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神から人へ1





1999年12月13日〜1999年12月13日〜1999年12月13日〜1999年12月13日〜1999年12月13日〜1999年12月13日〜1999年12月13日〜1999年12月13日〜1999年12月13日〜1999年12月13日〜1999年12月13日〜1999年12月13日〜

一九九九年九月十四日

これからの そなたの霊行は、書をお配りすることも然り。
こうして我等のことばを聞き、書きて残し、人にお伝えすることも大切な霊行じゃ。それ故、怠りなく行を積みゆけ。
また、神の子として一番大切なのは即ち霊行なり。
人が何故かくも堕落したのか。先にも告げしが、人が霊行を軽んじ、行わなくなったがためなり。
それまでは、積みし霊行により人は浄まり、高まり、神の御心に添った行いを行うことができていた。
しかるに今の世の人々は、霊行を忘れ、ただ現世の欲望にのみ振り回され、こき使われる 魂となりさがったのじゃ。
それ故、今、人が人として最も急ぎ行うべきは霊行なのじゃ。
それは人により、異なれり。しかし、いずれの者にも共通なのが、魂の浄め、浄まり、高まりであろう。
なれど、なかなかにそのようなご縁を頂き、魂を浄め得るものではあるまい。
それ故、書をお配りすることも、神の み光りを広め、この書記を読んで頂くこともまた、何らかの形で、
神の御心、思い、ご意図、ご意志を人に知らしむることとならん。
それ故、それは霊行たらん。

よいか、ひふみよ、そなたに伝えし今日までのこの書記は、決してそなた一人に伝えておるのではないぞ。
それを忘るな、取り違えるな。神の望まれることは 人類全ての救済じゃ。
一人そなたのためでなく、一人そなたの家族、友人のためでなく、
人類全てが真に心改め、心浄め、心あらたかに神を求める素直き人に戻ることなり。
よいな、ひふみよ、神のみ役をよく理解せよ。理解して行えよ。それが決してそなた一人を浄め高めるだけの行となりてはならぬぞよ。
よいな、心せよ。取り間違うることなきよう、しかと申し伝えるぞ。
では、そなたの問いに答えよう。魂を浄め、高めること、それは即ち霊行より他になし。
先にも申ししように、何よりも その方の魂を浄め、高めることを、その方に代わりて、神に願い申しあげることじゃ。
そして、神の光を宿しし書を一人でも多くの人々、家々にお配りし、広めゆくこと、
そしてそなたの書かされし、この書記を人々に、多くの人々に読んで頂くことなり。
よいな、それ以上のことは望まぬ。それ以外のことは求めぬ。ただそのことのみを行じてゆかれよ。
そなたの心を浄め、高めるとは、即ち神を信じ、神に委ね、神を迎えんとする 素直な直き心より他なし。
さて、次なる問いは、そなたの心行についてであった。
先にも伝えしが、それはそなたの心行なり。人として積むべき行なり。
しかれば、それは一つそなたの考え、決めゆくことなり。そなたが素直に進めば、うまく進まん。
しかるに、自ら考えず、人に任せん心あれば、それは神のご守護を得られまい。
これまでどおり、一人努力し、道を進む以外のことなし。
なれどそれが、神の御心に適うことなれば、ことは滞りなく進み、滞りなく終わるのじゃ。
では、先に問われし、書の真配りについて、答えよう。 それも そなたの心一つで決まることではない。

いくらそなたが望んでも、求めぬ魂には光も少なし。求め救われんとする魂であれば、光も多く与えられん。
よいな、今日伝えることはこれまで。そなた自身の精進昇華を望んでおるぞ。待っておるぞ。


一九九九年九月十五日

これから訪れる人類への立て替え 立て直しについては
既に多くの宗教家、予言者、霊能者などにより、ずいぶん前から、言い尽くされもし、書かれもして、そなたも既に知悉(ちしつ)しておろう。
だが、それは決して恐ろしいことでも、避けるべきことでもなく、人類にとって、喜ばしいこととも考えられよう。
なぜなら、それは、人類全体の清浄化であり、地球そのものも再度、新しい命の芽吹きの契機ともなるからなり。
なれど、人は自分が可愛く、家族が可愛く、己れを取りまく人が大事なものであろう。
その方たちが永劫なくなることは、やはり辛く恐ろしくもあるらん。
ならば、人が今できることは、ひたすら神に祈ることなるか。否よ、それは間違った霊行じゃ。
宗教によりては、そうした祈り念仏で救われるとの教えを人に拡げる類(たぐい)のものも多からん。
しかし、それは決して十二分な行とは申せまい。
なぜなら、それは単なる自己愛のみ、己れの周辺のみが救われることをのみ願う 狭い利他愛に基づくものだからなり。
では、真(まこと)の利他愛、人類愛とはいかなるものであり、それをいかにして実践すべきなるか。

