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合戦 その2 (1546~1560)
かわごえじょうのたたかい
1546年 河越城の戦い 北条氏康 VS 山内・扇谷両上杉連合 | |
結果:北条氏康の勝利 場所:武蔵国 | |
内容: 日本三大奇襲戦のひとつ。北条氏康と山内・扇谷両上杉家による関東の覇権をかけた戦い。「河越夜戦」とも呼ばれる。氏康は、1万余りの兵で8万の軍勢を破るという大勝利をおさめた。 経緯と結果、その後: 15世紀半ば以降、関東は、関東管領の資格をもつ山内上杉家と扇谷上杉家が覇権を巡って激しく争っていた。16世紀に入ると、そこへ伊豆を平定した後北条家も加わり、1537年に後北条家2代・氏綱によって扇谷上杉家の居城・河越城が落城すると、北条家の台頭を恐れた山内・扇谷両上杉家は、一転して手を組み、かつて氏綱に領土の一部を取られた経緯をもつ駿河の今川義元とも結んで、共に北条家にあたることになった。 戦いは、氏綱の死をきっかけに始まり、まずは今川義元が西から北条領へ侵攻を開始した。氏綱の跡を継いだ氏康は、出陣してこれに当たるが、それと同時に山内上杉家当主・憲政、扇谷上杉家当主・朝定、そして憲政に誘われて参加することになった古河公方・足利晴氏らにも東からも攻め込まれ、総勢8万という軍勢で河越城を包囲されてしまう。河越城を守るのは北条家随一の猛将・北条綱成。しかし、城兵はたった3千という圧倒的戦力差から、綱成は籠城戦を選ぶほかなかった。 河越城の危機を知った氏康は、武田信玄の仲裁で、かつて氏綱が義元から奪った領土を返上して義元と和睦し、河越城の救援に向かった。しかし、援軍に向かった氏康の軍勢は8千で、河越城の兵を足しても1万1千と連合軍8万を相手にするには不利な状況に変わりはなかった。そこで氏康は一計を案じる。まず、敵大将・憲政、朝定、晴氏それぞれに降伏をにおわせる使者を送り、その後、出陣してはすぐに退却するという行動を繰り返した。すると、連合軍は「敵に戦意なし」とみて油断した。頃合いと見た氏康は夜襲を敢行、河越城の綱成も呼応して打って出ると、予期せぬ襲撃に連合軍は総崩れとなり、1万3千という被害をだしただけでなく、扇谷上杉家にいたっては当主・朝定が討死するいう大敗となった。 戦後、両上杉家に従っていた国人たちの多くが北条家に従うようになり、北条家が関東での覇権を手にした。当主を失った扇谷上杉家は滅亡。山内上杉家の当主・憲政も求心力を失い、越後の上杉謙信を頼って落ち延びることになる。 |
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主な参戦武将 | |
北条方(河越城兵3000 氏康後詰8000) | 山内・扇谷両上杉方(連合軍80000) |
北条氏康 大道寺政繁 北条幻庵 【河越城】 北条綱成 |
【山内上杉家】 上杉憲政 長野業正 上泉信綱 【扇谷上杉家】 上杉朝定 太田資正 【古河公方】 足利晴氏 |
1548年 上田原の戦い 村上義清 VS 武田信玄 | |
結果:村上義清の勝利 場所:信濃国 | |
内容: 信濃制圧をめざす武田信玄と北信濃の戦国大名・村上義清の戦い。信玄が経験した初めての敗戦といわれる。 経緯と結果、その後: 1541年、父・信虎を追放して武田家当主となった信玄は、妹が嫁いで同盟関係となっていた信濃上原城主・諏訪頼重が、関東管領・上杉憲政と独断で領地を割譲したことを盟約違反であるとして、1542年に信濃へ侵攻し、頼重、次いで高遠城主・高遠頼継らを破って諏訪郡を占領した。こうして諏訪郡を手に入れた信玄は、北信濃を治める村上義清と国境を接することになり、両者の対決は避けられないものとなる。 1548年、信玄は板垣信方を先陣に命じて北信濃へ侵攻を開始し、これを迎撃するために出てきた義清の軍勢と激突する。序盤は、信方が村上勢を圧倒して大戦果を挙げたが、信方は勝ちに驕って深入りし、油断して敵前で首実検を行ったところを反撃され討ち取られるという失態を演じてしまう。これを機に武田勢は総崩れとなり、乱戦の中、信方と双璧を成した甘利虎泰も討死。信玄は馬場信春や内藤昌豊の活躍で危機を脱するが、自身も2ヶ所に手傷を負う大敗北となった。 戦後、信濃における武田家の支配が弱まり、各地で虐げられていた反武田勢力が蜂起する。信玄がこの反乱分子を鎮圧し、再び村上義清に戦いを挑むのに2年の月日を要することとなった。 |
