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合戦 その1 (1493~1543) 


ほりこしきょかんのたたかい

1493年 堀越居館の戦い  北条早雲 VS 足利茶々丸
結果:北条早雲の勝利     場所:伊豆国
内容:
 伊勢新九郎こと北条早雲による「伊豆討入り」ともいわれる戦い。関東における戦国時代の幕開けと位置づけられている。かつては、早雲が下剋上を成し遂げて、伊豆を平定したように描かれてきたが、近年では、幕府との連携があったとされる。

経緯と結果、その後:
 1491年、伊豆国堀越に居を構えていた堀越公方・足利政知が死去。その跡を政知の子・潤童子が継ぐ予定だったが、潤童子の異母兄・茶々丸が潤童子と継母を殺害して強引に堀越公方となった。潤童子には同母兄もいたが、叔父にあたる室町幕府8代将軍・足利義政の意向で上洛して出家しており、「清晃」と名乗って生き延びていた。

 1493年、細川政元による明応の政変で10代将軍・足利義材(義稙)が幽閉されると、清晃が政元らに擁立されて室町幕府11代将軍に就任する。こうして、のちに義澄と名乗ることになる清晃の命により、弟と母の仇ということで、当時、今川家の客将で幕臣でもあった早雲に茶々丸討伐の命が下った。早雲は、自身の手勢200と今川氏親からの援軍300で堀越居館を急襲。茶々丸は逃亡するが、のちに甲斐国で捕捉され自害したという。

 勝利した早雲は、韮山城を築城、そこを拠点として四公六民の税制を敷き、民衆の支持を得て、短期間で伊豆を平定した。しかし、伊豆の平定により戦国大名・北条家が誕生したというわけではなく、早雲はその後も今川家の客将として遠江遠征などに参加している。早雲は、相模の平定に乗り出した1509年あたりから今川家の客将としての行動は徐々にしなくなるものの、生涯伊勢姓を名乗っており、北条姓を名乗って今川家より独立するのは早雲の子・氏綱の代になってからである。
主な参戦武将
北条方 (北条軍200 今川援軍 300) 堀越公方 (兵力不明)
北条早雲
足利茶々丸




くずりゅうがわのたたかい

1506年 九頭竜川の戦い  朝倉宗滴 VS 北陸一向一揆
結果:朝倉宗滴の勝利     場所:越前国
内容:
 越前に侵攻してきた北陸一向宗(加賀、能登、越中)と越前・朝倉家との間に起きた戦い。一向宗の越前侵攻には、朝倉家と敵対していた管領・細川政元が、本願寺と同盟関係であったことが大きく影響していたとされる。

経緯と結果、その後:
 1488年、加賀で一向一揆が発生し、守護・富樫正親が自害に追い込まれて仏法領国が誕生した。その後、一向一揆は能登、越中にも拡大。さらに越前にも侵攻し始め、朝倉家との間で一進一退の攻防が繰り広げられるようになる。

 1506年、一向宗30万(数には誇張があると思われる)の軍勢が越前に侵攻。これに対し、朝倉家当主・貞景は、宗滴(教景)を総大将とする約1万(数には諸説あり)の軍勢を派遣し、両軍は九頭竜川を挟んで対峙した。数で劣勢な朝倉軍は、宗滴指揮のもと、夜半に渡河して奇襲を敢行、これが見事に成功して一揆勢を敗走させ、越前における一向宗の拠点・吉崎御坊も破壊するという大戦果を挙げた。
 
 この戦いで宗滴は、武名を大いに高め、朝倉家随一の名将として貞景の孫・義景の時代まで、朝倉家の柱石として活躍していくことになる。
主な参戦武将
朝倉方 (朝倉軍8000~16000) 北陸一向宗 (一向宗 約300000?)
朝倉宗滴(教景)


加賀一向一揆
能登一向一揆
越中一向一揆




ふなおかやまのたたかい

1511年 船岡山の戦い  足利義稙 VS 足利義澄
結果:足利義稙の勝利     場所:山城国
内容:
 室町幕府10代将軍・足利義稙と11代将軍・義澄の間で起きた将軍職をかけた戦い。義稙には細川高国、義澄には細川澄元がそれぞれ後ろ盾となり、管領・細川家(京兆家)の家督争いも兼ねていた。

