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商人・茶人

今井宗久 いまい そうきゅう (1520~1593)

 堺の豪商、茶人。屋号は「納屋」。軍需品である皮製品を扱って財を成した。武野紹鷗に茶の湯を学び、のちに紹鷗の娘を娶って紹鴎所持の名物茶器をことごとく譲り受けた。早い段階で津田宗及と共に織田信長に恭順して重用され、様々な特権を得ただけでなく、宗及、千利休と共に信長の茶頭もつとめ「天下三宗匠」と称された。しかし、信長の死後、天下を統一した豊臣秀吉は、千利休や小西隆佐行長の父)をより重用したため、信頼を失ったわけではないが、信長時代ほどの権勢はなかったといわれる。


大賀宗九 おおが そうく (1561~1630)
 「博多の三傑」と呼ばれた博多の豪商のひとり。大賀家は元々、大友家に仕える武士だったが、大友家の衰退に伴い武器商人に転身した。関ヶ原の戦い後、福岡に入った黒田長政に協力して、島井宗室神谷宗湛らと福岡城の築城や城下町の整備を行った。のち長政の働きかけで徳川家康から海外貿易の朱印状を受け、ベトナム、シャム、琉球、李氏朝鮮と貿易を行い莫大な財を築いて福岡藩筆頭御用商人となった。


神谷宗湛 かみや そうたん (1551~1635)
 「博多の三傑」と呼ばれた博多の豪商のひとりで茶人。博多で代々貿易商を生業とした神谷家6代当主。豊臣秀吉から「築紫の坊主」と呼ばれ気に入られた。「太閤町割」と呼ばれる博多の復興事業や九州征伐、朝鮮出兵などで秀吉を資金、物資面で助け、与えられた特権をもって莫大な財を築いた。秀吉の死後は徳川家康に冷遇されるが、関ヶ原の戦い後、福岡に入った黒田長政の父・官兵衛(孝高)と茶の湯を通じて親交が深かったこともあり、御用商人として重用された。


北向道陳 きたむき どうちん (1504~1562)
 堺の医者(諸説あり)。本姓は荒木だが、家が北向きであったことから改姓した。格式が高いとされる「台子の茶」「書院の茶」を伝えた茶人でもある。千利休の最初の師であり、親交のあった武野紹鷗に利休を紹介したことで知られる。


小西隆佐 こにし りゅうさ (?~1592)
 薬を生業とした堺の豪商。行長の父。敬虔なキリスト教徒として知られる。フランシスコ・ザビエルを京で世話したことからキリスト教に触れることになり、のち宣教師ルイス・フロイスに師事してキリシタンとなった。子・行長が豊臣秀吉に仕えると、1585年頃から自身も仕え、河内、和泉国内の豊臣家の蔵入地(直轄領)の代官を任せられた。1587年の九州征伐でも物資の補給役として活躍するが、征伐後の伴天連追放令によってすべての役を降りることになった。朝鮮出兵(文禄の役)が始まると、再び召しだされ、肥前名護屋城に入って財務を担当するが、病を得てしまい、京都に戻って間もなく亡くなった。


島井宗室 しまい そうしつ (1539~1615)
 「博多の三傑」と呼ばれた博多の豪商のひとりで茶人。大友宗麟、宗麟没後は豊臣秀吉の保護を受けて酒屋、金融、貿易で財を成した。秀吉が朝鮮出兵を企むと、小西行長宗義智と共に李氏朝鮮を服属させる交渉を命ぜられるが、貿易での支障を考えて、秀吉の意向に沿わない交渉を行ったため、一時蟄居となった。その後、赦されて更に財を築くが、秀吉死後は徳川家康に冷遇された。関ヶ原の戦い後は福岡に入った黒田長政に協力して福岡城の築城などに協力した。


千利休 せんの りきゅう (1522~1591)
 堺の豪商、茶人。屋号は「魚屋(ととや)」。納屋衆(倉庫業)を生業とした。「わび茶」の大成者として知られ「茶聖」と称される。若い頃から茶の湯を好み、北向道陳武野紹鷗に師事して茶の湯を学び、堺が織田信長の直轄領となると、今井宗久津田宗及らと共に信長の茶頭となって「天下三宗匠」と呼ばれた。信長の死後は、豊臣秀吉の茶頭となり、蒲生氏郷細川忠興古田織部など多くの大名を弟子にし、1585年には禁裏茶会の茶堂として親王や公家衆に茶を献じて正親町天皇より「利休居士号」を与えられ、名実ともに天下一の茶人となり絶大な権勢を誇った。しかし1591年、秀吉の勘気に触れ切腹させられた。勘気に触れた理由として、秀吉が大徳寺を訪れた際、くぐった三門の上に利休の木像が置かれており、それが不敬極まりないとされた逸話が有名だが、秀吉との確執を窺える逸話は数々あり、切腹に至った本当の理由ははっきりしていない。


