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「神の法陣」大精義講()

偉大な「自然の真実」の語り部達…!!(その4)

              2015年4月上載 

 

今月は日本民族の魂の原点と言われている「古神道」にまつわる最も大切な話である造化三神、すなわち、「天の御中主の神」、「カミ結びの神」、「タカミ結びの神」をの真実を古代の「数の理」で解明することにして見よう。その謂れのすべてはまさに「数」で始まり、「数」で終わるものであるが、今ではその「数の理」の真実を知る人は誰もいない。

まずは、それらの「数」の仔細方々、「数」の真実委細の存在については「先代旧事本紀(AC600年あたりの成立か…?)」の中の「神文伝(かみふみのこととぎ)にも記載されているものである。そのあたりを少々紹介して見ることにしよう。
「先代旧事本紀」とは余り知られてはいないが、天地開闢から推古天皇までの歴史が記述されている歴史書である。
 人によっては「記紀」と並ぶ「三部の歴史書」と言っているが、内容には大変抜きんでていて、我々現代人の目を引くものである。
 ただし、今までは余りにも奇抜で、かつ天外な内容を持つ奇書なので江戸幕府により偽書と断じられ、禁書として散々弾圧されて来た。それは今も昔も同じである、学者達が理解できないものは即、偽書の烙印が押されて完全無視と言う憂目に合うのである。

 

この「神文伝」は聖徳太子御親筆による御文であると伝えられているものであり、古神道の「ひふみ祝詞」、すなわち、「ひふみ天地の数歌」の真実を述べている御文として大切に伝えていかなければならないものである。その一文は次の通りのものである。

 (ふみみち)はここに露(あらは)なり。学(まなびのみち)はここに始まる。その言(のたまい)は「数」にあり。しかも「数」の道は理(ことわり)を含む。その理(ことわり)は、玄(ふかき)を有(たもち)て在り。しかし人はこれを知らじ。これ先天(さきつあめみよ)の伝えなり。

 先天(さきのあめみよ)と後天(いましこのよ)の功(いさお)は合(あいむす)ぶ。しかして道理(ことわり)の経(ふむみち)を字の章(つづり)に言(のたまい)たまう。  (先天=あの世) と(後天=この世)の現象は結ばれることにより、道理の真実が現れて来ると言われている。

 ● 天皇(すめらみかど)の力(みちから)、天皇(すめらみかど)にあらざれば、なんぞ聖人(ひじりのきみ)をして大道(かむながらのみち)を解(ほど)かしめんや。

 ● いずれの世、いずれの人がこの文を宗(たっと)ばざる。この道を学ばざらんや。

 ● 道は上天(たかあまはら)の有(たもち)なる故に、皇天(すめあまつかみ)はこれを悟らせたまい、その理(ことわり)をもって発言(ことあげ)したまいて二大神(ふたりのおおかみ)に給う。  …  「神文伝(かみふみのこととぎ)」より

 

  さあ、これらの文言を頭の中に入れながら古神道の言葉の内容を眺め、一つパラフレ−ズを行って見ることにしょう。概して、古典、経典の類にはストレ−トに意味を表すものは少なく、大部分は意味が隠されたままで代々伝承されているものである。要するに、どうにかして、古代と現代の間の長い亜空間を横切りながら意思の疎通を図らなければならず、そのためにはどうしても「言葉」や「数」の置き換えが必要なのである。要するに、それは「現代数学」のような定量的な数学ではなくトポロジ−的、すなわち、定性的な位相数学のような面を持っている事が多々あるからである。
                              (トポロジ−…… 図形や記号における空間的な位置関係、あるいはその意味を問う定性的な数学)

 恐らく、数千年、あるいは数万年を経ることにより、古代の言葉(文字も含めて)と現代の言葉には大きな変化が見られることが多く、文字通りのストレ−トな解釈は無理と言うものである。そこで何とかコミュニケーションを成立させるために用いられているものが、このパラフレ−ズ手法や言葉の置き換え等である。 

例えば、ユダヤのカバラの数秘術における表現技法などもその一つであり、古代日本でも盛んに用いられていたと考えられる。

  古神道の言葉で誰しも真っ先に浮かぶのは次の造化三神、すなわち、「天の御中主の神」、「カミ結びの神」、「タカミ結びの神」の名であろう。これらの三神は自然宇宙を創り上げた後に「見えない世界」に隠れてしまったと古代神話では語られている偉大な「神々」である。

要するに、この三体の神々は天地開闢の際に高天原に最初に出現した神々であり、始原の神の姿であると「古事記」には記されている。

 なかんづく、「天之御中主神」は天地開闢(カイビャク)の時、宇宙に一番最初に出現し、高天原の主宰神となった主神(スシン)の名である。 それはまさに名前が示すとおり宇宙の真ん中に在って全ての場(あの世とこの世)を支配する神で、日本神話の神々の筆頭に位置づけられている「大神」である。しかし、その知名度とは裏腹にその本当の姿を語っている神道書と言うものはまったく何もない。

確かに、この神の素性、その働きについては一切語られてはいない。ただ、「天の御中主の神」とは一度だけ語られている孤独な独り神であり、すぐさま姿を隠したと古書には記されているだけである。この神はその文字名の示すように左右対称の姿を持つ神であり、宇宙の中心.場に位置していて、その左右に「カミ結びの神」、「タカミ結びの神」を従えている「大神」であるとだけ伝えられている。