経緯と結果、その後:
 1493年、足利義稙は、対立していた管領・細川政元に幽閉され、義澄が新たな将軍として擁立された(明応の政変)。しかし、1507年、絶大な権力を手にしていた政元は、実子がいなかったことで養子にした澄之、澄元、高国、三人の間で起きた細川吉兆家の家督争いに巻き込まれ、澄之を支持する者たちに暗殺されてしまう(永正の錯乱)。その後、政元暗殺に関与した澄之は、澄元と高国に討ち取られ、管領には高国の了承を得て澄元が就任し、事態は収束に向かった。だが、密かに京を脱出して西国の大大名・大内義興のもとに身を寄せていた義稙が、この混乱に乗じ、義興の助力を得て上洛を開始すると、状況が一変、これまで澄元に従っていた高国が義稙、義興に通じてその支持にまわり、義澄と澄元を京から追放するに至った。京へ入った高国と義興は、義稙を将軍職に復帰させ、その功で高国が新たな管領に就任、義興は管領代、山城守護となった。

 その後、京を追われた義澄、澄元は、六角高頼の保護を受けて反撃を開始。その勢いに押され、義稙らは一時丹波への撤退を余儀なくされる。しかし、義稙方は2万以上の兵力を維持していたため、体制を立て直すと再び京を目指して進軍した。これに対して澄元は船岡山に陣取って迎撃態勢をとるものの、決戦直前に義澄が病死。それに伴い擁護者であった六角高頼が義稙方へ寝返ったため、澄元は6千あまりの兵しか集めることができず敗退し、京は再び義稙の手中に収まった。

 義稙を推して上洛を果たした大内義興には、出雲の尼子経久をはじめ、毛利、吉川、小早川、安芸武田など、安芸の国人領主が多く従っていた。戦後、義興は、しばらく在京して京の治安維持につとめたが、従えていた国人領主で、京での滞在が維持できなくなった者たちの無断帰国が相次いだ。さらに出雲の尼子経久が勢力を拡大し、大内領を脅かし始めると、義興は領国経営を優先し、管領代を辞して帰国した。義興の帰国後、強力な後ろ盾を失った義稙と高国は対立。その対立に一時阿波に逃れていた澄元が加わり、京は再び混乱の渦に飲み込まれていく。
主な参戦武将
足利義稙方 (20000以上) 足利義澄方 (6000)
細川高国
大内義興
尼子経久
武田元繁
毛利興元
吉川国経
小早川弘平
細川澄元









ありたながいでのたたかい

1517年 有田中井出の戦い  毛利元就 VS 武田元繁
結果:毛利元就の勝利     場所:安芸国
内容:
 大内義興に従っていた毛利元就尼子経久の援護を受けて義興に反旗を翻した武田元繁の戦い。毛利元就の初陣で「西国の桶狭間」といわれる。この戦いで、元就の武勇と知略が安芸国内に知れ渡った。

経緯と結果、その後:
 1508年、西国一の大名・大内義興は、細川政元によって京を追われた室町幕府10代将軍・足利義稙を奉じて上洛、1511年の船岡山の戦いに勝利して義稙を将軍に復帰させ、自分は管領代・山城守護となって在京した。

 その後、義興に従って上洛していた尼子経久が出雲に帰国。すると、経久は義興不在をいいことに安芸で暗躍して紛争を続発させる。これに対し、義興は、安芸の旧守護代・安芸武田家の当主・元繁に鎮圧を命じて帰国させたが、元繁はこれをかつての栄華を取り戻す機会と考え、逆に経久の援護を受けて反旗を翻し、大内領への侵攻を開始した。

 非常の事態に義興は、大内方の安芸の国人・毛利興元吉川元経に元繁の反乱鎮圧を命じる。命を受けた両者は、手始めに武田方の有田城を攻め、これを攻略したが、その直後に毛利興元が急死する。興元の死を受けて毛利家の家督は嫡男・幸松丸が継ぐものの、まだ2歳と幼少であったため、興元の弟・元就が後見人となり、事実上の毛利家指導者となった。

