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合戦 その5 (1573~1576)
まきしまじょうのたたかい
1573年 槇島城の戦い 織田信長 VS 足利義昭 | |
結果:織田信長の勝利 場所:山城国 | |
内容: 織田信長と室町幕府15代将軍・足利義昭の戦い。義昭の挙兵には松永久秀、三好三人衆らも呼応したが、義昭が敗れ、事実上、室町幕府は滅亡した。 経緯と結果、その後: 1568年、織田信長の力をかりて上洛を果たし、室町幕府15代将軍となった足利義昭は、将軍の権威を取り戻すために行動を起こすが、その内容が利己的であったため、1569年に信長が出した殿中御掟によって行動を抑制される。さらに、1572年に信長から17条の意見書が出されると、義昭にとって信長は完全に邪魔な存在となり、信長を排除するため、反信長勢力を結集して信長包囲網を築いていった。 1572年9月、包囲網の切り札ともいえる武田信玄が西上作戦を開始。その後、西上作戦は信玄の発病により翌73年1月頃には頓挫していたが、信玄上洛をはじめ、各方面で信長を討つための兵が繰り出されているという情報を聞いた義昭は、信長が京へ来れる状況ではないと判断し、二条城に立て籠って信長と戦う姿勢を見せた。しかし、信長が軍勢を率いて入京。義昭を支持していたものたちが多く住んでいた上京を焼き討ちされると、情勢は和睦に傾き、最後は正親町天皇の勅命によって73年4月に和議が結ばれた。 だが、同年7月、武田軍が撤退したことをまだ知らなかったのか、義昭は勅命を破棄して再び挙兵。三淵藤英を二条城に入れ、自身は槇島城に籠った。これに対し信長は7万という大軍勢を率いて二条城を包囲。柴田勝家の説得により藤英を降伏させると、そのまま槇島城へ進軍し、城を包囲した。圧倒的な兵力を前に全く抗しきれなかった義昭は、遂に嫡男・義尋を人質に出して降伏。義昭は助命されたが、京から追放された。 義昭は征夷大将軍の地位を剥奪されなかったものの、堺、紀伊を放浪したのち毛利輝元を頼って備後・鞆まで落ち延び、事実上、室町幕府は滅亡する。義昭の挙兵に加わった三好三人衆も岩成友通が追討され、三好長逸、三好政康は行方知れずとなり、松永久秀は再び信長に服属した。義昭の追放、三好三人衆の失脚、武田信玄の死により、信長包囲網は完全に瓦解し、信長による反信長勢力への反撃が始まる。 |
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主な参戦武将 | |
織田方(70000) | 足利方(3700) |
織田信長 明智光秀 柴田勝家 佐久間信盛 細川藤孝 荒木村重 |
足利義昭 三淵藤英 |
1573年 刀根坂の戦い 織田信長 VS 朝倉義景 | |
結果:織田信長の勝利 場所:越前国 | |
内容: 織田信長と朝倉義景の戦い。浅井長政の居城・小谷城の救援をあきらめて撤退する朝倉軍を織田軍が追撃し、朝倉軍に壊滅的な打撃を与えた。また、朝倉軍には客将として元美濃国主・斎藤龍興が加わっていた。 経緯と結果、その後: 1573年4月、反信長勢力の要であった武田信玄が西上作戦の途上で病死。同年7月には槇島城で挙兵した足利義昭が織田信長によって京から追放され、義昭に加担した三好三人衆も壊滅するなど信長包囲網が崩壊した。反信長勢力を各個撃破する機会がおとずれた信長は、まず、北近江の浅井長政を攻めるため、浅井家の重臣で山本山城主・阿閉貞征を調略。調略が成ると3万の軍を率いて北近江へ侵攻し、長政の居城・小谷城の目と鼻の先にある虎御前山に布陣、山本山城とあわせて小谷城の南方と西方を抑えた。 これに対し、浅井長政は5千の兵で小谷城に籠城。越前の朝倉義景は長政救援のため、2万の兵を自ら率いて小谷城の西北にある田上山に布陣、さらに小谷城と連なる大嶽山に砦を築き、虎御前山近くの丁野山城にも兵(平泉寺僧兵)を入れて小谷城との連携をはかった。ところが、暴風雨の夜、風雨と夜陰にまぎれて奇襲をかけてきた信長に大嶽砦、つづいて丁野山城まで落とされてしまった。 大嶽砦、丁野山城を落とした信長は、降伏した兵を解放。