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合戦 その10  (1586~1590)


いわやじょうのたたかい

1586年 岩屋城の戦い  島津忠長 VS 高橋紹運
結果:島津忠長の勝利  場所:筑前国
内容:
 九州統一を目指す島津家と九州で唯一、島津家の敵対勢力となった大友家の重臣・高橋紹運の戦い。島津勢の総大将は島津四兄弟の従兄弟・島津忠長がつとめた。

経緯と結果、その後:
 1578年の高城川(耳川)の戦いで島津家に大敗北を喫した大友家は、豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後、六ヶ国の守護と九州探題の地位を維持することが困難となり、まず龍造寺隆信の独立で肥前を失い、続いて島津家の肥後侵攻にともなって肥後での影響力も失った。こうして九州で圧倒的な勢力を誇っていた大友家の衰退と島津、龍造寺両家の興隆によって九州は三大勢力がしのぎを削る状態となった。だが、この状態も長くは続かず、1584年の沖田畷の戦いで、龍造寺隆信が島津家に敗れて討死し、その後、龍造寺家が事実上、島津家に服従といえる形で和睦となると、その勢力図は崩れ、島津家が大友家を凌駕する状態となった。こうした状況に大友宗麟は、大友家単独で島津家を退かせることは難しいと考え、1586年3月、上洛して豊臣秀吉と謁見し、豊臣家への臣従を条件に援軍の約束をとりつけた。秀吉は、まず不戦で宗麟の期待に応えようとし、同月中に島津義久に対して九州の国分け案を提示したが、その内容は、大友家に有利なものであった。

 秀吉の国分け案を受け取った義久は、その内容に納得いくわけもなく、秀吉の援軍が来る前に九州を統一しようと考え、1586年6月、鹿児島を発して肥後八代に入ると、島津忠長、伊集院忠棟に2万の兵をもたせて筑前に侵攻させた。そして義久が鹿児島を出て僅か一ヶ月後の7月に入るころには、筑前における大友勢力は、岩屋城主・高橋紹運とその子、立花山城主・立花統虎(宗茂)と宝満山城主・高橋統増兄弟だけとなってしまった。この事態に紹運は、763名という少数で島津勢を岩屋城で迎え撃つ決心をする。あまりの戦力差に、統虎は紹運に城から退去して合流するよう進言したが、紹運は、攻略拠点を増やすことで、より時間稼ぎができると考え、統虎からの使者を丁重にもてなしたうえで帰し、決戦に臨んだ。

 7月12日、島津忠長は紹運に降伏勧告を出すが、紹運はこれを拒否、14日から島津勢の攻撃が始まった。紹運以下763名の将兵は果敢に戦い、島津勢に多大な損害を与えた。その攻防は半月に渡り、紹運は島津勢に大きな損害を与えたが、上井覚兼秋月種実の援軍を得た島津勢が27日に総攻撃に移ると、さすがに追い詰められ、最後は自害して果てた。岩屋城に籠った将兵763名は全員討死。だが、島津勢の損害はさらに多く、死傷者は4千以上という壮絶な戦いだった。その後、体勢を立て直した島津勢は、紹運の次男・統増の籠る宝満山城を降伏させ、続いて統虎が籠る立花山城を包囲したが、統虎の計略と奮戦に城を突破できないまま、秀吉が大友家への援軍として派遣した毛利勢が門司に上陸したという報を受けた。不利と見た島津勢は筑前から撤退。紹運の半月に渡る奮戦が、島津家の九州統一の夢を大きく後退させることになった。のちに紹運のこと聞いた秀吉は、紹運を「乱世の華」と賞した。

主な参戦武将
島津方(20000援軍10000) 高橋方(763)
島津忠長
伊集院忠棟
上井覚兼
秋月種実

高橋紹運






へつぎかわのたたかい

1586年 戸次川の戦い 島津家久 VS 仙石秀久(豊臣方)
結果:島津家久の勝利  場所:豊後国
内容:
 豊臣秀吉による九州征伐の前哨戦で、大友家の援軍として派遣された豊臣家臣・仙石(権兵衛)秀久ら率いる淡路・四国勢と島津四兄弟の末弟・島津家久の戦い。家久の巧みな戦術と兵力差によって淡路・四国勢は大敗を喫した。

