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合戦 その12 (1600)


せきがはらのたたかい

1600年 関ヶ原の戦い  徳川家康 VS 石田三成
結果:徳川家康(東軍)の勝利  場所:美濃国
内容:
 「天下分け目の戦い」の呼ばれる大合戦。徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍、合わせて15万ともいわれる軍勢が美濃・関ヶ原で激突した。主戦場となったのは関ヶ原だが、全国の大名が巻き込まれ、各地で関連した戦いが行われた。戦いに勝利した家康は、事実上天下人となり、1603年に征夷大将軍に任命されると江戸に幕府を開いた。

経緯と結果、その後:
 巨星堕つ。1598年8月18日、太閤・豊臣秀吉が京都伏見城で薨去。跡を継いだ秀頼は、まだ6歳と幼く、豊臣政権に暗雲が立ち込める。その原因は偏に徳川家康の存在であった。家康は他の大名と同様、豊臣家臣のひとりではあったが、家臣になった経緯が完全服従に近い他の大名とは違い、秀吉にある程度譲歩させたものであったため、豊臣政権内でも屈指の実力を誇り、領土も毛利輝元120万石、上杉景勝120万石、前田利家83万石の追従を許さない250万石であった。かつて秀吉が織田信長の嫡孫・三法師(のちの秀信)を利用して織田家を乗っ取ったように、家康が秀頼を利用して豊臣家を乗っ取ることは十分に考えられた。

 秀吉は、家康の野心を懸念し、自分の死後の政治運営は家康の独裁とならないよう五大老と五奉行による合議制とした。五大老には家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家小早川隆景(隆景死後は上杉景勝)が、五奉行には浅野長政、石田三成、前田玄以増田長盛長束正家が任命されることになるが、この五大老・五奉行の制の真の目的は、政権の筆頭を家康としながらも、戦歴、人望ともに家康に匹敵する利家を中心とした豊臣恩顧の四大老と五奉行による家康の封じ込めであった。さらに秀吉は遺命で、秀頼は大坂城に入り、利家はそれに随行して傅役をつとめること、家康は大坂ではなく伏見にて政務を行うこと、そして大名同士の私的縁組を禁止するなど、家康の政権内での孤立をはかった。

 だが、秀吉の死後、家康は天下簒奪の野心を剥き出しにする。家康は、秀吉の遺命を無視して六男・松平忠輝伊達政宗の長女・五郎八姫との縁談を皮切りに、加藤清正、福島正之(正則養子)、黒田長政蜂須賀至鎮らと自分の養女との縁談を進めた。この動きに対して利家は家康を糾弾。一時は徳川、前田両家の屋敷にそれぞれを支持する大名たちが集まり一触即発の雰囲気が漂った。このとき、家康と縁談の話を進めていた清正と正則は利家についており、さすがの家康も時期尚早と誓紙を交わして和睦に至るが、2ヶ月後の1599年閏3月3日、利家が病没してしまい家康を抑止する者がいなくなってしまう。さらに利家の存在は、秀吉の天下統一と朝鮮出兵の過程で生まれた文治派と武断派の対立の抑止力にもなっていため、その死によって対立が噴出し、反家康の急先鋒であり、文治派の筆頭ともいうべき石田三成が清正、正則ら武断派の七将に襲撃されるという事件まで引き起こすことになった。家康はこの事件を利用し、三成、七将ともしかるべき裁定を下すとしながらも、三成の責任は重大であるとし、奉行職を解いて佐和山城での蟄居を命じ、五大老と五奉行による合議制を事実上崩壊させた。

 1599年9月7日、家康は、秀頼に重陽の節句の祝詞を申し述べると称して邪魔者がいなくなった大坂へ入った。そしてその日、突如として「家康暗殺計画」が発覚する。これは家康が大坂と前田家を掌握するために流した虚報であった。首謀者は利家の跡を継いで五大老のひとりとなった前田利長とされ、家康はこれに乗じて伏見から兵を呼び寄せて大坂城に入り、暗殺計画に関わったとして秀頼の側近である浅野長政に蟄居を命じ、大野治長結城秀康の預けとした。そして前田家に対しては「叛意あり」として前田討伐を決める。この事を知った利長は驚愕し、すぐさま弁明の使者を大坂に遣わすと同時に、生母・芳春院を人質に出すことを約して家康に屈することになる。その後、家康は大坂城西の丸に腰を据え、豊臣家の蔵入地(直轄地)を勝手に諸将に加増、もしくは加増転封するという暴挙に及んだ。

 1600年3月、家康のもとに越後の堀秀治から「上杉景勝に叛意あり」との訴えがもたらされた。秀治は、景勝が会津へ転封となったのち越後に入り、上杉の遺民による一揆に悩まされていた。そういう経緯から秀治が景勝を陥れようと大袈裟に訴えたことも否めないが、確かに会津へ帰還していた景勝は新城(神指城)の建築や領内の諸城の修復、橋梁や街道の整備、浪人の召し抱えなどを行っていた。家康は、この事実を利用し、上杉家も屈服させようと景勝に八ヶ条からなる弾劾状を送るとともに釈明のための上洛を命じた。だが、景勝は会津に転封になって日も浅く、越後時代から30万石近い加増となれば、領内の整備や人材の確保をするのは当然のことで怪しまれる謂われはない。景勝の名参謀・直江兼続は、のちに「直江状」と呼ばれる書状を家康に送りつけ、弾劾状の内容を辛辣な言葉で真っ向から否定し、家康との敵対を露わにした。この前田家と反する上杉家の動きは、三成と兼続が昵懇の間柄であったことから二人の共謀との説もあるが、確たる証拠はない。どちらにせよ秀吉に多大な恩を感じていた景勝、兼続主従が謙信以来受け継いできた家風「義」を貫く選択であった。

