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合戦 その11 (1592~1598)


ぶんろくのえき

1592年4月~93年7月 文禄の役  豊臣秀吉 vs 明・李氏朝鮮 
結果: 講和交渉による一時休戦  場所:朝鮮半島 
内容:
 天下統一を成し遂げた豊臣秀吉による朝鮮半島への侵攻。最終目的が中国・明の制圧にあったことから「唐入り」とも呼ばれる。朝鮮半島へは主に九州、四国、中国地方に所領をもつ大名が渡った。

経緯と結果、その後:
 1592年(文禄元年)正月、前年に天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、中国・明の討伐をかかげ、全国の諸大名に朝鮮半島出征の動員令を発した。その動機は、秀吉の征服欲、名誉欲という単純なものから国交のなかった明を屈服させて交易を迫ろうとしたもの、国内で不要となった兵力を国外に振り向けさせて大名を統制しようとしたというもの、アジアに進出してきたイスパニア(スペイン)やポルトガルなどキリスト教圏の国々に対抗するために明の沿岸部をおさえて東シナ海から南シナ海に睨みをきかせようとしたものなど諸説ある。いずれの動機にせよ最終目的は明の討伐であるわけだが、朝鮮半島を経由することを選択したのは、当時の日本には大海を渡れる大型船が少なかったことに加え、航法が「地乗り航法」という沿岸を目視して自身の位置を確認するというものが主流であったため、大陸に大兵力を輸送するには常に陸地が確認できる対馬を経由して朝鮮半島に上陸するのが一番安全だと判断したからである。

 秀吉の明討伐の意思は87年の九州征伐を終える頃には既にあり、李氏朝鮮を先導役として討伐軍を明に送ることを考えていた秀吉は、対馬の宗義調義智親子(義調は89年に死去)と義智の舅であった小西行長を交渉役として李氏朝鮮に服属と朝鮮国王の入朝を迫ることにした。秀吉が最初からこのような強引な交渉に踏み切ったのは、李氏朝鮮が対馬に従属していると思っていたからだという。しかし、実際には対馬は李氏朝鮮と交易をしていただけで、それどころか李氏朝鮮は朝貢によって明から王位を認めてもらうことで成り立っていた。そのため、李氏朝鮮が明討伐の先導役など引き受けるわけはなく、李氏朝鮮と秀吉の間で板挟みとなった義智と行長は、李氏朝鮮にとりあえず秀吉の天下統一を祝する使節を送ってもらい、秀吉にはその使節が服属のための使節であると偽ろうとした。だが、このような誤魔化しで話がうまく進むはずもなく、その後、義智が李氏朝鮮に対して「案内役はしなくてもいいので道だけ使わせてほしい」と申し入れるも、受け入れられず、91年8月、遂に秀吉は翌春に朝鮮半島へ出陣する旨を公表し、肥前名護屋に前線基地となる城の築城を命じた。そして、その年の暮れ、自身も渡海することを考えていた秀吉は、万が一の事を考え、甥・秀次に関白職を譲って後継者を天下に示し、自身を太閤と称した。

 かくして92年4月、遂に日本軍の朝鮮半島への渡海が始まった。12日に釜山浦に上陸した一番隊の小西行長らは、翌日には釜山城を落として北上を開始。17日には加藤清正率いる二番隊、黒田長政率いる三番隊も上陸、それぞれ一番隊とは別路を北上して李氏朝鮮の国都・漢城を目指した。そして5月2日、忠州城で合流した一番隊と二番隊は漢城を占領する。上陸からわずか20日あまりという電光石火の進撃であった。こうまで簡単に国都を占領できたのは、李氏朝鮮が秀吉の侵攻を楽観的にとらえ準備を怠っていたこと、当時の日本軍が世界でも稀に見る大量の火縄銃を保有しており、その性能も抜き出ていたことなどが挙げられている。また、当時の李氏朝鮮は党争により国政が乱れ国民は困窮し、さらに第14代国王・宣祖は日本軍が来ると聞いて我先に漢城から逃げ出すという愚行ぶりで、漢城の民衆のなかには王族を見限り、逆に日本軍に協力する者もいたという。

