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事件・出来事
応仁の乱 おうにんのらん (1467年~1477年)
1467年(応仁元年)から1477年(文明9年)まで約11年間つづいた内乱。応仁・文明の乱ともいわれる。管領家・畠山家の家督争いから始まり、そこに将軍家の後継者争い、さらに守護大名の家督争いまで加わり、日本全土を巻き込む大乱となった。戦国時代の幕開けとされる出来事のひとつ。
経緯と結果:
打ち出した政策をことごとく阻まれ政治に意欲をなくした室町幕府8代将軍・足利義政が、弟・義視を後継者にするといいながら、正室・日野富子との間に義尚が生まれると、優柔不断な態度をとり、細川勝元が義視を、山名宗全が義尚と、当時の幕府の有力者ふたりが、それぞれの陣営の後ろ盾となったことが戦いに拍車をかけた。勝元率いる東軍16万、宗全率いる西軍11万による戦いは、1473年に勝元と宗全が相次いで亡くなったことで終息に向かい、9代将軍には義尚が就任した。しかし、完全終結にはさらに4年の月日を擁し、11年の間に京都は焦土と化し、時代は戦国時代へと向かっていった。
明応の政変 めいおうのせいへん (1493年)
細川政元が起こした室町幕府将軍の擁廃立事件。この事件以後の将軍たちが、時の権力者たちの傀儡と化したことから、この事件を戦国時代の始まりとする説がある。
経緯と結果:
応仁の乱後、室町幕府9代将軍になった義尚は、将軍家の権威を取り戻すために積極的な政策を打ち出し行動していたが、公家や寺社の所領を横領していた六角高頼の討伐中に陣中で没した。細川政元は、次期将軍に義澄(堀越公方・政知の子)を推すが、最終的には日野富子(8代将軍・義政の正室)が推した義材(義視の子、のちの義稙)が10代将軍に就任した。将軍擁立には失敗した政元だが、義材との間で政治のことは政元に任せるとの約定が成されたという。
しかし、将軍となった義材は、義尚の政策を受け継ぎ、政元の制止を度々無視しては親征を行った。政元は遂に政変を決意し、義材が畠山家の家督争いに介入して河内へ遠征している隙をついて義澄を将軍に擁立。義材を捕らえて幽閉し、将軍職を解任した。義材を将軍に推しながらも、その後の義材の行動に不満を抱いていた日野富子らを味方にしての用意周到な政変だった。
永正の錯乱 えいせいのさくらん (1507年)
管領・細川政元の3人の養子による家督争いの過程で起きた政元暗殺事件。事件後、細川家の身内争いは激化していき、最終的には三好長慶の台頭へ繋がっていった。
経緯と結果:
明応の政変後、室町幕府11代将軍・足利義澄の管領として絶大な権力を手にした政元だが、女人禁制の修験道に没頭するあまり、後継者となる実子がおらず、関白・九条基経の末子・澄之、細川家の一門で阿波守護家の澄元、管領・京兆家の分家・野洲家の高国、3人を養子とした。
はじめ政元は、一番最初に養子となった澄之を嫡子としたが、折り合いが悪く、澄元が養子となると澄之を廃嫡し、澄元を嫡子に指名した。そのため、これを不満に感じた澄之派の香西元長たちによって政元は暗殺され、管領・京兆家の家督をめぐって3人の養子が争うことになった。3人の争いは、1511年の船岡山合戦を制した高国が制することになるが、高国は澄元の子・晴元と抗争を続けていくことになり、晴元のもとで三好長慶が台頭することになる。
守山崩れ(森山崩れ) もりやまくずれ (1535年)
三河国岡崎を中心に勢力を拡大しつつあった松平清康が、尾張国守山で家臣・阿部正豊に刺殺された事件。清康の跡を継いだ広忠(家康の父)は、まだ10歳と若かったため、松平家の急速な弱体化を招いた。
経緯と結果:
清康が尾張守山に出兵した際、陣中で家臣・阿部定吉が謀反を起こすのではないかという噂が流れた。定吉は自分は潔白であるとして、子・正豊にそれを示す書状を預けていたという。数日後、清康本陣で馬が暴れだす騒ぎが起こると、父が殺害されたと勘違いした正豊によって清康は刺殺されてしまう。正豊はその場で成敗されたが、名君の誉れ高かった清康の早すぎる死は松平家の行く末に暗い影を落とすことになる。
