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合戦 その7  (1581年~1582年)


とっとりじょうのたたかい

1581年 鳥取城の戦い 羽柴秀吉(織田方) VS 吉川経家(毛利方)
結果:羽柴秀吉の勝利  場所:因幡国
内容:
 織田軍中国方面司令・羽柴秀吉と毛利家臣・吉川経家の戦い。経家は、山名家臣の要請で鳥取城に入り、籠城戦を展開。しかし、前年に行われた三木城攻め以上の兵糧攻めにあい降伏した。秀吉の三大城攻めのひとつで「鳥取の飢え殺し」と呼ばれる。

経緯と結果、その後:
 1580年初頭、播磨・三木城の別所長治を降した羽柴秀吉は、次の標的として因幡国へ侵攻し、鳥取城を包囲した。これに対し、鳥取城主で因幡守護でもあった山名豊国は、3か月の籠城戦の末、降伏を願い出て織田家に臣従する。しかし、この降伏に納得できなかった山名家の重臣・中村春続、森下通与らは、豊国を追放し、毛利家に援助を依頼、翌81年に毛利家中でも名将の誉れ高い吉川経家を城将として迎え入れた。

 鳥取城に入った経家は、早速籠城の準備に取り掛かるが、城内に備蓄米がほとんどないことに驚く。これは、豊国から情報を得ていた秀吉が、あらかじめ因幡国内の米を高値で買い占めており、その高値につられて備蓄米も売られていたためであった。経家は、米の調達を試みるが、秀吉の軍勢2万が予想を上回る早さで因幡へ侵攻、瞬く間に城は包囲され、備蓄米が1ヶ月もない状態での籠城戦を強いられた。

 秀吉は、徹底した包囲で毛利軍の補給作戦を阻止、城内の兵糧はすぐに尽き、2ヶ月目には植物や軍馬も食べつくされ、3ヶ月目に入ると餓死者が出始めた。そして四ヶ月目に入ると死者の人肉まで奪い合う状態となる。この惨状を見かねた経家は、遂に降伏を決意し、自分の命と引き換えに、生き残った城内の兵と農民の助命を願い出た。

 経家の申し出を聞いた秀吉は、罪を負うのは本来の城主・豊国を追放した春続、通与であり、経家は切腹に及ばないとの見解を示した。しかし、大将が責を負わないわけにはいかないと経家の強い申し出があったため、秀吉は信長の了承を得て切腹を認めた。切腹後、経家の首は信長のもとへ届けられ、丁重に葬られた。経家の死は、吉川の武名を大いに高め、「義勇の士」として、後の世にまで語り継がれることになる。
主な参戦武将
織田方(20000) 毛利方(1400)
羽柴(豊臣)秀吉
羽柴(豊臣)秀長
蜂須賀小六(正勝)
黒田官兵衛(孝高)
堀尾吉晴
中村一氏
仙石秀久
宮部継潤

吉川経家
中村春続
森下通与







こうしゅうせいばつ

1582年 甲州征伐  織田信長 VS 武田勝頼
結果:織田信長の勝利   場所:甲斐国・信濃国・駿河国
内容:
 織田信長が、同盟者である徳川家康北条氏政と共に信濃、甲斐、駿河、上野へ侵攻して甲斐武田家を滅ぼした一連の戦いの総称。高遠城の戦い、天目山の戦いなどが含まれる。

経緯と結果、その後:
 1575年、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗北した武田勝頼は、その直後から織田・徳川両家の侵攻にさらされた。信長の侵攻は、中国地方の毛利輝元や近畿・北陸の一向宗(本願寺)らとの戦いで忙殺され、美濃・岩村城の奪還に留まったが、家康は、背後を織田家に守られていることもあり、武田領へ積極的な侵攻を開始、その都度出兵を余儀なくされた勝頼は、経済的窮状に陥っていく。そんな状況の中、1578年に越後・上杉家で「御館の乱」が勃発。勝頼は、甲相同盟を結んでいた北条氏政の要請で、最初は上杉景虎(氏政の弟)に加担したが、上杉景勝から東上野の地と黄金一万枚という条件を出されて景勝に鞍替えし、結果、氏政に甲相同盟を破棄され、織田、徳川、北条と三方に敵を抱えることになった。