 興元の急死を知った元繁は、その混乱に乗じて有田城奪還を狙い、5千の兵を率いて有田城を包囲。これに対して元就は毛利本軍850と吉川家からの援軍300で有田へ向かい、まずは武田方の勇将・熊谷元直率いる兵500と交戦し元直を討ち取った。元直を討ち取った毛利・吉川連合軍はさらに進軍。そして有田城の麓で五段構えの陣を敷く元繁本隊約4千と対峙した。

 戦いの序盤は、数で勝る武田軍が鶴翼の陣で毛利・吉川連合軍を包囲しようかという勢いを見せたが、元就の勇戦により毛利・吉川連合軍は粘りを見せる。すると、業を煮やした元繁は、兵を鼓舞するため、自ら最前線へ出て奮戦。しかし、最前線に出たのが仇となり、元繁は元就の命じた弓の一斉射撃により討死、総大将を失った武田軍は総崩れとなり潰走した。こうして戦いは毛利・吉川連合軍の奇跡的大勝利に終わり、元就が武名を高めた一方、当主を失った安芸武田家は、これを機に衰退していくことになる。
主な参戦武将
毛利方(1150) 安芸武田方(5000)
【毛利軍(850)
毛利元就
相合元網
桂元澄
渡辺勝

【吉川軍(300)
宮庄経友

武田元繁
熊谷元直










かがみやまじょうのたたかい

1523年 鏡山城の戦い  尼子経久 VS 大内義興
結果:尼子経久の勝利     場所:安芸国
内容:
 出雲の尼子経久と周防・長門の大内義興の安芸における勢力争いのひとつ。のちに中国地方の覇者となる毛利元就も尼子方の先鋒として参加した。

経緯と結果、その後:
 当時、鏡山城は大内家の安芸における拠点。尼子経久は、大内義興が九州北部へ出陣している隙をついて鏡山城の攻略を決め、縁戚関係にあった吉川国経ら安芸の国人衆を従えて侵攻した。大内家に属していた毛利家も、この時ばかりは勢いのある尼子家には逆らえず、当主・幸松丸と後見役である元就は経久の元へ参陣したが、これまで大内家に従っていたことが仇となり、軍議で矢面に立たされ、城攻めの先鋒を命じられた。

 幸松丸に代わって軍の指揮をとることになった元就は、力攻めでの攻略を試みるが、鏡山城は思いのほか堅城で味方の被害は増えるばかり。そこで鏡山城の城主・蔵田房信の叔父で副将の蔵田直信を蔵田家の家督を継がせることを条件に内応させ城内に侵入した。

 城内への侵入を許した城主・房信は抵抗を試みるも、落城が避けられないことを悟ると、自身の命と引き換えに妻子と城兵の助命を嘆願。経久はこれを認めたが、内応した直信は、私利私欲に走った裏切り者として処刑したため、直信との約定を守れなかった元就は面目をつぶされた。のちに、この戦後処理が、元就の経久に対する不信をつのらせ、元就が再び大内家に従う要因のひとつになったとされる。また、この時の元就の調略を聞いた経久も、元就の知略を警戒するようになったといわれる。
主な参戦武将
尼子方 (尼子軍・戦力不明 毛利軍等4000) 大内方 (兵力不明)
尼子経久
毛利元就

蔵田房信
蔵田直信




はなくらのらん

1536年 花倉の乱  梅岳承芳(今川義元) VS 玄広恵探
結果:梅岳承芳の勝利     場所:駿河国
内容:
 梅岳承芳と玄公恵探(梅岳承芳の異母兄)との間で起きた今川家の家督争い。この戦いに勝利した梅岳承芳は、今川義元と名乗りを変え今川家の全盛を築いていく。

経緯と結果、その後:
 1536年、今川家10代当主・今川氏輝と氏輝の弟で高位継承者・彦五郎が同日に亡くなるという不可解な事件が起こる(毒殺説あり)。そのため、今川家の家督を巡って、氏輝、彦五郎の弟である梅岳承芳と玄公恵探が争うことになった。

