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合戦 その13 (1614~1615)
おおさかふゆのじん
1614年 大坂冬の陣 徳川家康 vs 豊臣秀頼 | |
結果:徳川主導による和睦 場所:摂津国 | |
内容: 徳川家康による豊臣討伐。1614年の11月から始まり、12月に和睦が成立した。発端となった「木津口川の戦い」それに続く「鴫野・今福の戦い」「博労淵の戦い」「野田・福島の戦い」「真田丸の戦い」などを総称して大坂冬の陣という。 経緯と結果、その後: 関ヶ原の戦いに勝利して絶大な権力を手にした徳川家康は、1603年に征夷大将軍となり江戸に幕府を開いた。目的は、いうまでもなく、主筋である豊臣家に代わり徳川家が天下を治める世をつくるためである。家康が幕府を開く道を選んだのは、かつて平清盛が京で打ち立てた平氏政権を打倒し、関東鎌倉の地に幕府を開いた源頼朝の先例にならおうとしたからだという。家康の将軍就任という行動に、豊臣家は、その真意を測りかね少なからず動揺したが、同年中に、家康が秀吉の遺命に従い、孫娘・千姫(秀忠長女)を秀頼に輿入れさせたことから、秀頼が成人した暁には、家康が政権を豊臣家に返上するであろうと考え、表立った反発は思い留まるに至った。また、関ヶ原の論功行賞で、家康が豊臣家の蔵入地(直轄領)を戦功のあった諸将に分け与えてしまい、豊臣家が220万石から65万石と弱体化していたことも反発に歯止めをかけた一因と考えられる。 1605年、豊臣家の表立った反発がないなか、家康は次の手として将軍職を子・秀忠に譲るという行動に出た。家康の将軍就任からわずか2年後のことである。これには豊臣家も反応せざるを得なかった。なぜなら、秀忠の将軍就任は、将軍職を徳川家が世襲することを天下に示すものであり、徳川による政権の永続性を意味したからである。豊臣家は祝辞の使者を送らないなど抗議を示したが、はなから政権奪取を考えていた家康は意に介さなかった。秀忠に将軍職を譲って大御所と称するようになった家康は、翌06年から豊臣恩顧の加藤清正、福島正則、細川忠興、池田輝政、黒田長政、浅野幸長ら西国大名に江戸城普請を命じ、さらに07年には駿府城の普請、09年には名古屋城の普請も命じて彼らの財力と労力を削いで豊臣家の孤立をはかると同時に幕府の権威を高めていった。 1611年、後陽成天皇が後水尾天皇に譲位。その即位式に出席するために上洛した家康は、秀頼との会見を望み、秀頼に京都二条城へ出仕するよう促した。本来、家臣筋である家康からの呼び出しに、秀頼の生母・淀殿は激怒してこれを拒んだが、この頃になると徳川家と豊臣家の格の差は歴然としており、加藤清正、福島正則、片桐且元らの説得を受けて淀殿も渋々了承し、二人の会見が実現した。会見は和やかな雰囲気のうちに終わったとされるが、京の町には「御所柿はひとり熟して落ちにけり木の下にいて拾う秀頼」という落首が広まり、じきに老いた家康は亡くなり立派な若武者に成長した秀頼が天下をとるだろうといった風聞がたった。家康が、この落首に触発されたかどうかは分からないが、秀頼の威風を感じた家康は、この頃から本気で大坂討伐を意識し始めたという。さらに家康にとって追い風となったのは、豊臣恩顧の有力大名であった加藤清正、浅野長政・幸長親子、池田輝政らが11年から13年にかけて相次いで亡くなり、豊臣家の孤立化が加速したことであった。 1614年8月、大坂討伐の大義名分を模索していた家康に絶好の機会がおとずれる。