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神から人へ1





1999年12月13日〜1999年12月13日〜1999年12月13日〜1999年12月13日〜1999年12月13日〜1999年12月13日〜1999年12月13日〜1999年12月13日〜1999年12月13日〜1999年12月13日〜1999年12月13日〜1999年12月13日〜

一九九九年九月二十日

今日 人を支配し、牛耳(ぎゅうじ)っているのは、殆(ほとん)どが、物質、金銭、欲得、我利、我執である。
そのことは、そなたも既に多くの書物や、人からの話などによりて、充分承知しておろう。
肝心なのは、魂と心の昇華、高まりであり、そうした浄まりし魂は肉体を支配し、自らの欲得で、己れを失うことはないといえよう。
なれど、人間心の弱さは、常に人を同じ心の状態、魂の在りように保ちおけるものではなく、
ときに ひどく暗い、淋(さび)しい、辛い、苦しい、そうした気分を味わうものであり、
ときに嬉(うれ)しく、楽しく、安らかな心持ちになりて、幸せを感じ、感謝の念を強めたりもするのである。

人の心の弱さ故、ときに、邪神(じゃしん) 邪霊(じゃれい)なるものにかかられ、己れの意志とは反対のことを、
無意識、意識のあるなしに拘(かかわ)らず、気が付きしときには 取り返しのつかぬことをやりのけてしまいし、ということもあるらん。
なれば、人は、できるだけ魂を高く、清く、清浄に保つ努力を怠らぬようにし、
できうる限り、高い理想と清い心で、人にも物にも、自然、万物、全てに接しようという心がけが必要である。

人が何故、ときに そのように自己の心を一定に保てぬのか。かくも弱く、心も魂も、想念も、乱し、低めてしまうのか。
それは、一つには、己れの修養が足らぬからであり、また一つには、
真の宇宙法則たるものに、人間の意識の奥底に在る、宇宙意識、霊的意識、霊的感性、霊的直感が目覚めておらぬからなり。
そうした、本来人間が具有していた感性を、この世の物質欲、金銭欲、我利、我執にて曇らせ、
そうした濁りに心も魂も、満たしてしまいしことによらん。
なれば、人は、そうした我利、我執、我欲を取り去れば、本来の魂の光を取り戻し、
また、真(まこと)の魂の、感性なるものを鋭敏にすることができるものなれど、金銭欲、物質欲、己れの強き執着は、
なかなかに取り去れるものではなく、人が生を生きれば生きるほどに、ますます強まる類(たぐい)のものなり。
なれば、人がこの世での修行を課されし意味は、そうした欲得、執着を一つ一つ取り去るための、
神が与えられし、ありがたきお仕組みなるに、人は、神のご意志、ご意図を分かろうとせず、
ただ、己れの作り上げし、価値観、物質観、人生観、浅はかな知識に毒され、侵され、
ついには、神との一筋の糸さえも、自ら断ち切り、勝手な所業を繰り返すものなり。
人を救うは、こうした魂に、神とのご因縁を、再び付けさせ、信じさせ、
魂と、その奥に眠りし、宇宙との一体感を、直感的にでも甦らせ、魂と、切れ掛かりし神とのご因縁を、深めることが何よりも重要なり。
死にゆく前に、神とのご因縁を復活させ得し魂は幸いなり。
あの世に帰りても、神のご守護により、改心の機会を得ることができ、再び、その魂に見合いし霊行を課していただけるなればなり。
なれど、神とのご因縁の切れしままに、あの世に帰りし魂は、神からのご守護を頂けず、
霊界の低きところに落とし込まれ、辛く苦しき行を命ぜられ、再び神とのご因縁を結べるまで、長い年月を苦しむこととなる。
それ故、人は、己れの行を少しでも疎(おろそ)かにしてはならぬし、素直に己れの魂の昇華を望み、
その求めるまま、魂の求めるままに、素直に霊行を積みゆくことが肝要なり。
人間心(にんげんごころ)で、今の目の前の、己れの用に使われ、神との約束を果たさずば、
現界で、いかに 高き地位や名誉を得ようとも、あの世にては、何ら価値なきものなり。

よいな、ひふみよ、我々の伝えることは、たとえ些細なことであろうと、実行し、実現させてゆかれんことを。
我々の望む魂の行なくして、いかなる行も、そなたの魂の昇華にはつながらぬ。
昨日今日明日、時は過ぎ去り、明日にては既に遅すぎることが多くあることを思えよ。
そなたの家族、親戚、友人知人、そうした身近な人たちの魂が、
一人でも多く神との ご因縁を復活できるよう、臆せず、ためらわず、働き動け。
そなたの今日までに積まれし行の多くは、そなたの魂の修養に、活かされもし、役にも立ちしが、
魂の昇華に結び付く行は、まだまだ足らぬ。まだまだ少なし。

よいな、神の命ぜし神の子としての霊行を積まねば、
そなたがいかに現界で、人の目には 偉大に映る偉業をなそうと、神はそれを認めてはくださるまい。
そなたの家族、親戚、知人友人、そうした限られし範囲の人にさえ、何ら働きかけることができなくば、何の霊行がなせようか。
人類の窮乏を間近に控え、神の降ろされし、人と異なる行を課され、み役を担わされて降ろされし魂の者は、
神に、今こそ その約せしことを返してゆかねばならぬのだ。
日々の行は多く、時は短く、肉体は衰え、心は老いを深めてゆくなれど、
霊行は、人の力の及ばぬものなれば、神に使われるままに、己れの身体、頭脳、感性を使っていただく。それでよいのだ。
人が限られし時間の中で、この世においてやり終えることは小さく、神の世界の諸事に比ぶれば、なきに等しきものなり。
人の界で作られ、この世に残る幾たりかの事象、物質、功績、いずれも、神の世界においては、いくばかりかの価値もなし。
人の世にて役に立ちても、神の世にても、価値在り役立つものは、人の力で作れるものではなく、
神のみ力をお借りしてのみ、現界でも霊界神界でも役に立つことが行えるなり。
人の力は微小なり。神のみ力は偉大なり。
その神のみ力をお借りしてなせる業(わざ)が 霊行であり、さればこそ尊く高い行ならん。
ひふみよ、現在そなたの励みし心行体行、どちらもそなたの魂を、多少は 強め高めはするなれど、
直接そなたの魂を、より高く昇華させうるものは霊行なり。霊行をおいて他なし。
よいな、明日に明日にと 霊行を延ばし延ばしゆくことは、神に対する裏切りに等しきことと心せよ。
神を真に敬い、お役に立ちたくば、すぐにでも、そなたのみ役を果たさんと心せよ。

