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合戦 その4 (1570~1572)


いまやまのたたかい

1570年 今山の戦い  龍造寺隆信 VS 大友宗麟
結果:龍造寺隆信の勝利  場所:肥前国
内容:
 肥前の龍造寺隆信と豊後の大友宗麟の戦い。佐嘉城攻防戦における局地戦のひとつ。この戦いに勝利した龍造寺隆信は滅亡を免れ、後に島津義久、大友宗麟と並ぶ九州屈指の戦国大名へと成長していく。

経緯と結果、その後:
 龍造寺家は、もともと肥前の守護大名・少弐家の家臣だったが、隆信の時代に下剋上を成し遂げ、肥前での勢力を拡大した。しかし、当時勢いに乗る豊後の大友宗麟と対等に渡り合う力はなく、それを補うため、北九州への侵攻を目論んでいた毛利元就と結んでこれに対抗、一時期は同じく毛利家に同調した立花鑑載高橋鑑種秋月種実らと共に宗麟を苦しめたが、1569年の多々良浜の戦いで宗麟に敗れた毛利勢が筑前から撤退すると窮地にたたされた。

 1570年、筑前支配を安定させた宗麟は、龍造寺討伐を決意、6万(8万とも)の大軍をもって肥前に侵攻し、隆信の居城・佐嘉城を包囲した。これに対して隆信は5千の兵を集めるのがやっとで、籠城策を取らざるを得なかったが、城内の士気は高く、また大友勢も積極的な攻勢に出て来なかったため、数ヶ月を耐え抜いた。とはいえ、援軍のない長期にわたる籠城戦は守勢側には不利で、城内では終日軍議が開かれたが、決定的な活路は見いだせずにいた。

 一方、宗麟も大軍を擁しながら朗報が届かないことに業を煮やしていた。それを打開すべく従弟・親貞に新たに兵を与え、総攻撃の総大将として佐嘉城の包囲に加えた。着陣した親貞は、総攻撃の日を決定し、大軍の余裕から総攻撃前日に前祝として酒宴を催すことも決めた。

 佐嘉城内で酒宴のことを聞いた隆信の懐刀・鍋島信生(直茂)は、これを好機と見て隆信に夜襲を進言。初めは消極的であった隆信だが、隆信の母・慶誾尼の檄もあって、夜襲を決定した。一任された信生は夜陰に紛れて出陣、親貞が本陣を置く今山の背後にまわり、酒宴が終わって静まり返った明け方に奇襲をかけた。突然の不意打ちに親貞の陣は混乱。親貞はたいした抵抗もできず、信生に従っていた成松信勝に討たれ、戦いは龍造寺家の勝利に終わった。

 敵の総大将を討ち取って戦いに勝利した隆信であったが、この戦いは局地戦に過ぎず、大友軍全体からすれば、その被害は微々たるものだった。しかし、大友勢の戦意が喪失したのは確かで、その機を逃さず隆信は和睦を申し入れた。和睦内容は事実上の臣従ではあったが、滅亡を免れたのは大きく、こののち、大友家の没落と共に龍造寺家は九州屈指の戦国大名へと成長していく。
主な参戦武将
龍造寺方(5000) 大友方(60000)
龍造寺隆信
百武賢兼
鍋島信生(直茂)
成松信勝

大友宗麟
大友親貞
戸次鑑連(立花道雪)
吉弘鑑理
臼杵鑑速



かねがさきののきくち

1570年 金ヶ崎の退き口  朝倉義景・浅井長政 VS 織田信長
結果:朝倉義景・浅井長政の勝利  場所:越前国
内容:
 織田信長の越前・朝倉討伐における撤退戦。信長は義弟・浅井長政の寝返りにより窮地に立たされたが、明智光秀木下(豊臣)秀吉ら殿(しんがり)の活躍で九死に一生を得た。

経緯と結果、その後:
 1568年、上洛を果たした織田信長は、足利義昭を室町幕府15代将軍に据え、将軍の名のもと諸大名へ向けて「天下静謐のための上洛」を促した。しかし越前の朝倉義景は、この上洛要請を2回にわたって無視。信長と真っ向から対立する姿勢をみせた。