 6月、「直江状」を受け取った家康は、上杉討伐を決め、全国の大名に向け出陣命令を出す。一説には「直江状」の内容に激昂した家康が家臣の制止を振り切り上杉討伐を決めたともいわれるが、6月16日に大坂を発ち伏見城へ入った家康の様子を記した文献には機嫌が良かった様子が描かれており、上杉討伐が家康の思い描いた天下取りへの道筋通りであることがうかがえる。ちなみに上杉討伐に関して豊臣家は、家康の進言を全面的に受け入れ、家康に軍資金と兵糧を与えており、討伐軍は「義軍」としての大義名分を得ている。伏見を発った家康は、7月2日に江戸城に到着。7日に諸将を江戸城に招集して会津への出陣期日を21日と定めた。翌8日には先鋒として榊原康政が出陣。19日には徳川秀忠率いる3万7千の兵が、21日には家康率いる3万の兵がそれぞれ会津へ向かった。もぬけの殻同然となった上方で三成が挙兵することを見据えての出陣であった。

 武断派七将による襲撃事件で蟄居となった三成は、家康の大坂での専横ぶりを歯噛みして耐えていたが、家康が上杉討伐のために会津へ向かったことで挙兵する絶好の機会を得る。家康が挙兵を誘っていることは百も承知だったが、この機を逃しては家康を打倒することが益々困難になると考えた三成は挙兵を決意する。だが、19万石の大名に過ぎない三成が一人決起したところで家康には勝てない。そこで、三成は上杉征伐に向かう予定だった盟友・大谷吉継が佐和山城を訪れた際に家康打倒の心中を打ち明け協力を仰いだ。吉継は無謀であると三成を諫めたが、三成の決意は固く、最後は吉継が三成との友誼をとり、家康打倒に賛同することになる。そして7月12日、同じく三成に賛同した安国寺恵瓊、増田長盛を加えた4人が佐和山城で密議を行い、毛利輝元に総大将として立ってもらうこと、西国から上杉討伐に向かう諸将を近江国内で引き止めること、上杉討伐のために下向した諸将が上方に残している妻子を人質にすることなどが決められた。これらのことはすぐに行動に移され、近江愛知川に設けた関では、上杉討伐に向かおうとしていた鍋島勝茂らを引きとめ味方にすることに成功。毛利輝元も要請を受けるや、すぐに広島を発ち16日には大坂に入った。だだ、関東へ下った諸将の妻子を人質にとるのは、細川忠興の正室・ガラシャが拒否して自決したことを受けて、他家の妻子たちが同じことをしないよう中止された。

 7月17日、毛利輝元が西軍の総大将として大坂城西の丸に入るとともに、前田玄以、長束正家、増田長盛の三奉行の連署で家康討伐の檄文が全国の大名に向けて発せられた。その檄文を受け、宇喜多秀家、毛利秀元小早川秀秋島津義弘立花宗茂小西行長、鍋島勝茂、長宗我部盛親脇坂安治らが続々と大坂に入り、その軍勢は10万近くに及んだ。だが、これらの諸将のなかには、家康方の伏見城に入ろうとしていた島津義弘や近江愛知川の関で引き止められた鍋島勝茂のようにやむを得ず大坂に入った者や、毛利家臣・吉川広家のように家康に内通している者もいた。が、ともかくも一応の体勢が整い、作戦計画が立案される。このとき、豊臣政権内における三成の立場は役職についているわけではなく、一大名に過ぎなかったが、作戦計画は三成が中心となって立案されており、事実上、三成が西軍の指導者的立場であった。

 三成が立案した作戦の内容は概ね以下の通りである。
①まず鳥居元忠が守る伏見城と細川幽斎が守る田辺城を攻略する。
②伏見城攻略後、北陸道、中山道、伊勢街道の三方面から東進し濃尾地方を目指す。
③毛利輝元と増田長盛は大坂において秀頼を補佐。家康が西上してきたならば、輝元は秀頼を奉じて出陣し全軍の指揮をとる。
④家康が江戸の防衛に専念したならば東進を続け、信濃の真田昌幸、会津の上杉景勝、常陸の佐竹義宣と合流し江戸城を包囲する。
⑤家康が西上してきたならば、尾張、三河の国境付近で迎え撃つ。
⑥尾張、三河で迎え撃つことができなかった場合は、岐阜、大垣で敵の進出を抑え、伊勢方面から進んでくる味方とで挟撃する。

 作戦はただちに実行され、7月18日に毛利輝元の名で伏見城に降伏勧告がなされた。守将の鳥居元忠は、はなから決死の覚悟であり、これを拒否。翌19日、宇喜多秀家、小早川秀秋、毛利秀元、島津義弘、小西行長、長宗我部盛親、鍋島勝茂ら4万の軍勢が伏見城への攻撃を開始した。伏見城に籠る城兵は2千3百と寡兵であったが、みな玉砕の覚悟ができており、元忠以下、将官級が全員討死という抵抗の結果、8月1日まで持ち堪え、家康に時間的余裕を与えることとなった。

 上杉討伐のために江戸を発ち、下野小山まで北上していた家康のもとに、三成挙兵を知らせる元忠の急使が到着したのは7月24日のことであった。翌25日、家康は上杉討伐に従っていた諸将を本営に集め軍評定を行った。いわゆる小山評定である。この評定で家康は諸将に三成の挙兵を告げ、自分に味方するも三成に味方するも各自の判断に任せる旨を伝え、三成に味方するため上方へ戻る者がいても邪魔立てはしないことを告げた。家康の言葉に諸将は沈黙。そんななか、第一声を上げたのは反三成の急先鋒ともいえる福島正則だった。正則は「三成こそ、まだ幼い秀頼公を利用する奸佞の臣である。自分は上方に残してきた妻子を捨ててでも内府殿(家康)にお味方つかまつる」と主張。この言葉に池田輝政、黒田長政、細川忠興ら武断派の諸将らは触発され続々と家康に味方することを表明。さらに遠江掛川城主の山内一豊が、城を家康に明け渡すことを申し出ると、これにも東海道沿いに居城を構える諸将たちがこぞって呼応し、家康は江戸から正則が治める尾張清州城までの道のりを難なく確保した。これらのことは一見、家康が一か八かの賭けに出たようにも感じるが、家康は評定の前に三成を憎む正則を焚きつけて第一声を上げるよう仕向けており、老獪な家康のまさに神算鬼謀であった。