  そこですなわち、これらの神々の名をパラフレ−ズすることにより、何とかその素性、あるいはその働きを探し当てたいものと長年思っていたのであるが、やっと今回、陽の目を見ることが出来たのであり、まさに嬉しい、嬉しいの一言である。

 

考えて見れば、古来からの神道学者達は何も考えようとはせずに、ただ文字通りの解釈、すなわち、漢文字の内容から追求をして、それで良しとして来ているのである。それ故に、陰に隠されている真実、あるべき真実は決して現れることは無かったのである。本来はその隠されている真実こそが大切な本髄と言うものであり、真実を暴き出す鍵となるものなのである。

その挙句、日本神道は世界の宗教家達からは軽んじられ、軽侮の目を投げつけられてもただ尻尾を捲いて下を向くだけであり、何も言うことが出来ないのである。
 ただただ、雌伏していくら待っていても本来在るべき古神道の「隠された叡知」は現れなないのであり、いくら学んでもその真実には辿りつかなかったのである。

ああ、何と情けなく、不甲斐のない有り様なのであろうか、ああ、ほんとうに情けない…!!?。

 

考えて見るがよい、そのための反駁資料となる文献の一つが上述の「神文伝(かみふみのこととぎ)」であり、『先代旧事本紀』の中に含まれているものである。その内容は現代の学者諸氏には理解不能な内容であり、唖然とするばかりの輝かしい古代言葉の連なりが気を吐いて鎮まっているのである。それらは、まさに深みを持つ実のある言葉の群であり、その言の葉の次第は何回も、何回も心して読むにつれて次第々に解って来るようになるものである。

要するに、これらの古代言葉はある程度パラフレ−ズしながらその意味を考え、再度組み立てを行わない限り、我々現代人には甚だ理解し難いものなのである。  通りいっぺんのような読み方で埒があくようなものでは決してないと心得るべきである。 少々例を見て見よう。

 

 ● 皇天(すめあまつかみ)の言(のたまい)は大神の書(みふみ)なり。最(いと)も微(こまやか)なり。その言(のたまい)はきわめて博(ひろ)く、しかも二元(あめつち)を総べ、萬世を統(すぶ)るなり。

 ●   神文(かみつふみ)は甚だ蜜(みふかき)なり、その文の表(おもて)は、ただ数の音のみ、しかして訓(おしえ)無し。これ神代(かみつよ)の字(ふみ)が法(のり)なり。文の裏(うら)には、語(かたらい)を含めり。故に理(ことわり)有るは韓(から)が貢ぎの字(ふみ)の如きなり。

 

今の日本の若者たちにしっかり読んで理解してもらいたいような素晴らしい内容である。これが数千年前に書かれた古代の書の一節と言うものである。

ちなみにこの意味をハッキリと解し、飲み込めるような現代人の若者はいるのであろうか…!!?。恐らくは否であり、ただただ尻込みするだけであろう。如何かな…!?。

 

それでもあなた方は数千年前の古代人達とは無知蒙昧な人々であったと言うのであろうか…!!、 私に言わせると現代人より遥かに知的であり、自然的な心情の所在をシッカリわきまえている素晴らしい頭脳の持ち主であると思われるのであるが…、如何かな…!?。

流石は、世界に誇る日本民族の輝かしいDNAを所持していた先祖であり、物事をよく弁えている高意識を持ち合せている民族であることが十分に伺える。
 これをして、未だ知能の低い未開の原始人に過ぎないと言う歴史学者は一体何を根拠に判定を下していたのであろうか…!!?。まったく理解に苦しむ。

要するに、そのような素晴らしい知のDNAを持っていた古代の祖達の存在を知ってもらうと同時に、そのような知の持ち主達が、なぜあのような稚拙とも言うべき「神話物語」、すなわち幼児に読み聞かせるような内容を持つ「古事記」と言うものを書き残したのであろうか…。

また、これらの二つ、すなわち、「古事記」と『先代旧事本紀』は殆ど同時代に記されたものでありながら、余りにも内容や表現言葉が著しく異なり、いわば、月とすっぽんの違い、大人と子供のような違いがあるように思はれるのであるが……!!??。 そのあたりは如何であろうか……!!??。

 

そこで考えて見るのである。この「古事記」と言う神話物語には何か意図的に隠されているものがあると…、すなわち、一般人には不必要な「驚くべき叡知」の類が隠され、埋め込まれているのではないか、それ故に真実を隠しながら故意に「神話的な物語」として編まれ代々語り継がれて行くことを願っているのではないかと……!?。 さあ、そのあたりをシッカリ考えて貰いたい…!!。

何故であろう…!??、  そこにある隠された意図とは一体何なのであろうか…!!?。

  物語に沿って考えを巡らして行けば、恐らく何時かは真実に突き当たることであろう、そのように思いながら「神の数学」の手法を用いて次々と「数」打ち込んで行くと、何と、そこには思いもよらない真実、嘘のような驚くべき事実が待っていたのである。

 それが神話伝説にある天地開闢の際に高天原に最初に出現した三神の真実姿の出現であり、そのこよない真実を持つ大いなる「数の証言物語」であったのである。

  まあ、現代知を旗印に日頃邁進している諸氏には恐らく、馬鹿にされるであろう、または色々と御託を並べられ、罵られるであろう。しかし、それは十分に覚悟はしている。しかし、これを否とする根拠は何もないはずであり、否とするには根拠、しっかりした証拠と言うものは一切無いはずである。しかるに、この「数」で語られる真実と言うものは強固一徹そのものであり、突き崩すには甚だ困難を伴うものであることは十分に知っていて欲しい。

