で亡くなり、母が徳川秀忠に再嫁すると、伯母である淀殿に引き取られ豊臣の娘として育てられた。1604年、淀殿の思惑で秀頼の関白就任を円滑に進める目的のために五摂家のひとつ九条家の忠栄に嫁ぐ。豊臣家滅亡後は、実母・お江の夫・秀忠の養女となって忠栄と共に幕府と朝廷を繋ぐ存在として重きをなした。
日秀尼・瑞龍院 にっしゅうに・ずいりゅういん (1534~1625)
豊臣秀吉の同父姉で、異父弟に秀長がいる。名は智子といい、秀次、秀勝、秀保の母。夫は、立身後に三好吉房と名乗ったが、もとは弥助といい農民。秀吉の嫡男・鶴松が亡くなると秀次、秀勝を秀吉の養子に入れ、それ以前に秀保を秀長の養子に入れている。秀勝、秀保は病没、秀次は秀吉の跡継ぎとして関白となるが、秀吉に拾(秀頼)が生まれたのち、謀反疑いで切腹となり、すべての男子に先立たれた。秀次死後は仏門に入り、最終的に瑞龍寺に移り住んだ。
細川ガラシャ ほそかわ ガラシャ (1563~1600)
明智光秀の三女で細川忠興の正室。諱は玉(珠)、または玉子。織田信長の薦めで、細川藤孝の嫡男・忠興に嫁いだ。父・光秀が本能寺の変を起こすと、舅・藤孝は光秀に加担しないことを決意、そのため幽閉された。その後、中央での覇権を握った豊臣秀吉の許しを得て大坂屋敷に戻り、忠興からカトリックの話を聞いてキリスト教に心を惹かれていったといわれる。関ヶ原の戦いで、石田三成は、徳川家康の会津討伐に従った諸将の妻子を人質にとろうとするが、これを拒み、三成が兵を使って強行策に出てくると、自害を決意。しかし、キリシタンは自害を禁じられていたため、家臣に槍を突かせて命を絶った。
<辞世の句>
散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ
まつ・芳春院 まつ・ほうしゅんいん (1547~1617)
前田利家の正室。幼い頃に父を亡くし、母が再婚すると、叔母が嫁いだ前田利昌に養育され、利昌の四男で従兄弟にあたる利家と結婚した。利家と豊臣秀吉が親友であったのと同じく、秀吉の正室・おね(高台院)と懇意の間柄であったことでも知られる。賤ヶ岳の戦いで、不本意ながらも秀吉と敵対してしまい、顔向けできないでいた利家に代わって、秀吉を城内で迎え入れ和睦を成立させるなど、加賀百万石の礎づくりに大きく貢献した。利家死後、家督を継いだ子の利長に、徳川家康の暗殺疑惑が持ち上がると、人質として江戸に下って疑惑を解き、前田家の危機を救った。
愛姫・陽徳院 めごひめ・ようとくいん (1568~1653)
伊達政宗の正室。坂上田村麻呂の末裔といわれる田村清顕の娘。12歳で政宗に嫁ぐが、結婚後すぐに政宗の暗殺未遂事件が起こり、乳母や侍女が疑われて殺害されたため、一時期、夫婦仲は疎遠であったという。その後、夫婦仲は修復し、豊臣政権への人質として聚楽第の伊達屋敷に移り住んでからも、政宗に激励の手紙を送るなど関係は良好だったという。清顕の一人娘であったため、政宗と自身の次男を田村家に入れる予定だったが、嫡男の忠宗以外の男子は早世してしまい、忠宗の三男・宗良が、田村家を継ぐことで実現した。
義姫・保春院 よしひめ・ほしゅんいん (1548~1623)
伊達輝宗の正室。政宗の母。最上義光の妹。「奥羽の鬼嫁」と呼ばれる。しかし、その行動は伊達家と最上家の懇親を願ったものであり、夫・輝宗と兄・義光が対立した際には、輝宗の本陣に駆けつけ撤兵させ、子・政宗と義光の対立では、輿にのって両陣の間に割って入り、和睦を締結させたりしている。政宗の小田原参陣直前に政宗毒殺未遂事件を起こしたともいわれるが、その後も両者が親密であることから否定的な説もでている。1594年に最上家に戻るが、のち最上家が改易されると政宗を頼って仙台に移り住み、同地で没した。