先ずはそなた自身考えられよ。恐らくは、そなたも既に気付きおろう。
日々のこの筆記を通じて、利他愛、真の霊行を、それをいかに実行していけばよいのか、神の御心に適うものなのかを 徐々に悟りおろう。
しかり、真の利他愛とは、その相手の真の幸せ、即ち その方の魂が 浄められ、高められることを祈り願う気持ちのことなり。
その方の心が神の御心に近づき、その方が真の気持ちから、神を求め、神にそれまでの非をお詫びし、
神に全てを委ね、任せんとする素直な直き心向けを持ちて 神に対さんとする思いを高めゆく、そのお手伝いをせんと願うことじゃ。
よいな、己れが救うのではない。そなたが自らの力で、その人を諌(いさ)め、論(さと)し、心を変えさせんとするのではなく、
結果は一切 神の御心にお任せする気持ちで、その方の魂が浄化されることを素直に祈り、念じてさしあげ、
できることをできる範囲でしてさしあげること、それが自己愛の入らぬ利他愛なるよ。
では、それを行うには、実際に行として行じるには、どうすべきなるか、今一度、そなた自身で考えてみられよ。
考えてみられしか。そなたの考えしことは、いかなるものなるか。ここに そなたの考えしことを記してみられよ。
(人の魂の浄化の祈り、書を配る、この書記を読ませることなど)
可なるよ。我等の求めし答えと、ほぼ同じものなり。但(ただ)し、一つそなたに伝えんかな。
それは、そなたの心に生じる、幾分かの迷い、疑い、妬(ねた)みや恨みをなくしていこうと精進昇華に励むことを加えられよ。
なぜなら、上の三つだけでも充分な霊行なるが、それでも 人間心は弱きものなり。
いついかなるときにも、自己愛、人間心は消えぬもの。それ故、常に自己を戒め向上を心がけ、
そして、神に向き合い、神の御心に適いし心か否か、自ら問う気持ちを忘れてはならぬのじゃ。
それが神の御心により自らの気持ちを近づけ、高めることの意味なり。

よいか、ただ、念じていても それは無意味じゃ、何も起こらず、何も変わらぬぞ。
一つ一つを行じるとは、常に向上を心がけ、神の御心と、今現在の己れの心とを比べみて、
それが神の御心に適うものか否かを問いつつ、己れの行を見直すことが肝要じゃ。
その上で、先に伝えし霊行を、日々行じること、己れの欲得を離れ、ただ無心に行じればよいのじゃ。
無心と言いしは、神に心を全てお預けする、全てを委ねる、清浄無垢の境地を言う。
決して己れの我欲に囚われず、利他愛すらなく、ただ神の御心によりて動かされることを、
神に感謝申し上げること、それが、無心に近づく方法なり。

よいな、ひふみよ、我等の日々の行を通じて、そなた自身が変わられることを、願っておる。
無心となりて、疑いを捨て、神のお役に立てることを喜びとして、神の御心に適う魂を願いて、行を積めよ。
しかれば、徐々に変わりゆかん。徐々に気持ちも心も高まらん。
これもまた、一つの修行なり、霊行なり。
よいな、み役はある日突然命じらるるのではなく、こうして鍛え、試されを、繰り返し後に頂けるものなるよ。
それ故、日々を大事にせんことを祈り、願うばかりなり。
日々、行じられよ。己れの心を 魂を、高めんと努力、精進せられよ。
欲得、利害、我欲、そうした一切のことを己れの心に芽生えさするな。迷わるるな。
無心の、無垢の境地で、神にお任せせんの気持ちのみを抱くよう心して、日々を過ごせよ。
よいな、今日伝えしこと、素直に聞けよ。素直に行じられよ。
よいな、いつでもよいぞ。分からぬこと、迷い生じしときは、いつでも尋ねよ。いつでも答えん。
そのための通信じゃ。ためらわず問うてみられよ。

では、今日の通信、お伝えは終わらん。
元気に、健やかに 心も体も保たれよ。


一九九九年九月十六日

本日は、そなたの問いし、宗教に対する現界の、或(ある)いは現世の人の感じ方、考え方について答えんかな。
確かに現世、この世の中の人の多くは、神を見失い、神を畏れず、神を忘れて己れの欲得のみしか考えぬという人間が多くなり果てた。
しかし、それでも人は神の子なのじゃ。
神の御霊を分け与えられ、自らの魂の奥には、眠らされしままの神がおられるのじゃ。
その神のご存在に気付かば、神は自ずと人の心を、目覚めさせ、自らのみ力をもちて、人の中の眠りし魂を呼び覚ましてくれよう。
しかし、そのためには、やはり、神のご存在を知らしむる何らかの現象が必要じゃ。
それが、神のみ光による病の癒(いや)しであり、家族の和の復活であり、富財宝の取得となって、人の幸せが現実化することなのである。
そして、そのことをして、人は、神を、神のご存在、神のみ力、神の愛を、お仕組みを悟るべきなのである。
しかるに、人の多くは、それにても、まだ神を信じず、己れの中の魂に気付かず、人の目に見える物、金、物質のみに縛られてしまう。
それは、人の心の曇りなり。
その曇りを持ち続ける限り、どのようなことを行っても、見せられても、神は永遠の救いはできぬのじゃ。
人は、神を信じねば救われぬ。これは真実なり。

なれど現界において、かくも雲りし魂が神を信じるためには、自らの魂を甦らせ、浄め、高める以外には何物もない。
しかれば、人の霊行は、自らの魂の清浄化だけでなく、人の魂を目覚めさせるための、お手伝いをすること、それも大事な霊行となる。
なれば、人よ、人のために行なうとは、人の魂の精進昇華を手伝ってさしあげること。
共に神の存在に気付くよう、書の光を示したり、書の光による様々な現象化の実態を示すことなのじゃ。