 信長は、若狭武田家臣・武藤友益の討伐を口実に徳川家康の援軍と合わせて3万の兵で若狭へ侵攻。そして、友益の背後には義景がいるとして越前朝倉領への進軍が始まった。織田・徳川の軍勢は快進撃を続け、金ヶ崎城までを瞬く間に攻略する。しかし、木ノ芽峠を超えて朝倉家の居城・一乗谷へ進もうとした矢先、信長のもとへ近江の浅井長政が寝返ったとの情報がもたらされた。寝返りの原因は朝倉家との不戦の約束を反故にしたからだという。

 信長は最初、義弟・長政寝返りの情報を信じなかったが、立て続けにもたらされる情報に事実であることを遂に認め、浅井・朝倉両軍に挟撃されることを憂慮して撤退を即決した。殿(しんがり)軍の総大将は池田勝正とされ、そのもとで木下秀吉(のちの豊臣秀吉)、明智光秀が活躍、資料によっては徳川家康も殿をつとめて信長の撤退を助けたという。また、松永久秀は、幕府と浅井家から知行を受け、朽木谷を支配していた朽木元網を説得して信長の朽木谷通過に貢献した。

 供廻りわずか10名で無事京都に戻った信長は、すぐさま岐阜へ帰って体制を整え、徳川家康の援軍を再び得て近江へ侵攻、姉川の戦いに臨むことになる。金ヶ崎の退き口から姉川の戦いまでの期間はわずか2ヶ月。これは殿をつとめた秀吉らの活躍によって織田軍が致命的な損害を免れた結果だが、殿軍の損害は大きく、約3000名のうち、戦死者約1300名、逃亡兵約1300名、無事京都に帰還できたのは400名足らずという壮絶な撤退戦だった。
主な参戦武将
浅井・朝倉方(兵力不明) 織田方(殿軍3000)
朝倉景鏡
浅井長政






織田信長
徳川家康
池田勝正
明智光秀
木下(豊臣)秀吉
松永久秀

 



あねがわのたたかい

1570年 姉川の戦い  織田信長・徳川家康連合軍 VS 浅井長政・朝倉義景連合軍
結果:織田信長・徳川家康の勝利  場所:近江国
内容:
 織田信長徳川家康連合軍と浅井長政朝倉義景連合軍が近江国の姉川付近で行った戦い。戦いは織田・徳川連合軍の勝利に終わったが、浅井・朝倉家にとっては致命的な敗北ではなく、この戦い後も信長は両者に悩まされた。

経緯と結果、その後:
 越前朝倉攻めでの金ヶ崎の退き口から二か月後、岐阜に戻った織田信長は、竹中(半兵衛)重治に長比城、鎌刃城、苅安尾城を調略させて退路を確保すると近江に侵攻、虎御前山に本陣を置いて浅井長政の居城・小谷城を包囲した。しかし、小谷城は要害堅固で力攻めするには甚大な被害を覚悟しなければならなかったため、城下を焼くなどして長政をおびき出そうとしたが、長政は乗ってはこなかった。

 信長は、次の手として小谷城の重要支城で南東に位置する横山城を包囲した。すると、長政は横山城を救うべく小谷城を出陣、途中で朝倉景健率いる朝倉家の援軍をえて総勢1万8千で横山城の北を流れる姉川の北岸に布陣した。これに対して織田側も徳川家康の援軍が到着、総勢2万8千で姉川の南岸に布陣し、両者がにらみ合う形となった。

 戦いは、浅井軍の攻撃から始まった。兵力数に劣った浅井軍であったが、先鋒をつとめた磯野員昌が、のちに「姉川十一段崩し」呼ばれるほどの猛攻をみせ、織田軍の陣を次々と突破、織田本陣に迫り信長を窮地に立たせたという。しかし、本多忠勝榊原康政の活躍によって朝倉軍を崩した徳川軍が浅井軍の側面を突いて織田軍を加勢し始めると、浅井軍は次第に不利となり撤退。戦いは織田・徳川連合軍の勝利に終わった。

 この戦いで浅井軍は遠藤直経をはじめとする多くの重臣を失い、朝倉軍も猛将・真柄直隆・直澄兄弟、直隆の子・隆基を失った。しかし、浅井・朝倉両家にとって致命的な敗北ではなく、信長も無用な追撃はしなかった。戦後、横山城は降伏。横山城には木下(豊臣)秀吉が入り、小谷城を牽制する役割を担うことになった。
主な参戦武将
織田・徳川方(28000) 浅井・朝倉方(18000)
【織田軍】
織田信長
柴田勝家
丹羽長秀
池田恒興
木下(豊臣)秀吉
佐久間信盛
森可成
稲葉良通(一鉄)
氏家直元(卜全)
安藤守就

