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合戦 その8 (1582~1584)
かんながわのたたかい
1582年 神流川の戦い 滝川一益(織田方) VS 北条氏政・氏直 | |
結果:北条氏政・氏直の勝利 場所:武蔵国 | |
内容: 甲州征伐の功で上野一国と信濃二郡を得た織田家重臣・滝川一益と関東の雄・北条氏政・氏直親子の戦い。この戦いで一益は惨敗し、織田家中での地位が失墜した。この戦い後、領主不在となった上野、信濃、甲斐を巡って天正壬午の乱が起こることになる。 経緯と結果、その後: 甲州征伐後、武田領であった駿河、信濃、甲斐、上野の四ヶ国は、甲州征伐で武功を挙げた諸将らに分配された。徳川家康は駿河一国、河尻秀隆は穴山梅雪の所領を除く甲斐一国と諏訪郡、森長可は北信濃の四郡、木曽義昌は木曽谷と信濃二郡を拝領。そして、滝川一益は上野一国と信濃二郡を拝領すると同時に、関東諸将の取次役に任命された。 一益は、新領地の統治と関東支配にあたり、まず関東諸将に本領安堵の旨を伝えた。そのため、武蔵の成田氏長ら近隣の諸将らが次々と出仕、さらに佐竹義重、蘆名盛氏、伊達輝宗ら遠方の者たちとも連絡をとった結果、彼らも織田家に服従する意向を示してきた。それに対し、関東最大の雄・北条氏政は、甲州征伐以前から織田家と親交があったことで、一益の上野国入りを表向き歓迎したが、甲州征伐で何も得るものがなかったのに加え、一益が北条家と敵対していた太田資正(この時は佐竹義重を頼っている)と誼を通じたことや、北条家に従属するという条件はあったものの、小山秀綱に祇園城を返還するよう、一益に命じられるなど、心中穏やかならざるものがあった。 そうした状況の中、6月2日に本能寺の変が起こる。9日に事態を知った一益は、翌10日に上州の諸将らを集めて上方へ向かう意向を示したという。一方、11日に本能寺の変の情報をえた北条氏政は、一益に、これまでと同様、協調体制をとっていくことを伝えたが、裏では出陣命令を出し、16日に兵5万でもって上野国へ侵攻した。北条勢の侵攻を知った一益は、直ちに兵を招集するが、上野を支配して3ヶ月ということもあり、1万8千の軍勢を整えるのがやっとだった。 6月18日、両軍は、神流川と利根川の合流地点にほど近い金窪、本庄原で激突。この日は、数で劣勢だった一益が北条氏直、氏邦を圧倒し、北条勢を撤退させた。しかし、翌日、態勢を立て直した北条勢が再び侵攻。序盤は前日同様、一益が北条勢を退かせる勢いを見せるが、深追いしたところを数で勝る北条勢に包囲され、散々に打ち破られて敗走した。 敗北した一益は、6月20日に上野国から撤退。信濃を無事に抜けるため、真田昌幸ら信濃二郡(佐久郡、小県郡)の諸将から人質を取って美濃を目指した。途中、木曽谷の木曽義昌に足止めされるが、連れてきていた人質を引き渡す条件で通行を許可された。一益が義昌の居城・木曽福島城で人質を引き渡したのは28日。その前日27日に清須会議が開かれ、織田家の家督は三法師(のちの秀信)と決定した。この重大な会議に間に合わなかった一益は、これを機に織田家での地位を失墜させていく。 |
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主な参戦武将 | |
北条方(50000) | 織田方(18000) |
北条氏政 北条氏直 北条氏邦 北条氏規 松田憲秀 大道寺政繁 成田氏長 |
滝川一益 |
1582年 中富川の戦い 長宗我部元親 VS 十河(三好)存保 | |
結果:長宗我部元親の勝利 場所:阿波国 | |