我々の伝えしこと、聞かせしことを、人にも伝え、聞かする努力を怠らず、
明日には新たなみ役を賜らんとの心組を持ちて、今日の行を行ってゆけ。
明日に延ばせし今日の行は、明日にては遅すぎしこともあるものなり。
日々霊行は変わりゆくものなれば、今日せぬ霊行を明日行いても、それは既に霊行ならぬ、
ただの人間心のなせる行ないなりて、神の御心に適うや否や、はなはだ心許(こころもと)なきものなり。
よいな、ひふみよ、書を拡げ、この書記を広め、神の声を知らしめ、神とのご因縁を深めるお手伝いを、明日にも行えよ。
今日は今日の行があり、霊行があるらん。明日には明日の霊行があるなり。
し残しし霊行は、明日には遅いものあり。時の短き、去る時の速きを思いてためらわず、行を行ってゆけ。
辛く長い行の明けには、楽しく明るい喜びの時を迎えられん。
その時を迎えられるよう、日々の行に励み、日々心を新たに、うむことなく、たゆむことなく、行を行え。
今日、そなたに我々は、多くのことを伝えし。そなたに望む霊行の遂行を、心より望み、祈るばかりなり。
共に行じん。共に励まん。そなた一人にての行にあらず。
我等と共にあることを、信じ、忘るな。
よいな、ひふみ、ひふみよ、ひふみともこよ。伝え、終わらん。


一九九九年九月二十一日

神は人を創りたまいしとき、人に それぞれのみ役を課された。
ある者には教育の道、ある者には芸術の道、ある者には宗教の道、そしてある者には学問の道。
このように、人は人としての行、み役を課され、それを行じて、この世の行として行じることを望まれた。
なれど、それのみが行の全てではなく、もう一つ、霊行なるものを行じなければならぬように仕組まれた。
人により、生まれし時代、所により、その霊行の形、目的は異なりてみえようとも、
相通ずる一点は、人が己れの我を取り、執着を取りて、己れの欲得によらず、己れの利害から離れて、
神に仕え、神に祈り、神に近づかんと欲する気持ちを高めることであった。
なれば、人は、目の前の欲得に動かされるのではなく、広く高い境地から、
己れの今ある意味を悟り、己れの生を受けし意味を見つけ、真摯に神に感謝を捧げ、実直に生を生きることが求められよう。
人のために何かをしてさしあげる奉仕の精神、神に捧げる誠の感謝、宇宙万物に帰依(きえ)せんとする崇高な願い、
そうした思いを常に抱き、育むこと。そして、ありとあるこの世の全て、
目には見えねど確かに在ると 無意識にでも感得できる宇宙意志、神、霊、神幽現(しんゆうげん)の世界、そうした諸々の事象を、
目には見えずとも信じ、畏(おそ)れかしこみ、己れの微少な生の営みを、神から与えられしものとして、尊く生きんと、心を高めゆくこと。
そうした心の営みを、日頃から心がけ、たゆまず努力すること。人が霊行を行うための、必要にして最低の心がけなり。
さすれば、霊行は、望まずとも自然に進み、自然に成就し、神の御心に、自ずと添いゆくこととならん。
なれど、人の心で、損得ばかりを計算し、目先の利益に振り回され、人の目、思惑、噂、評判ばかりを顧慮するならば、
行は滞り、いつまで経ちても、一向に進まず、ついには何も行うことなきまま、生の終わりを迎えゆくなり。
よいか、人の心は飽きやすく、うつろいやすく、変わりやすい。
今日の強き決意も、明日の僅かの障害で、たちどころに雲散霧消(うんさんむしょう)し、別の思いに囚われゆくなり。

日々、こうしてそなたに伝えることも、そなたの心の中で、恐らくは、初めのときの感動を伴いて書かれはせぬであろう。
それが、人の心なり。弱く、はかない人の常なり。
よきこと聞き、よきこと知りても、時と共に、薄れ、弱まり、ついには何も聞かぬと同じになりゆく。
それが、多くの人の在りようなり。

よいか、ひふみよ、我々はそなたに、目覚めのときを待ってきた。
真の魂が、目覚め、悟り、高まることを望んでまいった。
そして今日、そなたが我々の言葉を聞き、書きて残さんとの思いを高め、それを日々怠りなく励行するを、心より嬉しく感じている。
なれど、そなたに伝えしように、それのみで終わりては、何の意味もなきこと。今一度、反省せられよ。
人に機会あれば伝え聞かせ、教え 説きて、その人の霊魂が、目覚め、活動するの助けをすること。
或(ある)いは、その人の魂が、浄められ、高められて、神とのご因縁を深めることを手助けすること。
或いは、書を配り、配られし家々で光を放ち、その家の家族、先祖、家の守護神、守護霊たちも共に神の光をいただけるよう、
手伝うこと。以上の三つを滞りなく行い、行を積みゆけ。
今の世の中に、幾人(いくたり)の魂が、神とのご因縁を切らずに保ちているか、思い描いてみられよ。
神は、ご自分から その縁をお切りになることはない。
人が、自ら、たとえ知らずにとは いえ、神との縁を切り、去ってゆくなり。
そうした さまよいし魂を救い、神とのご縁を取り戻し、この世の立て替え立て直しに臨んで、
一人でも多くの魂が、神のお役に立たんと望むよう、一つ一つの魂を高めゆくこと。

そのための神の手伝いが、人としての行ではなく、神の子としての大切な、最重要なる行なるぞ。
よいな。ひふみよ、心に刻め。
日々、心新たに、霊行を積め。目の前の些事(さじ)に追われて、大切なる行を、怠(なま)けるなかれ。
一つ一つ、そなたに伝えることを、一つ一つ、行じてゆけ。
一つ一つが 霊行なり。神の御心に添う、神の御心に適う、霊行なり。
なれば、たとえ 心行体行は遅れようと、先ずは霊行から始められよ。
一日の、始めと終わりに、神に向かい、感謝を捧げ、祈り、挨拶を欠かすことなきよう。

これにて、本日の伝えは終わる。
神に感謝を。誠の心からの感謝を。


一九九九年九月二十二日

神は、人のために、人の役に立つ多くのこと、ものを人に与えし。
その多くは、人を幸せにし、また、人の役に立つべき筈(はず)のものでありし。
なれど、人間心(にんげんごころ)でそれらを使い、作り始めるや、人は独占欲、利己心、自己愛の奴隷となり、
人に分け与えるよりも、自分が、自分一人のものに、自分だけのために、そうした強い我執の虜(とりこ)となり果ててしまいし。

