一九九九年九月二十日
今日 人を支配し、牛耳(ぎゅうじ)っているのは、殆(ほとん)どが、物質、金銭、欲得、我利、我執である。
そのことは、そなたも既に多くの書物や、人からの話などによりて、充分承知しておろう。
肝心なのは、魂と心の昇華、高まりであり、そうした浄まりし魂は肉体を支配し、自らの欲得で、己れを失うことはないといえよう。
なれど、人間心の弱さは、常に人を同じ心の状態、魂の在りように保ちおけるものではなく、
ときにひどく暗い、淋(さび)しい、辛い、苦しい、そうした気分を味わうものであり、
ときに嬉(うれ)しく、楽しく、安らかな心持ちになりて、幸せを感じ、感謝の念を強めたりもするのである。
人の心の弱さ故、ときに、邪神(じゃしん) 邪霊(じゃれい)なるものにかかられ、己れの意志とは反対のことを、
無意識、意識のあるなしに拘(かかわ)らず、気が付きしときには 取り返しのつかぬことをやりのけてしまいし、ということも あるらん。
なれば、人は、できるだけ魂を高く、清く、清浄に保つ努力を怠らぬようにし、
できうる限り、高い理想と清い心で、人にも物にも、自然、万物、全てに接しようという心がけが必要である。
人が何故、ときにそのように自己の心を一定に保てぬのか。かくも弱く、心も魂も、想念も、乱し、低めてしまうのか。
それは、一つには、己れの修養が足らぬからであり、また一つには、
真の宇宙法則たるものに、人間の意識の奥底に在る、宇宙意識、霊的意識、霊的感性、霊的直感が目覚めておらぬからなり。
そうした、本来人間が具有していた感性を、この世の物質欲、金銭欲、我利、我執にて曇らせ、
そうした濁りに心も魂も、満たしてしまいしことによらん。
なれば、人は、そうした我利、我執、我欲を取り去れば、本来の魂の光を取り戻し、
また、真(まこと)の魂の、感性なるものを鋭敏にすることができるものなれど、金銭欲、物質欲、己れの強き執着は、
なかなかに取り去れるものではなく、人が生を生きれば生きるほどに、ますます強まる類(たぐい)のものなり。
なれば、人がこの世での修行を課されし意味は、そうした欲得、執着を一つ一つ取り去るための、
神が与えられし、ありがたきお仕組みなるに、人は、神のご意志、ご意図を分かろうとせず、
ただ、己れの作り上げし、価値観、物質観、人生観、浅はかな知識に毒され、侵され、
ついには、神との一筋の糸さえも、自ら断ち切り、勝手な所業を繰り返すものなり。
人を救うは、こうした魂に、神とのご因縁を、再び付けさせ、信じさせ、
魂と、その奥に眠りし、宇宙との一体感を、直感的にでも甦らせ、魂と、切れ掛かりし神とのご因縁を、深めることが
何よりも重要なり。
死にゆく前に、神とのご因縁を復活させ得し魂は幸いなり。
あの世に帰りても、神のご守護により、改心の機会を得ることができ、再び、その魂に見合いし霊行を課していただけるなればなり。
なれど、神とのご因縁の切れしままに、あの世に帰りし魂は、神からのご守護を頂けず、
霊界の低きところに落とし込まれ、辛く苦しき行を命ぜられ、再び神とのご因縁を結べるまで、長い年月を苦しむこととなる。
それ故、人は、己れの行を少しでも疎(おろそ)かにしてはならぬし、素直に己れの魂の昇華を望み、
その求めるまま、魂の求めるままに、素直に霊行を積みゆくことが肝要なり。
人間心(にんげんごころ)で、今の目の前の、己れの用に使われ、神との約束を果たさずば、
現界で、いかに高き地位や名誉を得ようとも、あの世にては、何ら価値なきものなり。
よいな、ひふみよ、我々の伝えることは、たとえ些細なことであろうと、実行し、実現させてゆかれんことを。
我々の望む魂の行なくして、いかなる行も、そなたの魂の昇華にはつながらぬ。
昨日今日明日、時は過ぎ去り、明日にては既に遅すぎることが多くあることを思えよ。
そなたの家族、親戚、友人知人、そうした身近な人たちの魂が、
一人でも多く神とのご因縁を復活できるよう、臆せず、ためらわず、働き動け。
そなたの今日までに積まれし行の多くは、そなたの魂の修養に、活かされもし、役にも立ちしが、
魂の昇華に結び付く行は、まだまだ足らぬ。まだまだ少なし。
よいな、神の命ぜし神の子としての霊行を積まねば、
そなたがいかに現界で、人の目には偉大に映る偉業をなそうと、神はそれを認めてはくださるまい。
そなたの家族、親戚、知人友人、そうした限られし範囲の人にさえ、何ら働きかけることができなくば、何の霊行がなせようか。
人類の窮乏を間近に控え、神の降ろされし、人と異なる行を課され、み役を担わされて降ろされし魂の者は、
神に、今こそ その約せしことを返してゆかねばならぬのだ。
日々の行は多く、時は短く、肉体は衰え、心は老いを深めてゆくなれど、
霊行は、人の力の及ばぬものなれば、神に使われるままに、己れの身体、頭脳、感性を使っていただく。それでよいのだ。
人が限られし時間の中で、この世においてやり終えることは小さく、神の世界の諸事に比ぶれば、なきに等しきものなり。
人の界で作られ、この世に残る幾たりかの事象、物質、功績、いずれも、神の世界においては、いくばかりかの価値もなし。
人の世にて役に立ちても、神の世にても、価値在り役立つものは、人の力で作れるものではなく、
神のみ力をお借りしてのみ、現界でも霊界神界でも役に立つことが行えるなり。
人の力は微小なり。神の み力は偉大なり。
その神のみ力をお借りしてなせる業(わざ)が霊行であり、さればこそ尊く高い行ならん。
ひふみよ、現在そなたの励みし心行体行、どちらもそなたの魂を、多少は強め高めはするなれど、
直接そなたの魂を、より高く昇華させうるものは霊行なり。霊行をおいて他なし。
よいな、明日に明日にと霊行を延ばし延ばしゆくことは、神に対する裏切りに等しきことと心せよ。
神を真に敬い、お役に立ちたくば、すぐにでも、そなたのみ役を果たさんと心せよ。
我々の伝えしこと、聞かせしことを、人にも伝え、聞かする努力を怠らず、
明日には新たなみ役を賜らんとの心組を持ちて、今日の行を行ってゆけ。
明日に延ばせし今日の行は、明日にては遅すぎしこともあるものなり。