武野紹 たけの じょうおう (1502~1555)
 堺の豪商、茶人。若狭武田家の出身といわれる。父の代に堺に移り住み、武具などに使う皮革を商って財を成した。和歌、連歌に通じ、茶の湯は「わび茶」の祖といわれる村田珠光の門人・藤田宗理や十四屋宗陳らに師事して研鑽を積み、二畳半、三畳半の茶室を考案するなど茶の湯の世界に新風を吹き込んだ。娘婿である今井宗久をはじめ、千利休松永久秀らを弟子にしており、特に千利休には多大な影響を与えた。


茶屋四郎次郎 ちゃやしろうじろう
 京都の豪商。信濃守護・小笠原長時の家臣・中島明延が武士を廃業して京都で呉服屋を営んだのが始まりとされる。「茶屋」の屋号は、室町幕府13代将軍・足利義輝が明延の屋敷に立ち寄り、しばしば茶を所望したことに由来する。「茶屋四郎次郎」の名は代々の当主が世襲したため複数人存在する。

  初代・清延 きよのぶ (1545~1596)
 明延の次男。父が四男、自身が次男であったことから四郎次郎と名乗る。徳川家康に接近し、三方ヶ原の戦いなどに参陣して武具などの調達をした。本能寺の変が起ると、この事をいち早く家康に伝え、過酷な逃走劇となった伊賀越えでは、金銭で協力者を得るなどして家康を無事に三河へ送り届け、その功で徳川家の御用商人となった。

  二代・清忠 きよただ (?~1603)
 清延の長男。父の死により家督を継ぎ、続けて徳川家の御用商人として重用された。豊臣秀吉の死後は、家康の権勢のもと、大坂の物流の取締役もつとめた。関ヶ原の戦い後には家康に京都の情勢不安を訴えて京都所司代を設置するきっかけを作り、板倉勝重が所司代となると、勝重に任命され、京都町人頭にも任じられた。

  三代・清次 きよつぐ (1584~1622)
 清延の次男。他家の養子となっていたが、兄・清忠が子のないまま亡くなったため家督を継いだ。父や兄の偉業を引き継ぎつつ、朱印船貿易の特権も得てさらに財を成し、その築いた財で本阿弥光悦ら芸術家の支援にも力を注いだ。かつて家康の死因といわれた「鯛の天ぷら」を美味として家康に勧めた人物としても知られる。


津田宗及 つだ そうきゅう (?~1591)
 堺の豪商、茶人。屋号は「天王寺屋」。武野紹鷗の門人である父・宗達から茶の湯を学ぶ。織田信長が勢力を増してくると、今井宗久と共に早い段階から恭順したことで重用されるようになり、宗久、千利休らと共に信長の茶頭をつとめ「天下三宗匠」と呼ばれた。信長の死後、豊臣秀吉の時代になっても信頼を得て、宗久、利休らと共に北野大茶会に参加した。


山上宗二 やまのうえ そうじ (1544~1590)
 堺の豪商、茶人。屋号は「薩摩屋」。千利休の一番弟子で、20年にわたり利休から教えを受けた。利休と共に豊臣秀吉に仕えたが、物怖じしない物言いで秀吉の勘気に触れ浪人となる。その後、関東へ下り、北条家に客将として迎えられて茶の湯を広めた。小田原征伐が始まると、利休を介して秀吉に会う機会が訪れるが、ここでも北条家に義理立てしたことで秀吉の勘気に触れ、耳と鼻を削がれたうえで斬首された。



絵師・書家・陶芸家・彫刻家

狩野永徳 かのう えいとく (1543~1590)

 室町時代中期から江戸時代末期まで続いた日本最大の画派・狩野派を代表する絵師。織田信長豊臣秀吉など、時の権力者に重用され、安土城大坂城、聚楽第の障壁画を描いた。他の作品では、織田信長が上杉謙信に送ったいう「洛中洛外図屏風」(国宝)や「唐獅子図屏風」などがある。