 小山評定が行われた翌26日、福島正則、池田輝政ら先発隊が西上の途についた。一方、家康は秀忠と結城秀康を上杉景勝の抑えとして宇都宮に残して帰途につき、8月5日に江戸城に入る。8月14日、正則ら先発隊が尾張清州城に到着。19日、清洲の先発隊のもとに家康の使者が到着し、未だ行動を起こさない諸将を𠮟咤。それを受けて先発隊は動き出し、23日に西軍についた岐阜城を落城させると、翌24日には大垣城の西北約4キロに位置する赤坂で陣を張り、家康の出陣を待つことになった。ちなみに同24日、徳川秀忠率いる徳川の精鋭3万8千が中山道経由で上方を目指し、宇都宮城を発している。岐阜城攻めによって諸将の戦意を確認した家康は、9月1日に江戸を出立し、東海道を西進。そして9月14日、家康が赤坂に到着。金扇の大馬印が押し立てられ東軍の士気が上がると同時に、大垣城に詰めていた三成ら西軍諸将は家康の着陣を知ることになる。

 ここまでで三成が立案した作戦のうち、尾張、三河の国境で東軍を迎え撃つ案と岐阜城で東軍の西進を抑えるという案は頓挫している。何かと後手に回ってしまった三成だが、家康の赤坂着陣を知ると、島左近の進言もあって今度は先手を打ち、動揺する西軍将兵の士気上昇を狙って、左近に5百の兵を持たせて出撃させた。左近は、大垣城と赤坂の間に流れる杭瀬川を渡河すると、東軍の有馬豊氏、中村一栄の部隊を挑発して誘い出し、明石全登が率いる宇喜多勢の伏兵と共にこれを撃破。三成の期待に応えた左近らは意気揚々と大垣城へと引き返した(杭瀬川の戦い)。

 杭瀬川での戦い後、両陣営は軍議に入った。西軍の軍議では、島津義弘や宇喜多秀家が杭瀬川での勝利に乗じ、軍旅で疲れているであろう東軍にさらなる夜襲をかけて勝機をつかむべしと主張。だが、この主張に対して三成は大坂の秀頼と輝元の出馬を待ち、大義名分をもって出撃するべきであると反対。その後は双方譲らず軍議は長引いた(夜襲策の有無には諸説あり)。一方、東軍の軍議でも大垣城を攻略してから大坂へ向かうか、大垣城には抑えの兵だけを残して一刻も早く大坂へ向かうかで意見が分かれていた。だが、西軍とは違い、東軍は総大将である家康が在陣とあって、最終決断は家康に委ねられ、家康は一刻も早く大坂へ向かうことを即決した。大坂へ急ぐ理由としては、大垣城の攻略に手を焼き、時を費やすことがあれば、大坂にいる毛利輝元が秀頼を奉じて出陣してくる可能性があり、大義名分を失うこと、又それに関連して秀頼が出陣してくる前に、大垣城を無視することで三成らを引きずり出し、家康得意の野戦に持ち込むことで短期決着をつけようとしたことが挙げられている。それぞれの思惑が交錯するなか、結果、三成は家康の誘いに乗ることになる。三成としても家康に大坂に入られ秀頼を奉じられれば大義名分を失ってしまう。こうして三成ら西軍諸将は、9月14日午後7時頃、続々と大垣城を発ち、東軍の西進を阻止すべく、中山道、北国脇街道、伊勢街道が交わる交通の要衝、関ヶ原へ向かうこととなった。

 日付が変わった15日午前1時、三成が関ヶ原に到着。道中、諸隊との打ち合わせを念入りに済ませた三成は、関ヶ原の北北西、関ヶ原を一望できる笹尾山に布陣した。その後、諸隊も続々と関ヶ原へ到着し、三成の陣から南方へ順に、島津義弘、小西行長、宇喜多秀家、平塚為広、大谷吉継、そして松尾山に小早川秀秋、その麓には脇坂安治ら4隊が、さらに関ヶ原を挟んだ南宮山に毛利秀元、その麓に吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親が布陣、西軍総勢8万4千の兵が午前5時頃までに布陣を終えた。

 一方、東軍の家康が出陣命令を出したのは、三成が関ヶ原に到着してから1時間ほどたった午前2時頃であった。命が下ると福島正則、黒田長政隊を先頭に進軍を開始し、西軍が布陣を終えた頃に関ヶ原に到達した。福島隊が宇喜多隊と対峙するように布陣すると、そこから諸隊は南北に別れ、石田、島津、小西隊と対峙するように黒田長政、細川忠興、加藤嘉明田中吉政が、そして平塚、大谷隊と対峙するように藤堂高虎京極高知が布陣し、その後ろには井伊直政松平忠吉寺沢広高本多忠勝らが控えた。家康は、さらに後方、南宮山北西の麓に連なる桃配山に布陣、このほか南宮山の毛利勢の抑えとして、南宮山麓の中山道沿いに浅野幸長、池田輝政、山内一豊、有馬豊氏が布陣、東軍総勢7万5千の兵が布陣を終えたのは午前6時頃であった。