 漢城占領後、日本軍は漢城に集まって軍議を開き、朝鮮で定められていた「八道」と呼ばれる行政区間を各隊が受け持つ「八道国割」を決定した。そのなかで平安道を担当した小西行長は平壌を目指し、黄海道を担当した黒田長政と協力して6月15日に平壌を占領、7月16日に李氏朝鮮の要請を受けた祖承訓率いる明の援軍が来襲するが、行長はこれを撃退し平壌を守り切った。7月23日には咸鏡道を担当していた加藤清正が逃亡していた李氏朝鮮の王族、臨海君、順和君の二王子を会寧で捕虜にするという手柄もたてた。しかし、その一方で李氏朝鮮も、郭再祐率いる義兵軍が遊撃戦を展開して安国寺恵瓊の部隊を撃退したのを契機に各地に義兵軍が興り、海上でも名将・李舜臣率いる朝鮮水軍が、脇坂安治率いる日本水軍の軍船63隻を撃沈するなど激しい抵抗をみせた。戦況が泥沼化していく中で日本と明は講和の道を模索し始め、8月末、日本側は小西行長、明側は沈惟敬を代表者として会談の場が設けられ、沈惟敬が講和には明皇帝の承諾を得る必要があるとして50日間の停戦協定が結ばれた。

 明皇帝の承諾を得ると本国へ帰っていた沈惟敬だが、約束の50日が過ぎても行長の元に明からの使者が来ることはなかった。ようやく使者が現れたのは年を越した1593年(文禄2年)正月で、使者の言上は「明皇帝は講和することを承認した。まもなく講和調印のため李如松将軍がここへやって来る」というものだった。事が成ったと喜んだ行長は、出迎えのための使者を送るが、これは李如松が行長を油断させるための罠だった。このとき、李如松率いる4万を越える精鋭がすでに平壌の間近まで迫っており、行長が送った使者は捕らえられ護衛の兵たちは殺された。生き延びた数人がこのことを行長に伝え、行長は平壌城の防備を固めるが、1月5日、城は明軍によって完全に包囲された。明軍の激しい攻撃に日本軍も必死に応戦し、その結果、李如松が自軍の損害が拡大するのを嫌い、一部の包囲を解いて日本軍に撤退を促してきた。物資も底を尽きかけていた日本軍は7日の夜に城を脱出、行長は白川城にいた黒田長政、開城にいた小早川隆景と合流し、最終的には共に漢城まで兵を退いた。

 漢城に入った日本軍諸将は、漢城まで攻めてくるであろう李如松にどう対応するか軍議を開いた。顔ぶれは、宇喜多秀家、小早川隆景、黒田長政、小西行長、立花宗茂吉川広家ら戦闘指揮官と石田三成大谷吉継増田長盛ら奉行たちである。三成ら奉行衆は「漢城の堅牢な城壁と堀を頼りに籠城すべし」と籠城策を主張。しかし、立花宗茂は「籠城は後詰(援軍)があってこその策。しかし、その後詰の当てがない」と野戦を主張した。宗茂の意見には黒田官兵衛から天下の知恵者といわれた小早川隆景も賛同。最初は渋っていた奉行衆も最後は隆景、宗茂に賛同し、宇喜多秀家を総大将、隆景を先鋒隊の大将とし、先鋒隊の先陣を宗茂とした。

 こうして1月26日、日本軍約4万は、開城から南下してきた李如松率いる明軍と李氏朝鮮の援軍、合わせて約5万を碧帝館で迎え撃った。碧帝館は左右を山に挟まれた狭隘の地で、騎馬戦を得意とする明軍にとっては展開しずらく、機動力も攻撃力も十分に発揮できないという日本軍にとっては迎撃にうってつけの場所であった。小早川隆景はその地形を上手く利用し、先鋒隊2万だけで明・李氏朝鮮軍の包囲に成功、先陣をつとめた立花宗茂は李如松の本陣に突撃をかけ、李如松を討死寸前まで追い詰めた。宗茂に追い詰められた李如松は這う這うの体で戦線を離脱、戦いは日本軍の勝利に終わった(碧帝館の戦い)。

 李如松は、この戦いの敗北によって戦意を著しく削がれ講和交渉へと方針を転換していく。また日本軍も3月に兵糧庫を明軍に焼き払われたことで深刻な兵糧不足に陥り講和の道を模索することになる。こうして再び小西行長と沈惟敬の間で真の講和交渉の場が設けられ、日本は捕虜にした朝鮮の二王子を返還すること、日本軍は釜山へ、明軍は開城まで撤退すること、明は日本へ使節を派遣することなどが取り決められた。この講和に李氏朝鮮は反対したが、明は宗主国の立場からこれを無視した。4月18日、講和条件合意に基づき日本軍は明の勅使と沈惟敬を伴って漢城を出て釜山まで撤退。だが、この時の明の勅使は秀吉を納得させるための偽装した勅使であった。その後、石田三成ら奉行衆と小西行長は、釜山に3万の兵を残し、偽装した明の勅使と沈惟敬と共に肥前名護屋に帰陣した。こうして文禄の役は秀吉の渡海がないまま終わり、5月15日に秀吉は明の勅使が偽装されたものだと知らないまま会見に臨むことになる。秀吉は、この会見で明の皇女を天皇の妃として送ること、朝鮮南部の四道を割譲することなど7項目を講和の条件として提示したが、96年(文禄5年)に来朝した明の使節の返答は秀吉の要求を一切受け入れてなかった。そのため、秀吉は激怒、再び朝鮮への出兵を命じ慶長の役へと繋がっていく。

