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合戦 その3 (1561~1569) 


おだわらじょうのたたかい

1560~61年 小田原城の戦い  北条氏康 VS 長尾景虎(上杉謙信)
結果:北条氏康の勝利     場所:相模国
内容:
 長尾景虎(のちの上杉謙信)の関東侵攻に対して、北条氏康小田原城で籠城した戦い。景虎は、氏康によって関東から追放された関東管領・上杉憲政を奉じて侵攻した。

経緯と結果、その後:
 1546年、河越城の戦い(河越夜戦)で北条氏康に惨敗した関東管領・上杉憲政は、その後も氏康の圧迫を受け、1552年に長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後に落ち延びた。しかし、憲政が落ち延びた当時、長尾家は家中がまとまっておらず、1556年には嫌気がさした景虎が出奔してしまうという有様で、景虎が家中をまとめて関東侵攻の準備を整えるまでには8年の月日を要した。

 1560年、前年には上洛も果たして準備を整えた景虎は、氏康に久留里城を攻められていた里見義尭の援軍要請をきっかけに関東へ侵攻、関東諸将らに関東管領・上杉憲政の名のもと参陣を呼びかけた。関東諸将らは初めは乗り気でなかったものの、景虎の勢いと憲政を奉じていたことで徐々に集まり始め、その兵数は10万に達した。これに対して氏康は、久留里城から撤退し、北条家直轄の小田原城の支城・河越城、玉縄城、滝山城に一族の者を配置して、自身は小田原城で籠城戦の構えをとった。

 10万の大軍を率いることになった景虎は小田原城につくと早速攻城にとりかかるが、小田原城は度重なる拡張で堅固な要塞と化しており、また氏康が徹底した籠城戦を展開したため、思うように攻城は進まず、成果と言えば北条家に恨みをもつ太田資正の局地的な奮戦に留まった。さらに、状況が長期布陣の装いを見せ始めると、飢饉などによる物資の不足から各地で紛争が起こり始め、その影響で景虎に従っていた関東諸将の士気は著しく低下し、城の包囲どころではなくなった。

 この状況を受け、景虎は、いったん小田原から兵を退いて鎌倉へ移り、鶴岡八幡宮で憲政の要請と室町幕府13代将軍・足利義輝の承認を得て、関東管領職と上杉姓を継承して上杉政虎と名乗りを変え、士気の盛り返しを図った。しかし、参陣した関東諸将は就任式には参加するも、足並みが揃うことはなく、撤退を要請する者、無断で陣払いする者があらわれた。さらに氏康が支援を要請した武田信玄が北信濃へ侵攻する動きを見せたため、政虎(謙信)は越後の守りのため小田原攻めどころではなくなり、小田原城はおろか支城さえも落とすことができないまま、関東より撤退せざるを得なくなった。
主な参戦武将
北条方(兵力不明) 上杉・長尾方(100000)
北条氏康
北条氏政

【玉縄城】
北条綱成

【滝山城】
北条氏照








長尾景虎(上杉謙信)
上杉憲政
直江景綱
柿崎景家
斎藤朝信

【関東諸将】
佐竹義昭
小田氏治
成田長泰
里見義尭
里見義弘
正木時茂
長野業正
太田資正



だいよんじかわなかじまのたたかい

1561年 第四次 川中島の戦い  武田信玄 VS 上杉謙信
結果:武田信玄の勝利(引き分け?上杉謙信の自主的撤退)     場所:信濃国
内容:
 甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が信濃国川中島で激突した戦い。1553年から1564年にかけて、全部で5回行われており、第四次はその中で最も激戦となったことで知られる。そのため、ただ「川中島の戦い」というときは、この第四次のことをさすことが多い。他の4回は、第一次(1553)、第二次(1555)、第三次(1557)、第五次(1564)に行われているが、戦闘があったとしても小規模なもので、中には対陣のみで終わったものある。

経緯と結果、その後:
 信濃の平定を目指した武田信玄は、1548年の上田原の戦い、1550年の砥石城の戦いで、北信濃の村上義清に惨敗するものの、1551年には砥石城を攻略し、1553年には義清の居城・葛尾城を孤立させて義清を越後に追いやることに成功、信濃をほぼ手中におさめた。信濃を追われた義清は、まだ信玄に屈していない北信濃の国人・高梨家を通じて長尾景虎(上杉謙信)に領土回復のための援助を求め、これが以後、5回にわたる川中島の戦いのきっかけとなる。

