ホームへ

合戦年表へ

武将紹介へ


合戦 その6  (1577~1580)


てどりかわのたたかい

1577年 手取川の戦い 上杉謙信 VS 柴田勝家(織田方)
結果:上杉謙信の勝利  場所:加賀国
内容:
 上杉謙信と織田軍の戦い。織田信長は参戦しておらず、北陸方面司令の柴田勝家が織田軍の総大将をつとめた。謙信が織田軍と戦った唯一の戦いで謙信の圧勝で終わったとされる。しかし、大規模な戦いであったということは、上杉方の資料のみに見られるもので、実際の規模については諸説ある。

経緯と結果、その後:
 1572年、武田信玄西上作戦を実行するため、顕如を通じて越中で一向一揆を起こさせ、宿敵・上杉謙信を足止めした。それ以来、謙信は、越中の一向一揆と関東を支配する北条氏政との戦いに日々を費やすことになる。この状況が変わるのは、信長によって京を追放され、毛利輝元のもとに身を寄せた足利義昭が、第二次・信長包囲網を築くべく、上杉謙信、武田勝頼、北条氏政に甲相越一和を持ちかけたことに始まる。結果、甲相越一和はならなかったものの、義昭の要望に応える決心をした謙信は、1576年5月に義昭と共に信長に対抗していた顕如と和睦。9月には一向一揆が鎮まった越中を平定し、上洛の準備として能登国の平定に乗り出した。

 1576年時点での能登国は、守護大名・畠山家が治めていたが、1574年に11代当主・義隆が急死してからは、まだ幼少であった義隆の子・春王丸が擁立され、有力重臣で親織田派であった長続連が実権を握っていた。謙信は、畠山家の居城であり上洛のための重要拠点でもある七尾城を平和裏に接収しようとしたが、続連が籠城の構えを見せたため城を包囲した。しかし、七尾城は堅城で攻めきれず、さらに関東で北条氏政が不穏な動きを見せたため、一時撤退を余儀なくされた。

 1577年、足利義昭と毛利輝元が謙信に早期の上洛を要請してきたため、謙信は再び能登に侵攻し七尾城を包囲した。この時も続連は七尾城での籠城によって上杉軍に対抗するが、徹底抗戦をするべく、百姓や町人すべての者を城内に入れたため、衛生上の問題が発生し、疫病によって城主・春王丸まで亡くなるという事態に陥った。そのため、続連は信長の援軍に命運を託すことにし、三男・連龍を信長のもとへ派遣した。

 続連の要請を受けた信長は、ただちに援軍の派遣を決定。北陸方面司令を任せていた柴田勝家を総大将として、丹羽長秀滝川一益羽柴(豊臣)秀吉ら織田家の精鋭4万を七尾城救援に向かわせた。しかし、援軍が到着する前に、七尾城は、続連と対立していた親上杉派の畠山家臣・遊佐続光の謀反によって謙信に明け渡され、続連をはじめ、長一族はことごとく殺害されてしまった。そして、その事を勝家らは手取川を渡河したのちに知ることになる。

 七尾城落城の報に接した柴田勝家は、もはや援軍の意味はないとして撤退を決意。しかし、戻ってきた手取川は、数日降り続いた大雨で水量が増し、まともに渡河できる状態ではなかったという。そこへ背後から謙信自ら率いる上杉軍の猛追撃を受け、織田軍は千人以上が討死。さらに川へ追い落とされた者の多くが溺死したという。幸い、勝家をはじめ、織田家の名だたる武将たちは溺死することなく渡河に成功。謙信もそれ以上の追撃はしてこなかったため、勝家らは無事帰還を果たすことができた。