経緯と結果、その後:
 高城川(耳川)の戦いで大友家を、沖田畷の戦いで龍造寺家を破って九州屈指の勢力となった島津義久は、1586年7月、九州統一を目指して筑前の攻略にとりかかるが、大友家臣・高橋紹運立花統虎(宗茂)の奮戦により、豊臣秀吉が大友家救援のために派遣した援軍に門司への上陸をゆるしてしまい、筑前からの撤退を余儀なくされた。だが、門司に上陸した豊臣援軍が毛利の先遣隊に過ぎなかったこともあり、義久は10月に再び九州統一へ向けて動き出し、次弟・義弘に3万の兵をもたせて肥後口から、末弟・家久に1万の兵をもたせて日向口から大友家の本拠がある豊後に侵攻させた。

 豊後に入った義弘と家久は、大友方だった諸城を次々と攻略し、家久にいたっては、11月に入ると、大友家の当主・大友義統がいる府内大友館と隠居の大友宗麟が籠る丹生島城(臼杵城)を繋ぐ鶴賀城に到達し、城主不在であったこの城を降伏させた。鶴賀城を落とした家久は、1万の兵のうち2千を宗麟が籠る丹生島城の抑えとして向かわし、残る8千の兵で大友館を目指したが、肥前、筑前に出陣していた鶴賀城主・利光鑑教(宗魚)が事を聞きつけて帰国し、城を奪還。退路を断たれることになった家久はやむを得ず兵を返して再び鶴賀城を攻めることになった。

 鶴賀城が島津勢の再攻撃を受けたとき、大友館にはすでに秀吉が派遣した軍監を仙石秀久とする十河存保長宗我部元親信親親子ら率いる淡路、四国の軍勢6千が駐留していたが、秀吉から守りを固め、軽率な行動は慎むよう命令を受けていたため、当初は鶴賀城への援軍は見送っていた。しかし、鶴賀城の悲痛な援軍要請に権兵衛は応えることにし、反対する元親らを軍監の権力をもって抑え込み、救援に向かった。鶴賀城に近づいた淡路・四国勢は、島津勢が城の包囲を解き、鶴賀城の南にある坂原山に兵を退いているのを確認すると、12月の寒空のなか、戸次川の渡河を敢行、鶴賀城へと迫った。だが、このとき、8千だった家久の軍勢は、肥後口から入った義弘から1万の援軍を得て1万8千まで膨れあがっていた。

 12月12日夕刻、淡路・四国勢と島津勢は遂に激突。このとき、数に勝った島津勢は部隊を大きく三つに分け迎撃した。島津得意の「釣り野伏」の体勢であった。まず、島津軍左翼が淡路・四国勢と交戦。頃合いを図って左翼は主力がいる方向に後退し、それを追撃してきた淡路・四国勢は島津軍主力の前にひきずり出される形となった。こうして今度は島津軍主力が淡路・四国勢と交戦することになる。島津軍主力は、追撃してきて士気の高い淡路・四国勢に押され気味になるも、合図によって引き返してきた左翼が合流すると、徐々に押し返し、さらにそこへ鶴賀城の後背を迂回してきた右翼が横槍を入れたことで淡路・四国勢を完全に包囲し潰走させた。このとき、淡路・四国勢の軍監・秀久は友軍を見捨てて逃げ出したという。混戦のなか、存保と信親は討死、元親はかろうじて戦線を離脱した。

 淡路・四国勢の敗退は、秀久の命令違反もさることながら、大友家の援軍を待たなかったこと、また戦闘の数日前に鶴賀城主・利光鑑教が流れ矢によって討死しており、まだ淡路・四国勢が有利に戦闘を進めている時に城兵がまったく行動を起こさなかったこと、そして何より敵兵数が3倍であったことなどが挙げられている。戦後、逃げ帰った久秀は秀吉の怒りを買って改易。期待していた嫡男を失った元親は精彩を欠くようになり、長宗我部家に暗い影を落とすことになる。勝利した家久は、再び鶴賀城を降伏させ、大友義統を豊前へ追いやって大友館に入るが、年が明けた3月、秀吉の九州征伐軍が来ると、これまで島津家に従っていた国人たちが次々と豊臣家になびいて状況が一変し、肥後口から入った義弘共々、豊後から撤退した。