小谷城との連携を断たれたことを解放した兵から聞けば、朝倉勢はすぐにでも撤退をするであろうと信長は踏んでおり、諸将らに対し「今宵のうちに朝倉勢は撤退をするであろうから好機を逃すな」と申し渡したという。そして、その言葉通り、朝倉勢は撤退を始める。これにいち早く反応したのは信長自身で、桶狭間の戦いのように、諸将を置き去りにして馬廻り衆のみで追撃、後から追いついた諸将らは叱責されたと伝わる。諸将らが合流したのちは、刀根坂でさらなる猛追撃を朝倉勢に与え、殿をつとめていた山崎吉家、客将として参加していた斎藤龍興をはじめ多くの将や兵を討ち取り、朝倉勢をほぼ壊滅させた。 義景が、本拠・一乗谷に辿り着いたときには、わずかな馬廻りしか従っていなかったという。義景の率いた兵は2万という大軍ではあったが、一門の筆頭である朝倉景鏡をはじめ、歴戦の重臣たちのなかには度重なる軍役による疲弊を理由に従軍しなかったものもいた。そのため、戦いに不慣れであった義景自身が兵を率いなければならないほど、すでに朝倉家中は乱れており、兵の士気も高くなかったといわれる。 |
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主な参戦武将 | |
織田方(30000) | 朝倉方(20000) |
織田信長 柴田勝家 佐久間信盛 丹羽長秀 滝川一益 羽柴(豊臣)秀吉 |
朝倉義景 朝倉景健 山崎吉家 斎藤龍興 |
1573年 一乗谷の戦い 織田信長 VS 朝倉義景 | |
結果:織田信長の勝利 場所:越前国 | |
内容: 織田信長による朝倉家殲滅戦。この戦いで一乗谷に栄華を誇った朝倉家は滅亡した。 経緯と結果、その後: 刀根坂の戦いで敗れたのち、朝倉義景は本拠・一乗谷に帰還できたものの、従う兵はわずか五百となっていた。越前国内の国人たちにも見放され、一乗谷に馳せ参じる者がほとんどいない状況の中、義景は一門の筆頭で従兄弟である朝倉景鏡の進言に従い、一乗谷より防御に適した景鏡の領地・大野郡で再起をはかるべく一乗谷を退去した。義景の退去後、朝倉家が100年にわたって栄華を誇ってきた一乗谷は織田信長の命を受けた柴田勝家らによって灰燼に帰した。 一乗谷を退去した義景は大野郡にある六坊賢松寺に入る。しかし、そこで自領にて再起をはかるよう進言した景鏡が突如として裏切り、賢松寺を包囲、義景に攻撃を仕掛けた。義景が期待していた平泉寺の僧兵もすでに所領安堵を条件に織田方へ寝返っており、衆寡敵せず、義景は側近・高橋景業の介錯で自害、名門・朝倉家は滅亡した。 裏切った景鏡は、義景の首を信長に差し出し、降伏が許された。この時、義景の母・高徳院、妻・小少将も信長に引き渡されたが、織田家に服従するのを拒んだため、丹羽長秀によって処刑されたという。また、義景の娘のひとりは大坂本願寺に落ち延び、すでに婚約していた顕如の長男・教如の正室となった。朝倉家の滅亡により若狭、越前は織田家の支配下に入るが、その後、越前では一向一揆が激化。その戦いの中で景鏡は討死し、朝倉景健も一向一揆に降伏したことを信長に責められ切腹を命じられるなど、生き残った朝倉一族も、のちには多くが不幸に見舞われた。 |
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主な参戦武将 | |
織田方(30000) | 朝倉方(500) |
織田信長 柴田勝家 丹羽長秀 羽柴(豊臣)秀吉 |
朝倉義景 鳥居兵庫助(景近) 高橋新助(景業) 朝倉景鏡(織田方へ寝返り) |
1573年 小谷城の戦い 織田信長 VS 浅井長政 | |
結果:織田信長の勝利 場所:近江国 | |
