秋鹿家   徳川家



中泉歴史公園の由来
(旧秋鹿屋敷)
 
 

秋鹿家と徳川家の繋がり
「秋鹿家屋敷」

◇戦国時代

元亀5年(1571)徳川家康は、浜松城に移った後、大池(磐田駅南約1km)にしばしば鷹狩に来て、御殿(現在の磐田駅南の御殿遺跡公園)の地にあった秋鹿家屋敷を旅宿とし、遊猟をしていた。
天正15年(1573)秋鹿直朝は、この秋鹿家屋敷を家康に献上し、代わりに久保の地を賜り、秋鹿家の屋敷を建て移り住んだ。

◇大坂冬の陣の作戦本部
(徳川家康公と徳川秀忠公の軍議の場)
元和元年(1615)大坂冬の陣で徳川秀忠軍は、大阪城の内堀外堀を埋め立てた後、この地久保の秋鹿家屋敷において、出迎えの父徳川家康公の大歓迎を受け、徳川秀忠と今後の作戦を練ったようです。 ・秋鹿家屋敷や中泉御殿屋敷は、たびたび徳川の軍議の場となり、5月8日の大坂城落城等に重要な役目を果たしたと言われている。
◇江戸時代
秋鹿家は、徳川家の旗本や神主としてこの地に住み、豪華な秋鹿屋敷を築き、特に庭園は、代々の当主が趣向を凝らし、全景を松島に表し、扇子池や林を配し、遠州の名園となった。

  

◇明治~昭和時代

【庶民の社交の場】
明治4年廃藩置県で政府が所領没収し中泉公園となるが、明治九年秋鹿家に払下げられた。
明治13年園内に小屋掛け小屋で芝居や手品などおこなわれていた。
明治14年照日座」が建てられた・明治42年建替えられ「中泉座」と改名、戦時中「中泉座」は戦火を避けるため、取り壊される。
昭和21年「中泉座」の跡地に「スバル劇場」が建てられ映画・芝居・歌謡ショー等々に利用され、同時期に「旧開苑楼」「遊郭・常磐桜・三浦桜」なども立てられ、大衆に親しまれた社交の場であった。
毎年秋に開催される「府八幡宮例大祭」の山車引き廻しの最後には、全山車がこの地の久保川沿いに停車し、大人の男たちが夜通し楽しんでいたが、昭和33年頃中泉遊郭廃業に伴いその光景はなくなる。

【現在の中泉歴史公園】

料亭「開苑桜」が平成10年廃業を最後に、この地の華やかさは幕をとじました。
平成21年磐田市が「中泉歴史公園」として地元の有志とともに整備し、現在に至る。




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