 

しかし、そこに燦然としてまばゆい姿で現れ出たのはまさしく天地創成の際の三神の姿であり、確かに名前文字の由来通りの由緒を持つ神々、すなわち、「天の御中主の神」、「神産巣日神」、「高御産巣日神」の姿であったのである。まずは天地開闢の際に高天原に最初に出現した神である「天の御中主の神」 であるが、要するに、これは次の「神産巣日神」、「高御産巣日神」を生みだす要因となった大いなる「母神」と言うことになっているのである。

 

 

次のムスビの神、すなわち、「神産巣日神」、「高御産巣日神」は古代の呼び名に漢字を当て嵌めたもの、何かの事情で止むにやまれず音読み的に作りあげられたものと考えるべきである。そのあたりの事情は推して知るべし、歴史を知る者にとっては知らなければならない歴史上の大事件と言ってもいいものである。

これを一旦解(ほど)いて置き直す必要があるのである。すなわち、「神産巣日神」、「高御産巣日神」の発音だけを取り出し、「カミムスビの神」、「タカミムスビの神」カナに置き換えて見るのである。何故なら、これらは神道古書において色々な漢字で書き記されている「神」であり、必ずしも「神産巣日神」、「高御産巣日神」の漢文字にこだわる必要はないからである。ただ、色々な神を生みだした大元なので「産巣」といった意味のある文字が使われていることには注目すべきであろう。

要するに、「ムスビ」とは「結び」であり、結合すると言う意味である。結合すれば様々のものが生まれてくるということから、森羅万象のすべてを産み出す行為を示している言葉として用いられていると考えていいものである。この「結び」の文字は神道古書にも記されているれっきとした神文字でもある。
 また、「カミムスビ」と「タカミムスビ」とは「神」ともう一つの「神」、すなわち、タは他、もう一つの「神」を指す言葉であり、その二つの「神」を結ぶことを察すればすべては了となるのである。要するに、大切な意味がそこには密かに隠されているのである。

 

要するに、何か大変な有事の際、すなわち、国が滅び去るような大事が発生した時に、失われることを恐れて同じような読み方ではあるが、意味の異なり無難な漢字に書き変えて保存に努めたか、それとも幼児的な内容に変えて敵の目を誤魔化したと考えられるのである。

すると、紀元前後あたりに膨大な数の大陸からの敗残兵、すなわち、中国の度重なる王朝の崩壊時に発生した数百万人の敗残兵達が命からがら海外に逃れたと言う事実が生きて来るのである。史書は言う、王朝が崩壊し、新しい王朝が起る度に数百万人の敗残兵とその家族達が殺戮を怖れて国を後にしたと…。
 何故ならば、新しい王朝は前王朝の痕跡の一切を跡形なく潰し、人心の一新を図るのが常であったからである。
 それこそ、前王朝の匂いのするもの全てを打ち払い、関係のあった人間はすべて殺戮して後々の憂いを絶とうとするのが平生の習わしであったと言われていたのである。

それは秦の始皇帝王朝あたりから始まり、三国時代、隋、唐、元、明等の勃興期には人口が半減するような事態、すなわち、何千万の人々が行く方不明になる事態が何度も起こっているのである。何せ、漢民族と他民族とのせめぎ合いの末に、めぐるましいばかりの王朝の交代がそこにはあったからである。    
                                                               (出典……「中国人口の歴史的考察」…イヴァン・ザハ−ロフ著より)

例えば、DC240年の後漢の時代における人口は5,650万人であったが、後漢亡びた220年には何と一割に近い750万人に激減しているのである。その差は計算してみるがよい。あなた方は信じないであろう、しかし、つい最近の出来事、すなわち、今から40年前の文化革命(1970年)では自国民に対して大粛清が行われて数千万人が虐殺され、20数年前()の天安門事件(1989年)では数百万人が殺害されているのである。それは当時の報道を見ればよく判るはずである。

恐らく、王朝が倒れる度に、何千万という数の敗残兵達は神々が住むと言う海の向こうの蓬莱国(日本)を目指して船出したと思われる。何故なら、秦の始皇帝のブレインの一人である徐福達が「蓬莱国(日本)」は文明がとてつもなく高い国、至福極楽の国であると喧伝し、その噂が広まり、人々は夢にまでも見ていた憧れの国であったからである。あの孔子でさえ海を渡って日本に行きたいと嘆いていたと史記には記されている。

その証拠に、日本の歴史の専門家達は紀元前から紀元後にかけて当時の縄文人の人口は少なくて9倍。多い場合には25倍の外来民族が来襲、移住したことが、当時の突然の人口増、すなわち、世界の歴史には無いほどの突然の人口増はそれが原因であるとハッキリと断言しているのである。

また、日本の古代歴史書にも日本は崇神天皇の御世のBC95年に完全に漢軍に占領され、天皇は三輪にあった天皇の新居を明け渡し、穴師に移られたと記されている。 でも、そんなことは歴史では一切教えない、歴史家達も口外することはしない。

このように占領軍達は勝手気ままに神代カナ文字を抹殺して公用文には漢字の使用を命じ、それによりて漢字文化が一気に花開いたのである。それにより神代文字の日本文化(縄文文明)は終わりを告げ、弥生文化はますます強化されたと古代史には記されている。