内容: 土佐統一を果たした長宗我部元親と讃岐、阿波に勢力を誇った三好家の残党・十河存保(三好三郎)の戦い。この戦いで勝利した元親は、四国で圧倒的な勢力となり、四国統一に王手をかけた。 経緯と結果、その後: 1575年、四万十川の戦い(渡川の戦い)で勝利して土佐統一を果たした長宗我部元親は、三好家の生き残り、三好長治、十河存保らが支配する阿波、讃岐へ進出するため、その年のうちに中央で勢力を拡大していた織田信長に使者を送り、「四国の儀は元親手柄次第に切取り候へ」との朱印状を受け取った。こうして信長の四国不干渉を確立した元親は、阿波へ侵攻し、瞬く間に南阿波を制圧。さらに77年には、三好長治と対立していた阿波守護・細川真之に加勢して長治を敗死させ、79年までに伊予、讃岐、阿波を繋ぐ四国中央部山間地の交通の要衝・白地城を拠点として東伊予、西讃岐、西阿波へ進出した。 しかし、1580年に入って中央の情勢が安定を見せ始めると、信長は四国に対する方針を転換。讃岐の十河存保、南伊予の西園寺公広、中伊予の河野通直らから援軍要請を受けた信長が、元親に、土佐一国および南阿波二郡の領有で手を打ち、伊予と讃岐は諦めよ、と通達してきた。この通達に対し、元親は、盟約違反であるとして激怒。通達を拒否し、信長との徹底抗戦を決意した。 敵意をあらわにした元親に対し信長は、四国征伐を決定。信長は阿波に人脈をもつ三好笑岩(康長)を四国に渡らせ、長宗我部方となっていた旧三好家臣たちの調略にあたらせると同時に、三男・神戸(織田)信孝を総大将とした四国征伐軍を編成した。こうして信長の本格的な攻勢に正念場を迎えることになった元親だが、幸運なことに四国征伐開始の当日、1582年6月2日早朝、信長が明智光秀の襲撃を受け、本能寺で横死するという出来事が起きる(本能寺の変)。後ろ盾を失った笑岩は、阿波から撤退。笑岩撤退を知った元親は一度土佐に帰って戦略を練り直し、15歳から60歳までで戦闘可能なものは参陣するようにとの触れを出すと、合計2万3千という軍勢で、長治死後、三好家の家督を継いだ十河存保が守る阿波・勝瑞城へと進軍した。 そして、本能寺の変から3ヶ月もたたない8月末、長宗我部元親2万3千と十河存保5千の軍勢は、勝瑞城近くの中富川(原)で激突した。元親にとっては四国制覇を大きく前進させるための一戦。存保にとっても三好家の命運をかけた一戦。両者の命運をかけた戦いは凄惨を極めたが、最後は兵数で勝る長宗我部勢が徐々に三好勢を崩しだし、存保は討死覚悟で突撃を仕掛けようとするも、家臣に諫められて勝瑞城へ退却した。この戦いは、阿波国史上最大の被害を出し、三好方に味方した七条兼仲をはじめとする支城の城主のほとんどが討死した。 戦いに勝利した元親は、そのまま存保が籠る勝瑞城を包囲。約1ヶ月の兵糧攻めの末、存保が城を明け渡すことで和議が結ばれ、存保は讃岐へ去っていった。その後、阿波を完全統一した元親は、容赦なく讃岐へも侵攻。84年に十河城、虎丸城を落として存保を四国から追い出し、讃岐の完全平定も果たす。しかし、その後も続く四国統一戦の過程で、元親は外交では信長死後に中央を制した羽柴秀吉と常に敵対する方針をとり、これがのちに秀吉による四国征伐に繋がっていくことになる。 |
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主な参戦武将 | |
長宗我部方(23000) | 三好方(5000) |
長宗我部元親 長宗我部信親 香宗我部親泰 |
十河存保(三好三郎) 七条兼仲 |
1582年 天正壬午の乱 徳川家康 VS 北条氏政・氏直 | |||
結果:徳川、北条両家による和睦 場所:甲斐国 信濃国 上野国 | |||
内容: 本能寺の変後、領主不在となった信濃、甲斐、上野の領有を巡って、徳川家康、北条氏政・氏直親子らが争った戦いの総称。主に争ったのは徳川家と北条家だが、越後の上杉景勝や旧武田家臣である木曽義昌、真田昌幸らも関わっており、内容が複雑。 経緯と結果、その後: 甲州征伐後、滅亡した甲斐武田家の領地は甲州征伐で軍功があった諸将に分配された。徳川家康は駿河一国、河尻秀隆は穴山梅雪の所領を除く甲斐一国と諏訪郡、滝川一益は上野一国と信濃の佐久と小県の二郡、森長可は北信濃の四郡、木曽義昌は木曽谷ほか信濃二郡をそれぞれ拝領した。