主な参戦武将
島津方(18000) 豊臣方(6000)
島津家久
上井覚兼




仙石(権兵衛)秀久
十河存保
長宗我部元親
長宗我部信親
福留儀重



きゅうしゅうせいばつ

1587年 九州征伐  豊臣秀吉 VS 島津義久
結果:豊臣秀吉の勝利  場所:九州全域
内容:
 豊臣秀吉による九州平定戦。島津義久の討伐を目的としたため「島津征伐」とも呼ばれる。秀吉は20万という大軍勢を率いて、九州上陸からわずか2ヶ月余りで義久を降伏させ、九州を平定した。

経緯と結果、その後:
 1580年代初頭、九州は島津、大友、龍造寺の三家がしのぎを削る状態であったが、1584年の沖田畷の戦い龍造寺隆信を敗死させた島津家が、龍造寺家を事実上臣従させて一気に勢力を拡大した。九州で唯一、島津家の対抗勢力となった大友家は、必至に抵抗を試みるも、1585年に筑後支配の要であった重鎮・立花道雪が亡くなると、島津家に筑後まで奪われ、最盛期には六ヶ国に及んだ支配も筑前、豊前、豊後の三ヶ国まで減少し、滅亡の危機に面した。そこで大友宗麟は、近畿、北陸、中国、四国を支配下に置き、関白の位も得て天下人になりつつあった羽柴秀吉(豊臣姓になるのは86年)に援助を求めた。これを受けた秀吉は、1585年10月、朝廷を動かして島津、大友両家に対して惣無事令(九州停戦令)を出した。

 だが、島津義久は、秀吉の惣無事令を大友家の攻勢に対する防衛であると拒絶。さらに年が明けた1586年1月には、成り上がりものである秀吉を関白と認めない旨を表明した。秀吉は、次の案として九州の国分け案を義久に提示したが、その内容が九州の統一を目前にしている島津家の現状を考慮しているとは思えない大友家に有利なものであったため、義久はこれも拒絶、九州統一を完遂すべく筑前への侵攻を開始した。筑前への侵攻は、大友家の重臣・高橋紹運立花宗茂親子の奮戦と策略によって失敗に終わるものの、その後の豊後侵攻では、義久の次弟・義弘と末弟・家久が活躍し、特に家久は豊臣軍の先遣隊、仙石権兵衛(秀久)率いる淡路・四国勢を戸次川の戦いで破り、大友家の本拠・府内大友館を占拠して大友家をさらに追い込んだ。しかし、その後は丹生島城の宗麟が「国崩し」と呼ばれる大砲を駆使して島津勢を退けたのをはじめ、岡城の志賀親次ら大友家に未だ忠節を誓う諸将の奮戦で、義弘、家久ともこれ以上の北上がままならず、1587年3月上旬、遂に秀吉の弟・豊臣秀長率いる軍勢が小倉に入るのをゆるしてしまう。さらにそのあとに秀吉率いる大軍勢が迫っているのを知った義弘と家久は体勢を立て直すため、制圧しきれなかった豊後からの撤退を余儀なくされた。

 3月下旬、秀吉率いる10万の軍勢が赤間関(現在の下関)に到着。秀長ら先着していた軍勢あわせ、その数は20万にのぼった。赤間関では軍議が開かれ、その結果、軍勢を二手に分け、秀吉は筑前、肥後を経由して薩摩へ、秀長は豊後、日向を経由して薩摩へ向かうことが決まった。筑前に入った秀吉は、唯一、島津方となっていた秋月種実を難なく降伏させ、また肥前で島津方となっていた龍造寺家に対しては龍造寺家の舵取りを任されていた鍋島直茂と誼を通じ、戦わずして傘下に加え、4月10日には筑後へ入った。一方、秀長は抵抗する者もほとんどなく豊後を経て日向に入り、4月6日に島津家の重臣・山田有信が守る高城を包囲した。