要するに、これが今までの教科書では国の体面を重んじて、一切教えなかった日本の本当の歴史なのである。  ……「神代の万国史」より

 

これ以前の神道を称して「古神道」と呼ぶのであり、まだ仏教や儒教等に汚染される前の古代から伝わる純な本来の「神道」を指すものである。覚えていてほしい。

 

つまらない蘊蓄を並べ立てていたので、すっかり本旨を忘れていた、ごめん、御免…!!。

 

要するに、なぜ漢字を用いて本来の真実を隠そうとしたのか、誰に対して隠そうとしたのか、そのあたりの委細を明々白々にして置かなければ中々信じられないからであり、これらはその説明である。 その仔細一切を明らかにするものが「神の数学」の中に存在している事実があるのである。それが摩訶不思議な「数の道」の存在を指し示している「神の法陣」であり、そこにある神妙な「数の仕組みの神妙な物語」なのである。

それを今回ご披露申し上げるつもりである、今まで何度かそれに類する秘密を少しづつ洩らして来たのであるが、誰もその真実までは到達する者はいなかった。

要するにしっかりと真面目に考え「神の法陣」をいろいろアナライズしようとした知に長けた者はいなかったということであろう。少々気落ちした感じである…!!。

 

さあ、例によって何時もの通りの「神の法陣」の表を掲げて置くので、参照されたい…!!。

とにかく、驚くほど易しくて、驚くほど内容の濃いものと言って置きたい。要するに、あなた方常識人には中々理解し難いものであるが、小、中生には簡単に解るものである。

 じっくりと上に掲げてある次元表を見ながら考えることである。考えることを習慣とすると常に脳は活発に動き、脳ホルモンの分泌が増すと同時に体のバランス自体も大幅に改善されると思ってほしい。考えて、考えて常に脳と体のバランスを取って考えに及ぶと何時の間にか病や、体の不調、不具合は嘘のようにあとかたもなく消え去り、一気に健康を取り戻すことが出来るのである。是非、知っていてほしい。 意識、強い心、それはすべての禍々しいものを押え、体と心を健全な状態に戻してくれるものである。あなた方は知らないであろうが、心を強く持つこと、何事にも動じない心を持つことが、やがては健やかな健康な体を生むことになるのである。

  そもそも、体と言うものは一部分が良くなれば、それは即、体全体に響き、全ての部分がそれに沿うように次々とよくなって行くのである。その中でも最も大切なものは「意識」、すなわち、気持ちの持ち方である。気持ちの持ち方次第では病も逃げ出し、常に健康な体を保持し、かつ人生を謳歌することが出来ると言うものである。

     ホイ、また口が滑ってしもうた…!!、まことに私の悪い癖…!!。

  要するに、次元場を二分する対角線を中心にして「陰の場」と「陽の場」となる二つの対極場が形成されるのである。それは自然界の全ての象の持つ普遍の象であり、あらゆる事象に当てはまるものである。 それは、小さい存在である自然磁石にしても然り、我々の住む大きな存在である地球も同様である。自然のすべては「陰の場(−)」と「陽の場(+)」の対を持って存在し、当然一方から他方へと循環的に自然のエネルギ−は流れて安定状態を生み、永遠な存在となるのである。  

要するに、宇宙に存在している森羅万象はすべてそのエネルギ−と力とを受けて治まり、安定しているのである。 それが一つの完全な物象体としての存在なのである。

 

 
 
要するに、「古神道」における「天の御中主の神」とは中心を司る「神」、すなわち、中心場である中心線、あるいは対角線場(中心)を指しているものである。 また、「カミ結びの神」、「タカミ結びの神」とは中心線、あるいは対角線場で2分された二つの対極場を指しているものである。 要するに、「陰の場」と「陽の場」と言う二つの相対的対極場を結ぶ(循環する)ことによりすべては平衡がたもたれ永遠に安定状態に治まることが出来ると言うことである。
 
 それが「カミムスビ」と言う言葉の本当の意味のであり、漢字言葉の裏に隠されていた本来の真実内容を語って止まないものである。要するに、宇宙自然においての森羅万象の現れの真実とは「陰場(−)」と「陽場(+)」を相対的に循環することによって中庸性を得て存在化に至る、すなわち、顕在化になると言うことである。現代西洋科学の知はまだそこまでは到達してはいないのであり、まだ万象存在の理を極めるところまでは行っていないのである。今やっと、「陰場(−)」と「陽場(+)」はそのままでは共存が出来ない、必ず、その二つの場の間には中庸場を置かなければ事象としては顕在出来ないことを見出したところである。それが湯川秀樹博士の物理理論である中間子理論と言うものである。

 
 要するに、古代の祖達は比喩例えにより易しく噛み砕きながら自然の成り行き、あるいはその姿やその教えを人々に教えようと図ったもの、それが「神話物語」と言うものなのである。


 下記の「数計算」は上記の「3次元方陣表」、「4次元方陣表」、「5次元方陣表」の数の流を見ながら取り上げ、計算をしたものである。 願わくば、1ヶづつ「数」を拾い上げ、その流れを確認しながら検算して貰いたい。全ては自然の数の流れであり、その流れの中で展開されている「自然の本質物語」のハッキリした存在と言うものである。

                  図面喪失…!!!。

 

これらは現代の知識人達は夢想、予想もしていなかった強烈極まりない事実そのものであり、学者達が周章狼狽するばかりの現実の自然の現れと言うものである。 しかも、現代人間知がいくら取り繕っても最早どうにもならない自然の真実の現れであり、その本性の表れと言うものである。