 1560年、長尾景虎(上杉謙信)は、関東管領・上杉憲政を奉じて関東へ侵攻し、参陣した関東諸将ら合わせて10万の大軍で北条氏康が籠る小田原城を包囲した。これに対し、氏康は同盟関係にあった武田信玄に支援を要請。これを受けた信玄は、まだ屈していない北信濃一部の地域へ侵攻して海津城を築き、城代に高坂昌信を置いて景虎の本拠である越後方面を牽制した。景虎は、信玄の動きと小田原城の堅固さから、鎌倉・鶴岡八幡宮で関東管領職と上杉姓を継承したのち、小田原城攻めを諦めて越後に帰国し、信玄の北進を阻むため、北信濃への進軍を決定した。

 1561年8月、上杉政虎(景虎から改名)は、1万3千の兵を率いて信濃に入り、海津城を通り越して城が一望できる妻女山に陣を構えた。これに対して信玄は、2万の兵を率いて甲府から駆けつけ、千曲川を挟んで妻女山の対岸にある茶臼山に陣を敷いた。5日間の対陣ののち、信玄は海津城に入城。その後も膠着状態が続くと、信玄は状況打開のため、山本勘助馬場信春両名に作戦立案を命じた。その中で、勘助は、軍を2つに分け、まず別働隊が妻女山に夜襲をかけて上杉軍を山から追い落とし、本隊が山の下で待ち構えて挟撃殲滅するという戦法を考案し採用された。この戦法は、啄木鳥(きつつき)が木の中に潜んだ虫(餌)を取る方法に似ていることから「啄木鳥戦法」と名付けられた。

 武田軍が作戦行動にでる数時間前、妻女山の政虎(謙信)は、海津城からいつもより多く水煙があがっているのを見て「啄木鳥戦法」を看破、武田軍の夜襲を受ける前に夜陰に紛れて山を下った。そして翌朝7時頃、霧が晴れると、鶴翼の陣を敷いて待ち構えていた武田本隊の前に、予定より早く、しかも無傷の上杉軍が姿を現すことになる。謙信の本隊は約1万、信玄の本隊は別働隊に兵を割いていたため8千。武田軍が動揺する中、数で勝る上杉軍は猛将・柿崎景家を先陣に車懸り(波状攻撃)を仕掛けて武田本隊を突き崩し、信玄の実弟・武田信繁、山本勘助らを討ち取り、信玄に迫った。

 戦闘が始まって3時間あまりがたった午前10時ごろ、妻女山に向かっていた武田軍別働隊が、ようやく本隊のもとに到着。今まで劣勢だった武田軍が、今度は上杉軍を挟撃する形となり、次第に攻守が逆転していった。しばらく戦い続けた謙信も、増大する被害を見て引き際を悟り、遂に撤退を決意。戦場を離脱して越後へ退却していった。戦いは信玄と謙信が一騎打ちをしたという逸話ができるほどの激戦で、両軍合わせて8千の戦死者がでたといわれる。

 戦後、信濃の地は信玄のものとなる。しかし、それを手に入れるために信繁や勘助らを失い、人的被害は大きかった。特に信玄の右腕ともいえる実弟・信繁の死は武田家の滅亡を早めた要因のひとつともいわれる。それに対し謙信は、信濃を手に入れることはできなかったが、指揮官をつとめるような武将は失っておらず、戦術的には信玄を上回っていた。
主な参戦武将
武田方(本隊8000 妻女山別働隊12000) 上杉方(13000)
【本隊】
武田信玄
武田義信
武田信繁
山本勘助
山県昌景
内藤昌豊