日々霊行は変わりゆくものなれば、今日せぬ霊行を明日行いても、それは既に霊行ならぬ、
ただの人間心のなせる行ないなりて、神の御心に適うや否や、はなはだ心許(こころもと)なきものなり。
よいな、ひふみよ、書を拡げ、この書記を広め、神の声を知らしめ、神とのご因縁を深めるお手伝いを、明日にも行えよ。
今日は今日の行があり、霊行があるらん。明日には明日の霊行があるなり。
し残しし霊行は、明日には遅いものあり。時の短き、去る時の速きを思いてためらわず、行を行ってゆけ。
辛く長い行の明けには、楽しく明るい喜びの時を迎えられん。
その時を迎えられるよう、日々の行に励み、日々心を新たに、うむことなく、たゆむことなく、行を行え。
今日、そなたに我々は、多くのことを伝えし。そなたに望む霊行の遂行を、心より望み、祈るばかりなり。
共に行じん。共に励まん。そなた一人にての行にあらず。
我等と共にあることを、信じ、忘るな。
よいな、ひふみ、ひふみよ、ひふみともこよ。伝え、終わらん。
一九九九年九月二十一日
神は人を創りたまいしとき、人にそれぞれのみ役を課された。
ある者には教育の道、ある者には芸術の道、ある者には宗教の道、そしてある者には学問の道。
このように、人は人としての行、み役を課され、それを行じて、この世の行として行じることを望まれた。
なれど、それのみが行の全てではなく、もう一つ、霊行なるものを行じなければならぬように仕組まれた。
人により、生まれし時代、所により、その霊行の形、目的は異なりてみえようとも、
相通ずる一点は、人が己れの我を取り、執着を取りて、己れの欲得によらず、己れの利害から離れて、
神に仕え、神に祈り、神に近づかんと欲する気持ちを高めることであった。
なれば、人は、目の前の欲得に動かされるのではなく、広く高い境地から、
己れの今ある意味を悟り、己れの生を受けし意味を見つけ、真摯に神に感謝を捧げ、実直に生を生きることが求められよう。
人のために何かをしてさしあげる奉仕の精神、神に捧げる誠の感謝、宇宙万物に帰依(きえ)せんとする崇高な願い、
そうした思いを常に抱き、育むこと。そして、ありとあるこの世の全て、
目には見えねど確かに在ると 無意識にでも感得できる宇宙意志、神、霊、神幽現(しんゆうげん)の世界、そうした諸々の事象を、
目には見えずとも信じ、畏(おそ)れかしこみ、己れの微少な生の営みを、神から与えられしものとして、尊く生きんと、心を高めゆくこと。
そうした心の営みを、日頃から心がけ、たゆまず努力すること。人が霊行を行うための、必要にして最低の心がけなり。
さすれば、霊行は、望まずとも自然に進み、自然に成就し、神の御心に、自ずと添いゆくこととならん。
なれど、人の心で、損得ばかりを計算し、目先の利益に振り回され、人の目、思惑、噂、評判ばかりを顧慮するならば、
行は滞り、いつまで経ちても、一向に進まず、ついには何も行うことなきまま、生の終わりを迎えゆくなり。
よいか、人の心は飽きやすく、うつろいやすく、変わりやすい。
今日の強き決意も、明日の僅かの障害で、たちどころに雲散霧消(うんさんむしょう)し、別の思いに囚われゆくなり。
日々、こうしてそなたに伝えることも、そなたの心の中で、恐らくは、初めのときの感動を伴いて書かれはせぬであろう。
それが、人の心なり。弱く、はかない人の常なり。
よきこと聞き、よきこと知りても、時と共に、薄れ、弱まり、ついには何も聞かぬと同じになりゆく。
それが、多くの人の在りようなり。
よいか、ひふみよ、我々はそなたに、目覚めのときを待ってきた。
真の魂が、目覚め、悟り、高まることを望んでまいった。
そして今日、そなたが我々の言葉を聞き、書きて残さんとの思いを高め、それを日々怠りなく励行するを、心より嬉しく感じている。
なれど、そなたに伝えしように、それのみで終わりては、何の意味もなきこと。今一度、反省せられよ。
人に機会あれば伝え聞かせ、教え説きて、その人の霊魂が、目覚め、活動するの助けをすること。
或(ある)いは、その人の魂が、浄められ、高められて、神とのご因縁を深めることを手助けすること。
或いは、書を配り、 配られし家々で光を放ち、その家の家族、先祖、家の守護神、守護霊たちも共に神の光をいただけるよう、 手伝うこと。
以上の三つを滞りなく行い、行を積みゆけ。
今の世の中に、幾人(いくたり)の魂が、神とのご因縁を切らずに保ちているか、思い描いてみられよ。
神は、ご自分から その縁をお切りになることはない。
人が、自ら、たとえ知らずにとはいえ、神との縁を切り、去ってゆくなり。
そうしたさまよいし魂を救い、神とのご縁を取り戻し、この世の立て替え立て直しに臨んで、
一人でも多くの魂が、神のお役に立たんと望むよう、一つ一つの魂を高めゆくこと。
そのための神の手伝いが、人としての行ではなく、神の子としての大切な、最重要なる行なるぞ。
よいな。ひふみよ、心に刻め。
日々、心新たに、霊行を積め。目の前の些事(さじ)に追われて、大切なる行を、怠(なま)けるなかれ。
一つ一つ、そなたに伝えることを、一つ一つ、行じてゆけ。
一つ一つが霊行なり。神の御心に添う、神の御心に適う、霊行なり。
なれば、たとえ 心行体行は遅れようと、先ずは霊行から始められよ。
一日の、始めと終わりに、神に向かい、感謝を捧げ、祈り、挨拶を欠かすことなきよう。
これにて、本日の伝えは終わる。
神に感謝を。誠の心からの感謝を。
一九九九年九月二十二日
神は、人のために、人の役に立つ多くのこと、ものを人に与えし。
その多くは、人を幸せにし、また、人の役に立つべき筈(はず)のものでありし。
なれど、人間心(にんげんごころ)でそれらを使い、作り始めるや、人は独占欲、利己心、自己愛の奴隷となり、
人に分け与えるよりも、自分が、自分一人のものに、自分だけのために、そうした強い我執の虜(とりこ)となり果ててしまいし。
よいか、人とは かように心弱く、また、我欲強きものなり。人に役に立たんという気持ちは生まれにくく、また育ちにくい。
それが行の始めなり。
人に分け与え、人と共に栄え、人と共に楽しむ。それが神の望まれし、初めの人間たちなり。
なれど、人が物、物質、金銭と、己れの願望を満たさんための工夫を凝らし始めし後、