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主な参戦武将 | |
村上方(5000) | 武田方(8000) |
村上義清 |
武田信玄 板垣信方 甘利虎泰 馬場信春 内藤昌豊 |
1550年 砥石城の戦い 村上義清 VS 武田信玄 | |
結果:村上義清の勝利 場所:信濃国 | |
内容: 信濃制圧を目指す武田信玄と北信濃の戦国大名・村上義清の戦い。信玄、上田原の戦いに次ぐ2度目の敗戦となった。信玄の惨敗ぶりは、のちに「砥石崩れ」と呼ばれるようになる。 経緯と結果、その後: 1548年、上田原の戦いで信玄が敗北すると、これまで信玄に虐げられてきた小笠原長時ら反武田勢力が村上義清と手を組み諏訪へ侵攻。信玄は塩尻峠の戦いでこれを破るが、長時を居城・林城から追放し、再び義清と対決する準備を整えるのに2年の月日を要した。 1550年、準備を整えた信玄は7千の兵をもって村上方の重要拠点・砥石城の総攻撃を開始。しかし、砥石城はその名の通り砥石のような切り立った断崖に築かれた要害で、また城を守る兵たちも信玄に恨みをもつ反武田の残党が多く、苦戦を強いられた。そのため、信玄が城攻めに手を焼いているうちに義清率いる援軍2千が到着してしまう。援軍到着の報を受けた信玄は、兵数では圧倒的に勝っていたものの、砥石城と義清援軍の挟撃を恐れ、大事を取って撤退を決意する。だが、戦上手の義清はこの機を逃さず猛追を開始、武田軍は上田原の敗戦に続いてここでも総崩れとなり、殿(しんがり)をつとめた横田高松をはじめ多くの将兵を失った。 戦後、信玄は砥石城攻略を新参の真田幸隆に任せた。1551年、幸隆は地元である人脈をいかし調略をもって砥石城を落城させたという。内通者は、当時、村上方として城に詰めていた幸隆の弟・矢沢頼綱であったという説もある。この活躍で幸隆は信玄に重用されるようになり、信濃先方衆筆頭として没落しかけた真田家の再興を果たした。義清は、戸石城が落城すると、その後は次第に信玄に追い詰められ、1553年に長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って越後に落ち延びていった。 |
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主な参戦武将 | |
村上方(砥石城兵500 義清後詰2000) | 武田方(7000) |
村上義清 |
武田信玄 横田高松 |
1551年 大寧寺の変 陶隆房 VS 大内義隆 | |
結果:陶隆房の勝利 場所:周防国・長門国 | |
内容: 大内家の重臣・陶隆房(晴賢)が、主君・大内義隆に対して起こした謀反。義隆を討った隆房は、大内家の実権を握るが、その後の家中の統制に手を焼き毛利元就が離反する遠因となった。 経緯と結果、その後: 1543年、月山富田城の戦い(第一次)で、尼子晴久に惨敗した大内義隆は、養嗣子・晴持を失ったことや、撤退戦での恐怖から内政や勢力拡大に興味をなくし、武断派である陶隆房らを遠ざけ、文治派である相良武任らを重用した。そのため、家中には武断派と文治派が対立が生まれる。次第に対立が激しくなると、武任は隆房との和睦を図るが失敗。対立は激化の一途をたどり、とうとう武任は、自身の保身のため、義隆に「陶隆房、内藤興盛に謀反の兆しあり」と讒言した。これが、文治派擁護の義隆と隆房の対立を決定づけた。 1551年、ついに隆房は挙兵して大内家の本拠・山口を攻撃。