定吉謀反の噂を流したのは清康の大叔父で親織田派であった松平信定と考えられ、その背後には織田信秀(信長の父)がいたといわれる。清康の死後、岡崎城は信定に占領され、清康の跡を継いだ広忠(家康の父)は一時城を追われた。噂を流された定吉は連座を免れ、以降も広忠のために尽力し、信定から岡崎城を取り戻すのに貢献している。
鉄砲伝来 てっぽうでんらい (1543年)
大隅国・種子島に漂着したジャンク(中国船)に乗っていたポルトガル人により、日本に初めて火縄銃がもたらされたという事件。現時点では、この「種子島伝来説」が定説となっているが、伝来年、伝わった場所には諸説ある。
経緯と結果:
1543年、種子島に一艘のジャンクが漂着した。乗員には火縄銃を携えたポルトガル人が乗っていた。同乗していた明の僧と筆談で何とか交渉することができた種子島の領主・種子島時堯は、火縄銃の威力を見て興味を持ち、ポルトガル人が持っていた火縄銃二挺を高額で買い取った。そして、一挺を薩摩の島津貴久を通じて幕府に献上し、もう一挺は島の鍛冶師・八板金兵衛に模作させて国産第一号の火縄銃を作ることに成功した。金兵衛は、制作にあたり、尾栓に使われていたネジの作り方が分からず、娘・若狭をポルトガル人に嫁がせて製法を聞き出したという。その後、火縄銃は根来や堺を経て全国に広がり、いくさの戦術に大きな変化を与えることになった。ちなみに織田信長が大量発注をしたことで知られる近江・国友の火縄銃は、幕府に献上されたものを元に作られたという。
二階崩れの変 にかいくずれのへん (1550年)
豊後大友家20代当主・義鑑が子・義鎮(宗麟)派の家臣に襲撃され死亡した事件。大友館の二階で起きたためこう呼ばれ、義鑑が義鎮の廃嫡を考えたことが発端となっている。かつては義鎮の関与が否定されていたが、今では関与していたという説も有力視されている。
経緯と結果:
義鑑ははじめ、義鎮を嫡男として家督を譲る気でいたが、次第に側室の子・塩市丸に家督を継がせたいと考えるようになり義鎮の廃嫡を考え始めた。それに伴い家中も義鎮派と塩市丸派に分裂し対立が始まった。義鎮廃嫡の理由としては義鎮の母が大内家出身であったため、家中から大内勢力を排除するためだったといわれる。
義鑑は義鎮派の主要な家臣の説得を試みたが、意見を覆すことができず、粛清を始める。そのため、身の危険を感じた他の義鎮派の家臣によって襲撃され、塩市丸とその生母は死亡、義鑑も瀕死の重傷を負った。義鑑は襲撃の2日後に亡くなり、家督は戸次鑑連(立花道雪)ら重臣たちに擁立される形で義鎮が継いだ。この事件に義鎮は無関係で一部家臣の暴走だったといわれていたが、義鎮の事後処理の手際のよさから、今では関連を疑われている。
甲相駿三国同盟 こうそうすんさんごくどうめい (1554年)
甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、駿河の今川義元が結んだ同盟。駿河の善徳寺に、三国の当主が一堂に会して結んだという逸話から「善徳寺の会盟」とも呼ばれる。しかし、同盟成立時の状況から当主が一堂に会したというのは考えにくく、それに関しては後世の創作だといわれている。
経緯と結果:
1550年代の初頭、駿河の今川義元は尾張の織田信秀との対立が続き、甲斐の武田信玄も越後の上杉謙信との戦いが激化、北条氏康は関東への進出を目論んでおり、お互いの背後を守りあうことで利害が一致した。同盟成立には今川家の軍師・太源雪斎が特に尽力しているが、これは今川家が一番得をするからといわれている(今川家は織田家を破ったのち上洛への道が開ける。武田家は上杉家との戦いに専念できるが、海洋貿易に必要な太平洋側への進出が阻まれる。北条家は関東への進出に専念できるが、陸路での上洛の道が阻まれるなど)。同盟成立にあたっては婚姻関係を結ぶ手段がとられ、1552年に義元の娘・嶺松院が信玄の嫡男・義信に、1553年に信玄の娘・黄梅院が氏康の嫡男・氏政に、そして1554年に氏康の娘・早川殿が義元の嫡男・氏真にそれぞれ嫁いだ。
