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「ひふみ…天地の数歌」が歌う“真理の歌” (7)
                                                           
    ≪数<9>とドレミの不思議な関係、そして数<9>の不可思議な話≫

リンク ひふみ神示黎明編「神の数学」

                                                 2011年8月謹んで上載                     
 
 もう既に祝詞「ひふみ…天地の数歌」の人文的な考察、あるいは数理的な解析は大分終えたので、引き続きそれに関する傍証的な真実の考察に入って見たい。よく目を見開けば我々の周囲にはそれらに関する古代の名残がしばしば見受けられるのであるが、今では誰も見向く者とていない有様である。願わくば、あなたの視線の限りで結構である、見たこと、感じたことを納得いくまで調査検証して見ることをお勧めしたい。更に今回のこの記も読み終えた時点で貴方の直観的視線でもう一度よく世の中の事象を見定め、改めて直観と洞察力を駆使してもう一度考えて見てほしい。恐らく、あなたの記憶の中にも何かこれらに類することがあるはずであり、それを引っ張り出して再吟味して戴きたいのである。

 古神道の祝詞である「天地の数歌…」の意味をもう一度改めて考えてみよう、今まで我々は単に「ひふみ…」の数詞のみを指すものと考え、深い考えには至らなかったのである。要するに、その後に続くべき本体の存在にはまっいたく気がつかず、数千年の間放置したままであったのである。まことに迂闊であり、あまりの深慮の至らなさに地団太踏みたい気持である。

 改めて考えて見るとそこにはそれだけの大きな背景と理由があったはずである。例えば、古代文書が伝えているようなすべてを呑み尽くした限りない天変地異や、民族を滅ぼすような大規模のはやり病(伝染病)、はたまた歴史を揺るがすような他民族の侵攻、あるいは権力者の大きな政権交代、それらが何度もあり、そのたびに、徐々に古代知の分散喪失が進み何時の間にか失われてしまったのであろう。これらの歴史変動が無かったと言うほうがおかしいのである、何せ、縄文期とは1万5千年という世界一長い歴史を持つものである、そのいずれかの時代には信じられないような大文明が存在したことは疑いのないものである。その証拠に、日本には世界には類を見ないほどの超古代文献があまた存在し、しかも、その多くは現代と基点が異なる「遥かな叡智」の諸々が記されているのである。それゆえに現代の学者達には信じられず無視の憂き目に合っているのである。察するに、その当時はもっと深い意味で宇宙の構造と合い響くような深い知や仕組みがあまた知られ、多くの人々者がそれを学んで日頃生活の中で用いていたと思われる。

 今回は我々の周囲にある不思議な数『9』についていろいろ考えをまとめて、その真実を探求して見よう。

 最初にこれだけは知ってもらいたい、現代数学者達の間で数字《9》はとても不思議な数、得体の知れない不可思議な数であるとも今も言われ続けていることを…。要するに、現代数学者達さえも9の本当の正体、本体は知らず迷っていると言うことである。また0についてもまったく同じであり、数学者達は完全にギブアップの状態を示しているものである

 古来より日本に伝わる言葉の中には「九」、もしくは「九の倍数」にあたる数字が驚くほど多く存在し、そしてその殆どは意味も知らずに使われていたという“不思議な現象”が存在している。恐らくそれらについては誰も気がついてはいないものと思われる。

 そのあたりから今回は話をスタートさせることにしよう。

 まずは諸氏がお馴染みの「ドレミファの音階」に潜む驚くべき秘密を探り、誰も知らない真実を明るみに出してみよう。相変わらず誰も知らない話であり、夢想だにしたことも無い突飛な話でもある。しかし、この事実はあなた方の心を十分に揺すぶって魂を天外に飛ばしてしまうことは何時もの通りのことであり、またあなたの心に一つの余裕が生まれリ元気が出ることは請合うものである。心に余裕を持って生きる、そのためにもこのような法外な話も時にはいいではないか…!。

 更には音楽の基本である音階ドレミファの「ド」について考えてみよう。「ド」は261ヘルツの振動を持っている音である、それに対して1オクタ−ブ上の「ド」は522ヘルツであり、2オクタ−ブ上の「ド」は1044ヘルツ、3オクタ−ブ上の「ド」は2088ヘルツという振動を持っているのである。そのあたりは音楽を志している方はよくご存じであろう。

 この場に主音「ド(261ヘルツ)の音叉を数個用意して一個だけを叩く、すると面白いことにこの音叉は上下のオクタ−ブには関係なく、どのオクタ−ブの「ド」にも共鳴しすべての音叉は振動を始めるのである。要するに、すべてはドの音階のみに反応し、共鳴音を奏でると言うことである。おそらく、そこには自然流のエネルギーの受け渡しが行なわれているのであろう。この自然流のエネルギーの受け渡しの理屈は今のところまったく未知数であり、大変不可思議な形態と思われる。
 この不可思議な自然流エネルギ−の発生形態を持つものにある種の蝉がある。あの小さくてか細い発声器官しかないのに空気を揺るがすばかりか、全山を揺るがすような大音声を発して我々を驚かせているのである。これはまさに驚くべきエネルギ−の創出発散であり、小さな小さな共振力が考えられないほどの大きな共鳴エネルギ−を誘発し、耳を聾せんばかりに山々を揺らすのである。
 
 我々の常識ではエネルギ−とは広く拡散するか、または多くのものに分散移行するに従って減衰していく物質形態の一つであり、拡散するにつれて無秩序化されて減衰していくと考えられている。要するに、拡散してエネルギ−の力が小さくなると利用が出来ないもの、それが今の人間の利用している物質化エネルギ−、すなわち、石油、石炭、ガスなどの物質的な有限エネルギ−である。
 しかし、自然にはこれら以外の無尽蔵とも言える非物質エネルギ−があまた存在し、見えない形で縦横無尽に走り回っているのである。ただ、我々はそれを未だ利用する技を持たないので捉まえることも出来ずただ放りっぱなしにしているだけと言うことである。

 要するに、まだ我々の知はまだまだ未熟であり、従ってテクノロジ−が低いのでそれらを利用出来ないと言うことである。

 自然エネルギ−現象の身近なものでは雷がある、あれも一つの非物質エネルギ−である。上空のマイナスイオンと地上のプラスイオンの均衡が同調共鳴し、本質が0になる時にすざましいエネルギ−を放って鳴り響き大音響を轟かせるのである。これはまた大きすぎて制御できず放りっぱなしであり、科学者達は完全無視の状態である。これを利用してエネルギ−を作ればいいのである。現実的では無いと言うなかれ、確か、70〜80年前に空に雲を作ったり消したりしていたライヒと言う有名な学者がいたではないか、もっとも彼は医者のくせに物理学の領域を侵したとして投獄されそこで死んでしまったが…。

 今の我々は数十年先の物質エネルギ−の枯渇をめぐって、ただおろおろしている現状である。そこで一つ規模の小さい実験室的な雲を発生させ、その中で雲(+)と大地(−)を電極とした静電気を発生させ連続的に衝突させてエネルギーを作って蓄電しておけばいいのである。今は不可能でも、20年、30年もかければ必ず出来るはずである。このように利用可能な未知エネルギ−、すなわち、自然エネルギ−の一つである静電気を捉まえて利用することを国家単位で考えていけばそのうち道は開け無限のエネルギ−が得られるはずと思うのであるが…。考えてみると。今から300年前にベンジャミン・フランクリンと言う確かな先駆者もいたではないか…。彼は雷を捕まえてエネルギーを取ろうとした最初の科学者であり、その事実は教科書にも載っていたはずである…。

 「静電気」、それは自然界に無限にあるエネルギ−であり、未だ人間の手の届かない究極のエネルギ−、すなわち、未来のエネルギ−源と言ってもいいものである。しかし、科学者達は今のところ避けて通るだけで誰も相手にしょうとはしない。
 雲の正体は判った、雷の原理も解ったと豪語し、嘯いているている科学者諸氏達よ、それらを人類のために応用利用してこそ初めて科学者としての本分をまっとうすると言うことであり、その熱き使命と言うものであろう、そうではないのかな…。

 ただ理解した、判明しただけでは「花は咲けども実はならぬ」であり、全く意味のない無駄花の類と少しも変わらないはずである。

 これらの自然の力の発見、そのためのキ−ワドが「0=9」であり、それと「自然は簡単明瞭に出来ている」の二つである。ここにおける0とは姿の無いエネルギ−であり、9とは物質化された姿のあるエネルギーである。確かアインシタインは「エネルギ−が集中して密度が濃くなったもの、それが物質である、要するに、エネルギ−と物質はまったく同じものである」と言っていたはずであるが…!!さあ、
話はとんでもないところに飛んでしまったが元に戻そう。

 さて、このドレミハ…の「ド」の振動数、すなわち、ヘルツの値を見てみよう。

「261ヘルツ」Σ=9→0、「522」Σ=9→0、「1044」Σ=9→0、「2088」Σ=9→0、 ……。

 なぜか知らないがすべては倍数関係になっているのである。しかもそこにある数とは加算すればすべては9になり、0になると言う不思議極まりない数の関係としてそこに出現しているのである。

 まあ、このオクターブが倍々で増える、すなわち、倍数関係にあるのは解るのであるが、そのΣの数である9の出現にはまさに驚き桃の木である。察するに、この主音の「ド」には9の本質数である0が宿り、宇宙の本質0と同調共鳴を作り上げているのであろう。
 まさに「ドレミ…」の音階とは宇宙のリズムと相呼応しているコズミックメロデイ−であり、我々の心を優しく癒してくれるものと言える。

 なぜ、私が突然「ドレミ…」の音階を持ち出したのか、諸氏はさぞかし不審に思うであろう、が何を隠そう私にはこの「ドレミ…」の音階と古神道から出てきた「ひふみ九九算」そのものが本質的には全く同じものと思えて仕方がないからである。なぜならば、「ド」の音階は倍数関係でオクタ−ブを上げていっても、その本質は常に0であり、宇宙のリズムと常に共鳴し、同調状態で響き合っているのである。それが我々心に強い力で迫って来ると言うことは、すなわち、我々の心も本来は0の本質を持っていることを意味するものである。 一方、「ひふみ九九算」も御承知のように各数列は倍数関係を持って次々と展開され、その本質はすべてにおいて0を示していることは今までの証言でお分かりのはずである。まさにこの二つは同じ本質を持っているものなのである。

 また、面白いことに、古神道では「天地の数歌」としてはっきり「歌」と命名され、神官たちにより一つの歌形式で朗々と奏上されるのが常である。要するに、時代や形こそ違うけれどもこれら二つ、すなわち、「ドレミ」と「ひふみ九九算」の中身は全く同じと言ってもいいものであり、まさに自然の持つリズムと共鳴している驚くべき歌形式を持つものと言えよう。

 つくずく考えると、「歌」とは生命のエネルギ−の自然的な発露であり、そのゆるぎない心の語りを表現するものと言える。しかも、その語りのエネルギ−とは心に浸みる微かな振動であり。、宇宙のリズムと共鳴同調波動の姿を持っているものなのである。

 この場合、この「歌」の波動が大自然のリズムと共鳴調和すれば、当然、心は母胎に包まれているような安らぎが生じ、調和安定の境地になる、すなわち、心が丸くなるのである。要するに、我々が名曲を聴いて感動すると心のしこりやわだかまりがすべて取れ、苛まれて歪んでえびつになった心が丸iい自然の状態に還るのである。それが気が休まり、リフレッシュな心地よい心になるのである。
我々の心とは本来、自然の持つ丸い完全波動と響き合えば丸くなり、歪んでえびつな反自然な波動と同調すれば自然にえびつになってくるのである。要するに、それは諺の「朱に交われば赤くなる」の言葉通りのものであり、まさに生きている言葉と言っていいものである。 我々がすべてを忘れて感動の涙を流す時とは大自然のリズムと我々の心が完全共鳴して、大調和し合ってまさに心が丸くなって素直になったその瞬間なのである。

 音楽音痴の私にははっきり分からないが、恐らく中間のレ、ミ、ファ、ソ、ラ,シ…も同一的な原理状態にあるのではなかろうか…?。もしそうならば「ドレミファソラシド」の音階とは天空の音楽であり、まさに宇宙の根源リズムである「宇宙の本質波動」に完全につながるものである。それが知らず知らずに無意識のうちに人間の心(本質0)につながって、気持ちが安らぎ、癒されると言う状態作り出すのである。 何と、「ドレミ…」は宇宙の本質波動と同調しているものであるが故に我々の魂と共鳴し安らぎを与えていると言うことであり、まさにそれは心を癒す「魔法のリズム」であり、天啓の「魔法の言葉」そのものと言ってもいいものである。

 するとやはり、音楽を聴かせると植物がよく育つとか、乳牛のミルクの出がいい、あるいはお酒の発酵には音楽が何よりであると言われているのも頷けることであり、まさにそに事実こそ自然のリズムとの同調現象の存在、自然のつくる妙なる円滑現象であろう。

 日本には古来より「九」、もしくは九の倍数にあたる数字が驚くほど多く存在し、また「九」に関する不思議な言葉が世界に類の無いほど多い、それは一体何ゆえなのであろうか。そのほとんどは意味も知らずにただただ慣用的に使われているだけである。
 おそらく、すべては古代からの伝承言葉であり、一つの慣用語として人々の中でひそかに愛用されて伝承され続けてきたものであろう。それらを一つ一つ見れば、まるで彼等古代の人々は「九」の数の持つ不可思議な性質をしっかり知り、扱っていたように思えてならない。恐らく彼等は何らかの理由で「九」の数の正体を知り、不可思議な力を持つ「神の数」として崇め奉り、招神退魔などの際に用いて日頃の生活の中で活用していたのであろう。

 ところがである、最近の日本人は「九」は「苦」に通じるものと何ら根拠も無い怪しげな理由で「九」の数を忌避し嫌っているようである、まことに情け無い。そこには知性のかけら等は一切見られず、まさに、無知そのものとしか言えない。
 そのあたりをお馴染みの言い伝えを例にとって追跡し、それらの真実を確かめて見ることにしょう。相変わらず誰も知らない話であり、夢想だにしたことも無い突飛な話、法外な話ではある。しかし、これも事実であり、事実の証言としての大切なものである。恐らく、読むにつれてあなたの心を十分に揺すぶり天外に飛ばしてしまうことは何時もの通りであろう。また時としては心に不思議な余裕が生まれ、同時に心が大きくなって滅多にへこまなくなることは十分に請合うものである。心に余裕を持つて他人と相対する際にこのような法外もない話を知っていても損にはならないはずと思うのであるが…!。

 本来は「九」の数は最高に尊ばれ、崇められるべき尊い数であり、「神」の心に類比すべき数なのであるが、そのことは今では誰も知らない。要するに、日本人は10進法の便利さに帰依するあまり、それまで持っていた古代の自然に基づく数理に関してはすべて忘れてしまったのである。 それはまさに「悪貨は良貨を駆逐する」の諺通りのものと言えよう。

 考えて見るがよい、10進法とは人間には指が10本あるので便宜上使われている計算手法であり、何ら自然の事象に起因するもの、あるいは自然の範例に由来するものでは無い、すなわち、自然の持つ数の扱いとはまったく別のものと言ってもいいものである。

 ただ、それは人間が手を使って計算するには便利なだけであり、自然の用いている絶妙な「数の仕組み」とは全く異なるものと言うことである。そのことだけはしっかりと心に刻み込んでおいてもらいたい。

 江戸時代の刻限を表すのに「九つの時」があり、刻限で一番大きなものは九ッ時であり、それ以降は八ッ時、七ッ時。六ッ時(明け六ッ)言われてきている。どういうわけか、数は大きい数から小さい数に向かって走っているのである。

 九ッ時とはすなわち、真夜中の0時であり、「子の刻」と呼ばれていた時刻である。その次は丑の刻、すなわち丑満つ時と呼ばれていた真夜中の2時である。要するに、1、2、3…の代わりに子、丑、寅…の十二支を用いていて時を計算していたのである。要するに、九が一番最大で最後の数でありながら、最初にもってきいると言う大きな謎があるのに気がついてほしい。一説にはいわく、それは本来は 09、18.27、36、…を意味するものであるが、その最初の一桁の数を取り去って9、8、7、6、…としたと囁かれているのであるが、それも確かではない。そこにある本意とは一体全体は何であろうか…、今では誰も知らない。。

 ひょっとして、真夜中の12時から朝の6時までを「あの世」に通じる時間として捉え本質0である09、18.27、36、…と言う「神の数列」を置いたのであろうか…??!。

 これらを見ると江戸時代の初めあたりまで「古代の知」は引き継がれ残っていたと思われる。恐らく、それは遥かなる平安初期に生を受けた空海、すなわち、弘法大師が長年かけて諸国を訪ね歩いて捜し求めた「先天の数の理」であり、その一つあたりであろう。その「先天の数の理」の存在については空海よりも150年前に生まれた聖徳太子がその書「先代旧事本紀大成経」の中の「先天の伝え」でいみじくも語っているのをご存じであろうか。
 太子はその中で、 『経(ふみみち)はここに露(あらわ)なり。学(まなびのみち)はここに始まる。その言(のたまい)は数にあり。しかも数の道は理(ことわり)を含む。その理(ことわり)は、玄(ふかき)を有(たもち)てあり。しかし、人はこれを知らじ。これ先天の傳(つたえ)なり』と記しているのである。ここにある先天とは現代文明より先立って存在した先史文明を指すものであり、それはまさに数々の古文書にある日本超古代文明の存在を裏書きするものであろう。

 同じように「あの世」を開く道具に数珠(じゅず)ある、その数珠の玉の数を見るがよい。どう言うわけかその数は36、45、63、72,81、108、と決まった数であり、すべては0に通じる「神の数」である。これらの数は「あの世」を開く数としてる遥かな昔から知られ、伝えられてきているものである。これらの小さい数の数珠は手首に巻き、大きい数の数珠は体に巻きつけて用いることにより、「あの世」と心が通じ、交信可能と言われているのである。

 これら「数の秘密物語」は佛教伝来の遥か以前から日本に存在していたものである。恐らく、その概念の起源は爾来三千年の歴史を有する古神道の初源か、あるいはそれ以前の日本起源の「本易(神の易)」あたりにあったはずである。それが何時の間にか、仏教の「あの世」の概念と結びついてそのまま現在に至っているのであろう。たしか、佛教発祥の地であるインドや伝来経路である大陸にはそのような数の用い方は一切見当たらず、その概念さえもまったく無いものである。

 要するに、09、18.27、36、45…の本質は0であり、「あの世」につながる数として深く用いているのは日本だけであり、世界中何処にもその類はないものである。この事実は一体何を語り、何を伝えようとしているのか…?!。

 あなた方はあいも変わらず、日本は知的後進国と教えられ、それに洗脳されて甘んじているようであるが…、実はその逆が真実なのである。古代日本には世界の知を支えてきた大文明が栄えていたのであり、世界各国から知を学ぶために大勢の人々が訪れていたのである。そのあたりのことはまさに超古代文書である「竹内古文書」に記されている通りのものである。

 戦後、それらを知ったアメリカはありとあらゆる超古代文書を日本中から集めて本国に持ち帰り、調べたのであるが、何せ,当の日本人さえ真実を明かし得ないものばかりなので、超古代の真実を見出すことは叶わず、今でもどこかの図書館の奥で眠っていると言われている。彼等は戦時中にアジア、奥満州のコンロン山脈、そのほか、世界の各地から集められた日本に関する文献の存在から素晴らしい日本古代文明の存在を知ったのであるが、当時の日本にはそれを知る学者は誰もいず、また、古いものを測定する技術さえも持たなかったので全部本国に持ち帰って調査したと言われている。しかし、そこにあったのは、あまりにも古い日本古代文明であり、その驚くべき内容の存在にただ吃驚し言葉もなかったのである。  

 さあ、大分本題から外れてしまったが、このあたりで元に戻すとしょう。しかし、ここまで来たのである、一つ歴史書の外側にあるもう一つの伝承言葉から歴史書には無い古代風景に視線を当てて見てみることにしょう。

 古代日本における『九』の役割とその本当の姿を見てみよう。

 本来、古代日本では『九』の数は大変崇められ、秘数として信仰の対象、あるいは厄除けに用いられていたのである。しかし、今ではすっかりそのパ−ソナリテイは落ちぶれ果て、最も忌み嫌われる数としての存在に化しているのである。

 そのすべては10進法の数え方の普及に端を発し、その勢いが増すにつれ『九』の姿は次第に失われてしまったのである。要するに、現代数学が普及するにつれて、古代の「九」の数は庶民の中に身を潜め細々と生き続けて来たと言うことである。

 そのあたりの姿を少々書き出して見る、諸氏も何か心当たりがあるなら是非とも見つけ出して教えてほしい。

お寺の瓦に「九」の文字を彫りつけ、厄除け、邪霊よけとした。

陰陽のお札、別名「物忌札」に「九」の文字を沢山記し、魔除け、厄除けとした。

僧侶の秘呪として「九」の文字を唱え、「九の印」を結ぶ「九字護身法」の存在がある。

山伏、忍者達が九字を切る時に用いた横五、縦四の手印の法、合計9回切る。

除夜の鐘…すべては完了し、時が新しい次の刻みを始める合図、108の鐘の音、一桁化すると9である。

大晦日以外の毎月の晦日には18の鐘が打たれる、一桁化すると9である。

僧侶の持つ数珠の数は36、45、63、72ヶ、…であり、すべて一桁化すると9である。

花札遊びで「九」はカブと呼ばれる最高数であり、「十」はブタと呼ばれる最下位の数。

武芸十八般、歌舞伎十八番、娘十八、すべてこれ以上は無い最高を表す、これらを一桁化すると9である。

◆ 鯉は「六六鱗」と呼ばれ、36枚の鱗を持ち、龍は「九九鱗」で81枚の鱗を持つ。36はこの世の数であり、81は
     あの世の数である。要するに、9,18,27、36、45は「この世の数、54、63、72、81は「あの世」の数と言うことである。

結婚式の三三九度の杯を交わすとは、すなわち、3と3で6である、それを九回重ねると6×9で54である、54とは、
  すなわち「あの世」の最初の数であり、あの世までも一緒に連れ添うと言う大変意味深い言葉である。

 

  「九」にまつわる古代の叡智とは一体何を意味するものか、…?!、何ゆえに数「九」が尊ばれ、崇められていたのか…??。
  その秘められた背景とは?!。 現在でも数「9」は謎の数と言われ、数学者達の大きな関心の的となっているものである。


  次に歴史の世界に目をやり、「9」の数を見つけてみよう、驚くべき事実が存在する。

 中国の『盤古神話』には「盤古が生まれて一万八千年目に天地が分かれ、その後一万八千年目に天地が完全になった。盤古は一日に九度姿を変えながら成長し、十万八千年生きて没し、三十六天界の最上位に昇った。その天は地から九万里のところにある」と記されている…。「三五歴記」より。  【これらの数字を一桁化するとすべては9になる】