よいか、人とは かように心弱く、また、我欲強きものなり。人に役に立たんという気持ちは生まれにくく、また育ちにくい。
それが行の始めなり。

人に分け与え、人と共に栄え、人と共に楽しむ。それが神の望まれし、初めの人間たちなり。
なれど、人が物、物質、金銭と、己れの願望を満たさんための工夫を凝らし始めし後、
人の考え、思想、観念、価値観、全て物質にのみ占有され、心、精神、魂、先祖、神、
そうした目に見えぬものはことごとく忘れられ、隅に追いやられてしまいし。
なれど、さなりても、人の幸せを司るは心なり、神なり、魂なり。
いくら物に囲まれ、金銭に埋もれてみしも、ますます困窮の感を強め、餓(かつ)え、満たされぬ空しさのみが募るものなり。
なれば、いかに、人は心を満たすべきなるか。心を豊かにすべきなるか。
答えは一つ、神の心を取り戻すことなり。神の心に立ち返り、神の光に己れの魂を照らすことなり。
言うは易く、行うは難(かた)し。人は、目に見えぬものへは、なかなかに心を捧げることはできぬものなり。
なぜなら、人は肉体の目のみが発達し、心の目、心眼をば、衰えさせてしまいしなればなり。
心の鏡もて、己れを照らし、己れの魂を照らし見れば、容易にわかること。
己れの曇りし魂が、今 いかに汚れ、腐り、汚濁(おだく)にまみれしか。
なれど、人は、心の鏡すら持たず、上辺(うわべ)の 美醜や、上辺の見た目のみを気にかけ、
真に己れを支配し、操る元の魂をすら、物質の奴隷と化さしめしなり。
人が、これから後、神の道に戻るには、先ずは心を浄め、曇りを取り、汚れを浄めねばならぬなり。
それが神とのつながり、結びつきを強め、また、己れの踏み迷いし迷妄(めいもう)から逃れる第一歩なり。

なれば、人は先ず、神を知り、神のご存在を信じ、神に帰依(きえ)する心を強めゆかねばならぬ。
なれど、心低き者にいくら聞かせても、声は耳からすり抜け、光は翳(かげ)りを照らさず、ことばは空しく虚空(こくう)に響く 空しき音の集まりに過ぎず。
されども、もし人が、誠の心持ちて、誠の心から人のために尽くし、奇跡を見せ、光による諸々(もろもろ)の奇跡を行えば、
心低き、魂 低き者も、いやがうえにも信ぜねばなるまい。
人が行いし奇跡は、神のみ力に因るものなれど、身近な人のことば、身近な人の経験なれば、そは最も信ずるに足るものならん。
なれば、人を救うに、身近な人から救わんとするが一番なり。
心高く、心浄め、日々神に祈り、感謝し、神につながらんとの想いを忘れず、
神のお役に 立ちたしの念を強めゆかば、その人の魂は、自ずと神の御心に適い、神はみ力を惜しみなく与え下さらん。
なれば、人が迷い、心弱く、己れの道に不安を抱かば、何より神を思い起こすべきなり。神を求めるべきなり。
困りしときも、苦しきときも、神は共にあらせらる。
神を信ずる一念が、心を鎮め、心を安ませ、心を輝かせゆくなれば、人の心は、神を思うか否か、それ一事のみなり。
神を信じるとき、人は悪しき想いを持たぬ。神を思うとき、卑しき念は遠ざかりゆく。これみな、神のおかげなり。
神が人に光を照らし、人がその光を受くる状態にあるが故に、神の光は素直に人の心、魂に、無駄なく降り注がれるなり。
人は、全て神の御心に適う天性の清き魂を持ちて生まれる。そこには何の不平等も、差別もあることはなし。
あるは、神の思惑により、人それぞれの行の質の違いのみなり。

行は その者に必要ありて課さるるものなれば、人は嫌わず、いかなる行も 有り難く遂行すべきなり。
もし、人間心で怠る行あれば、後に再び、別の行として、さらに厳しさを加えて課されよう。
訳なく課される行は一つとしてなかりせば、神のお仕組みを信じて疑わぬ、素直で真白き魂でそれを受くべし。
神は人に、人としての成長を望まれ、また、人としての行を修めし後、
あの世に帰りてからも、神のお役に立つ魂になる行を積むことを望まる。
魂が昇華し、霊層を高めし後は、次には人を導く魂に昇華することを望み、そのように仕組まれる。
人が神のお仕組みに応え、神の御心に適う魂にまで成長せし後は、
この世の人を導き、神のお役に立つ魂を さらに増やしゆくことが大事なり。
それ故、魂の修行は、終わるときなく見えるとも、魂の昇華は時を要すものなれば、
一つ一つ、一段一段を登りゆくことが最も近道ならん。焦らず、急がず、今ある行を、誠の心で、誠を込めて行うのみ。
ひふみよ、混迷の時なり。困惑の時代なり。
そなたも、人も、惑いに悩み、苦しむこと多かるらん。なればこそ、神を信じよ。人を救わんの気持ち高めよ。
己れ一人の霊行ならぬ。共に行ずる行なれば、我等と共に、迷うことなく、導きについて来られよ。
そなたの想いが高きものなれば、声も届き、道も拓けん。神に感謝し、己れの我を取り、身近の人への感謝と利他愛を強めゆけ。
霊行は、難きものにあらず。素直な魂持ちてこれに臨めば、露ほども難しきことなし。
要は、そなたの心に曇りなく、汚れなくば、行は進む。神の後押しがあればなり。
よいな。ひふみよ。
神の力に頼るのではなく、神の み力にすがるのではなく、神の み力を信じて、
人間心で案じる気持ちを捨て、素直に臨めば、道は自然に拓けゆくのだ。
よいな、忘るなよ。神は慈愛なり。神は慈しみなり。

神のみ手に身も心も委ねる気持ち、その安らかさを持ちてゆかば、神は己れの最も近くにあらせらるよ。
さあ、今日もそなたに伝えしこと、繰り返し読みて、行を行え。
明日もまた、そなたに伝えん。


一九九九年九月二十三日

神が創られし人間、万物、自然、地球、生命の全ては、
この世の始まりしときに、この世で初めて創られしものとして、この世に清く美しい世界を実現させるために、
多くのみ恵みと数々の 目には見えねど、今よりはるかに高い能力を授けられおりし。
そして、その一つ一つを、それら全てを使い、力・能力を合わせ、共に励むことで、神はこの世に幸福と繁栄をもたらさんとされし。
なれど、先にも何度も告げしように、人間一人一人が、己れの我の虜(とりこ)となりて、
己れの我欲、損得、執着に使われ始めたがために、神のご意図は無視され、神のご意図とはおよそかけ離れし世と化さしめた。
神が再度この世を立て替え、神の国とし、ご自身もこの世に降りられるような、清い世界に甦らせるためには、
人一人一人を変えていくことが必要とお考えになられた。
そして、神の国から、人として使命を持たされし幾つもの魂を、この世におつかわしになられた。
そうした一人一人の魂は、これまでになく、急速に一つの集まりとして集まり始め、呼び集められている。