よいな、我々の、このことばが、決して そなたの中から湧き出すことばではなく、
どこか知らぬところからの通信であることを、人に見せることも、
ときには神の御心(みこころ)を示すよすがとならん。
人の汚(けが)れ、腐りし魂は、神のみ光りのみでは、救うことはできぬ。
そこに何らかの浄めを望む心、神を求める心があって、初めて、神は人を救うことができる。
人は、人として、神に仕え、神のお役に立ちたいの心がなければならぬ。
何故といえば、神は人に、自らを救うためのよすがとして、霊行を授けるからなり。
それが、一つには自らの浄めともなり、一つには、神を手伝うことともなるのじゃ。
されば、霊行は、自らを浄めるためだけではなく、人をも救い、神をも手伝う、有り難くも尊い行だと知れよ。
よいな、霊行、霊行、日々の霊行が肝心なり。
積み重なりし、己れの汚れを、日々の霊行で浄め、高めてゆかれんことを。

さて、そなたの次なる問い、いかにして自らの学業・生業と霊行とを両立させるかについて答えんかな。
よいか、先も伝えしとおり、学業・生業は人としての大切な行である。それはまごうことなく、確かなことじゃ。
それ故(ゆえ)、人は生業を行わずして、霊行のみを行うわけにはゆかぬし、神の御心にも適わぬであろう。

しかし、生業のみでも、やはり神の御心に添うものではない。どちらも大事じゃ。
大事な故に、どちらも自らの全能力を傾け、行うべきなり。
しかし、霊行については、先にも申したとおり、長い時間は要しない。
たとえ短くとも、毎日欠かさぬことが大事なのじゃ。それによりて、ますますの魂の高まり、浄まりが図られる、そう考えられよ。
さて、そなたの問いし、生業との両立については、かのような答えでよかろうか。
では、次なる問いはいかん。
〈人の好き嫌いについて〉
人の好き嫌い、これは そなたの考えしことがそのまま感情に現れるものなり。
その人を好きになれるか否か、それはそなたの気持ちの持ち方一つにかかることなり。
そなたがわがままで、人を憎む気持ち強ければ、人にも嫌われ、人にも妬(ねた)まれよう。
逆に、人を信じ、思いやる気持ち強くなれば、人からの尊敬も受け、慕われることにもなろう。
それ故(ゆえ)、先ずは自らが変わることじゃ。結果は後からついてこよう。
しかし、神の御心に適うためには、人からの好意ばかりを慮(おもんばか)るのではなく、
人から一時嫌われようとも、その人の真の浄化に役立つことをしてさしあげること。
さすれば、たとえ、その人本人は気付かなくとも、その人の守護霊守護神が、きっとそなたに感謝し、
霊界にて そなたのためによく計らってくださろう。
よいな、人の好き嫌いは、極めて現界的な感覚であり、ないと思えば、自ずと消えゆくものなるよ。
あまりに強く意識すればするほどに、人は自分の感覚に囚(とら)われ、一番大事な霊感に基づく無私の心で人に対せなくなるなり。

それ故、人はあまりに、自己の内なる感覚に囚われすぎてはかえって、心の眼を失い、現実の大切な事象を見失うこととなるぞよ。
心せよ。大切なのは、神の御心(みこころ)に照らした、己れの心の持ちようなのだから。
人間心(にんげんごころ)に囚われた、感じ方、考え方は、次元も低く、汚れにつながろう。よくよく心せよ。
自然に任せ、神に任せて、己れの感覚、感情に頼り過ぎることなきように。
さても尊き神に頂きし、己れの肉体、魂、霊魂とういものは、得てして現界の中で、曇り、汚れてゆくものなり。
好悪、欲望、わがまま、利己心、そうした心の曇りを浄め、祓(はら)い、禊(みそ)ぎてゆくべし。
禊ぎ禊ぎて、神の御心に近づくように、自ら戒め、悟られよ。
難(かた)きことなり。なれど、神に賜りし、肉体、魂、霊魂を、
賜りしときのままの清らかな姿形、魂でお返しせずして、行は行とはなるまい。
よいか、汚れ、雲り、それはただ行を積み重ねるだけでなく、自らを律する中で行ない、行なうことで、より魂は磨かれてゆくものなり。
神の御心に適(かな)いし魂、心は、自ずから高められているが故に、あるがままにあれば、それでよい。
しかし、人間心に囚われし魂、心は、厳しく律し、自らを戒めよ。しかし、また
それに囚われ、縛られすぎて不自由になることも、やはり、曇り、翳(かげ)りを増やすものなり。
俗念を起こさぬこと、起こりそうにならば、気持ちを高めんとして、その心を隅に押しやること、目をそらすこと、
かかることも行なるよ。よいな。積まねばならぬ行は、まだまだあるが、一つ一つが行なれば、無心に、感謝し、ありがたく行えよ。
それが近道なり。なれど、遠き道なり。
神の御心に適う魂は、遠く遠く、なれど、常にそなたの傍(かたわ)らにあらん。