要するに、現実には逆らうことは出来ないと言うことであり、従うのが最善の道と言うことである。素直に教えを乞いながら、素直な気持ちで学ぶべしと自然は言っているのである。

 

また、これらの事実は現代西洋科学知に対しては基本的な概念が完全に異なるものであり、の存在理由について考えを巡らしたことのある者でない限り、現実的に認めることは出来ないものである。要するに、現在の学者には理解可能な者は皆無であると言うことになるのである。なぜならば、彼等は「神の数学」の初歩数式である(9=0)の仕組みさえも解すことが出来ず、ただただ、うろたえ、逃げ回っているだけであるからである。

 

  

   


  ただし、この(A)(B)の場合、(A)と(B)は90度位相の異なる関係にあるのである。要するに、互いに相対的な位置、すなわち「陰(−)」と「陽(+)」の関係にあると言うことである。それはすなわち、(A)と(B)は相対的に(−)と(+)と言う対逆の関係にあると言うことである。

要するに片方が(−)なら、他方は(+)と言う相対的な相互関係を持っていると言っているのである。

故に更にこれらに続く次の(A)(B)の加算には必然的に0が現れ、すべては最後には始原に還ることになると言う自然の姿をを示しているのである。それは要するに、自然体はすべて循環態であり、終わりは始まりとなって終始循環して永遠に繋がっている、それが自然の本当の姿であると「数」は言っているのである。知に敏なる者、知に悟い賢者はこの言葉にしばし、耳を傾けて貰いたいものである。

 まさに、これは「数学の言葉」による答ではあるが、同時に、そこにある理は「物理」、「哲学」、「神学」の分野にも介在して、全体的な論理構成、内容構成に繋がっていなければならないのである。それは上記の「数の語り」でお解りになるはずである。
 要するに、自然とは人間知のように分野別にわかれているのではなく、基本的には一つの「学」であり、あるべき答は一つであり、一つだけでなければならないのである。だから、「物理学の答」と「哲学の答」、そして「神学の答」はどれをとっても同一な姿であり、同一な内容でなければならないと言うことである。 少々難しいかな…!!??。

 

何と言うことであろうか…!!。自然の在り方はここで完全に極まったと言うことである。 今まで誰がこのような確とした「数の走り」の存在を予想した者はいたであろうか…!!。  すなわち、各「陰場」と「陽場」の…3数、2数、1数を結び終わり、次の何も無い場を結ぶ、すなわち、「神(0)」の場同士を結ぶと必ず0の数が現れてくる不思議があるのである。その事実は「神の法陣」の大きさを無限大まで伸ばしても結果は同じなのである。疑う方は試みるがいい。要するに、そこには人知の及ばない不可思議な何かが存在しているのである。簡単な事であるが、そこには驚くべき究極の真理が潜んでいると言うことである。さて、はて…!!??。知を誇りとする者達よ、見出すがよい…!!!。

すべては天と地の秩序正しい流れを持つ「数の結び」の形であり、天地自然の間に存在する「大律」の確かな存在を物語って止まないもの、それが「古神道」であり、その奥儀と言うものである。

 

すべては、祝詞「ひふみ天地の数歌」の出現により見事な形でフィナレ−が飾られていることに気がつくであろう。また、直感力に秀い出ている方は、即、次の事に気付き、ただただ唖然となることは請け合いである。まさに「数」の偉大さ、その比類ない確かな姿には、ただただ、目頭が熱くなり感涙に咽ぶだけである。

すなわち、ここには最外側の単数の計算答の示している答はすべて1か、それとも8の数であると言う厳然とした事実が示されているのであり、それを更に遡ると次の答には必ずが現れてジ・エンドとなると「数」は語っているのである。 なぜならば、 はすなわち神を表す自然の持つ究極的なシンボル記号であり、ここで人類は初めて「神」と言う自然的な存在に現実的に出会うことになるのである。 さあ、その真意と果たして何を語るものであろうか…!!。  心のある者は、まさに学ぶべし、学ぶべしである。

要するに、誰でもこの手法を用いることで「神」と言う存在に突き当たることが出来ると言うことであり、「神」の本性さえも探ることが出来ると言うことである。 遥か古代から人類が求めて来た「神の真実」と言うものにやっと出会うことが出来ると言うものである。

恐らく、古代の祖達はこの事実を知っていたのであろう、その証となるものが「神上り」、「神成り」の言葉の存在である。現在の我々はこれらの言葉の存在は知っていても、その意味内容に至っては誰も知る者はいない、それが本当の事実なのである。    

 

 しかし、これらの「数の歌う自然物語」は現代人にとっては在ってはならない事実なのである。なぜならば、これらの「数の物語」が真実であると認めると「現代数学」の基盤は脆くも崩れ落ち、再び最初から「数」の基礎構築、理論構築に走らなければならないからである。

しかし、これらは現実に否定することは、これまた、不可能であり、由々しい事態を招くことになりかねない。果たして、どのように結末を締め括るのであろうか…!!??。

 

これらの「数の語り」は「自然の写し」そのものであり、我々の意識と重なってシンクロナイズしながら何事かを語ろうとしているのである。
 果たして、我々は何時の日かその真実を掴むことが出来るようになるのであろうか…!!??。

 