神の命ぜられしみ役なるものを、それら魂の一つ一つが、思い出し、その実現を進め、存分に個々の能力を活かし、機会を利用して、
この世でのみ役を果たすために、それら魂は、神の声を聞かされ、或いは神の書を書かされ、
また、神の御心を映す諸々の諸芸術、諸宗教、諸集会などを通じて、互いの存在を確認しつつ、互いが協力し合うようにと仕組まれた。
今、この時、この世だからこそ、人の最期の時だからこそ、人は心を入れ替えねばならぬ時だからこそ、
神は一つ一つの魂に、直接、間接に、声を、光を、力を与えられた。

ひふみよ、そなたも信ぜしように、我等霊界におる者も、共にそのみ役を果たさねばならず、そなたに呼びかけ、語り続けてきた。
今日そなたがようやくにして、己れの眠りから 覚め、神の子としての目覚めを得、神のみ役を思い出し、
神のお役に立たんと心を高めし こと、切に嬉しく、また、ありがたく思うなり。
ひふみよ、溢(あふ)れ出づるように、心に浮かぶことば、想念は、皆我等からの通信なるぞ。
恐れず、疑わず、ひたすら神に感謝を捧げつつ、我等の送信を受け、文字に変えゆけ。書き残しゆけ。
先ずはそれがそなたの霊行の第一歩なり。
なれば、一つ一つを、元の赤子のように、一つ一つを覚え、そなたの力を磨き、高めよ。
先ずは、ゆっくりとで構わぬ。遅くてもよからん。
焦らず、急がず、神の御心に適う魂を 育み、神に感謝し、人に感謝し、ものに、事物に、現象に、全てのものに感謝を捧げ、
心を開く鍛錬を積まれよ。それからまた一つ段階を進みゆかば、自ずとみ役も変わり、次なる み役を賜らん。

それまでは、今の我等が導くなり。
ひふみよ、そなたの決意を我等共に喜びし。喜び、感謝し、神に祈りし。
神のご守護を、さらなるみ光を、さらなるお導きを、我等共々与えられんことを、神に祈りし。
己れの我欲ならぬ、利他愛の心で、これからの困難を乗り越え、霊行を行じん。
障害、妨げ、心の迷い、これからも幾度となく、そなたも経験されようが、
我等と共に常にあることを、素直に、深く、胸の奥に刻みおけ。
そして、心の中で呼びかけられよ。迷いしときには尋ねられよ。苦しきときには、求められよ。
そなたの魂と、我等の魂と、両の波長が合いなば、通信は容易に行われよう。
それ故、ひふみよ、魂を磨き、高めおけよ。下卑た、卑しき汚き想念は持たれぬなよ。
高き、清き、直(なお)き、清々しき想念に満ちるよう、常に心高く、晴れやかな心で過ごされよ。
よいな、そなたと共に歩まんかな。共に行じんかな。共に神のみ役を果たし、神のお役に立たんかな。

今日、そなたの問いは何なるか。問うてみられよ。

〈己れ、我欲、自己について〉
己れ、我欲、自己、全て神の心を失いしときにはびこり、力を強める悪しき想念なり。
ひとたびこの想念に使われなば、それから逃れるに難(かた)く、それを取り去るはさらに難し。
なれば、人は、神を想い、己れの魂を磨き高め、己れの存在と神のご存在との共にあることを喜び、常に感謝を捧げおくことが肝要なり。
神が創られしときの人間は、一人一人が個でなく、我(が)でなく、我(われ)でなかりし。

人は、神の子、神の写し絵、神の心を持たされ、神の心を映す、何にも染まらぬ透明な魂を持ちて創られし。
なれば、一人一人がそのまま、神と交信し、神の声を聞き、神と交流を楽しむことすら可能なりし。
人が己れを持ち始めしは、全て、物質が心を越え、物質が、魂・心以上に価値を持つと人が信じ始め、
心・魂を隅に押し込め、我欲に魂を曇らせ、我欲に取り付かれしときからなり。
なれば、人は 己れを戒め、己れの奥底に眠らされし魂を復活させ、その居場所を整えゆくことが大事なり。

〈宗教とは〉
宗教なるは、神が、ご自分のご存在を現界の人間に知らしめるために、作らせしものなり。
神はそれをもちて、先ずはご自分のお力をお示しになり、信仰を持たせ、
人間の理解を超えし力の存在、人間の知恵を越えて及ばぬ英知の存在をお示しになられる。
それをもちて、人が神を見付けることを、己れの中に眠らされし魂、魂の奥に隠されし神のご存在に気付かせることを図られた。
なれど、現行の宗教、教団の多くは、初めの元の神のご意志を映すものは少なし。
時を経るに従い、人の思惑が先に立ち、神のご意志をそのまま映すものは残り少なし。
信仰と宗教は別なり。
信仰持ちても、宗教持たぬ者有り。宗教持ちても信仰持たぬ者有り。いずれも神は認められよう。
なぜなら、己れの意志、意図に関わらず、神のお役に立つ行いなせば、自ずと魂も変わりゆくなり。
なれど、信仰持ちても何もなさねば、神はその魂を 昇華させることはおできにならぬ。
同じく、宗教持ちても、自ら何もことをなさねば、やはり、神は 真にその魂をお救いになることはできぬなり。
心、魂、肉体、一つなり。一つのものなり。
それ故、宗教も信仰も、己れの全てをもって行うべきものなり。心のみの信仰、宗教に、何の価値もなし。

肉体のみの真似事の行い、これも価値なし。
なれど、神の御心に適う行いなせば、心、魂は 気付かぬうちにも変わりゆく。
なれど、行い何も致さねば、いくら心高く、口に清きことば述べても、神の御心に 適うことはなし。
なれば、宗教に入りし者は、救われ易く、宗教に入らぬ者は救われるに難(かた)きも それがためなり。
よいな。しかと覚えおけ。
行い、行動、働き、行、これら全て、肉体を伴う。
肉体 なければ、行はなし。肉体なければ、現界の行なし。現界の行、即ち全て肉体もちて行うことなり。
よいな。想念のみにては、魂は向上せぬ。心は浄まらぬ。肉体は浄まらぬ。
行いもちて人は、昇華しゆく。これを可能にす。
しかと命じておかれよ。そなたの胸、肚(はら)、魂に。