信ずることが、道を近める。疑うことは、道を遠く険しくさす。
人間心は遠ざけん。神の御心のみを思え。神の御心に照らせよ、道を。
己れの歩みし、今 己れの前に広がる心の道を、神の御心、神の光で照らしてゆかん。
神は示されよう、迷う心に。真実への、神の御心につながりゆく一筋(ひとすじ)の道を。
己れの道は、一つなり。よいな。迷うことなかれよ。迷うことなく、進みゆけよ。
人と異なる、それぞれの道。道はそれぞれ異なれど、神の御心に通じる道は、一人に一筋 定められしものなるよ。
雲らぬ心で、浄め高められし、澄んだ心で、神の道を見いだし、その道を進めよ。

次なるときにも、問いを設けよ。そなたに伝え、導かん。さすれば、行も進みゆかん。
よいな、明日も必ず、神に向かい、己れに向かえよ。さなくば、道は見えてこぬぞ。
迷い、疑い、ためらい、心の闇に堕ちてはならぬ。
一日の霊行は、心をさらに高め、浄めるためにあるのだから、日々の行が大切なるよ。
では、今日は終わらん。今日の残りし行を行なえ。


一九九九年九月十七日

では、始めよう。先ず、合気道について幾つか申し伝えん。合気道と申すは、神の行なり。
しかるに、合気道を行う者は、すべからく身も心も浄め、浄まるものなり。

しかるに、合気道を修め、心行(しんぎょう) 体行(たいぎょう)を積みゆけば、それによりて、自ずと神の道に近づくものなり。
なれど、心せよ。それを行う際の心構えを忘るなかれ。
それは、合気道は人を浄める力を持つなるが、それのみで人は浄めるものではない。
人の魂は、多くの行を要する。行いつつ、常に己れを振り返り、自らの内なる魂に問わねばならぬ。
神の道が、いかに遠く険しい道であるか、己れが進みゆく道が、神の道、即ち神の御心に適うものなのかを。
神の道は一つなり、なれど人の道、人の行うべきの行は、人それぞれであり、一筋ではないのだから、
人を見て己れと異なる道をゆくとも、それは間違いではない。
神が決められる道であるなら、それはその人の道として神の御心に適うのじゃ。
なれば、人は、行を行ないつつも、忘れてはならぬ。
果たしてそれが、己れの魂に適った道なのか、神の御心に適いし道なのかを、常に問いつつ、その行を積みゆくことが 肝要じゃ。
今そなたが行うべき神の道に通ずる道は、即ち、合気道もその一つであろう。教育もその一つであろう。
しかし、忘れてならぬのは、神の御心にそなたの行う諸々の行が、果たして本当に適いしか否かを問うことじゃ。
人はそれぞれの行を積みゆかねばならぬ。
それが神が与えられ、また、神が人に許された行であることを思うならば、人はその行を一途に積みゆかねばならぬ。
合気道とは、神の道なり。否、神の御心に適いし行なり。
人を浄め、その地、自然を浄め、その地におはする神々を浄め、その地に漂う霊を鎮め、神の光を通す路を通じさせる 行なり。
合気道を修むること、合気道を広めること、いずれも、神は喜ばれよう。
そなた一人でなく、多くの人、もの、神、霊、魂、諸々が浄まってゆかん。そのように心得、そのような心向けで行われよ。
さすれば、人は、一つ神の道に通じてゆかん。

(教育とは)
さて、次なる問い、教育について答えんかな。
教育というは、人を教え導くためのものにはあらず。己れを見つめ、問い、己れを写す営みなり。
なれば、人が人を教える、導くとは、自ずと、自らの行いを改め、高めてゆくことにも通ずるなり。
なれど、人を教え導くためには、やはり、神の御心に照らし、己れの欲求、願望、熱意のみにて行うは誤りの素なり。
なぜなら、人は、神ではなく、本来人が人を教え導くことは、あり得ぬことなればなり。
人が人を教え導くとは、その真の意味は、神の御心を、人に伝え、人に神の道に通ずる道を指し示すによりて、
教え導くこととなるなり。それは、単なる知識や技術を人に伝授することではないことなり。
神の御心を第一とせねば、真の教育はあり得まい。
教育と申すは、人を競わせ、人に上下をつけ、人と人とを区別、分類していくものであってはならぬ。
人 皆 神の子なること、それ故、人 皆 神の子として、
互いに磨き合い、高め合わんとの気持ちを抱かせんことを本来の目的とするなり。しかるに現行の教育の多くは、誤った教育なり。
人が、人を教え導くことに、最初の過誤あり。人が人を区別、分類することに、次なる過誤あり。
そなたの行う、霊行としての教育は、かかるものであってはならぬ。
よいな、よくよく心せよ。教育が人を、高めるのではない。高め、磨いていくためには、己れが先ずその範とならねばならぬ。

その上で、教え導かんとする相手の者の魂を、より高き位に高める手伝いをする、させて頂く、そうした心持ちで行わんことを。
人は、皆、同じ神の子なるの信念を持ちて、その神の子たる人が、踏み迷いし迷いの道から、
いかにして神の道に近き、人としての道、神の子としての道を見いだすかの方向を共に探していく、それが教育なり。
決して、そなたの知りしことを押しつけ、覚えさせんとすることではないぞ。
よいな、教育を、一つの霊行と捉えるならば、行うべきことは、心による浄めなり。
心にて、心の中に神の光をお借りして、相手の心の中心、即ち魂に呼びかけること、魂に光を与えること、
その人それぞれの魂に適った、人の道を見いださせ、人としての行と、 神の子としての行に、気付かせんと心がける ことなり。