 1580年、信長と石山本願寺との間で和睦が成立。信長の侵攻も考慮しなくてはならなくなった勝頼は、躑躅ヶ崎館では防御が心もとないとして、新たに新府城の築城を決め、家臣らの経済的負担はさらに増大した。そのため、1581年の家康による遠江・高天神城攻めで、勝頼は援軍を送ることができず、武田家の信頼は失墜する。勝頼への不信と不満は一門にも広がり、1582年、遂に信玄の娘婿・木曽義昌が信長に内通。これを機に織田・徳川両家による大規模な甲州征伐が始まった。

 織田勢は、信長の嫡男・信忠を総大将として、軍監に滝川一益、その他、河尻秀隆森長可らが従って信濃へ侵攻。織田軍の圧倒的兵力を前に武田方の諸将のほとんどは降伏、または逃亡した。唯一、高遠城仁科盛信だけが徹底抗戦を貫いたものの、衆寡敵せず自害して果てた。徳川勢も、信玄の甥で娘婿でもある穴山信君(梅雪)を従えて駿河、甲斐へ侵攻、受けた抵抗も一条信龍らの小規模なものに留まった。相模の北条氏政は、織田・徳川との連携はなかったものの、動きを察知して独自に駿河東部、上野方面へ侵攻した。こうして多方面から侵攻を受けることになった勝頼は、ほとんど抵抗できないまま、追い詰められていった。

 四面楚歌に陥った勝頼は、上杉景勝の援軍を期待したが、景勝は「御館の乱」の事後処理に手こずり、援軍を出せる状態ではなかった。そのため、勝頼は莫大な費用を費やして築いた新府城での抵抗もあきらめ、真田昌幸が推す岩櫃城、小山田信茂が推す岩殿城のうち、信茂を頼って岩殿城へ向かうことを決心する。しかし、勝頼が岩殿城へ向かう途上で、信茂は織田家に寝返り、勝頼の岩殿城入城を拒否。行き場を失った勝頼は、天目山凄雲寺へ向かうが、滝川一益の軍勢に捕捉され自害、信玄の死後、わずか9年で甲斐武田家は滅亡した。織田軍の先鋒隊が岐阜を出陣してから約1ヶ月という短期決着で、信長も信忠の後を追って出馬していたが、勝頼が自害した時には、まだ信濃にも入国していなかったという。

 戦後の論功行賞で、織田軍の軍監をつとめた滝川一益は上野一国と信濃二郡を拝領して関東方面司令的な立場となる。その他、森長可に北信濃四郡、河尻秀隆には甲斐一国(穴山信君の所領は除く)、木曽義昌、穴山信君は所領安堵、家康には駿河一国が与えられた。最後で勝頼を裏切った小山田信茂は信長との謁見を望んだが、信忠の裁きにより、不忠の罪で斬首。真田昌幸は武田家と縁を切り、独立の道を模索し始める。
主な参戦武将
織田方(数万) 武田方(兵力不明)
織田信忠
滝川一益
森長可
河尻秀隆

【同盟者】
徳川家康
北条氏政

武田勝頼
仁科盛信
一条信龍
大熊朝秀
土屋昌恒
小山田信茂(織田家に寝返り)
穴山信君(徳川家康に内応)





ほんのうじのへん

1582年 本能寺の変  明智光秀 VS 織田信長
結果:明智光秀の勝利  場所:山城国
内容:
 織田軍畿内方面司令であった明智光秀が起こした謀反。光秀は、わずかな供廻りで京・本能寺に滞在していた織田信長を急襲、信長を自害に追い込んだ。天下統一目前まで迫っていた信長の死は、世の中を再び戦乱の渦へと飲み込んでいくことになる。

経緯と結果、その後:
 1582年3月、甲州征伐を終え、論功行賞を行った織田信長は、主だった諸将を引き連れて富士山を見物。その後、駿河一国を与えた徳川家康の饗応を受けながら東海道を西進して、4月下旬に安土城に帰城した。5月半ば、今度は、家康と甲斐国内の所領を安堵された穴山梅雪が、信長に招待されて安土を訪問。両者は信長に御礼を言上したのち、明智光秀を饗応役に接待を受けた。

 接待三日目(5月17日)、備中高松城を水攻めにしていた羽柴秀吉の急使が安土に到着。内容は、毛利輝元吉川元春小早川隆景らと共に大軍を率いて高松城の後詰(援軍)に来くるので、こちらも後詰してほしいというものだった。信長は、家康と梅雪には堺の見物を勧め、饗応役には新たに丹羽長秀を任命し、光秀、細川藤孝忠興親子、筒井順慶池田恒興らに援軍の先陣を命じた。そして、自らも出陣することを決め、それを伝えるための使者として堀秀政を秀吉の元へ向かわせた。