 この日の関ヶ原には濃い霧が立ち込めていたという。両軍が対陣してから2時間がたった午前8時、この霧の中を進む者たちがいた。井伊直政率いる30騎ばかりの赤備と松平忠吉である。東軍の先陣は福島正則と決まっていたが、事実上、徳川家と豊臣家の戦いの先陣が豊臣恩顧の正則とあっては徳川家の立つ瀬がない。そう家康の心境を悟った直政は、何とかして徳川の身内に先陣を切らせようと家康の四男であり自身の娘婿でもある忠吉を伴って最前線へ躍り出ようとしていた。途中、正則の陣を抜けようとすると、福島隊の部隊長・可児才蔵(吉長)に通行を阻止されそうになるが、忠吉が初陣ゆえ戦の始まりの見物を望んでいると偽り、さらに前進、福島隊の前に躍り出た。そして直政の合図で率いてきた鉄砲隊が構え、忠吉が発砲を命令。こうして忠吉が見事に先陣を切り、遂に関ヶ原の戦いの火蓋は切られた(本来、抜け駆けは御法度。忠吉が許されたのは家康の子であることに他ならない)。

 赤備の鉄砲隊の攻撃を受けた宇喜多隊はすぐに応射。だが、このとき既に井伊直政、松平忠吉ともに兵を退いている。代わりに攻撃を受けたのは福島隊であった。正則は、抜け駆けされた怒りも相まってすぐさま宇喜多隊への突撃を命令。それに釣られるようにして黒田長政、細川忠興らは石田隊に、藤堂高虎、京極高知は大谷、平塚隊へ突撃していった。戦闘開始から1時間たった午前9時の時点では数に勝る西軍が若干優勢であったという。しかし、このとき、西軍の部隊で積極的に戦いに参加していたのは、石田隊、小西隊、宇喜多隊、大谷隊、平塚隊ぐらいで、島津隊は近寄ってきた敵を追い返すだけに留まり、他は参戦せず日和見といっていい状態だった。午前10時を過ぎ、戦況の膠着に業を煮やした家康が桃配山から前進、三成の陣から目と鼻の先、現在陣場野と呼ばれている場所まで進出してくると、東軍諸隊の士気は一気に上昇し、徐々に西軍諸隊を押し始め、石田隊も黒田隊の鉄砲により島左近が負傷するなど追い込まれた。しかし、三成は大筒で反撃し、何とか戦線を維持。それに呼応するかのように宇喜多隊も福島隊を押し返すなど西軍の善戦が続いた。家康が前進してきている状況を冷静に見てとった三成は、今こそ東軍を包囲殲滅する絶好の機会と、午前11時頃、松尾山の小早川秀秋、南宮山の毛利秀元へ向けて参戦を促すための狼煙をあげた。

 後年、明治政府の軍事顧問として来日したドイツのクレメンス・W・J・メッケル少佐は、関ヶ原の布陣図を見て西軍の勝利を即答したという。開戦当初、西軍の布陣はそれほどに東軍に対して有利なものだった。三成の計画通り、小早川秀秋と毛利秀元が、東軍の側背を突けば包囲網は完成し、西軍の勝利は揺るぎないものになっていたであろう。だが、秀秋も秀元も、結果として三成のあげた狼煙に反応しなかった。松尾山にあった秀秋は、1万5千の兵を率い、西軍として布陣したものの、東軍からも好条件での誘いがあり、未だにどちらにつくか決めかねていた。一方、南宮山の秀元は、参戦しようとしたものの、先陣を命じた吉川広家が密かに東軍に内通し、秀元の出撃要請を拒んだために前進することができないでいた。当時、先陣を命じられるのは武門の誉れであり、他の部隊が抜け駆けするのは御法度だった。また、広家は先陣ということで、関ヶ原に続く唯一といっていい道を塞ぐように布陣していたために抜け駆けしようにもできない状態でもあった。そのため、南宮山に布陣していた2万8千の兵力は、その場に釘付けとなってしまった。ちなみに広家は、秀元の出撃要請を拒む際、「只今、行厨(弁当)でござる」と返答しており、秀元が長宗我部盛親の出撃要請を受けた際も、広家と同じ返答をしたことが後年「宰相殿(秀元)の空弁当」の故事となった。

 三成は焦った。これまで何とか善戦してきたものの、家康が前進してきたことにより、主戦場で戦闘に入っている兵数は、今や東軍が多い。一刻も早い援軍が必要であった。逆を言えば、小早川と毛利、約4万の援軍が加われば、勝利は確実という状況であった。だが、小早川、毛利共に反応がない。南宮山の毛利勢は主戦場からやや離れており、麓に布陣していた池田輝政ら東軍諸将と交戦しているようなら反応が薄いのは分かる。だが、松尾山の小早川秀秋はすぐにでも主戦場にいる東軍の側面を突けるのに、その気配がない。三成は、松尾山に急使を出して参戦を催促したが、やはり反応はなかった。三成同様、異変を察した小西行長、大谷吉継らも急使を送ったが、結局、小早川隊1万5千が動くことはなかった。

 一方、家康も焦っていた。自分が最前線に出たことで士気は上昇し、戦況も有利になりつつあったが、三成らの予想を超える善戦に、一歩間違えれば全軍が総崩れになりかねない。吉川広家の内通により南宮山の毛利勢が動かないことは承知している。しかし、勝利を確実なものにするには小早川秀秋の寝返りが不可欠だった。秀秋の内応工作を黒田長政に任せていた家康は、長政に詰問するも、家臣・大久保猪之助を秀秋に張り付かせて工作を続けているが、寝返るかどうかは分からないという返答。その返答も踏まえ、午後1時、秀秋の煮え切らない態度に家康の苛立ちは頂点に達した。家康は、秀秋の出陣を促すため、松尾山に鉄砲で威嚇射撃をするよう指示。この威嚇射撃は功を奏し、秀秋は遂に東軍に寝返ることを決める。秀秋の号令のもと、小早川隊1万5千は大谷隊目掛けて山を下り始めた(近年、家康は軍監として開戦当初から奥平貞治を秀秋につけており、秀秋は開戦時には既に内応していて、威嚇射撃はなかったという説が浮上している)。