家康はかねてより秀頼に寺社仏閣の造営事業を勧めており、秀頼はその勧めに従っていた。そのひとつに方広寺があり、そこに奉納した梵鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」が家康を呪詛したものであると林羅山ら有識者が家康に献じたのである。羅山らは「君臣豊楽」を「豊臣を君として楽しむ」と普通に解釈したうえで「国家安康」は家康の名を分断して呪詛したものだと結論づけた(方広寺鐘銘事件)。この事態に豊臣方は、秀頼の傅役である片桐且元、次いで淀殿の側近・大蔵卿局(大野治長の母、淀殿の乳母)を順次、弁明の使者として駿府へ送った。これに対し家康は、先着した且元には会わず、後着した大蔵卿局と先に会い、梵鐘の件にはそれほど触れず、秀頼の身辺を気遣うなど丁重に応対した。だが、その後に会見した且元には梵鐘の件を厳しく批判。この件は豊臣家の徳川家に対する不信が招いたものだとして、両家の親和のため、豊臣家に対して「秀頼を江戸に参勤させる」「淀殿を人質として江戸に送る」「秀頼が大坂城を出て他国に移る」の3つの条件からひとつを選ぶよう且元に言い渡し、大坂へと帰した(3つの条件は親和のため且元が提案したともいわれる)。 且元から3つの条件を聞いた淀殿は激怒。大野治長ら秀頼の側近たちは、大蔵卿局から聞いていた家康の様子からは考えられない条件に且元の内通を疑った。結果、且元は城内に居場所を失い、さらに治長らが暗殺計画を練っていることを知ると、大坂城を退去した。そして、この且元の大坂城退去が、さらなる口実を家康に与えることになる。且元は、家康の命を受け、豊臣家と徳川家の親和のために動いていたわけだが、豊臣家は、その且元を一方的に罷免する形となってしまった。秀頼は、京都所司代・板倉勝重に徳川家と敵対するつもりはないことを伝えたが、大坂討伐の機を窺っていた家康が聞く耳を持つはずもなかった。秀頼と淀殿は、家康の挑発であることは分かりつつも、ここに至ってはやむなしと、全国の大名、浪人に檄を飛ばし、遂に徳川家との対決を決意した。だが、関ヶ原の戦いから14年。豊臣家の権威は幕府によって失墜させられていたといってよく、豊臣家の求めに応じたのは、真田幸村、毛利勝永、長宗我部盛親といった関ヶ原で改易された者や後藤又兵衛、塙団右衛門らのような大名家を出奔した者たち、いわゆる浪人衆で大名で求めに応じた者は誰一人としてなく、兵数だけは10万近くにのぼったものの烏合の衆であった。 家康は、大坂での一連の動きを京都所司代・板倉勝重からの早馬で知り、時節到来と喜んだ。家康は、大坂討伐をかかげ、諸大名に出陣命令を出すと、10月11日には自身も軍勢を率いて駿府を発った。諸大名の多くは江戸にいたが、一旦帰国して軍勢を整えると、それぞれ指定された参集場所へ向かって行軍を開始。その数は豊臣方の倍にあたる20万にのぼった。そのなかにあって豊臣恩顧である福島正則、黒田長政、加藤嘉明、そして旗本の平野長泰らは江戸に留め置かれた。彼らは、関ヶ原では東軍についたものの、それは不仲であった石田三成を討伐するのが目的であったため、秀頼相手では裏切る可能性があった。それを憂慮した家康の命によるものだった。 家康の出陣を受けて大坂城では軍議が開かれた。秀頼の側近である大野治長らは堅城である大坂城に籠城して長期戦に持ち込み、徳川方が疲弊したところで有利な和睦をもちかけることを主張。それに対して浪人衆である真田幸村は、近江国瀬田まで打って出て時間稼ぎをしている間に西国大名を味方につける工作を行い、それがうまくいかなければ籠城することを主張した。