■ 私の死後五十六億7千万年になると弥勒(369)菩薩が悟りを得て仏になり、世の人々を救うであろう。弥勒菩薩は身の丈十八メ−トルある方である。……(インドのお釈迦様の言葉)

■ 「星空の1回転は2万5千9百20年であり、王様は天から降りて、まずエリドウに受け継がれた。アリルムが王となり、2万8千8百年統治し、アラルガルは3万6千年統治した。その2王だけで6万4千8百年統治した。大洪水が地を洗い流した後、日神ウトウの子メス・チャグ・ガシエルが王と大祭司を兼ね324年間統治した。…「シュメ−ルの神話」より。

■ 九を聖数として崇めてやまないのはヘブライ人、すなわち現在のイスラエルの人々である。例えば、「9本のロ−ソクに火をともし、必ず九礼拝する」習わしを持つ。…(イスラエルの人々神に祈る際の儀式)

 次は少々自然に目を向けて「9」の現象を探してみよう。諸氏も数「9」の持つ不可思議な魔力に驚嘆の目を向けるであろう。

 また、巷間では次のような常識が流布しているのをご存じであろうか…。

海岸に打ち寄せる波は1分間に18回

人間の生命波動の基本は9ヘルツ。つまりα波の状態である。

人間の生命を維持するための連絡孔は9ヶ。<目(2)、鼻(2)、耳(2)、口(1)、排出孔2 >

人間の感覚器官は全部で27ヶ。(手指10本、足指10本、目(2)、鼻穴(2)、口(1)。耳(2))。

人間の正常な呼吸数は1分間に18回

◆人間の体温は36度。


人間の脈拍は1分間に72回

人間の正常な血圧の上限は144、下限は72、またその中心値は108である。

………これらすべての数のΣは9である。

 見るがいい、ここにある数を一桁化すれば、すべては9であり、0である。これらすべては大いなる自然のリズムであり、0と9が織りなす陰と陽のゆらぎの存在を物語るものである。すべて森羅万象はその響きを受け共鳴調和しているのであり、またすべてはそれを基調として千変万化の姿を繰り返しているのである。この「ゆらぎ」に関して科学者達はいろいろと言ってはいるが,大体は当てずっぽうな意見であり、あまり的を得ているものはない、つまり全く正体不明なのである。

 その中でも最も真実に近いのが宇宙物理学者の佐治晴夫氏のユラギの説明である。彼は「完全透明で見えない水がある、そこに風が吹いて来て波が立ち、縞模様の影がゆらゆらと立つ、要するに見えないものがゆらぎとして揺れて見える存在となるもの、それが「ゆらぎ」として我々の感覚に感じられるものであると言っている。

 また彼は「プラス電荷とマイナス電荷が完全に重なって見かけ上中和され見えない状態になる、次にこの二つの電荷の位置がが少しずれる、すると完全に重なった時には見えなかったがものがずれることによりプラス電荷とマイナス電荷の端と端が見え始まる、要するに、見えるものと見えないものが連続的に繰り返される、それが「ゆらぎ」であると述べている。妙なことにこれは「神の数学」の数の囁きと同一なものであり、見事なゆらぎの本質を語っているものであると言えよう。

 これら奇妙なる「九」の数の意味は一体何を示唆しているものであろうか、そこには未だ我々の未だ知らぬ何か大きな自然
の理があるはずである。しかし、誰も知らない、考えようともしない。ただただ、無視するのもで、近づこうともしない。
そのあたりを追って不可思議な自然の囁きを見てみよう。すべては現代科学が発見した科学上のデ−タ−である。

 ◎《天空の巻》

@ 天空(銀河系宇宙)は72年に一度位置を変える。 (72→7+2=9)

A 天空(銀河系宇宙)の一回転は25920年。   (25920Σ=18→9)

B 太陽が出発点に戻る周期……25,92年    (2592Σ=18→9)

C 太陽の自転……25,38日

D 地球の歳差運動……945万日、または25776年

E 地球地軸の傾き……23,4度(平均太陽日の86400分の1)

F 1日の秒数……86400秒  (86400Σ=18→9)

G 1秒……光の振動周期の9192631770倍 (9192631770Σ=45→9)

H シユ−マン共振波(地球の振動波)……7,83、Σ=18→9

I NASAのアポロ計画に参加した科学者のモ−リス・シャトランは「太陽系に属する惑星、衛星、重要な長期彗星の公転周期や会合周期のすべては“9の倍数”である」と述べている。

 すなわち、あらゆる天体の反復する周期、同一の出発点に回帰する循環周期はすべて9と言う母数を持つ、すなわち9で割り切れると言っているのである。

◎《自然の巻》

■ 脳から出るα波 …… 波動の中心値は9ヘルツ

■ 木炭の波動 …… 波動の中心値は9ヘルツ

■ 人体の出す遠赤外線の数値 …… 7〜12ヘルツ(中心値は9)

■ 動物や植物の欲しがる遠赤外線の波動 …… 7〜12ヘルツ(中心値は9)

■ 水分子の結合角度 …… 104,31度  (10431Σ=9)

■ 水(H2O)  …… 18(水は水素2、酸素16の原子をもつ分子)→9

 このように「9」や「9の倍数」を持つ自然周波(波動)は多くあり、そこには何らかの「自然の秘密」が隠されているような気がするのであるが、いかがであろうか。

 おそらく、古代の人々は自然の中に「9」の真実を発見して数の不可思議な姿に目を見張り、長年かけてそこにある秘密を見出し、活用していたのであろう。

 ここにある9とは本質は0であり、それはすなわち、《9=0》と書き換えることが出来るものである。

 考えてみれば、まさに0こそ「至高の数」であり、すべての数の母胎なのである。すべての数は0から生まれ0に戻っていくのである。それを歌っているのが0123456780の自然数列であり、その他の「ひふみ九九算」の数列なのである。すべては0で始まり、0で終わっていることは一目でお分かりであろう。「神の数学」では0を母数と呼び、9を帰母数と呼んでいるものである。
                              <詳細は「超数学の世界」講座(8)を参照してほしい>

 姿は変われども「ひふみ九九算」におけるすべての数列の連比は見事に012345678となり、同一体の姿を見せているものである。この事実は少々頭をひねって考えて見れば誰でも簡単に解ることなので是非検証して見てほしい。

 考えてみると、そこには現代数学者達が目を剥くような数の理が隠されて、自然のあるべき姿を開示しているのである。
大変簡単なものではあるが、現代数学的な概念ではなかなか解くことは難しいと言ってもいいものかもしれない。

 たとえば、何時も例に挙げているのは次のようなものである。

 「ひふみ九九算」のC番目の数列、0360360360、また、H番目の数列の0876543210、これらの数から何故0123456780と言う自然数の連比状態が生まれるのか…?!。どにようにすればそれらから0123456780の連比数が現れてくるのか…?!。
 頭の固い現代数学者は恐らく解くことの出来ないであろう、しかし、頭の柔軟な中、高生には甚だ簡単に解けよう。まさに、 それはまた、自然の持つ真実の「数の理」であり、「数の序」を示すものである。まさに簡単にして、単純な自然の「数の理」である。
  固い頭をほぐすためにも、出来るだけ懸命に、そして気楽に脳をオ−プンにしながら考えてほしい。要するに、直感力の有無の問題である。多分解答を見た後で、なんだ馬鹿馬鹿しいと自分の余りの思慮の無さを嘆くはずである。(回答は来月(9月)の記に掲載予定)
 
 これらの祝詞「ひふみ…天地の数歌」から現れた「ひふみ九九算表」のすべての数列は同じように0123456780の連比が見事に現れてくるものであり、それゆえに「ひふみ…天地の数歌」の名前を持っていると考えるべきものである。恐らくこれで長い間の疑問、すなわち、何故、この単純極まりない「ひふみ…の数詞」が日本神道の奥儀祝詞として最高の位置に君臨していたかの疑問も解けてくるはずである。要するに、我々の祖達はそれだけの素晴らしい頭脳を有し、懸命に自然万象にアプロ−チしていたということである。

 いかにせん、「9」という数は昔から数学者達の話題になってきた不可解な数である、計算過程において9の数を絡ませると不思議な数の並びが現れると言うのである。また、古代中国や古代の西洋でも9の数は聖数として崇められ、皇帝数として敬われてきたのである。単に「9」は数の最高位置にあるからとの単純な理由だけではないはずである。果たしてその真実とは何であろうか…?。そこにはどのような秘密が隠されているのであろうか…?!。現代人がこの「9」の秘密に気がつくのは何時のことであろうか…?!。

 今、世界の数学者達は「0」の持つ大きな秘密に気が付き、盛んに0を攻め立てその秘密をあばこうとしている.。今まで0は数の範疇にも入れられず、散々冷遇され続けてきたのである。要するに、0は数として扱われず、単なる位どりのための記号としか見られなかったのである。ところが驚くことに、最近になって、0は哲学、科学、数学、宗教の土台を根元から揺るがそうとしているのである。 
 この一見無害そうに見える0が突きつけるパラドックスに現代科学的の思考概念が今まさに崩れようとしている、なぜならば、人類は0を宇宙に対する――、いや神に対するものとの見方を形づくりはじめたからである。
 また同時に0(ぜロ)と∞(無限大)は双子の関係にあり、同時にこの二つは対等にして正反対、陰と陽の関係にあるものと考えはじめている。まさに学者達はこの二つは逆説的なものでありながら、同一的な本質をもつものと推測し始めているのである。
 今や、この奇妙な数0の持つ数学的、哲学的な性質は西洋の根本哲学と完全に衝突を始め、押し負かそうとしているのである。
 何と、この0の数が突きつけているこのパラドックスに20世紀最高の知性達がうろたえ、科学的思考の枠組みが崩壊する寸前なのであると言うのである。何ということであろうか…!!。
 これは私の言い分ではない、次の書からの転載である。  数学、物理学が最も恐れる「異端の数ゼロ」…C・サイフエ著より    。

 これらの西洋の学者の突きつけた証言は、まさに「神の数学」の内容そのもであることにあなたは気がつくであろう。 以上



  「ひふみ…天地の数歌」が歌う“真理の歌” (8) 2011年9月謹んで上載


                               
 
      ≪「神の法陣」、それは未だ人類の知らない大いなる「神の秘密」を内蔵しているものであり、
  それらを解かない限り、自然と人間は共存する道を見つけることは出来ずただ滅び去るだけなのである。
     自然の描く数の示しによる数々の真実の現れ、それは自然の放つ永遠の真理の歌である。≫



 今や、21世紀に突入して新しい世紀の扉が開かれ、10年余が過ぎようとしている。それに併せて世の中はすべての面、すなわち、国際、経済、政治、社会の面で変化が激しくなり、まさに毎日がピリピリして右往左往の状態である。それに加えて自然の状態までがおかしくなっていることが心配に輪をかけている状態である。その状態、その有様は年を追うごとにますます激しくなっているように感じるのは私だけであろうか…!。とにかく、何かがおかしい、何かが変である…… ??!!。

 恐らく、自然、すなわち、地球という一つのガイア体が何かを感じ始めているのである。それを察して我々の内面的な心、深層心理自体も何かを敏感に感じ取り少しづつ動揺を始めているのではないのか…!!。

 それが、いら立ち的な感じ、やるかたのない焦り、すなわち、半ば虚無的などうしょうにもない焦燥感であり、終末感とも呼ぶべきものかも知れない。それが伝播して表面で現実化しているものが、すなわち、国際間の紛争、政治的な乱れ、経済的な大変動、あるいは一般社会におけるストレス的な犯罪の発生、あるいは精神的な病などの異常と感じられる諸々の現象である。人間も自然から生まれたものであり、当然自然とはつながりを持っている自然の一部分、すなわち、パートナ的存在である。当然、これから起ころうとしている事象を自然は察知し、人間の深層心理はそれをおぼろげながら読み取り動揺を始めている、それが本当のところであろう。

 例えば、沈没する運命にある船から鼠が3日も4日も前に逃げ出す、蜂がその年の水害の程度を事前に知り、安全な高さに巣を作るなどはまさにその典型的な例である。何週間、あるいは何カ月も前に敏感な自然生物はこれから起こることを予知し、それに従って直感的に行動するのである。まさに種族を維持するための事前予知の一つであり、身の安全や種族を守るための本能的なものである。人間も同じ程度の予知的な直感を持っているのであるが、今はまったく使われず完全に影をひそめている不自然な状態である。
 しかし、まがまがしい現代知に阻まれて潜在意識となって心の奥に潜み時々顔を出す、それが、第6感、あるいは直感、インスピレ−ション呼ばれている自然的な身に備わっている本能であり、本来は非常に大切なものである

 ところが、我々は本能的なひらめき、自然が教えてくれる第6感的なものは完全に否定し、その存在を認めようとはしない、いわゆる身に付いた常識と言うものがどうしても先行し行く手を遮って邪魔してしまうのである。 いや、そればかりではない、自分達が理論に従って作り上げたものでさえ、それが不利を示すものであれば可能な限り無視し、顧みることもしないのである。それは一種の完全馬鹿であり、身のほど知らずの朴念人ともいうべきものである。それが現代文明人と称して鼻高々の我々であり、まさに愚か者の見本と言ってもいいものである。 要するに、第6感的なものを否定する我々は他の自然生物より遥かに滅亡する度合いが高いと言うことであり、これから生存することさえ危ぶまれる状態と言ってもいいものであろう。もっとはっきり言えば、持っている知、すなわち、常識知が仇になり、生存さえもおぼつかなくなる事態を引き起こす可能性が大なのであり、その率が甚だ高いと言うことである。

 もっとはっきり言おう、

 多分、今から20年くらい前、1990年ごろの話である、世界の学者達が一つの結論に達した、それはまことに恐ろしい人類未来についての予想的なビジョンであった。しかも、それは100%の確率で確実に迫ってくるものであり、決して逃れることは出来ないものなのである。  それは次のようなものである。
 
 人類は2050年あたりに人口飽和状態に入る、そして水不足や食糧不足により壊滅的な状態を迎え文明は滅び去ると…。要するに、2050年に近くなるにつれて人口はますます増大し、それにつれて食糧難はますます厳しくなり、飢餓状態が深刻になり、人類の生存は危ぶまれると予測したのである。それは単なる予測ではなく、立派なグラフシュミレ−ションまで付いているものであった。確かに、2050年に近づくにつれて世界の人口は100億に達し、グラフは幾何級数的とも言うべきほぼ直角に立ち上がり完全なる食糧不足になり、現代文明の滅亡の到来をはっきり示しているものであった。
当時の学者達は何らかの対策が必要であると叫んで確か大騒ぎをし、まさに焦眉の問題と言うべきものと感じていたものである。
 しかし、誰も真剣に耳を貸さず、それに反応する者もいなかったのである。今でも誰も話題にもしないし、口の端に出す者もいない。みんな忘れたように黙りこくっているだけである。何故であろう。楽観視し過ぎているのか…!?、それとも最早騒いでもどうにもならないと観念し、すべてを悟り切った境地に至っているのであろうかか…?!。

 そのデ−タの的確さを示すように、最近のニュースでは2010年末あたりで世界の人口は約70億人に達し、更に勢いを増して年に一億近い増加が見込まれると報じている。それと同時に最近の自然災害、気候異変による食糧生産地帯の大幅な減少により食糧事情は益々悪くなっているとも報じている。それらを加味して計算すると大体2030年代あたりで間違いなく文明保持の能力は喪失し、人類は滅亡を迎え始めることが明白になるのである。まさに20年前の学者達の計算が弾(はじ)きだした計算は正しかった…!!。

 しかるに、国連の人口部関係のコメントでは今後は出生率が下がるので2100年あたりでやっと101億人になるであろうと発表している。しかし、どうも辻褄があわない、どう考えてもおかしい、計算に大きなギャップがあり、計算的には全く合わないのである。
 そこには何か大きな作為的なものが感じられて仕方がないのであるが…??。その訳とは一体何であろうか…??。 
 自然界において滅亡の道を歩んでいる生物種は滅亡が近付くにつれて本能的にそれを感じ始め、ますます 多くの子孫を残し始めると言われている。人類も確か自然界の一員であり、ご同様にご多分に洩れないものである。そうすると、現在、その滅亡という兆候を人類は本能的に感じているゆえに、今までよりも激しい人口増に向かっているのであろうか……??!。

 しかし、今の日本では誰も騒がず、ただあっけらかんとしているのである。心配もしないし、口にもしない。自分達だけは安全と考えているのか、それとも人口減に向かいつつある我々日本人は関係ないと思っているのか、そのいずれかであろう。もし、そうであるなら別の大きな心配の種はもう一つのしかかってくるのであるが、そのあたりを知っているのであろうか…?!。
 今や、食糧事情はグローバル化して一国云々の問題などではなく、全世界同時に押し寄せてくる即、触発的なものと考えなければならない。ましてや、自給律30%あたりの日本は真っ先に洗礼を受けるのは当然であろう。しかし、それを口にする者は誰もいない、考えようともしない。まさに極楽トンボであり、他にはない底抜けに気楽な民族そのものである。
 今となってはもはや対応策は何も無い、ただ何らかの原因で人口増加が打ち止めになることを祈るだけであり、それを願うだけである。 しかし、それも今となっては空しい望みと言うものであり、はかない望みとして時間と共に消え去るだけであろう。

 恐らく、このまま、すなわち、現在のままでは済むと言うことはないはずである。すぐにも何かが始まるのは間違いない。それは国単位ではなく、必ず種単位で起こるはずである。それはいかにして人口を減らし自らの民族を守り通すか、と言うことである。
 近い将来間違いなく起こるのは人類同士の醜い争いであり、生を賭けての「生き残り作戦」の勃興である。その現実がまもなく始まり火を吹こうとしているのであるが、誰も知る由もない…!!。 確実に迫りくる緊迫した問題なのに誰も口にする者もいない…!。

 それはひそかに、そして決して目立たないように巧妙な、見た目も自然的な発生に見えるものであろう。ひょっとすると、現在進行中のアフリカ大陸の内戦、あるいは東南アジヤの内戦あたりもそれかも知れない、民族間を対立させて殺し合わせる、そして難民を発生させ数十万単位で飢死に導く、そのために必要な武器、爆弾類は用意していくらでも供給して使わせる、まことに立派なお膳立てであり、誰にも見破れない見事な人類殲滅作戦の一環とも言うべきものである。おかしいとは思はないのか、食うや食わずの貧乏な国民が何処から高価な最新の武器を手に入れているのか、しかも、敵も味方も同じように…、まるで魔法使いのようにである…!!。

 その手に類するもう一つ作戦、現在計画進行中の極秘プログラムがあるように思えてならない。それはこの数年間奇妙な形で発生している鳥インフルエンザと言う奇病である。これも何となく謀略の匂いのする戦略的なものと考えていいものではないのか…。
 今のところまだ実験的、模様見の段階であるが、ある程度見通しがたったならば、即、実践的に始まり、一気に本格化することは間違いのないものと考えられる。さあ、その時は果たして何時なのであろうか、……!!。はて、はて…??。
 まずそれは自然発生的な現象であり、誰も文句を言うものはいない、何しろ相手は鳥であり、国境などは関係なく季節がくれば何処にでも侵入可能で糞と共に何処にでも有毒細菌をばらまくことが出来るものである。
 しかも、計画当事者はあらかじめ自衛的な手段、すなわち何時でも抗体ワクチンを開発して自分達を守ることが出来る、いや、その当事者達は細菌の開発と同時に抗体薬も既に開発済みであるのかもしれない。 すなわち、被害に合うのは何も知らない弱小民族のみであり、短期間にその死者の数は幾何級数的に倍々単位で増えていくのは間違いないはずである。この方法で現在狙われているのが東南アジアあたり、すなわち、あまり現在の世の中の進歩とは関係の無い平和な人々でおとなしい民族あたりであろう。しかし、それは単なる起爆剤に過ぎず、そこからすべては爆発的に広がり、次々と蔓延し世界を恐怖のどん底に陥れていくのである。
 この2,3年の推移から見ると大体その標的、すなわち、鳥が飛来する国はあなた方でも判断がつくはずである。本格的なパンデミック(大流行)が始まった場合、世界保健機構(WHO)の予想によると日本の人口より多い数億の人間の命が短期間で失われると報じられている。 もしこれが空気感染にまで発展した場合は果たしてどうなるのであろうか…。 あな恐ろしや、桑原、々…。
 
 つくづく考えて見ると、それらはまさに自然の皮をかぶった人工的な災害なのであるが誰も知る者はいない。 しかも人種的な差別の匂いを免れようと、ある程度自国民もカモフラ−ジのために犠牲にすることも考えられる。 自然的発生を装っているけれども、裏から見ればバレバレの感じであるが、誰も表立っての非難はできず口にすること出来ないものである。そもそも、ワクチンの製造なんては間違っても間に合はない、まずは発生してからその病原菌を特定し、それから抗体を開発して、製造段階を経て初めて量産工程に入るのである。恐らく、少なくても3ヶ〜4ヶ月はかかるであろう。要するに、恐ろしいパンデミックが終息してから一般に出回るのであり、常に手遅れた状態が続くと言うことである。
 その時が来たら、よく考えて見ることである、なぜなら、あまりにも辻褄が合うことが多く、いかにも作戦的にスム−スな感じで進行し、映画にもまさるプログラム的な展開等によりことは進み、短期間に終結して完となるものであるからである。これは突飛な私の想像物語などとは思わないでほしい。すでに10年以上前のアメリカ映画「アウトブレイク」の中で使われているスト−リであり、現実感のあるものである。今となってはまさに迫力そのものは倍加して伝わってまさに危機感を感じさせるものである。是非。もう一度ご鑑賞あれ、そして全体を通してもう一度考えて見ることである。それから、持てる知を絞って出来る対策を考え出し、一般に公表してほしい。

 恐らく、最初は予告プログラムが噂として事前に流され、すべてはそこから始まるのである。

@ 突然、それは恐ろしい鳥細菌の突然の発生として名乗りを上げて来ることから始まる。それは人類にとっては恐ろしい致死有毒性を有するもので渡り鳥が媒介するものである。それが渡り鳥から家禽類(鳥、豚)に伝染し、やがてはそれを食する人間の口に入り致命的なダメ−ジを与え死に至らしめると言う筋書きである。これが2,3年前の初期のプログラムであり、まずはプロパガンダから始まって人々の脳にしっかりと焼き付けられたものである。

A やがては鳥から直接人間に伝染する、しかも空気伝染の可能性と言う恐ろしい形を伴って特定な地域で深刻なダメ−ジを与え始め、人々に大きな恐怖を与える。それをニユ−スとして世界中に流されて深刻化する。これが次のプログラムである。
 これは 2,3年前にすでにお目見えし、諸氏も噂に驚かされ慌てふためいた体験があるはずである。思い起こして見てほしい。