海北友松 かいほう ゆうしょう (1533~1615)
 浅井家臣・海北綱親の五男。幼少の頃から仏門に入り、京都・東福寺で修業、それと同時に狩野派を学んだといわれる。父や兄らが討死すると、還俗して家の再興を目指すが、豊臣秀吉に画才を認められたことから武士を捨て絵師の道を選んだ。代表作に「雲龍図屏風」(重要文化財)がある。


俵屋宗達 たわらや そうたつ (?~?)
 本阿弥光悦と並び「琳派の祖」といわれる大絵師。京都で扇絵職人として活躍する一方、皇室からの依頼を受けるなど幅広く活躍したが、その名声とは裏腹に生涯に関して不明な点が多い。代表作に「風神雷神図」(国宝)などがある。


長谷川等伯 はせがわ とうはく (1539~1610)
 能登国・七尾出身の絵師。長谷川派の始祖。七尾で日蓮宗関連の仏画、肖像画を描いていたが、上洛して諸派の画風を学び頭角を現した。豊臣秀吉千利休に重用され、早世した秀吉の子・鶴松の菩提寺・祥雲寺の障壁画を描いたことで狩野派に並ぶ存在となった。代表作に「松林図屏風」(国宝)などがある。


左甚五郎 ひだりじんごろう (1594~1651) 
 播磨国明石出身の彫刻職人。姓は伊丹、名は利勝と伝わり、父は足利家臣だったという。京都で修業したのち、江戸に下って宮大工の棟梁として名を馳せた。その後、京都に戻って禁裏の大工棟梁にも任命された。代表作は日光東照宮の「眠り猫」。その他、全国各地に甚五郎作と伝わる作品があり、その製作期間も100年を越すことから、名は名工の代名詞としても使われたと考えられている。


本阿弥光悦 ほんあみ こうえつ (1558~1637)
 俵屋宗達と並び「琳派の祖」といわれる書家、陶芸家、芸術家。本阿弥家は、もともと刀剣の鑑定、研磨を生業としている名家だが、光悦は、京で「寛永の三筆」のひとりに数えられるほど書に優れ、さらに陶芸、漆工、出版、茶の湯とあらゆる方面で才能を発揮した。代表作に『楽焼白片身変茶碗 銘 「不二山」(国宝)』などがある。



学者


林羅山 はやし らざん (1583~1657)

 朱子学者。幼少から秀才と謳われたという。建仁寺で仏教を学ぶが、僧にはならず朱子学に惹かれ独学で研究した。その後、儒学者である藤原惺窩に学んでさらに才能を開花させ、惺窩の推挙により南光坊天海以心崇伝らと同じ徳川家康の相談役のひとりとなる。1614年の方広寺鐘銘事件では「国家安康 君臣豊楽」の文言を家康を呪詛するものであると解釈を示し大坂の陣のきっかけをつくった。家康、秀忠、家光、家綱の4代に仕え、武家諸法度の撰定など江戸幕府の初期の土台作りに多大な貢献をした。



僧侶

以心崇伝 いしん すうでん (1569~1633)

 臨済宗の僧。一色家の出身で南禅寺金地院に住んだことから金地院崇伝の名で呼ばれることもある。江戸時代に入ってから徳川家康に招かれ、幕政に参加。宗教統制だけでなく、法の立案から外交まで受け持ち、大坂の陣が起きるきっかけとなった方広寺鐘銘事件にも大きく関わった。家康が亡くなると、家康の神格化をめぐって南光坊天海と対立して敗れ、その際、取り乱したことから徳川秀忠の不興をかって一時権勢を失った。しかし、のちに許されて幕政に復帰し、その権勢の大きさから「黒衣の宰相」と称された。


快川紹喜 かいせん じょうき (1502~1582)
 臨済宗の僧。美濃国・土岐家の出身といわれる(諸説あり)。武田信玄に招かれて恵林寺に入寺し、外交僧もつとめたという。1573年に信玄が亡くなると、遺言に従い、その死を3年伏したのち、大導師として葬儀を行った。織田信長に武田家が滅ぼされたのち、織田家に敵対した者を匿って引き渡さなかったため、寺の焼き討ちにあい焼死する。そのとき残した言葉「心頭滅却すれば火もまた涼し」は有名。また、武田軍の軍旗「風林火山」の文字も手掛けたといわれている。