以後、信長と光秀、本能寺の変直前までの行動は以下のとおりに進んでいく。

5月21日 織田信忠が入京、妙覚寺に入る。家康、梅雪も見物のため上京する。(信忠入京の理由は諸説あり不明な点が多い)
5月26日 明智光秀、本拠・坂本を発し、丹波亀山城に入る。
5月27日 明智光秀、愛宕山・愛宕権現を参拝。その日は参籠(宿泊)する。
5月28日 明智光秀、愛宕の山坊にて連歌百韻を張行。 光秀発句 「時は今あめが下しる五月哉」(※)
5月29日 織田信長、御小姓衆2、30人と共に本能寺に入る。
6月 1日 織田信長、近衛前久ら公卿と僧侶を招いて茶会を開く。夜には本因坊算砂と鹿塩利賢による囲碁の対局を楽しむ。
同日夕刻 明智光秀、1万3千の軍勢を率いて亀山城を出発する。

そして、6月2日未明、光秀率いる1万3千の軍勢は、京の西方を流れる桂川の西岸に到着。そして、全軍に戦闘準備の命令が下った。このとき、信長を急襲することを知っていたのは明智秀満斎藤利三らわずかな重臣のみで、足軽頭以下、兵たちは信長の命で京に立ち寄り、武者揃えを披露すると聞かされていた。そのため、兵たちは騒然としたが、「今日より、光秀公が天下人に御成りになる。褒美は手柄次第ぞ」との言葉に兵たちは奮い立ったという(「敵は本能寺にあり」は俗説といわれている)。

 士気があがった光秀の軍勢は、桂川を渡って京の都へ入り、午前4時ごろには本能寺の包囲を完了して総攻撃を開始した。このとき、信長は寝所にあり、にわかに騒がしくなったことで目を覚ましたという。その騒がしさの中に鉄砲の音が加わると、さすがに異変に気付き、馳せ参じた森蘭丸から光秀の謀反であることを知らされた。蘭丸の報告に対する信長の返答は「是非に及ばず」であったという。信長は自ら弓をとり、わずかな供廻りと共に応戦、弓の弦が切れると槍をとって奮戦するが、多勢に無勢、蘭丸ら近習たちが次々と倒されるなか、自身も肘を負傷すると、寺に火をかけさせ、奥の部屋へ退いて自害した。また、妙覚寺に入っていた信長の嫡男・信忠も京都所司代・村井貞勝から知らせを受け、より堅固であった二条御新造に移って明智軍と戦ったが、自害している。

 堺を訪れていた家康と梅雪は、京へ戻る途中で本能寺の変を知る。家康は、街道を通るのは危険と判断し、道が険しい伊賀越えをして無事三河へ帰還したが、梅雪は途中から家康とは別行動をとり落ち武者狩りにあって落命した。

 戦闘終了後、光秀は信長の遺体を探させたが、灰燼に帰してしまい見つけることができなかった。そのため、信長の死を証明できず、信長の死に半信半疑となっていた者たちの助力を得られなかったことが、のちの秀吉との戦い(山崎の戦い)において不利な状況をつくってしまったといわれる。現に秀吉は「信長は生きている」との内容の手紙を中川清秀に送り、味方に引き入れることに成功している。

 光秀が謀反を起こした理由については、野望説、怨恨説などの「光秀単独犯説」や、光秀の他にも共謀者がいたとする「黒幕・共謀者説」などがあり、それらの説から派生したものまで含めると、50を超える説が存在する。しかし、どれも決定的なものはなく、日本史上もっとも有名な事件でありながら最大の謎でもある。


<明智光秀が謀反に及んだ代表的な説>

野望説
 柴田勝家、羽柴秀吉、滝川一益ら織田家の有力武将が地方に遠征に出ている状況で、信長を討つ機会が訪れ天下を狙いたくなったとするもの。

怨恨説
 信長の横暴な振る舞いに、個人的な恨みが重なり、遂に耐えかねて謀反を起こしたというもの。

<有名な逸話>
 ●甲斐征伐後に行われた諏訪での祝賀の席で、光秀が「我等の苦労が実った」と言ったのに対し、「おのれに何の苦労があった」と信長が激怒して、人前で打ち据えられたとういもの。
 ●安土で、徳川家康の饗応役となるが、検分に訪れた信長に「魚が生臭い」と不興を買い、役を解任されて面目を失ったというもの。
 ●丹波の波多野秀治・秀尚兄弟を降伏させるため、母を人質にして秀治・秀尚を誘い出して安土の信長に謁見させるが、信長は光秀の母が人質になっているのを承知で秀治・秀尚を磔にしたため、波多野家臣によって母を殺害され、信長を強く恨んだというもの。
 ●近江と丹波にあった所領を召し上げられ、まだ敵の所領であった出雲・石見を切り取って自分の所領にせよとの理不尽な命令に堪忍袋の緒が切れたというもの。