人の考え、思想、観念、価値観、全て物質にのみ占有され、心、精神、魂、先祖、神、
そうした目に見えぬものはことごとく忘れられ、隅に追いやられてしまいし。
なれど、さなりても、人の幸せを司るは心なり、神なり、魂なり。
いくら物に囲まれ、金銭に埋もれてみしも、ますます困窮の感を強め、餓(かつ)え、満たされぬ空しさのみが募るものなり。
なれば、いかに、人は心を満たすべきなるか。心を豊かにすべきなるか。
答えは一つ、神の心を取り戻すことなり。神の心に立ち返り、神の光に己れの魂を照らすことなり。
言うは易く、行うは難(かた)し。人は、目に見えぬものへは、なかなかに心を捧げることはできぬものなり。
なぜなら、人は肉体の目のみが発達し、心の目、心眼をば、衰えさせてしまいしなればなり。
心の鏡もて、己れを照らし、己れの魂を照らし見れば、容易にわかること。
己れの曇りし魂が、今 いかに汚れ、腐り、汚濁(おだく)にまみれしか。
なれど、人は、心の鏡すら持たず、上辺(うわべ)の美醜や、上辺の見た目のみを気にかけ、
真に己れを支配し、操る元の魂をすら、物質の奴隷と化さしめしなり。
人が、これから後、神の道に戻るには、先ずは心を浄め、曇りを取り、汚れを浄めねばならぬなり。
それが神とのつながり、結びつきを強め、また、己れの踏み迷いし迷妄(めいもう)から逃れる第一歩なり。
なれば、人は先ず、神を知り、神のご存在を信じ、神に帰依(きえ)する心を強めゆかねばならぬ。
なれど、心低き者にいくら聞かせても、声は耳からすり抜け、光は翳(かげ)りを照らさず、ことばは空しく虚空(こくう)に響く
空しき音の集まりに過ぎず。
されども、もし人が、誠の心持ちて、誠の心から人のために尽くし、奇跡を見せ、光による諸々(もろもろ)の奇跡を行えば、
心低き、魂低き者も、いやがうえにも信ぜねばなるまい。
人が行いし奇跡は、神のみ力に因るものなれど、身近な人のことば、身近な人の経験なれば、そは最も信ずるに足るものならん。
なれば、人を救うに、身近な人から救わんとするが一番なり。
心高く、心浄め、日々神に祈り、感謝し、神につながらんとの想いを忘れず、
神のお役に立ちたしの念を強めゆかば、その人の魂は、自ずと神の御心に適い、神はみ力を惜しみなく与え下さらん。
なれば、人が迷い、心弱く、己れの道に不安を抱かば、何より神を思い起こすべきなり。神を求めるべきなり。
困りしときも、苦しきときも、神は共にあらせらる。
神を信ずる一念が、心を鎮め、心を安ませ、心を輝かせゆくなれば、人の心は、神を思うか否か、それ一事のみなり。
神を信じるとき、人は悪しき想いを持たぬ。神を思うとき、卑しき念は遠ざかりゆく。これみな、神のおかげなり。
神が人に光を照らし、人がその光を受くる状態にあるが故に、神の光は素直に人の心、魂に、無駄なく降り注がれるなり。
人は、全て神の御心に適う天性の清き魂を持ちて生まれる。そこには何の不平等も、差別もあることはなし。
あるは、神の思惑により、人それぞれの行の質の違いのみなり。
行はその者に必要ありて課さるるものなれば、人は嫌わず、いかなる行も有り難く遂行すべきなり。
もし、人間心で怠る行あれば、後に再び、別の行として、さらに厳しさを加えて課されよう。
訳なく課される行は一つとしてなかりせば、神のお仕組みを信じて疑わぬ、素直で真白き魂でそれを受くべし。
神は人に、人としての成長を望まれ、また、人としての行を修めし後、
あの世に帰りてからも、神のお役に立つ魂になる行を積むことを望まる。
魂が昇華し、霊層を高めし後は、次には人を導く魂に昇華することを望み、そのように仕組まれる。
人が神のお仕組みに応え、神の御心に適う魂にまで成長せし後は、
この世の人を導き、神のお役に立つ魂を さらに増やしゆくことが大事なり。
それ故、魂の修行は、終わるときなく見えるとも、魂の昇華は時を要すものなれば、
一つ一つ、一段一段を登りゆくことが最も近道ならん。焦らず、急がず、今ある行を、誠の心で、誠を込めて行うのみ。
ひふみよ、混迷の時なり。困惑の時代なり。
そなたも、人も、惑いに悩み、苦しむこと多かるらん。なればこそ、神を信じよ。人を救わんの気持ち高めよ。
己れ一人の霊行ならぬ。共に行ずる行なれば、我等と共に、迷うことなく、導きについて来られよ。
そなたの想いが高きものなれば、声も届き、道も拓けん。神に感謝し、己れの我を取り、身近の人への感謝と利他愛を 強めゆけ。
霊行は、難きものにあらず。素直な魂持ちてこれに臨めば、露ほども難しきことなし。
要は、そなたの心に曇りなく、汚れなくば、行は進む。神の後押しがあればなり。
よいな。ひふみよ。
神の力に頼るのではなく、神の み力にすがるのではなく、神の み力を信じて、
人間心で案じる気持ちを捨て、素直に臨めば、道は自然に拓けゆくのだ。
よいな、忘るなよ。神は慈愛なり。神は慈しみなり。
神の み手に身も心も委ねる気持ち、その安らかさを持ちてゆかば、神は己れの最も近くにあらせらるよ。
さあ、今日もそなたに伝えしこと、繰り返し読みて、行を行え。
明日もまた、そなたに伝えん。
一九九九年九月二十三日
神が創られし人間、万物、自然、地球、生命の全ては、
この世の始まりしときに、この世で初めて創られしものとして、この世に清く美しい世界を実現させるために、
多くのみ恵みと数々の目には見えねど、今よりはるかに高い能力を授けられおりし。
そして、その一つ一つを、それら全てを使い、力・能力を合わせ、共に励むことで、神はこの世に幸福と繁栄をもたらさんとされし。
なれど、先にも何度も告げしように、人間一人一人が、己れの我の虜(とりこ)となりて、
己れの我欲、損得、執着に使われ始めたがために、神のご意図は無視され、神のご意図とはおよそかけ離れし世と化さ
しめた。
神が再度この世を立て替え、神の国とし、ご自身もこの世に降りられるような、清い世界に甦らせるためには、
人一人一人を変えていくことが必要とお考えになられた。
そして、神の国から、人として使命を持たされし幾つもの魂を、この世におつかわしになられた。