よいな、神の子よ。
人皆同じ神の子なり。
神の子としてこの世を生きる、その手伝い、手助けが、神の子として行う教育なり。
では、本日のお伝えは終わらん。
そなたの心の中の迷い、疑い、ためらい、一切を、この通信をもちて消してゆかれんことを願うなり。


一九九九年九月十八日

では、始めよう。よくよく聞けよ、聞いて残せよ。
先ず、命、人の生命について答えよう。
命とは、神の与えられしものなり。命に生を与えるものは、神のみ力、お仕組みによる。
生とは現界での状態であり、命とは、無限に続く、魂のことなり。
それ故(ゆえ)、命は死と生を繰り返すなるが、命は無限に、与えられし時から、無限に続き、
この世の生を持つこともあれば、死としてあの世に帰ることもある。
しかし、一つ一つの命、魂は、せねばならぬみ役が定められており、命の続く限り、それぞれの務めとして、果たしていかねばならぬ。
生は 人の肉体をもってこの世で行を積むが、死はこの世での肉体の終わりであり、あの世では霊魂となる。
しかし、貫くものは一つなり。
しかし、その命、魂であっても、終わるときがくる。
それは、神のご意志、ご意図にそぐわず、神のみ光をもってしても、浄まらず、曇りを消せぬまでに、その命、魂が汚 れしときなり。
そのとき、神は自らのお仕組みにより、その命を消される。
しかし、それは、その魂の終わりであっても、この世での人類全てが消え去るのではなく、再びの生を与えられし魂、
命は、この世で、あの世から命ぜられし行を積む。
よく生きて、よく死に、あの世での修行を終えねば、この世でもあの世でも、行は続く。
なれば、仮にこの世で どのような善行(ぜんこう)を積もうとも、もしそれが、神のご意志、ご意図にそぐわねば、
それは神の命ぜしものでなければ、し残した行となってあの世に持ち越される。

神は、人を、人類を、神のご意志、ご意図でお作りになられた。
しかし、今、この世は、神の求められし地球のあるべき姿でなく、人もあるべき姿形ではなくなった。
神は、人類全ての生の存続を望まれる。
神の心を持ち、神のことばを持ちて、自らの存在の意味を知り、自らのみ役を悟り、自らのみ役を果たさんとする魂を
救い、そうして神の国で再生するを、全ての人類に、切に望んでおられる。
それは、人を分けるためでなく、人全てが神からの魂、命を、大切に使い、そしてこの世に神の国を復活させるためなり。
そして、この世に起きる不幸現象は、全て、神が人に、自らのみ役を認識させるために与えられる、神からのお伝えなのである。
その不幸現象、病苦、事故、災害、その他の現象から、
自らのみ役を、神の御心に適う霊行を、それぞれの行うべき行を、人に悟らせんとされておる。
それ故、神の御心(みこころ)を知るためには、その不幸現象から、神のご意図、ご意志を読みとる努力が必要である。
例えるなら、戦争は、人の自我、我欲、我利(がり)、我執(がしゅう)の最たるものなり。
自己の我利、我欲、我執(がしゅう)、その一事のために、人は命を、家族を、失ってまで、己れの欲望を満たさんとする。
しかし、本来の姿に立ち返るとき、人は、平和に暮らすことが可能な筈(はず)なり。
なのに何故、人は、人同士、殺し合い、憎み合うのか。そのように作られているのであろうか。
それは誤りなり。神は、人に、殺し合うことの悲惨さをもって、愛の尊さ、平和の有り難さを知らしめんとされ、それを仕組まれしなり。
人は、本来罪 汚(けが)れを知らぬものであった。しかし、我欲が芽生え、自我が強まり、神のご意志、ご意図が届かなくなって、
神は人に、自らのご意志、ご意図を届けるため、魂の曇りを取り去るために、人がそのような魂に戻るために、
不幸現象をもって、悟らせんとされし。

人は、我の塊(かたまり)であってはならぬ。神と共にあるとき、人は、己れを小さく、弱く、狭くしていることができるものなり。
しかし、人が神と離れ始めるとき、我は強く、大きく、魂の内に広がり、神の声を聞こえなくなるよう、自らを仕向けてゆく。
それは、人類にとっての、地球全体にとっての大きな危機を意味する。
人が己れの我をのさばらせ、己れの立場のみを考え、己れの幸せのみを求めることは、
神のお仕組みを妨げ、神のお仕組みを起こらなくさせてゆく。
神は、そうした危機を避けさせ、取り返しのつかなくなる前に、
人類の一部に戦争を起こさせ、或いは災害を起こして、その元となっている、人の誤り、間違いを、気付かせ、悟らせんとされる。
人が賜りし肉体は、永遠の生は与えられぬ。
しかし、魂は、この世の肉体が滅びても、あの世に帰り、その活動を続ける。
命を持ち続ける。 魂と命、それは神の御心を映し、ご意志、ご意図を実現させるために、肉体が与えられる。
しかし、ひとたび肉体を手に入れし魂は、我を持ち始め、欲望、執着を持ち始めて、神の御心を映さぬものとなる。
なれば、魂の曇りを消し、魂が、再び神の御心を映せるまでに、魂を浄め、高めねばならぬ。
さなくば、この世は、人の欲望のみが渦巻く地獄ともならん。

