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合戦 その9 (1584~1585)
こまきながくてのたたかい
1584年 小牧・長久手の戦い 羽柴秀吉 VS 織田信雄・徳川家康 | |
結果:羽柴秀吉の勝利(信雄、家康の臣従的な和睦) 場所:尾張国 | |
内容: 羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合の戦い。羽柴秀吉と徳川家康の唯一の戦いとしても知られる。戦いの中心地は尾張北部だが、東海、北陸、近畿、四国の各地で関連した戦いが行われた。3月から11月と8ヶ月におよぶ局地戦、睨み合いの末、信雄、家康が、それぞれ秀吉と臣従的な単独講和をして終結した。 経緯と結果、その後: 賤ヶ岳の戦いで勝利し、織田家随一の有力者となった羽柴秀吉は、丹羽長秀に柴田勝家の遺領・越前を、前田利家に佐久間盛政の遺領・加賀半国を旧領に加えて加増、摂津の池田恒興も美濃へ加増転封するなど、領地の再分配を行った。その後、秀吉は、恒興がいなくなった摂津に大坂城の築城を開始する。やがて、その権勢は主家である織田家を凌ぐものとなり、織田家の後継者・三法師(のちの秀信)の後見である織田信雄を安土城から追放するに至った。信雄は安土城退去に素直に従ったが、これを機に秀吉との関係は悪化する。信雄が安土城を退去せざる得なかったのは、秀吉との圧倒的な実力差であり、秀吉に対抗するためには強力な後ろ盾が必要だった。その後ろ盾の最有力候補が徳川家康だった。 天正壬午の乱後、五ヵ国の大大名となった徳川家康は、乱終結の際の和睦で結ばれた北条氏直との婚姻同盟により関東方面の憂いを絶つと、西(織田領)に目を向けた。しかし、秀吉が権勢を欲しいままにし始めたとはいえ、織田家は家康にとってまだ同盟国であり、攻め込めば不義となる。そこで家康は、秀吉と対立の様相を呈していた信雄と結ぶことで織田家簒奪を企む秀吉を討伐する大義名分を得ようとした。この家康の申し出は、強力な後ろ盾を必要としていた信雄にとって願ってもない申し出であったため、両者は手を結び、秀吉に対して共闘していくことを決めた。 1584年3月、信雄は親秀吉派だった三家老(津川義冬、岡田重孝、浅井田宮丸)を殺害。この事件が秀吉の逆鱗に触れ、戦いは本格化していく。信雄と家康は、三家老の殺害事件後すぐに清州城にて会談。その会談のさなか、味方になると思っていた美濃の池田恒興が秀吉方として犬山城を急襲し、これを陥落させたとの情報がもたらされた。家康はすぐに小牧山城へ駆けつけ、これに対応。犬山城から出撃してきた森長可を酒井忠次に迎え撃たせ、これを撃退した(羽黒の戦い)。とりあえずの脅威を取り除いた家康は、小牧山城を改修。さらに、まだ到着していない羽柴本軍に備えて多くの砦を築き防御を固めていった。これに対し、羽柴勢も砦を築いて対抗。結果、秀吉の本隊が到着した時には、双方が築いた砦群でお互いが動けなくなり、膠着状態となった。 膠着状態に入ってから約1ヶ月がたった4月、池田恒興が秀吉に、小牧山城と砦群を大きく迂回して手薄になっている岡崎城を攻めることを提案(秀吉自らの考えとも)。秀吉は、これを受け入れ、第一陣・池田恒興、第二陣・森長可、第三陣・堀秀政、第四陣を総大将・三好信吉(羽柴秀次)とする2万5千の軍勢の出陣を命じた。この羽柴軍出陣の報は、すぐに家康の耳に入り、家康も出陣を決定。本隊を自らが率い、ほか榊原康政、井伊直政ら合わせて1万2千の軍勢で追撃を開始した。 