黒幕説
 光秀に謀反を起こすように仕向けた人物が存在するというもの。
 ●足利義昭黒幕説・・・義昭が再び権力を手にするべく、旧幕臣であった光秀に謀反を促したというもの。
 ●羽柴(豊臣)秀吉黒幕説・・・本能寺の変が起こったことで、一番得をした秀吉が怪しいとするもの。
 
四国説
 土佐の長宗我部元親の取次役を担っていた光秀が、信長の四国征伐を阻止するために行ったというもの。毛利攻めをしていた羽柴秀吉が淡路水軍の力を得るために長宗我部家と敵対していた讃岐・阿波の三好家に近づいたことが大きく影響していたという。信長が秀吉の戦略の後押しとして、四国征伐を決定したため、長宗我部家に対して面目を失ったことが大きな要因といわれる。

共謀説
 光秀と手を組んだ者が存在し、共に謀反を起こしたというもの。
 ●徳川家康共謀説・・・甲斐征伐後、不要になった自分は殺されると思った家康が、光秀と組んで謀反を起こしたというもの。謀反が成功したのち、光秀は天海僧正として家康のよき相談相手になったとされる。


以上、様々な説があるが、いずれも史料の信憑性が欠けており、決定的な説はない。


※連歌百韻、光秀の発句 「時は今あめが下しる五月哉(かな)」は、単に「季節は今、雨が多い五月である」という意味だけではなく、「時」を光秀の出自である「土岐家」にかけており、「あめが下しる」は「天(あま)下を知る」とも読み取れ、土岐家出身の光秀が天下をとることを示唆した歌だという解釈もある。
主な参戦武将
明智方(13000) 織田方(100)
明智光秀
明智秀満
斎藤利三
安田国継




織田信長
森成利(蘭丸)

【二条御新造(500)】
織田信忠
村井貞勝
毛利良勝(新介)

 



びっちゅうたかまつじょうのたたかい

1582年 備中高松城の戦い  羽柴秀吉(織田方) VS 清水宗治(毛利方)
結果:羽柴秀吉の勝利。3ヶ国の割譲と清水宗治の切腹を条件に和議。 場所:備中国
内容:
 織田軍中国方面司令・羽柴秀吉と備中高松城主・清水宗治の戦い。宗治は籠城戦を挑むが、秀吉の地形を生かした水攻めにより城は孤島と化し、なす術もなく敗北した。秀吉の三大城攻めのひとつで「高松の水攻め」と呼ばれる。

経緯と結果、その後:
 1577年末、織田信長によって中国方面司令に任命された羽柴秀吉は、播磨国に入り、当時はまだ小寺政職の家臣であった黒田(官兵衛)孝高の協力を得て播磨平定を推し進めた。織田家と領地を接することになった備前の宇喜多直家は、初めは毛利輝元と結んで反織田の姿勢を見せていたが、同じ反織田で播磨・三木城の別所長治が秀吉によって窮地に立たされ、播磨の完全平定が時間の問題となってくると、毛利家とは手を切って織田家に内応した。この時の直家の勢力は備前一国に収まらず、備中国の一部にも及んでいたため、備中の東部に位置していた高松城は毛利家にとって対織田の前線となった。

 1580年に三木城、81年に鳥取城を陥落させた秀吉は、宮部継潤に山陰地方の戦略を任せ、翌82年3月に2万の軍勢を率いて姫路城を出陣。途中、岡山城の宇喜多勢1万と合流し、計3万の軍勢で備中国へ侵攻した。秀吉は、はじめ高松城主・清水宗治の調略を試みたが失敗、やむなく短期決着をつけるため、2回ほど力攻めを行った。しかし、低湿地帯に築かれた高松城は、攻めるに難く守りに易い堅城で、宗治以下、籠城兵の激しい抵抗もあって2回とも撃退される。そこで秀吉は、黒田官兵衛(この頃はすでに秀吉の家臣)の献策を入れ、逆に低湿地であることを利用した水攻めに変更。蜂須賀正勝を奉行として短期間で堤防を築き、ちょうど梅雨の時期も重なって足守川の増水も早く、瞬く間に城の周りに広大な人口の湖を現出させた。