 小早川隊が遂に動いた。その矛先が大谷隊に向けられたとき、大谷吉継は敗北を悟ったかもしれない。それでも吉継は共に戦っていた平塚為広らと小早川隊に当たり、2度押し返す猛攻を見せた。しかし、その直後、松尾山の麓で日和見していた脇坂安治ら4隊が、小早川隊の動きを見て一斉に東軍に寝返った。名将の誉れ高い吉継も、さすがにこれは支え切れず、為広は討死し、吉継は自害して果てた。大谷隊を殲滅して勢いに乗る小早川隊は続いて小西隊を急襲。小西行長は必死に将兵を鼓舞するも、披露と恐怖の極みに達した将兵を留めることはできず、たちまち隊は崩れ、行長はやむなく伊吹山中へ落ちて行った。そして小西隊の崩れは、隣の宇喜多隊に波及。逃げ惑う兵たちの流れに逆って宇喜多秀家は討死覚悟の突撃をかけようとするが、明石全登の制止を受け、こちらもやむなく戦場を離脱した。石田隊は、宇喜多隊、小西隊が総崩れとなっても戦い続けた。だが、ここまでくると多勢に無勢。混戦の中で島左近、蒲生頼郷の両将を失い、やがてなす術を失った。三成は佐和山城での再挙を胸に伊吹山中へと姿を消した。石田隊壊滅は、午後2時頃であったという。

 勝敗は決した。だが、戦場には、取り残された西軍の一隊がいた。島津隊である。隊を率いた島津義弘は、もともと東軍の伏見城に入るつもりであったが、連絡の行き違いで守将であった鳥居元忠に入城を拒まれ、やむなく西軍に属していた。さらに大垣城で夜襲の案を三成に却下されたことで三成との折り合いが悪くなり、本戦では最前線に布陣しながら三成自らの参戦要請を断って自軍の防衛に徹していた。西軍総崩れのなか、結果的に敵中に取り残された義弘は、薩摩隼人の意地を見せ華々しく散ろうとしたが、甥である豊久が戦場から離脱することを優先すべきであると進言。義弘は、豊久の進言を受け入れ、その方法として敵中突破を選択した。義弘の号令のもと、島津隊は突進。家康本陣の手前で南へ下り、伊勢街道を目指した。あまりの奇策に東軍諸将は一瞬ひるむが、すぐに体勢を立て直し、井伊直政、松平忠吉、本多忠勝を先頭に追撃を開始した。追撃戦は、退路を見定めながら逃げる者より、ただ目標を見ながら追う者の方が圧倒的に有利である。島津隊は、追いつかれるのが必至となると、次の奇策に出た。一部の兵がその場に留まって鉄砲を放ち、そして、そのまま追撃隊の足止めに入ったのである。当然、足止めに入った兵たちは、ほぼ全員が討死する。「捨て奸(すてがまり)」と呼ばれる戦法である。烏頭坂(うとうざか)では、この捨て奸に豊久までが志願して討死を遂げ、その甲斐あって義弘は離脱に成功する。離脱に成功した時、開戦当初に千5百を数えた兵は80ほどまで減少していたが、豊久らの奮戦により、井伊直政、松平忠吉は負傷し、数年後、両者はこのときの傷がもとで亡くなっている。この島津隊の勇戦は、のちに「島津の退き口」と呼ばれ語り草となる。

 島津隊が、激しい追撃を受けていた頃、南宮山の西軍諸隊の退却も始まった。結局、吉川広家が動かなかったことで、毛利秀元、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親は、戦意があったにもかかわらず、何もできないまま戦場を後にすることになった。こうして東軍、西軍、合わせて15万の将兵が激突した日本史上最大の合戦は東軍の勝利に終わった。家康の追撃中止命令が出て、関ヶ原に静寂が戻ったのは午後4時頃だという。

 翌9月16日、家康は、小早川秀秋、脇坂安治ら松尾山に布陣していた寝返り組に、三成の居城・佐和山城の攻略を命令し、自身は大津城へ向かった。秀秋らは17日から攻撃を始め、18日に佐和山城は落城、三成の父・正継と兄・正澄は自害した。19日、関ヶ原の庄屋に匿われていた小西行長が自首(キリシタンは自害を禁じられていたため)。21日には自領内に隠れていた三成が田中吉政の兵によって捕縛された。捕らえられた三成は22日に家康と福島正則、黒田長政ら東軍諸将と対面し、小早川秀秋が入ってくると不忠を批判したという。23日には京都の寺院に匿われていた安国寺恵瓊が奥平信昌によって捕らえられ、三成、行長、恵瓊の三人は10月1日に京都六条河原で処刑された。

 三成らの処刑に先立つ9月25日、毛利輝元は、家康に恭順を示し大坂城を退去。27日、家康は大坂城に入って豊臣秀頼と謁見し、労いの言葉をもらった。そして10月半ばから順次、論功行賞が行われることになる。西軍についた大名の処分については時間がかかったものもあり、最後に残った佐竹義宣の処分が決定したのは1602年4月のことだった。大名の加増には豊臣家の蔵入地(直轄領)も宛がわれ、豊臣家は220万石から65万石の大名に転落し、弱体化した。大坂城内には、もはや家康に対抗しうる者はなく、秀頼の生母・淀殿も家康の行動を黙認せざるを得なかった。こうして事実上、天下人となった家康は、1603年に征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いた。だが、このことが天下人を自負する豊臣家との確執をうみ、大坂冬の陣、夏の陣に繋がっていくことになる。