【徳川軍】
徳川家康
酒井忠次
石川数正
本多忠勝
榊原康政
【浅井軍】
浅井長政
磯野員昌
阿閉貞征
遠藤直経
藤堂高虎

【朝倉軍】
朝倉景健
真柄直隆








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のだじょう・ふくしまじょうのたたかい

1570年 野田城・福島城の戦い 三好三人衆・本願寺 VS 織田信長
結果:三好三人衆・本願寺の勝利(引き分け?織田軍の自主的撤退) 場所:摂津国
内容:
 畿内の奪還を目論む三好三人衆と織田信長の戦い。三好方として本願寺も参戦し、以後10年に及ぶ石山合戦の発端となった戦いでもある。

経緯と結果、その後
 三好三人衆(三好長逸三好政康岩成友通)は、本圀寺の変での敗北後も畿内の奪還を狙い、織田軍の主力が畿内から撤退したのをみて再び動き出した。三人衆は、織田方で摂津三守護のひとり池田勝正の一族である知正と重臣・荒木村重を調略して勝正を追放、畿内に上陸して野田城、福島城を築き、畿内奪還の拠点とした。

 報告を聞いた織田信長は、4万の軍勢を率いて摂津に進軍、途中で雑賀・根来の援軍2万も加え、三好方1万3千に対して総勢6万にも及ぶ圧倒的兵力で野田城、福島城を包囲し総攻撃を開始した。鉄砲傭兵軍団として知られる雑賀衆は、この時、織田方だけでなく、三好方についた者もおり、激しい銃撃戦が繰り広げられたといわれる。信長の大軍に対し、三好勢は必死の抵抗を見せるが、次第に数で勝る織田勢に押され劣勢となっていった。

 苦境に立たされた三人衆は、信長に和睦を申し入れるが、信長はこれを拒否。絶体絶命となった三好勢だが、このとき本願寺の早鐘が鳴り、本願寺勢が織田勢を背後から急襲した。これに対し織田勢は、前田利家佐々成政の奮戦で本願寺勢をかろうじて撃退。しかし、この援軍で三好勢は士気を取り戻す。さらに信長のもとに越前の朝倉義景と北近江の浅井長政が京都へ進軍しているとの情報がもたらされると、信長は京を奪われた時の政治的影響を考え撤退を決意した。

 信長は以前より、本願寺宗主・顕如に対して要所にある石山本願寺からの撤退と多額の矢銭を要求しており、この戦いを機に本願寺を完全に敵に回すことになった。また、味方してくれた雑賀衆には一向宗徒が多くおり、同時に彼らも敵に回すことになっていく。本願寺、朝倉、浅井の動きには連動性があり、以前より三人衆と通じていたという説がある。
主な参戦武将
三好三人衆・本願寺方(三好13000、本願寺・不明) 織田方(織田40000、雑賀・根来20000)
【三好軍】
三好長逸
三好政康
岩成友通
十河存保
斎藤龍興

【本願寺】
顕如

織田信長
足利義昭
松永久秀
三好義継
前田利家
佐々成政



しがのじん

1570年 志賀の陣  浅井長政・朝倉義景 VS 織田信長
結果:引き分け(和議) 場所:近江国
内容:
 浅井長政朝倉義景連合軍と織田信長の戦い。浅井・朝倉勢には比叡山延暦寺が協力したため、信長は思うように手が出せず長期戦となり、最後は和議に至った。

経緯と結果、その後:
 1568年に織田信長が上洛して以来、畿内での勢力を失った三好三人衆であったが、その後も執拗に信長に抵抗。1570年に入ると、追われた四国から再び畿内に上陸し野田城・福島城の戦いとなった。三人衆相手に信長は終始優勢に戦ったが、本願寺が三人衆に加担したため戦局が後退。さらに、信長のもとに浅井長政、朝倉義景の両名が南近江を任せていた森可成らを坂本の戦いで討って京に迫っているという情報がもたらされ、信長は京を奪われた時の政治的悪影響を考慮し、三人衆の殲滅をあきらめて京への撤退を決意した。