【妻女山別働隊】
高坂昌信
飯富虎昌
馬場信春
真田幸隆

上杉謙信
宇佐美定満
直江景綱
長尾政景
柿崎景家
甘粕景持
村上義清





 
旅先 川中島古戦場跡へ 



だいにじこうのだいのたたかい

1564年 第二次 国府台の戦い 北条氏康 VS 里見義尭
結果:北条氏康の勝利    場所:下総国
内容:
 伊豆・相模・武蔵を支配する北条氏康と安房から下総にかけて勢力を誇った里見義尭の戦い。1564年初頭に行われた戦いだが、63年に上杉謙信に与していた武蔵松山城を北条氏康、武田信玄が攻めた際、援軍を謙信から要請された里見義尭が、北条勢と国府台で衝突した戦いと混同されて伝わっておりややこしい。

経緯と結果、その後:
 1563年の暮れ、北条家臣で3人いた江戸城代のひとり・太田康資が、同族である太田資正(三楽斎)を介して上杉謙信に内応した。これは、太田家が元々江戸城主であったにもかかわらず、城主になれなかったことや、戦での恩賞に不満があったからといわれる。しかし、寝返りは思うように事が運ばず失敗。康資は資正の元へ逃れた。

 上杉謙信は、同盟関係にあった里見義尭に資正と康資の救援を要請。義尭は1万2千の兵を率いて国府台城に入る。これに対して北条氏康も2万の兵を率いて出陣し、年が明けた64年1月7日、里見勢に攻撃をしかけた。この時、北条勢の先陣をつとめた遠山綱景富永直勝は太田康資と共に江戸城代をつとめた二人で、康資の内応に気づかなかったことに責任を感じて功をあせり、北条綱成の本隊と連携をとらずに突出した結果、両名とも討死してしまう。そのため、北条勢は体制が崩れ、軍を一旦退けた。

 緒戦での勝利後、気をよくした里見義尭は、正月ということもあって兵士に酒を振舞ったという。しかし、そこへ北条綱成の攻撃を受けてしまう。綱景、直勝を失った北条勢であったが、本隊はほとんど無傷であったため、撤退と見せかけての奇襲だったという。里見勢は混乱、さらに里見勢の主力を担っていた土岐為頼が北条家と内通して戦線を離脱したことにより、里見勢は総崩れとなり、戦いは北条氏康の逆転大勝利に終わった。

 戦後、北条家は里見家の重臣・土岐為頼、正木時忠を服属させ、さらに上総にまで勢力を広げた。里見家は苦境に立たされるが、北条家の勢いを何とか抑え、67年の三船山合戦に勝利して北条家の侵攻を止めた。その後、一度は北条家に属した正木時忠も再び里見家に帰参するほど勢力を回復し、両家の争いは再び膠着状態に入った。
主な参戦武将
北条方(20000) 里見方(12000)
北条氏康
北条綱成
遠山綱景
富永直勝


里見義尭
里見義弘
土岐為頼
太田資正
太田康資



だいにじがっさんとだじょうのたたかい

1566年 第二次 月山富田城の戦い 毛利元就 VS 尼子義久
結果:毛利元就の勝利    場所:出雲国
内容:
 大内家を滅ぼした毛利元就と出雲の戦国大名・尼子義久の戦い。この戦いに勝利した元就は名実ともに中国地方の覇者となる。

経緯と結果、その後:
 1557年、大内家を滅ぼして周防・長門を手に入れた毛利元就は、尼子晴久が治める石見への侵攻を開始した。元就と晴久は石見銀山をめぐって激しく対立するが、晴久は石見の国人たちと連携して幾度も毛利勢を撃退し銀山を死守した。しかし、1561年に晴久が急死したことにより事態は急変する。

 晴久の跡を継いだ義久は、家臣団の統制に手を焼き、これを優先的に解決するため、室町幕府13代将軍・足利義輝を介して元就と和議を結ぶ(雲芸和議)。この時、義久は元就から出された石見への不干渉を承諾。これにより石見の尼子方だった国人たちは半ば見捨てられる形となってしまい、情勢は一気に毛利に傾き、石見銀山も毛利家の手に落ちた。

 石見での情勢が有利になった元就は、半年余りで和議を破棄し、1562年に入って出雲への侵攻を始める。しかし、出雲にはいまだ尼子家に忠節を尽くす国人たちがいたことや、義久と手を結んだ豊後の大友宗麟が豊前の毛利領に侵攻してくるなどして事がなかなか進展せず、63年に元就の嫡男・隆元が宗麟との和睦を取り付けたことでようやく月山富田城を攻める準備が整った。