武力ではかなわない義隆は長門・大寧寺に逃げるが、最後は追い詰められ自害、嫡男・義尊も殺害された(義尊殺害は隆房の意志ではなかったともいわれる)。その後、隆房は武任も殺害して、大内家の実権を手に入れ、豊前の大友家から宗麟の異母弟・晴英(母が大内家出身)を迎えて、大内義長と名乗りを変えさせ傀儡の当主に据えた。しかし、隆房のこうした強引なやり方に反発する者も少なくなく、隆房は家中の統制に手を焼く。そして、混乱状態にあった大内家に代わって安芸、備後をまとめてきた毛利元就も、処遇に対する不満から、大内家からの完全独立を考えるようになっていく。 |
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主な参戦武将 | |
陶方(5000?) | 大内方(2000?) |
陶隆房(晴賢) 内藤興盛 |
大内義隆 冷泉隆豊 |
1555年 厳島の戦い 毛利元就 VS 陶晴賢(隆房) | |
結果:毛利元就の勝利 場所:安芸国 | |
内容: 日本三大奇襲戦のひとつ。安芸国厳島で行われた毛利元就と陶晴賢(隆房)の戦い。勝利した元就は、中国地方覇者への第一歩を踏み出した。 経緯と結果、その後: 大寧寺の変後、大内家の実権を握った陶晴賢だったが、晴賢のやり方に反発する領主も多く、石見の吉見正頼が晴賢と対立したのをきっかけに、それまで晴賢に従っていた毛利元就も何かと勢力拡大の邪魔をされてきた経緯から大内家からの離反を決意し、大内領へ侵攻を開始した。 元就は厳島とその周辺の大内方諸城を落城させ、晴賢が送り込んできた宮川房長の軍勢を折敷畑の戦いで破り、さらに晴賢の右腕ともいえる江良房栄を謀略をもって晴賢自身に殺害させるなど力を削ぐが、晴賢率いる軍勢2万に対して元就は4千と兵力には依然として差があった。そのため、元就は、晴賢を破るには奇襲以外にないと考え、その準備として厳島に大軍が展開しずらい囮の城・宮尾城を築城(修復?)し、そこに誘いこむ計画を立てた。しかし、そのような誘いに晴賢が簡単にのるわけはなく、元就はこれを打開するため、前線に位置する桜尾城を任せていた重臣・桂元澄に命じて晴賢との内通を偽装させ、宮尾城を攻めてくれれば、自分も挙兵して毛利家の本拠・吉田郡山城を攻めると提案させて、晴賢を厳島に渡らせることに成功した。 だが、これでも兵力差を覆すまでの状況には程遠く、元就は戦いを勝利に導く最後の賭けとして、瀬戸内海で最強を誇る村上水軍の助力を仰ぐことになる。交渉に当たったのは小早川隆景(元就三男)とその家臣・乃美宗勝。彼らの必死な交渉と毛利家同様、村上水軍も大寧寺の変以来、晴賢には煮え湯を飲まされてきたこともあり、毛利家に味方することを決めてくれた。 渡海決行の夜、厳島周辺は暴風雨に見舞われ、毛利家臣の大半は元就に中断を進言したが、元就は、これこそが奇襲作戦における天の加護であると説いて渡海に踏み切った。暴風雨の中を渡海してくると思っていなかった陶軍は大軍が展開しずらい状況と奇襲で瞬く間に総崩れとなり、軍船も村上水軍にことごとく破壊され、逃げ場を失った晴賢は自害、戦いは元就の大勝利で終わった。 この戦いの2年後、元就は晴賢が擁立した大内家の当主・義長を討って大内家を滅亡させる(防長経略)。こうして安芸、備後に引き続き、周防、長門も手に入れた元就の中国地方における敵は出雲の尼子晴久のみとなり、元就は中国地方覇者に王手をかけた。 |
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主な参戦武将 | |
毛利方(4000) | 陶方(20000) |
毛利元就 毛利隆元 吉川元春 小早川隆景 乃美宗勝 村上吉充 |
陶晴賢(隆房) 弘中隆包 |
1556年 長良川の戦い 斎藤義龍 VS 斎藤道三 | |
結果:斎藤義龍の勝利 場所:美濃国 | |