B 次に目にするものは最早これ以上防衛不能となった特定感染地域に対しての高熱爆弾等の投下によるダイレクトな大量患者殲滅作戦であろう。しかもそれはその国の政府に依頼されたもの、あるいは世界各国の代表による決定によるものであり正当性を持つものである。何ら恥じるものではなく、逆に被災国、及び国民からさえも感謝されるものである。その場合その爆弾、および投下費用等は感謝をもって正当に支払われ、しかも場合によっては人類に対する永遠なる功績として歴史に残るものとなるであろう。そこに目を付けないはずはない、何せ、今、原子爆弾は大量に放棄され邪魔になって捨て場にも困っている状態なのであり、まさに一石3鳥である。必ずや、そのこともプログラムの中にも当然織り組み込まれているはずである。恐らくそのスローガンは「世界人類のために」と言う大義名分であり、近い将来必ず起こるこの二つは、必ずリンクして起こるであろう。覚えていてほしい。

 さあ、大国のエゴ?、いや人類を救う大作戦?がそろそろ始まるはずである、気をつけて事のつぶさをしっかり見守っていこうではないか…。我々はその歴史的事実のオブザ−バ−であり、その語り部としての役割を果たさなければならないのである。

 諸氏も覚えているであろう、色々な国が戦々恐々とおびえ、空港封鎖に近い手段をとったことを…。日本でも国がおののき、愚にもつかぬワクチンを世界中から高価な値段で買いあさり、とどのつまり使われずに大量破棄してしまったことを…。また噂に踊らされた全国民が狂気のようにおびえ、防菌マスクを求めて薬局から薬局へと走り回り大騒ぎをしたことを…。それとももう忘れてしまったのであろうか。 それはまさに昨日の出来事である、しかし、誰の頭にも、今はもうない…、なんということであろうか…!!。

 まさに、効果大のプロパガンダであり、見事な下図通りの情報作戦の筋書きと言えるものであろう。まさにお見事の一言である。

 さあ、次は本番である、恐らく、季節前に予行演習と同じように大量の鳥にインフルエンザを感染させ、定められた地域にばらまかれるであろう。それは感染した渡り鳥によって次々と近隣諸国に持ち込まれ、感染により瞬時に大量の人々を死に追いやることになるのである。先回は数知れない大量の鶏とほんの一握りの人間が死んでいるのであるが、自然のなす業として容認して誰も怪しまず、本当の真相は藪の中である。まずは成功である。するとその本番の幕開けは今年か、それとも来年あたりであろうか……??。

 それは必ず始まるはずであり、始めなければならないものであろう。

 それは自然に、そして深く広く秘密裏に進行する人類間引きのための必要プログラムであり、密かな中にその幕が下ろされジ・エンドとなるものである。それはまた、人の記憶からも短時間で忘れ去られるような自然災害の姿でなければならないものである。

 さあ、次のプログラム、大量間引き作戦の幕開きは間もなく始まるはずである。なぜならば、もう残された時間、手持ちの時間はすでにリミットを過ぎて秒読み段階に入ろうとしているからであり、最早これ以上は待てないところまで来ているからである。 賢明な人、先読みの出来る方は一昨年の騒ぎを思い出し、何らかの有効策を今から考え、最後まで生き残る策を講じて置くべきであろう。

 ほい、本業を忘れてしまった、余分なことをつい口にしてしまい、残りの紙数は少なくなってしまった。
 さあ、急いで戻り、本業をまっとうしなければ私のプログラムも時間と共に水泡に帰してしまうことを忘れていた。ああ、情けない。

 「神の数学」は人類歴史上最も価値のある「宇宙普遍の真理」の存在を謳っている世紀的な「真実物語」である。それは人間数学のいたらぬところを指摘して自然の原理の存在を明かにするものである。例えば、自然の具象、それはすべて偶数という関係で組み立てられていて、決して奇数関係のものは無い。すなわち、すべての自然のものは対という偶数関係で成り立ち、相互補完をしながら完成と言う運びとなっているのである。そこには奇数と言う具象は決して存在しない。もっとも、諸氏の120%は信じはしないであろうが。

 考えて見るがよい、日本神道とはすべて偶が基本であることを…、それがすなわち、「双(そう)の決まり」と言う言葉なのである。

 双とは左右、すなわち左()であり、右()のことである。例えば、おしでは四回折って作り、偶数をもって飾り付ける。神に供える榊は偶数本をもって良しとする。神詣では二礼二拍で修めて神との対話が始まり、終わった時は同じように二拍二礼をもって神を送り出す、これが本来の姿である。またお供えする際の器、すなわち、高杯(たかつき)も左右一対であり、供える鏡餅も陰陽重ねて二つが単位である。さらには外の灯篭も2基、更には注連縄もそうである。これは1ヶのように見えるが、実は2本の捩じったものを組み合わせて1つにしたものであり、複数と考えなければならないものである。 本来、注連縄は本来、陰と陽の二つを捩じって一つにすべきものであるが、神社によっては3本を捩じり上げて一つとしている、それは格好がいい、見た目がいいという単純な理由からであり古来からある本式のものではない。
 見るがいい、日本で最も古く由緒のある神社である出雲大社の注連縄の作り方を、すべて基本を守って「陰」と「陽」という偶数をもって捩じって作り上げ、左の方(神の世)を頭にして供えられ、人々に無言の教へを垂れているのである。お解りであろうか…!。

 現代物理の理論には自然の構造とはすべて二元的な偶構造、すなわち「正反対称の偶構造」によって構成されていると言う一つの統一法則が存在している。要するに、単構造的なものは一切成り立たたないと言う一つの承認された物理理論であり、自然理論の基軸をなすものと言われているが、今は余り語られることはない。なぜならば、現実には1ヶのものは確実に目の前にあまた存在しているのであり、その説明がつかぬからである。その真実を「神の数学」で追跡実証するのはたやすいものであるが現代知では不可能だからである。これらその始末の一切、これから述べるその経過一切を見れば諸氏もびっくりして腰を抜かすであろう。それほどのショクキングな大いなる知であり、今の現代知にはまったく欠けていて無いものなのである。要するに、現実的存在としては1ヶであっても理論的には2ヶの存在として見なして考えなければならないと言うことである。するとすべて自然はスム−スに解けるのである。
 これからその事実をあなたの前に出し、真実を解き明かすことにしたい。要するに、諸氏の常識とはすなわち、数千年にわたって積み上げられてきた現代知と言う反自然的な「あやま知」であり、大自然の持つ大いなる知とはまったく仕組みが別なものである。
 是非、それを知ってほしい。それに気がつかない限り、現代文明は最早終焉を迎えるだけと言っても決して過言でなない。

 諸氏は「易」の基本である「魔方陣」をご存じであろうか、それは次のようなものであり、現代文明を代表する直線思想と言ってもいいものである。すべては直線的に進み、直線的な答えを求めて了とするものである。いわば、二次平面的な概念であり、それは平面立体性を基本にする宇宙知の概念(ホログラフ的概念)からはほど遠いものである。

  
  〔1〕「魔方陣(3次方陣)」を解く。すべては直線的な発想によるものである 

 
2 9 4
7 5 3
6 1 8

   横関係(→)……(294)Σ=15、(753)Σ=15、(618)Σ=15
   
   縦関係(↓)……(276)Σ=15、(951)Σ=15、(438)Σ=15、
   
   斜め関係(/)……(258)Σ=15、(654)Σ=15、 すなわち、直線関係にある数列のΣはすべて15となる。

 このように横、縦、斜めの各数列を加算するとすべてが15の数を示すものである。
 要するに、、ここにある直線的発想とは現代西洋科学文明の基本概念そのものであり、あなたがたの学んでいる考え方でもある。
 これがすなわち「易」の本陣を表す中国発とされる「魔方陣」の数図であり、易の発祥基軸をなすものである。現在のわが国にもマニアが大勢いて論陣を張ってその真実を追求して止まないが、一向に益するものは現れてはこない、まさに労多くして果の無い見本の典型と言うものであろう。最早3千年以上の時が経っているのである、そろそろ一考すべき時が来ているのではないのか…?!。

 本来、「魔方陣」とは数を人の手で操つり、自然の本質、及びその理を完全に変えたものである。よってそこには自然の「真の理」、すなわち、求めている「神の理」などすでにその時点で失われて最早何も無いのである。その証拠に「魔方陣」から未だかって何か新しいものが見出されたことがあったであろうか…?!。人を欺き、そして迷わせる、それが「魔」と言う言葉の性(さが)なのである。

 私はここに改めて現代人のまったく知らない驚くべき自然に沿った「数の数理図」の存在を世に出し、その是を問うつもりである。それは「現代数学」の無機的なパラダイムとはまったくカテゴリ−が異なる自然数学であり、本来あるべき自然系に属する有機的な「理の概念」の存在を示すものである。また、それらは「現代数学」にはまったく無い宇宙普遍の数の理≠フ存在を高らかに謳い上げ、自然の叡智の存在を強く訴えて止まないオルタナテイブな「数の語り」そのものである。その姿は次のとおりである、よく見てほしい。

 
 

 〔2〕日本発の3次正方陣「神の法陣」)を解く。すべては循環的な発想によるものである
 
1 2 3
4 5 6
7 8 9

 「神の法陣」、それはn×nの正方陣の中に自然数、すなわち古神道の祝詞「ひふみ…天地の数歌」の1234…89(0)の数をそのまま順次に置くものであり、自然のあるべき姿をそのまま用いて一切人為的な手は加えないものである。それはまさに日本神道の言葉「カムナガラノ道」の姿そのままと言うべきものである。古代に存在した「カムナガラノ道」とは自然そのまま、人の手をまったく加えないありのままの姿の正しさを讃える言葉であり、自然仕組みの姿の大切さを謳っている大いなる言葉である。それはまさに数千年前に失われ内容も一切不明となっている大変由緒ある神道の聖なる言葉でもある。それは日本人なら誰でも知っているはずであろう。

 ◎ さあ、これからこの「神の法陣」を解き放ち、そこにある真実、すなわち「神の秘密」を探して見よう。

 自然のつくった自然の姿を解くためには循環法と言う手法、すなわち、円とか楕円の形を用いて考えなければならない。要するに、それは「行ったものは必ず帰って来る」、「因があれば必ず果がある」の理であり、すなわち、「因果応報」の自然哲理を表すものでもある。それはまさに自然循環の回帰の姿であり、自然のあり方の基本の姿なのである。そのことを念頭に置いて考える、するとすべては自然のうちに自然に解けてくるものである。すべては素直に自然に沿って考える、それがもっとも大切なことである。これがすなわち、「1ヶの存在であっても2ヶと考える」の意味であり、すべて自然はそのような構造になっているとの確かな数の証言(計算)でもある。

 
 上記の「神の法陣」、それは次のように考えて解けばいいのである。

横関係……123(→)+987(←)=10,10,10→30→3、 456(→)+654(←)=10,10,10→30→3、

縦関係
……147(↓)+963(↑)=10,10,10→30→3、 258(↓)+852(↑)=10,10,10→30→3、

斜め関係…753(/)+(357(/)=10,10,10→30→3、 159(/)+(951(/)=10,10,10→30→3、
                   (数の走りを見て、その方向性を知らなければならない、要するに数の走り通りに円、または楕円を描くのである)

 要するに、一つのもの、そこには必ず往(→)と復(←)の姿、すなわち、「陰(正)」と「陽(反)」の仕組みにより成り立っているものである。その「陰(正)」と「陽(反)」とは運動ポテンシャルの方向の違いであり、それによる重なりの現れの違いでもある。完全に重なるとその作用は0になり、どちらかに傾くと「陰」もしくは「陽」が現れ始めるのである。それは例えて言えば、ちょうど1ヶの磁石に例えられよう。、中心では磁力0ではあるが、どちらかに傾くと(+)または(−)の性質が強くなる。それは存在としては1ヶであるが、作用は(+)と(−)の2種類が必ず存在し相互補完しながら完全帰納して永遠をまっとうしているのである。出来れば、多くの数をなぞりながら、その囁きをじっくり聞くがよい。必ずや、どのあたりかであなたの魂と共鳴して心を大きく揺さぶり、感激の極みを覚えるはずである。

 それが自然に存在している具象体の本当に姿であり、本来のあるべき姿なのである。その動きを円と楕円で表すとそれはまさに原子図における電子の動き(ボア−の原子模型)そのものである。まことに不思議な自然との一致であり、目が覚める光景と言うべきものである。 簡単である、 直ちに描いて両者を比較して見るがいい。<その真実と図は「真理講座」bQを参照あれ>  

 もし疑うのなら、直ちにその先に連なる5次、7次、9次の奇数陣の「神の方陣」を同じような方法で計算して見ることである。必ず、満足して納得するはずであり、これからのあなたの生き方にも大きく影響を与えて止まないものでもある。自然の創り上げた「自然の数図」とは決してランダムなものではなく、必ずそれは「神の意志」によりつくられ、「神の心」が籠もっているのである。それゆえに自然の法である「循環法」手法を用いて答えを簡単に引っ張り出せ、すべては小気味よく解け放っことが出来るのである。まさに自然の知の赴くところには不整合、不可などの文字は一切ないのである。 <詳細と解き方は「神の法陣」初級。、中級。上級の各講座を参照あれ>

 奇数の「神の法陣」は必ずこの考えを持ってで解かなければ正しい答えは決して出てはこない。これがすなわち、「神の数学」で言う「ダブル処理」の姿である。また、この姿は宇宙に偏在する「大いなる宇宙愛」と言う極めつけの姿でもある。残念ながら、この概念は人類の知にはまったく無いのは大変痛ましい。要するに、一つのものに「陰」と「陽」を置いて重複させて自然に還す作用なのである。偶数の場合は対手があるのでそれらを結べばスムースに計算は走るのであるが奇数の場合の計算の仕方は今まで誰も知らず、一切手を付けずにきたのである。要するに、この「奇数の処理法」を今まで人類はまったく知らず、従って今まで「自然の真実」、「神の意志」等のあるべき宇宙普遍の真実の存在も知ることは叶わず、それゆえに自然を解き明かすことが出来なかったものである。

 「数」はまさに有機的な存在であり、言わばピチピチとして生きているものと言える。ひょっとして意識さえもあるような気がする時も往々にしてある。改めて言う、「数」、それまさには素晴らしい「神もどき」の存在である。それを今まで知ることが叶わなかった、それは人類にとっては大変な知の損失であり、大きな痛手でもあったのである。  <『宇宙愛』の詳細は「超数学」講座9を参照>

 あなたは、この方法により0から無限大までの「神の法陣」、例えば、宇宙と同じ大きさの「神の法陣」までも作ることが出来、それを自由自在に解き放つことさえ出来るのである。これらの答えとは秩序と調和のある数であり、その出現はすなわち、すべてのこれらの「数の理」は正しいことの証明となるものである。 同時にこれらの循環式計算法も自然に沿った正しい計算法であることを改めて証言することになるものでもある。試みにあなたの持つ現代数学で解いてみるがよい、すべては複雑と混沌という「神の罠」にひっかかり、なすすべもなく途方に暮れてしまうだけであろう。すなわち、それが現代西洋科学の行き詰まった現在の姿でもある。

 あなた方は宇宙大の「神の方陣」を作り、それを解くなどとは不可能なものであるとのたまい、単なる口先の詭弁に過ぎないと言うかも知れない。恐らく、100%そう思い、思いを込めて始めた計算をそこで放棄して考え込んでしまうであろう…!。

 しかし、ご安心あれ、解くのは0から9次元までの「神の法陣」で十分なのである。なぜならば、それ以降はすべて繰り返されて循環する数の姿(本質)があるだけであるからである。、すなわち、その本質の数は繰り返し現れて、あなた方に何事かを囁き続けるのである。あなたはそれをメッセ−ジとして受けとり、あなたの手で開き、知を奮って解かなければならないのである。なぜなら、それは大いなる意味を秘めまさに「神のメッセ−ジ」とも言うべきものであり、人間知に付加して将来に備えるべきものであるからである。 しかし、悲しいことに、それは現代知をもっていくら挑戦してもただはじき返されるだけで解くことは叶わないものなのである。

 飽くことない熱意と大いなる使命感をたぎらせている御仁よ、出来るならば、それらを解き放って見るがよい、それらは鏡面対称数列と言う人類の未だ知らない完全対称数の姿をまとって現れ、我々に何事かを告げようとしているのであるが、その事実は誰も知らず、答える者もいない。その鏡面対称数列はこの「ひふみ九九算」の中にもあまた現れているのであるが、それをあなたはお気づきになったであろうか…?!。 まずは、それを解いてからこの大いなる挑戦を始めても遅くはない、さあ、腕前の見せどころである。

 自然のあるべき姿を見てその秘密を解こうとするならば、必ず「循環法」を用いなければならない、直線法ではまったく歯が立たないのである。なぜなら、宇宙に存在するものは等しく循環が基本であるからである。見るがよい、小は原子の回転構造の姿から、大は月と地球、地球と太陽など、すべては循環から始まり、循環で終って永遠につながっていることを…!!。ところが、悲しいことに人間だけが直線法を基準として、あらゆるものを直線法で計り、直線法で解こうとしているからどうしても歯車が噛み合わないのである。
 そこに苦しみ、悩み、絶望、不信、不幸などの自然には無いアンチ自然の現象が生み出されるのであり、すべては自然と人間の意識のギヤップ、そのあり方が生み出すきしみ現象なのである。それが人間の不幸の大きな原因となつて現れているものなのである。

 すべては自然と人間の意識の相違、あり方の違いが生んだものであり、他の自然生物にはない人間特有の業(ごう)、すなわち、人間の言うカルマの発生の源はそこにあるのである。見るがいい、他の自然のもの達は自然の法則に従い己の生きる道をまっとうせんとしずしずと輪廻を繰り返し、自然と共に生きていることを…。人間のみが知を振りかざし、自然をないがしろにし、輪廻の象を無視し、その上、神の存在までも否定して、己の道を新たに築き上げて覇を唱えようとしているのである。それをいみじくも表わしているのが人間の作りだした「魔方陣」である、そこにあるのは直線法ですべてを処理し答えをまっとうしようとするものであり、自然にある数、すなわち自然数を己の知の赴くままに置き換えて新たな知の世界を構築せんとしている姿である。そして、その挙句生まれたものは意味の無いランダムであり、複雑の限りを知らされる混沌の世界である。

 現代知とは丸いものを直線で計り、直線でその内容をあばこうとして考え出された人間のみに通じる奇妙な学問体系である、そこには必ずアンバランスが生まれ、それが複雑化して難しくなるのである。そこで、それを是正するためにまた新しい学問を考え出し、なんとかねじ伏せようと躍起になっているのである。 まことに愚かなことであり、まさに笑止千万なものである。

 今回は「神の法陣」の簡単な内容とその道しるべの紹介で終わったが、引き続き来月はその恐るべき詳細説明に入りたい。それは「神の法陣」の導く「陰」と「陽」の世界、すなわち「あの世」と「この世」の相対世界の真実物語である。「あの世」と「この世」とは本来別々に存在しているのではなく、互いにぴったりと寄り添った状態、いわば、1枚の紙の裏と表の関係で存在しているのである。それは表から見れば全体が表であり、裏からみれば全体が裏である。、言ってみれば、まさにメビウスの帯と同じ状態と言えよう。
 もっとはっきり言えば、それら二つは同一空間を同時的に共有しながら、別々な世界を構築している関係である、すなわちそれが、日本神道の言う「表裏一体の世界」と言う背反二律の世界観なのである。その神道の言葉こそ、現代物理の最終理論と言われる「超ひも理論」の中の「実の世界」と「影の世界」の姿である。不思議なことに「神道」も「超ひも理論」も共に日本人が生み出したもの、すなわち、日本人の息がかかった人間知のマスタ−ピ−スであり、非凡な作品である。 それは声を大にして世界に誇ってもいいものであり、胸を張って自慢出来るものである。ちなみに、「超ひも理論」を生み出し、開花させたのは日本人の南部陽一郎氏であり、日本の誇るノ−ベル賞受賞者である。そのあたりのことは現代の日本では余り知られてはいない…、まことに不思議である。
 確か私の記憶では「超ひも理論」は南部陽一郎氏をもって第一人者とするものであり、切っても切れない関係にあるもののはずである。しかし、現在日本で刊行されている「超ひも理論」に関する数多の書にはほとんど南部氏の名前は記載されてはいない、何故なのであろうか…、??。誰か、そのあたりを教えてほしい…??!。

 来月は「神の法陣」には本当に「神の意志」が籠っているのかどうかを更に詳しく「数」に尋ねて見ようではないか…。

≪宿題解答≫

≪先月の宿題、すなわち「ひふみ九九算」のC番目の数列、0360360360、また、H番目の数列の0876543210の数列から何故0123456780と言う自然数の連比状態が生まれるのかについて解答申し上げよう。数に対する直感性、または数の基本性を知っていれば簡単に解決するはずである。 是非、次のことを知って自らの手で検証してほしい。≫
 0360360360 → 0,3,6,9,12,15,18,21,24,27 →比は(0123456780)
 0876543210 → 0,8,16,24,32,40,48,56,64,72 →比は(0123456780)


 
要するに、「ひふみ99算表」全体がすべて祝詞「ひふみ…天地の数歌」そのものなのである。検算し確かめるがよい…!!!。
  (10進法の数が1ケタ化されるならば、その逆もまた真である。 これらは「ひふみ九九算」を知る者には簡単なものであり、まさに稚児の遊びと言うべきものであろう)

                                                                    以上

「ひふみ…天地の数歌」が歌う“真理の歌” (9)
                               2011年10月謹んで上載



             「神の数学」、それは宇宙真理の叡智の宝箱である
                すべては数で示され、数で謳われている
                  そこでは数は心を持った存在とし
                    溌溂としてお互い応答し合い、
                     歓喜に満ち躍動している。
             片方が「やあ」と呼べばもう片方は「おう」と答えながら、
               欣喜雀躍、永遠を謳歌して止まない存在である。
                  そこには確かなる神の息吹があり、
              高い意識を持ったハイレベルの知が流れている。
           それは現代数学では思考不能な「次元マトリックス」であり、
         考えもしなかった超知のビュウ・アップ・ショウの数々なのである。


 先月は「神の法陣」の簡単な紹介、そこにある構造仕組みが結ぶ驚くべき大自然の秘密を明らかにし、現代文明の持つ基本知の至らなさ、そこにある大いなる矛盾を告発したのであるが、それは多分、学者達、あるいはアカデミックな団体からの反発、反論で埋め尽くされグウの音も出ないほど叩き尽くされることであろう。しかし、賢明な諸氏は私の主張する自然数学、すなわち、「神の数学」にはいくら叩いても、いくら攻めたてても難航不落な奇妙な「真実の数の語り」が存在し、大自然の真実を語り上げて止まないことに気がついているはずである。それは現代の人間知ではどうあがいても否定できないものであり、どう検証しても真実の針は常に正点を指し示し、決して振れることはないものである。しかも、その「数の語り」とは志さえあればすべての人々の理解の範疇内にあって簡単に理解が出来、検証が出来るものである。たとえ、小学生、中学生であっても懸命に望み、いくばくかの努力があれば十分に納得出来、検証検算も出来るものである。