 1565年4月、元就は、次男・元春、三男・隆景と共に月山富田城を攻めるが、落とせず一時撤退、9月に再び城を包囲して兵糧攻めに切り替えた。毛利勢は、局地的な戦いでこそ尼子家臣・山中幸盛(鹿介)に品川大膳(狼介)を討ち取られるなどしたが、城内の兵糧が切れるまで城兵の投降を一切許さないという徹底した兵糧攻めで尼子方の士気を徐々に削いでいった。

 冬になって、食料が尽きたと見た元就は、城内に投降を呼びかけ、多くの尼子兵士、譜代家臣を投降させる。それでも義久は頑強に抵抗を続けたが、投降者が増えていくなかで、次第に残った家臣たちに対して疑心暗鬼に陥り、遂に私財を投じてまで兵糧を確保してくれていた忠臣・宇山久兼を殺害してしまう。この件で家臣たちの義久に対する信頼は完全に失墜し、1566年11月に義久は降伏。戦国大名としての尼子家は滅亡した。

 戦後、中国地方の覇者となった毛利家は、こののち九州、四国にも進出し全盛期を迎えることになる。しかし、その裏では元就が期待していた嫡男・隆元が急死するという不幸にも見舞われた。降伏した義久は、長い幽閉期間を経て1589年に毛利輝元の客分として迎えられている。
主な参戦武将
毛利方(30000) 尼子方(10000)
毛利元就
毛利輝元
吉川元春
吉川元長
小早川隆景

尼子義久
宇山久兼
山中幸盛





いなばやまじょうのたたかい

1567年 稲葉山城の戦い 織田信長 VS 斎藤龍興
結果:織田信長の勝利   場所:美濃国
内容:
 尾張の戦国大名・織田信長が、美濃の戦国大名・斎藤龍興の居城・稲葉山城を攻め取った戦い。この戦いで信長は美濃を完全平定するが、本格的な美濃侵攻を始めてから6年の月日を要した。

経緯と結果、その後:
 1560年の桶狭間の戦いの勝利で、東方の恐怖を取り除いた織田信長は美濃侵攻を開始した。この時、美濃を治めていたのは長良川の戦いで信長の義父・斎藤道三を討って国主となった義龍であったが、義龍は家臣団をよく統率して対抗し、信長の侵攻を許すことはなかった。その義龍が61年に急死。その跡をわずか14歳の龍興が継いだことで情勢は変わり始める。

 龍興が家督を継いだ当初は、家臣団も龍興を盛り立て信長の軍勢を撃退することもあったが、成長した龍興は次第に酒色に溺れ、側近のみを重用し、忠臣たちをないがしろにし始める。それを戒めるため、当時、斎藤家臣であった竹中重治(半兵衛)が斎藤家の居城・稲葉山城を乗っ取り、半年余り占拠するという事件を起こすが、この事件が、もはや斎藤家が一枚岩ではないことを信長に知らしめす結果となってしまった(近年、城の乗っ取りは、竹中重治と重治の舅・安藤守就による謀反の類といわれている)。

 1564年の竹中重治による城の乗っ取り以降、信長は龍興から心が離れた斎藤家臣たちを調略、侵攻をもって、まず東美濃を支配下に置く。そして67年、西美濃三人衆・稲葉良通(一鉄)氏家直元(卜全)安藤守就の調略にも成功。こうして龍興に味方する者がほとんどなくなった稲葉山城を信長は電光石火の攻めで落城させた。稲葉山落城は、美濃三人衆が信長と内応を約束してから、たった半月あまりでの出来事だったという。そして、城主であった龍興はかろうじて城を脱出し、伊勢長島へと落ち延びていった。

 戦後、信長は稲葉山城を岐阜城と改名。「天下布武」の朱印を使い始め、天下統一を目指して邁進していくことになる。また、この戦いは、豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)が活躍した戦いでも知られ、城に侵入した合図として使用した槍に瓢箪を刺した物が、のちに秀吉の馬印・千成瓢箪になったことでも知られる。
主な参戦武将
織田方(兵力不明) 斎藤方(兵力不明)
織田信長
佐久間信盛
柴田勝家
木下藤吉郎(豊臣秀吉)
稲葉良通
氏家直元
安藤守就
斎藤龍興