そうした一人一人の魂は、これまでになく、急速に一つの集まりとして集まり始め、呼び集められている。
神の命ぜられしみ役なるものを、それら魂の一つ一つが、思い出し、その実現を進め、存分に個々の能力を活かし、機会を利用して、
この世でのみ役を果たすために、それら魂は、神の声を聞かされ、或いは神の書を書かされ、
また、神の御心を映す諸々の諸芸術、諸宗教、諸集会などを通じて、互いの存在を確認しつつ、互いが協力し合うよう にと仕組まれた。
今、この時、この世だからこそ、人の最期の時だからこそ、人は心を入れ替えねばならぬ時だからこそ、
神は一つ一つの魂に、直接、間接に、声を、光を、力を与えられた。
ひふみよ、そなたも信ぜしように、我等霊界におる者も、共にそのみ役を果たさねばならず、そなたに呼びかけ、語り続けてきた。
今日そなたがようやくにして、己れの眠りから覚め、神の子としての目覚めを得、神のみ役を思い出し、
神のお役に立たんと心を高めしこと、切に嬉しく、また、ありがたく思うなり。
ひふみよ、溢(あふ)れ出づるように、心に浮かぶことば、想念は、皆我等からの通信なるぞ。
恐れず、疑わず、ひたすら神に感謝を捧げつつ、我等の送信を受け、文字に変えゆけ。書き残しゆけ。
先ずはそれがそなたの霊行の第一歩なり。
なれば、一つ一つを、元の赤子のように、一つ一つを覚え、そなたの力を磨き、高めよ。
先ずは、ゆっくりとで構わぬ。遅くてもよからん。
焦らず、急がず、神の御心に適う魂を育み、神に感謝し、人に感謝し、ものに、事物に、現象に、全てのものに感謝を捧げ、
心を開く鍛錬を積まれよ。それからまた一つ段階を進みゆかば、自ずとみ役も変わり、次なるみ役を賜らん。
それまでは、今の我等が導くなり。
ひふみよ、そなたの決意を我等共に喜びし。喜び、感謝し、神に祈りし。
神のご守護を、さらなるみ光を、さらなるお導きを、我等共々与えられんことを、神に祈りし。
己れの我欲ならぬ、利他愛の心で、これからの困難を乗り越え、霊行を行じん。
障害、妨げ、心の迷い、これからも幾度となく、そなたも経験されようが、
我等と共に常にあることを、素直に、深く、胸の奥に刻みおけ。
そして、心の中で呼びかけられよ。迷いしときには尋ねられよ。苦しきときには、求められよ。
そなたの魂と、我等の魂と、両の波長が合いなば、通信は容易に行われよう。
それ故、ひふみよ、魂を磨き、高めおけよ。下卑た、卑しき汚き想念は持たれぬなよ。
高き、清き、直(なお)き、清々しき想念に満ちるよう、常に心高く、晴れやかな心で過ごされよ。
よいな、そなたと共に歩まんかな。共に行じんかな。共に神のみ役を果たし、神のお役に立たんかな。
今日、そなたの問いは何なるか。問うてみられよ。
〈己れ、我欲、自己について〉
己れ、我欲、自己、全て神の心を失いしときにはびこり、力を強める悪しき想念なり。
ひとたびこの想念に使われなば、それから逃れるに難(かた)く、それを取り去るはさらに難し。
なれば、人は、神を想い、己れの魂を磨き高め、己れの存在と神のご存在との共にあることを喜び、常に感謝を捧げおくことが肝要なり。
神が創られしときの人間は、一人一人が個でなく、我(が)でなく、我(われ)でなかりし。
人は、神の子、神の写し絵、神の心を持たされ、神の心を映す、何にも染まらぬ透明な魂を持ちて創られし。
なれば、一人一人がそのまま、神と交信し、神の声を聞き、神と交流を楽しむことすら可能なりし。
人が己れを持ち始めしは、全て、物質が心を越え、物質が、魂・心以上に価値を持つと人が信じ始め、
心・魂を隅に押し込め、我欲に魂を曇らせ、我欲に取り付かれしときからなり。
なれば、人は 己れを戒め、己れの奥底に眠らされし魂を復活させ、その居場所を整えゆくことが大事なり。
〈宗教とは〉
宗教なるは、神が、ご自分のご存在を現界の人間に知らしめるために、作らせしものなり。
神はそれをもちて、先ずはご自分のお力をお示しになり、信仰を持たせ、
人間の理解を超えし力の存在、人間の知恵を越えて及ばぬ英知の存在をお示しになられる。
それをもちて、人が神を見付けることを、己れの中に眠らされし魂、魂の奥に隠されし神のご存在に気付かせることを図られた。
なれど、現行の宗教、教団の多くは、初めの元の神のご意志を映すものは少なし。
時を経るに従い、人の思惑が先に立ち、神のご意志をそのまま映すものは残り少なし。
信仰と宗教は別なり。
信仰持ちても、宗教持たぬ者有り。宗教持ちても信仰持たぬ者有り。いずれも神は認められよう。
なぜなら、己れの意志、意図に関わらず、神のお役に立つ行いなせば、自ずと魂も変わりゆくなり。
なれど、信仰持ちても何もなさねば、神はその魂を昇華させることはおできにならぬ。
同じく、宗教持ちても、自ら何もことをなさねば、やはり、神は真にその魂をお救いになることはできぬなり。
心、魂、肉体、一つなり。一つのものなり。
それ故、宗教も信仰も、己れの全てをもって行うべきものなり。心のみの信仰、宗教に、何の価値もなし。
肉体のみの真似事の行い、これも価値なし。
なれど、神の御心に適う行いなせば、心、魂は気付かぬうちにも変わりゆく。
なれど、行い何も致さねば、いくら心高く、口に清きことば述べても、神の御心に適うことはなし。
なれば、宗教に入りし者は、救われ易く、宗教に入らぬ者は救われるに難(かた)きも それがためなり。
よいな。しかと覚えおけ。
行い、行動、働き、行、これら全て、肉体を伴う。
肉体 なければ、行はなし。肉体なければ、現界の行なし。現界の行、即ち全て肉体もちて行うことなり。
よいな。想念のみにては、魂は向上せぬ。心は浄まらぬ。肉体は浄まらぬ。
行いもちて人は、昇華しゆく。これを可能にす。
しかと命じておかれよ。そなたの胸、肚(はら)、魂に。
一九九九年九月二十四日
神は、人と、人と共にある様々なこと、もの、現象、天命、人一人一人の行うべきみ役、全てを仕組まれ、
ご計画に沿って、神仕組み、神経綸をお進めになられてきし。
今、最後のお仕組みとして残りしは、この世の立て替え、立て直しのみなり。その神仕組みがようやく成就を迎えつつある。
そは、神がこの世を創られ、この世に、神の御心を映す地上の神の国を創らんがために、この世の初めから定められしことなり。