 今川家9代当主・氏親の正室である寿桂尼は、太源雪斎と手を組み、実子である梅岳承芳を還俗させて今川義元と名乗らせ、家督を継がせようとするが、これに玄公恵探と恵探の母の実家・福島家(福島正成?)が猛反発。恵探と福島家は久能山で挙兵し、今川館を攻撃した。しかし、義元の母・寿桂尼が正室であったことが大きく影響し、多くの重臣たちは義元を支持。そのため、恵探方は館を落とすことができず、上ノ方城と花倉城に撤退して抵抗を続けることになった。

 これに対して義元は、相模の北条家を味方につけて上ノ方城を攻撃し、これを落城させる。上ノ方城を落とされた恵探方は、たちまち総崩れとなり、花倉城にいた恵探は城を捨てて逃亡、しかし最後は追い詰められ、普門寺で自害した。恵探の自害後、義元は恵探に同調した遠江の反乱分子も制圧して家督の相続を宣言、遠江、駿河を支配下におき、「東海一の弓取り」と謳われるまでの名将へなっていく。
主な参戦武将
義元方 (兵力不明) 玄公恵探方 (兵力不明)
今川義元
太源雪斎
岡部親綱
玄公恵探
福島正成




だいいちじこうのだいのたたかい

1538年 第一次 国府台の戦い  北条氏綱 VS 足利義明
結果:北条氏綱の勝利。     場所:下総国
内容:
 新興勢力・北条氏綱と小弓公方・足利義明の戦い。義明の後ろ盾となっていた真里谷家の家督争いに端を発し、北条方には義明と対立していた古河公方・足利晴氏も加わっていた。勝利した氏綱は、伊豆、相模、武蔵の一部に加え、下総にまで勢力を広げ、北条家が関東覇者へとなっていく第一歩を踏み出した。

経緯と結果、その後:
 足利義明は古河公方・足利政氏の子で、若い頃は僧籍に入っていたが、父・政氏と兄・高基が対立すると還俗し、上総の有力国人・真里谷恕鑑の支援を受けて小弓公方を自称した。義明は鎌倉を目指したため、鎌倉を制圧していた北条氏綱との緊張が高まるが、当時の関東は、北条家、山内上杉家、扇谷上杉家、安房里見家、古河公方、小弓公方、それ以外にも有力国人たちがしのぎを削っている状況で、各々がその時の利害に応じて離合集散を繰り返していた。

 1534年、義明の後ろ盾であった恕鑑が病没すると、真里谷家では信隆信応の家督争いが起こり、信隆を氏綱が、信応を義明が支持したことで氏綱と義明は本格的に対立する。さらに氏綱が扇谷上杉家の居城・河越城を落とすと、義明は扇谷上杉家を支援し、北条家がこれ以上の脅威となる前に氏綱と対決する決意をした。この動きに対し、安房の里見義尭は、かつて氏綱の支援を受けて里見家の家督を継いだ経緯があったが、真里谷家の家督相続では信応を支持していたため、これを機に北条家とは手を切り義明に味方した。

 1538年、義明は義尭、信応ら1万の軍勢を従えて国府台城に入城。これを受けて氏綱も2万の軍勢を従えて江戸城に入城した。小弓軍(足利方)は、軍議で江戸川を渡河してくる北条軍を討つことで合意したが、義尭が渡河中に攻撃を加えることを主張したのに対し、義明は名門としての矜持からか渡河し終わってから正々堂々と迎え撃つことを主張。不満に思った義尭は敗戦に巻き込まれるのを避けるため、用心と称して撤退が安易な場所に陣を動かすなど、戦う前から小弓軍は足並みが揃わない状態だった。

 戦闘が始まると、小弓軍は義明が主張した通り、渡河し終えた北条軍を迎え撃った。序盤こそ有利に戦いを進めた小弓軍であったが、次第に数で勝る北条軍に押し返され、身内の討死に逆上して突撃をかけた義明は北条軍の弓矢によって討死した。そして、「義明討死」の報を受けた義尭は、一兵も損なうことなく戦場を離脱。戦いは北条軍の大勝に終わった。