一九九九年九月二十四日

神は、人と、人と共にある様々なこと、もの、現象、天命、人一人一人の行うべきみ役、全てを仕組まれ、
ご計画に沿って、神仕組み、神経綸をお進めになられてきし。
今、最後のお仕組みとして残りしは、この世の立て替え、立て直しのみなり。その神仕組みがようやく成就を迎えつつある。
そは、神がこの世を創られ、この世に、神の御心を映す地上の神の国を創らんがために、この世の初めから定められしことなり。
この世が、次第に汚(けが)れ、崩れ、神のご意図から離れゆくも、神はこの世の初めから、予測もされ、そのようなご計画でありしといえよう。
人が一度(ひとたび)は汚れ、曇り、我の奴隷となり、神を忘るる。
そのことすら 神は 初めからご存知のことにありし。
人には、この世が神のご意図から外れゆくことを、憂うる者もあろう。
行く末を案じて、己れの力をもちて、この世を作り直そう、作り変えよう、そう意図する者もあろう。
なれど、神のお仕組みが働く以上、それら人間の業(わざ)、人間の知恵、人間の技術・能力、全て限界あり。
できることの範囲は極めて狭く、ものの数にも入らぬ行いなり。
今、人に求めらるるは、神のご存在を知り、神に全てを委(ゆだ)ねる心、神に全てをお任せする心、
神に一途に帰依(きえ)せんとする、真白き魂への、浄化なり。
なぜといえば、神は一切を、ことの始まりから、一切を仕組まれ、企図され、何もかもを お決めになっておられし故(ゆえ)なり。
今、人が恐れ、慌てふためきてことをなすも、その多くは小手先の、ただただ些末(さまつ)な、取るにも足らぬ行いに過ぎぬ。
今、神に降ろされし魂、即ち、最後の時に臨みて、最後の仕上げを、神仕組みの最後の仕上げをするに当たり、
神のお役に立つために降ろされし魂、神のお仕組みの手伝いをせんと 命ぜられし魂が、各々(おのおの)のみ役を実行に移し始めし。
神に授けられしみ役を果たし始めし。神のお仕組みによりて、ある者は書を、ある者は光を、ある者は声を、
己れの能力・才能・天分に応じて、人に広め、知らしめ、気付きを与え、悟りを得させ、心・魂の浄化を手伝いつつあるなり。

神のご経綸、神のお仕組みは、そのためであれば、
いくらもその者に力・光・能力・機会・人脈・金脈・物質・金銭、いくらでもお与えになる。
なれど、それら全て、み役のためなり。み役を果たし、世の立て替え立て直しに活かすためなり。
もしその中に、神の御心に適わぬものが多少なりとも混じりおれば、
神仕組みは容易に働かず、その不純なるものが取り払われるまでは、お仕組みを賜ることはなし。
もし、神のために、利他愛のために、み役のために、その者自身は汚れなく、純粋に、無垢に、
み役を果たさんとしても、そに関わるもの・こと・人、いずれかのどこかに、
その行を行うに相応しからぬ思いを持ちしもの・こと・人あらば、神は先ずそのことを戒むるなり。
それ故、人は、謙虚に、素直に、己れの心、行い、魂、肉体の行、日々の行、人との交わり、人への思い、改め見直す必要あり。
神は、現象をもってお伝えになられる。神は罰をお与えになることはなし。
全て、必然の結果なれば、起こりし不幸は、己れの行いのいずれかどこかに、必ず誤りあり。
その必然の結果を、現象によりてお示しになるのである。
それ故、よいな、ひふみよ、
この世で起こる一切は、己れの行・行いの必然の結果なれば、よきことはよき心の、よき行いの、よき魂の結果なり。
また、悪しきことは、悪しき心、悪しき行い、悪しき魂の結果なることを思い、常に己れを省みることを忘るなかれよ。
なれど、ひふみよ、神は喜んでおられるよ。そなたの行い、思い、行、日々によき方向に向かうなれば。
そなたの内の魂が、ようやくに目覚め、自らの行に、日々素直に従い、神のお役に立たんとして、行に励んでおること、
神はご存知なり。
よいな、これからも、一途な思いを忘れず、神経綸(けいりん)のための己れのみ役、果たされよ。

そして、我等の声を、そなたの 励みとし、心緩めることなく、日々、気持ち新たに、気持ち引き締め、行を積めよ。
今日は、そなたへの伝え終わらん。


一九九九年九月二十五日

神が、この世に創られし
この地球、自然、大地の恵み、太陽の恵み、海山の産物、植物、動物、昆虫、その他の諸々の生物、そして万物の霊長たる人類、
こうした一切の創造物は、みな神の み力、ご意志、ご意図によりて創られ、生を与えられ、魂を与えられ、
そして 多くの能力、知力、体力、それぞれに見合いし、全てのものを必要に応じ、程良く備わせられた。
それ故、一つ一つの調和、意識せずとも 自ずと生じている全体の協力、団結が、各々は意識せずとも、
自然に図られ、また、働くように創られていた。
なれば、人のみが、己れを持ち、己れのみを大事にしようと望み、行動する。この世にある生命の中で、最も 魂を汚した生き物なり。
なれど、それにても、神は、人をお見捨てにならず、
数々の、啓示、現象、事象によりて、人に気付きを与えん、悟りを与えんと、骨折られた。
気付きを得る者は少なく、逆に神を 呪い、恨み、憎みて、やがて神から、急速に離れてしまう者が多かりし。
神は、いつか気付くことを信じつつ、多くの奇跡も行われた。

人を使い、自然を使い、動植物を使い、地球・宇宙・この世にありとある森羅万象に秘められし、
神の神秘、神の 奇跡、神のご意志、ご意図を、人に分からせんと工夫された。
なれど、気付かぬ者多く、今ついに、み役を持たせし多くの魂を、この世に順次送られ、人の改心、悔悟、改俊、
そして神への下座(げざ)と、我の浄め、魂の昇華を、人一人一人が、これまで以上に 容易に進められる環境・条件を整えられた。
なれば、今の世の人は、これまでの長い歴史の中で最も神に近づき易く、神の光を受け入れやすい、ありがたい環境といえよう。
なぜなら、昔まだ、これほどまでに、地球・自然・環境・生命の体系、お互いの連鎖が今ほど狂っておらず、
神もそれを見守っていられた時代には、神はこれほどご自分のご存在を示す必要もなく、人の中に幾人(いくたり)かの魂を送り込み、
その者に、奇跡を起こさせ、光を示させ、声や文字をもちて 人に伝えれば、それでことは済み 治まりおりし故(ゆえ)に。
人は、今、最も危険な時を、なれど最もありがたき時を、迎えんとしている。
神の奇跡は、ご自分のご存在をお示しになるだけでなく、
人をして、いやがうえにも心を入れ替えさせ、心に染まずとも 魂を浄化させることとならん。
この時に当たりて、最後まで神を信じず、我を張り、己れに囚われしままなれば、それは魂の永遠の消滅となるのみ。
積み来たりし、多くの罪、汚れ、魂の曇り、濁り、それら全て、一度に浄化させよ。
遅れし者は、今、この時にも まだ間に合うべし。
最後に伝えられる、神のご意志、ご意図、それは今 初めて人に伝えられることではなく、何千年も前から、人々に伝えられしことなり。
宗教者はみな、知っておりし。