後藤又兵衛、毛利勝永ら他の浪人衆も幸村の案に賛成したが、治長らはその案を却下して初めから籠城することを決定した。そして徳川方の城の完全包囲を少しでも阻むため、淀川の堰を切って大坂一帯に広大な湿地を出現させた。唯一、水に覆われなかった城の南側には幸村が真田丸と呼ばれる出城を築いて備えとした(大坂城は上町台地の北端に築かれており南側は台地の平坦部が続いていた)。 家康は、11月15日に京都二条城を発して大坂に入り、18日に先着していた徳川秀忠と真田丸のさらに南方に位置する茶臼山陣城にて軍議を行った。そして翌19日、豊臣方の木津川口砦において戦いの火蓋が切られ(木津川口の戦い)、つづく26日には鴫野・今福で(鴫野・今福の戦い)、29日には博労淵、野田・福島でも戦闘が行われた(博労淵の戦い、野田・福島の戦い)。戦闘は、終始数で勝る徳川方が有利に進め、豊臣方は、今福の戦いで後藤又兵衛、木村重成が徳川方の上杉景勝、佐竹義宣を相手に奮戦したものの、木津川口の戦いでは砦の守将・明石全登が軍議で不在のところをつかれて惨敗し、博労淵の戦いでも砦の守将・薄田兼相が前夜から遊女屋に泊まっていて惨敗するなど醜態もあり、30日には全砦を放棄して全軍が大坂城内に撤退した。その後、豊臣方は12月4日に真田幸村が真田丸において挑発に乗ってきた前田利常、松平忠直、井伊直孝の軍勢に大打撃を与えて一矢報いるも、全体の戦況から言えば局地戦に過ぎず、家康の厳命によって軽率な戦闘をしなくなった徳川方諸将によって塹壕、土塁を築かれ、大坂城は徐々に包囲網を狭められていった。 12月9日、淀川の水を引かせる工事を終わらせ城の包囲をより狭めた家康は、味方の将兵に夜中も鬨の声をあげさせ、さらに火縄銃も発砲させて城内の豊臣方将兵の不眠を誘い、心理的に追い詰める作戦に出た。家康は、有利な立場から兵力を無駄に失うことを嫌い、真田丸での攻防の前日(12月3日)から和睦交渉を豊臣方へ持ちかけていたが、15日に交渉が暗礁にのりあげると、16日からは国友製の大砲、イギリス、オランダから購入した大砲による砲撃も開始した。これに対し豊臣方は、淀殿が甲冑を着て城内を鼓舞して回り、戦闘では塙団右衛門が蜂須賀至鎮の陣を夜襲してそれなりの戦果を挙げたが、徳川方の放った大砲が遂に大坂城淀殿の御座所に命中。目の前で7、8人の女房がなぎ倒され亡くなるのを目の当たりにして戦慄した淀殿は、城内の将兵の疲弊と弾薬不足という物理的な理由も相まって家康の和睦に応じる決意をした。 和睦交渉は、徳川方の京極忠高(高次長男)の陣において、徳川方は本多正純と阿茶局、豊臣方は淀殿の妹・常高院(京極高次正室、忠高義母)を代表として行われた。交渉は徳川主導で行われ、和睦の条件として「大坂城の二の丸と三の丸の堀、および総構えの堀の埋め立て」「籠城の譜代、浪人衆は、すべてお咎めなし」「淀殿が人質として関東に下るには及ばない」「秀頼の安全と本領安堵」などが取り決められた。そのなかで、二の丸、三の丸の破壊については二の丸を豊臣方、三の丸を徳川方が受け持つこととなった。だが、その約束を破って徳川方が二の丸の破壊に手を出したことが大坂夏の陣へと繋がっていくことになる。 |
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主な参戦武将 | |
徳川方(200000) | 豊臣方(90000) |
徳川家康 徳川秀忠 徳川義直 松平忠直 井伊直孝 本多忠政 本多忠朝 榊原康勝 前田利常 伊達政宗 上杉景勝 藤堂高虎 蜂須賀至鎮 佐竹義宣 鍋島勝茂 真田信政 立花宗茂 |