この世が、次第に汚れ、崩れ、神のご意図から離れゆくも、神はこの世の初めから、予測もされ、そのようなご計画でありしといえよう。
人が一度(ひとたび)は汚れ、曇り、我の奴隷となり、神を忘るる。
そのことすら神は初めからご存知のことにありし。
人には、この世が神のご意図から外れゆくことを、憂うる者もあろう。
行く末を案じて、己れの力をもちて、この世を作り直そう、作り変えよう、そう意図する者もあろう。
なれど、神のお仕組みが働く以上、それら人間の業(わざ)、人間の知恵、人間の技術・能力、全て限界あり。
できることの範囲は極めて狭く、ものの数にも入らぬ行いなり。
今、人に求めらるるは、神のご存在を知り、神に全てを委(ゆだ)ねる心、神に全てをお任せする心、
神に一途に帰依(きえ)せんとする、真白き魂への、浄化なり。
なぜといえば、神は一切を、ことの始まりから、
一切を仕組まれ、企図され、何もかもをお決めになっておられし故(ゆえ)なり。
今、人が恐れ、慌てふためきてことをなすも、その多くは小手先の、ただただ些末(さまつ)な、取るにも足らぬ行いに過ぎぬ。
今、神に降ろされし魂、即ち、最後の時に臨みて、最後の仕上げを、神仕組みの最後の仕上げをするに当たり、
神のお役に立つために降ろされし魂、神のお仕組みの手伝いをせんと命ぜられし魂が、各々(おのおの)のみ役を実行に移し始めし。
神に授けられしみ役を果たし始めし。
神のお仕組みによりて、ある者は書を、ある者は光を、ある者は声を、
己れの能力・才能・天分に応じて、人に広め、知らしめ、気付きを与え、悟りを得させ、心・魂の浄化を手伝いつつあるなり。
神のご経綸、神のお仕組みは、そのためであれば、 いくらもその者に力・光・能力・機会・人脈・金脈・物質・金銭、いくらでもお与えになる。
なれど、それら全て、み役のためなり。み役を果たし、世の立て替え立て直しに活かすためなり。
もしその中に、神の御心に適わぬものが多少なりとも混じりおれば、
神仕組みは容易に働かず、その不純なるものが取り払われるまでは、お仕組みを賜ることはなし。
もし、神のために、利他愛のために、み役のために、その者自身は汚れなく、純粋に、無垢に、
み役を果たさんとしても、そに関わるもの・こと・人、いずれかのどこかに、
その行を行うに相応しからぬ思いを持ちしもの・こと・人あらば、神は先ずそのことを戒むるなり。
それ故、人は、謙虚に、素直に、己れの心、行い、魂、肉体の行、日々の行、人との交わり、人への思い、改め見直す必要あり。
神は、現象をもってお伝えになられる。神は罰をお与えになることはなし。
全て、必然の結果なれば、起こりし不幸は、己れの行いのいずれかどこかに、必ず誤りあり。
その必然の結果を、現象によりてお示しになるのである。
それ故、よいな、ひふみよ、 この世で起こる一切は、己れの行・行いの必然の結果なれば、よきことはよき心の、よき行いの、よき魂の結果なり。
また、悪しきことは、悪しき心、悪しき行い、悪しき魂の結果なることを思い、常に己れを省みることを忘るなかれよ。
なれど、ひふみよ、神は喜んでおられるよ。そなたの行い、思い、行、日々によき方向に向かうなれば。
そなたの内の魂が、ようやくに目覚め、自らの行に、日々素直に従い、神のお役に立たんとして、行に励んでおること、
神はご存知なり。 よいな、これからも、一途な思いを忘れず、神経綸(けいりん)のための己れのみ役、果たされよ。
そして、我等の声を、そなたの励みとし、心緩めることなく、日々、気持ち新たに、気持ち引き締め、行を積めよ。
今日は、そなたへの伝え終わらん。
一九九九年九月二十五日
神が、この世に創られし
この地球、自然、大地の恵み、太陽の恵み、海山の産物、植物、動物、昆虫、その他の諸々の生物、そして万物の霊長たる人類、
こうした一切の創造物は、みな神の み力、ご意志、ご意図によりて創られ、生を与えられ、魂を与えられ、
そして多くの能力、知力、体力、それぞれに見合いし、全てのものを必要に応じ、程良く備わせられた。
それ故、一つ一つの調和、意識せずとも自ずと生じている全体の協力、団結が、各々は意識せずとも、
自然に図られ、また、働くように創られていた。
なれば、人のみが、己れを持ち、己れのみを大事にしようと望み、行動する。この世にある生命の中で、最も魂を汚 した生き物なり。
なれど、それにても、神は、人をお見捨てにならず、
数々の、啓示、現象、事象によりて、人に気付きを与えん、悟りを与えんと、骨折られた。
気付きを得る者は少なく、逆に神を呪い、恨み、憎みて、やがて神から、急速に離れてしまう者が多かりし。
神は、いつか気付くことを信じつつ、多くの奇跡も行われた。
人を使い、自然を使い、動植物を使い、地球・宇宙・この世にありとある森羅万象に秘められし、
神の神秘、神の奇跡、神のご意志、ご意図を、人に分からせんと工夫された。
なれど、気付かぬ者多く、今ついに、み役を持たせし多くの魂を、この世に順次送られ、人の改心、悔悟、改俊、
そして神への下座(げざ)と、我の浄め、魂の昇華を、人一人一人が、これまで以上に容易に進められる環境・条件を整えられた。
なれば、今の世の人は、これまでの長い歴史の中で最も神に近づき易く、神の光を受け入れやすい、ありがたい環境といえよう。
なぜなら、昔まだ、これほどまでに、地球・自然・環境・生命の体系、お互いの連鎖が今ほど狂っておらず、
神もそれを見守っていられた時代には、神はこれほどご自分のご存在を示す必要もなく、人の中に幾人(いくたり)かの魂を送り込み、
その者に、奇跡を起こさせ、光を示させ、声や文字をもちて 人に伝えれば、それでことは済み 治まりおりし故(ゆえ)に。
人は、今、最も危険な時を、なれど最もありがたき時を、迎えんとしている。
神の奇跡は、ご自分のご存在をお示しになるだけでなく、
人をして、いやがうえにも心を入れ替えさせ、心に染まずとも 魂を浄化させることとならん。
この時に当たりて、最後まで神を信じず、我を張り、己れに囚われしままなれば、それは魂の永遠の消滅となるのみ。