 戦後、北条氏綱は小弓城、真里谷城を手に入れ、下総まで勢力を拡大する。また無傷で撤退した里見義尭も空白地となった久留里城、大多喜城を手に入れ房総半島のほとんどを手中におさめた。
主な参戦武将
北条方(20000) 足利方(10000)
北条氏綱
北条氏康
北条幻庵(長綱)
足利晴氏
真里谷信隆
足利義明
里見義尭
正木時茂
真里谷信応




よしだこおりやまじょうのたたかい

1540年~1541年 吉田郡山城の戦い  毛利元就 VS 尼子詮久(晴久)
結果:毛利元就の勝利     場所:安芸国
内容:
 安芸の毛利元就と出雲の尼子詮久(晴久)との間で行われた戦い。当時の安芸国内は、毛利家をはじめ、多くの国人領主たちでひしめき合っており、出雲の尼子家、周防・長門の大内家のどちらかに属して鎬を削っていた。1540年の時点では、尼子家に勢いがあり、ほとんどの国人たちが尼子家に従うなか、毛利家だけが大内家に従っていた。

経緯と結果、その後:
 鏡山城の戦い以降、毛利家は尼子家に服属していたが、毛利元就の尼子経久に対する不信は、鏡山城の戦いでの仕打ちや元就の家督相続への介入などで高まり、1537年の経久隠居をきっかけに、元就は大内義隆に服属することを決めた。経久から家督を譲られた詮久(のち晴久)は、このことに激怒し、経久や大叔父・久幸の制止も聞かず、1540年8月、毛利家の本拠・吉田郡山城への進軍を開始した。9月に入り、尼子勢が郡山城に迫ると、元就は、大内家へ援軍を要請し、民と共に郡山城に籠城した。

 郡山城に籠った毛利勢は8千にのぼったが、その7割が女子供を含む民で、精鋭は2千4百といわれる。これに対し、詮久は3万の大軍でこれを攻めたが、頑強な抵抗にあって攻めきれず、12月に入って大内家の重臣・陶隆房(のち晴賢)率いる毛利方援軍1万が到着すると、尼子勢は遠征の疲れと本格的な冬の到来で劣勢となった。

 年が明けた1541年1月13日、尼子勢の疲労ぶりに好機到来と見た元就は、隆房と呼応して尼子軍に襲い掛かった。毛利軍は吉川興経の抵抗にあうものの、上々の戦果を挙げ、大内軍も尼子本陣に奇襲をかけて尼子久幸を討ち取るなど大戦果を挙げた。後手に回ってしまった詮久は久幸が時間を稼いでくれた間に体制を整えるが、味方の士気の低下と不利な状況に撤退を決意、戦いは毛利・大内連合の大勝利に終わった。

 戦後、尼子家に味方していた安芸の国人領主のほとんどが、大内家に属すことになり、勢力図が大きく変わる。これを好機と見た陶隆房は、尼子討伐のため、出雲侵攻を主君・義隆に進言。義隆がこれを聞き入れ大規模な遠征が行われることになる。
主な参戦武将
毛利方 (毛利軍2400 大内援軍10000) 尼子方 (尼子軍30000)
毛利元就
宍戸隆家
国司元相
小早川興景

【大内援軍】
陶隆房
尼子詮久(晴久)
尼子久幸
吉川興経






てんぶんのらん

1542年 天文の乱  伊達晴宗 VS 伊達稙宗
結果:伊達晴宗の勝利     場所:陸奥国
内容:
 伊達家14代・伊達稙宗と嫡男・晴宗との間で起きた争い。当時、奥羽における伊達家の影響力は大きく、諸大名を巻き込んだ大乱は、6年にも及んだ。

経緯と結果、その後:
 伊達稙宗は、政略結婚を主とした巧みな外交で、蘆名、最上、相馬、大崎、葛西ら南奥羽の諸大名を傘下に置き、陸奥守護職の地位まで獲得したが、娘婿のひとりである相馬顕胤に伊達領の一部を与えようとしたことや、三男・実元に有力家臣100人を随行させて、越後守護・上杉定実の養子に送り込もうとしたことが、伊達家の弱体を招くとして嫡男・晴宗の猛反発を招いた。