 こうした豊臣勢の二方面攻勢に対し、島津義久はまず高城を囲む秀長を撃退してから肥後へ取って返し秀吉を迎え撃とうとした。だが、島津勢の援軍を読んでいた秀長に高城へ通じる要衝、根白坂に堅固な砦を築かれ、義弘、家久の奮戦も空しく、鉄砲などの圧倒的物量と兵力の前に大惨敗を喫し、秀吉と対決することなく、なす術を失った(根白坂の戦い)。根白坂での敗戦後、義久は諸将を集めて軍議を開き、降伏することを決意、5月8日に薩摩川内の泰平寺まで来ていた秀吉に剃髪して謁見し、謝罪と降伏する旨を伝えた。義久降伏後も義弘など抵抗を続ける者もいたが、義久の説得で続々と降伏し、ここに島津家の九州統一の夢は砕けた。秀長率いる豊臣勢が小倉に着陣してから2ヶ月、秀吉が九州に上陸してからわずか1ヶ月半という短さだった。

 6月7日、秀吉は帰国途中の筑前・筥崎八幡宮で九州の国分けを発表した。島津義久には薩摩一国、義久の弟・義弘にも大隅国と日向国の一部が安堵され、龍造寺政家らやむなく島津家に従っていた肥前の国人たちも所領を安堵された。そのほか小早川隆景に筑前、筑後、肥前1郡の37万石、黒田孝高に豊前国6郡の12万石、大友義統には豊後一国と豊前の一部が与えられ、大友家臣で大いに活躍した立花宗茂は大名に取り上げられて筑後柳川に13万石を拝領した。肥後は、賤ヶ岳の戦い小牧長久手の戦いで秀吉と対立した佐々成政に与えられたが、成政は翌87年に領国化を急ぐあまり国人一揆を引き起こしてしまい、その収拾ができなかった罪で改易、切腹となると、肥後北半国は加藤清正に、南半国は小西行長に与えられた。

主な参戦武将
豊臣方(200000) 島津方(50000)
【肥後方面(120000)
総大将・豊臣秀吉
一番隊・毛利吉成(勝信)
二番隊・前野長康
三番隊・中川秀政
四番隊・細川忠興
五番隊・丹羽長重
六番隊・池田輝政
七番隊・長谷川秀一
八番隊・堀秀政
九番隊・蒲生氏郷
十番隊・前田利家
十一番隊・豊臣秀勝

【日向方面(80000)
総大将・豊臣秀長
一番隊・黒田官兵衛(孝高)
二番隊・小早川隆景
三番隊・毛利輝元
四番隊・宇喜多秀家
五番隊・小早川秀秋

【兵糧奉行】
石田三成
大谷吉継
長束正家

島津義久
島津義弘
島津歳久
島津家久

【筑前・古処山城】
秋月種実

【日向・高城】
山田有信



















すりあげはらのたたかい

1589年 摺上原の戦い  伊達政宗 vs 蘆名義広 
結果:伊達政宗の勝利  場所:陸奥国
内容:
 仙道制覇をめざす伊達政宗と会津の名門・蘆名義広の戦い。政宗はこの戦いに勝利して、わずか23歳で奥州の覇者となった。

経緯と結果、その後:
 1585年の人取橋の戦いで南奥州諸侯連合を退けた伊達政宗は、翌86年7月には二本松城も手に入れ、念願の仙道制覇に向けて大きく前進した。しかし、政宗を取り巻く状況は依然として厳しく、周辺勢力とは相変わらず牽制しあう状態が続いた。そんななか、蘆名家では19代当主・亀王丸がわずか3歳で夭折し当主の家系が断絶、蘆名家中は伊達政宗の弟・小次郎を養子に迎えるか、佐竹義重の次男・義広を養子に迎えるかで対立した(小次郎と義広は共に蘆名家16代・盛氏の妹を曾祖母にもつ)。結果は「蘆名の執権」と謳われた金上盛備ら佐竹派が勝ち、義広が蘆名家20代当主となって佐竹・蘆名同盟が成立。この同盟は政宗の仙道制覇の大きな障壁となった。こののち、政宗は南奥州での軍事行動を控えたため、南奥州の情勢は一旦落ち着くことなる。

 88年に入ると伊達領の北方、陸奥国大崎地方に勢力をもった大崎家に内紛が勃発。政宗はこの内紛を大崎領を手にする絶好の機会ととらえ、大崎家の重臣・氏家吉継を調略すると、内紛鎮圧を大義名分に大崎領へ侵攻した。だが、伊達家の介入を嫌った大崎家の当主・大崎義隆最上義光に援軍を要請。その結果、伊達勢は大敗北を喫し、この敗北が南奥州の情勢にも影響を及ぼすことになる(大崎合戦)。