そして、武田家臣であった真田昌幸は本領・真田郷が小県郡にあったため、自然と一益のもとに組み込まれ、織田家への臣従を決めていた。しかし、甲州征伐から3ヶ月もたたないうちに本能寺の変が勃発。織田信長が武田遺臣たちを冷遇した経緯から、旧武田領内では武田遺臣による一揆が起こり、河尻秀隆は殺害され、滝川一益、森長可は、信濃、上野からの撤退を余儀なくされた。こうして、甲斐、信濃、上野の多くの土地が領主不在の状態となった。 <上杉景勝の動き> 甲州征伐後、上杉景勝は、西から柴田勝家、南から森長可と織田勢の侵攻を受けることになり、滅亡の危機を迎えた。そんな危機的状況のなか、本能寺の変が勃発。信長横死の報を受けた勝家は落城させたばかりの魚津城から撤退。長可も信濃国人たちの反発を受け、信濃から撤退するという幸運に恵まれた。九死に一生を得た景勝は直ちに魚津城を奪還し、同時に領主不在となった北信濃へも侵攻を開始。そして、上野から滝川一益を追い出して、北信濃へ侵攻してきた北条氏直と争うことになる。しかし、この時、すでに南信濃、甲斐へは徳川家康が侵攻しており、景勝は家康と景勝の挟み撃ちにあうことを避けたかった氏直から和睦を提案される。氏直の提案に対し、景勝は北越で反乱を起こしている新発田重家のこともあって承諾。北信濃四郡を上杉領とし、景勝は川中島より南へは侵攻しないという条件で和睦が成立した。 <北条氏直の動き> 甲州征伐で何も得ることができなかった北条氏直は、信長健在のうちは表向き織田家と良好な関係を保っていたが、上野国に入った滝川一益の風下に立たされた状況に不満を持っていた。そのため、本能寺の変のことを知ると、氏直はすぐに上野国へ侵攻し、神流川の戦いで勝利して、一益を上野、信濃から撤退させた。一益を破ったことで、それまで一益に従っていた真田昌幸ら信濃の佐久郡、小県郡の国人衆を取り込んだ氏直は、そのまま北信濃へも侵攻、そこで越後から南進してきた上杉景勝と争うことになる。しかし、南信濃や甲斐へ侵攻してきた徳川家康への対応もしなければならず、家康との対決を重要視した氏直は信濃四郡を上杉領とすることで景勝と和睦し、家康との信濃・甲斐争奪戦に力を注ぐことになる。 <徳川家康の動き> 本能寺の変を堺の見物から帰京する道中で知った徳川家康は、伊賀越えをして三河に帰国した。そして、信長の仇を討つべく軍勢を率いて上方へ向かったが、山崎の戦いで羽柴秀吉が明智光秀を討ったことを尾張・鳴海で知る。上方へ向かう理由が亡くなった家康は本拠・浜松へ戻ると、織田家中一の有力者となった羽柴秀吉の了承を得て、領主不在となった信濃・甲斐へ侵攻した。甲州征伐後、信長が武田遺臣たちを冷遇したのに対し、家康は武田遺臣たちを保護したこともあって、侵攻は順調に進み、家康は南信濃・甲斐を手中におさめることに成功する。その後、家康は上杉景勝と和睦した北条氏直に北信濃、東甲斐の二方面から侵攻されるが、鳥居元忠、水野勝成らの活躍で黒駒合戦を勝利して危機的事態を乗り切ると、最終的に織田信雄、信孝両者の仲介で、家康の娘・督姫が氏直に嫁ぐこと、信濃・甲斐は徳川、上野は北条が領有するという条件で氏直と和議を結んだ。 <真田昌幸の動き> 甲州征伐後、真田昌幸の所領があった信濃・小県郡は滝川一益の領地となった。そのため、昌幸は織田家に接近して所領を安堵してもらうつもりであったが、それがはっきりしない状態で本能寺の変が起きてしまう。変後、一益が北条氏直に神流川の戦いで敗れ上野、信濃から撤退すると、昌幸は織田家から北条家に鞍替えして北信濃攻略の先鋒となる。氏直が、南信濃、甲斐へと侵攻してきた徳川家康に対抗するため、北信濃で争っていた上杉景勝と和睦すると、昌幸は景勝への備えとして領地に残ったが、氏直が家康に黒駒合戦で敗れると、すでに家康の家臣となっていた弟・信尹の説得もあって、今度は徳川家に鞍替えする。その後、昌幸は守りが薄くなった北条方の上野・沼田城を自力で奪取して領土を拡大し、その後も度々攻め寄せる北条家と交戦した。 <木曽義昌の動き> 武田家一門でありながら織田信長に内応して甲州征伐のきっかけをつくった木曽義昌は、武田家滅亡後、木曽谷と信濃二郡を与えられた。本能寺の変が起こると、義昌は領土拡大を画策し、北信濃や上野から撤退してきた滝川一益、森長可の命を狙うが失敗。結果、義昌は無駄な時間を費やすことになり、深志城(のちの松本城)を上杉景勝に擁立された小笠原貞種(洞雪斎)に奪われるなど後手に回ってしまい、最後は旧主・織田信孝に意向を仰ぎ、徳川家康に属することになった。 乱は勃発から約5ヶ月後に徳川・北条両家の和議をもって一応終結したが、真田昌幸が上野・沼田城を自力で攻略したことが、のちのち問題として残る。小牧・長久手の戦い後、中央情勢の安定をみた北条氏直は、和議の約束通り上野の領有を主張して、徳川家康に対し、徳川方である昌幸の沼田城の引き渡しを要求した。家康は昌幸に沼田城を氏直に引き渡すよう命じたが、昌幸は沼田は自力で切り取った領地であることを理由に代替地をくれない限り命令には従えないとし、最終的には家康の元を離れて上杉景勝のもとへ奔った。このことに激怒した家康は、真田討伐を決め、第一次・上田城の戦いが起こることになる。 |
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主な参戦武将 | |||
徳川方(10000) | 北条方(40000以上) | 上杉方(兵力不明) | 真田方(兵力不明) |
徳川家康 酒井忠次 奥平信昌 鳥居元忠 水野勝成 井伊直政(講和交渉で活躍) |
北条氏政(戦いには不参加) 北条氏直 北条氏邦 北条氏規 |
上杉景勝 |
真田昌幸 真田信幸 矢沢頼綱 |
1583年 賤ヶ岳の戦い 羽柴秀吉 VS 柴田勝家 | |
結果:羽柴秀吉の勝利 場所:近江国 | |
内容: 織田信長の死後、織田家を代表する2人の重臣、羽柴秀吉と柴田勝家の間で起きた戦い。この戦いで勝利した秀吉は、織田家中随一の実力者となり、中央での勢力を確立していく。 経緯と結果、その後: 織田信長の死後、尾張・清洲城で織田家を代表する4人の重臣・柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興による織田家の家督と領地再分配を決める会議が開かれた(清洲会議)。織田家の家督は秀吉が推す三法師(信忠嫡男のちの織田秀信)と勝家が推す信孝(信長三男)の間で争われたが、会議は山崎の戦いで主君の敵討ちを果たした秀吉が主導権を握り、秀吉に長秀、恒興両名が賛同すると、勝家も抗うことができず、織田家の家督は三法師が継ぐことに決まった。勝家が得たものは、秀吉から譲られた長浜城と信長の妹・お市の方のみ。お市の方はその後、勝家の後妻となり正室として迎えられた。 会議後も秀吉と勝家は織田家筆頭の地位をめぐって対立し、勝家がお市の方を喪主として妙心寺で信長の百箇日法要を行えば、秀吉も養子の秀勝(信長四男)を喪主として大徳寺で百箇日法要を行うという状態であった。両者は各将の調略にも乗り出し、秀吉は丹羽長秀、池田恒興、堀秀政、筒井順慶、中川清秀、高山右近、稲葉一鉄らを味方につけ、さらに勝家の背後を突くため越後の上杉景勝を取り込んだ。一方、勝家も与力である前田利家、佐々成政はもちろん、織田信孝、滝川一益らを味方につけ、さらに秀吉の勢力圏を包囲すべく四国の長宗我部元親、紀伊の雑賀衆を取り込んだ。こうして両者の直接対決は避けられないものとなっていく。 以下、直接対決までは下記のとおりに進んでいく。 1582年10月 勝家、冬の到来で行軍が難しくなることを考慮し、前田利家、金森長近、不破直光を使者にたて秀吉と和睦する。 このとき、秀吉は交渉に来た柴田方の三将を調略したという。 1582年12月 秀吉、勝家との和睦を破棄して長浜城を攻め、長浜城主・柴田勝豊を降伏させ、続いて岐阜城の織田信孝も降伏させる。 1583年 1月 滝川一益、柴田方として伊勢で挙兵。秀吉、大軍を率いて一益討伐に赴き、戦いを有利に進めるが、戦局は膠着する。 