内容: 北近江の浅井長政が織田信長の侵攻に対して小谷城で籠城した戦い。長政は、この戦いで敗れて自害し、浅井家は滅亡した。 経緯と結果、その後: 1573年初頭から約半年の間に、武田信玄の西上作戦が頓挫、足利義昭の京都追放、三好三人衆の壊滅と反信長勢力の敗退がつづき、信長包囲網が崩壊した。残る反信長勢力を各個撃破する機会がおとずれた信長は、まず浅井長政を討つべく北近江へ侵攻。そこへ越前の朝倉義景が長政の援軍としてやってくると、信長はこれを刀根坂の戦い、一乗谷の戦いで打ち破って朝倉家を滅亡させた。 朝倉家を滅亡させた信長は越前の事後処理のため、一部の兵を残すと、即座に北近江へ立ち戻り、孤立状態となった長政の居城・小谷城を包囲、総攻撃を開始した。これに対し、長政は本丸、長政の父・久政は小丸に籠って奮戦するが、羽柴(豊臣)秀吉に本丸と小丸の間にある京極丸を落とされると、両者は分断され、まず最初の標的となった小丸で久政が自害。つづいて本丸への攻撃が始まると、長政は嫡男・万福丸を城外へ逃したのち、妻・お市と三人の娘(茶々・初・江)を信長に引き渡して城内の赤尾屋敷で自害におよび、亮政、久政、長政と続いた浅井家は三代で滅亡した。 浅井家滅亡後、領地は羽柴(豊臣)秀吉に与えられ、小谷城は長浜城の築城にともない廃城となった。また、城外に逃れた長政の子・万福丸は秀吉の手勢に捕らえられ、関ヶ原で処刑されたという。信長の残忍さを示す逸話として浅井長政・久政親子と朝倉義景の頭蓋骨を薄濃(【はくだみ】漆を塗って金箔を施したもの)にし、それを盃として酒を飲んだというものあるが、薄濃は敵将に敬意を表し、後世まで伝える行為であり、信長の残忍さを誇張するものではないといわれている。また、盃をとして使ったというのは後世の創作だといわれている。 |
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主な参戦武将 | |
織田方(30000) | 浅井方(5000) |
織田信長 羽柴(豊臣)秀吉 |
浅井長政 浅井久政 赤尾清綱 海北綱親(?) 雨森清貞(?) |
1575年 長篠の戦い 織田・徳川連合軍 VS 武田勝頼 | |
結果:織田・徳川連合軍の勝利 場所:三河国 | |
内容: 織田信長、徳川家康連合軍と武田勝頼の戦い。三河・長篠城を巡る戦いで、主戦場が設楽原であったことから「長篠設楽原の戦い」とも呼ばれる。連合軍が大量の鉄砲を使って勝利したことで知られ、武田家はこの敗北で信玄以来の重臣を多く失い、衰退していく原因となった。 経緯と結果、その後: 1573年4月、武田信玄が信濃駒場で息を引き取り、信長包囲網の要であった西上作戦が頓挫した。最大の危機を脱した織田信長は、足利義昭を京から追放、さらに越前の朝倉義景、近江の浅井長政も滅ぼして勢力を拡大した。また、徳川家康も信玄によって奪われた三河・遠江の失地回復に努め、その過程で長篠城を奪還。そして、ほぼ同時期に武田家から徳川家に寝返った奥平信昌を長篠城の城主に据えて備えとした。 織田、徳川の反撃に対し武田勝頼は、1574年に入ってから攻勢に転じ、美濃の明知城、遠江の高天神城を攻め落として信玄を凌ぐ領土を獲得、1575年に入ると、1万5千の兵を率いて三河へ侵攻し、長篠城を包囲して攻撃を開始した。武田家の大軍に対し、長篠城を守る城兵は、たったの5百、城主・奥平信昌は、援軍を要請するため、家臣・鳥居強右衛門を使者として岡崎城に送ることにした。強右衛門は、その期待に応え、武田軍の厳しい囲みを突破して無事、岡崎城に到着、そこで織田信長、徳川家康と謁見し、援軍の用意ができていることを知ると、そのまま長篠城へ立ち返り、命を賭してこのことを知らせて城内の士気をあげ、結果、長篠城は援軍到着まで持ちこたえることになる。 鳥居強右衛門が岡崎を訪れてから3日後、織田・徳川連合軍3万8千は長篠城の手前、設楽原に到着。そこに流れていた連吾川を天然の堀とし、川に沿って馬防柵を構築、戦国史上では珍しい野戦築城で武田軍を迎え撃つ準備をした。この野戦築城をみた武田家の重臣・山県昌景、馬場信春、内藤昌豊らは味方の不利を悟って勝頼に撤退を進言したという。しかし、勝頼はこれを拒否、長篠城の抑えに2千の兵を割いて設楽原に進軍し、連吾川を挟んで織田・徳川連合軍と対峙した。 決戦の前日、信長は徳川家の重臣・酒井忠次の進言を受け入れて長篠城包囲のために築かれた鳶ヶ巣山砦の奇襲を決め、徳川の精鋭を率いる忠次に自身の兵も加えてこれを決行させた。忠次は期待に応えて鳶ヶ巣山砦をはじめ、武田方の砦を次々と落として長篠城を救援するとともに、武田軍の退路を断つことにも成功し、武田軍を動揺させたという。そして明朝、圧倒的に連合軍が有利といえる状況で決戦の火蓋が切られることになる。