 この戦いでは、柴田勝家と羽柴秀吉が意見の衝突を起こし、行きの手取川渡河後に秀吉が無断で戦線離脱をしたことが知られている。秀吉は信長の怒りを買うが、謙信の動きに呼応して謀反を起こした松永久秀の討伐で武功を挙げて許され、その後すぐに中国方面軍司令に任命された。織田軍に圧勝した謙信は、越冬のため越後に帰国。そして年明け3月に大遠征を宣言していたが、その直前に脳溢血で他界し、上杉家では景勝景虎による家督争い「御館の乱」が勃発することになる。
主な参戦武将
上杉方(20000) 織田方(40000)
上杉謙信
上杉景勝
上杉景虎
斎藤朝信





柴田勝家
丹羽長秀
滝川一益
佐々成政
前田利家
不破光治
羽柴(豊臣)秀吉(途中戦線離脱)




おたてのらん

1578年 御館の乱 上杉景勝 VS 上杉景虎
結果:上杉景勝の勝利  場所:越後国
内容:
 上杉謙信死後に起きた上杉家の家督争い。謙信の二人の養子、景勝景虎の間で争われ、上杉家が二分しただけでなく、北条、武田、伊達、蘆名など周辺諸国も巻き込んだ乱へと発展した。最後は景勝が勝ち上杉家の家督を継いだ。

経緯と結果、その後:
 1577年、手取川の戦いで織田軍に勝利し、越中、能登をも制した謙信だったが、越冬のため越後に帰国した翌78年3月、後継者を定めないまま厠で倒れ、そのまま意識が戻ることなく亡くなった。そのため、謙信の二人の養子、景勝、景虎の間で家督争いが起こることになる。景勝は、一門の筆頭・長尾政景の子で、母は謙信の姉・仙桃院。父・政景が船遊びで謎の死を遂げたのを不憫に思った謙信によって養子に迎えられた。一方、景虎は北条氏康の子(七男)で、1569年に越相同盟が結ばれた際、人質として上杉家に入った。その後、謙信に気に入られて養子となり、仙桃院の娘(景勝の妹)を娶る。二人は義兄弟という間柄であった。

 先手を打ったのは景勝で、景勝は謙信の遺言と称して春日山城の本丸、金蔵、武器庫を制圧、さらに斎藤朝信ら重臣の多くを味方につけ、謙信が使用していた印判をもって国内外に謙信の後継者であることを報じた。後手にまわってしまった景虎は、春日山城の三の丸を脱出、前管領である上杉憲政を味方につけ、憲政の居館「御館」に移り、兄・北条氏政、そして氏政を通じて武田勝頼、さらに伊達輝宗蘆名盛氏に援軍を要請した。

 戦いが本格化した当初は、周辺諸国を味方につけた景虎が優位に立ったが、景勝方は五十公野治長(のちの新発田重家)が伊達輝宗、蘆名盛氏の撃退に成功、さらに東上野の地と黄金一万両を贈って武田勝頼と軍事同盟を結ぶなど、外部勢力の干渉を削ぎ、徐々に景虎を追い詰めていった。そして、景虎方最後の外部勢力・北条勢が越冬のため、撤退すると、景勝は雪解け前に決着をつけるべく、「御館」の総攻撃を命じた。

 攻撃を受けた景虎は、味方諸城の落城と離反者が相次ぐなか、それでも1ヶ月以上を耐え抜いた。しかし、雪の影響で実家・北条家の援軍が望めない状況であったため、上杉憲政と共に「御館」を脱出する。その後、憲政は人質として景虎の子・道満丸を連れて景勝との和睦交渉に望もうとするが、道満丸共々殺害された。そして、景虎は小田原への退去の途中で堀江宗親の謀反にあい、妻と共に鮫ヶ尾城で自害した。

 戦いに勝利して家督を継いだ景勝だが、景虎死後も景虎に味方した国内勢力の反乱は続き、収束したのは1580年のことだった。しかし、その後、論功行賞に不満をもった新発田重家が反乱。その鎮圧に手間取っている間に能登と越中のほとんどが織田信長に奪われ、北陸方面司令である柴田勝家の猛攻にも苦しむことになる。織田家の猛攻は本能寺の変により中断されたが、景勝が、羽柴(豊臣)秀吉の後ろ盾を得て重家の反乱を鎮圧し、再び越後を統一したのは1587年のことだった。
主な参戦武将
景勝方(4000?) 景虎方(6000?)
上杉景勝
樋口(直江)兼続
直江信綱
斎藤朝信
甘粕景持
本庄繁長
新発田長敦
新発田重家