1583年 2月 勝家、一益らの窮状に耐え切れず、雪解けを待たずに北ノ庄を出陣する。 そして3月、勝家3万の軍が近江国柳ケ瀬に着陣したことを知った秀吉は、長島城の滝川一益の抑えとして織田信雄、蒲生氏郷を伊勢に残すと、5万ともいわれる大軍で近江へ進軍し、木ノ本に布陣した。しかし、その後、両陣営は要所に砦を築いて防衛線を形成、大きな衝突を起こすことはなかった。 約1ヶ月ほど膠着状態がつづき、4月に入ると、一度降伏した岐阜城の織田信孝が秀吉に対して再び挙兵。この動きをきっかけに戦局は再び大きく動き始める。信孝挙兵の報を聞いた秀吉は再び岐阜城を攻めるべく美濃へ侵攻。しかし、秀吉は揖斐川の増水で岐阜城にはたどり着けず、大垣城に入城する。一方、秀吉が美濃へ向かったことを知った勝家は、佐久間盛政の進言もあり、一定の成果を挙げたら一旦兵を退くという条件付きで盛政に羽柴勢への攻撃を許可。命を受けた盛政は大岩山砦の中川清秀を討ち取り、岩崎山の高山右近を退却させるなど羽柴陣営の防衛線の一角を崩すことに成功する。しかし、盛政は丹羽長秀の援軍を得た賤ヶ岳砦の桑山重晴を敗走させるまでには至らず、羽柴方の防衛線を完全に崩すことができなかった。その後、盛政は勝家の帰陣命令を無視し、賤ヶ岳砦を攻略すべく前線に残る選択をする。 盛政の急襲により防衛線の一角が崩れたことを、その日のうちに聞いた秀吉は、直ちに軍を返し、大垣から木ノ本まで約50キロの道のりを約5時間で踏破、帰陣命令を無視して前線に留まっていた盛政を急襲した(美濃大返し)。急襲された盛政は奮戦するが、そのさなか後方の前田利家が突如撤退。後方の支援を失った盛政隊はただ追撃を受けるだけの状態となり総崩れとなる。このとき、勝家本隊は堀秀政が守る左禰山砦を攻めあぐね盛政の救援に行くことができなかった。そして、勝家本隊も盛政隊を破った羽柴勢が押し寄せると戦線を維持できなくなり、遂に撤退を開始した。 勝家が北ノ庄に帰り着いたとき、7千いた兵は百余りになっていたという。その後、北ノ庄城はすぐに前田利家を先鋒とした羽柴勢に包囲され、勝家はお市の方と共に自害。佐久間盛政は捕縛され、本人が望んだこともあり処刑された。岐阜城の織田信孝は北ノ庄城が落城すると、織田信雄の軍勢に包囲され降伏開城。信孝は尾張の野間・大御堂寺(野間大坊)に送られ切腹となった。最後まで抵抗を続けた滝川一益も降伏して剃髪、身柄は丹羽長秀の預かりとなり越前大野に蟄居となった。織田家筆頭となった秀吉は、その後、徐々に織田家をないがしろにし始め、業を煮やした織田信雄が徳川家康と結んだことで小牧・長久手の戦いへと発展していく。 |
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主な参戦武将 | |
羽柴方(50000) | 柴田方(30000) |
羽柴(豊臣)秀吉 羽柴(豊臣)秀長 丹羽長秀 堀秀政 黒田孝高(官兵衛) 石田三成 大谷吉継 中川清秀 高山重友(右近) 桑山重晴 【賤ヶ岳七本槍】 福島正則 加藤清正 加藤嘉明 片桐且元 脇坂安治 平野長泰 糟屋武則 |
柴田勝家 前田利家 佐久間盛政 金森長近 不破直光 |
1584年 沖田畷の戦い 有馬晴信・島津家久 VS 龍造寺隆信 | |
結果:有馬晴信・島津家久の勝利 場所:肥前国 | |
内容: 肥前日野江城主・有馬晴信と「肥前の熊」こと龍造寺隆信の戦い。有馬晴信は島津家の援軍を得て快勝し、隆信を敗死させた。当主と多くの重臣を失った龍造寺家は、これを機に衰退していく。沖田畷の「畷」とは湿田地帯にあるあぜ道をさす。 経緯と結果、その後: 1578年、高城川(耳川)の戦いで大友宗麟は島津義久に敗北。この敗北で宗麟は多くの重臣を失い、大友家は徐々に衰退していく。そして、大友家の衰退と共に島津家と龍造寺家がそれぞれ勢力を伸ばし、両者は大友家の影響を受けなくなった肥後の覇権をかけて争うことになる。