傑山宗俊 けつさん そうしゅん (?~1593)
 井伊家の菩提寺・龍潭寺三世住職。二世住職・南渓瑞聞の弟子。僧でありながら弓術に優れ、井伊直政に従って小牧・長久手の戦いに従軍。池田恒興森長可隊と戦い、井伊家の武名を高めるのに貢献した。小田原征伐後、直政が徳川家康の関東移封に従って井伊谷を去ると、龍潭寺の所領を安堵してもらうため、京の豊臣秀吉の元へ赴いて朱印状を受け取るという重要な役割を果たした。


昊天宗建 こうてん そうけん (?~1644)
 井伊家の菩提寺・龍潭寺五世住職。彦根・龍潭寺創建者。龍潭寺二世住職・南渓瑞聞の弟子。僧でありながら長刀に優れ、井伊直政に従って小牧・長久手の戦いに従軍して井伊家の武名を高めるのに貢献した。関ヶ原の戦い後、井伊家が佐和山に所領を得ると移り住み、直政の死後、遺命によって豪徳庵を建てた。その後、臨済宗本山妙心寺九十七世住職に就任、彦根に弘徳山龍潭寺を創建したのち、井伊谷に戻って龍潭寺五世住職となった。


虎哉宗乙 こさい そういつ (1530~1611)
 臨済宗の僧。美濃国出身で、甲斐の快川紹喜らに師事したのち、親交のあった僧が伊達輝宗の叔父であったことから、輝宗の招きを受けて梵天丸(のちの政宗)の教育係となった。生涯を通じて政宗とは師弟関係にあり、政宗の移封に従って岩出山、仙台へと移り住んだ。


沢彦宗恩 たくげん そうおん (?~1587)
 臨済宗の僧。織田信長の傅役・平手政秀の依頼で吉法師(のちの信長)の教育係となった。信長が、政秀の菩提を弔うために創建した政秀寺の開山もつとめている。信長が美濃を平定したのち、稲葉山城下の「井ノ口」の改名について意見を聞かれ、中国・周の故事にならって挙げた幾つか名前から「岐阜」が採用された。また、信長の政策である「天下布武」も提案したといわれる。


登誉天室 とうよ てんしつ (?~1574)
 浄土宗成道山大樹寺の13代住職。相模国小田原の出身という。1560年、徳川家康(当時の名乗りは松平元康)が、今川方の先鋒として桶狭間の戦いに参加し、敗れたとき、逃げ帰った家康を受け入れ匿った。進退窮まった家康が自害しようとすると「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」、乱れた世を泰平にするのがそなたの役目だと説いて自害を思い留まらせた。その後、家康は「厭離穢土欣求浄土」を旗印に天下を統一した。


南光坊天海 なんこうぼう てんかい (1536?~1643)
 天台宗の僧。若い頃は随風と名乗って比叡山延暦寺などで学んだ。比叡山が織田信長の焼き討ちにあうと、武田信玄に招かれて甲斐へ行き、最終的には武蔵へ下って無量寿寺北院(のちの喜多院)に移って天海と名乗る。小田原征伐の時には、すでに徳川家康の参謀として活動していたともいわれるが、活動が活発になるのは、江戸時代に入ってからで、以心崇伝と共に重用され、朝廷との交渉役として重責を担い、大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件にも関わったとされる。家康が亡くなると、崇伝と家康の神号や葬儀について対立するが、これに勝利して家康の神号は「東照大権現」となった。3代将軍・家光の時代まで生き、最後まで幕政に大きく関わった。活躍しだした時期や様々な事象から明智光秀と同一人物だとする説がある。


南渓瑞聞 なんけい ずいもん (?~1589)
 井伊家の菩提寺・龍潭寺二世住職。井伊直平の子ともいわれる(諸説あり)。桶狭間の戦い井伊直盛が討死し、跡を継いだ直親今川氏真によって謀殺され、最後に残った直平も亡くなって井伊家の成人男子が途絶えると、龍潭寺で出家していた直盛の娘・次郎法師を還俗させ、直虎として井伊家の当主に据えた。以後、直虎の軍師的な立場で井伊家の再興を目指し、直虎、祐春尼(直虎の母)と相談して直親の子・虎松(のちの直政)徳川家康に引き合わせた。