内容: 美濃の蝮(マムシ)こと斎藤道三と嫡男・斎藤義龍の戦い。一介の商人から一国の主にまで登り詰めた梟雄・道三の最後の戦い。道三を討った義龍は斎藤家の家督を継ぐと、織田家との同盟を破棄して信長と敵対した。 経緯と結果、その後: 美濃の守護・土岐頼芸を追放して国主となった斎藤道三は、1554年に隠居し、家督を嫡男・義龍に譲った。しかし、道三は義龍が実子でない可能性(義龍の母は土岐頼芸の妾(深吉野)で道三の側室になった時期が微妙)があったためか、次男、三男を溺愛して義龍の廃嫡を考えるようになる。それを聞いた義龍は、弟たちが自分を軽視するようになってきたこともあり、病と称して弟たちを呼び寄せて殺害し、道三討伐の兵を挙げた。 義龍挙兵に対し、道三は急いで兵を集めるが、国主になるまでの謀略や謀殺が災いして思うように集まらず、美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)をはじめ多くの家臣は義龍に味方した。両者は長良川で激突。序盤こそ道三が有利に戦うも、道三方2700に対して義龍方は17500と圧倒的戦力差があり、最後は道三が討ち取られて決着した。 道三危機の報をうけた織田信長(道三の娘婿)は、援軍を率いて出陣したが、間に合わなかった。道三の後ろ盾を失ったことで、尾張では反信長の気運が高まり、信長の弟・信勝が反旗を翻すことになる。 |
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主な参戦武将 | |
義龍方(17500) | 道三方(2700) |
斎藤義龍 稲葉良通 安藤守就 氏家直元 |
斎藤道三 |
1556年 稲生の戦い 織田信長 VS 織田信勝 | |
結果:織田信長の勝利 場所:尾張国 | |
内容: 織田信長と信長の実弟・信勝との間に起きた家督をかけた戦い。戦いに勝利した信長は、これを機に織田家中をまとめていく。 経緯と結果、その後: 1551年、「尾張の虎」と畏怖された織田信秀が急死し、信長が家督を継いだ。信長は信秀が築いた経済基盤を背景に主家である尾張下四郡の守護代・織田信友を滅ぼすなど、領土を拡大するが、信秀の葬儀の際、祭壇に焼香を投げつけたのをはじめ、平素から奇行が多く、周囲から「うつけ者」と評されていた。そのため、柴田勝家や林秀貞ら織田家の重臣の中には穏やかで礼儀正しい信長の実弟・信勝を織田家当主に推す者もいた。 1556年、信長最大の後ろ盾であった斎藤道三が長良川の戦いで討死すると、道三を討った斎藤義龍は信長と敵対。この動きに乗じて織田家では信勝擁立の動きが加速し、その気になった信勝も信長の領地の一部を横領、織田家当主の名乗りである弾正忠を名乗るなど、信長に対し敵意をあらわにした。 戦いは、信長方700、信勝方1700で始まり、序盤は猛将・柴田勝家を有し、数の上でも有利であった信勝方が優勢だったが、信長が前線に躍り出て大声で鼓舞すると、戦況は逆転し、柴田・林勢は敗走した。戦況が信長の声の大きさだけで覆ったというのは疑問が残るが、結果として信長が勝利したことは事実で、信長の声が尋常じゃない大きさだったということは宣教師ルイス・フロイスの「日本史」に書かれている。 戦後、敗北した信勝は、信長と信勝の生母・土田御前の仲裁により助命され、信勝に味方した勝家、秀貞も信長に謝罪したため咎めはなかった。しかし、その後、信勝は再び謀反を画策する。だが、この時は、すでに信勝を見限っていた勝家の密告によって信長の知るところとなり、信勝は清州城に呼び出され、信長自身の手で殺害された(殺害の実行犯は河尻秀隆とも)。 |
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主な参戦武将 | |
信長方(700) | 信勝方(1700) |
織田信長 佐久間信盛 丹羽長秀 森可成 前田利家 |
織田信勝 柴田勝家 林秀貞 |
1560年 桶狭間の戦い 織田信長 VS 今川義元 | |
結果:織田信長の勝利 場所:尾張国 | |