神は、この世の立て替え 立て直しの期限を近き明日に定められし。
その時までの短き間に、一人でも多くの魂、生命、肉体が、この世にいる間に、果たさねばならぬみ役を、十分に果たさねばならず、
それは、選ばれし幾人かの人が行うのではなく、人人が集まり、神の手足となりて、互いを助け合って、行わねばできぬことなり。
出会いし者は、早急に神のご意志、ご意図を確認し、己れのみ役を確認し直し、自らの役目を果たしていかねば、間に合わぬ。
神がどのようなお仕組みを仕組まれようと、それに人が気付かねば、この世は変わらぬ。仕組みも止まる。
止まり、滅びるか。気付きて動くか。それは各々の決めることなり。
あるいは、各々が、振り返り、顧(かえり)みて、いかなる悟りを得るかにかかろう。
それは、各々の生き方、この世での行の積み方により、変わってこよう。
よき生き方、行の積み方をされし者は、悟りも速かろう。
しかし、神の御心に適わぬ行い多き者、曇り汚れの激しき者は、いかなるお仕組みにも悟りを得ず、曇り汚れをさらに深めゆこう。
最後(さいご)の時に、人は、最後の悟りを与えられる。しかし、最後の悟りの時では既に遅し。
悟り得ても、肉体は既になく、魂の消滅とともに、永遠の時の中から消えゆくなり。
時は短し。与えられし時は短し。
いかなる努力も、神の御心(みこころ)に適わぬ努力、自らのみ役を担わぬ努力は、ただ我欲からなされる行いにて、神は見捨てられよう。
そして、魂を消滅させられよう。神は気付きし魂のみを残し、集め、新たにそれぞれのみ役を与えられる。
その時 残りし魂は、神の御心を素直に映す魂なり。神のご意志、ご意図に通じる心を供わせられし魂なり。

よいな、今日そなたが我々のことばを聞き、書き留め、この世に残すことは、必ず他の人に読ませ、知らしめ、
一人でも多くの魂に気付きを与えんためなり。一人は全て、全ては一人。一人一人が、独りではならぬ。
一人一人が集まり集いて、神の御心に調和し、一つの生命体のようにして全体を作り、この世を動かしていく時、
我は消え、欲もなく、争いもなくなろう。なぜなら、人を動かすものは一つなればなり。
人が人と比べ合い、違いを見付け、他を憎み、そねみ、羨む。それは我にて、神の御心に遠きものなり。
神の御心に、人の心が通じゆき、一つに和する時、人は我なく欲なく、己れなく、
人との違いも、み役の違い、課せられし行の違いに過ぎぬことを知り、故に争うことなく、妬(ねた)み そねむこともなし。
人が己れをなくし、神と真に心調和させ、神のご意志が即ち、自らの意志となるとき、
それはこの世に神の国を実現させ得たときなり。その時 人は、神に近く、神の御心に適い、神の御心を映したこの世を作り得よう。
神は ただ、人に幸せを与え、人を平和に楽しく暮らさせんために、
今日までの長い歴史、時の流れを費やされた。歴史、時の流れ、人の営み、万物の盛衰、生命の興亡、何一つ、意味 無きものはない。
来たるべき日、神の国がこの世に生まれしとき、人は再び、その意味を知ろう。
そして、その時にこそ、人は人として、神の子として、神の映された心を持ち、神の御心を見、思い、悟ることとなろう。
それまでは、人は、人としてのみ、この世を、この世での現象を、見聞き感じることしかできぬ。
しかし、間もなくの日、来たるべき時の訪れる日、人は己れの役割と、神の御心と、他の生命、全ての生命、自然、物質、地球、
それら全てと和する魂を与えられる。否、自ら浄まり高まっておらねばならぬ。
よいか、今日、我々はことさら長く、神のご意図ご意志をそなたに伝えし。
なれど、それは、一つ一つが異なることを意味するのではなく、
意味することはただ一つなることを、そなたに、或いは、これを読まれる人の魂に、悟って頂きたいがためなり。
よいな、人、一人一人、生命の元は一つなり。 なれど、肉体を持ち、我を持ちし時から、人は、神の御心から急速に離れてゆくものなり。
なれば、気付きし者は、今すぐ神の御心に立ち返り、清い魂を取り戻さねばならぬ。そして、霊行を求め、霊行を積ま ねばならぬ。
人は、霊行を通じてのみ、神の御心を知ることができる。
それは、我のない、欲のない、汚れ、曇りとは 最も遠き行であり、神の御心に最も近き行いなればなり。
神は、人類全ての救済のため、人類全てを生まれ変わらせるために、仕組みをもって示されてきた。
その仕組みを学び、悟れよ。肝に銘じ、肚(はら)に刻めよ。
よいな、そなたももうすぐ変わりゆこう。神の御心に近づくための、幾つかの鍛え、試しが与えられよう。
耐えて、忍べよ。清き魂には、それも辛く苦しいものではないはず。
有り難いお仕組みとして、感謝し、喜びて、行に励めよ。共に行じ、共に越えなん。神のお仕組みなれば、共に導き、高まりゆかん。
今日は長き伝えになりし。今日も、明日も、人は人として、なすべきことあり。
なれば、そなたも、その行をなされよ。そして、明日また新たな通信をせん。