考えて見ると、これらの「数の囁き」は今までには無かった史上にも稀な「壮大な意識考」であり、数が描く「果てしない夢幻の物語」と言うものでもある。

果たして、我々はこれを解き放ち、見事に「神の持つ真実」に辿りつけることになるのであろうか…!!??。そして、それは何時の事であろうか…!!??。

                                                                            今月(2015、4月)の記 完

 

889脳幹

直感ち

  

「神の法陣」大精義講()

偉大な「自然の真実」の語り部達…!!(その5)
  
     ∴ 遥かなる0(神)を求めて…!!!<1>                    2015年5月上載 

   

    

 「神の法陣」は易しくて難しいと言う一面を持っていることはよくお解りであろう。

要するに、解き放つのは簡単、すなわち、「数」の言葉を理解することは出来るが、その言葉の意味、すなわち、そこに潜む本当の自然の姿(真理)を垣間見ることは中々難しいのである。 なぜならば、我々の持つ「現代知」は自然の持つ「自然知」とまったく異なる形態を持っているからである。 しかし、誰もそのことを知らないのである。       

それ故に、自然の知と異なる知を持つ我々現代人は中々その存在を認めことが出来ず、自然の本性、本質を見出すなどとはまさに至難の極みと言うべき状態なのである。

 要するに、「現代の知」と「神の知(自然の知)」の間には基本的な考えにおいて大きな隔たりがあり、我々人間はまだ十分なる「自然の知」を理解するだけの能力を持つには至ってはいない、それがそもそもその最大の要因となっているものである。

 

 「神の数学」、それは宇宙創成の時期から長きにわたり自然を創り上げるための連綿と用いられてきた「自然の数の仕組み」を語るものである。すなわち、それは自然の持つ「自然数学」であり、それを用いることにより、初めて自然の理を解き放つことが可能となるのである。

  そもそも、「自然」とは「神」の関与があって初めて成り立つものであり現代西洋科学のように自然界から「神」を追放した「神無しの知」では、あるべき自然の真実を掴むことは叶わず、やがては自然に翻弄されて遠からず滅びて行く運命にあるものである。

  私が常に主張して憚らないもの、それは超古代における日本に存在した「神」の名の下に記されている超自然的な諸々の記述である。それは古神道の祝詞に始まる種々の神話物語、更には常識では考えられないような「超古代文献」の内容の存在である。 それらの指し示す過去の虚空の一点は明らかに日本の遥かなる過去に栄えた大いなる超文明の存在を指し示しているものである。しかし、誰もそれを知らない、信じようともしない。

よく考えて見るがいい、現在、日本は今までの世界歴史にも無かったような驚くべき短時間で世界の大文明国となり、なおかつ大国を抜いて華やかな大文明の恩恵を国民は享受していることを…!!。
 これに対して我々日本人は自分達の不断の働き、不屈の精神が作りあげたものと思っているようであるが、それは甚だ身勝手な幻想であり、不埒極まりないど素人の考えと言うべきものである。

そもそも、現代における日本発展の温床となったものは、何を隠そう、大いなる過去に花開いた日本超文明の存在である。その過去の存在こそが今、シンクロ的に同調共鳴して現在の日本に大きな影響を及ぼしている、そう考えればすべては納得が行くのである。 これは有名なフランスのユングが唱えているシンクロニシテイ、すなわち、過去との時の一致と言う理論である。要するに、過去に起きた現象は、必ずシンクロニシテイ的な時の一致作用により未来において再現されると彼は言っているのである。

確かに、現在、日本超古代文明の影はまったく失われて無い、しかし、それは民族の持つ大きな「無意識」の流れがある限り、必ず時を得て再発現し、歴史的な再生を果たす、すなわち、民族としてのDNAがある限り必ず芽を出す時が来ると言うことである。それが今なのである。

 

さあ、御大儀な説明、自己満足のための方便策に過ぎない話とあなた方は言うかもしれない。しかし、今はそのような事を議論している暇は無い。しかし、何時の日にか改めて詳細な真実を語らなければならない日が来た時にその仔細一切を改めて語ることにするつもりである。

今回は「神の法陣」を別な角度から解体し、仔細を見てみよう。ひょっとすると、そうすることにより、あなた方も少しは理解しやすくなるのではないかと思えるからである。

真摯な気持ちで「神の法陣」の中の本質を見極めたいならば次の様な一手もあるのである。要するに、今回は「神の法陣」の外に「0(神)」を置いて結果を見た場合、すなわち、「神」が存在すると考えて考察を進めた場合に、果たしてどのような結末結果が待っているのか、そのあたりを一つあなた方と共に検証して見よう。 すべては「数」の流れが語る「永遠の真理」であり、「神」の御業の確かさを歌い上げて止まない「数の語り」と言うものである。

 

要するに、我々が図の中に「神」を置いた場合、果たしてすべてはご宣託のようにスム−スに事は運ぶと言うような御利益があるのであろうか…!!?。 その場合、逆に「数」の流れに水をさす様な動きが見えれば現代西洋科学の「神無し文明」はまさしく正しいものであることが証明されるのである。しかし、逆に「神」を置くことにより、更に「数」の語る真実味が増すならば、それは「神」と言う存在が自然界には存在している証拠であり、自然の流れを支えていると言うことになるのである。そのあたりの判断をこれからあなた方にお任せしたい、出来る限り、公平で忌憚のない判断を一つお願いしたい。