 この文禄年間には、秀吉の私事において様々な出来事が起きた。1592年(文禄元年)、文禄の役が始まってすぐに秀吉の母・大政所が亡くなった。秀吉は肥前名護屋におり、駆けつけたが死に目に逢えず卒倒したという。1593年(文禄2年)には待望の男子・拾(のちの秀頼)が誕生。だが、拾の誕生により、豊臣家の後継者問題が浮上し、結果として関白・豊臣秀次が謀反の罪で切腹するという事件に発展した(秀次事件)。この事件は、豊臣家内の騒動に留まらず、秀次と懇意にしていた諸大名にも嫌疑がかけられた。改易を免れた大名のなかには、伊達政宗細川忠興など徳川家康の助力を得た者も少なくなく、文禄の役での負担も相まって豊臣家との確執が生まれ、徳川家との絆が深まったとされる。

主な参戦武将 
豊臣方(158000)  明(48000)李氏朝鮮(84500)義勇兵(22000) 
【名護屋在陣】
豊臣秀吉
徳川家康
前田利家

(※下記の部隊編成は文献によって多少異なる)
【一番隊】
小西行長
宗義智
松浦鎮信
有馬晴信

【二番隊】
加藤清正
鍋島直茂

【三番隊】
黒田長政
大友義統

【四番隊】
島津義弘
毛利吉成(勝信)
伊東祐兵

【五番隊】
福島正則
長宗我部元親

【六番隊】
小早川隆景
安国寺恵瓊
立花宗茂

【七番隊】
毛利輝元
吉川広家

【八番隊】
宇喜多秀家

【九番隊】
豊臣秀勝
細川忠興

【水軍】
藤堂高虎
九鬼嘉隆
加藤嘉明
脇坂安治

【援軍】
浅野長政
浅野幸長
伊達政宗

【奉行】
石田三成
大谷吉継
増田長盛

【明】
李如松
楊元
祖承訓
沈惟敬

【李氏朝鮮】
柳成龍
権慄
元均
李舜臣

【義兵軍】
郭再祐


















































けいちょうのえき

 1597年2月~1598年11月 慶長の役  豊臣秀吉 vs 明・李氏朝鮮   
結果:豊臣秀吉の死去による日本軍撤退  場所:朝鮮半島
内容:
 豊臣秀吉による文禄の役につづく朝鮮半島への再侵攻。戦場は朝鮮半島全域に及んだ文禄の役とは違い、南部の慶尚道、全羅道、忠清道のほぼ三道に限られた。朝鮮南部の支配を目的としたが、秀吉の死去により撤退命令が出され、日本軍は何も得るものなく撤退した。

経緯と結果、その後:
 1593年(文禄2年)4月、文禄の役で日本、明の双方が疲弊すると、両国は講和への道を模索し始め、日本側は小西行長、明側は沈維敬を代表者として交渉の場が設けられた。そのなかで、明が日本に勅使を送ることが約束され、5月に豊臣秀吉は明の勅使との講和交渉に臨んだ。そこで秀吉は講和の条件として、明の皇女を天皇の妃として送ること、勘合貿易を復活させること、朝鮮八道のうち南の四道を日本に割譲することなど7項目を提示した。秀吉がこのような高圧的な条件を出したのは、明の勅使は「詫び入れ」をする意向であると事前に伝えられていたからである。だが実際は、明の勅使に「詫び入れ」をする意向はなく、それどころか、この勅使は秀吉を納得させるために行長と沈維敬ら日明双方の講和担当者が用意した明皇帝・万暦帝の命を受けていない偽装された勅使だった。ともあれ、勅使に秀吉の意向は伝えられ、今度は答礼使として行長の家臣・内藤如安が明へ赴くことになる。そして、ここでは逆に明を納得させるため、秀吉の講和条件は「日本は降伏し勘合貿易の再開のみを望んでいる」と偽作された。当然、これらのことは石田三成ら奉行衆も承知のことであり、要するに日明双方の疲弊の実情を知る者たちが講和を穏便に成すために、秀吉には明が降伏(詫び入れ)すると伝えられ、明には秀吉が降伏すると伝えたわけである。