かんのんじじょうのたたかい

1568年 観音寺城の戦い  織田信長 VS 六角承偵 
結果:織田信長の勝利  場所:近江国
内容:
 足利義昭を奉じて上洛を目指した織田信長と南近江に勢力を誇った六角承偵(義賢)の戦い。承偵は、足利義栄を将軍に擁立していた三好三人衆と手を組んで信長に対抗した。

経緯と結果、その後:
 1565年、室町幕府13代将軍・足利義輝が三好三人衆らによって殺害された。義輝の弟・義昭は幽閉されたが、義輝の側近であった細川藤孝ら忠臣たちによって救出されて京を脱出し、放浪の末に若狭の守護・武田義統のもとに身を寄せた。そして、そこから藤孝を使者として各地の大名に上洛と将軍就任の後ろ盾となるよう依頼する。しかし、どの大名も上洛には消極的で、義昭の要望に応えるものがいないなか、尾張の織田信長だけが、上洛に意欲を見せた。

 1566年、使者である藤孝の来訪を受けた信長は、機会到来とばかりに上洛することを約束して軍を起こすが、この時はまだ美濃を平定しておらず、斎藤義興の妨害にあい撤退した。しかし、67年に義興を稲葉山城から追放して美濃を平定すると、当時、義統の元を去って朝倉義景を頼っていた義昭から明智光秀を仲介人として再び藤孝の来訪を受け、美濃・立政寺に義昭を迎えた。信長は、北近江の浅井長政とは妹・お市との婚姻で同盟関係となっていたため、京までの道のりで残る勢力は南近江の六角承偵だけであり、承偵に上洛への協力を依頼する。しかし、承偵は足利義栄を14代将軍に擁立して畿内で勢力を誇っていた三好三人衆らと手を組み対抗してきたため、やむなく上洛軍を起こすことになった。

 信長は、義弟・浅井長政だけでなく、徳川家康にも上洛に協力するよう依頼し、結果、上洛軍は6万に達したという。これに対して承偵は、本城である観音寺城をはじめ、18の支城に将を配置して徹底抗戦の構えをみせたが、信長は支城のほとんどには目もくれず、観音寺城と中山道を挟んで対をなす箕作城に執拗な火攻めを行い、これを落城させた。すると、この火攻めに怖気づいた他の支城は日野城の蒲生賢秀を除いてすべて降伏してしまう。この状況をみた承偵は、上洛軍とは一戦も交えることなく甲賀へ逃亡し、観音寺城は無血開城となった。その後、唯一抵抗していた賢秀も、子・氏郷を人質にだして降伏し、京への道を遮るものはなくなった。

 六角家の排除に成功した信長は上洛を果たし、義昭を室町幕府15代将軍の座に就け、さらにその名を天下に轟かせた。そして、応仁の乱以後、荒廃していた京は、信長の徹底した政策で、かつての威風と秩序を取り戻していく。甲賀へ落ち延びた承偵・義治親子は、その後も信長に対して局地的な戦闘で対抗するが、旧領に復帰することはなかった。
主な参戦武将
織田方(60000) 六角方(11000)
織田信長
柴田勝家
丹羽長秀
森可成
木下(豊臣)秀吉
滝川一益

【同盟軍】
浅井長政
松平信一(家康援軍)


六角承偵(義賢)
六角義治
蒲生賢秀









旅先 観音寺城へ



ほんこくじのへん

1569年 本圀寺の変 織田信長 VS 三好三人衆
結果:織田信長の勝利  場所:山城国
内容:
 三好三人衆(三好政康三好長逸岩成友通)が、本圀寺を仮御所としていた室町幕府15代将軍・足利義昭を襲撃した事件。織田信長の京不在をついた襲撃だった。

経緯と結果、その後:
 1565年、足利義輝を殺害した三好三人衆は、その後、三好家中の主導権をかけて三好義継松永久秀と対立した。そして、その戦いが激化するなか、1568年に織田信長と足利義昭の上洛を許してしまう。これに対し、義継と久秀は信長に臣従したが、三好三人衆は反信長の姿勢を崩さなかったため討伐を受けることになり、最終的には畿内を追われ阿波への撤退を余儀なくされた。