 政宗の敗北は、数日のうちに南奥州にも知れ渡り、これを好機と考えた蘆名義広は、実父・佐竹義重の協力を得て4千の兵で北上、伊達成実率いる6百の兵が籠る二本松城へと迫った。伊達勢にとって圧倒的不利な状況であったが、成実は蘆名勢の先鋒・大内定綱を調略するなど善戦して戦線を維持した。この間に政宗は最上義光と大崎義隆と和睦して北方をある程度安定させる。だが、伊達方が不利であることは変わりなく、結局、政宗は岩城常隆を介して和睦を申し出ることにし、長引く戦況で厭戦気分が生じていた蘆名・佐竹連合もこれを了承して和睦が成立した(郡山合戦)。

 こうして迎えた89年、苦境を乗り越えた政宗に南奥州進出の絶好の機会が訪れる。蘆名家20代当主を決める際、伊達派だった蘆名家の重鎮・猪苗代盛国が政宗に内応。そして、ほぼ時を同じくして佐竹領内で佐竹家臣・小野崎照通が謀反を起こしたため、佐竹義重が蘆名家に援軍を送れない状況に陥った。北方では最上義光が上杉景勝の侵攻に苦しみ、大崎家では相変わらず内紛が続いていた。北の脅威が去り、南に隙が生まれた。政宗はこの機を逃すまいと領内から兵をかき集め米沢を発った。政宗は会津に向かう前に一旦東に進路をとり、怪しい動きをむせていた相馬義胤を牽制、義胤の動きを封じると反転して内応した盛国の居城・猪苗代城を経由して会津へ向かった。こうして6月5日早朝、伊達勢と蘆名勢は北を磐梯山、南を猪苗代湖に挟まれた摺上原に布陣、午前8時ごろ、ついに両軍は激突した。

 このときの兵力は、伊達勢2万3千に対して蘆名勢は1万6千であったという。数のうえでは伊達勢が有利であったが、開戦当初は強い風が蘆名側から伊達側に吹きつけ、風下にあった伊達勢は苦戦した。だが、政宗は旗本勢を繰り出して蘆名勢を徐々に押し戻し、さらに成実隊に山手側を迂回させて側面から蘆名旗本勢に攻撃を加えた。すると、蘆名勢は、なかにもともと戦闘に消極的な者(後継者問題で伊達派だった者たち)がいたこともあって、たちまち総崩れとなり、蘆名義広は黒川城に撤退した。その後、政宗は追撃を開始、黒川城に伊達勢が向かっていることを知った義広は黒川城からも退去、実家を頼り白河城へ落ち延びていった。義広が退去した翌日、政宗は空になった黒川城に入り、念願の仙道制覇を成し遂げた。

 黒川城に入った政宗だが、すべての蘆名旧臣が政宗に従ったわけではなく、蘆名旧領をすべて掌握するにはさらに半年を要することになる。この戦いの勝利は北奥州にも大きな影響を及ぼし、伊達家に抗う術がなくなった大崎家や葛西家は事実上、伊達家の勢力下に組み込まれた。こうして政宗は奥州の覇者となった。しかし、郡山合戦の少し前、87年12月に豊臣秀吉が関東、東北に向けて惣無事令を出しており、小田原征伐で秀吉に臣従した政宗は、のちに惣無事令違反として郡山合戦以降に手にした領土を没収されることになる。

主な参戦武将
伊達方(23000) 蘆名方(16000)
伊達政宗
伊達成実
片倉景綱
白石宗実
原田宗時
後藤信康
大内定綱
猪苗代盛国

蘆名義広
猪苗代盛胤
佐瀬種常
富田氏実
富田隆実
金上盛備





おだわらせいばつ 

1590年 小田原征伐  豊臣秀吉 VS 北条氏直 
結果:豊臣秀吉の勝利  場所:相模国
内容:
 関東、東北以外を掌握した豊臣秀吉による後北条家討伐。後北条家の本拠地が小田原であったことから小田原の役、小田原攻め、小田原の陣などとも呼ばれる。秀吉のもとには後北条家の支配下にない関東、東北の主だった諸大名らが参陣して秀吉に臣従したため、後北条家の降伏によって秀吉の天下統一が成されたとすることが多い。