 いくら権威ある学者達が無視して放り出そうとしても、逆に彼等が世間から無視され、異端視され挙句には相手にされなくなるだけであろう。なぜなら、すべては自然の語るまことの「真実の語り」であり、一般人の方がそれをよく理解し、知っているからである。
 「神の数学」、それは現代知と真っ向から対立するものであり、現代知とは基本軸が異なるものである。手っ取り早く言えば、現代知は平面的な知であることに対し、「神の数学」は平面立体的(ホログラフィ)な知であり、自然の持っている知と軌道が同じものである。

 現代人はあまりにも自分達が築き上げた「人間知」を過大視して執着するあまり、自然知を学んで、それを人知に取り入れることを怠ってきたのである。その結果自然との協調が出来ず、歩を合わすことさえもままない状態に陥っている現在である。見るがいい、今自然は現代文明に牙をむき、人類を滅ぼさんと恐ろしい勢いで攻めてきている様を…!。それが地震、天候異変、農業地帯の減少、環境浄化作用の放棄などであり、人間の生存にとっては甚だ由々しい問題、生か死かの分かれ目ともなる問題を引き起こしている原因である。それと一緒に起きているのが政治、経済や、国際的な動乱、争いであり、人間の意志がかかわる色々な問題である。恐らく自然は人間の意志さえもある程度コントロ−ル出来ると考えてもいいであろう…?!。なぜならば、人間の母胎は自然であり、自然が生み出していつくしみ育て上げて来た自然の産物だからである。それはすなわち、邪魔になれば何時でも放りだせると言うことでもある。
 
 史上初めてこれらの「神の法陣」の持つ「神の秘儀」を公開するのであるが、恐らく、最初のうちは現代の数学知にまみれた諸氏には到底信じられなく、理解しょうとしても身に付いた一般常識が邪魔をして、遅々として進まないであろう。なぜなら、それらの真実を知れば今まで獲得してきたあなた方の知のパラダイムはすべて崩れ、あなたの築き上げた「知の世界」は意味がなくなることを恐れるあまりである。しかし、知ってほしい、すべては新しくこれから始まるものであることを…!。

 恐らく、そんなものがあるはずがないとあなた方はうそぶいて、ただただ否定するだけであろう。
 そこで改めてここでその真実の姿と詳しい内容等を取り出してあなた方の前に提示して見ることにしたい。果たして、それが宇宙普遍の「真実の知」か、それとも単なる「あやま知」なのであるのか、それを決めるのはあなた方であり、あなた方の知の力なのである。

 易しいと言えば易しいが、見方によっては大変難しいと言うのが正しい言い方であろう。なぜなら、それが本当の真実であり、宇宙普遍の知であることを知ることになれば、現代科学のパラダイムも最初からそれに沿って再構築する羽目になるかも知れないからである。  しかもそれは「これ」から「あれ」へと言う単純なものではなく、「これも」「あれも」と雪崩のように連続して起こる変化、すなわち、パラダイム基軸の全体の大いなる変化となるのである。それは単なる人間知の変化にとどまらず、生き方、考えのあり方、人生の目的、あらゆるもののすべてを変えるものであり、我々の生活全般、一生のすべてに大きな変化を及ぼすものとなるのである。

 現在、現代西洋科学文明は最早終わりを迎え、新しい宇宙意識文明が台頭しつつあると言われ始まっている。要するに、現在、デカルトやニユ−トンの掲げていた機械論的な自然世界観は全体的に見なおしを迫られ、新しい世界観が誕生しつつあるのである。今までは自然世界、宇宙世界は機械的な作用で動いているものであって、そこには決して「神」等の関与は何も無いとして築き上げられて来たものである。それがすなわち、デカルトの「神の棚上げ」以来続いている現代西洋科学文明の姿である。
 しかし、それも先端物理学である量子力学の出現により現代物理学はほころび始め、古典物理学と名を変えて今では窓際に移されている状態である。なぜなら、最近の物理学者達の発言のすべては「神」の存在を認め、「神」との関わりを肯定するようになったからである。 要するに、この世のすべての存在は神の介在がなければ成り立たず、神が関与して初めて完全機能し、自然万物の確かな発現があると認め始めているからである。

 それについては「神の数学」も同じである。そのあたりについては完全なる数により導かれる検証数式を2〜3持っているのであるが、未だ全体的な考えには及ばず恥ずかしいが未完のままの状態である。誰かそのあたりをまとめ上げてくれるような奇特な方はいないであろう…!?。熱意と洞察力があり、真面目に突き進む方、そして「神」の存在を信じて人格の丸い方が望ましい。10人くらいで討議、討論をすすめていけば1年も待たずして神の存在が明らかとなり、しかも、易しい形で神の存在を万人に等しく伝えることが可能になるはずである。 要するに、神の存在があってはじめて自然は存在し、同時に神の下で万物は時間と共に変化しながら変転して最初に還り、スタ−トとに戻ると言う事実を反証不能な形で数に語らせ、誰にでも解るように証言しようと言うのである。

 それはすなわち、コロンブスの卵とまったく同様なものであると心得てほしい。

 確かに今や、旧世界のもののすべては見直しを迫られ、新しいパラダイム・シフトが必要とされ始めている。その骨子とはすなわち、全体はすべて個と相関状態にあり、個は全体と共鳴共振しながら共生共存していると言うことを基本とするものである。それがすなわち、性質の全く相反するもの同士がダイナミックな関係で融合し、相互補完的に統合し合って完全体を作り上げている大いなる自然の事実の存在、それがすなわち、、「神の法陣(ひふみ法陣)」による「陰」と「陽」の二元の世界の確かな存在の再発見なのである。

 しかし、人類にとっては悲しいことであるが、それに見合う新しい知の群れは今のところ何も見出されてはいない。その新しい知とはすなわち、もっと自然知と融合した包括的な概念であり、存在するすべては相互的な関係を持ちながら有機的に振る舞い、相関的に結び合っていることを語るものである。しかし、ここに来てその存在を如実に示しているものが見出されようとしている、それが「数」と「図」の二つの要素が相関的に結び合って語り上げている自然の真実物語、すなわち「神の法陣(ひふみ法陣)」の姿なのである。

 図だけでは口がきけず、何も話せない、「数」だけでは語ることは出来ても方向が定まらない、これら図と数の二つが揃って初めて「真実の言葉」の方向や場が定まり、話すことの意味もはっきりしてくるのである。「数」だけでは単なる語りであり、それを証明することは出来ない、また「図」だけでは真実を持っていてもそれを明かす言葉がない。その二つが揃って初めて完成されて真実が明らかにされるのであり、すべては完全に解き放たれて完結の輪が結ばれることになるのである。

 見るがよい、聞くがいい、さまざまな宗教家達の語る言葉を…、それらは何と心地よい言葉であり、いかにもそれは真実味を含んでいるような数々の甘い言葉の群れではないか…!。人々はそれに魅惑されて引きずられていくが、決して完成された満足を味わうことはない。なぜなら、そこにあるのは言葉だけであり、もう一つの真実証、すなわちそれを納めて実証するために必要な完了の「場(図)」が一切無いからである。要するに、あるのは言葉と言う、実証をまったく伴はない虚のコダマだけであり、それが空しく響くだけである。
 言葉は無限の広がりを持ち、どうにでも言えるもの、どうにでも聞こえるものであり、その上、どのようにでも変化もするものである。人はそれにつられて前後の見境もなく動き、操られて定まることはない。また、図はその場を示す地図、すなわち、定められた場を示すものである、その二つが揃うことにより初めて交点が決まり扉が開かれ、求める真実が顔を出すのである。
 今までは言葉がすべてであり、言葉だけですべてが開かれると思い、すべてを言葉に託し言葉に従って来たのである。そもそも、それがすべての間違いのもとであり、疑いを生み、疑心暗鬼の心を作って人々を苦しめ、争いの元を作って来たのである。
 本来、自然のすべては陰と陽の二元性を巡って「完」となり「了」となって0と言う始原に戻るものであるが、それを誰も知らない。

 それはすなわち、本当の意味の「完了」となって0(始原)につながっていくのである。要するに、「完了」とは始めから終わりまで、すべては円滑につながって見事に納まり、エントロピ−が0の完全循環体勢におさまると言うことである。要するに、我々の物質的な「この世(+)」の活動も「あの世(−)」言う意識の世界を巡って一回転して初めてエントロピ−状態が相殺されて0となるのであり、そこではじめて新たな再出発の用意が出来ることになるのである。単なる物質的な「この世」だけではエントロピ−は無限に増えていき、すぐに限界が来て終わりが訪れることは学者達は知っているはずであるが…、しかし、自然は遥か悠久の昔から今まで存続してきている、それはすなわち、自然にはエントロピ−状態を平衡に保つ作用があると言うことである。それがすなわち、エントロピ−増大に向かう「この世(物質世界)とエントロピ−が減少に向かう「あの世(意識世界)」の二つは対立しながら相互的に扶助していると言う相関関係下にあることを証明するもの、すなわち、これから始まる「神の法陣」と言う数の語りの天与の法陣図である。

 すべては日本神道に始まり、最期を再び日本神道で納めて未来に繋ぐ、それが秘められた日本民族の天命であり、定められた宿命なのである。要するに、「神道」は単に日本と言うロ−カルなものではなく全世界にわたって等しく響き渡るべき永遠の叡智の結晶、すなわち、全人類が等しく知ることが必要がある「普遍の知」なのである。

 要するに、これは決して個人、あるいは一国だけが所持するべきものではなく、全人類が共通して持つことが必要なものである。
いや、全人類が乾坤一擲となってその先にある真実を追求して未来に立たなければならないものである。そうすることにより、やっと人類は発祥以来の延々と求めて来た「大きな叡智」、「永劫未来に続く叡智」を手にすることが出来るのである。それは人類にとってはまさに弥栄であり、弥栄の限りと言うものである。

 「数」と「図」が共になって語り上げる人類の未だ知らぬ「神の文」の綾模様とは…??!!。

 ここにある自然真実の綾模様とは、すなわち、「自然の真理」、「宇宙普遍の真実」の確たる存在を示したものであり、「数」と「図」が妖しく布陣しながら物語る「宇宙自然の真実」である。また、同時にそれらは永遠に輝く「真理の歌」であり、永遠に響きわたる「不滅の詩」でもある。その存在だけは忘れずに長く心にとどめておいて、時々反芻し心で噛みしめてもらいたい。

 これはまた、本気で臨めば誰にでも等しく扉が開くことが出来るものであり、学歴や専門知などの「あやま知」は一切必要の無いものである。それはたとえあなたが小学生であっても十分に計算が出来、検証も出来るものである。さあ、その様子をとくと見てほしい、その上で今までの考え方を自然に即した新しいものに切り替える、それがすなわち、これから始まる「知の脱皮」と言う古今未曾有の出来事を迎えるための用意なのである。

 さて、あなた方が難攻不落と思っている「神の法陣(ひふみ法陣)」、すなわち自然の歌う「ひふみ…天地の数歌」の語る自然の真髄の最たるものをこれからご披露申し上げることにしたい。すべては「ひふみ自然数」と「正方図(方陣)」が相まって奏でる天地のメロデイ−であり、永遠に変わることのない「真理の歌」のまたとない布陣なのである

 日本発のこの「神の法陣」の仕組みをしっかり眺め、そこにある「神の秘密」を読み解いて現代西洋科学文明の未来に警鐘を鳴らさなければならない。見るがいい。これらすべては自然の手になる自在な「神の業」であり、天衣無縫な「大自然の理」の姿でもある。



◎「神の法陣(ひふみ法陣)」の大きな謎、「神の秘密」を解く



 @ 「2次法陣」を解く(偶)
1 2
3 4

  横12(正)+43(反)=55→

  縦13(正)+42(反)=55→

  斜14(正)+41(反)=55→

  斜23(正)+32(反)=55→  


A 「 3次法陣」を解く(奇)  
1 2 3
4 5 6
7 8 9

  横123(正)+987(反)=111→3

  横456(正)+654(反)=111→3

  縦147(正)+963(反)=111→3

  縦258(正)+852(反)=111→3

  斜159(正)+951(反)=111→3

  斜753(正)+357(反)=111→3



 B 「4次法陣」を解く(偶)
1 2 3 4
5 6 7 8
0 1 2 3
4 5 6 7

  横1234(正)+7654(反)=8888 →5

  横5678(正)+3210(反)=8888 →5

  縦1504(正)+738(反)4=8888 →5

  縦2615(正)+6273(反)=8888 →5

  斜1627(正)+7261(反)=8888 →5

  斜4174(正)+4714(反)=8888 →5


  C 「 5次法陣」を解く(奇)

1 2 3 4 5
6 7 8 0 1
2 3 4 5 6
7 8 0 1 2
3 4 5 6 7

  横12345(正)+76543(反)=88888 →4

  横67801(正)+21087(反)=88888 →4

  横23456(正)+65432(反)=88888 →4

  縦16273(正)+72615(反)=88888 →4

  縦27384(正)+61504(反)=88888 →4

  縦38405(正)+50483(反)=88888 →4

  斜17417(正)+71471(反)=88888 →4

  斜38405(正)+50483(反)=88888 →4

≪ここにある正とは→、すなわち右方向への運動プロセスであり、←反とは左方向への運動プロセスである。ただし、正、反は中心軸からの対称位置にある数、及び数列である。また、正、反とは人間では「生」と「死」にあたるものと考えてほしい。≫

 さて、この続き、6、7、8、9、10の各次元表は自分の頭と手を用いて作り上げて同様な手際を持つ表にしてほしい。稚児の手遊びも同然である。何か考えを惑わすことがあるであろうか、今までの数学などは綺麗さっぱりと捨て頭を空にすることである…。
                                                   <詳細は「神の法陣」講座を参照のこと>



 いかがであろうか…、すべてには見事な同一数が姿を見せて何事かを囁いていることがお解りであろうか。この姿はまさに稀有な「神の秘め事」であり、今の今まで人間には一切明かされてはいなかった乾坤無二のものである。このようにして、これらの「数と図の語り」はどこまでも、例えば、宇宙大の大きさまでも秩序と調和を見せながら延々と続いて止まないのであり、しかも、それらすべては相関的な形、すなわち鏡面対称的な姿をもってつながっているのである。要するに、それらは常に同じ法則の下で一糸乱れぬ強い相互作用をもって結ばれ、無限永遠へと流れて止まないものと言うことである。まさしく、この姿は超自然の「真実の姿」であり、初めて人間の目の前にその知的な素顔を見せているあるべき本来の自然の仕組みの姿なのである。

 さあ、その素顔とは果たしてどのようなものであるのか、それについては来月の記、すなわち「11月の記」の中でそれらの数の囁き(計算)を聞きながらその姿を明らかにして見ようと思う。果たして、そのようなことが今の人間には可能なのであろうか。
 しかし現代科学知では到底無理ではあるが、「神の数学」ではたやすいご用なのである。
 そこにある不可思議な数の運航図をよく眺め、その上で指でなぞりながらいろいろと考察検証して動きを学んでもらいたい。
 すべては秩序と調和をもった自然的で単純な姿であり、まさに美しい円を描くような循環的な流れをもって計算は確実に展開され、等しく何事かを囁いているのである。それを解き明かす、それが本当の科学の姿でである。すべては自然のままの流れであり、すべては直線にあらずして円を基本とする流れよって構成されていることが解るはずである。
 円、それは自然の基本の姿であり、永遠につながってやまない構造体の姿である。古代の人々は円をして永遠性を表すものと考え、非常に大切にして崇めていたのもよくわかる。真実は何処でも、何時でも常に一つである。

 まことに単純な数の走りが奏でる単一メロデイ−であり、それによりすべての次元は同一波動状態を見せながら共鳴し、全体的な同一化を計っていることが解るであろう。それはすなわち、そこには自然の知が存在して部分と全体を一つの共鳴波動によって結び、それがそれぞれの構成因を自律的な調和状態に作り上げながら鎮まり、永遠に向かっていると言うことである。そのあたりを知りたくば、我々の体を構成している60兆の細胞を見ることである。その一つ一つはしっかり活動しながら、極めて短期間で生と死を繰り返しながら我々の体を健全に保ち、100年と言う長丁場を渡っているのである。決して、同じ細胞が続いて体を維持しているいるわけではなく、連綿と続く細胞の生命の繰り返しが同一波動を発し続けていると言う妙があるのである。もし、細胞の生,死に不連続が生じ、波動に異変が起こった場合、それを病気と言っているのである。波動を正常に保つ、その主役が心、すなわち意識なのである。
 「神の法陣」では各次元全体が大きな一つの響き(リズム)を見せながら正常な姿で未来永劫につながっていることをかいま見ることが出来るのであり、そこにある永遠の法則さえも知ることが出来るのである。    <参照[真理講座(No10)],「神の法陣」初級講座(8)>


 ここに内蔵されている「神の秘密」を見つけたいと思うならばこの勢いを駆って少なくとも10次元くらいの「神の法陣」を解き明かして調べるべきである。そうすることによりあなたの心には「神の法陣」に対する確固たる信頼と信念が芽生えて、同時に数に対する敬虔な心が生まれてくるはずである。また同時に、神の御業の燦たる仕組み、神の心の確かさ、無矛盾性には心が打たれ、新たな崇神の気持ちが芽生えてくるのも必定である。もし、あなたが10次元〜20次元の「神の法陣」を描いてしっかり眺めるならば、そこには不可思議極まりの無い「図の語り模様」が現れてあなたを更に奥なる神殿へといざない、その本心を密かに明かしてくれることであろう。

 あなた方は安易に考えているかもしれない、ただの偶然の産物であり、数がもの言うはずはない、そんな馬鹿なことはあるはずがないと…。しかし、それが現代人の持つ大きな誤った偏見であり、頑是ない人間の知が生んだ「あやま知」に陥っている半盲の姿である。見るがよい、私の手元にある「神の法陣」の資料は膨大なものである。「神の法陣」の講座は3部作であり、<初級講座(12巻)>、<中級講座(12巻)>、<上級講座(12巻)>と言う大きな内容を持つものであり、そのすべては未だ誰も手にすることが叶わなかった珠玉の「数の語り」の数々である。まさにこれこそ、数の導く不朽の「真実物語」の全容であり、その真実なのである。

 私はこれらを自信と誇りを持って紹介し、世の中に出さなければならない。これらは人知の向こう側にある「超知の物語」であり、未だかって人類の知り得なかった数の語る「真実物語」でもある。それらの数々をここに公開し、結果として何時の日か諸氏と共に語り合える日が来るであろうと考え、それを楽しみに今も真剣に「神の数学」と会話を交わしている毎日である。

 ここに並ぶ見事な数の調べを見てもらいたい、どうあっても偶然の産物とも言うべき代物ではない。これらは数が口をきき、確実な口調で教えてくれた珠玉の数々の姿なのである。そこには歴然とした次元の流れ、秩序ある次元構成の次第が綿密仔細にわたって数で描かれている。それを知ることは、即宇宙自然の秘密のすべてを握ることになり、破天荒な「神の業」をも征服しながら、それをそのまま戴くことになるのである。次回「11月の語り」でははそれを諸氏の前に開示して確かな「神の知」の存在を明らかにしてみよう。それを見れば明らかに数には「神」に準じた明確な意思が間違いなくあることに気づくであろう。

 さあ、それまでの1ヶ月これらの次元図を気の済むまでゆっくりと点検の上探索調査してもらいたい、そして出来ればそこにある「神の囁き」を少しでも解き放ち感嘆の声を上げてもらいたい。数えたことはないが、恐らく、私は100ヶくらいは解明して持っているのではなかろうか…?!。まさに興味の尽きない自在なる超知の数々であり、自然の持つ真実と言うべきものばかりである。たとえ、一つか二つでもいい、自らの力で見出し、私以上に歓喜の声を上げて身を打ち振わせてもらいたい。すべてはそこから始まるのである。
 ヒントを一つ申し上げよう、各次元表から現れた同一調和数の一つを順序よく並べて数の本質変化を見ることである。確かに並んでいる数はランダムに見え、何も意味が無いように思える、それに騙されて捨て去って来たのが現代数学である。  本来、そこにこそ重大な「神の意志」が存在して自然の心を歌っているのであるが、それを今まで誰も見抜けなかったと言うお粗末があるのである。

 改めて言いたい、これらが何を語り、何を表すものかは自分なりに考えてほしいと…。それがすなわち、本当の「知の芽生え」の始まりのはじまりなのである。今までのように他人の後塵を拝しながらその説を学ぶだけでは、それは単なる「知のピエロ」、「知のロボット」に過ぎず、決して未来を切り開くことには何も役立たない。自ら汗して考えに考える、それが将来の大きな知の礎を築くための大切なことであり、未来へのあくなき布石となるものと考えるべきであろう。今の日本人にはそれがどうも欠けているように感じられる。
 ただ、言えるのはこれら「神の数学」は一つの知のエポックの現れの発端に過ぎず、これからの新しい知の時代の到来を告げるものと考えてほしい。改めて言いたい、これらの数の語りは決して難しいものではない、ただ、今までに見たことがないのであなたの心は怖気(おじけ)ついているだけである。勇気を出してぶつかって新しい知の世界をかいまみてほしい。

 また、上記の〔数の語り〕にはまだまだ恐るべき超知の語りがいろいろと内蔵されているが、到底現代知では歯が立たないことを知るべきである。まずはそれらを捉まえてその理を究め心で理解することが必要である。なぜそうなるのか、それを調べて理解することが現代知と自然知の融和を計る近道であり、自然の知の存在を知ることになる最良の方法と言えるのではないのか…。

 我々の知はまだ揺籃期であり、不完全極まりないものである、そして、これからは自然の知を学びとって成熟しなければならないものである。是非、そのあたりを知って更に敬虔な態度を持ってこれからの道を一歩一歩踏みしめながら歩まなければならない。まずはそれを知ること、それがもっとも肝要なことであり、最初に必要なことであろう。

 さて、「神の法陣」は次回からはその秘密を紐解くと言う更なる佳境に入ってあなた方を更に驚かせ、更に唸らせることになるであろう。すべては「神」の意のまま、「神」の手のままに流れて尽きないものであり、さらりと流れてさらりととどまるものでもある。すべては自然流であり、自然の心のままに流れて止まないものでもある。それが永遠を紡ぐ大自然の道であり、そのたゆまぬ姿でもある。それはまた古神道の祝詞「ひふみ…天地の数歌」の本質であり、「カムナガラの道」の本当の姿でもある。それをまずは知ってほしい。