 要するに、これは「神の心」と我々の人間知との一騎打ちであり、当然、「神」の側に軍配が上るのは重々承知はしている、が、その表現過程や論証過程と言うものが大変面白いものがあることをここで知って欲しい。

 

我々は過去の大いなるミス、すなわち、「神」を省いたままで押し進んで来た現代西洋科学に将来性はあると考えてもいいのであろうか…!?、それとも、現在のような袋小路に入って退くも進むもままならない状態であることをハッキリ認識し、新たに進むべき方向を再思索することが必要なのであろうか…!!。

要するに、これからの将来を「神」を戴き、自然と共に歩むべきか、それとも相変わらず自分達が作りあげて来た独自の道を今まで通りに歩んで行くべきなのであろうか…!!??。

果たして、進む方向をどちらに持って行くべきなのであろうか、今がその正念場であり、その土壇場と言ってもいい時である。  

 さあ、これからあなた方に伝えようとするものが、すなわち、「神の法陣表」に現れた「神の理」であるが、果たしてそれはどのようなものであり、そこにはどのような真実が潜んでいるのであろうか…!!。

 是非、あなたの頭と手をフルに用いてこれらの数で画かれた「神の言葉」を解いてもらいたい、すべては図形と数が描く「神の真理」であり、絶対的な普遍の「数の語り」と言うものである。

 

「神の法陣」の語る大いなる「天の秘密」

すべては自然の理であり、その理の証を「数」が示しているのである。


   
左右の二つの対角線数の加数は同じ、それと同じ事が左斜場と右斜場にも起こっている…!!。

 何と言うことであろうか、まさにこれは「神の真理」と言うしかない…!!。とくと、ご検証あれ…!!。


 

               一部図面喪失…!!!。

   

  


 はて、何としたことであろうか…!!、図のように「0(神)」を図の最初と最後に置くことにより、全体の構図がキリリと引き締まり、見事な全体的な調和が完成するのである。そこで思いだすのが聖書にある「神」の言葉、「私は最初であり、最後でもある」の言葉であり、まさに真実を突いたものと言えよう。

ここにある「右斜場の数列」と「左斜場の数列」は「現代数学」の目にはただただ「ランダムな数の走り」としか見えず、何ら真理と関係があるようには見えない。ところが、それぞれの数を加算すると驚くことに何と、「右斜場の数列(陰の数列)」=「左斜場の数列(陽の数列)」と言う厳然とした答がここには現れて来るのである。しかし、よくよく考えて見ると、まあ、当たり前な事なのであり、至極当然なことである…!!。その理由を考えて貰いたい。まあ、馬鹿馬鹿しいものではあり、小学生にでも簡単に判る理由である。

 

要するにその姿は大分前に説明した「神の法陣」の二つの対角線上の数の総加算数はまったく同一値であると言う「数の決まり」とまったく同じ現象がここでも起こっているのである。まさに互いに相反する性質を持つ異相の場、すなわち、「陰」と「陽」の場の絶対値は常に等しいと言う決まりはここでも守られていることが判るのである。

また、これらの「数」の並びを更に詳しく見ると次のぺ−ジの図のような大変興味を引かれる「数の現象」が見られるのである。これは一体何を意味するもの、あるいは何を表しているものなのであろうか…!!。このあたりも、じっくりと考えて貰いたい。

 

考えて見るがいい、1から始まり、234…と無限に正確な秩序を持って延びて行く数多の数表の中に更に完全な秩序を持つ数の姿が等しく見出された場合、それを「偶然の表れ」であると言うのはまさに愚者の言葉、今生の痴れ者の言う台詞と言うべきである。

まずは、そこにほとばしる「真実の理」の存在を考えることがこれまた必要であり、生半可な目、中途半端な思考でいくら考えても到底真実を得ることは出来ないことは是非知って欲しい。

  

  ここに現れ出た数列の意味を考えよう、 さて、はて…!??。

 
  

  何とも面妖なこと…!!、ここには目を見張るばかりのあの数列、呆れるばかりのあの自然数の連続数、すなわち、古神道の「天地の数歌が見事に姿を現わしているのである…!!。 まさに、古神道の「天地の数歌は天地宇宙に羽ばたいている人類屈指の驚くべき希代の叡知であり、人類の持つ西洋文明知などは足元にも及ばないものである。 これで古神道、いや、日本神道は決して誰にも後ろ指を指されない天下御免の「超叡知を持っているものであることがお解りであろう。

 

この上の図については特別に説明することも不用であろう、出来る限り、何回でもこれらの数を手でなぞらえながら検証して見ることである、それにより、すべては自然、自然の流れの中ですべてが了となり理解されるものである。考えて見ると、あなた方も最早、大分数の心を読むことが出来るはずであり、ある程度の「数のエキスパ−ト」としての自信も付き、それと共に直感や洞察力に弾みがついて来ているはずである。最早、あなた方は私の言葉を待たなくてもあなた方自身で十分な判断が出来るはずと考えている次第である。

恐らく、ここに至っては最早「偶然である」とか「たまたまである」とかの言葉を発するような朴念仁な御仁等はいないであろう。とにかく、数の語りは大きな意味を有しながら自然の真実を語り上げていることだけは知って欲しい。