 1569年正月、阿波にいた三好三人衆は、信長が岐阜に帰った隙をついて堺に上陸すると、守りが手薄になった京へ進軍、信長に美濃を追われた斎藤龍興とも結んで、本圀寺を仮御所としていた足利義昭を襲撃した。信長は、明智光秀を義昭の護衛につけていたが、その兵数は微々たるもので、光秀は苦戦を強いられた。それでも光秀は寺内への侵入を阻止し、襲撃当日は何とか持ち堪えることに成功する。翌日、急報を聞きつけた細川藤孝、三好義継、伊丹親興池田勝正荒木村重らが義昭の救援に駆けつけると、不利を悟った三好三人衆は撤退。しかし、織田軍の激しい追撃によって散々に打ち破られ、再び阿波へと逃亡した。

 戦後、信長は本圀寺が防衛には向いていないと考え、二条御所の造営に取りかかる。さらに三好三人衆の畿内上陸を手助けした堺の会合衆に対して高額な矢銭を要求し、さらに自治権も剥奪して堺を支配下に置いた。
主な参戦武将
織田方(2000) 三好方(10000)
足利義昭
明智光秀
細川藤孝
三好義継
伊丹親興
池田勝正
荒木村重
三好政康
三好長逸
岩成友通
斎藤龍興





みませとうげのたたかい

1569年 三増峠の戦い 武田信玄 VS 北条氏康
結果:武田信玄の勝利  場所:相模国
内容:
 甲斐の虎・武田信玄と相模の獅子・北条氏康の戦い(氏康自身は戦闘不参加)。戦国時代最大の山岳戦といわれる。

経緯と結果、その後:
 1568年、武田信玄は、今川義元の討死によって衰退の一途をたどっていた今川家を見限り、駿河に侵攻を開始した。これにより1554年から続いていた甲相駿の三国同盟は崩壊する。今川氏真は、妻の実家である北条氏康に支援を要請。氏康はこれに応えて武田家と敵対することを決め、さらに越後の上杉謙信と越相同盟を結んで信玄を背後からも牽制する動きをみせた。

 北条家のそうした動きから、信玄は氏真を今川館(駿府城)から掛川城へ追いやることには成功したが、駿河の完全平定には及ばず、一時撤退することになる。駿河の平定には北条家の動きを封じる必要があると考えた信玄は2万の兵で上野国から関東へと侵攻し、北条方の拠点を攻撃、または牽制しながら南下して小田原城を包囲した。しかし、かつて上杉謙信率いる10万の軍勢をも退けた堅城は、2万の軍ではどうすることもできなかった。挑発にも乗らない氏康の態度をみた信玄は城下に火を放ち甲府への撤退を開始した。

 信玄の撤退を見た氏康は、後詰(援軍)として配置していた滝山城の北条氏照、鉢形城の北条氏邦を武田軍の帰路である三増峠に布陣させる。さらに嫡男・氏政に2万の兵を持たせて小田原から出陣させ武田軍を追走させた。氏康は3隊による挟撃を狙ったが、氏照、氏邦の両軍勢は、氏政の本隊を待ちきれず奇襲攻撃に踏み出してしまい戦闘が開始された。

 戦いの序盤は北条綱成が武田軍左翼の大将・浅利信種を討つなど北条勢有利で進んだが、この奇襲攻撃を信玄は看破していた。信玄は攻撃を受ける前に部隊を分け、別働隊を山県昌景に率いさせて迂回させていた。その別働隊が北条勢に奇襲をかけたことで形勢は一気に逆転する。逆に挟撃されることになった北条勢は後退し始め、さらに大将を失って混乱していた武田軍左翼も持ち直すと、遂に支えきれず敗走した。北条本隊である氏政2万の軍勢は戦場のすぐ近くまで来ていたが、氏照、氏邦敗走の報を聞き、戦わずに小田原へ撤退していった。