 1594年(文禄3年)12月、答礼使である内藤如安が明に到着。ここから明は協議に入り、1596年9月になってようやく明の正使が来朝した。正使の返答は「秀吉を日本国王と認めるが勘合貿易は認めない」というものであった。明が降伏していると思っていた秀吉は自分の要求が一つも通っていないことに激怒し交渉は決裂。1597年(慶長2年)2月、秀吉は再び朝鮮半島出征の動員令を発した。交渉内容を骨抜きした小西行長は秀吉の怒りを買い処刑されそうになるが、前田利家らの助命嘆願により死罪を免れ、汚名を注ぐために再び渡海することになる。明の沈維敬は帰国後、万暦帝の怒りを買い処刑された。ちなみに明の正使が来朝したのと同時期に京都伏見を中心に大地震が発生し、その後も余震が続いたことから元号が文禄から慶長に改元されている(慶長伏見大地震)。

 1597年(慶長2年)7月、準備を整えた日本軍は順次渡海。これに対し、元均率いる朝鮮水軍は海上を封鎖するために出撃したが、藤堂高虎加藤嘉明脇坂安治ら水軍と島津義弘、小西行長ら陸上部隊の両面攻撃により壊滅、元均をはじめ朝鮮水軍の諸将が多く戦死した(漆川梁海戦)。その後、日本軍は朝鮮半島南部の慶尚道、全羅道、忠清道を席捲。10月に入ると「久留の計」(永久支配計画)を目指して沿岸部に堅固な城郭の築城にとりかかった。文禄の役での傷が癒えていなかった明は、しばらく傍観していたが、日本軍が築城を始めると黙っているわけにもいかず、12月下旬に楊鎬、麻貴らが4万以上の兵を率いて南下、権慄率いる李氏朝鮮の軍と合流し、5万7千という大軍で加藤清正浅野幸長が築城していた蔚山倭城に迫った。敵襲の報を西生浦城で聞いた清正は直ちに駆けつけ、同じく駆けつけた幸長と共に蔚山倭城に籠った。その数は約1万だったという。約6倍の敵を相手に清正らは奮戦するものの、城が築城途中であったために防御力が十分でなかっただけでなく、兵糧の貯えもほとんどなかったために、たちまち窮地に陥った。さらに冬の寒さがそこへ追い打ちをかけた。城内では軍馬を食し、壁土を食べ、敵兵の屍から兵糧を探す有様だったという。その惨状を見てとった明軍は清正に開城を勧告。これに対し清正は時間稼ぎをするため、3日後に勧告会談をもつことを約束した。清正の時間稼ぎの甲斐あって、会談当日、毛利秀元黒田長政立花宗茂らが率いる援軍が到着、長宗我部元親ら水軍も駆けつけた。日本の援軍の到着により、早急に落城させる必要に迫られた明軍は、1598年(慶長3年)1月4日に総攻撃を試みたが失敗、士気の低下と退路を断たれることを危惧して撤退を開始した。明軍の撤退を確認した日本援軍は、吉川広家を先鋒に追撃を開始。これに長政、宗茂も続き明軍に大打撃を与え、蔚山倭城の防衛に成功した(第一次蔚山城の戦い)。

 1598年(慶長3年)8月、明軍は本国から増援を得て兵力が10万に達すると、それらを陸軍3隊と水軍1隊とに分け、蔚山倭城、泗川倭城、順天倭城の3城を同時に攻撃するという作戦に出た。いずれの戦いも9月末から10月にかけて行われた。一番早く決着したのは泗川の戦いで、島津義弘は8千の軍勢で明・李氏朝鮮連合軍約3万を相手に「鬼石曼子(グイシーマンヅ)」と呼ばれるほどの猛攻を見せ、連合軍に壊滅的被害を与えて撤退させた。次に決着したのは蔚山倭城での戦いで、前回と同様、籠城戦となるが、今度は城も完成しており準備も万端であったため、連合軍は加藤清正の堅い守りを突破できず、そのうち泗川での敗報が届いたため撤退していった(第二次蔚山城の戦い)。最後に残ったのは順天倭城での戦いで、ここも籠城戦となった。城には小西行長、有馬晴信松浦鎮信ら約1万の兵が籠った。明・李氏朝鮮連合軍はここに陸軍約2万7千、水軍約2万7千と大兵力を投入したが、行長らの奮戦で撃退され続け、泗川と蔚山での敗報が届いたため撤退した(順天城の戦い)。