 さあ、次回からは「神の数学」と「現代知」の更なる真剣勝負の始まりである。果たして、「神の知」が見事にゴ−ルインするのか、それとも「現代知」にとどめを刺され動きを封じられるか…?!さあ、お立会い、お立会い…!!。見物人も、野次馬もこぞって集まり目と耳をそばだてながらしっかりこれらの知を検証してもらいたい。まさに次回は世紀を賭けた果たし合いの始まりである。その軍杯を挙げるのはあなた方であり、世の中である。決して学者などではないはずである…!!。

  一つ笑って気を楽にしてほしい、あまり固ぐるしいのは血のめぐりにはよくない。気楽にいこうではないか、… !!。                                                  
                                                      10月の記 以上




   「ひふみ…天地の数歌」が歌う“真理の歌” (10)
                                               
                                                  2011年11月謹んで上載



        今や「神の数学」の矢は放たれ秘められた宇宙理の真実が開示されつつあるのである。
             時代は旧来の物質文明から次の精神文明に移行しつつある時であり、
                 明らかにすべての流れが変わりつつあるのが今である。
                   すべては流れ流れてすべてはシンプルに進み、
                      意識の輝きが目を覚ます時である。
                       「神の数学」がその兆しであり、
                         大いなる目覚めでもある。
                      それは「宇宙普遍の真理の鏡」として
                 この二十一世紀における限りない叡智を追求しながら
                      人類の大いなる「知の金字塔」として
                         永遠に輝き渡るであろう。




 現在、人類の未来を決める「神のサイコロ」は我々日本人の手に握らされ、どう使うべきかをの判断を任されているような感じがする、もう少し経てばよく分かるはずである。そう言えば、世界の国々の識者達が日本に期待する声は年々高まってきていることを知ってほしい。その始まりはアインシタインの予言である。それはすなわち、「世界の文明はアジアに始まり、アジアに戻る。最後にはアジアの高峰、日本に戻って行くのである。我々は神に感謝する、我々に日本と言う尊い国をつくっておいてくれたことを」…。

 まさに我々を勇気づける言葉であり、将来の日本の重みを感じさせる言葉である。

 確かに今は日本が世界を必要としている以上に、世界は日本を必要としているのであり、期待感をもって日本の一挙一動を見つめているのである。日本、それはあなた方が思っている以上に素晴らしい国なのである。そのあたりを少しは知っもらいたい。
 そんなことがあるはずがないと我々が思えば、それはするりと手の中から抜け出して他の民族、あるいはその国の下で花を咲かせて歴史を飾ることになる。それが歴史である。そのあたりを考えてつくづく歴史を顧みれば色々と思い当たることが多いはずである。

 一つ、今の歴史にはない「時代の背景」と現実から見た「真実の歴史」を申し上げよう。

 日本は紀元の前後あたりに大陸からの軍隊(敗残兵?)によって完全占拠されたのであるが、その事実は伝わることなく歴史の主(時代の権力者)に消され失われてしまったのである。今ではその事実は誰も知らないし、知ろうとする者もしない。別に私の創作などではなく、この事実、すなわち、大陸勢の占領支配の存在は『日本書紀』天智天皇関係の書によりはっきり記され証明されているものである。しかし、それについては日本の歴史家達は何も言わない、調べることさえ何かこだわっているのである。何ゆえにであろうか…?!。
 要するに、これらの恐るべき力が日本の古代文字を抹殺し、奈良時代以前の古代歴史を消し去り封印してしまったと言うことである。彼等は日本占領と共にそれまであった文化、文物、古代からの歴史的な伝承記、国記などのすべてを強制的に集め火の中に投じ、燃やしてしまったのである。それは秦の始皇帝に始まる焚書坑儒と言われる悪癖をそのままを引き継いだ行為そのものであり、どうしてもそこには大陸性の悪癖の存在が明らかな形で見えるのであるが、それらの背景については誰も口にしない…。

 当時の歴史の背景から考えると、どうしても大陸からの侵略軍の影が見て取れるのである。

 その失われた歴史の中には神武天皇以前の史、72代にわたる「ウガヤフキアエズ朝の存在」、「神代文字」、「超古代文献」、あるいは日本の知の誇りである「古神道」などの全般の伝統の知の類であり、すべては問答無用とばかり焼却の憂き目にあい、そこで完全に歴史は断ち切られ、失われてしまったのである。要するに、そこで世界史上最も長かった一万三千〜一万五千年の歴史ある縄文文明及び彼等が奉じていた由緒のある「古神道(縄文神道)」は姿を消してしまったのである。無理もない、彼等大陸人達の故郷、大陸では征服した王朝が甦ることを恐れ、その文化文物や建築物、思想などはすべて破壊し、粉々に打ち砕いて捨て去るのが常であり、習慣であったことを考えると…。 歴代の皇帝のお墓さえもあばかれて放擲されて失われて何も残されてはいないと言われている。
 故に中国には歴史の長い割には歴代前王朝の遺品、建物、墳墓は殆ど残っていないのである。例えば、始皇帝の墓などもそのことを恐れ完全に隠され、今でも遥としてその行方が知れないのである。そのあたりから考えるとすべては筋が通り、頷ける話である。

 なかんずく、侵略者は卓越した知を持つ「神道」を恐れるあまり大変厳しく追及し、その存在を許さなかったはずである。彼等は特に厳しく詮議し長く追求したであろうことは大陸民族の当時の慣習や人間性から見てもよく解り、肯定できるものであろう。
 そのあたりの事情は2次世界大戦後のアメリカ占領軍を見ればよく解る。確か、彼等は神道禁止、神道追放を強く叫んで一気に「神道指令」を出し、日本の心、すなわち、神道の根絶を計ったのである。しかし、心の中までは立ち入ることは出来ず途中で沙汰やみになり、かろうじて生き残ったのである。そのあたりの経過歴等は今だあなた方の胸にもしっかり残っているはずである。

 恐らく、同じような状態の中で古代の祖達は強い圧力、追求を恐れるあまり、由緒ある神道を知恵をしぼって侵略者達には判らないように言葉の中に密かに隠し守り通そうとした…、それが「祝詞」や「言霊」と言う隠された言葉の成り立ちの原因であろう。それはそのあたりの事情を知らぬ者、すなわち、大陸系の血をもつ者達には決して解き明かすことは叶わないものである。それが大切な日本人の心を秘めた「言霊」として今でも大衆の中に息づき、古代縄文の心を持つ者の心に囁きかけているのである。

 参考@ <自然人類学者の埴原和朗東大教授の調査研究によると紀元前300年から紀元後700年までの1,000年間の日本の人口増加率は世界のどの民族に比べても異常に高く、自然増加だけでは到底説明がつかず、海外からの渡来者という要素を持ち込まざるを得ない。その比率は日本民族1に対して渡来人25、少なく見積もっても1:9となる逆転した数字になると言う。当時、ものすごい勢いで日本列島へと大陸の戦乱難民が流れ込んで来たことが推測される。>

 参考A <縄文晩期、紀元前200年あたり、異民族の王の始皇帝が中国統一を果たした、その時何千万の人々が家を追われ,国を追われて国外に逃れた。また、同様な戦乱が僅か在位12年で始皇帝が没した後再び起き、数千万の人々は虐殺を恐れて国から逃げ出したのである。当時、始皇帝をはじめ人々は日本を神仙の国として慕っていたと歴史は言う。 すると当然敗残将達の行く先は判るであろう。彼の地から日本までは黒潮に乗れば割合簡単に来れる、しかし日本から彼の地までは潮の流れが逆なので行くのは困難である。しかし、それについても歴史家たちは何も言わない…!?。>

 参考B 超古代文書には次のように記されている。「神武即位から566年目(BC95年)第10代崇神天皇は新都三輪を侵入軍に明け渡し、巻向川北岸の穴師に移られた。その後彼等占領軍は中国や韓国から学者を大勢呼び寄せて支配階級制度を作り上げた。朝廷その他の公用文にはすべて漢字が使用されて神代文字の日本文化は抹殺されてしまった。漢字を知らない者達はは奴隷とされ「奴」と呼ばれる最低の身分に落とされた」と。……「神代の万国史」より



  超日本古代におけるほんとうの「歴史的な真実」とは次のようなものである。

(1) 第一番に挙げられるのは「魔方陣」であろう。本来、それは古代日本に起源を持ち、その原型となるものが現在「神の法陣(ひふみ法陣)」と呼ばれている「自然方陣」の妙なる姿なのである。その中には誰も知らない天地自然の「運行原理」が整然とした方形の形の中に封印されているのであり、それはただ一つの言葉、すなわち、古神道の祝詞「ひふみ…天地の数歌」によってのみその意味が開封され「神の心(法則)」が明らかになると言う曰(いわ)くつきのものなのである。
 今から約四千数百年前、中国から日本に留学していた伏儀が「易」と「薬学」等を学んで持ち帰り、それをその後数百年かけて研鑽改良したもの、それが中国易と呼ばれているものである。それらの事情仔細はまさに古代文書の「竹内古文書」の万国史に記載されている通りのものである。しかし、実際彼等が学んだものは本物ではなく、まがいもの、あるいは口頭による単なる言葉の説明だけと考えられる。その事実を証する本当の「古の秘宝方陣」、すなわち(n×n)の方陣がここに記されているものであり、今あなた方の目の前に鎮座している「神の法陣」なのである。それらはすべて祝詞「ひふみ天地の数歌」を用いて編まれたものであり、その経緯、その仕組みは少々考えれば誰にでも簡単に分かるものである。後日、その仔細一切、仕組み一切ををここに載せるつもりでいる。

よく考えて見るがいい、権力者が大切に秘蔵伝承、すなわち、代々伝わる宝物を果たして他国の者にやすやすと渡すであろうか、それは常識で考えても少々無理なものであろう。

(2) 更には「九九算」である、これも超古代日本から流れて大陸に渡ったものである。確か、明治の頃、日本と中国の学者達が会議の時に「九九算」はどちらに起源を持つかについて話し合ったと記録にある。その時日本で発見されたものよりも中国の奥地の乾燥地帯で発見された木片のものの方が古かったので中国起源と決定されたと書には記載されている。しかし、方や名だたるモンス−ン湿気帯、かたや砂漠のようなところである。そのあたりの湿度や腐敗度の考慮は一切考えずに簡単に結論が出されたのである。当時の日本の学者達はあまりそのような枝葉にはこだわらず、簡単に決めてしまったと思われる。
 <それらの事実を記した厚さ200ぺ−ジくらいの小冊を読んだ覚えがあったのであるが、残念ながら題名を忘れてしまった、どなたか、心当たりがある方は教えて戴きたい。割合。小柄な薄い単行本であったのは確かではある。>

(3)
 現在、あなた方は中国発の「気功」を歴史ある中国の文化の遺産であるとこぞって称賛しているが、とんでもない、あなた方はいいように騙されているのである。すべてはマスコミの不見識が生んだ錯誤、無知蒙昧から始まった大虚言が始まりである。真実は次の通りである。時は明治の頃、日本から大勢の霊術者と称する人達が大陸に渡り持っている術を教えながら活動したのである。その後それを学んだ中国人達が古代中国発として構えたもの、それが今の気功の原形となったものである。 その証拠に気功と言う言葉が生まれたのは今からわずか50年前であり、その前にはそのようなものは一切なかったのである。中国には数多の王朝交代があり、その際、すべての先代王朝の伝承物の類は破壊放擲され、たとえ「歌」の類でさえも一切禁じられたと言われているのである。すなわち、すべの危険な言葉や思想類は厳しく禁じられ残されることは決してなかったのである。そこから推して考えても十分に分かることであろう。要するに、出来る限りその時代の背景から考えるて見ることであり、常識を生かすことが大切なのである。
 また、その当時、明治の霊術者の中には西洋に渡って術を広めた者もいた、それが現在西洋世界で名を馳せている「レイキ(霊気)」と呼ばれ、日本発のものとして欧米を中心とする海外で認知度が高いものである。それはまさに気功と全く同じものである。一つ、このあたりで一考を促したい。  <内容参考文献…「新霊術家の饗宴」井村宏次著>

(4) それらの好事例が最近起こった新幹線事件であろう。日本に散々頼み込んで新幹線の諸技術、及び建設技術関係を手に入れたはずなのであるが、何のこと、すべては中国人達の頭脳が編み出したテクニカル・マシンと位置付け、あつかましく特許を申請し諸外国に輸出を始めようとしたことはまだ記憶には新しいはずである。要するに、すべては自国で開発し、自国の頭脳で作り上げたものとして自国民達に教育し宣伝したので彼達中国人一般は頭からそう思っているだけであり、そう信じているだけなのである。

 ただ今回の件は10年も経たない短兵急なものであったので、さすがの人のいい日本人も我慢ならずに怒り出している、これが真実であることは今なら、よく分かるであろう。とにかくご用心、ご用心…!!。

 確か、荘子の著した中国の古い書物の中に「邯鄲の歩み」と言う話があったと記憶している。その骨子内容は「自分の本分を忘れて他人の真似ばかりしているとすべてが中途半端になって両方とも失ってしまう」と言うものである。まさにその通りの事実が今起こっているのである。中国はその自分たちの祖の言葉をもう少し噛みしめるべきではないのか…。

 このままでは100年後の歴史においては恐らく、世の中を変えるようなモダンなシステムやテクニカル・マシン等はすべて中国で考案され、製造されて世界に貢献したと書かれ、日本の名などは一切出ては来ないであろう。上記の(1)(2)(3)(4)の各例を見ればよく分かるはずであろう。いや、よく解ってもらわなければならないのである…!。
 それが歴史の正体であり、歴史書と言うものである。要するに、歴史とは強いものが作るものであり、嘘でも歴史として永遠に残るものである。今の歴史書はそれらの集大成と言うものであり、実際には真実からは程遠いものがあると考えてもいいものである。要するに、権威者の匙加減、あるいは民族の心持ち次第でどうにでも転び、どうにでも作られる(編集される)ものである。

 考えて見るがよい、片や言挙げせず、すなわち諍いを好まない少数の日本民族、対するは言い負かされると命が失われるような多勢な大陸族、人間の歴史なんては強い方、言いたい放題、強く言った方に流れるものであり、それが伝わって時間と共に作られたもの、それが歴史である。決して確かなものではないということを覚えていてほしい。

 日本の歴史でもご同様であり、事情は変わらない。すべては強い方の事情がそのまま歴史に反映され歴史として伝わっているのである。要するに、弱いもの、滅ぼされたもの (少数) の文化、伝承はただ消され、闇に消え去るだけなのである。例えば、今の天皇家(倭朝)の前の72代にわたって存在した「ウガヤ朝の存在」、古代日本の「神道の真実」、「神代文字」等、すべては失われて闇の中に消え去った真の歴史のかけがいのない一部なのである。今問題にしなければ永遠に失われ闇の中に消えてしまうのである。
 要するに、当時それらを守っていた人々はすべて大陸からの渡来人により迫害淘汰され、余儀なく地方に落ち延び分散する憂き目を見ることになったのである。その証拠に歴史的な古代文献が見出されるのはすべて鄙なる地方の片田舎からだけである。 

 さあ、このあたりで日本所縁(ゆかり)の祝詞「ひふみ…天地の数歌」が歌う宇宙の歌、すなわち、「神の法陣」の秘密を探しだして、真実を聞いてみよう。


 ここでもう一度「神の法陣」の3次元、4次元。5次元の各表を先回と同様に掲げて置くので再度数の並びを確認し、答えの出し方をしっかり学んでもらいたい。そのあとの6、7、8、9、10次元の各表は自分の手で作り、結果を検証することである。すべては「神」の意のまま、自然の流れのままである。それはすなわち、神道の奥儀言葉である「カムナガラの道」であり、自然ののままに考え、そのままを心に写しとるべしと言うことである。


  日本の秘宝、「神の法陣」の大いなる姿を見る
      ≪2,3,4,5次元の各「神の法陣」を解き放つ≫


 @「2次法陣」を解く(すべては自然と同様に円状、楕円状に走って納まる)
1 2
3 4

 横12+43   = 55→
 縦13+42   =55→
対角(左)14+41 =55→1
対角(右)23+32=55→   (55→10→

A「3次法陣」を解く
(すべては自然と同様に円状、楕円状に走って納まる) 
1 2 3
4 5 6
7 8 9

 横123+987   =1110→
 横456+654   =1110→
 縦147+963   =1110→
 縦258+852   =1110→
対角(左)159+591=1110→
対角(右)753+357=1110→  (1110→30→

B「4次法陣」を解く(すべては自然と同様に円状、楕円状に走って納まる) 
1 2 3 4
5 6 7 8
0 1 2 3
4 5 6 7

 横1234+7654  =8888→
 横5678+3210  =8888→
 縦1504+7384  =8888→
 縦2615+6273  =8888→
対角(左)1627+7261=8888→
対角(右)4174+4714=8888→  (8888→32→


C「5次法陣」を解く(すべては自然と同様に円状、楕円状に走って納まる)
1 2 3 4 5
6 7 8 0 1
2 3 4 5 6
7 8 0 1 2
3 4 5 6 7

  横12345+76543  =88888→
  横67801+21087  =88888→
  横23456+65432  =88888→
  縦16273+72615  =88888→
  縦27384+61504  =88888→
  縦38405+50483  =88888→
対角(左)17417+71471 =88888→
対角(右)38405+50483 =88888→  (88888→40→

    <この後6,7,8,9、10次元と宇宙大まで続く…。>
 ≪これらの各次元表の数の走りをそのまま円、または楕円で結ぶ、すると、すべての表図には「原子の走り」の姿、すなわち「原子の電子軌道図」がそこに現れるのである。≫

 ここで一つ、これら「神の法陣」の真実が明らかになる簡単な形の「数の証明式」をあなた方に差し上げることにしよう。それを見ればあなた方も納得して更に一汐の考えに耽けることになり、新たな興味が湧いてくるであろう。それは決して難しいものではなく、順序さえ踏めば簡単至極なものであり、子供でもその解決能力は十分にあるものである。
 同時にこれらは人知の果ての永遠の言葉、すなわち、人類が何時も問題にして止まなかった哲学上の問題「神は無矛盾である」の言葉の正しさを証明するものともなるであろう。要するに、「神」の御業、知業に一切の矛盾が無いと言うことは、同時に、それは「神」自体の無矛盾性を証明することにもなるのである。  <参照「神の方陣」初級講座(3)>

 考えて見れば、自然知が矛盾したものであれば当然自然は存在することはなく、とうの昔に崩壊消滅しているはずである。それはすなわち、何も矛盾しているものが無い、無矛盾だからこそ現在まで存続し来ているのである。それは同時に、「神」は無矛盾だからこそ消滅することも無く今でも存在し、かつ、これからも永遠に存在する大いなる存在であるとの証明でもある。そのあたりのこともからめて不日ゆっくり検討していきたいし、そのつもりでもある。

 次に「神の法陣」の各図に並ぶ調和数を下に掲げておく、上記の2次、3次、4次、5次に続く各次元表は自分で作り上げて、そこにあるべき正しい数の出現、更には「数の語る」新しい啓示をあなた手で見いだし、十分に検証してほしい。

  
  〔「神の法陣」の歌う大いなる数の語り〕 (その1)

 次の数は「神の法陣」の調和数(共鳴数)を秩序通りに並べたものである。

 1次 2次  3次  4次   5次    6次     7次      8次       9次     10次元表    11次元表

  2  55  111  8888 88888  111111  5555555  22222222  111111111 2222222222  55555555555 …→

 さあ、これらは一体何を意味し、何を開示しているものなのであろうか…!.