いかなる宗教であろうと、この世の終わりに神が現れ、この世を一度は壊滅させ、
そして残されし者を 使いて、この世を再び神の国に復活させるであろうことを。
宗教、流派、信条、信念、細かい違いはあろうとも、皆、同じ内容を伝えしものなり。
なれば、人は、宗教の違いによらず、
全て同じことを知り、目指し、己れを磨くことを、魂を浄め、高めることを、図らずも、行わせられしものなり。
神のみ力、神のお仕組み、神のご意志、ご意図、神経綸(けいりん)、これら全て、
今の世にては、人の意識・知識・概念・能力・常識、良識を越えしものなり。
どのように学問を積みし者でも、神を知らぬ者は不幸なり。
逆に、何ら学なく、教養なく、知識・学問・特技なく、文字を 読むことすらできずとも、
神の偉大さ、崇高さを、素直に感じ、信じらるるは幸いなり。
なれど、学問も大事なり。教養も大事なり。文字が読め、ことばが話せ、神の伝えんとすることを素直に聞け、
そのことを人に、文字・声・ことば・書・光・音楽・絵画、その他の ものを用いて 人に伝えること可なる者は、さらに幸いなり。
そなたの思う幸せとは、いかなるものか。答えられしか。
我等の思う答えなるものは、今伝えしことなり。
人としての行が、神の子としての行と直結し、心素直に、目の前の学問・知識に曇らされることなく、踊らされることなく、
己れに 課せられし行に取り組み、最善を目指すことができること、
そして、神の御心に適うか否かのみが心の基準であり、心の働きが神と一体化し、
己れなく、我なく、人なく、自分なく、あるのは神の、ご意志、ご意図のみであるような、そうした心組になれることなり。

さなれば、人は、一切の束縛から放たれ、自由無碍(むげ)に、行い、楽しみ、
無限の喜びに満たされ、無限の光に照らされ、神への感謝、歓喜、感動に満ち溢(あふ)れん。
人の幸せとは、現世のみに関わるものではなし。永遠の時の流れの中で、各々の魂に応じて決まりゆくものなり。
今、富に満たされ、金銭・物質に囲まれ、何不自由なく贅(ぜい)を満喫しようとも、あの世に戻らば、何も持ちてゆけぬなり。
あの世に持ちて帰らるるものは、魂一つなり。
汚れし魂 残りし者は、あの世にて その汚れを取るための、苦しく 辛く、長き行あり。
汚れ、曇り、濁りし魂の垢を取ることは、この世以上の苦しみなり。
磨き磨きて、磨き続け、神の御心に適うまでには、この世の倍も、数倍もの労苦を伴うものなり。
それ故、人は、できる限り、この世での行を積み、魂を磨き、浄め、高めねばならぬなり。
人はこうして、この世の行を積むなれど、苦しいだけが行にあらず。楽しく、嬉しく、喜びに満ち、心豊かに行えるが 本物なり。
苦痛、快楽、どちらも人間には大切な感覚なれど、どちらも魂に曇りを作らん。どちらに 囚われても、魂は雲り、汚れてゆかん。
望ましきは、程良く、どちらも経験し、心を常に 中庸に保ち、安定を心がけ、自然に落ち着く境地にあること。
難しけれど、魂を鍛え、心を鍛え、己れを強く律する鍛錬を行いゆかば、自ずと到達せん。
今日、そなたは大切な教えを賜りしよ。そは、人の幸せについてなり。
そなたが望む幸せは、そなたの思いがどれほど、神の御心に適うものか否かで決まりゆかん。
神の御心に添い、神の御心に近づかんと努力することで、そなたの魂が 神の御心と調和し、連動し始め、共振し始むれば、
ことは一切がうまく運びゆかん。それまでは、己れの 鍛錬を繰り返し、魂を浄め高めてゆくことが第一なり。
この世での栄耀栄華(えいようえいが)、その空しさ、はかなさは、古来 人も語り続けしことなり。
この世が全てではなく、あの世にても魂は続き、
幸せが、単に肉体のみに与えられ、感じられるものでなきことを知らば、幸せなるものの本質も自ずと悟られよう。
本日も、よく心を浄め、高める行を積まれよ。そして、神に感謝の気持ちを捧げて過ごせよ。
道遠く、険しく、困難に見えようとも、人間心を捨ててかからば、そは決して遠く険しき道にあらず。
神のみ光に照らされ進みゆかば、長き道も、明るく楽しく、喜びに溢れん。
神の偉大な御心に、少しでも己れの卑小な心を近づけ、我なく、欲なく、執着(しゅうじゃく)なく、自由なままに
神と共にあることを感じ、信じ、神と一体化して歩むとき、神は 多くの恵み 仕組みを授けられん。
光照らし、光明世界を実現されん。

神仕組み、神経綸(けいりん)、一人一人のためにありし。そして、人全体、地球全体、宇宙全体、一切のために働くなり。
神人一体、人皆、神の子、宇宙の一部。なれば、一人の我欲に囚われ 生きることほど つまらぬものなし。
大局に立ち、神の心でこの世を見れば、いかに一人の人間が矮小なるか、見えてくるらん。
人、神、その間に何もなし。神は、そのまま人なり。人と共にあるなり。
人は神なり。人、行を積まば、神の御心そのものに なりゆくなり。
行は、行なり。なれど、己れの魂が、奥底にて求める行いなるべし。
神に課せられしといえども、己れの魂が必要とし、自ずと求めているものなり。
なれば、その魂の要求に素直に 従わば、行は進み、何の労苦、困難、苦痛がありようか。
素直に行じ、素直に進む、それが第一なり。

苦しみ、迷い、戸惑い、悩む、それはその行に誤りあるなり。
かような行は、かえって魂を曇らするものなれば、むしろ やらぬがよき行なり。
人一人一人、行を見付け、行を見いだし、素直に行ずる。一途に行ずる。それが神の望まれるあり方なり。
よく求め、よく聞く者は、よき導きを得ん。
よく望み、よく働く者は、よき実りを得ん。
よき心、よき魂、よき働き、いずれが先か分からねど、人の全てをもちて、行を積まば、全体がよく動き、巡(めぐ)り始めん。
考え過ぎず、悩み過ぎず、目の前に囚われず、大局から眺め、考えてゆかれんことを。
大局から考え、行うことは、神の御心に適うことなり。
必要あって、仕組まれしことも、さすれば見えてこよう。
己れの中に閉じこもりしは、己れの目を雲らすことなり。
今日も、そなたの行の成就を祈らん。
これにて今日の問いは終わらん。