豊臣秀頼 大野治長 大野治房 真田幸村 後藤又兵衛 毛利勝永 明石全登 長宗我部盛親 木村重成 塙団右衛門 薄田兼相 |
1615年 大坂夏の陣 徳川家康 VS 豊臣秀頼 | |
結果:徳川家康の勝利。豊臣家の滅亡。 場所:摂津国 | |
内容: 冬の陣に続く徳川家康による豊臣征伐。この戦いで家康は、豊臣家を滅亡させ徳川の世を盤石なものとした。「樫井の戦い」「道明寺、誉田の戦い」「八尾、若江の戦い」「天王寺、岡山の戦い」などを総称して大坂夏の陣という。 経緯と結果、その後: 1914年の大坂冬の陣は和睦によって終結した。朝廷は、この和睦の仲介を家康に申し出ていたが、家康は和睦が成らなかったとき、朝廷の威信に傷がつくと謝辞して朝廷に介入させず、徳川主導での和睦を推し進めた。戦況から豊臣家は、徳川家に対して譲歩せざる得ない状況であったが、徳川方が出した和睦の条件は「大坂城の二の丸と三の丸の堀、および総構えの堀の埋め立て」「籠城の譜代、浪人衆は、すべてお咎めなし」「淀殿は人質として関東に下るには及ばない」「秀頼の安全と本領安堵」とある程度、豊臣家に配慮したもので、堀の埋め立ても二の丸を豊臣家、三の丸を徳川家が受け持つという豊臣家にとって時間稼ぎができる内容であった。 和睦が成立すると、家康は駿府へ、秀忠は京都伏見へ(のち江戸まで)引き上げたが、本多正純、成瀬正成、安藤直次らが家康の名代として大坂に残り、大坂城の堀の埋め立ての指揮をとった。そして、この三人の行動が再び徳川家と豊臣家の対立を生むことになる。先述した通り、堀の埋め立ては二の丸を豊臣家、三の丸を徳川家が受け持つことになっていたが、正純らは早々に三の丸の堀を埋め立てると「手伝い」と称して二の丸の堀まで埋めてしまったのである。この動きにすぐさま反応したのは大坂城に籠る浪人衆だった。二の丸さえ健在ならば堅城として最低限の機能を維持しつつ再戦に臨める、すなわち武功を挙げて大名といかないまでも所領を得られる機会がまだあると考えていた浪人衆たちは、徳川方の行動に猛反発、埋められた堀を掘り返すなどの行動に出た。徳川方からすれば、約定を違えたとはいえ、二の丸の堀を埋めたことは最終的にそうなるものを手伝ったに過ぎない。しかし、豊臣方の浪人衆のしたことは完全に徳川家に敵対するものであった。そのため、京都所司代・板倉勝重より大坂の様子を伝え聞いた家康は、豊臣方を激しく糾弾。1615年3月下旬、家康は豊臣方に対して秀頼が伊勢か大和に国替えするか、浪人衆を残らず召し放すか、どちらかを選ぶよう迫った。もちろん、二の丸の堀の埋め立てに端を発したこれらの騒動は、家康の筋書どおりであったことはいうまでもない。 4月1日、家康は、九男・義直の婚儀のため駿府を発ち名古屋へ向かった。翌5日、豊臣方・大野治長の使者が家康のもとを訪れ、国替えも浪人衆の召し放しも応じることができないことを家康に伝えた。治長自身は穏健派だったが、もはや暴走する浪人衆たちの歯止めがきかず、家康の条件をのめば、主君である秀頼や淀殿の安全が保証できる状態ではなかったともいわれる。豊臣方がそのような状況になっていたことを家康が知っていたかは定かでないが、家康は常高院を通じて豊臣方に「其の儀においては是非なき仕合せ(そういうことならどうしようもない)」と返答し、諸大名へ軍勢を率いて再び上方へのぼるよう命を下した。このとき、冬の陣では豊臣方に寝返る可能性があるとして江戸に留め置かれた福島正則、黒田長政、加藤嘉明は、長政と嘉明のみ出陣が認められ、正則は引き続き江戸に留め置かれた。