 森可成を討ち取った浅井・朝倉勢は可成が任されていた宇佐山城を攻め、後顧の憂いを絶とうとしたが、残った兵たちの激しい抵抗にあって攻略を断念、宇佐山城を無視して京を目指した。しかし、山科まで来たところで信長本隊が帰京したことを知り、比叡山延暦寺に後退した。それを知った信長は叡山を包囲。そして延暦寺に対して「味方すれば、織田領内にある叡山領を返還する。出家していて味方できないというなら中立を保つように。どちらも呑まないのならば焼き討ちにする」と伝えたが、延暦寺はこれを無視して浅井・朝倉勢を庇護し続けた。

 信長は次の手として浅井・朝倉勢の本国との連絡と補給を断とうとするが、堅田の戦いに敗れこれも失敗する。比叡山を包囲して約2か月後、戦いが長期戦にもつれ込むことで、反信長勢力の連携が強まるのを恐れた信長は、将軍・足利義昭と朝廷を動かして遂に和睦を申し入れ、朝倉義景(この時は反信長勢力の代表者のような立場)がこれを了承、各勢力は帰国の途につき戦いは終結した。

 朝倉義景が和睦に応じたのは、豪雪により本国へ帰国できなくなるのを恐れたからといわれる。足利義昭は、和睦に協力したものの、すでに信長との確執は始まっており、この時期にあきらかになった反信長勢力を糾合して信長包囲網を築き上げていく。そして、信長の要求を無視して浅井・朝倉家に味方した比叡山は、この翌年に焼き討ちにあうことになる。
主な参戦武将
浅井・朝倉方(30000) 織田方(兵力不明)
浅井長政
朝倉景鏡
朝倉景健

織田信長
明智光秀
森可成(坂本の戦いで討死)



きざきばるのたたかい

1572年 木崎原の戦い 島津義弘 VS 伊東祐安
結果:島津義弘の勝利  場所:日向国
内容:
 薩摩・島津四兄弟の次男・島津義弘と日向伊東家当主・義祐の従兄弟・祐安の戦い。義弘が10倍の兵力を擁した祐安を討ち取って勝利したことから「九州の桶狭間」と呼ばれる。

経緯と結果、その後:
 1571年、薩摩を統一して大隅への侵攻を果たした島津貴久が亡くなった。これを機に貴久に苦しめられていた大隅の肝付家は盛り返しをはかり、この動きをみた日向の伊東義祐も、1572年に従兄弟・祐安に3000の兵を与えて島津領へ侵攻させると共に人吉の相良義陽に援軍を要請して日向南西部の完全掌握を目指した。

 島津領へ入った祐安は、島津義弘が籠る飯野城の抑えとして一部の兵を割くと、そのまま飯野城を通り過ぎて義弘の妻子と城兵50名ほどが籠る加久藤城の攻略に向かった。これに対し義弘は、狼煙をあげて大口城の新納忠元に援軍を要請すると、自ら兵を率いて出陣。わずかな兵を4つに分け1隊を加久藤城の救援に、2隊を木崎原周辺に伏兵として配置した。また伊東方の援軍である相良軍に対しては、その進路となる山間に幟(のぼり)を立てて多くの将兵がいると見せかけてその進軍を止めた。そして、わずかながらも援軍を得た加久藤城は伊東勢の不手際もあって、その撃退に成功する。

 この戦いにおいて義弘は間者や斥候を放ち、常に敵の動きを察知していたという。そのため、加久藤城を攻めあぐねて一旦兵を退いたのちの伊東勢は、義弘に手のひらの上で踊らされ、最後は義弘の部隊に木崎原までおびき出されると、反転迎撃に転じた義弘と2隊の伏兵、そして来援した新納忠元隊の包囲攻撃を受け、総大将である祐安をはじめとする伊東一族と家臣団の中核を担う多くの将兵が討死して潰走した。敗北した伊東勢は3000のうち800が討死したと伝わるが、勝利した島津勢も300のうち8割にあたる250が討死するという壮絶な戦いであった。

 戦後、多くの青年武将を失った伊東家は、その後の島津家の攻勢に抗えず急激に勢力を失い、5年後の1577年に伊東義祐は大友宗麟を頼って豊後へ落ち延びた。そして、義祐が日向を奪還するため宗麟に協力を仰いだことが高城川(耳川)の戦いの遠因となる。また、義弘が用いた敵兵をおびき出し、伏兵を使って敵を包囲殲滅する戦術は「釣り野伏」と呼ばれるようになり、高城川(耳川)の戦いでもその威力を発揮する。
主な参戦武将
島津方(300) 伊東方(3000)
島津義弘
新納忠元