 全体を一睨みをしながら心で考え、その上でそこにある「神の秘密」の秘儀を探すのである。直観に従って素直に見れば簡単なことであり、そこには驚くべき「数の語り」の姿が現れて無言の囁きを語り始めるはずである。ただし、それはあなた方現代の人間の耳には聞こえない「数の語り」であり、いままでは誰も知らなかった影の世界の「真実の語り」である。
 ここで必要なのは鋭い直感力と深い洞察力であり、非凡な頭の回転である。別に学の有無、専門知の多少等は一切関係ない、いやかえって邪魔になるものである。それらのすべてを頭から外して一旦傍らに置いてゆっくりと考えることである。

 まずは同じ数の出現による「数の語り」、あるいは「その数の語り」の持つ同一単数数列の姿に注目してほしい、それらの姿仔細を推察考慮すると次の関係が見えてくるはずである。


D 4次元(調和数)+5次元(調和数)=8888+88888=888888888=72→9→0

C 3次元(調和数)+6次元(調和数)=111+111111=111111111=   9→0

B 2次元(調和数)+7次元(調和数)=55+5555555=555555555=45→9→0

A 1次元(調和数)+8次元(調和数)=2+22222222=222222222=18→9→0

@ 0次元(調和数)+9次元(調和数)=0+111111111=111111111=  9→0

 
 要するに、4次元と5次元の間を境にして二つに折り、その重なった数列を見る、すなわち対極数を加算(並べる)するのである。するとすべては同じ同調数の群れとなるのであり、それらの並列数を加算した上で1桁化すると、そこには0が導き出されて完となるのである。まさに大いなる「神業」であり、まことの「神の心」の存在がそこにはあるのである。
 これはまた祝詞「ひふみ…天地の数歌」から生まれた古くて新らしい「知の種」であり、古神道の神髄を歌う奥儀祝詞の「大いなる天と地の歌」の本当の姿の表れなのである。
 
 
  〔「神の法陣」の歌う大いなる数の語り〕 (その2)

 
 これでもまだ合点いかぬ御仁は10次元、11次元、12次元と計算を続けて見るがよい。するとそこには驚くべき数が現れてあなたの度肝を抜くであろう。すべては成るようにして成り、遥か人知を凌いで永遠を誇って存在しているのである。
 
 すなわち、「10次元→2222222222=2×10→2(1次元)」、「11次元→55555555555=5×11=55(2次元)、更には12次元→111111111111=12×1=12→3→111(3次元)…が現れ、すべては9次元を分節にして新たに繰り返しが始まることに気がつくであろう。まさにここには数の妙技が展開されてすべてが了となり解となるのである。 何と、すべては9次元で終わりを告げ、新たに最初から再び繰り返される、それが自然のル−ルであると言っているのである。まさに、それは周期律表の電子が9(0)で終わって外殻に軌道を移して新たに1から始まるのと同一な表れを示しているものではないのか…!!。
 
 この数の開示している事実は世紀の、いや人類史上目を見張るような重大な発見であり、位相数学(トポロジ−)分野における大いなる進展の序曲ともなるものであろう。これからはこれを足掛かりにして難攻不落であった次元時空の諸位相はだんだん明るみに出てくることと思われる。

 あなたが物理学者であるならば、強くそこを学んで真実を掴んでもらいたい。日本の物理学の更なる発展のためにである。このような簡単な「数の理」で世界の物理界を強くリ−ド出来る、それが日本の「古代の知」の有難いところであるのである。
 ただ旧来の学にしがみついて他を排斥、あるいは無視するようならば、最早、明日は無いものと思わなければならない瀬戸際、それが現在である。要するに、すでに、西洋科学知は袋小路に陥り抜き差しならない状態にあるのであり、場合によっては終焉とまで囁かれているのである。もって瞑すべし。
 
 そこでもう一度原点に戻って考えて見ると今度はよく分かるであろう。何故、祝詞「ひふみ…天地の数歌」は9で完了し、それが三度繰り返されている理由が…?!。あなたが日本人であるならば、この先の説明は不用であろう。要するに、この先の計算はあなたの手で続けて「数の妙味」と「その神髄」、「古代日本人の知の高さ」を是非味わってもらいたいのである。そうすることにより日本民族の素晴らしさ、太古より連綿と続く知の伝承の確かな存在はすべて白日の下に曝され、いつかは世界中に響き渡ることになるのである。
 すべては自然の持つ「数の理」であり、「現代数学」より遥か高度な「数の技」の数々が大自然を巧みに操って永遠を紡いでいる事実がだんだん頑是ない学者達にも解ってくることであろう…。

 これから結婚相手を探し、新たな人生を踏み出そうとする若い方々に一言申し上げたい。もし、あなたが最良のパ−トナ−を得て一生を満足に過ごしたいと思うならば同じ調和数(心)を持っている相手を選ぶことが第一条件である。そのことが必要不可欠であることをこの数の語りはいみじくも数もって開示しているのである。まずはそれを十分に見極めた後にその他のアクセサリ−、すなわち、顔、身長、声などの2次的な好み、更にはその後に続く3次的に必要なもの、すなわち、収入、財産、地位などというものを選ぶべきであると数は囁いているのである。それをくれぐれも忘れないことである…!!。現在、それが逆転し、前後がさかさまになっているからすべてはままならず離婚が増え一生を棒に振る羽目になっているのである。そのあたりのことは上記の数計算を見れば当然推察出来るはずである。 まずは何回も「この数の語り」を目と心で検証し、十分に理解することである。そして、それをしっかりと心にとどめ、決して忘れないことである。

 ここで改めて、祝詞「ひふみ天地の数歌」にある「ひ、ふ、み、…」の天地言葉、すなわち、0123456789で示されている正自然数の存在をしっかり思い出してほしい…!。それはこの祝詞数言葉の中心、すなわち、4と5の数を境に二つに折り重ねて各数を加算するとすべては9になり、0になると以前に何回か申し上げたことである。何と、ここにある「数の物語」は大自然の基本形である祝詞「ひふみ天地の数歌」が大本雛型となっているものであり、その原型そのものであることを改めて学んでほしい。

 「神道」とは素晴らしいもの、まさに世界に冠たる「神の道」、「自然の道」なのである。我々はここで改めて見直すべきであろう。まさに弥栄の限り、無上心の限りである。

 大自然のすべては祝詞にある「ひふみ…天地の数歌」の持つ基本そのままの流れであり、この古神道の祝詞こそまさに「自然真実の道」を歌いあげている大いなる存在、すなわち、自然を賛歌する「カムナガラの道」そのものなのである。「カムナガラの道」、それは決して失われたものではなく、祖達により、しっかりと古神道の中に納められ、何時の日か甦えることを祈りながらその中に封印されたものなのである。   <詳細は「真理講座」2参照>

 なんとこれらの示す見事な「数の語り」は比類なき自然知の姿をかいま見せながら、自然のあるべき本質の存在を歌い上げているものである。何とシンプルで美しく、そして心を打つ「天地の数物語」であろうか…!!。古神道こそまさに大自然を歌い、賛歌している「自然の理」のまことの道であり、天下にそれを厳として示して止まないものである。
 しかも、それらの「数」は見事な数律をもって整然と並び、何事かを懸命に囁いているのである。この最も簡単な「天地の数序」を語る古神道の奥儀の道が祝詞の中に凝縮されて封じられ、眠ってていたのである。それがまた天地の2元の理である「陰」「陽」の姿でもあり、大自然の二大理律そのものでもあるのである。


  〔「神の法陣」の歌う大いなる数の語り〕 (その3)


 更にもう一つ突っ込んで計算して見よう、次のように加算し、一桁化して数を見るのである。すると矛盾の無い数列が現れて我々を更に感動させてくれるのである…!!。

@ 0次元(調和数)+9次元(調和数)= 0+111111111=0+9 →(0+9)=9→0

A 1次元(調和数)+8次元(調和数)= 2+22222222=2+16 →(2+7)=9→0

B 2次元(調和数)+7次元(調和数)= 55+5555555=1+35 →(1+8)=9→0

C 3次元(調和数)+6次元(調和数)=111+111111 = 3+6 →(3+6)=9→0

D 4次元(調和数)+5次元(調和数)=8888+88888=32+40 →(5+4)=9→0  

    <さあ、よく見てほしい、これらはいつもの数であり、「空飛ぶ円盤」から現れた「数の理」である。>

 更にもう一つ「真実の数の語り」を付け加えておく、即、検算検証して見ることである。


   
〔「神の法陣」の歌う大いなる数の語り〕 (その4)

  〔数の語り〕 (その1)に並ぶ次元調和数の中から一つを拾って次元順序に沿って並べて見よう。

2 5 1 8 8 1 5 2 1 2 5 1 8 8 …… 循環数がどこまでも続く

 ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨

 3 5  7 0 2 4  6 8 1 3  5 7 0 ……「ひふみ数」の循環体

 ここにある「ひふみ数」は不完全である。本来それは135702468となって循環を繰り返すものである。そのためには3の前には1を置くことが必要である、そこで推察するのである。(その3)にある「ひふみ数」である357の前にある数字は当然1である。そこでその上にある循環数の並び方から考えるとその母数である251の前の数は1でなければならない、そこで1251…と数を置く、すると当然「ひふみ数」の前には2−1=1が現れて見事に13570…の姿となって完成し、すべては弥栄となり完となるのである。まさに、自然は無矛盾であり、完璧性を誇っているのである。

 要するに、(その4)のあるべき正しい形は次のようになるものである。
←……… 鏡面対称数列  ………→

1 2 5 1 8 8 1 5 2 1 2 5 1 8 8 …… 鏡面対称循環数が続く…

 ∨ ∨ ∨ ∨  ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨
 1 3 5 7 0 2 4 6 8 1 3 5 7 0 …… 「ひふみ数」の完全循環体が続く…

 
 私は知りたい、ここに現れた1251881521……と流れて止まない鏡面対称無限数列を何と呼ぶべきなのであろうか。それは単に1251881521と連なる9ヶの数が無限循環を繰り返していると言うべきか…?。はたまた12518の5ヶの数が鏡面反射と言う形で反対の鏡面に入り81521となって「陽」という逆数の姿を生んでいるのであろうか…。更には、それらがまた「陰」、「陽」の姿となって鏡面で無限反射を繰り返しながら1251881521…となって永遠なる循環を続けているのか…?!、それとも何らかの収束点があり、それに向かっているのか…?!。果たしてどうなのであろうか…?!。 まさに、これは時空を裂かんばかりの無限鏡面循環反射と言う「数の流れ」の姿である。
 これで「神の数学」は弥栄の限りの聖なる「神の学」であり、永遠の時の流れを介して無限の姿をもっていることがあなた方にも分かるであろう。要するに、この手法は数の滑らかな秩序を利用してその先にある「見えないもの」を見出し「真実世界」の姿を明らかにしていこうとする究極の手法なのである。

 この手法は現代量子物理学においても用いられているものであり、「S行列式」、あるいは「マトリックス行列式」と呼ばれているものであり、素粒子などの「見えない世界」の探索に大変効力を発揮し、遺憾なく「見えない世界」探索し成果を上げているものである。


〔「神の法陣」の歌う大いなる数の語り〕 (その5)

 1次 2次  3次  4次   5次    6次     7次       8次       9次      10次元表

  2 55 111 8888 88888 111111 5555555 22222222 111111111 2222222222

  ‖ ‖   ‖   ‖    ‖     ‖       ‖       ‖        ‖         ‖

  2 1   3    5    4     6       8       7        0         2   … 加算後1桁化

   ∨  ∨   ∨   ∨     ∨     ∨        ∨       ∨        ∨

   8  2   2   8     2     2        8       2        2  …… 1深奥数列

    ∨   ∨   ∨    ∨     ∨       ∨       ∨        ∨

    3   0   6    3     0       6       3        0   ……   2深奥数列(ひふみ数列)


 上記の計算は各次元表の持つ調和数を加算したもの、すなわちそのΣ数から何が現れて来るのかを見ようとしたものである。そこにある∨とは右の数から左の数を減算して答えを出したものとの記号である。このようにその計算を1回行ったものが1深奥数列と呼び、更にもう1回行えばそれは2深奥数列と呼ばれるものである。その次を更に続けて見るがよい、すべては同一数が現れて0を告げるだけである。要するに、「ひふみ…九九算」が現れればすべては完であるのである。

 ここでは2回行うことにより答えである「ひふみ数列」が無事に現れて完となり、すべては真実の表れであることを証明しているのであり、まことに鮮やかな姿と言うべきであろう。これらが何を語り、何を表すものかはそれぞれで考えてほしい。
 ただ、これは一つの「知のエポック」の現れであり、新しい知の時代の到来を示すものであるのは間違いないものである。

 また、〔数の語り〕 (その1)にはまだまだ恐るべき超知の語りがいろいろと内蔵されているが、到底、現代知では歯が立たないことを知ってほしい、まずは「神の数学」でそれらを捉まえてその理を理解し究めることである。なぜそうなるのか、それを調べ理解することが現代知を一気に自然知に近づけることになるのであり、自然の知の存在を知るための本当の近道なのである。

 我々の知はまだ揺籃期にあるのであり、これから自然の知を学びとって成熟するものである。そのあたりを知ってもっと敬虔な態度でこれからの道を歩むことが必要であろう。

 今必要なのは大自然から矛盾の無い「完全無欠の知」を学ぶことであり、それらを用いて自然と共に歩んで永遠の道を探し、それを辿り将来に備えてすべてを学んでおくことである。

 決して自然を見下したり、馬鹿にすべきではない。自然と言う世界は何十億、何百億年と言う長い時間をかけてそこにあった様々な矛盾を克服して現在の無矛盾世界を創り上げてここに存在しているのである。何らかの矛盾が生じたり、それをクリア−出来なかったならとうの昔に消滅するか、または矛盾を持った不完全世界に落ち込んでいるかである。

 要するに、無矛盾の世界が現にこのように連なっていると言うことは、すべての矛盾を解決して永遠を得て来たのであり、これからもそれは未来永劫に続くと言うことである。まさに自然は「神」であり、またとない我々の師と仰ぐべきものである。

 一方、我々の歴史を見ると、自然をお手本に学を解しはじめてまだ数千年と言う若さであり、まさに揺籃の存在である。その事実を忘れて自然を征服し、凌駕したと考えているのが現代人である。ただ、馬鹿かとさげずむしかない哀れな存在としか言えないものである。。知るべし阿吽の道を…!!。<「阿」は万物の根源、「吽」は一切が帰着することろ。すなわち、阿=吽である。>  
            
                                                             11月の記 以上




 

  「ひふみ…天地の数歌」が歌う“真理の歌” (11)
                                                     
                                                              2011年12月謹んで上載

           時代は明らかに我々の認識を超えて急ピッチで動きはじめている、
             それは夜明け前の暗さから逃れるように歩を大幅に変え、
                次のミレニアムと言う意識の時代に向かって
                   自然の流れと共に突き進んでいく
                 「神の数学」を抱いてそこにあるものは
                      眩い「神」の世界であり
                 すべては因と果で結ばれている姿である。
               それは「神」の采配の下、自然の流れと共にあり
           悠然と循環的な営みを繰り返しながら永遠を取り込む姿である。



 先月までは「神の法陣」の基本的な性質を「数」が語って来たのであるが、今回はもう一つの更なる面からそれを追求探索してみよう。恐らく前回の「数の語り」とは兄弟、あるいは陰陽の関係にあると言ってもいいものであり、更に驚くべき不可思議な「数の語り」の真実を伝えているものである。このように様々な形で「数の持つ真実」をあなた方に伝えることにより、「数」とは人間の考えているような単なる量や数を表す定量的な概念ではなく、そこにはもっと深いスピリチュアルな真実性や思いもよらぬ有機的な意識性さえも含む「超表象的な存在」、「定性的」なものと考えるべきであろう。いやそれ以上に「人間の知」を遥かに超える「形而上的な性質(神の本質)」さえも持ち合わせていると考えてもいいものである。

 要するに、「数」とは今まで私達は数量や数的概念を表す際に使う単なるサイン文字、認識文字であり、それ以上のものは何も含まないと決めつけていたのであるが、それは完全な誤りであり、しかも、その誤りこそが長年にわたって人間知を自然の真実から遠ざけて来た最大の要因となっているものである。
 「数」、それは人間の知を遥かに超えた存在であり、「神」の心を語ることが出来る唯一のものと言っても決して過言ではない。すなわち、「神もどき」のものと考える、0=9を想像して考えを巡らして見るのである。《0を絶対的な神》とするならば、<9は2次神、別神>と考えてもいいものかも知れない。これから、それを様々な形で証言し、その働きを検証して行こうというのである。恐らく、それによりあなた方の心の目覚めが徐々に始まるのであり、いつかは真実に迫り心が大きく開かれていくのである。 

 今回の数の証言は先月記した「神の法陣」の双子的存在とも言うべき数の証言であり、まったく同じ数の群れが叩き出され、何かを訴えていることに気が付かなければならない。そこにある驚くべき数の一致の姿にしっかり目を向けてほしい。先月は確か縦、横、斜めの計算ではまったく同じ数字(同調数)が現れてあなた方の肝をつぶす羽目になったのであるが、今回はそれをすべて斜めに視点を置いてもう一度計算を始め、もう一度肝をつぶしてもらおうと言うのである。 すると何と言うこと、そこには再び奇妙な数の一致が現れて先回の答えにしっかりと結び付き、まったく同じ証言を行っているのである。まさに「驚くべき数象」の存在であり、その「聖なる流れ」とも言うべきものである。一体これらは何を意味し、何を示唆するものであろうか、これらの前代未聞の驚くべき「数の語り」にしっかり耳を傾け、その答えに注目してほしい。

 これらはまさに真実を告げる「神図の妙業」であり、自然の計りしれない「深い玄理」の存在の証(あかし)でもある。そこには「数」と「図」が一つになって描き出す「自然真理のぺ−ジェント」が無限な広がりをもって現れ、我々を唖然とさせるのである。しかも、悠然と構えて止まないのである。その明らかな存在とその確証となるものを何とこの「法陣表」が高らかに歌い上げ、誇りに満ちて叫んでいるのである。今の私はただただ頭を垂れひたすら恭順の意を表し、ただ恐れ入るだけである。

 すべては「神の法陣」の図の中に「数」と言う普遍文字で描かれ、真理を語りながら永遠なる姿をとどめているものである。その姿はまさに、現在この日本に奇跡が現れ、「新しい知の原理」の存在を「数」で示し始め、歌い始めていると言ってもいいものである。恐らく、それらのすべては人間知の範囲内であり、理解可能なものではあるが、今の西洋科学知とは基本軸が全く異なっているので最初は少々困難が付きまとい、完全に理解するまでには少々時間が掛かるではあろう。しかし、その内にまるで遼原の炎の如く広がり、全身全霊で理解することであろう。

 それは今までの西洋科学知の隆盛を横目にひっそりと「神道」という神の砦に密かに封じられ長い間眠って来たのである。ところがこの20世紀末になって西洋科学知の足取りが不安定になり、翳(かげ)りが見えてきたと同時に、古神道の中から這い出し、世の中に降りて来て真実を語り始めたのである。
 「古神道」、この言葉は今まで西洋科学文化の波に乗って繁栄を享受してきた多くの日本人にとっては古くさくて、得体の知れない大いなる過去の遺物、すでに消滅しかかっている原始日本の宗教との認識しか無かったものである。まぁ、押しなべて日本全体の見方もそのようなものであろう。しかし、今になってそこに思わぬ変化が現れている。なぜならば、日本に「神の数学」と名乗る古神道から生まれた新しい知学体系が忽然と現れて「古神道」は宗教にあらずして、超古代に存在した一つの自然の道であり、超古代の「知のオーパーツ」そのものであると言い出したからである。要するに、噂にしか過ぎなかった古代日本超文明の存在をはっきりと裏書きし始めているのである。それは言葉だけなら、否定も出来、無視することも出来るであろう。しかし、そこには言葉と一緒にその考証根拠となる「数の証」まで現れて真実を語り、すべてを明るく真実の色に染め上げているのである。また、その語りの姿は如何なる学者、如何なる専門家でも絶対否定できない「数による真理証」であり、それらを同時に伴って出現して絶対的な姿を誇って我々に語りかけているのである。

 一体全体何が古神道の中には秘隠され、誰がそれを未来に伝えようとしたのであろうか…!!。

 それは今もしっかり息づき、よみがえりを果たそうとここに来て蠕動(ぜんどう)を始めているのである。

 一般的な人々は古神道は今や原始宗教の古い骸(むくろ)同然であり、もはや利用価値が無いと考えているが、それは少々早まった見方であり、余りにも古神道を冒涜するものではないのか。考えるがよい、3千有余年それは日本民族を数多の精神的な侵略から守り通し、幾多の波乱を乗り越えながら現在まで手を携えて来ているのである。そこには何らかの重大な知られざる歴史的な真実の存在根拠があり、それを神がいつくしみ加護の手を伸べて守り通して来たと考えてもいいのではなかろうか。   

 古神道、それはまさに日本国の原点であり、民族の魂として爾来3千年の間民族に付き添って国を守り、国民を育てて来たのである。そこには何か大きな要素、知られざる真実があるはずである。   

 それは恐らく、今の日本神道ではなく、神道の始まり、いわゆる「古神道(縄文神道)」に要因を求めない限りその本性は明らかにはならないはずである。なぜなら、現在の神道は本来のあるべき本当の「自然の道」を謳った古神道からは程遠いもの、途中で途切れて不明と化した後、本体を改めて民衆の意に沿うように作られた、いわゆる「再生神道」であるからである。それは長年にわたり大陸流、すなわち、仏教、儒教流の神秘思想が流入して合成されたものであり、人々の心を惹くために仏教あたりの教えを適当に取り入れて作り上げられた「神道もどき」のものと言ってもいいものである。   
 それらの証拠としては歴史に載っているだけでも「奈良時代の物部、聖徳太子間の神仏戦争」、「飛鳥時代の廢佛毀釋」、「鎌倉時代の神仏習合」、あるいは明治になってからの「神仏文離策」、その後に起こった「廢佛毀釋運動」などがあり、坊さんが神官になることが巷間では甚だ多かったと歴史書には記されているのである。 要するに、時代と共に、ますます「神道もどき」の発生が勢いづいて来て神道の本質は完全に失われているのである。神道の本道、本質もろくに知らず、めいめい思い思いの自己流神道を作り上げ、思い思いに広げて信者の獲得に精を出して来ているのである。

 一つ神道の歴史をひもとくがいい、そこには数知れぬ何々流と名乗る神道各派がこぞって名乗りを上げ、いろいろな神道、自分達が作り上げた神道を祭り上げ発展させていることが判るはずである。そのあたりから考えても現在の神道には本当のあるべき「神道の本質」はまったく失われ、その面影すら無いのではと考えても決して言い過ぎではないと考えている。
 そのような状態であるから、外国あたりの宗教家や知識人に「神道は宗教ではない、稚児でも知っている12345…の数を大切に奥儀祝詞として神に言上しているとは甚だ原始的な振る舞いであり、呆れた所業である」と下げずまれても一言の弁明もできないのである。それでは国民にも愛想を尽かされ、見限られるのも止むを得ないであろう。年毎、次第々に衰勢になっていくのもこれ頷けるところでもある。神道家たらん者はこのあたりで目を覚まし、本来のあるべき本道を求めてほしいものである。

 要は考えることである。そもそも「神道」は何故三千年と言う長い間、尊い「国の宝」として丁重に扱われ、今まで生き永らえて来たのか、途中で仏教や儒教が入り、その後キリスト教がやって来て国民の間に教えを広めようと躍起になったが、すべては神道に押されて儚くも消え去ってしまったのであるが、それは偶然の重なりであろうか…。それとも何か理由があったのであろうかと…。
 そのあたりのことをしっかり思考を巡らし、考える必要があるのである。神道の「芯の強さ」には何か特別な要因があると考えるべきであり、今こそ、それを解明し答えを出すべき時である。

 ここで古神道の昔に立ち戻り、あるべき「真実の種」を見い出し、新たな再興を計るべきであろう。

 「神」を戴き、「神」を大切にすると言うことは「天地の法則」を信じ、「天地の理」に沿って生きると言うことであり、当然、そこには「無事」、「平穏」、「幸福」等の結果があってもそれは当然であり、「神は遍在する」と言われても何の疑念も無く、何の不思議も無い当たり前のことなのである。なぜならば、「天地の理」は何処にでもあり、森羅万象を貫いてすべてに作用しているからである。

 それをあなた方が勝手に解釈して「神の姿」、「神の力」を逞しく想像し、強い憧れを抱いているのである。それに乗じて宗教家は「神の偉大さ」を語り、「神の素晴らしさ」を教え込んで皆を集め、「神」を喧伝して金品を強要し、それを自らの生きる糧にしているのである。何のことはない…!。

 あなた方はいぶかしく思うであろう、なぜ人間は「神」の存在を必要としているのかと…?。それは人間はあまりにも心が脆弱過ぎて、一つの指針、目標をもって毎日を過ごさなければ不安が付きまとうからである。要するに、一つの拠り所をもって毎日を邁進しなければ生きては行けないと言う弱さをもった生き物であるからである。要するに、迷いがあまりにも多すぎると言うことである。
 
 そもそも、「古神道」を学ぶと言うことは、すなわち「天地の理」を知るということであり、あるべき「天地の理」を知って、それに沿って生きると言うことである。すると当然、そこには安全、平穏、無事があり、御身息災につながって大過なく一生を過ごすことに結び付くのは当然である。しかし、悲しいかな、現代知はそのあたりのことは何も知らず、ただがむしゃらに自分達の知を積み上げて、それに沿った新しい知を作り上げて臨むだけである。要するに真実の尺度となるべき「自然の真実」、「自然の理」等には関係なく、自分達が真実であると判断したものに従って、その上塗りを重ねているのである。もし基盤となるものに間違いがあれば、すべては一瞬にして瓦解し、崩壊してしまうのはこれ当然のことである。それが現代の西洋科学文明と言う危ない姿である。いわば、砂上に積み上げられた楼閣とも言ってもいいものである。