経緯と結果、その後:
 1587年6月、九州征伐を終え、甲信越、駿河以西を支配下に置いた豊臣秀吉は、12月に関東、東北地方に惣無事令を出し、天下統一の総仕上げに踏み出した。翌88年4月には後陽成天皇の聚楽第行幸を行うこととし、それに伴い傘下の諸大名に列席を求め、また傘下ではないものの天正壬午の乱徳川家康と縁戚となった北条氏政氏直親子にも同様に列席を求めた。しかし、家康、前田利家など有力大名が上洛し、東北の諸大名らも使者をたてるなどして参加したこの盛儀に氏政、氏直親子は欠席しただけでなく使者をたてることもしなかった。この事態に京では秀吉が後北条家を討伐するのではないかと風聞がたつが、縁戚として立場が危うくなることを危惧した家康は、この事態を打開するため、氏政、氏直に後北条家に不利益になることはしないと約すると同時に然るべき人物を上洛させなければ、氏直に嫁がせた督姫を離縁させると半ば脅迫し、結果、氏政の弟・氏規が8月に上洛した。

 氏規は、公家や諸大名らと共に聚楽第で秀吉に謁見したが、秀吉は狩衣姿(公家の普段着、武家の四位の礼服)で居並ぶ諸大名のなか、氏規を素襖姿(平士、陪臣の礼服)で末席に座らせ、一定の礼節をもって接したものの、不快を隠さなかった。秀吉は、天正壬午の乱で徳川家と後北条家の和睦条件となった後北条家への上野国沼田領の割譲が家康と真田昌幸との確執で未だ履行されていないことに触れ、氏規にその裁定を公平に下す代わりに後北条家の臣従を迫った。秀吉の覇気におされた氏規はそれを承諾、また氏政がこれまでのことを弁明するために年内に上洛することを約束した。だが、沼田領問題の裁定が下されなかったためか、氏政が年内に上洛することはなかった。

 89年2月、氏政、氏直は板部岡江雪斎を上洛させ、秀吉に沼田領問題の裁定を願い出た。家康から事情を聞いた秀吉は沼田城は後北条家のものとし、沼田領の3分の2を後北条家に、名胡桃城を含む3分の1を真田家のものとする裁定を行った。この裁定を受け入れた氏直は、12月に氏政が上洛することを再び約束した。沼田城の引き渡しは当初、氏政の上洛を待ってから行うとされていたが、秀吉が譲歩する形で氏政の上洛前に行われた。これを受け後北条家では氏政の上洛の準備が進められていたが、その矢先の10月、沼田と名胡桃の農民の間で水争いがおき、沼田城代で北条氏邦の家臣・猪俣邦憲が名胡桃城を奪い取るという事件を起こしてしまう。この事件は、邦憲の独断とする一方、反秀吉派である氏政や氏邦の指示があったともされる。この事態に氏直は、すぐさま弁明の使者として石巻康敬を上洛させたが、秀吉は聞く耳をもたず、関白太政大臣となり、天皇より「一天下之義」を委ねられた自分の裁定に背く行為として激しく怒り、後北条家討伐の意向を示した。縁戚であった家康もここに至ってはやむなしと後北条家を見限り、12月に上洛して前田利家、上杉景勝らと共に秀吉に賛同して小田原征伐が決定し、秀吉は5ヶ条からなる宣戦布告の書状を氏直に送りつけた。書状を受け取った氏直は、もはや開戦は避けられないものと覚悟を決め、12月17日に家臣および関東の後北条傘下の諸将に対し、翌90年1月15日に小田原へ参陣するよう命じた。

 90年1月、氏政、氏直は小田原城で評定を行った。その席で籠城を主張する松田憲秀と野戦を主張する北条氏邦の間で激しい口論となる。結果、憲秀が主張した籠城に決定するが、野戦を主張した氏邦は居城である鉢形城に帰ってしまうなど一族の間で足並みが揃わないことも起きた。一方、豊臣方は2月1日に先鋒が出立、同月中に東海道主力を率いる豊臣秀次、徳川家康、織田信雄、北国軍を率いる前田利家、水軍を率いる長宗我部元親九鬼嘉隆加藤嘉明らも出陣した。総勢22万という大軍勢である。総大将である秀吉は、後陽成天皇から節刀(標の太刀)を賜り、3月1日に聚楽第を出立、3月19日に家康の迎えを受けて駿府城に入った。