 高松城の窮地を知った毛利輝元は、これを救うべく、吉川元春小早川隆景らと共に4万の軍勢を率いて出陣。だが、到着した時には、高松城は孤島と化しており、手も足も出せない状態となっていた。また、秀吉が安土の信長に援軍を要請していたこともあって、不利と見た毛利方は外交僧である安国寺恵瓊を黒田官兵衛のもとに遣わして、備中、備後、美作、伯耆、出雲の5ヵ国割譲を条件に宗治と城兵の命の保全を願い出た。しかし、秀吉は、5ヵ国割譲だけでなく、宗治の切腹も要求してきたため、和議の成立には至らなかった。そこで毛利方は、宗治に救出は極めて難しいことを伝え、秀吉への降伏を勧めたが、宗治はこれを拒否。再度、恵瓊を遣わして説得しても、「主家・毛利家と城兵の命が助かるなら自身の命は安いものだ」と毛利家への忠義を貫くことを望んだため、これ以上の説得はあきらめた。

 恵瓊が宗治の説得を試みていた頃、秀吉の陣には戦慄が走っていた。明智光秀が毛利家に遣わした使者から密書を奪い、京・本能寺にて光秀が信長を討ち果たしたことを知ったためである。毛利家との和議を強気で行えるのは、信長の援軍という強力な後ろ盾があることが大きく、逆にそれがないと毛利方に知れれば立場は逆転する。そのため、本能寺の変のことが毛利方に知られる前に和議を成立させることが急務となり、秀吉は恵瓊を呼び出し、宗治の切腹は譲らなかったものの、5ヵ国の割譲を備中、美作、伯耆の3ヵ国に譲歩した。事情を知らない毛利方は、宗治本人の意志もあり、秀吉の申し出に同意、和議が成立した。宗治は秀吉から送られた酒と肴で別れの宴を開いたのち、用意された小舟で秀吉の陣近くまで漕ぎ寄せ、舞いを踊り、辞世をしたため切腹した。見事な最期に秀吉は、宗治を「武士の鑑である」と称賛の声を惜しまなかったという。

 宗治の切腹により和議が成立すると、秀吉は、すでに帰国の準備を整えた軍勢を率いて東進、「中国大返し」を敢行する。毛利方が本能寺の変を知ったのは、秀吉が撤退した翌日で、吉川元春ら主戦派は秀吉の軍勢を追撃することを主張したが、小早川隆景が主戦派を抑えたため追撃は行われなかった。この判断がのちに秀吉が天下人となる足掛かりになったため、秀吉は大いに感謝し、毛利家は前田家、上杉家と共に豊臣政権下で厚遇され屈指の大大名となっていく。
主な参戦武将
織田方(30000) 毛利方(5000)
羽柴(豊臣)秀吉
羽柴(豊臣)秀長
黒田官兵衛(孝高)
蜂須賀小六(正勝)
加藤清正
石田三成
堀尾吉晴
山内一豊
清水宗治

<毛利援軍40000>
毛利輝元
吉川元春
小早川隆景




やまざきのたたかい

1582年 山崎の戦い  羽柴秀吉 VS 明智光秀
結果:羽柴秀吉の勝利  場所:摂津国・山城国(国境)
内容:
 本能寺の変織田信長を討った明智光秀と「中国大返し」をしてきた羽柴秀吉の戦い。戦いに勝利した秀吉は、天下人への第一歩を踏み出した。

経緯と結果、その後:
 1582年6月3日、毛利方の備中高松城を水攻めにしていた羽柴秀吉は、6月2日に主君・織田信長が明智光秀によって本能寺で討たれたことを知る(本能寺の変)。この時、秀吉は、毛利方と和議の交渉を有利に進めていたが、本能寺の変の事が毛利方に知られれば、反撃を受けるのは必至であったため、和議の条件を譲歩し、その結果、毛利方に本能寺の変を知られることなく、6月4日に条件どおり、高松城主・清水宗治が切腹して和議が成立した。宗治の切腹と毛利勢の撤退を見届けた秀吉は、「主君の仇討ち」の大義名分のもと、6日には撤退を開始、7日には姫路、11日には尼崎に到達し、四国征伐の中断を余儀なくなされた織田信孝(信長三男)と丹羽長秀、摂津の有力大名、池田恒興高山右近中川清秀らと合流した(中国大返し)。その軍勢は4万に達したという。