しかし、1560年の桶狭間の戦いで今川義元が討死し、今川家の勢力が衰えると、今川家との同盟を続けるより太平洋側への進出をはかった方が得をすると考えた信玄によって1568年に駿河侵攻が行われ同盟は崩壊した。同盟崩壊によって嶺松院と黄梅院は離縁され国元に返されたが、早川殿は離縁には至らず、三国が滅んだ後も今川氏真ともども徳川家の庇護を受けて氏真に添い遂げている。
清洲同盟 きよすどうめい (1562年)
尾張の織田信長と三河の徳川家康が結んだ軍事同盟。家康が清州まで赴いて結ばれたためこう呼ばれる。織徳同盟ともいう。
経緯と結果:
桶狭間の戦いで、今川義元が討死すると、今川家の人質だった家康(当時は松平元康)は本拠地・三河で今川家からの独立を目指した。一方、信長は美濃の攻略を目指しており、お互いの背後を守りあうことで利害が一致した。最初は対等な同盟であったが、信長の勢力が広がるにつれ、次第に従属同盟へと形を変えていく。戦国の世では、比較的短期間で崩壊する同盟が多い中、、本能寺の変で信長が横死するまで20年の長きにわたって続いており、家康の律儀で義理堅い性格がもたらした同盟といえる。
観音寺騒動 かんのうじそうどう (1563年)
南近江の戦国大名・六角義賢、義治親子と家臣団の間で起きたお家騒動。この事件で六角家の権威は失墜した。
経緯と結果:
六角家は定頼の時代に管領代に任命されるなど全盛期を迎えたが、跡を継いだ義賢・義治親子は三好長慶との政争に敗れて権威を守り切れず、1560年の野良田の戦いで浅井長政に敗北すると、さらに立場を低下させた。その状況下で義賢から家督を譲られていた義治は、自分を脅かすほどの人望をもった重臣・後藤賢豊を暗殺、義治に対する家臣団の不信が一気に高まり、一時は居城・観音寺城を追放される事態となった。
その後、蒲生定秀、賢秀親子の仲裁で、義賢・義治ともに観音寺城に帰ることはできたが、以前のような主従関係が築けるわけもなく、当主としての権限を大幅に削られてしまった。
石山合戦 いしやまかっせん (1570年~1580年)
浄土真宗本願寺11代宗主・顕如と織田信長の10年にわたる戦い。顕如は石山本願寺に籠って信長と戦った。10年の間にいくつかの戦いが行われ、その総称として「石山合戦」と呼ばれる。
経緯と結果:
1568年の織田信長上洛以降、顕如は信長の要求に対して、ある程度の恭順を示していたが、1570年に入って本拠である石山本願寺の明け渡しを要求されると、遂に我慢も限界に達し、信長との対決を決意。野田城・福島城の戦いで三好三人衆と戦っていた信長を急襲して、以後10年に及ぶ戦いの火蓋が切られた。
<10年間に行われた主な戦い>
1570年 淀川堤の戦い・・・野田城・福島城の戦いで三好三人衆と戦っていた信長を急襲。石山合戦の発端となる。
同 年 長島一向一揆・・・石山合戦に伴い伊勢長嶋の一向宗が蜂起。桑名城の織田家臣・滝川一益らを敗走させる。
1571年 第一次・長島一向一揆討伐・・・一向宗が織田軍を撃退する。
1573年 第二次・長島一向一揆討伐・・・織田軍が北伊勢を平定。
1574年 越前一向一揆・・・一向宗が越前から織田方の勢力を一掃する。
同 年 第三次・長島一向一揆討伐・・・織田軍の圧勝。信長による火攻めで2万人の一向宗徒が焼け死んだと伝わる。
1575年 越前一向一揆討伐・・・織田軍3万により一向一揆が鎮圧され、越前北ノ庄に柴田勝家が入る。
1576年 天王寺合戦・・・織田家臣・塙直政が討死。天王寺砦の明智光秀も窮地に追い込まれる。しかし、信長の後詰により本願寺勢を撃退する。
同 年 第一次・木津川口の戦い・・・毛利水軍が織田水軍に圧勝し、兵糧など物資を石山本願寺に運び込む。
1577年 紀州征伐・・・本願寺に味方していた雑賀衆が降伏という形で信長と和睦。しかし、半年もしないうちに雑賀衆は再挙兵に及ぶ。