内容: 日本三大奇襲戦のひとつ。尾張国桶狭間で行われた織田信長と今川義元の戦い。信長の名が天下に轟いた戦いとして有名。かつては義元の上洛戦と考えられていたが、現在は今川方にあった尾張東部の諸城の後詰(援軍)と尾張の支配が目的だったと考えられている。 経緯と結果、その後: 1551年、織田信秀が亡くなり、信長が織田家の家督を継ぐが、実弟・信勝との対立などで尾張東部における支配力が薄れ、三河国境近くの鳴海城、大高城、沓掛城が、投降もしくは調略によって今川方へ寝返った。これに対して信長は、知多半島の水野信元と結んで南より今川勢を牽制、1557年に信勝との対立に決着をつけると、1559年に鳴海城に対して善照寺砦や中島砦、大高城に対しては丸根砦と鷲津砦を築き、今川方に圧力をかけた。 1560年、今川義元は信長によって圧力を受けている今川方諸城を救うため、2万5千の軍勢を率いて駿府・今川館を出陣。尾張・沓掛城に入った義元は、先鋒の松平元康(のちの徳川家康)に命じて大高城への兵糧入れを成功させると、引き続き元康に丸根砦、朝比奈泰朝に鷲津砦の攻略を命じ、鳴海城救出の準備に取り掛かった。 今川勢接近の情報を夜中に知った信長は、「敦盛」を舞い身支度を整えると、佐脇良之ら供廻りわずか5騎で清州城より出陣したという。信長は、途中、熱田神宮で戦勝祈願を行い、軍を集結してから善照寺砦に入る。そして、ここで丸根砦、鷲津砦の陥落と義元が沓掛城を出発して大高城へ向かうべく桶狭間方面へ進軍しているという情報を得る。信長は砦に千の兵を残し、直ちに2千の軍勢を率いて桶狭間へ向かった。 信長率いる2千の軍勢は、情報どおり桶狭間で義元本隊を捕捉。その直前に降った豪雨で、義元には気付かれずに接近ができた幸運も重なって奇襲となった。さらに、今川勢は各所に兵を割いていたため、本隊が5千ほどになっていたことも信長に味方した。混戦の中、服部小平太(一忠)が義元を追い詰め一番槍、助っ人に入った毛利新介(良勝)が最終的に義元を討ち取り、戦いは織田軍の大勝利に終わった。 戦後、鳴海城を守っていた今川家の重臣・岡部元信は、義元の首と引き換えに降伏開城。尾張から今川勢は一掃され信長は尾張の完全統一を果たす。また、三河へ撤退した松平元康(徳川家康)は今川家の城代がいなくなった岡崎城に返り咲き、今川家からの独立を決意した。 |
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主な参戦武将 | |
織田方(3000) | 今川方(25000) |
織田信長 森可成 佐久間信盛 河尻秀隆 前田利家 佐脇良之 毛利良勝 服部一忠 |
今川義元 朝比奈泰朝 岡部元信 松平元康(徳川家康) 井伊直盛 |
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1560年 長浜・戸ノ本の戦い 長宗我部国親 VS 本山茂辰 | |
結果:長宗我部国親の勝利 場所:土佐国 | |
内容: 長宗我部国親と本山茂辰の土佐中央部の支配をかけた戦い。本戦である「戸ノ本の戦い」は、のちに四国の覇者となる長宗我部元親の初陣としても知られる。 経緯と結果、その後: 1500年代はじめ、長宗我部兼序(元親の祖父)は、細川政元や土佐一条家の後ろ盾で土佐中央部に勢力を拡大したが、政元が1507年に永正の錯乱で暗殺され、協力な後ろ盾を失うと、これまでの傲慢な態度もあって、1508年に本山家ら周辺豪族から居城・岡豊城を攻められ自害に追い込まれた(亡命したという説もある)。そのため、長宗我部家は一時没落する。だが、兼序の嫡男・国親は難を逃れ、一条房家を頼って落ちのび、1518年に房家の庇護のもと、本山家らと和睦して岡豊城に復帰し、長宗我部家を再興させた(兼序亡命説では1611年に兼序が岡豊城に復帰し、18年に国親に家督を譲ったとされる)。 1544年、国親は娘を本山茂宗の嫡男・茂辰に嫁がせて、本山家とは表向き遺恨を断ち、その婚姻関係を背景に勢力を拡大。