上杉景虎
上杉憲政
北条氏政
北条氏照
北条氏邦
伊達輝宗
蘆名盛氏
武田勝頼(途中で景勝と同盟)



みきじょうのたたかい

1578年~80年 三木城の戦い 羽柴秀吉(織田方) VS 別所長治
結果:羽柴(豊臣)秀吉の勝利  場所:播磨国
内容:
 織田軍・中国方面司令・羽柴(豊臣)秀吉と播磨三木城主・別所長治の戦い。約2年の間に起きた戦いを総称して三木合戦ともいう。最後は秀吉が、兵糧攻めで三木城を降伏させ勝利した。秀吉の三大城攻めのひとつで「三木の干殺し」と呼ばれる。

経緯と結果、その後:
 室町時代、播磨の国は赤松家が守護をつとめていたが、戦国時代に入ると、赤松宗家は没落し、赤松家の一族が各地で反独立勢力として割拠した。別所家も、そのひとつで三木城を本拠として東播磨に勢力を誇るようになる。織田信長が上洛してくると、当時の別所家当主・安治は西の大国・毛利家との友好を維持しつつ、信長とも通じ、三好三人衆と戦うなど織田家と良好な関係を築き、安治死後に家督を継いだ長治もその方針を受け継いだ。

 1577年、中国方面司令として羽柴秀吉が播磨に入国。御着城主・小寺政職の家臣・黒田官兵衛(孝高)の活躍もあり、播磨国のほぼ全域が織田家の支配下に入った。しかし、1578年に入ってすぐ長治は、将軍・足利義昭を擁する毛利家と結び、織田家に対して突然反旗を翻す。理由はいくつか考えられており、名門としての矜持が成り上がりである秀吉に従うことを許さなかったとか、播磨平定を急いだ秀吉が上月城で見せしめに行った虐殺に憤慨したからともいわれる。どちらにせよ播磨の平定が振り出しに戻った秀吉は、長治と共に寝返った諸城の攻略に乗り出し、三木城包囲の準備にとりかかった。

 三木城の包囲に乗り出した秀吉だが、その過程は困難を極めた。隣国・丹波では76年から長治の舅でもある波多野秀治赤井直正らと共に反織田の立場をとっており、長治と結託。さらに、秀吉の与力として三木城攻めに参加していた荒木村重も毛利家、本願寺と結んで摂津・有岡城で謀反を起す。長治と村重の離反により、織田家の畿内支配は根底から揺らぎ、畿内の安定を優先した結果、秀吉は尼子勝久山中鹿之助(幸盛)主従に守らせていた上月城を見捨てざるを得ない状況となり、毛利家の西播磨侵攻も許してしまう事態に陥った。

 しかし、上月城を落とした毛利家は、それ以上の東進はしてこなかった。それを見た秀吉は、織田信忠の援軍の力を借りて別所方の諸城を攻略し、三木城の包囲に成功。援軍撤退後も包囲を続け、三木城への物資搬入を防ぐ体制を整えた。その後、織田勢は、第二次・木津川口の戦いで毛利水軍を破って大坂湾の制海権を奪取、1579年に入ると、波多野秀治と荒木村重も降す。その間、秀吉も長治が状況打開を狙って起こした平井山合戦や長治と毛利家が兵糧搬入を目指した大村合戦を制し、1580年正月には、三木城内の兵士が武器を取ることさえできないほどの飢餓状態まで追い込んだ。ここに至って、長治は、ようやく降伏を決意、秀吉より出された長治と一族の命と引き換えに城兵を助けるという条件を承諾する。長治は、妻子を自ら刺殺したのち切腹、三木城は降伏開城し、約2年にわたる三木合戦は終了した。
 