 我々はまずは「古神道」から現れた「数の理」を改めて検証して学ばなければならない。なぜなら、そこには何人たりとも決して否定や無視の出来ない「数の語り」、「真実の語り」が数多姿を見せて「天地の理」を囁いているからである。そこには完全無比な「数」と図」が語る完全無垢の「天地の理」があたりを睥睨し、森羅万象のすべてにわたり作用していることを語っているのである。
 すべては天地開闢の時から存在し、語られていたのである。決して人間が考えたり作りだしたものではない。それらすべては「数」と「図」の絡まりによって語られている「自然の理」であり、永遠に変わらない無窮の「天地の原理物語」なのである。決しておろそかにすべきものではない。

  余りにも偉そうな口を訊いてしまった、私の悪い癖である。ご容赦のほどを…。

 さあ、いつもの「数の語り」に進もう、これは先月の「数の語り」の姉妹であり、双子の理の片割れである。先月の図を再び取り出し、これら二つの関係を心いくまで調査検証してみよう。これらの二つは重なり合い、離れながら何事かを囁いているのである。しかし、恐らくは現代知を鼻にかけている現代人間の耳には聞こえることはないのである。なぜならば、我々は完全に基本軸が異なる世界を築き上げて自己満足しているので、聞こえるものも聞こえないからである。要するに、一つ周波数が違えば、何事も聞こえず、何も見えないのとまったく同じことなのである。

  「神の法陣」の<斜め数>が語る真実を探る

 これも、祝詞「ひふみ…天地の数歌」が「正方図」とあいまって語り継ぐ「天地の歌(真実)」の一つである。そこには何と現代知では思いもよらない驚くべき「数の語る真実」が顔を出し、何事かを囁やいているのである。
 見るがいい、そして解くがいい、今、そのすべてはあなたの手中に握られ、あなたの意中にあるものである。
 出来るなら推察を逞しくし、知を奮ってそこにある一切を知るがよい、要はそれによりあなたの世界をつくり上げることであり、それにより何と人類未踏の「神の領域」を自由気ままに散策が出来ることになるのである…!!。

@ 2次法陣表
1 2
3 4

 ◎対角線をはさんで対称位置にある数を結んで加算する。 楕円を描くように「正」と「反」を結ぶ。
      
     (正) → (反)←であり、運動方向のポテンシャルを示すものである。
    

 (右対角線)…@1(正)+4(反)=5  A32(正)+23(反)=55  

 (左対角線)…@2(正)+3(反)=5  A14(正)+41(反)=55  

 A 3次法陣表

1 2 3
4 5 6
7 8 9

 (右対角線)…@1(正)+9(反)=1  A24(正)+86(反)=11  B357(正)+753(反)=111

 (左対角線)…@3(正)+7(反)=1  A26(正)+84(反)=11  B159(正)+951(反)=111

B 4次法陣表
1 2 3 4
5 6 7 8
0 1 2 3
4 5 6 7

 (右対角線)…@1(正)+7(反)=8  A25(正)+63(反)=88  B360(正)+528(反)=888  C4714(正)+4174(反)= 8888

 (左対角線)…@4(正)+4(反)=8  A38(正)+50(反)=88  B273(正)+615(反)=888  C1627(正)+7261(反)=8888

C 5次法陣表

1 2 3 4 5
6 7 8 0 1
2 3 4 5 6
7 8 0 1 2
3 4 5 6 7

 (右対角線)…@1(正)+7(反)=8  A26(正)+62(反)=88  B372(正)+516(反)=888  C4837(正)+4051(反)=  
          8888 D50483(正)+38405(反)=88888

 (左対角線)…@5(正)+3(反)=8  A41(正)+47(反)=88  B306(正)+582(反)=888  C2852(正)+6036(反)=
         8888 D17417(正)+71471(反)=88888


   <ただし陰(正)は青、陽(反)は赤である。また 陽(正)=陽(反)となる。>

 <この図における(正)と(反)は進行と方向(時間?)の正,逆を指すものであり、「陰」と「陽」と同じものである>


◎「正」と「反」の本質は全く同じであり、しかも完全性をもって存在していることを知ってほしい

 ◎この姿は宇宙大の「神の法陣」までも延々とつながって伸びていくのである、念のため。



解説〔1〕

 易しい事実を一つ示そう、そこに現れた各象の数列の相対比はすべて1:2:3:4…となるものであり、完全な祝詞「ひふみ数列」の現れである。それも二つの対角線に沿ってまったく同じ「ひふみ…」比が歩を揃えながら双対の形で出現していると言うのである。

 何とした驚きであろうか。決して偶然の現れなどではないことがお解りになるであろう。

 そこにはまさに「リアル極まりない真実」、まさに人間知では決してあり得ない「神の真実」が無限に出現し何事かを囁いているのである。それがお解りであろうか…!!?。

解説〔2〕

 更には10次元、11次元、12次元……と続く後続次元ではすべて一桁次元と全く同じものであり、見かけは大きくなるが本質は不変でただ繰り返されて循環しているだけである。その姿は前回の11月の記の〔「神の法陣」の歌う大いなる数の語り〕 (その2)の姿そのままである。信じられない御仁のために例の如く証となる計算を記して置くことにしょう。

(ただし、ここに記したものは代表格としての右と左の対角線のみの数計算である。とくとご覧下され)

10次元……右 1357024681+1864207531=2222222222→20 →(2×9+2)→2
       左 1111111111+1111111111=2222222222→20 →( 〃  )→2

11次元……右 14714714714+41741741741=55555555555 →(5×9+55)→55
       左 32108765432+23456780123=55555555555 →(  〃 ) →55

12次元……右 150483726150+051627384051=111111111111→(1×9+111)→111
       左 753186420753+357024681357=111111111111→(1×9+111)→111

(2×9、5×9、1×9は0、この後の13,14、15次元……以降は自分の手で検証し、納得してほしい)

 そこに現れるのはまさに10次元=1次元、11次元=2次元、12次元=3次元と言う本質のまごうことない現れであり、それがまたもや姿を見せているのである。何と、すべては9次元で終わり、あとは繰り返しの姿があるだけであるとここでも数は囁いているのである。その姿はまさに前回と同様なものであり、数は別証的な計算でも同じ答えを囁いているのである。それは「神の数学」のすべては真実であり、決して矛盾、不整合は一切ないものとのご宣託であり、神のまたとない真実の言葉と考えてもいいものであろう。

 果たしてこのように整然と並んでいる見事な自然数象の表れ、素晴らしい数の証言がこれまでの人類史上にあったであろうか、まさにNOである。これは一つの奇跡的な光景の出現と言ってもいいものである。

解説〔3〕、 解説〔4〕、 解説〔5〕 ……

 これ以降についてはetc、etc(エトセトラ、エトセトラ)である。ゆっくりと楽しみながら自分の手で調べてほしい。どうしてもという方は私の資料を見てじっくり検証しながら考えることである。
 恐らく、これは史上初の驚くべき「自然の知」の存在として燦然と輝くものであり、「陰」と「陽」と言う二元性の存在の確実な検証の現れとして歴史に永遠に残るものであろう。
先月(11月)の「神の法陣」の語りと、今回のこれらの語り(12月)を重ねて見るがいい、すべては完全に歩が揃い、そこには決して矛盾、不整合等は無いことが解るであろう。これらの聖なる数象は我々に何かを語りかけ、何かを告げようとしているのである。
それは毅然盤石とした「天地の法」の存在を開示しつつ、求めるものに与えようとするこよない姿のまたとない現れである。

 まさに、自然の語りであるこれらの「数の物語」は偉大な存在であり、何人も異論をはさめない確たる「自然知」の存在を示すものである。これは単なるサンプル的な計算図であり、すべてではない。心ある方々はこの先、すなわち、6,7,8,9.10…次元へと計算の駒を進め、それらを全体的な見地から俯瞰して見てほしい。それにより更に摩訶不思議な「神の玄業」が次々と目に入り、心は興奮の坩堝と化し感嘆の声を上げることになるであろう。すべて「自然の道」とは自然の発生と共にすでに定められ、すべては決定済みのものである。我々人間はそれに気がつかず、勝手な方向に線を引いて懸命に自己流な知で真理を探し求めようとしているのである。それがすなわち、現代西洋科学文明の姿であり、我々が人類最高の知と誇り、自画自賛してやまない我々の知の姿なのである。<詳細参照「神の法陣」初級(3)>


 最近、どうもノストラダムスの大予言にあるワンフレーズが大変気にかかるのであるが、それは私の思い過ごしなのであろうか、そのあたりをあなた方に問うことにしたい。次のようなものである。「別のものが現れて千年王国を築きあげる」と…。
 この言葉の裏を返せば、すなわち。「別のものが現れなければ世界は20世紀末あたりから破滅を迎える兆候が現れるであろう」である。ニューヨーク工科大学の教授である馬野周二氏は次のように語っている、「その別なものはすでに3千年来出ているのに、ただ誰も、その持ち主さえも気がつかなかっただけである。それがすなわち、「日本の古神道」である。これは決して古く≠ヘない、永遠に新しいのである」と…。
 続いて氏は次のようにも述べている「なぜ、古神道が21世紀を主宰し得るのか、それは古神道は決して神がかりではないからである。いや、それどころか神が懸からないものである。例えば「ホツマツタエ」、「三笠紀」、「象神名文献」にも見られるように、それは何よりも哲理学的であり、天文、物理学的なものである。むしろ近代物理学を先取りし、更に進んでいるとも言ってよい」とも…。

 また、「後世もろもろの「何々流神道」と言うのは支那流、仏教流の神秘思想が流入したものである。古代日本人の頭は遥かに澄んでいたのであるが、後代の我々は変な外来思想で汚されているのである。それにしても古代日本人の思想は実に不思議である、3千年前に何故彼等はあのような物理的世界観を整然とした幾何学構図の中に収めることができたのか、どうしてそこから千古比類のない人倫と哲学を引き出すことが出来たのであろうか…」 「人類文明の秘宝『日本』」馬野周二著より

 恐らく、毎月の私の繰り言を聞いている方々、数少ない純日本民族のDNAを持つ血が流れている方々にとってはまぶしいばかりの言葉であり、心に感動をもたらし勇気を与えてくれる言葉と言えるものであろう。

更に興味をそそることがある、恐らくこれもあなた方の疲れた脳に一服の清涼感をもたらすことであろう。果たして、それが真実かどうかは当の私には判断出来ない、それを見分けるのはあなた方であり、あなた方の鋭敏な直感である。しかし、気になるのは確かである。

 次の資料は「真説ノストラダムスの大予言『黄金の世紀』」…加治木義博著 からの抜粋引用である。そこに記されている予言内容はまさに驚きを禁じ得ない。なぜならば、そこにあるものは「神の数学」そのものであり、その誕生の姿がこと細かく記されているからである。果たしてこのようなことはあるのであろうか…!?。私はただただ唖然とするだけである。
 「神の数学」を古神道から引っ張り出した者として、あるいは「神の数学」を完成させ世に出した本人として、私にはその予言内容をどうしても無視することは出来ないのである。そこで諸氏の決済を仰ごうと意を決してその次第をここに掲載するのである。
 恐らく、『黄金の世紀』の予言だけでは「痴れ者の言葉」、「世迷いごとの笑い話」としてただ笑い去られるだけであろう、この予言は「神の数学」の出現により初めて真実味を帯び、その是が明らかになり予言の真実性が証言されることになるのである。  加治木氏がこの書を出版したのは1990年頃で、当時は「神の数学」は私の手元にあって世の中にはまだ出てはいない時である。要するに、氏と私の接点は何も無い、当然お互いに名前も住所も知らないまったくの他人同士であったのは確かである。


  ノストラダムスの予言内容と「神の数学」を比較対照する


 予言〔1〕 ミレニアム(2000年)から遠くない時「輝かしい真理」の偉大なる発見がある。
      【真相】「神の数学」の発掘は1985年〜1990年あたりであり、それは今までには無かった「輝かしい真理」である

 予言〔2〕 偉大なる真理は西洋には現れず、アジヤの国日本に現れる。(P=26)
      【真相】 
言葉の通りである。従来のドイツ哲学ではなく、東洋的な新しい自然思想形態を持つ超真理哲学である。

 予言〔3〕 それは墓の中の眠りから覚め、やっと正しい理解者に巡り合う。
      【真相】 「その輝かしい真理」は3千年前の古神道の中から現れて、今解読されてここに甦り、私と共にあるのである。

 予言〔4〕 古い文献を他の学者や人の手を借りず自分の力だけで研究し完成させる。(P=86)
       【真相】 古神道の中の古い「数文言」をたった一人で解き放ち、本当の「普遍真理学」を完成させるのである。

 予言〔5〕 不正に陥れられたものが、彼により価値高い作品にされる。(P=107)
       【真相】 長い間、西洋の宗教学者から嘲られていた「日本神道」とは一般宗教とは次元の異なる「自然の知の道」であることが「言葉の秘密(言霊 )」を解くことにより解明され、その内容は世界中に知れ渡るのである。          

 予言〔6〕 ある男が忘れられた古い言葉の研究にうちこんで、それまで世界に無かった世界最初の新らしい学問の創始者        となる。(P=118、140
       【真相】 ある男が忘れられた古い言葉(祝詞?)を研究し、世界に無い新しい学問(神の数学)の創始者となる

 予言〔7〕 その哲学は西洋の哲学とは全く別の東洋的なものであり、最後には世界に広がり支持される。(P=171
       【真相その哲学は現代西洋科学とは全く異なる東洋的な学であり、最後には世界的に広がり、人々は学ぶであろう。。

 予言〔8〕 その人々は聖なる遺物の箱が征服された後で、それをするが、加入については裏切るであろう。(P=93)
       【真相】 アカデミズムは「聖なる遺物の箱(神の法陣)」が正しく解かれた後でそれを学ぶが、正式な学問としては認めない。……。

 予言〔9〕 神の御言葉に本質を与える、空、大地、神秘信者に人知を超えた黄金…。(P=193)
       【真相】 古神道の祝詞の本当の意味を解し、天と地の自然や神秘を信じる人々に驚くべき「神の知」を与える。

 予言〔10〕 予言では「神」、「霊」の存在を第一義にしている。
       【真相】 「神の数学」では「神」が無ければ万象は成り立たない、すべての秩序と調和は崩れ去ると言う。

 予言〔11〕 欲望や感情を抑えるその「法」は日本と中国の共通のものであるが、
              しかし、最後にその「救世の法」は日本に起源があることが解るだろう。
       【真相】 自然の理を伝える「易方陣」は日本と中国に伝わっている、しかし、本当の方陣、すなわち「神の法陣」は
                 日本に残っていたことが判明し、その内容が公表さ
れ世界に知れ渡るのである。

 予言〔12〕 古い言葉を理解し、いろいろ学んでそれまでの人類の道義を変えてしまう、…。
      
       【真相】今までの人類をむしばんでいたそれまでの常識や道徳等を新しいものに変えてしまうであろう。 (p=118)

            <これらは神奈川のT・Y氏からの情報提供、解釈提供によるものである。改めて感謝したい。>

 

 いかがであろうか、まさに予言と驚くべき一致を見ているもの、それがこの「神の数学」である。5百年前にここまで明瞭に未来を予言しているとはまさに驚きである。しかも、日本と言うはっきり限定した国名とその出現時間さえもピタリと言い当てているのである。
 一体全体どう言うことであろうか、まさにそれこそ驚きである。これらによって今までは虚言である、荒唐無稽なたわ言に過ぎないと散々加治木氏の予言解釈をけなし、あざ笑っていた知識人達も改めて真面目に考えることになるであろうし、態度も変わることであろう。

 これは私にとっても大変衝撃的な事実でもあり、なかなか信じることは出来なかったのは確かである。しかし、よく考えて見ると、これらは他の国の人々にとっては今の時点では到底判別不能であり、すべてはまったく意味不明な言葉である。なぜなら、これらはまさに日本人を名指した、日本人宛てのメッセージであるからである。我々日本人がレスポンスしなければ、誰がそれに答え、誰がその予言の真実を立証することが出来るであろうか…!。

 無視もよい、そんな馬鹿なとせせら笑い否定するのもいい、しかし、よく考えて見ることである、無視、あるいは嘲りからは何も生まれては来ない。ただそれは何時しか自分の身に戻って来て心を損ない、人々を自分の周囲から遠ざけて孤独にさせるものである。

 すべては自然流に考え、自然に学んでその通りに行なうことが一番いい。なんせ、自然に比べれば我々はちっぽけな井の中の蛙であり、我々の知とはその蛙の知と何ら変わらないものだからである。我々がめくじら立てて怒鳴っても、泣きわめいても自然は少しも変わることはない、いつもの通りただ飄々淡々と「真実の道」を通り過ぎて行くだけである。 以上。

  〔追記〕

 このたび、加治木氏の別書、「ノストラダムスの大予言」(日本編)を改めて取り寄せて内容を拝見したのであるが、それはまさに驚くべきものであった。何と現在(2011年)の日本の国の現状がそのまま述べられているのである、一つそれを紹介しょう。
 
 その後半の僅か10〜15ぺ−ジの間には次のような大きな見いだしの記事が躍っているのである。

 @ 現在〜2,3年後の未来の姿。 (2011〜2013年)

「日本だけが『快速』好調」、「日本からの援助が絶たれてヨーロッパ破産」、「日本製品は中国製品に負け、繁栄に陰り」、そして「世界市場崩壊、日本にも大不況襲来」、「繁栄の絶頂から奈落の底に落ちる日本」、「未曾有の大不況は“富の偏在”、“世界投資”、“戦火”が原因」、「中国は大転落する」、「日、米が世界経済のペレストロイカ」。

 A そのあとの5年から10年後の未来の姿。(2013〜2020年)
 
 その果てに起こることは「虚脱で死を待つばかりの世界」「“怪物の世界”のような悲惨な生活が待っている」等々であり、そして最後には日本を中心にアジアに「神聖な精神(心)の本部ができる」と言う言葉で締めくくられているのである。
 
 これらは現在の世界、すなわち、2011年以降あたりの世相、及びその後に続く世界そのものの予言であり、確かなものと考えるべきであろう。それにしても、あまりにもリアルで現実過ぎる予言であり、ただただ驚くだけである。、一体…???。
 当時、すなわち1990年あたりでは未だこのような「予言の情勢」は現れずに、世の中は平静を保っていた時代である。それゆえに、著者である加治木氏については罵詈雑言や悪評でいっぱいだったのである。例えば、「解釈や語学力がなっていない」、「その理由は大学や研究機関等には所属していない在野の研究者であり正統な学者ではないからである」などの散々たる酷評があり、挙句の果てには「山師」、「「ペテン師」とまで攻撃されたのである。
 しかし、今になって氏の予言は次々と現実になって来ているのである。さあ、あなた方はどう考えるのであろうか…、歴史はどう始末をつけ、どのようにしてて真実を守るのであろうか…?!。   (完)



  「ひふみ…天地の数歌」が歌う“真理の歌” (12)
                                                  2012年1月謹んで上載



           「神の数学」それは自然の象の物語≠ナあり、自然の象≠フ写しでもある。
              また、神の手で書かれた「自然真実」の壮大な抒情詩物語でもある。
                 すべては数により、厳密なタッチで描かれているので、
                   我々人間にはどうあっても崩すことは出来ない。
                      それはまさに大いなる意識考であり、
                       果てしない「夢幻物語」でもある。
                   それは我々の心とシンクロナイズをしながら
                 神の意識とコンタクトを計ろうとしているものである。
           果たして、我々の心と神の意識は共鳴し、同調状態に入るのであろうか。
        すべては我々の心の刻みかた次第であり、知の持ち方次第によって決まるのである。


 さあ、「ひふみ…天地の数歌」が歌う“真理の歌”」もあっという間に12編まで回を重ねたが、次回からは「古神道の本義」、あるいは「古神道に見る真の日本の真実」について考えて見ることにする。最近そちらの真実詮索を叫ぶ声が数多あるので暫時そちらに移行し、長年探し求めて来た超古代のロマンの真実を改めて見返し、あるべき本当の真実を再吟味することにして見たい。

 神道、及び日本語には余りにも謎が多い、それにもかかわらず今まで誰も真実に至った者、あるべき本来の基本の筋をかいま見た者はいない。すべては由緒不明で現在に至っているものである。
 考えて見ると甚だその根は太く、闇が深いように感じられる。今まで数多の学者により数知れないほど審議が為されては来たが、まったく進まず完全に諦めた状態なのである。 恐らくは調査の基本軸、すなわち、歴史の捉え方の目がずれているのではと思われるのであるが、如何であろうか…。

 これから私の申し上げようとするものは余りにも突飛な話であるので、恐らくは無視されるであろう。しかし、今までの神道学者諸氏の漫然とした神道解釈よりも余程筋が通り、理解出来るはずである。また「数による傍証」も「歴史的な数による理論性」も十分にあるので一朝一夕には誰も崩すことは出来ないと考えている。あとは諸氏の賢明な判断を仰ぐだけである。

 今までの神道学者達はただ「表」の議論を尽くすだけであり、一切背景やその「裏」を覗こうとはしなかった、だからその本質を見い出すことは叶わず、全体的な流れの背景さえも知ることが叶わなかったのである。ただ皆で寄ってたかって「表」だけを見て論議を尽くすだけで肝心なことを見落としていたのである。その結果、不明、不解、行き方知れず、などの言葉ですべては処理されて捨て置かれ、そのままの状態で現在に至っているのである。

 それゆえに、すべては不明、すべては失われて行き方知らずと言う言葉にて終止符を打ってきているのである。考えて見るがよい、本来、国家的な重大な伝承物がそうやすやすと忘れ去られて失われるなどはないはずであり、普通なら到底考えられないことである。そこには何か特別な事情が突然発生したと考えるべきであり、一時的に歴史の中断によりすべては失われ、その後で新しい歴史が改めて生まれたと考えればすべてのつじつまは合い正常な歴史になると考えるべきである。それは恐らく、天災、地災によるものか、あるいは民族の滅亡につながるような異民族の襲来、そして民族の離散滅亡あたりが原因であろう。

 そのあたりを考えながら、新しい目でもう一度復習してみると意外にも簡単に本筋が見え解決の糸口が見えてくるのである。要するに、すべては意図的に隠され、意識的に封じられたと言うことを見いだせば、異民族の侵攻以外には当てはまるものは無いと言うことが分かるのである。そのことを知れば、あとは解くだけ、考えて見るだけである。現代の我々の知が古代人と同等、あるいはそれより勝るものなら解くことは可能であり、もし古代人よりレベルが低ければ解くことは叶わず不調に終わると考えていいはずである。

 さあ、一つそのあたりを確かめてみようではないか。 果たして我々の「知のバロメ−タ」は古代人より勝っているのか、それとも劣っているのであろうか……?!。

 今回は「ひふみ…天地の数歌」の数をめぐるリポ−トの最終回である。いや、すべてが完を見たという訳ではなく、初歩的な意味での大要はひとまず完了するということである。要するに、あなた方も独り歩きして「神の数学」の探索に十分踏み切れるだけの基礎的な力、もはや迷いの無い「数」に対する確固たる信念が生まれ、自分の足で十分に立って歩けるということである。それは同時に「数」と話が可能、「数」の囁きに対応出来ると言うことでもある。