羽柴軍は、岡崎への進軍途中、徳川方である岩崎城から出陣してきた丹羽氏重の妨害に会う。氏重の率いる軍勢は3百と少なったが、岩崎城を放置して通過すれば、後背を突かれる恐れがあったため、第一陣の恒興がこれに対応し、岩崎城を陥落させた。岩崎城は氏重はじめ城兵がことごとく討死するが、足止めの役目を十分果たし、この間に榊原康政率いる徳川先遣隊が休憩中だった羽柴軍・第四陣・三好信吉(羽柴秀次)に追いつき襲撃。信吉の第四陣は、油断していたこともあり、簡単に崩れ敗走した(白山林の戦い)。その後も徳川軍は追撃を続行。異変に気付いた羽柴軍の第三陣・堀秀政に、榊原康政が反撃され被害を被る場面もあったが、家康本隊の到着に、秀政も不利を悟って撤退したため、羽柴軍・第一陣の恒興、第二陣の長可は戦場に取り残された(桧ヶ根の戦い)。 恒興と長可は、第三陣と第四陣の撤退を聞き、反転して北上し、徳川軍と激闘を繰り広げた。だが、家康本隊に突撃を仕掛けた長可は、鉄砲を受け討死。恒興も井伊直政との戦いで敗戦を悟り、次男・輝政を逃がすためにしんがりとなって、長子・元助と共に討死した(長久手の戦い)。秀吉は、白山林の戦いの敗報を受け、自ら2万の軍勢を率いて駆け付けようとしたが、途中、本多忠勝5百の兵に妨害されて間に合わず、徳川軍主力は無事、小牧山城に引き上げた。こうして、秀吉の岡崎への中入り策は失敗し、その後は両陣営とも再び砦群を挟んで睨み合いとなった。 秀吉と家康の直接対決の場となった尾張北部は長久手の戦いのあと、膠着状態となるが、その間も秀吉は、物量的な優位から伊勢方面への同時侵攻を行っていた。その結果、信雄を徐々に追込み、開戦から8ヶ月たった11月、秀吉は信雄に伊賀と伊勢の大半を割譲させ講和することに成功した。そして、信雄が秀吉と講和したことを知った家康は、秀吉討伐の大義名分を失い、講和せざる得ない状況となったため、次男・於義丸(のちの秀康)を秀吉の養子(事実上の人質)に出して講和し、戦いは終結した。 年が明けた1585年2月、信雄は秀吉に臣下の礼をとり、秀吉の織田家乗っ取りは完遂される。秀吉はさらに家康にも臣下の礼をとってもらうため、信雄を介して再三、家康に上洛を促すが、家康はすぐには応じなかった。そのため、秀吉は妹・朝日姫を家康の正室として送り出し、さらに秀吉の生母・大政所を人質として岡崎に送った。さすがの家康も、ここまでされると応じないわけにいかず、1586年、遂に秀吉に対して臣下の礼をとった。はじめ、秀吉は家康に対しては討伐を考えていたという。しかし、その直前に天正地震が起き、対家康戦で前線となる尾張、岐阜をはじめ秀吉の領内は、家康の領内よりも甚大な被害を被った。そのため、戦どころではなくなり、領内の復興を最優先に考えた結果、臣従させるしか選択肢がなかったといわれる。ここで家康を討てなかったことが、豊臣政権が短命となってしまった一番の要因ともいわれる。 小牧・長久手の戦いは、尾張、伊勢を中心に争われたが、開戦当初から両陣営は織田、徳川以外の勢力とも連携した。信雄、家康陣営は、徳川家と縁戚関係となった北条氏直をはじめ、四国の長宗我部元親、紀州の雑賀衆と根来衆、越中の佐々成政らと連携して秀吉包囲網を構築した。これに対し、羽柴陣営は、佐々成政には若狭・越前の丹羽長秀、能登・加賀の前田利家以外に越後の上杉景勝と結んでこれを牽制させ、北条氏直に対しては常陸の佐竹義重と結んで牽制した。そのため、休戦するまでの8ヶ月の間、各地で様々な戦いが行われた。 【各地で行われた戦い】 岸和田城の戦い(3月) 雑賀・根来衆が和泉・岸和田城に押し寄せた戦い。