積み来たりし、多くの罪、汚れ、魂の曇り、濁り、それら全て、一度に浄化させよ。
遅れし者は、今、この時にも まだ間に合うべし。
最後に伝えられる、神のご意志、ご意図、それは今 初めて人に伝えられることではなく、何千年も前から、人々に伝えられしことなり。
宗教者はみな、知っておりし。
いかなる宗教であろうと、この世の終わりに神が現れ、この世を一度は壊滅させ、
そして残されし者を使いて、この世を再び神の国に復活させるであろうことを。
宗教、流派、信条、信念、細かい違いはあろうとも、皆、同じ内容を伝えしものなり。
なれば、人は、宗教の違いによらず、
全て同じことを知り、目指し、己れを磨くことを、魂を浄め、高めることを、図らずも、行わせられしものなり。
神のみ力、神のお仕組み、神のご意志、ご意図、神経綸(けいりん)、これら全て、
今の世にては、人の意識・知識・概念・能力・常識、良識を越えしものなり。
どのように学問を積みし者でも、神を知らぬ者は不幸なり。
逆に、何ら学なく、教養なく、知識・学問・特技なく、文字を読むことすらできずとも、
神の偉大さ、崇高さを、素直に感じ、信じらるるは幸いなり。
なれど、学問も大事なり。教養も大事なり。文字が読め、ことばが話せ、神の伝えんとすることを素直に聞け、
そのことを人に、文字・声・ことば・書・光・音楽・絵画、その他のものを用いて人に伝えること可なる者は、さらに幸いなり。
そなたの思う幸せとは、いかなるものか。答えられしか。
我等の思う答えなるものは、今伝えしことなり。
人としての行が、神の子としての行と直結し、心素直に、目の前の学問・知識に曇らされることなく、踊らされることなく、
己れに課せられし行に取り組み、最善を目指すことができること、
そして、神の御心に適うか否かのみが心の基準であり、心の働きが神と一体化し、
己れなく、我なく、人なく、自分なく、あるのは神の、ご意志、ご意図のみであるような、そうした心組になれることなり。
さなれば、人は、一切の束縛から放たれ、自由無碍(むげ)に、行い、楽しみ、
無限の喜びに満たされ、無限の光に照らされ、神への感謝、歓喜、感動に満ち溢(あふ)れん。
人の幸せとは、現世のみに関わるものではなし。永遠の時の流れの中で、各々の魂に応じて決まりゆくものなり。
今、富に満たされ、金銭・物質に囲まれ、何不自由なく贅(ぜい)を満喫しようとも、あの世に戻らば、何も持ちてゆけぬなり。
あの世に持ちて帰らるるものは、魂一つなり。
汚れし魂 残りし者は、あの世にてその汚れを取るための、苦しく辛く、長き行あり。
汚れ、曇り、濁りし魂の垢を取ることは、この世以上の苦しみなり。
磨き磨きて、磨き続け、神の御心に適うまでには、この世の倍も、数倍もの労苦を伴うものなり。
それ故、人は、できる限り、この世での行を積み、魂を磨き、浄め、高めねばならぬなり。
人はこうして、この世の行を積むなれど、苦しいだけが行にあらず。楽しく、嬉しく、喜びに満ち、心豊かに行えるが 本物なり。
苦痛、快楽、どちらも人間には大切な感覚なれど、どちらも魂に曇りを作らん。どちらに囚われても、魂は雲り、汚れてゆかん。
望ましきは、程良く、どちらも経験し、心を常に中庸に保ち、安定を心がけ、自然に落ち着く境地にあること。
難しけれど、魂を鍛え、心を鍛え、己れを強く律する鍛錬を行いゆかば、自ずと到達せん。
今日、そなたは大切な教えを賜りしよ。そは、人の幸せについてなり。
そなたが望む幸せは、そなたの思いがどれほど、神の御心に適うものか否かで決まりゆかん。
神の御心に添い、神の御心に近づかんと努力することで、そなたの魂が神の御心と調和し、連動し始め、共振し始むれば、
ことは一切がうまく運びゆかん。それまでは、己れの鍛錬を繰り返し、魂を浄め高めてゆくことが第一なり。
この世での栄耀栄華(えいようえいが)、その空しさ、はかなさは、古来 人も語り続けしことなり。
この世が全てではなく、あの世にても魂は続き、
幸せが、単に肉体のみに与えられ、感じられるものでなきことを知らば、幸せなるものの本質も自ずと悟られよう。
本日も、よく心を浄め、高める行を積まれよ。そして、神に感謝の気持ちを捧げて過ごせよ。
道遠く、険しく、困難に見えようとも、人間心を捨ててかからば、そは決して遠く険しき道にあらず。
神のみ光に照らされ進みゆかば、長き道も、明るく楽しく、喜びに溢れん。
神の偉大な御心に、少しでも己れの卑小な心を近づけ、我なく、欲なく、執着(しゅうじゃく)なく、自由なままに
神と共にあることを感じ、信じ、神と一体化して歩むとき、神は多くの恵み 仕組みを授けられん。
光照らし、光明世界を実現されん。
神仕組み、神経綸(けいりん)、一人一人のためにありし。そして、人全体、地球全体、宇宙全体、一切のために働くなり。
神人一体、人皆、神の子、宇宙の一部。なれば、一人の我欲に囚われ 生きることほどつまらぬものなし。
大局に立ち、神の心でこの世を見れば、いかに一人の人間が矮小なるか、見えてくるらん。
人、神、その間に何もなし。神は、そのまま人なり。人と共にあるなり。
人は神なり。人、行を積まば、神の御心そのものに なりゆくなり。
行は、行なり。なれど、己れの魂が、奥底にて求める行いなるべし。
神に課せられしといえども、己れの魂が必要とし、自ずと求めているものなり。
なれば、その魂の要求に素直に従わば、行は進み、何の労苦、困難、苦痛がありようか。
素直に行じ、素直に進む、それが第一なり。
苦しみ、迷い、戸惑い、悩む、それはその行に誤りあるなり。
かような行は、かえって魂を曇らするものなれば、むしろやらぬがよき行なり。
人一人一人、行を見付け、行を見いだし、素直に行ずる。一途に行ずる。それが神の望まれるあり方なり。
よく求め、よく聞く者は、よき導きを得ん。
よく望み、よく働く者は、よき実りを得ん。
よき心、よき魂、よき働き、いずれが先か分からねど、人の全てをもちて、行を積まば、全体がよく動き、巡(めぐ)り始めん。
考え過ぎず、悩み過ぎず、目の前に囚われず、大局から眺め、考えてゆかれんことを。
大局から考え、行うことは、神の御心に適うことなり。
必要あって、仕組まれしことも、さすれば見えてこよう。