 戦後、北条家本国の動きを抑えた信玄は駿河東部に残っていた北条方の諸城を落として今川館を手に入れた。そして、1570年1月には駿河西部にも侵攻して駿河を完全平定する。翌71年、北条氏康が亡くなると、氏康の遺言(?)もあって武田家と北条家は再び同盟を結ぶ(越相同盟は解消)。その後、信玄は織田信長徳川家康と本格的な戦闘に突入し、信長包囲網の要として西上作戦を開始することになる。
主な参戦武将
武田方(20000) 北条方(6000?)
武田信玄
武田勝頼
馬場信春
山県昌景
内藤昌豊

北条氏照
北条氏邦
北条綱成





たたらはまのたたかい

1569年 多々良浜の戦い 大友宗麟 VS 毛利元就
結果:大友宗麟の勝利  場所:筑前国
内容:
 周防、長門を手に入れ、急激に勢力を拡大した毛利元就と豊後を本拠地とする大友宗麟の戦い。毛利家と大友家が筑前、豊前の覇権をかけた戦いのひとつで筑前・立花山城を巡って争った。主戦場になったのが多々良川付近であったため、「多々良川の戦い」と呼ばれることもある。同名の戦いとして、1336年に楠木正成らに敗れて九州に落ち延びた足利尊氏が体制を整えるきっかけになったものがある。

経緯と結果、その後:
 1557年、大内家を滅ぼした毛利元就は、大友宗麟と関門海峡を挟んで領地を接することになり、以後、両者は筑前・豊前の支配をかけて度々争った。1564年、足利義輝の仲介によって両家は一時和睦をするが、1566年に尼子家を滅ぼした元就は再び筑前・豊前への侵攻を考えるようになり、大友家の重臣で宝満城督の高橋鑑種を調略。また、大友家と敵対していた筑前の国人・秋月種実を支援した。

 高橋・秋月の反乱に対して宗麟は、戸次鑑連(立花道雪)吉弘鑑理臼杵鑑速ら討伐軍を派遣するが、秋月勢の奮戦により撃退される。すると筑前立花山城主・立花鑑載までが宗麟に対して反旗を翻し筑前は混乱した。鑑載による反乱は鑑連(道雪)らによって鎮められ、鑑載の自害によって終結するが、元就は、次男・吉川元春、三男・小早川隆景を送り込み、さらに肥前の龍造寺隆信とも結んで宗麟を圧迫した。そして1569年、大友勢が秋月家の制圧に手間取っている間に立花山城は毛利方の支配下に置かれることになる。

 こうして毛利・大友両軍は立花山城の南に位置する多々良川付近で対峙することになるが、立花山城は守りやすく攻めにくい立地にあったため、積極的な攻勢にでなかった毛利勢に対して大友勢も無理な攻城には出ず、行われた合戦は18回にも及んだが、激しい戦いは戸次鑑連(道雪)が小早川勢を駆逐したものが1回あっただけで、毛利勢が再び立花山城に籠ると、再び膠着状態となった。

 この膠着状態に対して大友家の家老・吉岡長増は大友家で保護していた大内家の生き残り大内輝弘に兵を持たせて周防で挙兵させることを提案。宗麟がこれを認めて実行した結果、大内家の旧臣たちが呼応して周防における毛利家の拠点・高嶺城を脅かすことに成功。さらに宗麟は尼子家の旧臣である山中幸盛(鹿介)ら尼子再興軍を助けて出雲に侵攻させることにも成功し、元就に主力の筑前撤退を決意させた。その後、立花山城に残っていた毛利勢も交渉によって撤退。宗麟は毛利勢を筑前から駆逐することに成功した。

 戦後、筑前支配において重役を担っていた立花家と高橋家が反旗を翻したことを重要視した宗麟は、立花山城を戸次鑑連(道雪)に与えて立花の名跡を継がせ、高橋家においても鑑種から家督を取り上げて毛利家に追放し、吉弘鑑理の次男・吉弘鎮理(高橋紹運)に高橋家を継がせた。立花道雪と高橋紹運、二人の忠臣によって大友家の筑前支配は島津家による侵攻が始まるまで盤石なものとなった。
主な参戦武将
大友方(40000) 毛利方(35000)
大友宗麟
戸次鑑連(立花道雪)
吉弘鑑理
臼杵鑑速

毛利元就
吉川元春
小早川隆景