岸和田城主・中村一氏が奮戦し、雑賀・根来衆を撃退した。 第二次・十河城の戦い(6月) 長宗我部元親が讃岐・十河城を攻め落とし、讃岐平定を成し遂げた戦い。十河城主・十河存保は落ち延び、秀吉の家臣となった。元親は、家康から「播磨・摂津・淡路の3ヶ国を与えるから摂津に攻め込んでほしい」との書状を受け取っていたが、渡海するまでには至らなかった。 蟹江城の戦い(6月~7月) 羽柴方の滝川一益が九鬼嘉隆の水軍の力を借りて、信雄の本拠・長島城と清州城の中間にある蟹江城を落とし、一時的に占拠した戦い。信雄と家康の対応が早かったのと、秀吉の対応が遅れたのが重なり、一益は1ヶ月も耐えれず撤退した。 末森城の戦い(9月) 越中の佐々成政が能登・末森城に押し寄せた戦い。末森城主で前田家臣・奥村永福が奮戦し、成政を撃退した。 羽柴と織田・徳川連合、両陣営が講和に至ると、信雄・家康と結んでいた勢力は孤立し、秀吉の討伐対象となった。佐々成政、雑賀・根来衆、長宗我部元親は、それぞれ越中征伐、紀州征伐、四国征伐を受けることになる。 |
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主な参戦武将 | |
羽柴方(100000?) | 織田・徳川方(30000?) |
羽柴(豊臣)秀吉 【中入り軍】 三好信吉(羽柴秀次) 池田恒興 池田元助 池田輝政 森長可 堀秀政 |
織田信雄 【徳川軍】 徳川家康 酒井忠次 井伊直政 本多忠勝 榊原康政 水野忠重 大須賀康高 丹羽氏次 |
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1585年 四国征伐 羽柴秀吉 VS 長宗我部元親 | |
結果:羽柴秀吉の勝利 場所:阿波国 伊予国 讃岐国 |
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内容: 天下統一を目指す羽柴秀吉と四国を統一した長宗我部元親の戦い。秀吉方には、同盟関係から主従関係へと変わっていた毛利家も加わり、総勢12万ともいわれる大軍が四国へ渡った。 経緯と結果、その後: 1582年、中富川の戦いで、十河存保(三好三郎)を破った長宗我部元親は、瞬く間に阿波を制圧。その後すぐ、存保が逃げた讃岐へも侵攻を開始した。元親は本能寺の変以降、織田家との繋ぎ役だった明智光秀との縁もあり、常に羽柴秀吉と敵対する立場をとり、讃岐へ本格的な侵攻を開始した時も、秀吉と対立していた柴田勝家と手を組んだ。この対外政策は功を奏し、存保は秀吉に援軍を要請するものの、勝家との対決を控えた秀吉は、淡路に派遣していた仙石秀久率いるわずかな援軍を送るに留まり、元親は引田の戦いで秀久破って淡路へと追い返し、平定戦を有利に進めた。奇しくも引田の戦いと同日、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家は敗れたが、今度は織田信雄、徳川家康が秀吉と対立したため、元親は信雄、家康に味方して秀吉との対立姿勢を継続。1584年に入って存保の居城・十河城や虎丸城を落として存保を四国から追い出し、讃岐を平定した。 讃岐を平定したことで、残すところ伊予だけとなった元親は、伊予の平定に全力を注ぐ。元親は、讃岐の完全平定を前に、並行して伊予への侵攻を既に開始していたが、毛利家の後ろ盾を得ていた湯築城主・河野通直をはじめ、長宗我部家に抵抗する諸将が多く、重臣・久武親信が討死するなど苦戦を強いられていた。