 この2年に及ぶ戦いのさなか、秀吉の軍師として活躍した竹中半兵衛(重治)が平井山合戦後に陣中で病没している。秀吉に協力していた黒田官兵衛(孝高)は、荒木村重が謀反を起こした時、村重を説得するため訪れた有岡城で捕らえられ、1年のあいだ土牢に幽閉された。有岡城の落城と共に救助された官兵衛は、三木城攻めに参加、三木城の降伏後に長治と共に織田家に反旗を翻した主君・小寺政職が逃亡すると、改めて秀吉の与力となり、半兵衛の後任として秀吉の軍師となる。
主な参戦武将
織田方(数万) 別所方(7500)
羽柴(豊臣)秀吉
羽柴(豊臣)秀長
竹中半兵衛(重治)
黒田官兵衛(孝高)
浅野長政
前野長康
堀尾吉晴
中村一氏
仙石権兵衛(秀久)
別所長治






ありおかじょうのたたかい

1578年~79年 有岡城の戦い 織田信長 VS 荒木村重
結果:織田信長の勝利  場所:摂津国
内容:
 織田信長に仕えていた荒木村重が謀反を起こしたことに端を発する籠城戦。この頃、畿内では既に丹波の波多野秀治、播磨の別所長治、そして本願寺が信長に対して反旗を翻しており、そこに摂津の村重が加わったことで、信長の畿内支配が根底から揺らぐこととなった。

経緯と結果、その後:
 荒木村重は、はじめ摂津三守護のひとり・池田勝正の家臣だったが、下剋上を成し遂げて池田家の実権を握り、織田信長と足利義昭が対立すると、信長に味方して認められ、摂津一国を任された。その後も信長に従って越前一向一揆討伐、石山合戦、紀州征伐などで活躍したが、羽柴(豊臣)秀吉の与力として播磨平定戦に参加していたさなか、居城・有岡城で突如、謀反を起こした。謀反の理由は諸説あり、単純に信長の横暴に耐えかねたというもの、家臣・中川清秀が本願寺に兵糧を横流ししていたため、それが露見した時の処罰を恐れたというもの、本願寺攻めの総大将に佐久間信盛、播磨攻めの総大将に羽柴秀吉が任命された事を受け、活躍の場を奪われ将来に絶望したというものなどがある。

 村重謀反の報を受けた信長は、娘を村重の子・村次に嫁がせていた明智光秀らを説得に向かわせたが失敗。秀吉も村重と旧知の仲であった黒田官兵衛(孝高)を説得に向かわせたが、官兵衛は捕らわれ土牢に幽閉されてしまった。畿内では未だ本願寺が毛利家と結んで反信長の姿勢をとっており、村重と本願寺両勢力を敵に回すことを不利とみた信長は、次の手として本願寺との和睦を試みたが、本願寺が有利な状況を捨てるわけはなく、これも失敗に終わる。しかし、第二次・木津川口の戦いで織田水軍が毛利水軍に完勝。本願寺を孤立させることに成功した信長は和睦の方針をとりやめ、村重討伐を決意した。

 信長は、本格的な討伐に乗り出す前に荒木方の諸将の調略を試み、村重の有力与力だった高山重友(右近)と中川清秀の調略に成功する。これをきっかけに村重についていた諸城の織田方への寝返りが相次ぎ、村重の籠る有岡城は徐々に孤立していった。村重は、1年余り戦い続け、織田勢を苦しめたが、結局状況は打開できず、妻子を残して城を抜け出し、尼崎城へ逃亡した。村重不在を知った信長は、有岡城の総攻撃を開始、滝川一益の調略も功を奏し、最後は城守であった荒木久左衛門(池田知正)が降伏に応じ開城した。