【主な論功行賞と西軍諸将の処罰】

前田利長・・・83万石から120万石へ加増。
伊達政宗・・・60万石から62万石へ加増。
島津忠恒・・・61万石 所領安堵
最上義光・・・24万石から57万石へ加増
黒田長政・・・18万石から52万石へ加増
加藤清正・・・22万石から52万石へ加増
池田輝政・・・15万石から52万石へ加増
小早川秀秋・・・37万石から52万石へ加増
福島正則・・・20万石から50万石へ加増
浅野幸長・・・32万石から50万石へ加増
細川忠興・・・23万石から37万石へ加増
鍋島直茂・・・36万石 所領安堵
藤堂高虎・・・8万石から20万石へ加増
加藤嘉明・・・10万石から20万石へ加増
毛利輝元・・・120万石から37万石へ減封(所領安堵の予定であったが、輝元が積極的に西軍に加担していたことが露見したため)
上杉景勝・・・120万石から30万石へ減封
佐竹義宣・・・54万石から20万石へ減封
真田昌幸・・・改易 紀伊・九度山に蟄居
立花宗茂・・・改易(1620年に旧領、柳川に復帰)
長宗我部盛親・・・改易
宇喜多秀家・・・八丈島に流罪


【各地で行われた戦い】

慶長出羽合戦9月8日~10月14日
 会津の上杉景勝と山形の最上義光の戦い。上杉(会津)征伐が三成の挙兵によって中止となり、家康が西上すると、景勝は直江兼続に2万5千の兵を率いさせて、米沢から最上領へ侵攻させると同時に庄内地方からも3千の兵を繰り出して、山形の義光を南北から圧迫した。当時、義光の石高は24万石で、義光は8千の兵しか確保できず、それを各地に派遣しなければならなかったために苦戦を強いられ、瞬く間に山形城から目と鼻の先にある長谷堂城まで上杉軍の侵攻を許してしまう。だが、長谷堂城の城将・志村光安と援軍として派遣された鮭延秀綱は、寡兵でありながら兼続率いる1万8千の大軍を相手に善戦。関ヶ原本戦の東軍勝利の報告を受けるまで城を守り切り、上杉軍を撤退させた。
 上杉軍の撤退を見て、義光は追撃を開始。戦いは有利であるはずの追撃している義光が兜に銃弾を受けるほど熾烈を極めたという(そのときの弾痕が残る兜が現存している)。自ら殿(しんがり)を買って出た兼続は、執拗な追撃に途中で自害しようとしたが、前田慶次の叱咤と武勇に助けられ、何とか米沢へ帰還。上杉軍の撤退後、義光は攻勢に転じ、庄内地方と由利郡を奪取し、戦後、最上家は57万石の大封となった。

白石城の戦い7月24日~25日
 伊達政宗が、上杉方だった白石城を攻めた戦い。上杉討伐の際、家康に従っていた政宗は、信夫口から上杉領に侵攻するようにと命じられ、そこに至る要衝にあったのが白石城であった。政宗が着陣したとき、折よく城主であった甘粕景継が不在であったため、2日あまりで本丸以外のすべてを落とし、降伏させた。
 上杉家の家老・直江兼続は白石城の落城を知り、これを奪還すべく軍勢を送り込んだが、伊達家に味方した農民や野武士に阻まれ上杉軍は撤退した。一説には、この敗退の影響で、上杉軍は三成の挙兵を知って西上していく東軍の背後を突く機会を失ったともいわれる。戦後、白石城はそのまま伊達家の所有となり、片倉景綱が城主となった。

第二次 上田城の戦い9月5日~9日
 中山道を西上していた徳川秀忠と信濃上田城主・真田昌幸の戦い。昌幸は当初、家康の上杉討伐に従っていたが、下野犬伏まで来たところで三奉行(前田玄以、増田長盛、長束正家)連署の密書により三成の挙兵を知ると、沼田城主で同じく上杉討伐に従っていた長男・信幸を呼び寄せ、次男・幸村を含めた三人で協議を行った。協議の結果、信幸は、正室・稲姫(小松姫)が徳川重臣・本多忠勝の娘であったことから東軍につき、昌幸と幸村は、昌幸の正室と三成の正室が姉妹であったことや(昌幸の正室の出自については諸説あり)、幸村の正室が三成の盟友・大谷吉継の娘であったことから西軍につくことを決め、上田城へ引き返した(犬伏の別れ)。
 9月2日、秀忠率いる徳川の精鋭3万8千が小諸に到着。秀忠は、家康から昌幸を屈服させるよう命を受けていたこともあり、まず同行していた信幸と本多忠政(信幸義弟)を使者にたて、上田城の昌幸に降伏勧告を行った。この勧告に昌幸は素直に応じ、城の清掃をしたのち開城すると約束したが、4日になると態度を急変させ、交戦の構えを見せた。昌幸の時間稼ぎであることを知った秀忠は激怒。直ちに上田城攻めを命じ、5日より戦闘が始まった。上田城を守る兵は3千余りだったが、昌幸は徳川軍を十分引き付けたところを鉄砲で反撃。さらに幸村率いる伏兵が襲い掛かり徳川軍を潰走させると、最後は神川の堰を切って川を増水させ、逃げ惑う兵を多く溺死させるという二重、三重の戦術で徳川軍を散々に打ち破った。
 9月9日、体勢を立て直すために小諸に戻った秀忠は、家康からの書状を受け取った。内容は真田攻めを中止して一刻も早く上方へあがるようにとのことだった。だが、ここで問題が生じる。書状を携えた使者は、途中、雨のために増水した川を渡れず遅参し、書状の命令は10日も前に家康が発したものだった。上田城攻めに7日を費やしてしまった秀忠は、上田城に抑えの兵を残し、翌日には小諸を発つが、9月15日には、まだ信濃国内におり、関ヶ原の本戦に遅参した。
 9月20日、秀忠は、大津にいた家康のもとに、ようやくたどり着いたが、家康との面会は許されなかった。榊原康政の必死な弁明により、秀忠が家康と面会できたのは23日のことだった。
 関ヶ原の戦い後、家康は、昌幸と幸村に切腹を言い渡そうとするが、信幸と本多忠勝の助命嘆願により、両者とも紀伊・九度山で蟄居となった。空いた上田は信幸に与えられ、結果的に真田家は生き残った。