しかし、戦力の集中が可能になった長宗我部勢は河野、毛利勢を徐々に追い詰め、1584年12月、元親は遂に通直を降伏させ、翌年春までには他の反長宗我部諸将らも降伏し、念願の四国統一を果たした。 だが、四国統一も束の間、元親は秀吉の四国征伐を受けることになる。秀吉は11ヶ月に及んだ織田信雄、徳川家康との小牧長久手の戦いを和睦という形で終わらせ、さらに、元親同様、信雄、家康に加担した根来、雑賀衆に対して紀州征伐を行ってこれを制し、次は元親の番ということであった。最初、秀吉は伊予、讃岐の返上応じれば、土佐、阿波を安堵する旨を元親に伝えてきたが、元親は伊予一国の返上しか応じられないと返答。秀吉はこれ以上の譲歩をするつもりはなく、弟・秀長を総大将とし、また秀吉に臣従したばかりの毛利輝元にも出陣を命じて、総勢12万に及ぶ軍勢を阿波、讃岐、伊予と三方向から進攻させた。 元親は、四国のほぼ中央に位置する白地城を拠点に四国征伐軍に対抗しようとしたが、征伐軍12万に対して用意できた兵力はたった4万であった。圧倒的な戦力差のうえに秀吉の征伐軍は兵農分離によって組織された精鋭であり、いくら元親の軍が精強とはいえ、所詮、半農半兵の一領具足では勝負にならなかった。阿波方面で、かろうじて谷忠澄、江村親俊が一宮城で奮戦したものの、最後は水の手を絶たれて降伏。牛岐城を守っていた元親の弟・香宗我部親泰や渭山城の吉田康俊などは城を捨てて土佐に逃げ戻るという始末であった。それでも、まだ戦うつもりでいた元親だったが、白地城に戻った忠澄が元親を説得、征伐軍の精強さを聞いた元親は、遂に抵抗を断念し降伏を決意した。元親の四国制覇はわずか4ヶ月だった。 講和交渉の結果、元親は土佐一国のみ安堵となった。残る三国は、讃岐に仙石秀久、阿波に蜂須賀家政、伊予は秀吉から毛利輝元を介して小早川隆景に与えられ、元親を封じ込める形がとられた。以後、元親は秀吉に臣従し、翌86年には九州征伐の前哨戦である戸次川の戦いに豊臣軍として参加していくことになる。 |
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主な参戦武将 | |
羽柴方(120000?) | 長宗我部方(40000) |
【阿波方面】 羽柴秀長 羽柴秀次 藤堂高虎 堀秀政 【讃岐方面】 宇喜多秀家 黒田孝高 蜂須賀正勝 小西行長 仙石秀久 十河存保 【伊予方面】 小早川隆景 吉川元長 |
長宗我部元親 長宗我部信親 香宗我部親泰 谷忠澄 江村親俊 吉田康俊 |
1585年 第一次 上田城の戦い 真田昌幸 VS 徳川家康 | |
結果:真田昌幸の勝利 場所:信濃国 | |
内容: 甲斐武田家の滅亡後、独立の道を歩み始めた真田昌幸と徳川家康の戦い。第一次上田合戦、または第二次と区別して神川合戦、神川の戦いと呼ばれることもある。家康は直接参戦していないが、武田信玄と戦った三方ヶ原の戦い以来の大惨敗となった。 経緯と結果、その後: 甲州征伐で甲斐武田家が滅ぶと、武田家の領地は戦功のあった者たちに分配された。武田家臣であった真田昌幸の領地、信濃国・小県郡と佐久郡は、上野一国とともに織田家の重臣・滝川一益に与えられ、昌幸は自然と一益の傘下に組み込まれることになる。しかし、3ヶ月も経たないうちに本能寺の変が起こり、織田信長の死を知った北条氏直が上野国に侵攻を開始。一益はこれを迎え撃ったが、神流川の戦いに敗れ、さらに信長が冷遇した旧武田家臣の蜂起を苦慮した結果、他の織田家諸将らと同じく上野、信濃から撤退した。昌幸は新たな生き残りをかけ、侵攻してきた氏直に従属せざるを得なくなるが、この間に抜け目なく、一益が撤退して空白地となった上野へ手を伸ばし、沼田城を落として自分の領地とした。 