木食応其 もくじき おうご (1536~1608)
 真言宗の僧。近江国の出身で若い頃は六角家に仕えていたといわれる。六角家の滅亡後、38歳の時に高野山で出家した。1581年、織田信長の高野攻めでは調伏を行ったという。信長の高野攻めは本能寺の変が起きたことにより中止となったが、85年に今度は豊臣秀吉により高野攻めが行われる。この時は高野山使僧をつとめて和議に尽力。以後は秀吉と良好な関係を築いて青巌寺を開基するなど高野山の復興につとめた。秀吉の死後は、後ろ盾を失ったことで権勢を失い、関ヶ原の戦いでは西軍との繋がりを疑われ、近江で隠遁した。



武芸者

愛洲移香斎 あいす いこうさい (1452~1538)

 陰流の始祖で、諱は久忠。剣聖・上泉信綱の師ともいわれる(信綱の師は子の小七郎宗通とも)。伊勢国で生まれ、幼少の頃より剣術の才があり、諸国を巡って武者修行をしたという。晩年は日向守を称して日向国で過ごした。子・小七郎宗通は、常陸の佐竹義重に仕えた。


伊東一刀斎 いとう いっとうさい (?~?)
 一刀流の始祖。諱は景久。有名な兵法者であるが、出自、生没年ともに諸説あってはっきりしていない。鐘捲流・鐘捲自斎の弟子となり、ある日「剣の妙処を悟りました」と言って自斎と立ち合って勝利し、鐘捲流の奥義をすべて授かった。諸国を放浪し、真剣勝負すること33回。そのすべてに勝利したという。その後、弟子である小野忠明に一刀流の奥義と愛刀・瓶割を託して忽然と姿を消し、終焉の地もはっきりしていない。


小野忠明 おの ただあき (1569?~1628)
 安房国里見家臣。はじめは、神子上典膳と名乗って里見義康に仕えたが、出奔して伊東景久(一刀斎)の弟子となり、兄弟子・善鬼との勝負に勝って一刀流を継承した。柳生宗矩の柳生新陰流と並んで徳川秀忠付の剣術指南役となり、関ヶ原の上田城攻めや大坂の陣で活躍したが、傲慢不遜な性格であったため、度々秀忠の怒りを買い、最後は閉門処分になった。その後、小野家は子の忠常が、3代将軍・家光に仕えて一刀流の兵法書をまとめ、小野派一刀流を開いた。


上泉信綱 かみいずみ のぶつな (1508?~1577?)
 上野国の出身で、剣聖と謳われた兵法者。いくつかの流派を学び、特に陰流・愛洲多香斎、または、その子・小七郎の影響を強く受け新陰流を創始した。山内上杉家臣で箕輪城主・長野業正に仕え、武田信玄北条氏康との戦いで活躍したが、業正の死後、信玄に攻められ箕輪城が落城すると、信玄の誘いを断って諸国を巡り、上洛した際には、室町幕府13代将軍・足利義輝に剣技を披露した。その後、柳生新陰流の祖・柳生宗厳(石舟斎)や宝蔵院流槍術の祖・宝蔵院胤栄らを教えて印可状を与えるなど、様々な流派に影響を与えた。戦つづきの世の中で、人を殺める「殺人剣」ではなく、人を活かす「活人剣」を目指した。


鐘捲自斎 かねまき じさい (?~?)
 鐘捲流剣術の開祖。越前朝倉家に仕えていた富田流(中条流から派生した流派)・富田景政の門下となり、「富田の三剣」のひとりに数えられた。伊東一刀斎の師でもあり、ある日、一刀斎に勝負を挑まれ立ち合うが敗北。その才能に感心し、自身が編み出した奥義をすべて一刀斎に与えた。宮本武蔵と巌流島で戦い敗れた佐々木小次郎も弟子だったといわれる。


佐々木小次郎 ささき こじろう (?~1612)
 号は岩流。出身は豊前国、越前国ともいわれ判然としていない。中条流・富田勢源、もしくはその門下であった鐘捲流・鐘捲自斎の弟子といわれ、はじめは毛利家に仕えたという。有名な逸話に武者修行の旅に出て秘剣「燕返し」を編み出しというものがあるが、これは創作で「虎切」と呼ばれる剣の型が元になっているという。のちに小倉藩・細川家に仕えて兵法指南役となったが、巌流島の決闘で宮本武蔵に敗れ亡くなった。青年剣士として描かれることが多いが、武蔵と戦った時は、50歳以上であったという説がある。