4月10日、秀忠が軍勢を率いて江戸を出発、21日に京都伏見に先着していた家康と合流を果たす。家康と秀忠は、そこで本多正信、正純親子、藤堂高虎らと軍議を行い、河内口と大和口の二ヶ所から大坂へ入ることが決められ、紀伊の浅野長晟にも北上して大坂へ向かうよう出陣命令を下した。徳川方の兵力は冬の陣ほどではなかったものの、その数は15万にのぼった。 一方、徳川方の動きを察知した豊臣方は、大坂城がもはや籠城に仕える状態ではなかったため、早々に野戦で迎え撃つことを決める。冬の陣では烏合の衆とはいえ10万にのぼった兵力も、召し放しに応じた者や勝ち目がないとみて退去した者がでたため5万5千まで減少した。退去したの者の中には、浪人衆ではなく、淀殿の身内として最後まで徳川家との親和の道を模索していた織田有楽斎の姿もあった。豊臣方は城に残った者に金銀と武具を与えて迎撃の準備を整えた。 徳川方と豊臣方が直接最初にぶつかったのは4月29日。紀伊から大坂へ向けて北上していた浅野長晟率いる5千の軍勢が、出撃してきた豊臣方・大野治房率いる3千を和泉国樫井で迎え撃つ形で始まった。豊臣方は先鋒を塙団右衛門ら数人の指揮官が率いていたが、武功を争うあまり連携を欠き、団右衛門が討死するなど、豊臣方の先鋒は惨敗した。浅野勢はこのとき、豊臣方を2万と誤認しており、先鋒を崩した後は戦場から一時後退した。そのため、後備であった治房が到着したころには浅野勢の姿はなく、最終的に治房は大坂へ引き返した(樫井の戦い)。 5月5日、遂に家康が京都伏見より出陣。軍議で決められた通り、軍勢を河内口と大和口に分け進軍を開始した。このとき、家康は戦いは3日もあれば決着すると読んでおり、3日程度の腰兵糧しか用意せず、その内容は米5升、干鯛1枚、味噌、鰹節、香の物であったという。そして5月6日、河内口、大和口ともに戦闘に突入した。 この日の大坂城近辺は朝から濃い霧に包まれていたという。河内口から侵攻した井伊直孝、藤堂高虎ら徳川方諸隊5万5千を迎え撃った豊臣方諸将は木村重成、長宗我部盛親らであった。重成、盛親両将は、徳川方の大軍を展開しずらい場所で迎え撃つため、低湿地帯が広がる八尾・若江方面に進出した。徳川方の先鋒・井伊直孝、藤堂高虎は、家康より戦闘をなるべく避けるよう命を受けていたが、高虎は木村隊が家康と秀忠の本営を急襲する動きを見せていたため戦うことし、戦闘に突入した。だが、木村隊、長宗我部隊の攻撃は凄まじく、藤堂隊は大打撃を受け後退を余儀なくされる。だが、徳川方のもうひとりの先鋒・井伊直孝が藤堂隊後退後に戦闘に参加すると木村隊は崩れ、重成は自ら槍を取って井伊隊に痛撃を与えるも討死した。重成討死の報を受けた長宗我部盛親は、井伊隊と後続の徳川方諸隊に包囲されることを危惧して大坂城へ撤退した(八尾・若江の戦い)。 一方、大和口から侵攻した伊達政宗、松平忠明、水野勝成ら徳川方諸隊3万5千の軍勢を迎え撃った豊臣方諸将は、真田幸村、毛利勝永、後藤又兵衛、明石全登、薄田兼相らであった。豊臣方は道明寺付近に終結して払暁に徳川方を迎え撃つ予定であったが、濃霧のために行軍が乱れ、後藤又兵衛のみが払暁前に道明寺に到着した。すでに徳川方が迫っていることを知った又兵衛は、単独で迎え撃つ覚悟をし、小松山まで前進して伊達政宗、松平忠明、水野勝成と戦闘に突入した。又兵衛は2千8百の兵で2万以上と渡り合い、水野勝成麾下の奥田忠次を討ち取るなど奮戦したが、伊達政宗隊の先鋒・片倉重長が押し寄せると、耐えきれなくなり討死した。