 明・李氏朝鮮連合軍撤退後の10月下旬、日本軍に突如、朝鮮半島からの撤退命令が届く。これは連合軍による3城同時攻撃に先立つ8月18日、京都伏見城において秀吉が亡くなったために出された命令だった。命令は徳川家康、前田利家ら五大老の名のもとに出され、秀吉の死は秘匿とされた。日本軍は順次撤退を開始。しかし、泗川、蔚山からの撤退が順調に進むなか、順天の小西行長らが明と李氏朝鮮の水軍に撤退を阻まれているという報が泗川から撤退してきた島津義弘らに届く。行長は明と交渉して無血撤退を約していたが、撤退理由である秀吉の死が明・李氏朝鮮も知るところとなり海上封鎖を継続されたのだった。義弘は立花宗茂らと共にすぐさま水軍を編成して行長救出に向かった。明・李氏朝鮮水軍は日本水軍の接近を知ると、順天の海上封鎖を解いて迎撃に向い、11月18日の夜、両軍は露梁海峡で激突した。この海戦で義弘ら日本水軍は苦戦したといわれており、韓国では明・李氏朝鮮が大勝したと伝わっている。だが、日本軍に将官級の戦死者はなく、逆に明・李氏朝鮮は明水軍の副将・鄧子龍、李氏朝鮮水軍の総帥・李舜臣など多くの将官が戦死している。ともかくも、義弘らの活躍により行長らは海上封鎖が解かれた順天から無事脱出、日本水軍も殿(しんがり)の役目を果たし戦場を離脱した(露梁海戦)。その後、釜山に終結した日本軍は順次帰国、11月23日に加藤清正らが出港したのを皮切りに25日に義弘、行長らが出港して全軍の撤退を完了した。秀吉は1599年(慶長4年)にも大規模な侵攻を計画しており、石田三成や福島正則らが渡海する予定だったが計画は頓挫した。

 文禄・慶長の役は、その後の日本、明、李氏朝鮮に多大な影響を及ぼした。日本においては武断派と文治派の対立の激化である。加藤清正が危機に陥った第一次・蔚山城の戦いのとき、軍目付であった福原長堯らは、蜂須賀家政と黒田長政が一部の戦いで合戦をしなかったと秀吉に報告をした。この報告によって家政と長政は秀吉に叱責され、逆に長堯ら軍目付は報告の褒美としての領地を与えられた。さらに長堯の義兄であった石田三成も蔵入地(直轄領)の代官に任じられるなど、前線で苦労した武断派よりも後方の文治派が優遇されることが度々あった。加藤清正ら他の武断派の諸将もこの手の叱責を受けたとされ、文治派の筆頭ともいえる三成は武断派の恨みをかった。秀吉の死後、三成が武断派に襲撃され、その責を負って失脚すると、このときの処遇は過ちであると徳川家康が改めて裁定を下し、武断派諸将は名誉を挽回した。このことがきっかけで武断派諸将の多くが関ヶ原の戦いで家康に与することとなる。

 明、李氏朝鮮においては、とにかく疲弊した。特に明は万暦帝が酒色に溺れ自身の蓄財に奔っていたこともあり、国力は急速に衰えた。そこを文禄・慶長の役の間に力を貯えた後金(のちの清)のヌルハチにつけ込まれ、明・李氏朝鮮連合軍は1619年にサルフの戦いで大敗。その後、ヌルハチの跡を継いだ子のホンタイジ、孫のフリン(順治帝)によって李氏朝鮮は清の冊封下に置かれ、やがて中華全土は清が支配していくことになる(明は李自成が起こした農民反乱(李自成の乱)で滅んでいる)。

主な参戦武将
豊臣方(141500) 明・李氏朝鮮(約110000)
【一番隊】
加藤清正

【二番隊】
小西行長
宗義智
松浦鎮信
有馬晴信

【三番隊】
黒田長政
毛利吉成(勝信)
伊東祐兵

【四番隊】
鍋島直茂

【五番隊】
島津義弘

【六番隊】
長宗我部元親
藤堂高虎
加藤嘉明
中川秀成

【七番隊】
蜂須賀家政
脇坂安治

【八番隊?】
宇喜多秀家

【九番隊?】
毛利秀元
吉川広家

【諸城在番】
釜山浦城・・・小早川秀秋
安骨浦城・・・立花宗茂
加徳城・・・高橋統増
西生浦城・・・浅野幸長


 
【明】
楊鎬
麻貴
劉てい
董一元
祖承訓
陳りん
鄧子龍

【李氏朝鮮】
権慄
元均
李舜臣

【義兵軍】
郭再祐