塚原卜伝 つかはら ぼくでん (1489~1571)
 常陸国・鹿島神宮の神官・卜部家の次男として生まれ、のちに塚原家の養子となった。卜部家には「鹿島の太刀」という秘伝が、塚原家には天真正伝神道流が伝わっており、この二つの流派を学んで「一の太刀」を編み出し、新当流を開いた。多くの弟子を引き連れて武者修行の旅をし、生涯19回の真剣勝負で無敗を誇った。その旅の途中で剣豪としても有名な室町幕府13代将軍・足利義輝に「一の太刀」を伝授したことでも知られる。勝つことを第一に考え、時には心理戦で相手の油断を誘う戦いもしたという。修業中の宮本武蔵の剣を鍋の蓋で受け止め軽くあしらう逸話があるが、ふたりの生きた時代はずれているため、完全な創作である。


東郷重位 とうごう しげかた (1561~1643)
 示現流の開祖で薩摩・島津家に仕えた。最初はタイ捨流を学び、耳川の戦いで初陣を飾って首級を挙げたという。九州征伐後、主君・島津義久に従って上洛。その時に天寧寺の僧・善吉から天真正自顕流(てんしんじょうじげんりゅう)を学んで帰国し、自身の工夫を加えていった。多くの弟子をかかえるようになると、その武名をききつけた島津忠恒の命で、タイ捨流の剣術師範と御前試合を行って勝利し、代わって剣術師範となる。のちに重位の剣術は「示現流」と命名され、門外不出の島津家御家流となった。


富田重政 とだ しげまさ (1564~1625)
 富田流・富田景政の娘婿。義理の叔父は中条流・富田勢源。富田流を代表する剣豪のひとりで、越後守の官位から「名人越後」の異名をとった。前田利家に仕え、末森城の戦いでは一番槍の手柄を挙げている。その後も、小田原征伐、関ヶ原で活躍、大坂の陣にも参加して19人の首級を挙げた。


林崎甚助 はやしさき じんすけ (1542?~1621?)
 出羽国出身で、神夢想林崎流を開いた居合(抜刀術)の祖といわれる剣豪。幼い頃に父を殺されたのをきっかけに、武芸を磨いた。林崎明神を参詣した際に、神から居合の極意を伝授されたという。父の仇討ちを果たしたのち、諸国を巡って多くの弟子を育て、旅の途中で加藤清正に招かれて家臣に指南したと伝わる。齢70を超えて再び旅に出て以後は消息不明となった。一説には塚原卜伝から新当流も学んだといわれる。


疋田豊五郎 ひきた ぶんごろう (1537?~1605)
 上泉信綱の高弟。諱は景兼。信綱と共に山内上杉家臣・長野業正に仕えたのち、信綱に従って諸国を巡った。伊勢国司・北畠具教の紹介で柳生宗厳(石舟斎)と出会い、信綱に挑もうとする宗厳と3度立ち合い3度とも勝利して宗厳が信綱に弟子入りするきっかけをつくった。その後、信綱とは分かれ一人で諸国を巡って織田信忠豊臣秀次黒田長政に新陰流を指南したという。細川藤孝忠興に仕えた時期もあったが、最後は再び諸国を巡り大坂で亡くなったといわれている。


宝蔵院胤栄 ほうぞういん いんえい (1521~1607)
 宝蔵院流槍術の開祖。池に映った三日月が、自分の持っていた槍と重なったのを見て十文字槍を考案したと伝わる。南都七大寺のひとつ・興福寺の僧衆で、興福寺子院・宝蔵院の院主をつとめた。寺の警護衆として武術を学び、伊勢国司・北畠具教の紹介で、柳生石舟斎(宗厳)と共に上泉信綱に師事し新陰流を学ぶ。その後、柳生の里を訪れていた信綱を宝蔵院に引き止め、さらに教えを受けて印可状を与えられた。晩年は、僧でありながら武芸者でもあるという矛盾に苦しみ槍を捨てたという。