1578年 第二次・木津川口の戦い・・・織田水軍が鉄甲船6隻をもって毛利水軍を撃退。石山本願寺が孤立する。
1576年の天王寺合戦ののち、信長は佐久間信盛を総大将とする大軍団を結成して石山本願寺を包囲したが、同年の第一次・木津川口の戦いで毛利水軍に完敗、さらに、1578年に入ると、播磨・三木城の別所長治、摂津・有岡城の荒木村重らが謀反を起こし、本願寺戦略に亀裂が生じる。そのため、信長は勅命による和議の道を模索し始めた。しかし、第二次・木津川口の戦いで織田水軍が毛利水軍に圧勝し、長治、村重に対しても優勢になってきたため、信長は和平交渉をとりやめた。すると、今度は逆に苦境に立たされた顕如が和議への道を模索し始め、石山本願寺を撤退することなどを条件に1580年3月に和議が成立し石山合戦は終結した。
1580年4月、顕如は石山本願寺を退去し、紀伊・鷺森御坊に移った。しかし、顕如の長男・教如が反信長の姿勢を崩さず石山本願寺で抵抗を続けた。最終的には教如も石山本願寺を退去するが、これをきっかけに本願寺は顕如と教如の2派に分裂、のちに顕如の跡を継いだ准如(顕如の三男)の西本願寺と教如の東本願寺に別れる結果となった。
比叡山焼き討ち ひえいざんやきうち (1571年)
織田信長が仏教聖地のひとつ・比叡山延暦寺を焼き討ちした事件。僧侶、上人、学僧、女性、児童、老若男女を問わず、延暦寺にいた者をことごとく殺害したと伝わっており、第六天魔王・信長の印象を決定づける出来事となった。
経緯と結果:
1568年、上洛を果たした織田信長は、畿内にも勢力を広げ、その過程において比叡山延暦寺の寺領の一部を横領したため、延暦寺との間に亀裂が生じる。そのこともあって、1570年の「志賀の陣」で延暦寺は信長と敵対関係にあった浅井長政、朝倉義景を援助、信長は延暦寺に対して「味方すれば寺領を返還する。それができないなら中立を保つように。両方できない場合は焼き討ちするほかない」と通達したが、延暦寺はこれを無視したため、両者の対立は決定的なものになった。
その後、「志賀の陣」は信長が朝廷に働きかけて、和議が結ばれるが、浅井・朝倉勢が延暦寺から撤退した翌年、信長は比叡山の焼き討ちを決定する。比叡山は北陸から京へ入る交通の要衝であり、そこに武力を有する独立勢力があるのは信長にとって好ましくない状況であったことが考えられる。また、当時の延暦寺は、僧でありながら武力を有しただけでなく、蓄財をし、色欲にふけり、鳥肉・魚肉を食らうといった腐敗ぶりであったことも焼き討ちの理由となった(もちろん立派な高僧もいた)。
現在よりも遥かに神仏が尊ばれていた時代であったため、佐久間信盛をはじめ重臣の中には焼き討ちに反対する者もいたが、信長は反対意見は聞き入れず、3万人の兵を動員した。焼き討ち開始の時間は、夜陰で逃亡させないようにと池田恒興の意見が取り入れられて早朝からということになり、包囲に気付いた比叡山は金品を献上して中断を請うが、今度は信長がこれを無視した。焼き討ちは徹底的に行われ、根本中堂をはじめ500以上の堂舎が焼失、殺害された者も、僧、女性、児童を問わず3千から4千人にのぼったという。しかし、これらの数字は焼き討ちの現場にはおらず、ただ伝え聞いた者たちの記録によるもので、最近の調査によれば信長による焼き討ちが認められるのは根本中堂と大講堂のみで、伝わっているような大虐殺までは行われてなかったのではないかとの見解もある。
焼き討ち後、現地の処理は明智光秀が行い、延暦寺の寺領は光秀、柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀、中川重政に分配された。一番の功労者であった光秀には比叡山のふもとにある坂本の地が与えられ、光秀は坂本城を築いて居城とした。その後、延暦寺の復興は本能寺の変で信長が亡くなったのち、羽柴(豊臣)秀吉が1584年に許可を出すまで13年の月日を要した。信長が恐ろしい人物として伝わる話に仏教破壊神である第六天魔王を自称したというのがあるが、これは天台宗に帰依していた武田信玄が、焼き討ちを批判して「天台座主沙門信玄」と署名した書状に対し、「第六天魔王信長」と半分洒落っぽく返書に署名したことが大袈裟に伝わったともいわれる。