 晴宗は、稙宗の政策に反対する中野宗時ら重臣たちの支持を受け、稙宗を桑折西山城に幽閉するが、稙宗を支持する小梁川宗朝らに稙宗を奪還され、その後、稙宗が血縁関係にあった大名らに救援を求めたことで、親子の対立は、南奥羽全体を巻き込む大乱へと発展した。

 序盤は多くの大名を味方につけた稙宗が優勢であったが、内部は一枚岩とはいかず、そのなかで蘆名盛氏田村隆顕が領地の境・中通りで衝突。稙宗は、この争いを収拾できず、結果、盛氏が晴宗方に寝返ってしまう。最有力大名であった盛氏の寝返りは、他の諸将の離反も招き、稙宗にとって大きな痛手となった。状況は次第に晴宗が逆転し、最後は室町幕府13代将軍・足利義輝の仲裁を受けて稙宗は隠居、晴宗が伊達家15代当主となることで決着した。

 乱の終結後、混乱に乗じて勢力を伸ばした蘆名、最上、相馬が伊達家から独立し、伊達家は衰弱する。伊達家が一連の騒動を収拾して、再び勢力を盛り返すのは輝宗(晴宗嫡男)の時代に入ってからだった。
主な参戦武将
晴宗方(兵力不明) 稙宗方(兵力不明)
伊達晴宗
中野宗時



伊達稙宗
小梁川宗朝

【奥羽諸将】
田村隆顕
相馬顕胤
蘆名盛氏(のち晴宗方へ寝返り)




だいいちじ がっさんとだじょうのたたかい

1543年 第一次 月山富田城の戦い  尼子晴久 VS 大内義隆
結果:尼子晴久の勝利     場所:出雲国
内容:
 出雲の尼子晴久と周防・長門の大内義隆、当時の中国地方を代表する2大勢力の戦い。敗北した大内義隆は、これを機に積極的な行動をとらなくなり、武断派の重臣・陶隆房(のちの晴賢)との溝を深めていくことになる。

経緯と結果、その後:
 1540年、尼子晴久は、吉田郡山城の戦いで大内・毛利連合軍に大敗。結果、安芸、備後、石見、出雲の国人の多くが大内家に寝返った。これを好機と見た大内家の重臣・陶隆房(のちの晴賢)は、主君・義隆に出雲への進軍を提案。義隆は、これを了承して自らも出陣することを決め、1542年1月に山口を発し、出雲へ向かった。

 しかし、大内軍の進軍は非常に遅く、また、尼子家に忠誠を誓っていた者たちの抵抗もあって、月山富田城を臨める京羅木山に布陣したのは、山口を出陣してから1年以上過ぎた1543年2月のことだった。そこから月山富田城への総攻撃に移ったものの、城の抵抗は激しく、毛利元就ら大内方の諸将は各所で撃破され、糧道まで絶たれてしまう。さらに、吉田郡山城の戦い以前は尼子方だった吉川興経本城常光らが再び尼子方へ寝返り、戦うふりをして月山富田城へ入城するという事態まで起こった。相次ぐ想定外の出来事に形勢不利を悟った義隆は、やむを得ず全軍撤退を決意。しかし、尼子方の猛追は激しく、撤退戦は熾烈を極め、義隆は養嗣子・晴持を失うなど大敗北を喫した。

 帰国した義隆は失意と恐怖の体験で勢力拡大どころか、内政にも興味をなくし、文治派の相良武任らを重用し始め、陶隆房、内藤興盛ら武断派は遠ざけられた。結果、家中に武断派と文治派の対立を生むことになり、隆房の謀反を招くことになる。また、殿(しんがり)を命じられた毛利元就も、猛追を受け、無事帰国を果たすものの、その過程で渡辺通ら忠義の士を多く失った。元就は、この敗北を機に大内、尼子両家に少しでも抵抗できるよう安芸での勢力拡大に乗り出し、安芸の有力国人・小早川家と吉川家の乗っ取りに動き出した。
主な参戦武将
尼子方(約15000) 大内方(約45000)
尼子晴久
尼子国久
尼子誠久

大内方より寝返り】
吉川興経
本城常光

大内義隆
陶隆房
内藤興盛
毛利元就
毛利隆元
国司元相
渡辺通
小早川正平