 一方、信長を討った明智光秀は、自身の本拠・坂本と織田家の本拠・安土がある近江、さらに美濃の平定に乗り出し、近江・日野城の蒲生賢秀氏郷親子ら一部の抵抗は残ったものの、6月4日までには、そのほとんどを勢力下に置いた。5日に安土城へ入った光秀は、7日に朝廷からの使者を迎え、9日には上洛して朝廷や京都五山に銀子を献上、京の治安維持を任され、人々には、次期天下人と目されたという。しかし、これ以降、事態は光秀の思い描いた構想から大きく外れていく。まず、秀吉が尋常ではない速度で京へ向かっていることを知る。光秀は、直ちに軍勢を整え、下鳥羽に布陣して有力与力大名・細川藤孝筒井順慶の加勢を待った。だが、藤孝は「信長の喪に服す」と称して隠居し、中立の立場を表明。順慶は、はじめ加勢の動きを見せるものの、秘密裏に秀吉と結び、郡山城に引きこもってしまう。さらに、秀吉の迅速な取り込みで、摂津衆の調略にも出遅れた結果、光秀は、秀吉の軍勢の半分にも満たない1万6千しか兵を集めることができなかった。

 6月12日、尼崎から富田に移った羽柴勢は、集まった諸将らで軍議を開き、織田信孝を総大将としながら、実質的な指揮は秀吉が執ることで同意した。そして、その日のうちに山崎に移り、天王山に羽柴秀長黒田官兵衛らが布陣、中川清秀、高山右近、池田恒興、加藤光泰らが円明寺川を挟んで斎藤利三阿閉貞征ら明智勢と対峙した。しかし、この日は大規模な戦闘は行われず、双方の足軽鉄砲隊による些細な応酬が日没前にあっただけだった。

 6月13日の朝は雨が降っていたという。午前中は双方対峙のまま時が過ぎ、午後に入って明智勢が羽柴方・中川清秀へ攻撃を仕掛けたことで戦端が開かれた。序盤は、明智方・斎藤利三の奮戦もあり、数で劣勢だった明智勢が中川・高山隊をあと一歩で突き崩すという勢いを見せる。しかし、秀吉本隊から堀秀政の援軍が到着するとその勢いは止まり、その後は、天王山に布陣していた羽柴秀長、黒田官兵衛らも加わって一進一退の攻防が続いた。約一刻後、その一進一退の戦局を動かしたのは加藤光泰だった。光泰は円明寺川を密かに渡河して明智勢の側面に回り込むことに成功。その光泰の横槍で明智勢は混乱、形勢が一気に羽柴方に傾き勝敗は決した。 

 敗北した光秀は、勝龍寺城へ入り、敗残兵をまとめるが、逃げ出す兵が後を絶たず、集まった兵は7百ほどであったという。そのため、再戦をあきらめ、その日のうちに城を脱出して本拠・坂本を目指した。しかし、その道中で農民たちの落ち武者狩りにあい、竹槍によって絶命したとも、重傷を負ったのち、自害したともいう。どちらにせよ光秀の天下は本能寺の変からわずか11日で終焉を迎えた。

 光秀の娘婿・明智秀満は、山崎の戦いには参加せず、安土城の守備を任されていたが、6月13日に光秀敗走の報に接すると、翌14日未明には安土城を出て坂本へ向かった。道中、秀吉の命で近江に入った堀秀政と大津で遭遇し、戦闘を避けて坂本城へ入るが、追いついた秀政によって城が包囲されると、無駄な抵抗はあきらめ、城内にあった宝物を秀政に託し、光秀と自分の妻子を刺殺したのち、城に火をかけて自害した。京に入った秀吉は、16日には近江を平定、17日には逃亡していた斎藤利三を捕らえて処刑した。それから10日後、尾張・清州城で開かれた清洲会議で、明智討伐を果たした秀吉は、終始主導権を握り、天下人への第一歩を踏み出した。
主な参戦武将
羽柴方(40000) 明智方(16000)
羽柴(豊臣)秀吉
羽柴(豊臣)秀長
黒田官兵衛(孝高)
蜂須賀小六(正勝)
堀秀政
加藤光泰
堀尾吉晴
中村一氏
織田信孝
丹羽長秀
池田恒興
中川清秀
高山重友(右近)

明智光秀
斎藤利三
阿閉貞征
可児吉長