西上作戦 せいじょうさくせん (1572年~1573年)
1572年9月から1573年4月まで行われた武田信玄による遠征。信長包囲網の切り札ともいえる作戦で、信玄の目的は上洛とも三河・遠江の平定ともいわれる。
経緯と結果:
1568年、織田信長の力を借りて上洛を果たし、室町幕府15代将軍となった足利義昭だったが、自分が信長の傀儡に過ぎないことを悟ると、本願寺顕如、浅井長政、朝倉義景らをはじめとする反信長勢力に檄をとばし信長包囲網を築き上げた。1570年の時点で甲斐・信濃・駿河を治めていた武田信玄のもとにも義弟にあたる顕如から協力要請が来ていたが、駿河侵攻以後、越相同盟を結んだ北条氏康と上杉謙信に対応しなければならず、包囲網への参加は見送っていた。
しかし、1571年、北条氏康が亡くなると、氏康の跡を継いだ氏政は越相同盟を解消。その後、氏政の歩み寄りで信玄は再び甲相同盟を結ぶ(氏康の遺言とも)。北条家の脅威がなくなった信玄は、さらに顕如に要請して越中で大規模な一向一揆を起こさせ、上杉謙信の信濃介入を封じ込めることにも成功した。そして、1572年9月、状況が整った信玄は、足利義昭と顕如の要請に応え、2万2千の兵を率いて甲府を出発。それと同時に秋山虎繁と山県昌景に別働隊を率いさせ、虎繁を美濃へ、昌景を三河へ派遣、自身は信濃と遠江の境にある青崩峠を越えて徳川領である遠江に入った。
美濃へ入った秋山虎繁は織田方であった岩村城を攻略して信長を牽制。三河へ入った山県昌景は東三河の要所・長篠城を攻略したのち信玄本隊と合流するため遠江に入った。青崩峠から遠江に入った信玄本隊は一言坂の戦い、二俣城の戦いと勝利を重ね、昌景と合流すると三方ヶ原の戦いでも徳川家康相手に大勝利をおさめて家康を浜松城に封じ込め、そのまま三河へ侵攻して徳川家臣・菅沼定盈が守る野田城攻めに取り掛かった。野田城は1ヶ月におよぶ攻防の末に落城。しかし、落城直後に信玄の持病(結核?)が悪化、武田軍の侵攻は止まってしまう。そして、信玄の回復が望めないと感じた重臣たちは撤退を決意して甲府へ向かうが、信玄は信濃駒場で亡くなり、作戦は頓挫した。
紀州征伐 きしゅうせいばつ
紀州攻めともいう。1577年から始まった織田信長によるものと1585年から始まった羽柴(豊臣)秀吉によるものがある。
織田信長による紀州征伐 (1577)
1570年、野田・福島の戦いで本願寺と本格的に敵対することになった織田信長は、本願寺の主力の一部が紀州の鉄砲傭兵集団・雑賀衆であったことから本願寺の弱体化を狙って紀州征伐を決意する。信長は雑賀衆が一枚岩でないことを利用し、雑賀五組と呼ばれる宮郷、中郷、南郷、雑賀壮、十ヶ郷のうち宮郷、中郷、南郷の三組を調略し、かねてより味方だった根来衆の協力も得て残る雑賀壮、十ヶ郷に侵攻した。
これに対し十ヶ郷の鈴木重秀(雑賀孫一)、雑賀壮の土橋若太夫は雑賀城を本城として雑賀川(和歌川)に防衛線を構築し、遊撃戦を展開、征伐軍の侵攻を阻んだ。やがて戦局が膠着状態に陥ると、両者は戦いの落としどころを模索し始め重秀、若太夫ら雑賀衆の有力者7人が連署して信長に誓紙を差し出し、条件付きではあったが降伏を申し出たため、信長もこれを了承して監視のためのわずかな兵を残して撤退した。しかし、この和睦は長くは続かず、半年もたたないうちに雑賀衆は再び信長に対して叛旗を翻した。
1580年、本願寺が信長に降伏すると、雑賀では親織田の路線をとろうとする重秀と反織田の路線をとろうとする若太夫が対立するようになり、信長の後ろ盾を得た重秀が若太夫を暗殺して雑賀の主導権を握った。だが、本能寺の変で信長が死ぬと若太夫の子らが勢いを取り戻し、重秀は雑賀から逃亡して雑賀の主導権は土橋氏が握ることになった。
羽柴(豊臣)秀吉による紀州征伐 (1585)