信玄が育て、勝頼が継いだ武田の精鋭たちは、その名に恥じない猛攻を見せるも、野戦築城と大量の鉄砲を前に次々と倒れ、山県昌景、内藤昌豊、土屋昌続、真田信綱らが討死。「不死身の鬼美濃」といわれた馬場信春も勝頼の退却時間を稼ぐために殿(しんがり)を引き受け討死した。約8時間に及んだ戦闘は、連合軍の戦死者が百にも満たないのに対し、武田軍は1万以上と連合軍の圧倒的大勝利に終わった。 戦後、多くの重臣と兵を失った武田家は、衰退の道を歩み始めることになる。かつて、この戦いで連合軍が用意した鉄砲は三千といわれ、それを三段構えで交代で撃ち、当時の鉄砲の弱点であった発射までの時間を短縮したといわれてきた。しかし、近年では用意された鉄砲の数は千程度であったともいわれ、弱点は早合(弾と火薬を装填しやすくするために紙などで包んで一体化させたもの)で補ったともいわれる。連合軍の勝利に関して鉄砲が果たした役割が大きいのは確かだが、そもそも兵数に倍以上の差があり、最初から不利であった勝頼が決戦に挑んだ理由ははっきりとはしていない。 |
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主な参戦武将 | |
織田・徳川方(38000) | 武田方(15000) |
【織田軍】 織田信長 柴田勝家 丹羽長秀 佐久間信盛 滝川一益 羽柴(豊臣)秀吉 佐々成政 前田利家 明智光秀(?) 【徳川軍】 徳川家康 松平信康 石川数正 酒井忠次 本多忠勝 榊原康政 大久保忠世 鳥居元忠 【長篠城】 奥平信昌 鳥居強右衛門(勝商) |
武田勝頼 馬場信春 山県昌景 内藤昌豊 一条信龍 土屋昌続 穴山信君 小山田信茂 真田信綱 真田昌輝 |
1575年 四万十川の戦い 長宗我部元親 VS 一条兼定 | |
結果:長宗我部元親の勝利 場所:土佐国 | |
内容: 土佐中央部と東部を支配した長宗我部元親と土佐西部を支配した一条兼定の戦い。「渡川の戦い」とも呼ばれる。元親は、この戦いに勝利したことで、土佐の統一をほぼ成し遂げた。 経緯と結果、その後: 1564年、長宗我部元親が、宿敵・本山貞茂(のち親茂)を降伏させて土佐中央部を掌握すると、土佐国内は中央部の元親、東部の安芸国虎、西部の一条兼定が勢力を争う三つ巴の形となった。 中央部を制し勢いに乗る元親は、まず矛先を国虎に向ける。元親と国虎は1563年に国虎に属する兵が長宗我部領に侵入して衝突した経緯があり、一条兼定の仲介によって表向き和睦を結んでいる状況だった。元親はこの状況を利用して、国虎に使者を送り、「これまでの遺恨を断ち、両者の親睦を深めるため、岡豊城へ招待したい」と伝えた。しかし、家格も官位もはるかに低い元親のもとへ赴くのは事実上の降伏と考えた国虎は使者を追い返し元親と完全に敵対する姿勢をとった。こうして大義名分を得た元親は、西部の一条兼定に対しては良好な外交関係を結んで介入できないようにしたうえで安芸領へ侵攻、八流の戦いで国虎を破り、最後は自害に追い込んで土佐東部を手に入れた。 元親にとって残すは西部の一条兼定だけとなるが、元親は躊躇する。兼定は国虎の義兄にもあたり、何かと国虎に加担して元親を苦しめてきた存在ではあったが、長宗我部家が一時没落状態にあったとき、元親の父・国親が兼定の曽祖父・房家の力を借りて家を復興した経緯があったからである。しかし時は乱世。しかも、兼定だけでいえば、兵を繰り出してきて敵対した事実もある。最後は弟・親貞の「天罰が下るなら、私が受けましょう」という説得により元親は一条討伐を決意した。決意したのちの元親の行動は速く、弟・親貞を使って一条方の城を好条件を持ち出して次々と調略、攻略していった。さすがに、この行動には兼定も激怒、元親は詰問を受けるが、表向きの謝罪をしただけで、親貞の独断であるとして侵攻を続け、1571年までには兼定の支配していた領地の約半分を手に入れた。 この状況に一条家の家中は混乱する。しかし、兼定は全く策を講じないばかりか酒宴遊興にふけり、挙句の果ては進言に及んだ忠臣・土居宗珊を処刑してしまう。この事件で兼定は多くの重臣から見放されることになり、1574年、そこにつけ込んだ元親によって、継室の実父・大友宗麟の元に追放されることになる。