だが、1555年に茂宗が亡くなると、態度を一変させ本山家を継いだ茂辰を圧迫した。1560年、国親の圧力に耐えかねた茂辰が長宗我部方の輸送船を襲ったことで両者の緊迫は増し、遂に国親は兵を挙げて本山方の長浜城を攻め、これを陥落させた。長浜城は堅城であったが、このとき長浜城は門を修復しており、その修復を担当していた大工・福留右馬丞が、かつて国親の家臣であったため、高禄で内通させて門を開きやすく細工をさせてあったいう。 長浜城が落城したことを聞いた茂辰は、すぐに2千の兵を率いて救援に駆けつけた。これに対して国親も千の兵を率いて城を出た。両軍は長浜表の戸ノ本で激突。長宗我部勢は、兵数では劣勢であったが、22歳で遅めの初陣となった国親の嫡男・元親の活躍で戦況を覆し、本山勢に完勝した。元親は戦いの直前まで槍の使い方も知らず、また虚弱にみられ「姫若子」とあだ名されていた。しかし、この活躍で周囲を見返して「鬼若子」と呼ばれるようになり、のちには「土佐の出来人」と呼ばれるほどの名将へ成長していくことになる。 戸ノ本での勝利後、長宗我部軍は茂辰を追って浦戸城を包囲したが、国親が発病したため、兵を退いた。その後、1ヶ月もしないうちに国親は亡くなるが、跡を継いだ元親は、1564年に茂辰の嫡男・貞茂(親茂)を降伏させ本山家を滅亡させた。降伏した貞茂は、長宗我部家臣となり、のちに伊予攻略戦などで活躍している。 |
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主な参戦武将 | |
長宗我部方(1000) | 本山方(2500) |
長宗我部国親 長宗我部元親 吉良親貞 |
本山茂辰 |
1560年 野良田の戦い 浅井長政 VS 六角義賢 | |
結果:浅井長政の勝利 場所:近江国 | |
内容: 北近江の浅井長政と南近江の六角義賢の戦い。六角家に臣従していた浅井家が独立を果たすきっかけとなったことで知られる。 経緯と結果、その後: 北近江の国人であった浅井亮政(長政祖父)は、守護・京極家の家督争いに乗じて頭角を現し勢力を拡大した。しかし、晩年には京極家の本家筋にあたる南近江の六角定頼と対立し、さらに傀儡としていた京極家にも反旗を翻されるなか病没した。わずか9歳で家督を継ぐことになった亮政の嫡男・久政は、若輩ということもあり、六角家と京極両家を相手に抗うことができず、六角義賢に臣従、嫡男・長政の正室に六角家臣・平井家の娘を迎えた。 長政が元服すると、久政の消極的な動きに不満を抱いていた家臣たちは才気あふれる長政に期待し、長政もその期待に応えるべく父・久政から実権を奪って六角義賢と対立、平井家の娘とも離縁した。そして六角家から完全独立を果たすべく、国境付近の国人たちの調略に取り掛り、六角家臣で肥田城主・高野瀬備前守を寝返らせることに成功した。 高野瀬備前守の寝返りを知った義賢は、すぐさま肥田城へ出陣し水攻めを行うが、失敗に終わる。そして、肥田城が攻められたことを知った長政も後詰のために出陣し、両軍は宇曾川を挟んで対峙することになった。この時の六角勢の兵数は2万5千、対して浅井勢は1万1千と伝わる。緒戦は数で勝る六角勢が有利に進めたが、緒戦の勝利で油断したところを浅井勢の反撃にあい六角勢は敗走した。この時の長政の采配ぶりは、赤尾清綱、遠藤直経ら浅井家歴戦の勇将をも唸らせたという。 戦後、浅井家は六角家より完全独立を果たし、北近江の戦国大名として躍進していく。逆に六角家には動揺がはしり、1563年には追い打ちをかけるように観音寺騒動が起こって徐々に衰退していく。そして、1568年、義賢は長政の義兄であり同盟者でもある織田信長の上洛軍に徹底抗戦するも敗北し、名門・六角家を滅亡させてしまった。 |
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主な参戦武将 | |
浅井方(11000) | 六角方(25000) |
浅井長政 赤尾清綱 遠藤直経 磯野員昌 |
六角義賢 蒲生定秀 蒲生賢秀 |