本能寺の変後、紀州・雑賀の主導権を握っていた親織田派の鈴木重秀が反織田派の土橋氏らに追放され、土橋氏が主導権を握ることになった。その後、土橋氏は根来に一族を送っていた縁もあって根来と共同戦線を張って以前のように独立傾向を強めていく。中央で羽柴秀吉が勢力を増してくると、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家に、小牧長久手の戦いでは織田・徳川連合に味方して羽柴方の和泉・岸和田城へ攻め入るなどした。
こうした経緯から賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦いを制した秀吉は紀州の制圧を決意する。決定当初は穏便に済ませるため、根来寺に対して高野山の木食応其と交渉し、一部寺領の明け渡しなどを条件に和睦の道を模索したが、根来の主戦派によって応其が襲撃される事件が起き、武力による紀州征伐となった。雑賀・根来衆は秀吉の征伐軍に対して織田信長の時と同様に先陣の出鼻をくじいて膠着状態にもっていけば一時的であれ和睦交渉が始まり征伐軍が撤退すると思っていたといわれる。しかし、秀吉は征伐軍の損害を顧みず力攻めに徹してきたため雑賀・根来方の諸城は次々と陥落、または降伏した。
雑賀・根来が制圧された後も紀南では国人・湯河直春や雑賀・根来の残党が激しい抵抗を続けた。直春は高野山が降伏したのちも征伐軍を悩ませ、結果、所領安堵を勝ち取ったが翌86年に急死した(毒殺説あり)。直春死後、子・勝春は3千石を安堵され、紀伊一国を与えらえれた羽柴秀長の家臣となった。秀吉の紀州征伐により大規模な抵抗はなくなったが、地侍による小規模な一揆はその後も度々起こり、それらがなくなるのは1615年頃で浅野長晟が紀伊を治めた時代であった。
伊賀越え(神君伊賀越) いがごえ (1582年)
堺に滞在していた徳川家康が、本能寺の変の報に接し、明智光秀配下の者や落ち武者狩りを避けるために、難所である伊賀の山中を超えて岡崎まで帰還した逃走劇。
経緯と結果:
甲州征伐後、織田信長によって駿河を与えられた徳川家康は、家康に内応して所領を安堵された穴山梅雪と共に、信長へ謝辞を述べるため安土城を訪れた。無事謁見が終わり饗応を受けたのち、家康は信長の勧めによって堺見物に赴く。そして見物を終え、京都へ向かっている途中で、懇意にしていた京の商人・茶屋四郎次郎の早馬により本能寺の変を知ることになる。信長唯一の同盟者であった家康は明智光秀配下に狙われるだけでなく、信長の死による治安の悪化で落ち武者狩りにあう危険もあり、はじめは松平家にゆかりある知恩院での自害を望んだという。
しかし、本多忠勝らの説得より三河への帰国を決め、追手のかかりにくい伊賀の山中を超える決断をする。道中、襲ってきた雑兵に対し、時に戦い、時に金銭で取引をしてやり過ごし、伊賀国に入ってからは伊賀にゆかりある服部半蔵(正成)の尽力もあって無事三河へ帰還した。家康に従っていた家臣は34名で、そのほとんどが徳川四天王をはじめとする重鎮だったため、徳川家最大の危機だったといわれる。堺見物まで同行していた穴山梅雪は、途中で徳川主従と袂を分かち、別行動をとった結果、落ち武者狩りにあい絶命している。
清洲会議 きよすかいぎ (1582年)
本能寺の変後、織田家の後継者問題と領地の再分配を話し合うためにもたれた会議。尾張清洲城で開かれ、後継者には信忠の嫡男で信長の嫡孫・三法師(のちの秀信)が選ばれた。
経緯と結果:
参加者は、柴田勝家、羽柴(豊臣)秀吉、丹羽長秀、池田恒興の4名。滝川一益も参加する予定だったといわれるが、神流川の戦いで北条家に惨敗した影響で間に合わなかった。会議は終始、信長の仇を山崎の戦いでとった秀吉が有利に進めた。秀吉は対抗してくるであろう勝家の動きを抑えるため、事前に長秀、恒興の両名を味方に抱き込み、さらに幼かった三法師を手なずけて会議に臨んだという。そのため、勝家は、織田家の後継者に信長の三男・信孝を推していたが、断念せざるを得なかった。秀吉は、勝家の不満を抑えるため、自領であった長浜を勝家に譲り、信長の妹・お市の方が勝家に再嫁することも認めたが、秀吉と勝家との溝は埋まらず、賤ヶ岳の戦いへと発展していく。