 豊臣方の後北条方諸城への攻撃は、東海道を進む主力、中山道を進む北国軍、相模湾へ向かう水軍ともに3月下旬から始まった。豊臣秀次、徳川家康らが率いる東海道主力は3月29日に山中城を攻略、北条氏規の籠る韮山城は包囲したままで箱根を越え、4月4日に小田原城の包囲に取り掛かった。そして6日には秀吉も湯本に着陣し、小田原城が見下ろせる石垣山に城を築き始めた。長宗我部元親、九鬼嘉隆ら率いる水軍もほぼ同時期に下田城を攻略、さらに梶原景宗率いる北条方の水軍も撃破して相模湾に入り海上を封鎖、包囲網に加わった。中山道を進んだ前田利家は真田昌幸、上杉景勝と合流して北国軍を形成、3月28日に松井田城の攻略に取り掛かり、4月20に城主・大道寺政繁を降伏させると政繁を案内役として北関東の後北条方諸城を次々と攻略しながら小田原目指して南下した。また、後北条家と敵対していた常陸の佐竹義宣、安房の里見義康ら関東勢も豊臣方に加わった。

 包囲から約1ヶ月たった5月に入っても小田原城では大規模な戦闘は行われなかった。町全体が堀や土塁で囲まれた総構えである小田原城は物資も豊富で城内の士気も盛んであった。大軍勢を擁する豊臣方はいずれ物資の補給に限界が来るだろうとの甘い読みもあった。しかし、豊臣方は物資が滞るどころか上方より女衆、御伽衆を呼び寄せ茶会や宴、温泉に興じる余裕を見せ、6月に入ると後北条家が援軍を期待していた唯一の同盟者、伊達政宗が遅参ながらも秀吉のもとに参陣して臣従したため、それらの情報を得た小田原城内では、次第に士気が低下していった。さらに6月中旬から下旬にかけて、一族で奮戦していた鉢形城の北条氏邦、韮山城の北条氏規が相次いで降伏、城内に籠る将兵たちの厭戦気分は益々高まった。こうした状況を受け、6月24日、豊臣方は黒田官兵衛を使者にたて氏直に対して降伏勧告を行い、降伏した氏規も氏直の説得にあたった。その2日後、秀吉が石垣山に築かせていた城が完成。秀吉はこの城を山の木々で小田原城からは見えないようにして築城させていた。そのため、完成して木々を切り倒したとき、小田原城からはあたかも一夜で城が築かれたように見えたという(石垣山一夜城の逸話)。関東初の近世城郭の威容に小田原城内の諸将はもちろん、氏直の心も折れた。そして7月5日、氏直は城兵の助命を条件に自身の切腹と降伏を官兵衛を通して秀吉に申し出た。

 秀吉は氏政と御一家衆筆頭の氏照、後北条家臣である松田憲秀、大道寺政繁の4人を主戦派として切腹を命じた。氏直は降伏の申出が神妙であったと秀吉に気に入られ、また家康の婿ということもあって助命され高野山への追放となった。降伏を勧める使者となった氏規も助命され、氏直に従って高野山へ赴き蟄居した。のち両者は赦され氏直は河内国と関東に合わせて1万石、氏規も河内国に7千石を拝領した。氏邦は前田利家の助命嘆願により助命され、そのまま前田家臣となった。

 7月13日、小田原城に入った秀吉は徳川家康の関東移封を公表し、後北条家の旧領のほとんどが家康に宛がわれた。領地こそ広くなっているが、未開の地も多く、秀吉が家康を警戒して少しでも中央から遠ざけるために移封したといわれる。開戦のきっかけとなった沼田は真田家に宛がわれ、真田昌幸の嫡男・信幸が城主となり、ほぼ独立した大名として家康の与力となった。そして、空いた家康の旧領(三河、遠江、駿河、信濃、甲斐)に秀吉は織田信雄を入れようとしたが、信雄が尾張から移ることを拒んだため改易とした。かつての主家といえども逆らえば改易するという天下が秀吉のものになった事を象徴する出来事となった。改易となった信雄にかわり家康旧領には、秀吉の直臣や早い段階から秀吉に恭順していた旧織田家臣たちが、家康を牽制する形で配された。