そのため、肥後の国人、および肥後に接する国の国人たちは島津家に属するか、龍造寺家に属するか選択をせまられた。そのなか、龍造寺家に属していた筑後柳川城主・蒲池鎮漣が島津家に内通。それを知った龍造寺隆信は鎮漣を罠にかけ謀殺した。龍造寺家にとって柳川城は肥後戦略の重要拠点であったため、隆信が鎮漣を謀殺したのは仕方のないことだったかもしれないが、隆信はその後も鎮漣に連なる一族をことごとく誅殺するという暴挙にでた。鎮漣の父・鑑盛は、かつて国を追われた隆信と隆信の曽祖父・家兼を保護し、龍造寺家復興を手助けした義将であったため、隆信の暴挙は多くの国人たちの反感をかい、龍造寺家を離反する者があらわれた。 その流れの中で、1584年、肥前日野江城主・有馬晴信が島津家に通じて龍造寺家から離反。これを知った龍造寺隆信はすぐさま2万5千の軍勢を招集し、有馬討伐のため出陣した。これに対し、晴信は、肥後・八代まで進出していた島津家に援軍を要請。島津義久は、肥後で対峙していた龍造寺勢力と、衰えたとはいえ油断ならない大友家のこともあり、大軍を派遣することはできる状況ではなかった。しかし、後詰ができなければ島津家の信頼が失墜するおそれがあったため、無視することもできず、末弟・家久を大将とする3千を援軍として派遣した。 こうして島津家久率いる3千の援軍をえた晴信だったが、自軍の3千を加えても6千の軍勢でしかなく、龍造寺軍2万5千には遠く及ばなかった。そのため、晴信は籠城して更なる援軍を待つ後詰決戦を提案するが、家久は城外で敵を迎え撃つことを提案。両者の意見は割れたが、最終的に晴信が家久の提案を受け入れ龍造寺軍を迎え撃つことに決まった。そして、家久が選んだ戦場、それが沖田畷だった。沖田畷は東を海、西は山に挟まれた湿田地帯で、湿田を渡るには中央の畷(あぜ道)と浜手、山手の3本の狭い道しかなく、寡兵で大軍を迎えるには絶好の地形だった。有田、島津勢は龍造寺勢が現れる方角から見て、湿田の出口に当たる場所に防御柵を設けて守備隊を配備、その他、伏兵を置いて龍造寺軍の到着を待った。 有馬・島津連合軍が準備を終えた翌日未明、龍造寺軍2万5千が沖田畷に進出。戦闘は朝8時ごろに開始されたという。敵を寡兵とみた隆信は、数にものをいわせて軍を3つに分け、ひとつは鍋島信生(のちの直茂)に任せて後備とし、残る2つのうち、ひとつは浜手を、もうひとつは主力として自らが率いて中央の畷をそれぞれ前進した。そして、隆信率いる主力が防御柵にとりつこうとした瞬間、防御柵の後方に潜んでいた家久の鉄砲隊が前進してきて反撃を開始、敵を十分に引き付けた反撃は、中央の畷を来た龍造寺主力の先陣を突き崩した。龍造寺主力の先陣は、後退しようとするが、後から押し寄せてくる味方と湿地に阻まれ混乱状態に陥り、その混乱は主力全体に広がった。また浜手を進んでいた龍造寺勢も晴信所有の水軍による海からの砲撃と射撃で混乱状態となる。さら島津家臣・新納忠元率いる一隊が山手を迂回して龍造寺軍の後備である鍋島信生を急襲し、信生を撤退させることにも成功した。こうして龍造寺軍全体が混乱状態となるなか、連合軍はさらなる追撃を開始。そして立ち往生していた隆信を島津家臣・川上忠堅が討ち取り勝敗は決した。 この戦いで龍造寺家は当主の隆信をはじめ、龍造寺四天王と呼ばれる成松信勝、百武賢兼、江里口信常、円城寺信胤ら多くの重臣を失って衰退していく。敗戦後、龍造寺家の家督を継いだ政家は、鍋島信生の進言もあって島津家に事実上、臣従といえる条件で和睦。こうして、島津家は薩摩、大隅、日向、肥後、肥前にまで勢力を広げることになり、九州制覇に向けて大きく前進した。 |
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主な参戦武将 | |
有馬・島津方(有馬軍3000 島津軍3000) | 龍造寺方(25000) |
有馬晴信 【島津援軍】 島津家久 新納忠元 |
龍造寺隆信 鍋島信生(直茂) 成松信勝 百武賢兼 江里口信常 円城寺信胤 木下昌直 |