北条家に従うことになった昌幸は、次にこの混乱に乗じて越後から侵攻してきた上杉景勝に対応することになる。しかし、南から徳川家康が信濃、甲斐へ侵攻してきた報を受けた氏直は、家康との対決を重視して景勝と和睦。北条勢が南へ下ると、昌幸はまだ信用の置けない景勝の抑えとして自領に留め置かれた。 氏直と家康の争いは、甲斐を中心に行われた。その間、家康は信濃諸将への調略も抜け目なく行い、旧武田家臣・依田信蕃を信濃へ入れて、その対応をさせた。昌幸も信蕃の調略を受け、甲斐で徳川勢が有利に事を進めていたことや、すでに徳川家臣となっていた昌幸の実弟・信尹の説得もあり、今度は徳川家に属することを決めた。そして、徳川家と上杉家の間には和睦が成っていないことから、昌幸は景勝に備えるため、家康の承認を得て、上田城の築城に取り掛かることになる。 家康と氏直の争いは、1582年10月下旬に和睦という形で終結する(天正壬午の乱の終結)。この和睦は戦況同様、徳川に有利な形で進み、信濃、甲斐の二国を家康が、氏直は上野一国のみ領有するということになった。だが、この上野一国が北条家のものになったことが、昌幸にとって大きな問題となる。上野には昌幸が自力で切り取った沼田城があり、昌幸からすれば、家康に与えられた領地でないのに、命令一つで明け渡さなければならない道理など一切ないということであった。 しかし、和睦条件の履行はすぐには行われなかった。家康が織田信雄と結んで羽柴(豊臣)秀吉と対立し、小牧長久手の戦いが起きたためである。戦いは8ヶ月におよび、この間、昌幸は氏直に沼田城を開け渡すことはなかった。小牧長久手の戦いが和睦で終結すると、氏直は家康に対して和睦条件の履行を迫ってきた。それを受けた家康は、甲府に入って昌幸に沼田城の明け渡しを通告してきたが、納得できない昌幸は密かに上杉景勝に支援を要請し、景勝の了承を得ると、次男・幸村を人質として景勝に送り、上杉家への従属を明らかなものにした。こうして家康と昌幸の対立は決定的なものとなった。 1585年7月、激怒した家康は、すぐさま上田城攻めを決め、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らに7千の兵を率いさせ進軍を開始した。このことは氏直にも知らされ、氏直も沼田に兵を差し向けたため、昌幸は兵の分散を余儀なくされ、上田城を守る兵は2千と、攻め寄せる徳川勢の3分の1にも満たない数になってしまった。昌幸は自分が上田城の守りにつくことを決めると、長男・信幸を支城である砥石城に入れた。また同じ支城である矢沢城には、上杉の援軍と共に矢沢頼康が入った。 8月初旬、上田に到着した徳川勢は、上田城の東にある神川を渡り城に迫った。これに対し、城を出て迎え撃った真田勢はたったの二百だった。当然、真田勢はすぐに敗走し、上田城へと逃げていく。徳川勢は、それを追撃して勢いそのままに城内へなだれこむが、ここで激しい反撃にあう。真田勢二百は誘いの兵で、徳川勢はうまく城内に誘い込まれたわけだが、それでも徳川勢にとって城の守備兵など寡兵に過ぎず、手を緩めず攻城に集中した。すると、突然城下に火が放たれ、同時に砥石城の信幸率いる真田勢が徳川勢の背後を奇襲した。この奇襲で徳川勢の一部が壊乱状態となり、それは瞬く間に全軍に広がった。徳川勢は燃え盛る城下の炎と千鳥掛柵(障害物)で退路を見失い、逃げおおせた者たちも混乱と追撃の中、これも昌幸の計によって堰を切られ増水していた神川に飛び込み、多くの者が溺死したという。