後藤隊壊滅後、到着した薄田兼相も大太刀を振るって奮戦するも討死している。後藤隊、薄田隊壊滅後、ようやく到着した真田幸村は、勢いに乗る片倉重長隊に痛撃を与えてその進撃を止めるが、八尾・若江で徳川方と戦っていた木村重成の討死と長宗我部盛親の撤退を知った大坂城からの命により天王寺方面へ兵を退いた(道明寺・誉田の戦い)。 5月7日、敗色が濃くなるなか、豊臣方諸隊は天王寺口、岡山口に布陣した。天王寺口方面は茶臼山に真田幸村を大将とした諸隊約1万、その北東、天王寺南門付近に後藤隊、木村隊の敗残兵を含む毛利勝永6千5百、真田隊、毛利隊の後方には明石全登。そして岡山口には大野治房を大将とした諸隊4千6百、そのほか七手組と呼ばれる豊臣の精鋭ら合わせて5万が徳川方15万の前に布陣した。戦いは正午過ぎ、毛利隊が物見のために前線に出てきた本多忠朝隊を銃撃して始まった。数に劣る豊臣方は、とにかく前進して家康、秀忠の首級をあげるほか勝利の道はない。毛利隊は凄まじい突撃を見せ、本多忠朝を討ち取ると、さらにその後方に備えていた小笠原秀政隊を攻撃、秀政に重傷を負わせ(のちに秀政は死亡)、天王寺口に布陣した徳川方の前線部隊を混乱に陥れた。その機に応じて茶臼山の真田幸村隊も突撃を開始。松平忠直隊を突っ切って家康の本陣に迫った。予想外の猛攻に家康の本陣は混乱、その混乱ぶりは三方ヶ原の戦い以降、倒れたことがない家康の馬印が倒れて一時家康を見失うほどで、家康も逃げながら切腹を口にするほどだったという。だが、最後は多勢に無勢、幸村も力尽き、後退して休んでいた安居神社で松平忠直勢に討たれた。善戦していた毛利隊も真田隊壊滅を知ると後退を開始。勝永は迫る徳川方諸隊の猛追をかわして大坂城へ帰城した。一方、岡山口でも立花宗茂の進言を聞き入れなかったことで秀忠の本陣が大野治房の攻撃を受けるが、兵力差から治房も大坂城への撤退を余儀なくされた。ちなみに真田隊、毛利隊の後方に備えていた明石全登は、徳川方・水野勝成隊を突破して戦場を離脱し消息を絶っている(天王寺・岡山の戦い)。 敗戦を聞いた大坂城では、秀頼と淀殿が自害の覚悟を固めていた。穏健派だった大野治長は、秀頼と淀殿に一旦自害を思い留まらせ、秀頼の正室となっていた家康の孫娘・千姫(秀忠娘)に助命嘆願を家康に願い出てもらうこととし、大坂城を脱出させた。だが、願い空しく、家康の返答は「否」だった(家康はためらったが、秀忠が許さなかったとも)。秀頼と淀殿は徳川方の手勢が迫ると、助命嘆願が叶わなかったことを悟り自害。豊臣家は滅亡した。このとき、治長、大蔵卿局、毛利勝永も共に自害した。同じく大坂城にいた長宗我部盛親は敵陣を突破して逃亡をはかるが、潜伏していた京都で捕らわれ処刑された。こうして大阪夏の陣は、家康が京都伏見から出陣するときに言っていたとおり3日で終結した。豊臣家を滅ばしたことで、徳川の世は盤石なものとなり、1853年に黒船が来航し、67年に江戸幕府が滅ぶまでの約250年間、泰平の世が続いていくことになる。 |
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主な参戦武将 | |
徳川方(150000) | 豊臣方(55000) |
徳川家康 徳川秀忠 徳川義直 松平忠輝 松平忠直 松平忠明 井伊直孝 本多忠政 本多忠朝 榊原康勝 前田利常 伊達政宗 黒田長政 細川忠興 加藤嘉明 藤堂高虎 浅野長晟 小笠原秀政 立花宗茂 |
豊臣秀頼 大野治長 大野治房 真田幸村 後藤又兵衛 毛利勝永 明石全登 長宗我部盛親 木村重成 塙団右衛門 薄田兼相 |