 有岡落城後、信長は、久左衛門に「尼崎城と花隈城を明け渡せば、捕らえた妻子と家臣の命は助ける」旨を村重に伝えるよう命じた。しかし、村重はこれに応じず、久左衛門も処罰を恐れたのかそのまま出奔してしまった。そのため、信長は、村重及び久左衛門の妻子と一族郎党をことごとく処刑した。その後、村重は尼崎城も抜け出し、花隈城に入るが、結局そこからも逃げ、毛利家を頼って落ち延びた。本能寺の変後、秀吉が中央を制すると、村重と久左衛門は秀吉に赦免され豊臣家に仕えた。
主な参戦武将
織田方(50000) 荒木方(10000)
織田信長
羽柴(豊臣)秀吉
黒田官兵衛(孝高)
明智光秀
滝川一益
池田恒興


荒木村重
池田知正(荒木久左衛門)

<織田方へ寝返り>
高山(右近)重友
中川清秀



だいにじきづがわぐちのたたかい

1578年 第二次 木津川口の戦い 織田水軍 VS 毛利水軍
結果:織田水軍の勝利  場所:摂津国
内容:
 織田水軍と毛利水軍の戦い。第一次・木津川口の戦いで毛利水軍の焙烙玉(火矢)に完敗した織田信長は、大船を鉄板で覆った鉄甲船6隻を建造。再び木津川口で毛利水軍と戦い完勝した。

経緯と結果、その後:
 1576年、第一次・木津川口の戦いで毛利水軍に敗れた織田信長は、毛利水軍の焙烙玉(現代でいう手榴弾のような兵器)に対抗するため、志摩水軍の頭領・九鬼嘉隆に鉄板で大船を覆った鉄甲船6隻を建造させた。この鉄甲船は、横七間(約13メートル)、縦十二間(約22メートル)の大きさを誇り、乗員は5千人、さらに大筒、大鉄砲が多数装備されていたという。

 1578年6月、九鬼嘉隆率いる鉄甲船6隻と滝川一益が指揮する大船1隻は熊野浦を出港。大阪湾へ向かう途中で雑賀衆の水軍を撃破して7月に堺に到着、大阪湾に配備されて海上を封鎖し、石山本願寺の包囲に加わった。信長は、この鉄甲船をわざわざ堺まで見物に訪れ、その出来栄えのよさに嘉隆と一益に褒美を与えたという。こうして同年11月、石山本願寺への物資搬入を目論む毛利水軍600隻と鉄甲船6隻を擁する織田水軍は再び木津川口で戦火を交えることになった。午前8時頃に始まった戦闘は、鉄甲船6隻が毛利水軍の焙烙玉を全く受け付けず、備えていた火力で敵大将が乗った船をことごとく破壊、正午には残っていた毛利水軍が撤退し、織田水軍の圧勝で幕を閉じた。

 この頃の織田家は、丹波の波多野秀治、播磨の別所長治、摂津の荒木村重らに反旗を翻され、本願寺包囲にほころびが生じており、信長は正親町天皇に願い出て本願寺との和睦を打診していた。本願寺には戦闘の2日前に勅使が到着していたが、本願寺の宗主・顕如は毛利家の同意なしに受けることはできないとし、この話が毛利輝元に届く前に戦闘が始まってしまった。しかし、結果は織田水軍の圧勝。この敗北で本願寺は制海権を失い、その後、秀治、長治、村重の謀反も鎮圧されると完全に孤立、信長がしようとしていた和睦を今度は顕如が願い出て、1580年に事実上、本願寺が信長に降伏する内容で締結された。和睦の成立後、顕如は石山本願寺を退去。10年に及んだ石山合戦が終結した。
主な参戦武将
織田方(鉄甲船6隻) 毛利方(600隻)
九鬼嘉隆
滝川一益

村上武吉(?)
乃美宗勝



たかじょうかわ(みみかわ)のたたかい

1578年 高城川(耳川)の戦い 島津義久 VS 大友宗麟
結果:島津義久の勝利  場所:日向国
内容:
 薩摩の島津義久と豊後の大友宗麟が日向の覇権をかけて争った戦い。「耳川の戦い」ともいう。主戦場は高城川原で、耳川付近では島津勢の激しい追撃戦が行われた。大友家は、この戦いで致命的な敗北を喫し、徐々に衰退していく。