こうして戦いは真田勢の勝利で終わった。この時の被害は徳川勢千三百(三百とも)に対して真田勢は四十と圧倒的だった。なお、氏直に攻められた沼田城は、昌幸の叔父・矢沢頼綱が奮戦して城を守り切った。 敗退した徳川勢であったが、完全撤退はせず、その後も家康は井伊直政、大須賀康高ら五千の援軍を差し向け、度々戦闘を行った。しかし、11月に突然、撤退命令を発した。重臣の石川数正が出奔し、羽柴(豊臣)秀吉のもとへ奔ったためであった。徳川家の内情すべてを知る数正の出奔は、未だ秀吉への臣従を渋っていた家康にとっては一大事であり、この事態に対応するためであった。 その後、昌幸は、景勝に人質と送っていた幸村を脱出させ、秀吉のもとへ送り秀吉に臣従した。景勝は怒ったが、秀吉相手ではどうすることもできなかった。家康、氏直との対立はなおも続いたが、家康とは秀吉の仲裁で和睦に至り、昌幸は、その時すでに秀吉に臣従していた家康の与力大名となった。昌幸を重視した家康は、のちに重臣・本多忠勝の娘・稲姫(小松姫)を自分の養女としたうえで昌幸の長男・信幸に嫁がせ関係の強化を図った。北条家との領土問題も秀吉の仲裁により、沼田城は北条家、そして沼田城の支城・名胡桃城は真田家のものとし、上野の一部を真田家が領有することで決着した。 |
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主な参戦武将 | |
真田方(2000) | 徳川方(7000) |
真田昌幸(上田城) 真田信幸(砥石城) 矢沢頼康(矢沢城) 【上杉援軍】 須田満親 |
鳥居元忠 大久保忠世 平岩親吉 |
1585年 人取橋の戦い 伊達政宗 VS 南奥州諸侯連合 | |
結果:伊達政宗の勝利(?) 連合軍盟主・佐竹義重の撤退による連合軍の瓦解 場所:陸奥国 | |
内容: 伊達家の家督を継いで奥州制覇に乗り出した伊達政宗と、それを阻止しようとした南奥州諸侯連合との戦い。連合軍の盟主は常陸の佐竹義重がつとめた。軍勢を退けたという意味で政宗の勝利という見方がある一方、戦いの内容は終始、連合軍有利で進んだため、政宗の敗北、もしくは引き分けとした見方もある。激戦となった人取橋は、無名の橋であったが、この戦いで多くの者が犠牲になったことから名付けられたといわれる。 経緯と結果、その後: 伊達家16代当主・伊達輝宗は、祖父・稙宗と父・晴宗が起こした天文の乱で衰退した伊達家の勢力を取り戻すと、41歳の若さで18歳の嫡男・政宗に家督を譲って隠居した。失地の回復がひと段落ついたこともあるが、家中には政宗ではなく、次男の小次郎を擁立しようとする動きがあり、それを封じるための決断だったという。政宗の家督継承が知れ渡ると、伊達家と誼を通じたい周辺の小領主たちが次々と祝賀に訪れ、その中に小浜城主・大内定綱の姿もあった。定綱はこれまで伊達、蘆名、佐竹と後ろ盾を変えながら領地を保ってきたが、今後は伊達家に奉公したいという。政宗は、定綱の小浜城が、進出しようとしている仙道筋のほぼ中央に位置していたことから、この申し出を快諾し、米沢城下に屋敷まで与えて定綱を厚遇した。 しかし、定綱は政宗を裏切る。定綱は、一旦、小浜城に戻り、諸事万端すませてから妻子を連れて戻って来るといったきり、米沢に戻らなかった。蘆名家に懐柔されたためであった。激怒した政宗は、すぐさま定綱討伐を決め、侵攻を開始した。定綱は、蘆名、二本松、岩城らに援軍を要請してこれにあたるが、支城は次々と陥落し、その一つである小手森城では、籠城した婦女子を含む八百人が政宗によって斬り捨てられるとういう惨劇となった(小手森城の撫で斬り)。