 そのうち、「古神道の本義」の講座が一段落の後また改めて「数の道」に戻り、続きを十分に記すつもりである。その時は更に高度の「数の物語」を披露して、諸氏の度肝を抜くことになるであろう。「数の語り」はまだ端緒についたばかりであり、すべてはこれから始まり、これから更なる佳境に入って「天地の理(あかし)」を囁いて真実の存在を明かしてくれるものである。一時中断だからと言っても決してあなたはここで手綱を緩め、休んではいけない、なぜなら、これは真実を拓く唯一の知であり、これからの世界を導く偉大な「叡智」の現れだからである。  今や、すべてはあなた方の双肩にかかっているのであり、未来への足がかりとなる「知の道」は今、目の前にどっかりと腰を据えあなたを手招きしているのである。

 そのために一つ、面白い「数物語」を披露して置きたい、少しでもいい、あなたはそこに秘められている「神の秘密」をしっかりかいま見、そこにある自然の本義を探し出してもらいたい。決して飽くことなく、真摯な気持ちで数と語り合えば、必ず、何かが直感にひっかかり、思いもよらぬ成果を得るはずである。信念を持って突っ走る、それが若者の魅惑的な特権なのである。今の若者に不足しているものは「好奇心」とそれを追求して止まない「不退転の心」であり、更には「甘え過ぎ」「自信不足」であり、また「向上心」が足りないと言うことである。

 「神の数学」はまことに不可思議な「数の語り」であり、今までは誰も考えたことも無いエキサイテングな「自然の学」を物語って止まない唯一無比のものである。確かに「数学」と名が付いているが、本来、フィジック的な空間物理の考証、自然哲学的な概念を繰り出さない限り、決して自然の持つ正しい答えには行きつかないことを知るべきである。 
 なぜなら「神の数学」とはすべては自然の語る「次元的な空間物理学」であり、同時に「メタフィジックな概念性」をもつ人知未踏のメタモルフォ−ゼ、すなわち動的なゆらぎの姿を持って常にはためいて止まないものだからである。

 要するに次元構造、小から大にいたるまでの階層的な次元構造体の組織的な構造を説明するもの、それが「神の法陣」であり、その構造概念を示しているものである。その姿を明らかにすること自体は甚だ簡単であり、スム−スな数の流れにのっとって考えればいいものである。問題は何故そうなるのかとの理論構築などは今の我々の知では少々難であり、答えは未来に託すしかないと考えるべきであろう。

 次に記す内容一切は「神の法陣」中級講座(5)からの引用である。少々内容的には変わり、初級講座の基本からだんだん実際的な数の姿に向かい始めている。とりたてて内容は高度なものではなく、ただ、応用的に場を広げたものである。小、中学生にでも簡単に理解、あるいは検証もできるものであることは何時もの通りである。

 さあ、「神の法陣」の新しい一つの幕開けを始めよう、そこにある今回の仕組みとは一体何を意味するものであり、何を我々に告げようとしているのであろうか…。

 その真実の答は今の我々の知の体系には無く、故に少々考えあぐむであろう。しかし、別に理解不能と考えずに、理解の範疇にあると考えて探索の歩みを進めてほしい。
 私はそこにある事実を淡々と述べ淡々と書き記していくだけであり、その上でそれに対する私の考えの一端を述べ置くだけである。確かに、突飛な概念であり、現代常識では到底判断の出来ないものかも知れない。しかし、私はそれですべては確定すると言うつもりはないし、真実であるとあなた方に強制するつもりもない。なぜなら、今の人類の知の程度では到底、正しい答えを出すのは無理と考えているからである。恐らくはこの正しい答は次の世代の人々の手にゆだねることになるであろう。要するに、現時点では誰も正しい答えを出すことは不能であり、出来ないと言うことである。したがって、あなた方も出来る限り突飛な空想を頭脳の限り膨らませ、あらん限りの可能性を探って楽しんでもらいたい。それは洞察力を自由奔放に走らせて時空を自在に駆け巡って何かを捉まえてほしいと思うのである。誰にも憚ることなく、誰にも遠慮などはいらないのである。いわば、あなたが先人であり、あなたの世界なのである。

 日本人は突飛な発想とか、思い切ったラフな空想を描くことは甚だ得意な民族である。漫画の世界を見るがよい、まさに天馬空を行くが如き勢いで世界中を席巻しているではないか、すべては類まれな空想力や知力が生み出した現実的にはあり得ないスト−リ−であるが、それが評判となって賑わいを呼んでいるのである。裏を返せば日本人は発想力に関しては世界に類の無い才能をもつ秀でた民族であるとの証明でもあると言えよう。それは同じように物作りの世界、すなわち、テクノの世界でも世界的な評判を呼んでいるのを見ればその非凡なる才能の存在は解るはずであろう…!。

 ただそれに窮屈なアカデミ−の世界や官庁官吏達が絡むとこれはまた事情は一変するのである。たとえそれらを自由に描くことが出来ても、常識以上の発想ならば、それは口に出すことも出来ず、ただ、思いを胸に畳んで置かなければならないのである。 なぜなら、彼等は常識の世界、平均値の世界でバランスをとって何事も考えているからである。アカデミズムの場合はなおさらである、直属の上司、あるいはそこにおける権威者のお伺いをたてて許しを得ない限り決して外に出すのは無理であり、何も言うことは出来ないのである。上司が無能であり、その上司より頭脳の鋭い磨かれた部下の場合はなおさらジレンマが嵩じ、いつしか己の才能を呪い削ることになるのである。それを嫌う優秀な学者達は自由を求めて海外へと活路を求めて飛び出していっているのである。例えば、江崎博士や利根川博士である、日本では仕事の内容が評価されずアメリカに渡り、研究を続けた結果ノ−ベル賞をもらい確固たる位置を築いているのである。その途端に日本でも偉人扱いであり、英雄扱いである。何と言う心の幼い国であり、単細胞的な民族集団の国家なのであろうか…!!。    

 
 これから面白いもの、あなた方がアッと驚く素晴らしい「数のショ−」を紹介しよう。決して「知」の手品ではないし、「数」のマジックでもない。言って見れば、人類が今までに知らなかった驚くべき「数の語り」、破天荒な「数の示し」をあなた方の前に提示して、それをまな板の上に載せてよろしく分析して見ようというのである。
 恐らくこれは未だ知られていない「次元世界」を開くカギを示すものかも知れない、ひょっとするとこれは新しい次元の扉を開けて他の世界を覗き見することになるものかも知れない。是非そのあたりを探りながら、洞察力のアンテナを十分に高くして緻密な検証を行ってもらいたい。

 とにかく不思議で素晴らしい「数」と「図」がからんで見せる見事なファンタ−ジの「数学の真実世界」であり、奇想天外の「数の極めつけ物語」である。出来れば、何度も手でなぞり、目と心で反芻しながら納得いくまで何回でも検証に走ってもらいたい。すべては人類の未来知の存在の可能性を引き出すため、人類知の大いなる未来の発展を支えるためにである。


 「神の法陣」が語る「次元の姿」、その真実とは…?!。


 まずは次に「神の法陣」を掲げて置くので、それを見ながら記述を進めていく。出来ればあなたは記述を一つ一つ指でなぞりながら、それらを心で納得してもらいたい。今のあなた方の技量では十分それが可能なはずであり、理解も出来るはずである。これらはまさに不思議極まりない「数の語り」であり、それにあなたは今タッチしょうとしているのである。それを解くのは直感と洞察力がすべてであり、直感と洞察力のみが開くことの出来る「知の世界」の新たな扉を叩くものになるものかも知れない。これらはまさに史上初めてお目見えするものであり、まさに不可思議な「数の表れ」、すなわち、現代の人間知などでは一切否定不能な「数」の奏でる自然知のメロデイ−である。まさにそれは神の描く驚くべき「知」のトレースの現れであり、現代科学知などではとても対処不可能なものであろう。


《2次法陣》
1 2
3 4

*法陣の要、本髄である2つの対角線を用いる。

<計算の方法>
(右対角)14+(左対角)32=46 …… 1(調和数) ← (4+6)=(1)
+6)=1

《3次法陣》
1 2 3
4 5 6
7 8 9
*上に同じ
<計算の方法>
(右対角)159+(左対角)753=813…… (調和数)  ← (8+3)=(1+1)=(2)

《4次法陣》
1 2 3 4
5 6 7 8
0 1 2 3
4 5 6 7
*上に同じ

<計算の方法>
(右対角)1627+(左対角)4174=5702…… 7(調和数)  ← (5+2)=(7+0)=(7)

《5次法陣》
1 2 3 4 5
6 7 8 0 1
2 3 4 5 6
7 8 0 1 2
3 4 5 6 7

*上に同じ
<計算の方法>
(右対角)17417+(左対角)38405=46813…… (調和数)  ← (4+3)=(6+1)=(8+8)=(7)



 ここには2次、3次、4次、5次の各法陣における計算模様が示されている。同じような計算を続く6、7、8、9、…の各次元に対して行うと次のような数が現れる。

《6次法陣》……570246(2)、 《7次法陣》……8135702(1)、 《8次法陣》……46813570(4)


《9次法陣》……246813570(2)、《10次法陣》……2468135702(2)
、《11次法陣》……46813570246(2)


  「数」の歌う聖なる天地の歌(その1)

 これらの数列を一睨みすることにより、すべては間違いなく「神の数列」、あるいは「神の恩寵数列」であることがお解りになるであろう。なぜなら、全ては大調和を持つ数で成り立っているからである。大調和とは全ての数は同一中心を挟んで対称位置にある数は加算するとすべて同じ数が現れ、同調共鳴状態を見せることである。その際、偶数個のものはそのまま、奇数個のものはダブル処理を行ない、偶数的な存在にすることが必要である。そのような処理した後、これら法陣表の調和数を求め並列に並べるのである。
 疑う者は数列の最初と最後の数を加算、次にはその2番目同士、更には3番目同士を加算してみるがよい、すべては同じ数が現れて来るはずである。これが古神道の「双の仕組み」であり、類いまれな破壊の無い分割法である「宇宙愛」の姿そのものである。

 2次…1、3次…2、4次…7、5次…7、6次…2、7次…1、8次…4、9次…2、10次…4、11次…1、12次…2、13次…2、…その本質の如何、その調べの如何を調和数で見てみよう。

    1 2 7 7 2 1 4 2 4 1 2 ……循環数が続く
      ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ … (右の数から左の数を引く)
      1 5 0 4 8 3 7 2 6 1 …見事な「ひふみ数列」の現れ。

 そこに現れたのはまさしく「ひふみ数列」の秩序正しい数の現れ、すなわち、1 5 0 4 8 3 7 2 6 1…であり、すべては正しいとの「神」の御宣言であり、それはまさに永遠なる真実数列の現れである。

  
「数」の歌う聖なる天地の歌(その2)


 次はそこに現れた各次元の答えをそのまま並べた数の列であるが、それはまさに「ひふみ九九算」の秩序そのものであり、少しの乱れも無いものである。それはまさしくその無限循環のあるべき姿であり、有機的な心を持って行儀よく並んでいる数の姿である。

 ○○46813570246813570246813570246813570246813570……無限に循環!。この○○の中には0次と1次元の数字が入るのである、一つじっくりと考えて見てほしい…!。

 〔答〕 …
 方式通りの計算では1次法陣=1+1=2であり、また、この数列に従うと2次法陣は46であるからその前の1次法陣の数字は2でありピタリと合う。また、その前の0次法陣は0であることは当然である。まさに、自然知は正しい答えを叩き出し、すべては了となって自然の道は開かれ永遠に鎮まるのである。

 すなわち、ここには0246813570の「ひふみ九九算」の数が最初の0から現れて無限循環を始め永遠軌道に入っているのである。それがお分かりであろうか。

 よく見るがよい、これは「ひふみ九九算」にある数列そのままなのである。最初は0、次は2、その次は46、813、5702…と連なる「ひふみ九九算」と完全に一致した数列がここに現れ循環を繰り返しているのである。その数列そのものがこれら「神の法陣」の一つのバックボ−ン的存在である「対角線上の計算」にしっかり現れているのである。 すなわち大切な本骨髄である対角線において何事かを密かに囁いているのである。

 一体この二つの一致は何を示し、何を語ろうとしているのであろうか…!!。

 これらが完全な連結数の姿であると言うことはすべての次元一つ一つバラバラな存在ではなく、すべて本体本筋では完全な連鎖性を持って一つの階層構造的な仕組みで結びついていると言う証明である。すると、次元と言うものは全体が集積重乗し合って全体で一つの次元塊を作り上げている存在なのであろうか…?。要するに、次元とはそれぞれ分離したばらばらの状態で存在しているのではなく、すべてが秩序を持って集積した一つの団塊であると考えていいと言うことである。

  さあ、ここが思案のしどころである。じっくり考えて見ようではないか…!。

 
  「数」の歌う聖なる天地の歌(その3)


 更には別な方法で同じ数列を見てみよう。

2、46、813,5702、46813、570246、8135702、46813570、246813570、2468135702、46813570246、……

 これらはまさに意識性をもってレスポンスを繰り返しながら能動的な状態で存在しているのが解るであろうか。その事実は次のような計算を施すことにより姿を現すのである。すべてはそこにある数の並びがいみじくも物語り、教えているのである。

 まさに、これは自然のあるべき構造を開示しているものであり、単なるランダムな数などではないことを知るべきである。ここには次元事象の「答え」が数の形をもって何事かを我々に囁やき、その事実を教えようとしているのである。

 もう少しこの数列をアナライズして見よう、決してランダムな数の表れなどではなく、完全な意味を持った数が現れるはずである。

 2、46、813,5702、46813、570246、8135702、46813570、……→
 ‖ ‖   ‖   ‖     ‖     ‖      ‖        ‖  
 2  1   3   5     4      6      8         7  ……(上数列のΣ)
   ∨  ∨   ∨   ∨     ∨      ∨      ∨      …(右の数かラ左の数を引く)
   8   2   2    8     2      2       8
    ∨   ∨   ∨    ∨      ∨     ∨          …(右の数かラ左の数を引く)        
    3   0   6    3      0     6   ……→ ……「ひふみ99算」の表れ。

 何とそこには「ひふみ九九算」の306306306…の数が現れて完を告げているのである。すなわち、「ひふみ算」がここに現れたことはまさに真実を突いていると言うことであり、計算の仕方や手法には間違いは無いことを物語るものである。    

 ここで我々の持つ知が問題であると言うことが解るであろう。すなわち、現代知は直線思考の上に立って成り立っている、だから、すべて繋がっているものは直線的な状態で無限に向かって歩みを進めていると定義している、そこに大きな間違いがあるのである。     
 自然をしっかり見るがよい。そこには直線と言うものは一切無い、直線に見えるものは大きく弧を描いて走る円の一部であり、その刹那的に見える一部分が我々の目には直線と見えているだけである。実際には歴史、あるいは時間でさえも大きく弧を描きながら循環を繰り返しているのが本当の姿でである。すべて大自然は繰り返されながら大きく循環し、巡り巡って同一の輪を描きながら永遠(始まり)に向かっているのである。それは小さいものでは原子における電子の回転であり、大きいものでは地球表面のすべての動き、また、宇宙に目をやれば、月、地球、太陽、宇宙、大宇宙のすべては回転、あるいは相互回転の輪をもって循環を繰り返して永遠な時を渡っているのである。それが本来のあるべき本当の大自然の偽りの無い姿であり、真実の姿なのである。

 さあ、十分に時間を取って、上にある「数の語り」を仔細に点検してある程度の真実感を得てほしい。要するに、直観とフィ−リングの問題であり、常日頃の着眼点の在り方、ものの見方がものを言うのである。

 一つ、模範解答を示しておこう。すべては私の見方、考察によるものであり、的外れなところもあるかも知れない。恐らく、答えは一つではなく、複数あると考えてもいいはずである。要するに、数学的に考えるか、哲学的にものを見るか、あるいは神学的な立場ですべてを考えるかによりそれぞれ答えは異なって来るのであり、答えは一つではないのである。そのことは是非知ってほしい。

  
  「数」の歌う聖なる天地の歌(その4)


 本来、自然の真実とは言葉などではなく、全てを「数」で示し、「数」で答えなければならないものである。しかし、その前後の関係を説明するにはどうしても言葉が優先されてしまう、これもまた、今のような数の理解度の未熟な状態では止むを得ないことではあろう。

  2、 4 6、 8 1 3、 5 7 0 2、 4 6 8 1 3、 5 7 0 2 4  6……
  ∨   ∨    ∨ ∨   ∨ ∨ ∨    ∨ ∨ ∨ ∨   ∨ ∨ ∨ ∨ ∨
       2    2 2   2 2 2     2 2 2 2   2 2 2 2  2

 すなわち、その相対的な数の現れの存在比を単純に見てみると0:1:2:3:4:5:6:7…となるのであり、その集積比は02468…となって共に「ひふみ九九算」と言う宇宙根源の数列が現れるのである。すべては渾然不全とした中から共鳴的に相似たものが集まって来て1っの秩序となって現れたもの、それが自然の真理であり、それが永遠に変わることのない「法則」と言うものである。

 
 「数」の歌う聖なる天地の歌(その5)

 
 各次元表から現れた数列を見て見よう

 @ 各数列の最初の数を一つ取って直線的に並べてみょう。

 24854584224 ……その差をとる → 2468135702

 A 各数列の最初から2番目の数を… 

 6176716446 ………その差をとる → 468135702

 B 各数列の最初から3番目の数を… 

 308038668 ……… その差をとる → 68135702

 C 各数列の最初から4番目の数を… 

 2125188………   その差をとる  → 
8135702

  さあ、これらを表にまとめるとどのような「数の語り」が現れるのであろうか。

        2468135702…
       468135702…
        68135702…
         8135702…

             ↓

                つづく

  …このように秩序のある数が何処までも続くのである。大変面白く、順序正しく美しい秩序を持っている数列の出現である。一体何を囁き、何を告げようとしているのであろか…?。一つ考えてほしい。

 
古神道の「ひふみ数」と正方図を秩序正しく絡ませるとこのような規則性をもった数列が姿を現すのであり、それも一つや二つなどではなく、全般的な関わりを持った不思議極まりない数多(あまた) の数が現れて来るのである。恐らく、これは現代数学の一部門である「トポロジ−」の分野と共通性のあるもの、すなわち図形の持つ意識的な現れを追求する定性的な数学形態があることを意味するものであろう。ただ現代数学は未だその事実に気がつかない、まだそこまで到達していないだけである。それは代数学のように定量的な性質とは全く異なるものであり、直感的な形で我々の心に直に伝わって感動を与えて止まないものである。それが本当の「自然の持つ数学」であり、自然の森羅万象と響き合い、語り合うことが出来るものである
 これらすべての「数の語る真理物語」が今、東洋の国、日本に現れて現代西洋科学文明に対してNOを叫んでいるのである。


 現在、「トポロジ−」と言う先端数学分野は完全に思考停止の状態である。何故ならば、とりかかるための手掛かりが何も無い、何も見いだすことが出来ない、だから先に進めないといったジレンマに陥っているからである。ましてや、「数の真実」については何も知らない、「図形の秘密」の存在についても何も知らないと言う状態であり、まさに八方塞がりである。いわば、知らない尽くしで、一歩も進むことが叶わない状態に陥いり、動くことも出来ないのである。

 「トポロジ−」とは形や自然の持ついろいろな事実やその姿を通して本来の大自然の持つ意志、その方向性やその形の持つ意味、すなわち、自然の心、自然の持つ意志を探ろうとする甚だ自然学的な学問であり、自然の思索に基盤を置きながらそれを数学的な表現を用いて新しい知のパラダイムの創造を目指そうとするものである。
 例えば、「トポロジ−」の意図するものには「何故生物は左右対称と言う形をもっているのであろうか…?」、「なぜ、生物は雄雌と言う二つの形で、相互扶助な役割を果たしながら存続を続けるのであろうか…?」、「我々は何処から来て何処へ向かおうとしているのか…?」等の投げかけ等があるが、恐らくその答えは「神の法陣」を探索すれば答えがだんだんに解って来るであろう。なぜなら、すべての「神の法陣」は渾然一体の中で「陰」と「陽」の二元を備えることにより、最初から最後に至るまで完全なる究極を迎えてハッピ−エンドの状態を迎えているからである。

 恐らく、自然の持つ対称性、連続性、循環性、無矛盾性、を通じて本当の自然のあるべき姿、これから自然が向かいつつある未来の在り方などを描き出すことが出来ると考えて設立された新しい学問、それが「トポロジ−」と言う数学部門なのである。しかし、その前途は険しく未だ日の目を見ることも叶わず、今は完全に立ち往生の状態なのである。

 しかし、ここに来て、「神の数学」が現れてそのきっかけを作り、道筋を明かそうとしている、それはまるで「トポロジ−」の出現に呼応するように突然現れて「数」と「図」を用いて自然のつくる「形の道」も明かそうとばかり蠕動を始めているのである。これはまさに時の一致、すなわち、同時生起と言うシンクロ二シテイの現れとも言うべきものなのかも知れない。

 果たして、学者たちはこれに気が付き、調べ始め検証にかかるであろうか、それとも冷やかな目で無視をし、黙殺を決め込むのであろうか…!!?。  <数学の基本編は大完>

 来月より「神の数学3」の<古神道の部>の考察に入ることになる。数字ではなく言葉の牙城と言うものを崩すことは大変難しい作業である。なぜなら、何百年、何千年と言う長い歴史と人の心の垢がこびりついて真実を覆っているからである。何回も、何回もその言葉尻を掴まえてなだめすかして真実を吐かせるしか手は無いのであり、まさに忍耐の限りを尽くした大勝負の感があるものである。それに今の神道言葉と言うものは余りにも人の心と手が入り過ぎて変形した挙句、完全に不透明となり、化石化の状態にあるのである。何とか業を尽くして本当の芯まで立ち入らなければそこにある真実は見えては来ず、大変な始末を必要とするものなのである。要するに、通り一片の考察などでは到底そこにある本当の姿は見えては来ないと言うことである。

 古代へ帰ろう、純な古代神道(縄文神道)の精神の大元までたち帰らなければ最早本当の神道の本質は見えてはこない。  たち帰ろう、皆んなでたち帰ろう三千年前の清明な心の時代まで、そこはまだ仏教や大陸の殺伐とした夷の心が流れ込む前の本来の民族魂の故郷であり、遥かな古代ロマンの原郷とも言うべき心のふるさとである…!!。   (2012年元旦記す)

   次回からは「古代日本の真実」<古神道の部>の記載を検証して戴きたい。
【神の数学本編 6.真理の歌7〜12】