経緯と結果、その後:
 1572年の木崎原の戦いで、島津家に敗北した日向の伊東義祐は、その後も島津家の侵略を受け、1577年に大友宗麟を頼って豊後に落ち延びた。豊後に着いた義祐は、宗麟に日向奪還の助力を要請。宗麟は、これを聞き届け、1578年に入ると、4万の軍勢を率いて日向に侵攻し、島津方であった土持親成を撃破して耳川以北を支配下に置いた。

 一方、島津義久は、日向南部の平定を進めているさなか、足利義昭の使者を迎えた。この時の義昭は、織田信長によって既に京を追放されており、毛利輝元を頼って、備後・鞆に居を構えていた。義昭は、信長を排すべく、輝元の上洛を望んだが、輝元が上洛しないのは、背後を宗麟に脅かされているせいだと考え、義久に宗麟の抑えを要請してきたのである。義昭は、すでに名ばかりの将軍ではあったが、大義名分を得た義久はさらなる北上を決意し、日向の平定を目指すことになる。

 10月に入ると、宗麟は、耳川の北方、無鹿に陣を構えたまま、田原親賢(紹忍)を総大将として4万の軍を南下させ、島津家臣・山田有信が守る高城を攻めさせた。これに対し、義久は、佐土原城の末弟・家久を救援に向かわせると、自身も3万の兵を率いて鹿児島を出発する。高城を攻撃する大友軍は4万という大軍であったが、家久と有信の兵3千は奮戦、義久の軍に次弟・義弘らの軍が加わった4万の援軍が到着するまで城を守り切る。こうして両軍の主力は、高城川(現・小丸川)を挟むように対峙した。

 島津家の後詰(援軍)到着を知った大友軍では軍議が開かれたが、島津家との和睦を推し進めようとする慎重派の親賢と主戦派の田北鎮周が対立。軍議は軍師・角隈石宗も唱えた慎重派の意見が採用されたが、鎮周は抜け駆けをし、高城川を渡河して島津軍に攻撃を仕掛けてしまう。そうなると、鎮周を放っておくわけにもいかず、大友諸将たちも後に続いた。最初は勢いに乗る大友軍が優勢であったが、義久は、大友軍の動きに合わせて伏兵を配置、鎮周が深追いしてきたところを伏兵と共に反撃にでた。さらにその状況を見ていた高城の家久、有信も城から打って出て大友軍を完全に包囲、結果、大友軍は島津が得意とする戦術「釣り野伏」戦法にかかってしまい潰走した。その後も島津軍は北へ敗走する大友軍を猛追、耳川を渡れず溺死した者も含め、大友軍は3千もの将兵が戦死したという。無鹿に陣を張っていた大友宗麟は、敗報を受けて退却。戦いは島津軍の大勝利に終わった。

 この戦いで大友家は、田北鎮周、角隈石宗、吉弘鎮信ら重臣と蒲池鑑盛ら大友方についていた国人の多くを失い衰退の道を歩み始めることになる。敗因は軍の統制がとれていなかったことが大きいが、宗麟は日向にキリシタン国の建設を目指していたといわれ、そのため、日向侵攻の初戦で滅ぼした土持親成の領内で寺社仏閣を破壊して回っており、キリシタンではない諸将と不協和音が生じていたことも大きく影響していたといわれる。勝利した島津家は、悲願であった薩摩、大隅、日向を平定。さらに大友家の影響が少なくなった肥後へと支配領域を増やしていくことになる。
主な参戦武将
島津方(40000) 大友方(40000)
島津義久
島津義弘
島津歳久
島津家久
山田有信
上井覚兼

大友宗麟(無鹿にて在陣)
田原親賢
田北鎮周
吉弘鎮信
角隈石宗
蒲池鑑盛