浅井畷の戦い8月9日
 加賀金沢城主・前田利長と加賀小松城主・丹羽長重の戦い。秀吉の死後、家康の策略により徳川家に屈服した利長は、東軍として関ヶ原へ向かうため、金沢城を出て南下した。しかし、越前敦賀城主・大谷吉継の工作により、加賀小松城主・丹羽長重をはじめとする加賀南部と越前の大名たちは、ほとんどが西軍に属し、利長の行く手を阻んだ。利長は、小松城に抑えの兵を残すなどして南下し、何とか越前北ノ庄まで兵を進めたが、ここで西軍が海路から金沢を襲撃するらしいという報に接した。これは吉継による虚報であったが、利長は万が一のことを考え撤退を決意する。その撤退途中、大軍が展開しずらい浅井畷(※)に入ったとき、待ち伏せをしていた丹羽軍の襲撃を受けた。前田軍2万5千に対し、丹羽軍は3千であったため、前田軍は金沢城に帰城できたものの、予定外の損害を被った。金沢城で金沢襲撃が虚報であった事を確認した利長は、軍を再編し関ヶ原へ向かおうとしたが、結局、本戦には間に合わなかった。

※畷(なわて)・・・田んぼのあぜ道

大津城の戦い9月7日~14日
 近江大津城主・京極高次毛利元康、立花宗茂ら西軍諸将の戦い。大津城主である高次は当初、西軍に属し、大谷吉継を中心とする北陸平定軍に加わっていたが、突如、東軍に寝返り大津城に籠城した。高次の寝返りは、原因がはっきりしていないが、上杉討伐の際、家康が大津城を訪れた時には、すでに東軍につくことを決めており、北陸平定軍に属しておいて裏切る時期を窺っていたという説がある。大津城は、大坂、京都と関ヶ原を繋ぐ陸路と海路の要衝であった。そのため、三成としては補給路を断たれるわけにはいかず、毛利元康、立花宗茂ら1万5千の軍勢を大津城へ向かわせた。元康、宗茂らは本来、関ヶ原に向かう予定であったため、時を費やすわけにはいかず、攻城戦は初めから熾烈を極め、立花隊は大筒まで持ち出して攻撃した。だが、高次は将兵を鼓舞して士気を保ち、3千の兵で8日間を耐え抜いた。最後は、宗茂による高次助命の書状と北政所(秀吉正室)からの使者によって、高次は降伏開城に応じた。高次が大津城を明け渡した9月15日、関ヶ原の本戦で西軍は敗北。元康、宗茂らは本戦に参加することができなかった。戦後、高次は、家康から1万5千の兵を足止めした功績を高く評価され、大津6万石から若狭一国8万5千石(のち9万2千石)の大名となった。

田辺城の戦い7月19日~9月13日
 丹後田辺城に入った細川幽斎(藤孝)と丹波・但馬衆を中心とする西軍諸将の戦い。家康の上杉討伐に乗じて三成が挙兵すると、細川領である丹後隣国の丹波、但馬の大名たちの多くが西軍に属した。丹後に残っていた幽斎は、子・忠興が家康の上杉討伐に従って関東に下向していたこともあって、東軍に属すこととし、細川家の本拠・田辺城に入った。三成は家康討伐にあたり、まず伏見城と田辺城を攻略目標としたため、田辺城は瞬く間に丹波・但馬衆を中心とした西軍1万5千の兵に包囲されることになる。このとき、細川家の精鋭のほとんどが忠興に従って関東へ下っており、田辺城には5百ほどの兵しか残っておらず、西軍の攻撃が始まると、10日あまりで落城寸前に追い込まれた。だが、幽斎が当代一の文化人であったことが、これ以上の攻城を鈍らせた。攻め手には幽斎の弟子も多く、幽斎の討死も自害も望まなかったためである。また、朝廷も幽斎が修めた古今伝授が失われるのを避けたかったこともあり、八条宮智仁親王が7月、8月と二度にわたって使者をたて幽斎に開城を勧めた。しかし、幽斎はこの申し出を謝絶して徹底抗戦の構えを見せる。この動きに対し、八条宮智仁親王は遂に後陽成天皇に奏請するに至り、講和の勅命が下された。勅命とあっては幽斎も従わないわけにもいかず、9月13日、幽斎は城を明け渡した。関ヶ原の本戦は開城の2日後だったため、丹波・但馬衆は本戦に参戦することができなかった。

石垣原の戦い9月13日
 豊後国、石垣原で起きた黒田官兵衛大友義統の戦い。関ヶ原の戦いは、遠く九州にも飛び火した。九州の大名たちも、それぞれの想いから東軍、西軍に別れ、そのなかで官兵衛は、子・長政が家康の上杉討伐に従っていたこともあって東軍についた。官兵衛は、長政から留守を任され豊前中津城いたため、九州での領土を増やそうと、私財を投じて兵を募り、同じく九州に残っていた加藤清正と連携、さらに徳川家康から切取(奪った領土を自領とすること)の許可を得て、豊後で西軍についた大名の領土へ侵攻を開始した。かつて豊後は大友義統が治めていたが、文禄の役で義統は平壌で危機に陥った小西行長を見捨てて逃亡したため改易されており、その後、豊後は10人ほどの大名に知行され、領土が中小化されていた。そのような小領主ばかりなら簡単に攻略できると官兵衛は踏んだのである。だが、そこへ西軍の総大将・毛利輝元の支援を得た義統が大名復帰をかけて豊後に上陸。すると、豊後岡城主・中川秀成や筑後柳川城主・立花宗茂のもとに寄寓していた田原紹忍吉弘統幸ら旧大友家臣たちが義統のもとに集い、立石城を拠点に丹後・細川忠興の飛び地、杵築城へ進軍を開始した。
 義統の動きに対し、官兵衛は軍勢の一部を割き、それらを井上九郎右衛門らに率いさせて杵築城の救援に向かわせた。義統は、城の攻略に手間取ったこともあって、一旦、立石城まで兵を退いて体勢を整え、立石城に向かって来ていた黒田勢を石垣原で迎え撃った。戦いの序盤は、吉弘統幸が黒田勢の先鋒を破るなど大友優勢で進んだ。だが、井上九郎右衛門と杵築城の細川勢が救援に駆けつけると、大友勢は次第に劣勢となり、統幸ら主だった武将たちは討死して敗北。敗戦を知った義統は自害しようとしたが紹忍に諫められ降伏した。
 大友勢を降した官兵衛は、その後も豊後、豊前を席捲。最後は筑後まで軍勢を進めるが、関ヶ原の本戦で勝利した家康の停戦命令によって進軍を停止した。戦後、官兵衛は家康と交わした切取の約束を反故にされたが、黒田家は18万石から52万石へと加増された。