 小田原城が開城した後も武蔵・忍城では豊臣勢に対して抵抗が続いていた。攻め手の大将は石田三成で、備中高松城の戦いのように水攻めにしたが、城側の工作によって堤が破壊され味方に溺死者を出してしまった。さらに辺りはあふれ出た水で広大な湿地帯ができ、思うように攻めることができなくなった。結果、小田原城が開城するまでに落とすことができず、三成の戦下手を象徴する戦いとなった。7月16日に小田原城で降伏した忍城主・成田氏長の使者により氏長に代わって城を守っていた成田長親が開城に応じて戦いは終結した。

 7月26日、秀吉は宇都宮城に入って奥羽大名の仕置を行った。その後、浅野長政率いる奥州仕置軍が宇都宮まで迎えに来た伊達政宗の案内で会津黒川に入り、さらに北上して抵抗する者らを制圧し、豊臣政権による新体制を強いた。この仕置で小田原に参陣した佐竹義宣最上義光南部信直津軽為信相馬義胤、戸沢光盛(参陣したのは盛安)らは所領安堵を勝ち得たが、参陣しなかった石川昭光葛西晴信大崎義隆小峰(白河)義親らは改易となった。伊達政宗は参陣はしたものの、郡山合戦から摺上原の戦いまでで得た領地は惣無事令違反と小田原遅参の罪で没収され、150万石から72万石への減封となり、没収された会津には蒲生氏郷が42万石で入った。

 8月半ば、秀吉は京への帰路についた。その後、仕置軍を率いた浅野長政も現地での諸事を済ませ奥州を去るが、その直後の10月初旬から翌91年にかけて改易された大名やその旧臣たちが様々な不満から叛旗を翻し、葛西大崎一揆、和賀稗貫一揆、九戸政実の乱などが起きた。秀吉は豊臣秀次を総大将として奥州再仕置軍を編成し、これに徳川家康、上杉景勝、前田利家らが加わり、さら蒲生氏郷、伊達政宗、最上義光ら奥州の諸大名らも合流してこれらの反乱を鎮圧した。この奥州再仕置により秀吉に対して組織的な反乱を起こす者はいなくなり、秀吉の天下統一が完成した。

 再仕置軍が編成されるまえ、伊達政宗が葛西大崎一揆を扇動したという疑惑が持ち上がった。一揆を扇動しながら、その一揆を鎮圧し加増を目論んだという。企みは蒲生氏郷の訴えによって露見し、政宗は上洛して秀吉に対し申し開きを行った。秀吉はこの申し開きを認めたものの疑惑が晴れたわけではなく、政宗を72万石から58万石へ減封した(葛西大崎の旧領30万石を与え、会津寄りの44万石を没収)。そして、政宗から没収した領地は氏郷に与えられ、蒲生家はその他の加増も含めて91万石の大大名となった。

主な参戦武将
豊臣方(約220000) 北条方(約80000)
【東海道主力(約170000)
豊臣秀吉
豊臣秀次
徳川家康
織田信雄
宇喜多秀家
蒲生氏郷
堀秀政
黒田官兵衛(孝高)
黒田長政
小早川隆景
細川忠興
池田輝政
福島正則
石田三成
大谷吉継
長束正家
立花宗茂
佐竹義重
佐竹義宣

【北国軍(約35000)
前田利家
前田慶次(利益)
上杉景勝
直江兼続
真田昌幸
真田信幸
真田幸村(信繁)

【水軍(約10000)
長宗我部元親
九鬼嘉隆
加藤嘉明
脇坂安治


【小田原城(50000?)
北条氏政
北条氏直
北条氏照
松田憲秀
成田氏長

【松井田城(2000)
大道寺政繁

【鉢形城(3000)
北条氏邦

【忍城(500)
成田長親

【玉縄城】
北条氏勝
(山中城から脱出後)

【山中城(4000)
松田康長
北条氏勝

【韮山城(3600)
北条氏規

【下田城(600)
清水康英

【水軍】
梶原景宗