一九九九年九月十九日

では、今日の伝えを始めん。昨日も申せしように、人には人の、それぞれのみ役がある。 そなたにはそなたのみ役、神には神のみ役がある。

神に み役ありというは、神にもいろいろな方がおられ、神も人と同じく、様々な役割を担われているからなり。

なれば、神も人と同様、その み役を果たしつつ、人間界の行い、営み、万物の仕組みが滞り無く進むよう、日々行を積まれておられる。
そしてその中でも、高い層の神と低い層とがあり、やはり行が進みゆくにつれ、その層が上がり、それに伴いみ役も変わる。
されば、神は人と同じく行をもって自らの霊層を高め、更なる昇華(しょうげ)を積まれる。そして、神と人は、一体となりて行 を積みゆく。
なぜなら、神のみ役は人の行い、行に通じ、神の行が滞らば、人の世界にての行もそれを写し、
神の世界の乱れが、人間界の乱れとなる仕組みなればなり。
それ故、行を怠りし神の下(もと)では、その神の導かれる、霊体、幽体、人体、全ての生命に乱れが生じることとなる。
なれど、神の世界の乱れは、神の み力、神ご自身のご努力により、いつでも回復し、元に戻すことは容易なるが、
人間界の乱れは、人 のみの力で回復できぬが常なり。
ときにその乱れは、さらに強まり、極まりて、人類の存亡にまで広がることもあり得べきことなり。
それ故、神は、人に力を貸し、力を与え、光を与えられて、この世を浄めさせ、乱れを改めさせ、
そして、自ら気付かせんとして、不幸現象を見せられ、悟れよ、気付けよ、と呼びかけておられる。
なれど、人の多くは、その呼びかけ、神の論(さと)しに気付かず、むしろ神への恨み、他の人間への憎しみ、妬みをもって、
自らの我を なお一層に強めゆくが、多くの常なり。大半の者なり。
されど、中に幾人かの人間が神から下ろされ、人間の姿形を以て地上に現れ、
この世の乱れを改め、人の心を諌(いさ)め、人に気付きを与えんとして、この世で特別のみ役をもって生まれる者あり。
それは、ときに人に、書をもって光を示す者あり。声をもって伝える者あり。
また、手から放たれる光、或(ある)いは肉体による神の力の体現をして、
神の力を示し、人に神の存在を知らしめ、人の心の改善を図らんとされる。
なれば、この世で、奇跡といわれることの多くは、その者自身の力にはあらず、
神がその者に、その者を使いて、神の力を与え、神のご意図、ご意志を示させているに過ぎぬ。
しかれど、神はそれによりて、人を変えんとされるのではなく、人を神の御心に適う者に変えんとされるのではない。
神は、人を変えることを望んでおられるのではなく、ただ、人自らが、神の力を信じ、人自らのみ役に気付き、
人としての行、神の子としての行に、真摯(しんし)に目覚め、気付き、悟りて、神の心を取り戻す、そのことのみを望んでおられる。
人が、この世に生を得、生を生き、神の子としてではなく、人の我に囚われ始めてから、
この地上に、神の御心に添わぬ物を作り始め、神の御心に添わぬ物質に囚われ始めて、
人の心が汚れ、神の御心から遠ざかり、次第に地球、自然、万物の命、魂、肉体を、あらゆるものを汚し始めた。
今から何千年前からのことか、それは与(あずかり)り知らぬ。
なれど、人は、己れの我欲と闘いつつ、行を行わねばならぬ。
それは、決して楽しく楽なことではない。我というものがある以上、人は己れの我と闘わねばならぬ。
闘って、そして悟りを得、気付きを得るものなり。そのように仕組まれているものなり。
然(しか)るに、今の世にて、己れの我と闘い、己れの我欲と真摯(しんし)に対峙(たいじ)し、それをなくさんと行を積む者がどれだけいようか。