一九九九年九月二十六日

神は人と人との間に、何ら優劣、差別を置かなかりし。
その昔、人は皆、同じ能力、知恵、体力、知力、性質、欲望、その他を与えられし。
なれど、一人一人のみ役を、それぞれに 与えられし。

そして、そのみ役に沿いて、人人、一人一人の能力を変えられ、差を設けられし。
それ故、人の目からは、一見優劣、差別、違いと見えようが、それは誤りなり。
神は それぞれの能力に差を付けられたのではなく、み役に違いを持たせられ、
それに応じ、それに見合う能力の差を 多少お付けになられたに過ぎぬ。
なれば、一人一人、行うべき行は 違おうが、それを行うに当たりては、
充分に、そのみ役を果たすに必要かつ充分なだけの 能力を与えられし。
今日に至るまでの間に、人は、己れのみ役を見失う者、多かり。
己れの み役を忘れ果て、己れの利益、己れの欲得のためにのみ、神から与えられし能力、体力、知力、その他の才能、
特質を用い始め、
己れの満足、空しき栄誉、くだらぬ利益、はかなき名声ばかりを追求し、それに明け暮れしておるのだ。
神が与えられし能力、知力、体力、特質、才能、諸々の個性は、それ故、神の御心に適わぬことに利用され始め、
人はますます、己れのみ役を見失い、目の前の利益にあくせくし、周りの目ばかりに振り回され、
人の噂に踊らされ、使われ、自らを失い、ついには、よからぬ霊、神の手先と落ちし者も多しという。
神はそうした事態を憂い、かつ、嘆きもされし。なれど、そも神の初めからの、ご計画に 含まれしことなり。
なぜなら、神は、人の乱れ、世の乱れ、地球の乱れ、この世の汚れ、
そうしたことの全てが、神のご計画にある神経綸(けいりん)の一部なれば、神はそれをよしとされし。
人には 様々なみ役あり。悪は悪なれど、必要悪なり。
善は善といえども、必要にして行われるものなりて、その行いし者の、自らの意志からなされること、少なし。
善といえども、その魂をめぐる、数々のお仕組みによりて、実現され、現象化することなり。
なれど、そも、その魂の努力足りなければ、起こるべきことも起こし得ず、なさるるべきことも なされぬままに朽(く)ち果つるのみ。

神経綸、ご神策、神の道、神の意志、それら絶対なり。
人の努力、能力、全て小さく、脆(もろ)く、はかなきもの。神のみ力を得しとき、能力、努力を超えしこと起こるなり。
神が人に望まれし この世での行を、一つ一つ積みゆかば、神のご経綸は、少し進まる。
神の御心に適いし行を、この世で充分に果たされれば、あの世での行は、軽くもならん。
なれど、神の御心に適わぬ行い、振る舞い、行動多かれば、神は現象もって、そを改め、反省するの機会を与う。
謙虚に、素直に、神のお役に立つことを望み、日々行を積まれること、それが第一なり。
神に望まれ、神に求められる魂になられよ。
神の御心に適う、神の御心に添う行いを行われよ。
神は何もなさらず、お考えにならぬのではなく、全てを人に任せておられる。
全てが必然として、もの・ことの成りゆきを見ておられる。
なれば、人は、努力して、その成りゆきのなるがままにするのではなく、
神の御心に適う ことを行うよう心強くし、神と共にあるの意識を高められよ。
本日、これまで伝えしこと、これまでと同じ内容なれど、明日からもこの行 続けられよ。
明日には明日の、明後日には明後日の、伝えらるべきお伝えあり。

〈文明について質問〉
文明なるは、人のみが持つことを許されしものなり。
文明、即ち、人を より幸せに導き、思いを高め、神に感謝するの念を強めるべき、神の御心の表れとなるものなるべきなり。

なれど、文明の成果は全て、人の欲得、利害損得に駆使され、神の心は跡もなく、消され、忘られ、捨てられし。
それ故、今現在の文明は、腐れし物のみにて、それを使う者の魂、心、肉体のことごとくを蝕(むしば)みゆくものなり。
文明の初め、それは、神の御心に適う、人の幸せを増すために、人が己れの能力を精一杯 用いて、生み出ししものなりし。
それ故、初めそれが、人に不幸をもたらすべくもなく、人はそれをもちて、健康、平和、安楽を得し。
そが文明のあるべき姿。神の御心を備えし、正しき在り方なり。
今の文明、全て、汚れ、汚濁を生み、この世に害毒、罪悪のみを撒(ま)き散らすものなり。
神の心を忘れ、神の心を失い、ただただ己れの利益拡大、己れの権利主張と、他への侵略、己れのみがよければ、それでよしの心。
それ故、文明は、今や人を滅ぼすのみのものなり。
腐れ、汚れし文明は、いずれこの世を壊滅(かいめつ)させ、廃墟(はいきょ)をもちて終わりゆかん。人なき世にて、文明終わらん。
文明なけれど、神はおはする。神の御心は残り、新たな創造始まらん。
神の御心、さても尊く、さても深し。強きご意志と、高きご意図。
人の残らぬこの世にも、神は再び 再生を図らる。この世に残る文明、人類、自然、地球、そをもちて、新しき世を、
もう一度創らる。
文明に、神の心を取り戻さん。そが始めなり。そが、立て替え立て直しの始めならん。
さなくば、神は、神のご意志により、文明なるを終わらせん。人類なるを終わらせん。
全てを元に、初めの零(ゼロ)から始められん。
全ては、無から始められん。全ては 空(くう)から創られん。
神仕組み、神経綸、元の初めから、元に戻りて始められん。

それ故、人よ。神の仕組みに外れぬ物を、神の御心に適う物を、作り、使い、生み出せよ。
物に使われ、物に支配さるることの なきこと祈らん。


一九九九年九月二十七日

神と人との違いについて、今日は申し伝えるなり。
神は人に、神の御魂(みたま)を分け与えし。なれば、人は 神の分け御魂を授かりし、尊い存在の筈なり。
そも、この世の初めには、人は、神から、多くの許しを得て、
神のことばを使い、神の力を使い、神の光を用いて、所によらず、時によらず、
何事をも なすこと可なるにより、多くの健、和、富を与えられ、そをもちて、人はおのが幸せを、手に入れし。
人が神に授かり、神にお借りし、神に許されし、数々の恵みが、人から一つ一つ取り上げられし訳は、
人の自我、人の我欲、人の自己中心的観念が、人の内に芽生えてからなり。
神は、人に、数々のみ恵みを、人みなが幸福になるためにのみ、分け与えられし。
なれば、人が他のため、他の幸せのために、それらみ恵みを用いず、
己れの欲望のみを充足させん、人を支配せん、人を押しのけ、
己れのみが 他より多くの物を独りの物にし、楽しみ、もちて遊び、己れの欲望のみを満たさんとし始めし時より、
神は、人から多くの力、能力、才能などを取り上げ、人を一つの肉体のみと ならしめたまう。
それ故、人は、欠けたる 力を補わんと、心行、体行、霊行、それらをもちて、己れの汚れし魂を浄め、高め、
元の力を 神から許されるまでは 続けねばならずなりにし。