伊東祐安




みかたがはらのたたかい

1572年 三方ヶ原の戦い 武田信玄 VS 徳川家康
結果:武田信玄の勝利 場所:遠江国
内容:
 甲斐・信濃・駿河を支配した武田信玄と三河・遠江を支配した徳川家康の戦い。武田信玄の西上作戦の過程で行われた最も有名な戦いで、家康が大惨敗したことで知られ、伊賀越えと並ぶ家康最大の危機といわれる。

経緯と結果、その後:
 1572年9月、信玄は信長包囲網の切り札ともいえる西上作戦を開始。甲相同盟を結んだ北条氏政からの援軍も合わせて2万2千という大軍で甲府を出発した。それと同時に秋山虎繁山県昌景両名に別働隊を率いさせ、信長の牽制を目的に虎繁隊2千5百を美濃へ、家康の攪乱を目的に昌景隊5千を三河へ侵攻させた。そして自身は青崩峠を越えて徳川領である遠江へ入る。遠江へ入った信玄は、北遠の徳川方支城を攻略、降伏させながら南下し、一言坂の戦いで天竜川を渡ってきた徳川軍を撃破すると、その後は三河から遠江へ入った山県隊と合流して要衝である二俣城を落とし、家康の居城・浜松城を孤立させていった。

 一方、家康は一言坂の戦いでの敗北後、これといった対策がとれず、武田軍によって領内を蹂躙されることになる。この時、山県隊と合流した武田軍の総数は2万7千。これに対して徳川軍の最大動員兵数は1万5千で、そのうちの7千を三河の守備に回していたため、浜松城に動員できたのは8千にすぎなかった。家康は、それを補うため、同盟者である織田信長に援軍の要請をするが、信長も浅井・朝倉など畿内の反抗勢力を抑えねばならず、佐久間信盛ら3千を送ってもらうものの、総数は1万1千にとどまった。

 数で劣勢に立たされた家康は、野戦での決戦を避け浜松城での籠城を決定する。しかし、二俣城から南下して浜松城へ来るかと思われた武田軍は、突然進路を西にとり、三方ヶ原台地へ向かい始める。家康は監視役を担っているであろう織田援軍の手前、何もしないわけにはいかず、やむを得ず出陣。武田軍が祝田の坂を下っているところを背後から急襲する作戦に切り替えた。ところが、武田軍は坂の手前で反転、追ってくる徳川軍を万全の態勢で待ち構えていた。そうなると、勝敗はほぼ数で決まる。武田軍の半分にも満たない徳川軍は散々に打ち破られ、家康は命からがら浜松城へ逃げ帰った。この退却戦で家康は夏目吉信本多忠真ら多くの忠臣を失った。

 戦後、家康は完全に浜松城に押し込まれ、三河へ入っていく武田軍を追撃することができなかった。しかし、三河へ入った信玄は野田城攻略後に甲府出発時には発症していたと思われる持病(結核?)が悪化して喀血。甲斐への撤退途中で亡くなる。包囲網の切り札ともいえる信玄の死により、信長、家康は共に危機を脱出し、信長は包囲網への反撃を開始することになる。

 三方ヶ原の戦いは、信玄が圧勝し、家康が大惨敗をしたという結果以外、実は分かっていないことが多く、様々な説があって主戦場が何処であったかもはっきりしていない。また、三方ヶ原の戦いにまつわる逸話(実話?)として家康が浜松城に逃げ帰ったのち、家康は、追撃してきた山県昌景を「空城の計」で退かせ、さらに野営していた武田軍に夜襲をかけ一矢報いたというものがある(犀ヶ崖の戦い)。
主な参戦武将
武田方(27000) 徳川方(徳川8000織田援軍3000)
武田信玄
武田勝頼
馬場信春
山県昌景
高坂昌信
内藤昌豊
小山田信茂
真田信綱





徳川家康
酒井忠次
石川数正
本多忠勝
榊原康政
大久保忠世
内藤信成

【織田援軍】
佐久間信盛
水野信元
平手汎秀

旅先  三方ヶ原古戦場跡へ   一言坂古戦場跡へ   犀ヶ崖古戦場跡へ