恐らくは、極く限られた者たちだけであろう。極く少数の、極めて稀な者たちに過ぎまい。
しかれど、それではもう地球は、元に戻らぬ。
人の全てが、自らを改め、心を改め浄め、魂の向上を願い、図らねば、この地球も、人も、生物、物質、全てのものが 滅びゆくなり。
人が神の子として、最初の魂に戻り、気付くときまで、神は人に呼びかけを続けられよう。
そのためのお仕組みを、幾つも用意され、一つ一つをもって示され、待っておられる。
なれど、その神のご意図も、今の荒れた人の心には、届く術もなし。
神は二度、三度、人に気付きの機会を与えられて、今日に至りしが、
既にもう地球は、自然は、万物は、その体系を崩し、取り返しのつかぬところまで来てしまいし。
それ故、神も 決断を下されし。もう時はなし、もう待つことはならぬと。
そして神々のお計らいによりて、幾人かを地上に降ろし、そのみ役として、他の者とは異なるみ役を担わせられし。
それが、神のご意志、ご意図を人に伝え、広めるみ役の者たちなり。
先にも触れしように、それは神のみ力、ご意志、ご意図を、人に身近に感じさせ、
最期の気付きの機会を与えんためなれば、人は、ついに最後の時を迎えんことをも示すものなり。
よりて、人は、この機会を逃し、気付かぬ者は、神の救いも届かず、この世だけでなく、この宇宙、空間、時間の一切から、
存在を消され、永遠に消えゆくこととならん。
脅し、脅迫ではなく、それが仕組みなり。
なれば、人よ、人と共に歩みし神の子よ、
神の子というは全てなるが、神の心を失いし者は、神の子たらぬ者なれば、ここに人と区別して呼ぶなるが、
神の心持ちし神の子と、人と、全ての生を持ちし生きものたちとが、再度 神に近づき、神の御心に適う生を与えられ
るために、最後の機会を共に活かし、共に行じてゆかんことを願うなり。神の願いなれば、人は気付かねばならぬ。
悟らねばならぬことなり。
人が再度の生を与えられる、最後の機会なり。魂の存続を許されるか否かの、最期の機会なり。
さあ、ひふみよ、最後にそなたに伝えおかん。そなたも、神のみ役を忘れるでないぞ。怠るでないぞ。
日々が行なり。霊行ならんこと、先にも申し伝えおろう。怠るなよ。投げ出すなよ。
そなたのみ役、とくと承知しておろう。
この書記に書かれしこと、ゆめ疑うことなきよう、しかと肝に銘じられよ。しかと肚(はら)に納められよ。
ひふみよ、神は待っておられる、そなたたちの全てが、神の子であることに気付き、悟りて自らの行を積みゆくことを。
よいな、少しづつでも構わぬ故(ゆえ)、そなたの行を積んでゆけよ。
残されし時の短さを思うなら、日々を疎(おろそ)かに過ごすことはできまい。そうあらねばならぬであろう。
昨日の話を肝に、肚(はら)にしかと入れて、行を積みゆけよ。
そなたの新たな目覚め、気付きを待ちて、伝えとせん。伝えは終わるが、何ぞ知りたきこと、聞きたきことあらば、問うてみられよ。

<ことばとは>
ことばとは、神が人に与えられた、人と人とが、お互いの力を合わせ、
この世の行を高め、この世を美しく、住み良くするための、心の道具として、神が人に与えられしものなり。
なれば、人は、その道具をもちて、この世に、神の国を実現させねばならぬものなりし。
なれど、人は、ことばの使い方を誤り、悪い道具として用い、乱して、己れの我欲を満たす手段として使い始め、
ついに、ことばは悪きものばかりが残り、人の心に毒を流し込むまでになりし。元来、ことばは、人を浄め、高める働きありしものなり。

人がことばを用いるは、神のご意志、ご意図を、自らの心に理解し、自らの行いにそれを映さんがためなりし。
ことにはことの、ものにはものの、魂有り。ことばに備わる魂が、言霊(ことたま)なり。
言霊をみだりに用い、言霊を汚し、それ故、人は、自ずと己れの魂をも汚してしまうこととなりし。言霊の汚れは、人の魂の汚れ。
汚れし魂が用いることばは、汚れしことばにて、言霊もまた、汚れ、乱れし、悪しき霊(たま)なり。
それ故、言霊を浄め、最初の光を供わせしむるためにも、ことばを浄め、自らを浄め、神から賜りし頃の言霊に戻さねばならぬ。
ことばは、人に与えられし神の み恵み、その み恵みを乱れさせ、汚すことは、神への冒涜にも等しき行いなり。
清く美しき魂は、美しく正しきことばを用い、汚れ濁りし魂は、汚(けが)れ汚(きた)なきことばを使う。
心せよ。ことばの乱れ。ことばの悪用。ことばの乱造。言霊の乱れを改め、浄めよ。
神の み恵みを、汚すなかれよ。
ことのは、ことば、ことたま、ことばに備わる霊力は、今や、衰え、弱まりつつある。
今一度、自らのことばを見直し、自らの使うことばを改めてみられよ。
むやみにことばをもてあそぶことなく、ことばの霊力を高め、強めてゆくよう、各々努めることが必要ならん。
ことばを大切に使うこと、正しく使うこと、正しきことを、正しく表し、 正しく伝え、正しく理解し、
ことばの乱れを生じさせないこと。ことばは美しきものなり。ありがたきものなり。
心を豊かに、清らかに、健やかに、育て、伸ばしてくれるものなり。
ことば清き者は、魂も清く、汚れも少なし。
ことば汚なく、乱れし者は、心も魂も、醜く、きたなく、汚れし者ならん。
人の心を磨き、高める、そのためにも、ことばを正しく大切に用いられよ。

それが一つの、人への教育ならんかな。大切な教えとならんかな。人を育てる教え、神の子に育てゆく一つの教えたらんかな。
ひふみよ、教育なるは、ことばにて行われん。それ故、ことばを用いるときには、よく心せよ。
汚なきこと表すことなかれ。汚なきことば使うなかれ。汚なきことば聞かすなかれ。
ただ美しきことを、美しき音色にて、美しく表せよ。
それが魂の写しなれば、そなた自身の魂を美しく、汚れなく保たれよ。よいな。
さても今日の伝えは終わらん。明日も聞けよ。問いたくば、問うてみられよ。
明日の日に。