秀次事件 ひでつぐじけん (1595年)
豊臣秀吉の後継者として関白に就任した豊臣秀次が、突如謀反の疑いをかけられ切腹に追い込まれた事件。一族の女性や子供も処刑され、多くの家臣も連座させられた。
経緯と結果:
1589年、豊臣秀吉に待望の跡継ぎ・鶴松が生まれたが、わずか3歳で亡くなる。それから間もなく、実子での後継者をあきらめたのか秀吉は甥にあたる秀次を後継者として関白の位を譲った。しかし、93年にお拾い(豊臣秀頼)が生まれると秀次の立場は微妙なものとなる。そして、1595年、秀次謀反の疑いが突如として持ち上がった。
疑われる直前の秀次は「殺生関白」と呼ばれるほど悪行を繰り返したといわれる。だが、実際に悪行を行っていた確固たる証拠はなく、秀次の失脚を狙った秀吉・秀頼派による陰謀との説もある。嫌疑をかけられた秀次は、弁明のために伏見に向かうが、すでに死罪が決まっていたのか秀吉に会うことも叶わず高野山へ追放となり、切腹を言い渡された。処刑となった一族の女性や子供は39名に及び、処刑場は惨憺たる有様だったという。事件後、秀吉の跡取りは秀頼とされ、秀吉は諸大名に秀頼への忠義を誓う誓紙を書かせている。
また、この事件では秀次と懇意にしていた伊達政宗、借金をしていた細川忠興、娘・駒姫を側室に入れた最上義光なども嫌疑をかけられた。これらの大名は徳川家康のとりなしで改易を免れており、関ヶ原の戦いで東軍(家康方)につく遠因になったといわれている。最上義光に関しては、自身は赦されたものの、上洛したばかりで一度も秀次の寝所に入らなかった娘を処刑されたとあって秀吉への恨みは相当なものだったという。秀吉の決断は結果として豊臣の天下を短命にした。
猪熊事件 いのくまじけん (1609年)
知行200石を有した公家・猪熊教利が、旧知の公家と天皇の側に仕える女官らを誘い乱交に及んだ醜聞事件。
敬意と結果:
猪熊教利は、『源氏物語』の主人公・光源氏にも例えらるほどの美男子だったが、女癖が悪く、人妻や女官と密通を繰り返していた。そのことを知った後陽成天皇は教利を勅勘(天皇からの勘当)し、京から追放した。だが、ほとぼりが冷めると教利は京へと戻り、花山院忠長が宮中の奥まで入ることが許されていた牙医(歯科医)兼康備後を介して女官・広橋局(広橋兼勝の娘)と密通していること知り、これを利用して旧知の公家と女官らを誘って乱交に及んだ。このような大それた行動が、いつまでも秘密裏に行えるわけはなく、宮中の乱れぶりはすぐに後陽成天皇の耳に入り、激怒した天皇は、関わった者たち全員の死罪を望んだ。
だが、当時の朝廷は江戸幕府の監視下にあり、天皇の望みとはいえ、幕府に無断で死罪にするわけにはいかず、徳川家康の命により、京都所司代・板倉勝重と勝重の三男・重昌に調査が一任された。調査の結果、思いのほか大人数が関わっており、全員を死罪にすれば朝廷の運営に支障がでると判断された。また後陽成天皇の生母・新上東門院が寛大な処置が下るよう所司代に願い出たこともあって、猪熊教利と兼康備後の2名のみを死罪とし、他の公家や女官は流罪となった。
この裁定を後陽成天皇は渋々承知したが、思うようにならない身の上に悲嘆し譲位を考えるようになった。また幕府は、朝廷の管理をさらに強化するため1613年に公家諸法度、さらに1615年に禁中並公家諸法度を発布することになる。
【処罰された公家衆】
左近衛少将 猪熊利教・・・死罪
牙医 兼康備後・・・死罪
参議 烏丸光広・・・勅勘、蟄居。のち勅免。
左近衛権中将 大炊御門頼国・・・配流。配流先で薨去。
左近衛少将 花山院忠長・・・配流。のち勅免。
左近衛少将 飛鳥井雅賢・・・配流。配流先で卒去。
左近衛少将 難波宗勝・・・配流。のち勅免。
右近衛少将 中御門宗信・・・配流。配流先で卒去。
右近衛少将 徳大寺実久・・・勅勘。のち勅免。
(女官)
典侍 広橋局(広橋兼勝の娘)・・・配流。のち勅免。
権典侍 中院局・・・配流。のち勅免。