そして元親は、兼定の嫡男・内政に跡を継がせ、自分が後見人となることで、事実上、一条家の実権を握り、反対勢力に対しては親貞を一条家の居城であった中村城に入れて経略に当たらせた。 1575年、兼定は土佐での復権を狙い、兼定から封土を得ていた伊予の土豪と追放先であった大友宗麟の力を借りて宇和島で挙兵。その兵力は3千5百に及び、一時は中村城を占拠した。しかし、元親が7千3百の兵で迫ったため、中村から撤退、四万十川(渡川)西岸の栗本城に拠点を移し、長宗我部勢と四万十川を挟んで対峙した。数で劣る兼定は、川に乱杭を打って、渡ってくる長宗我部勢を妨害して攻撃を加えようとしたが、数で勝る元親は隊を2つに分け、本隊を兼定の策にかかったかのように正面から攻めさせ、別働隊は上手の浅瀬を迂回させて一条勢の側面を突く作戦にでた。この元親の作戦は見事にはまり、側面に敵を抱えた一条勢は戦意を失って栗本城へ退却、兼定が伊予へ逃亡したのち栗本城は降伏した。 戦後、逃亡した兼定は瀬戸内の戸島で隠棲し、1585年に亡くなるまで再び土佐の地を踏むことはなかった。勝利した元親は残る反対勢力も一掃し、家督を継いだ1560年以降、悲願であった土佐統一を成し遂げた。 |
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主な参戦武将 | |
長宗我部方(7300) | 一条方(3500) |
長宗我部元親 吉良親貞 福留儀重 |
一条兼定 |
1576年 第一次 木津川口の戦い 毛利水軍 VS 織田水軍 | |
結果:毛利水軍の勝利 場所:摂津国・木津川口 | |
内容: 毛利水軍と織田水軍の戦いで石山合戦の局地戦のひとつ。石山本願寺の要請を受け勝利した毛利水軍は、石山本願寺への物資搬入に成功し、織田軍の兵糧攻めにあっていた本願寺の危機を救った。 経緯と結果、その後: 1568年に織田信長が上洛して以降、本願寺11代法主・顕如は、信長の圧迫に対して矢銭5千貫を支払うなど恭順していたが、1570年に交通の要衝でもあった石山本願寺の受け渡しを要求されると、我慢も限界に達し、野田城・福島城の戦いで三好三人衆と戦っていた信長を突如急襲した(淀川堤の戦い)。そして、この戦いを皮切りに以後10年に及ぶ石山合戦が始まることになる。 その後、信長と室町幕府15代将軍・足利義昭が対立すると、顕如は、義昭の求めに応じ、信長包囲網の一翼を担って信長を苦しめたが、武田信玄の死をきっかけに包囲網が瓦解、義昭は京都から追放され、朝倉義景、浅井長政は滅亡、長島一向一揆、越前一向一揆も鎮圧されると、本願寺は信長の勢力圏内に取り残されるような形になってしまった。 それでも顕如は、1576年に入ると毛利輝元のもとに身を寄せた足利義昭の求めに応じて再び挙兵。信長の包囲軍に対し、塙(原田)直政を討ち取り、天王寺砦に籠った明智光秀を窮地に追い込むなど粘りをみせる。しかし、これも信長の迅速な後詰(援軍)により最終的には敗北を喫し、石山本願寺での籠城を余儀なくされる。そして、佐久間信盛を総大将とする信長麾下最大の軍団に包囲されると、陸路は完全に遮断され、食糧など物資の補給が困難となり、強力な水軍を擁する毛利輝元に援助を要請することになった。 要請を受けた輝元は、直ちに兵糧など物資を積んだ毛利、小早川、村上水軍を中心とする約800隻の大船団を大坂へ向けた。そして、織田水軍300隻と木津川口で激突する。船の数だけで言えば、毛利水軍は織田水軍の倍以上を誇っていたが、その大半は物資を積んだ輸送船であり、戦闘に参加した数は織田水軍とさほど変わらなかったともいわれる。しかし、焙烙玉(ほうろくだま)、焙烙火矢と呼ばれる、今でいう手榴弾のような火薬兵器を備えていた毛利水軍は織田水軍を圧倒、壊滅的な大打撃を与えて完勝し、物資を石山本願寺へ運び込むことに成功した。 |
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主な参戦武将 | |
毛利・小早川・村上水軍(800隻) | 織田水軍(300隻) |
乃美宗勝 児玉就英 村上吉充 村上元吉 |
真鍋貞友 |