己れの中に閉じこもりしは、己れの目を雲らすことなり。
今日も、そなたの行の成就を祈らん。
これにて今日の問いは終わらん。
一九九九年九月二十六日
神は人と人との間に、何ら優劣、差別を置かなかりし。
その昔、人は皆、同じ能力、知恵、体力、知力、性質、欲望、その他を与えられし。
なれど、一人一人のみ役を、それぞれに与えられし。
そして、そのみ役に沿いて、人人、一人一人の能力を変えられ、差を設けられし。
それ故、人の目からは、一見優劣、差別、違いと見えようが、それは誤りなり。
神はそれぞれの能力に差を付けられたのではなく、み役に違いを持たせられ、
それに応じ、それに見合う能力の差を多少お付けになられたに過ぎぬ。
なれば、一人一人、行うべき行は違おうが、それを行うに当たりては、
充分に、そのみ役を果たすに必要かつ充分なだけの能力を与えられし。
今日に至るまでの間に、人は、己れのみ役を見失う者、多かり。
己れの み役を忘れ果て、己れの利益、己れの欲得のためにのみ、神から与えられし能力、体力、知力、その他の才能、
特質を用い始め、
己れの満足、空しき栄誉、くだらぬ利益、はかなき名声ばかりを追求し、それに明け暮れしておるのだ。
神が与えられし能力、知力、体力、特質、才能、諸々の個性は、それ故、神の御心に適わぬことに利用され始め、
人はますます、己れの み役を見失い、目の前の利益にあくせくし、周りの目ばかりに振り回され、
人の噂に踊らされ、使われ、自らを失い、ついには、よからぬ霊、神の手先と落ちし者も多しという。
神はそうした事態を憂い、かつ、嘆きもされし。なれど、そも神の初めからの、ご計画に含まれしことなり。
なぜなら、神は、人の乱れ、世の乱れ、地球の乱れ、この世の汚れ、
そうしたことの全てが、神のご計画にある神経綸(けいりん)の一部なれば、神はそれをよしとされし。
人には 様々なみ役あり。悪は悪なれど、必要悪なり。
善は善といえども、必要にして行われるものなりて、その行いし者の、自らの意志からなされること、少なし。
善といえども、その魂をめぐる、数々のお仕組みによりて、実現され、現象化することなり。
なれど、そも、その魂の努力足りなければ、起こるべきことも起こし得ず、なさるるべきこともなされぬままに朽ち果つるのみ。
神経綸、ご神策、神の道、神の意志、それら絶対なり。
人の努力、能力、全て小さく、脆(もろ)く、はかなきもの。神のみ力を得しとき、能力、努力を超えしこと起こるなり。
神が人に望まれしこの世での行を、一つ一つ積みゆかば、神のご経綸は、少し進まる。
神の御心に適いし行を、この世で充分に果たされれば、あの世での行は、軽くもならん。
なれど、神の御心に適わぬ行い、振る舞い、行動多かれば、神は現象もって、そを改め、反省するの機会を与う。
謙虚に、素直に、神のお役に立つことを望み、日々行を積まれること、それが第一なり。
神に望まれ、神に求められる魂になられよ。
神の御心に適う、神の御心に添う行いを行われよ。
神は何もなさらず、お考えにならぬのではなく、全てを人に任せておられる。
全てが必然として、もの・ことの成りゆきを見ておられる。
なれば、人は、努力して、その成りゆきのなるがままにするのではなく、
神の御心に適うことを行うよう心強くし、神と共にあるの意識を高められよ。
本日、これまで伝えしこと、これまでと同じ内容なれど、明日からもこの行続けられよ。
明日には明日の、明後日には明後日の、伝えらるべきお伝えあり。
〈文明について質問〉
文明なるは、人のみが持つことを許されしものなり。
文明、即ち、人をより幸せに導き、思いを高め、神に感謝するの念を強めるべき、神の御心の表れとなるものなるべきなり。
なれど、文明の成果は全て、人の欲得、利害損得に駆使され、神の心は跡もなく、消され、忘られ、捨てられし。
それ故、今現在の文明は、腐れし物のみにて、それを使う者の魂、心、肉体のことごとくを蝕(むしば)みゆくものなり。
文明の初め、それは、神の御心に適う、人の幸せを増すために、人が己れの能力を精一杯用いて、生み出ししものなりし。
それ故、初めそれが、人に不幸をもたらすべくもなく、人はそれをもちて、健康、平和、安楽を得し。
そが文明のあるべき姿。神の御心を備えし、正しき在り方なり。
今の文明、全て、汚れ、汚濁を生み、この世に害毒、罪悪のみを撒(ま)き散らすものなり。
神の心を忘れ、神の心を失い、ただただ己れの利益拡大、己れの権利主張と、他への侵略、己れのみがよければ、それでよしの心。
それ故、文明は、今や人を滅ぼすのみのものなり。
腐れ、汚れし文明は、いずれこの世を壊滅(かいめつ)させ、廃墟(はいきょ)をもちて終わりゆかん。人なき世にて、文明終わらん。
文明なけれど、神はおはする。神の御心は残り、新たな創造始まらん。
神の御心、さても尊く、さても深し。強きご意志と、高きご意図。
人の残らぬこの世にも、神は再び 再生を図らる。この世に残る文明、人類、自然、地球、そをもちて、新しき世を、
もう一度創らる。
文明に、神の心を取り戻さん。そが始めなり。そが、立て替え立て直しの始めならん。
さなくば、神は、神のご意志により、文明なるを終わらせん。人類なるを終わらせん。
全てを元に、初めの零(ゼロ)から始められん。
全ては、無から始められん。全ては空(くう)から創られん。
神仕組み、神経綸、元の初めから、元に戻りて始められん。
それ故、人よ。神の仕組みに外れぬ物を、神の御心に適う物を、作り、使い、生み出せよ。
物に使われ、物に支配さるることのなきこと祈らん。
一九九九年九月二十七日
神と人との違いについて、今日は申し伝えるなり。
神は人に、神の御魂(みたま)を分け与えし。なれば、人は神の分け御魂を授かりし、尊い存在の筈なり。
そも、この世の初めには、人は、神から、多くの許しを得て、
神のことばを使い、神の力を使い、神の光を用いて、所によらず、時によらず、
何事をも なすこと可なるにより、多くの健、和、富を与えられ、そをもちて、人はおのが幸せを、手に入れし。
人が神に授かり、神にお借りし、神に許されし、数々の恵みが、人から一つ一つ取り上げられし訳は、