丸目長恵 まるめ ながよし (1540~1529)
 肥後国の相良家領内で生まれた。上洛して上泉信綱から新陰流を学び、信綱が室町幕府13代将軍・足利義輝の御前で剣技を披露した際には、その相手役をつとめて、義輝から信綱と共に感状を与えられた。帰郷後、相良義陽に仕えたが、長恵の進言によって島津家に大敗を喫し、その責を負わされ出世の道を断たれた。その後、浪人となって九州で武者修行に励み、師・信綱からも新陰流の教授を許された。信綱の死後、創意工夫を重ねてタイ捨流を開き、九州征伐後に再び相良家に仕えて剣術指南役となった。


宮本武蔵 みやもと むさし (1584?~1645)
 二刀を用いる二天一流の開祖。十手の名手・新免無二の子といわれる(養子とも)。幼少より、独学で父とは違う道で剣を修め、13歳のときに新当流・有馬喜兵衛に勝利した。その後、上京して名を挙げ、京の吉岡一門、そして、巌流島の決闘で佐々木小次郎を破るなど、生涯60回以上の勝負で無敗を誇り、その名を天下に轟かせた。武者修行ばかりの印象が強い武蔵だが、意外と戦働きもあり、関ヶ原の戦いでは石田三成の軍勢で足軽として戦い(諸説あり)、大坂の陣は水野勝成の元で参戦、小笠原家の元で島原の乱にも参戦し、ここでは投石によって負傷したことが知られている。晩年は、熊本藩主・細川忠利に招かれて客将となり、兵法書「五輪書」を著した。


柳生石舟斎 やぎゅう せきしゅうさい (1527~1606)
 柳生新陰流の開祖。諱は宗厳。新当流を学んで近畿随一の剣士となる。しかし、伊勢国司・北畠具教に紹介された新陰流・上泉信綱に挑み、信綱との前に弟子の疋田豊五郎(景兼)と立ち合って完敗すると、己の未熟さを悟って、信綱に入門した。修業の結果、数年後には皆伝印可を受け、さらに数年後には一国一人の印可も受けた。その後、武将として筒井順慶松永久秀らに仕えたが、長男・厳勝が戦で負傷して剣が握れなくなったのをきっかけに俗世間から離れ隠遁した。1594年、徳川家康の招きを受け、家康本人を相手に柳生新陰流の奥義「無刀取り」を披露。これに感心した家康に剣術指南役として出仕を請われたが、老齢を理由に辞退し、代わりに五男・宗矩を推挙した。その後、柳生の地に500石を得て同地で没した。


柳生兵庫助 やぎゅう ひょうごのすけ (1579~1650)
 柳生石舟斎(宗厳)の孫。諱は利厳。妻は島左近(清興)の娘。戦で負傷して剣を握れなくなった父・厳勝に代わって、祖父・石舟斎から新陰流を学ぶ。剣の腕は一流で、関ヶ原の戦い後、加藤清正に請われて仕えるが、石舟斎から清正に対して「兵庫は一徹で短慮であるから、死罪を3度まで許してほしい」と申し出があったという。石舟斎が心配した通り、仕えて1年足らずで一揆鎮圧の対処をめぐって対立した同僚を斬ってしまい、加藤家を去って武者修行の旅に出る。その後、柳生の里に帰郷し、石舟斎から印可状と大太刀、さらに宗厳が上泉信綱から受けた印可状も受け取り新陰流を継いだ。1615年、尾張徳川家の家老・成瀬正成の推挙で剣術指南役となり、尾張柳生家の祖となった。


柳生宗矩 やぎゅう むねのり (1571~1646)
 柳生石舟斎(宗厳)の五男。柳生十兵衛(三厳)の父。幼少のころから、他の兄弟たちと共に父・石舟斎から新陰流を学ぶ。1594年、所領を失っていた父が徳川家康に招かれ剣術指南役に請われたが、老齢を理由に辞退。その代わりに推薦され200石で家康に仕えた。関ヶ原の戦いでは本陣に詰めて参加し、戦後に大和柳生庄に2000石を得てお家の復興を果たした。その後、徳川秀忠の剣術指南役となって、大坂の陣にも参陣、迫ってきた豊臣方の武者を数人斬り捨てたという。徳川家光の時代に入ると、剣術指南役を続ける一方で、初代の幕府惣目付(のちの大目付)など、要職を歴任して幕政にも関わり、最終的に1万2千石あまりを領有して大名に列し、大和柳生藩を立藩した。