掌侍 水無瀬・・・配流。のち勅免。
掌侍 唐橋局・・・配流。のち勅免。
命婦 讃岐(兼康備後の娘)・・・配流。のち勅免。
方広寺鐘銘事件 ほうこうじしょうめいじけん (1614年)
豊臣秀頼が再建した方広寺の梵鐘の銘文「国家安康 君臣豊楽」が、家康の諱(いみな)を分けて呪詛したものだとして、徳川方が大坂方(豊臣家)に弁明を求めた事件。この事件をきっかけに徳川家と豊臣家の対立は決定的なものなり、大坂冬の陣へと発展した。
経緯と結果:
関ヶ原の戦い以後、徳川家康は征夷大将軍に就任して江戸に幕府を開くなど、徳川の天下を考えるようになり、その行動は大坂に君臨する豊臣家をないがしろにするものだった。それでも1603年には家康の孫娘・千姫が豊臣秀頼に嫁ぎ、11年には二条城で家康と秀頼の会見が実現するなど表向きは良好な関係が続いていた。しかし、豊臣家を何とか懐柔しようする家康と、豊臣家が主君筋だという誇りを捨てられない秀頼、というより淀殿は次第に対立を深め、家康が大坂攻めの大義名分を模索し始めた時、徳川方は秀頼が方広寺に納めようとしている梵鐘の銘文に言いがかりをつける格好の材料を見つけた。
その梵鐘の銘文には「国家安康 君臣豊楽」の文字が見られ、徳川方は「国家安康」を家康の諱を分けて呪詛したものだとし、「君臣豊楽」を豊臣の世を楽しむと解釈して、大坂方に弁明を求めた。大坂方は弁明の使者として片桐且元を駿府に送るが、且元はなかなか家康との謁見が叶わず、不審に思った大坂方は大蔵卿局(大野治長の母で淀殿の乳母)をさらに使者として駿府へ送り込んだ。すると、大蔵卿局はすぐに家康との謁見が叶い、満足な返答を得て帰路についたという。その後、ようやく謁見が叶った且元は、家康に厳しい要件をつきつけられて大坂へ帰還、そして秀頼と淀殿に謁見して徳川方を納得させるための3つの妥協案を進言した。
ひとつ、秀頼を江戸に参勤させること。
ひとつ、淀殿を人質として江戸に滞在させること。
ひとつ、大坂城を退去して国替えに応じること。
且元は、この3つのうちのひとつを選択しなければ豊臣家に未来はないと説いた。しかし、これらの妥協案は淀殿が大蔵卿局から受けた報告とは大きく違っており、逆に且元が家康と通じたとして且元の改易を決める。城内に居場所を失った且元は大坂城を退去。そして、この報告を受けた家康は大坂方がこちらの提案を無視したとして大坂攻めを決定し、全国の諸大名へ向けて出陣を命じた。
通説では、家康が大坂攻めをするために梵鐘の銘文を利用したとされる。しかし、当時の武家社会では諱の一字を与えて信頼を得るなど、諱には大きな意味があり、意図的ではないにしても当時の緊迫した状況と呪詛がそこそこ信じられていたことを考えれば大坂方にまったく手落ちがないとはいいきれないとの見方もある。
およつ御寮人事件 およつごりょうにんじけん (1619年)
徳川秀忠の五女・和子の入内に際して、朝廷側に不手際があったとして、江戸幕府が後水尾天皇側近の公家6名を処罰した事件。
経緯と結果:
1611年、後水尾天皇が即位すると、徳川家康は孫娘・和子(秀忠五女)の入内を申し入れ、1614年に入内宣旨が出された。しかしその後、大坂の陣、家康の死去、後陽成院の崩御が続いたため、入内は延期となった。1618年に入ってようやく入内の準備が進められたが、この間に天皇と天皇寵愛の女官・四辻与津子との間に皇子が生まれていたことが発覚。秀忠は将軍家が軽視されたと激怒し、入内を推進していた武家伝奏・広橋兼勝に事の次第を追及させた。
その結果、天皇の側近6名のうち3名が流罪、3名は出仕停止となった。後水尾天皇は、この処分に憤慨し、退位しようとしたが、幕府の使者として上洛した藤堂高虎に恫喝され、退位は退けられ、与津子は内裏から追放された。1620年、和子の入内が実現すると、秀忠は態度を一変させ、処罰した天皇の側近6名を天皇の名において赦免、復職させた。これらの処罰は、1615年に幕府によって発布された禁中並公家諸法度に則ったものであり、幕府がより朝廷に干渉するきっかけとなった。