人の自我、人の我欲、人の自己中心的観念が、人の内に芽生えてからなり。
神は、人に、数々の み恵みを、人みなが幸福になるためにのみ、分け与えられし。
なれば、人が他のため、他の幸せのために、それら み恵みを用いず、
己れの欲望のみを充足させん、人を支配せん、人を押しのけ、
己れのみが他より多くの物を独りの物にし、楽しみ、もちて遊び、己れの欲望のみを満たさんとし始めし時より、
神は、人から多くの力、能力、才能などを取り上げ、人を一つの肉体のみとならしめたまう。
それ故、人は、欠けたる力を補わんと、心行、体行、霊行、それらをもちて、己れの汚れし魂を浄め、高め、
元の力を神から許されるまでは続けねばならずなりにし。
人が神に近づくというは、神が初め、元の人に与えし力を再び神から許され、
再びそれら力を持つこと あたうような魂にまで、おのが魂を高めんことをいうなり。
なれば、人は、己れの魂の浄まり、高まりに応じた心行、体行、霊行を課され、そして、おのが魂の昇華を果たさねばならなくなりし。
それは、一(いつ)に、魂を元の高さまで、元神から分け与えられし魂の高さに戻すまで続く行なり。
神とて同じなり。 神もまた、人の汚れが浄められ、高められるまで、その導きをお続けになり、
人が元の姿、魂、心に返るまでは、人と共に行をせられるなり。
神、人、共にあるなれば、神のみが人に行を課し、おのが行はなしということはなかりければ、
人は、そをよくよく肝にも 肚(はら)にも銘じおきて、神に近づかんの努力精進怠らず続くべきなり。
神は人をこよなく愛し、こよなく慈しむの気持ちを持ちておらるれば、
かつて人が神と共にありしときの、この世の美と、富、幸とを再び人と共に、喜び楽しまんと望まれるなり。
なれば、人一人一人、心を入れ替え、神に帰依(きえ)し、委ね、ただ己れの行を行じて、汚れ曇りを祓(はら)い浄めねばならぬことなり。
神に伝えられしことばの一つ一つを、人の一人一人が、それぞれに応じて理解し、肝、肚に刻みて、おのが励みとすべきなり。
神は、奥底から、魂の奥底から、絶えず呼びかけ、教え導いておられる。なれど、人に聞こえぬ声なれば、気付き悟る人間少なし。
それ故、神は、人の肉身に聞こえぬ声を、人に伝え人に知らしめるために、宗教を作られ、宗教の祖たちに、神の教えを託せしなり。
それ故、人は宗教より、多くの知識、英知、この世で積むべき人の行い、人の振る舞い、人の行について、悟り気付くべきなるを、
おのが曇らせ、濁(にご)らせし魂によりて、聞けども 聞こえず、見れども見えず。
ただ、おのが我欲、利害損得のみを追い求むの性根(しょうね)変わらず。
人は、おのが主なりて、神は隅に追いやられ、押しやられ、おのが利益のみを優先し、おのが満足のみを求むるなり。
なれど、その愚の積みゆきし後に残るは、富になく、栄誉になく、幸せにもあらず。
ただただ腐れ、汚れのみを積み上げし おのが魂のみ。
ますますの行をし残し、前にもまして積まねばならぬ行に苦しむ哀れなる魂なり。
なれば、人は、あの世に帰りて後に、おのが罪に苦しみ、
心より悔いて、魂を浄め、魂を高めんと、幾層倍(いくそうばい)の行を積まねばならぬこととなりゆく。
神は人に、さなる苦しみを与えたくなし。さなる辛き、長き、苦しき行は与えたくなし。
人が初めに戻ることを、切に切に望まれる。 神は人を戒め、諌めることあらず。人の一人一人が、自ら気付き、自ら悟るを待つのみ。
そして、人が自ら行を、ありがたく、喜びて行うことを望まる。
さなれば、人は、心開き、目を開け、耳傾け、おのが深き深奥(しんおう)に眠らされし神を目覚めさせ、その声を聞き、
その姿を見いだし、おのが導きを得らるるよう、心清らに、素直に保ちて、心からの祈りを捧げるべし。
祈りは意乗り、即ち、神の意におのが意を添わせ、神の御心におのが心を近づけんがための、
魂から溢(あふ)れ出づる神への願いを表すものなり。
神は祈りの声をもちて、人の魂の昇華を認め、一段高き昇華を許さる。
神、清き祈りの声を聞き、その声をもちて、人一人一人の魂の昇華の程を測り知られる。
心に 祈り・願いの気持ちなきもの、神を求めんの祈りなきもの、魂の昇華 許されんの気持ちなきもの、
こは、いくら行に似しこと行えども、真の行にはならざれば、
神に下座し、神におのが過ち、おのが罪咎(とが) 先ずはお詫びし、許しを乞うべし。
そが、行の始まり、行の根本なり。
罪咎なき人、一人もなし。生くれば、日々、罪汚れを作りゆくなり。
人を苦しめ、人を羨み、人をおとしめ、人を欺(あざむ)く、それが人の我欲、我執なり。
我欲、我執に使われし人は、いつまで経ちても、魂浄まらず。
魂汚し、魂曇らせ、魂濁らせ、汚れまみれるに任せるなり。
そが汚れ、腐れを取り除かんと、心に切に願わくば、何ぞ神に詫びずにいられようか。
神に下座し、これまでの罪咎、汚れ、雲り、迷妄の一つ一つを詫び、悔い、おのが魂の浄めの許しを得んと、
心よりの祈り、心よりの感謝を、神に捧げんと願うべきなる。
神が人に求める気持ち 強くば強きほど、人は神の御心に応えんと精進努力、誠をもちて、神に返しゆかんと心高め、心強めよ。
今日までのおのが存在、おのが授かりしご恩の一つ一つ、限りなきみ恵み、
それら素直に神に感謝し、神に誠をもちて、使われることを喜ぶべし。魂の昇華許さるるを喜ぶべし。
神人一体、神人合一。
なれば、自捨(じしゃ)新生をもちて、神に近づき、神のお役に立つこと望み、
神に誠の行を捧げ、感謝をもちて神に向かい、神の御心を我が心に受け入れ、神の御心にまで高めゆかんと、日々行ぜよ。
行は行として、神に届き、そをもちて、神は魂の昇華を許さるる。
罪咎、汚れ、雲り、迷妄、これら、人の行のみにては浄まらず。
この世に囚われし心では、汚れ取れざるなり。心高め、神を求めざれば、汚れ浄まらざるなり。
心高く、遠きあの世も見通す気持ちで、魂の永遠の行を捉え、究めるべし。
本日伝えしこと、明日も続くなれば、明日も聞けよ。明日も書けよ。
明日も、明日も、明日の明日も、神業 終わらず。
伝え残さば終わることなし。み役なり。み役 怠るなきよう望む。