小手森城の惨劇を聞いた定綱は戦慄し、小浜城を捨て、蘆名家を頼って会津へ落ち延び、空になった小浜城には政宗が入った。 小手森城の惨劇は、定綱だけでなく、周辺諸国の諸将らも戦慄させた。そのなかのひとり二本松(畠山)義継は、定綱に加担した自分への報復を恐れ、輝宗を介して、伊達家への服属を願い出た。政宗は渋ったが、輝宗が義継に領地のほとんどの没収と人質を差し出すことを認めさせたこともあり、やむなくこれを承知した。しかし、義継は、輝宗に謝辞を述べたいと訪れた宮森城で、輝宗を拉致するという暴挙に出た。暴挙に出た理由は、最初から計画されたものだとも、自分が暗殺されると誤解したからともいわれ、はっきりしていない。輝宗の傍には留守政景や伊達成実らが控えていたが、突然の出来事に何もすることができず、輝宗を拉致した義継一行を遠巻きに追尾するうちに国境の阿武隈川まで来てしまった。そのとき、鷹狩りに出ていた政宗が急報を聞きつけ駆けつけた。政宗をみた輝宗は、自分が政宗の足枷になることを嫌い、政宗に自分ごと義継を討つよう支持。輝宗の想いを受け取った政宗は指示通り発砲を許可して輝宗ごと義継を討ち取った。 政宗は、輝宗の初七日法要を済ませると、弔い合戦として二本松城攻めを決め、一万三千という軍勢で城を包囲した。だが、雪などの影響で、政宗は城を攻め切ることができなかった。その間に、政宗の仙道制覇を阻止すべく、常陸の佐竹義重を盟主に、蘆名亀王丸、相馬義胤、白河義親、岩城常隆、石川昭光、二階堂輝隆らによる連合軍が結成され、総勢三万という大軍が二本松城を救援するため北上を開始した。連合軍来襲の報を聞いた政宗は、二本松城の抑えとして兵を数千残し、7千の兵で南下、阿武隈川の支流・瀬戸川の南岸で連合軍と激突した。戦いは終始、数で勝る連合軍が圧倒した。政宗は、連合軍に瀬戸川北岸に敷いた本陣まで攻め込まれ、自ら太刀を振るい、具足に矢一筋、銃弾五発を受けたという。救援に駆けつけた伊達成実らの活躍で、政宗は窮地を脱するものの、人取橋での攻防で鬼庭良直が討死するなど、伊達勢は甚大な被害を受け、本宮城まで兵を退いた。 戦闘は日没を迎え中断した。本宮城に入った伊達勢は、連合軍の猛攻を防いだものの満身創痍の状態だった。翌朝、連合軍が再び攻めてくれば敗北は必至だった。その状況に政宗は、武運拙く敗れれば討死する覚悟であったという。だが、日が昇ると、政宗の目の前には奇跡の光景が広がっていた。連合軍が総退却を始めていたのである。連合軍の盟主・佐竹義重の陣中で部将格の小野崎義昌が下僕に刺殺されるという事件が起きたのに加え、義重不在をついて水戸の江戸重通、安房の里見義頼が佐竹領に侵攻しようとしているという報が連合軍にもたらされ、義重が撤退を決意したからだという。盟主の撤退による連合軍の瓦解で政宗は九死に一生を得ることになった。 戦いの翌年、体勢を立て直した政宗は、再び二本松城の攻略にとりかかった。想定外の城兵の抵抗に武力による落城には至らなかったが、相馬義胤の斡旋により、二本松(畠山)一族が会津へ退去することを条件に無血開城となり、二本松城は政宗の手に渡った。二本松城を手に入れた政宗は、念願の仙道制覇に向けて第一歩を踏み出した。 |
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主な参戦武将 | |
伊達方(7000) | 連合軍(30000) |
伊達政宗 伊達成実 片倉景綱 鬼庭良直 亘理元宗 白石宗実 |
佐竹義重 蘆名亀王丸 相馬義胤 白河結城(小峰)義親 岩城常隆 石川昭光 |