江上・八院合戦(柳川合戦)10月14日~21日
 筑後柳川城主・立花宗茂と肥前佐賀・鍋島直茂の戦い。関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わった。西軍に属していた立花宗茂は、西軍の敗報を大津城を攻略した直後に聞き、大坂城に一旦退いた。そこで宗茂は、在城していた西軍の総大将・毛利輝元に大坂にてもうひと合戦及べば挽回できると主張したが、輝元には聞き入れてもらえず、やむなく柳川へ帰国の途についた。柳川へ向かう道中、宗茂ら立花勢は、同じ西軍に属し、関ヶ原の本戦で敵中を突破して戦場を離れ、鹿児島へ向かおうとしていた島津義弘ら島津勢と遭遇した。島津家といえば、宗茂にとって実父・高橋紹運の仇。また、このときの島津勢は本戦での激闘で兵をほとんど失っていたこともあって、家中では「今こそ仇を討つべし」との声が上がった。しかし、宗茂は「仇と言っても此度は共に戦った同士。このような状況で仇を討つは武門の誉れにあらず」といって意見を退け、逆に義弘の護衛を買って出て義弘と友誼を結び、共に九州を目指して帰国を果たした。
 柳川城に戻った宗茂は、ここで黒田官兵衛、加藤清正、鍋島直茂ら周辺の有力大名がみな東軍に属し、柳川に押し寄せようとしていることを知る。そのなかでも、直茂の動きは早く、直茂は10月14日に3万2千の兵を率いて佐賀を出陣して筑後に向かい、16日には筑後川を渡って立花方の支城の攻略に乗り出した。鍋島勢の動きに対し宗茂は、関ヶ原本戦で既に決着がついている以上、家康に対して恭順を示す必要があると考え、自身は城に残り、あくまで領土の防衛、切取阻止のため小野鎮幸に3千の兵をもたせて江上、八院方面へ出陣させた。戦いは終始、数で勝る鍋島勢が有利に進めた。直茂は、当初から東軍につくつもりだったが、子・勝茂が、やむない事情があったにせよ、西軍に属して伏見城攻めに参加したため、その失態を挽回するのに必死だった。そのせいか鍋島勢の攻勢は激しく、立花方の諸将の多くが討死し、鎮幸も銃弾を受けるなど重傷を負い、戦いは鍋島勢の勝利に終わった。
 直茂は、勢いそのままに柳川城へ攻め込もうとしたが、加藤清正、黒田官兵衛が和平工作に乗り出したことを受けて、城攻めを中止した。10月25日、宗茂は清正らの説得を受けて開城する。このとき、宗茂と友誼を結び、共に九州まで来た島津義弘は、柳川城救援のための兵を繰り出していたが間に合わなかった。戦後、宗茂は改易となるが、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の覚えめでたく、1620年に西軍に属して改易された大名で唯一の旧領復帰を果たした。
主な参戦武将
東軍(徳川家康方)75000 西軍(石田三成方)84000
【本戦参加】
徳川家康
松平忠吉
井伊直政
本多忠勝
福島正則
可児才蔵(吉長)
黒田長政
後藤又兵衛(基次)
細川忠興
加藤嘉明
藤堂高虎
京極高知
田中吉政
寺沢広高
浅野幸長
池田輝政
山内一豊

【中山道主力】
徳川秀忠
本多正信
榊原康政
真田信幸(信之)
仙石権兵衛(秀久)

【伏見城】
鳥居元忠

【大津城】
京極高次

【田辺城】
細川幽斎(藤孝)

【北陸】
前田利長

【九州】
加藤清正
鍋島直茂
黒田官兵衛(孝高)
栗山善助
井上九郎右衛門
母里太兵衛

【東北】
伊達政宗
最上義光
志村光安
鮭延秀綱









【本戦参加】
石田三成
島左近(清興)
蒲生頼郷
島津義弘
島津豊久
小西行長
宇喜多秀家
明石全登
大谷吉継
平塚為広
毛利秀元
安国寺恵瓊
吉川広家(東軍に内通)
長宗我部盛親
長束正家
小早川秀秋(東軍へ寝返り)
脇坂安治(東軍へ寝返り)

【大坂在城】
毛利輝元
増田長盛(家康に内通)
前田玄以(ほぼ中立)

【岐阜城】
織田秀信

【上田城】
真田昌幸
真田幸村

【伏見城攻略】
宇喜多秀家
小早川秀秋
毛利秀元
島津義弘
小西行長
鍋島勝茂(のち東軍寝返り)

【大津城攻略】
毛利元康
立花宗茂

【北陸】
丹羽長重

【関東】
佐竹義宣(中立?)

【九州】
毛利勝信

【東北】
上杉景勝
直江兼続
前田慶次(利益)




 
旅先 関ヶ原古戦場跡へ