人が神に近づくというは、神が初め、元の人に与えし力を 再び神から許され、
再びそれら力を持つこと あたうような魂にまで、おのが魂を高めんことをいうなり。
なれば、人は、己れの魂の浄まり、高まりに応じた心行、体行、霊行を課され、そして、おのが魂の昇華を 果たさねばならなくなりし。
それは、一(いつ)に、魂を元の高さまで、元 神から分け与えられし魂の高さに戻すまで続く行なり。
神とて同じなり。
神もまた、人の汚れが浄められ、高められるまで、その導きを お続けになり、
人が元の姿、魂、心に返るまでは、人と共に行をせられるなり。
神、人、共にあるなれば、神のみが人に行を課し、おのが行はなしということは なかりければ、
人は、そをよくよく肝にも 肚(はら)にも銘じおきて、神に近づかんの努力精進 怠らず続くべきなり。
神は人をこよなく愛し、こよなく慈しむの気持ちを持ちておらるれば、
かつて人が神と共にありしときの、この世の美と、富、幸とを 再び人と共に、喜び楽しまんと望まれるなり。
なれば、人一人一人、心を入れ替え、神に帰依(きえ)し、委ね、ただ己れの行を行じて、汚れ曇りを 祓(はら)い浄めねばならぬことなり。
神に伝えられし ことばの一つ一つを、人の一人一人が、それぞれに応じて理解し、肝、肚に刻みて、おのが励みとすべきなり。
神は、奥底から、魂の奥底から、絶えず呼びかけ、教え導いておられる。なれど、人に聞こえぬ声なれば、気付き悟る人間少なし。
それ故、神は、人の肉身に聞こえぬ声を、人に伝え人に知らしめるために、宗教を作られ、宗教の祖たちに、神の教えを託せしなり。

それ故、人は宗教より、多くの知識、英知、この世で積むべき人の行い、人の振る舞い、人の行について、悟り気付くべきなるを、
おのが曇らせ、濁(にご)らせし魂によりて、聞けども 聞こえず、見れども見えず。
ただ、おのが我欲、利害損得のみを追い求むの性根(しょうね)変わらず。
人は、おのが主なりて、神は隅に追いやられ、押しやられ、おのが利益のみを優先し、おのが満足のみを求むるなり。
なれど、その愚の積みゆきし後に残るは、富になく、栄誉になく、幸せにもあらず。
ただただ 腐れ、汚れのみを積み上げし おのが魂のみ。
ますますの行をし残し、前にもまして 積まねばならぬ行に苦しむ哀れなる魂なり。
なれば、人は、あの世に帰りて後に、おのが罪に苦しみ、
心より悔いて、魂を浄め、魂を高めんと、幾層倍(いくそうばい)の行を積まねばならぬこととなりゆく。
神は人に、さなる苦しみを与えたくなし。さなる辛き、長き、苦しき行は与えたくなし。
人が初めに戻ることを、切に切に望まれる。
神は人を戒め、諌めることあらず。人の一人一人が、自ら気付き、自ら悟るを待つのみ。
そして、人が自ら 行を、ありがたく、喜びて行うことを望まる。
さなれば、人は、心開き、目を開け、耳傾け、おのが深き深奥(しんおう)に眠らされし神を目覚めさせ、その声を聞き、
その姿を見いだし、おのが導きを得らるるよう、心清らに、素直に保ちて、心からの祈りを捧げるべし。
祈りは意乗り、即ち、神の意におのが意を添わせ、神の御心に おのが心を近づけんがための、
魂から溢(あふ)れ出づる神への願いを表すものなり。
神は祈りの声をもちて、人の魂の昇華を認め、一段高き昇華を許さる。

神、清き祈りの声を聞き、その声をもちて、人一人一人の魂の昇華の程を測り知られる。
心に 祈り・願いの気持ちなきもの、神を求めんの祈りなきもの、魂の昇華 許されんの気持ちなきもの、
こは、いくら行に似しこと行えども、真の行にはならざれば、
神に下座し、神に おのが過ち、おのが罪咎(とが) 先ずはお詫びし、許しを乞うべし。
そが、行の始まり、行の根本なり。
罪咎なき人、一人もなし。生くれば、日々、罪汚れを作りゆくなり。
人を苦しめ、人を羨み、人をおとしめ、人を欺(あざむ)く、それが人の我欲、我執なり。
我欲、我執に使われし人は、いつまで経ちても、魂浄まらず。
魂汚し、魂曇らせ、魂濁らせ、汚れまみれるに任せるなり。
そが汚れ、腐れを取り除かんと、心に切に願わくば、何ぞ神に詫びずにいられようか。
神に下座し、これまでの罪咎、汚れ、雲り、迷妄の一つ一つを詫び、悔い、おのが魂の浄めの許しを得んと、
心よりの祈り、心よりの感謝を、神に捧げんと願うべきなる。
神が人に求める気持ち 強くば強きほど、人は神の御心に応えんと精進努力、誠をもちて、神に返しゆかんと心高め、心強めよ。
今日までの おのが存在、おのが授かりしご恩の一つ一つ、限りなきみ恵み、
それら素直に神に感謝し、神に誠をもちて、使われることを喜ぶべし。魂の昇華許さるるを喜ぶべし。

神人一体、神人合一。
なれば、自捨(じしゃ)新生をもちて、神に近づき、神のお役に立つこと望み、
神に誠の行を捧げ、感謝をもちて神に向かい、神の御心を我が心に受け入れ、神の御心にまで高めゆかんと、日々行ぜよ。

行は行として、神に届き、そをもちて、神は魂の昇華を 許さるる。
罪咎、汚れ、雲り、迷妄、これら、人の行のみにては浄まらず。
この世に囚われし心では、汚れ 取れざるなり。心高め、神を求めざれば、汚れ浄まらざるなり。
心高く、遠きあの世も見通す気持ちで、魂の永遠の行を捉え、究めるべし。
本日伝えしこと、明日も続くなれば、明日も聞けよ。明日も書けよ。
明日も、明日も、明日の明日も、神業 終わらず。
伝え残さば終わることなし。み役なり。み役 怠るなきよう望む。