  しかるに、「現代数学」の目にはこれらの数列は、単なる「ランダム」な数の表れに写るものであり、まったく意味の無いものとして、ただただ捨てられるだけであろう。

すると今までにこのような目に遭って捨てられた「数の表れ」は、恐らく、数え切れないほどの膨大な量であろう。まさに、無知が招いた「大いなる叡知」の損失と言えよう。

  要するに、やっとここに来て「神の数学」の真実性が認められようとしているのである。それにしても非常に長い道のりであった、すでに私は八十の齢(よわい)を越えんとし、明日にも閻魔の呼び出しが来るような老いぼれとなってしまった。まさに光陰矢の如しであり、若かりし時の不勉強による知の停滞が大変悔やまれて仕方が無い状態である、今更悔やんでも仕方が無いことは重々承知はしている。しかし、それでも自分を責めて大粒の涙を流している。今になりただただ口惜しい限りと声を大にして叫んでいるだけである…!!。しかし、こだまもさえも返って来ることもない。

しかし、改めて言う、これらはまだ序の口であり、これからは次々と本格的な「神」の降臨が始まろうとしているのである。果たして、あなた方にはこれらの仔細を読み込むことが出来るであろうか。

 

 ところで、ここで一つ説明して置かなければならないものがある。それはこれらの数列の両端、すなわち、各法陣の外側に置かれている0についてである。

 このことについては他の講座でも色々と説明をしているので戸惑いは無いはずと思われるが、改めて復習の意味を込めて再度説明して置きたいと思う。

  
 恐らく、あなた方はこれらの各法陣の外側にある「0」、すなわち、普通には無いはずの「0」が添えられていることに不思議に感じることであろう。そのあたりを一通り説明したい。

  本来、自然万象は常に「神」に見守られ、その加護の下で顕在ししっかりと納まっているものである。すなわち、「見えない神」が自然万物を作りあげ、常にサポ−トをしながら見守っていると言うことである。

すなわち、それは全宇宙自然を司っている「オ−バ−・ソウル」的な存在であり、常に自己監視領域下にある自然万象を見守り、加護している存在なのである。

 

 それが各次元法陣の周囲を取り巻いている「0」の群である。その「0」こそが見えない姿で自然発生的に「この世」、「あの世」のすべてを囲んでいるものであり、それが我々の言う「神」の正体と言うものである。 

 それは「神」であり、「空(無)」の状態をもってすべてのものを包み込んで鎮まっている永遠の存在である。

このような目を眩むばかりの自然宇宙の原理が万物を支配しているのであり、宇宙次元そのものも固いガ―ドで守っているのである。当然、我々生命あるものもまったく同じ状態でしっかりとガ−ドされているのは言うまでもない。そのあたりをハッキリと写し、説明しているのが「宇宙次元原理表(ひふみ九九算表)」である。見るがいい、我々の世界(実数世界)の周囲は完全に「0の群」に囲まれ、外部から完全に遮断されていることが判るであろう。

  

   しかと目を見開いて上図の諸関係を探ってしっかりと心で納得してほしい。それにより心(意識)は益々鋭敏さを増して「数」との会話がスム−スに、そして円滑になるのである。

ここにある「0」の群の表れをよく見てもらいたい、ここにある自然実体(数のこと)の周りはすべて「0」の群に囲まれており、あたかも自然実体(数)をガ−ドし、見守っているような驚くべき「0」の姿である。

確かに、ここから「0」を取り去っても意味は通るものであり、別に、大きな変化は無いようにも思える。しかしである、「0」を置くことにより一層「秩序と調和」の世界の存在が顕著になり、自然の仕組みが一段と際立って現われていることに注意を払うべきであろう。

 

よく考えて見ると、そこには実に興味のある示唆が見られて大変興奮するのである。それは「0」を取り去った、すなわち、「神」を省いたもの、それが現代数学の「九九算表」であり、同時にそれはデカルトがそんなものは無いとして「神を棚上げにした世界」を指すものと考えてもいいであろう。

一方、「0」の存在を明らかにしているもの、すなわち、「0」と共存しそれに護られている「神あり世界」があることを「ひふみ九九算表」は示しているのである。

恐らく、これこそが二一世紀に開幕すると言われている「意識文明(精神文明)」の基本概念となるものであり、新たな「意識世界」を開く鍵となるものであろう。

 

それはすなわち、そこにある意図(神の意志、自然の理)はすべての「神の法陣表」に相通じるものであり、まったく同じ結果をもたらすものと考えてもいいはずである。

それがすなわち、「神」は実在して自然万物を見守っていると言う大いなる事実である。

 

 そのような意味でここに掲げてある「神の法陣」の四隅に「0」を置くことによりすべての数計算はスム−スに捗り、満足な答を見せていることが判るであろう。

それらの仔細、例えば4次元法陣で示すと次のようになる、是非ともこれを知って欲しい。

 

もう少し、これらの図の見方を補足しておきたい、そのあたりを次に掲げて置く。要するに、「神」の認識図、「神」の存在図と言うものであり、現代知には欠けているものである。

  
   図
              図面喪失…!!!。

 お解りであろうか、本来は上図の左の図のように周囲には「0(神)」が存在して自然の万象を守っているのであるが、現代西洋科学は「0(神)」を取り去っても何も変わらない、よって何ら差支えない、意味は十分に通ると判断して今まで歩を進めて来たのである。それが今の我々の現代文明の姿であり、我々の学んでいる現代西洋科学の実体と言うものである。

 しかし、ここに来て現代文明は何となく被行を始め、頼りない姿を見せ始めている。 このままでは果たして22世紀を無事に迎えることが出来るのであろうか、恐らく、その答はNOであろう。現在の先端学者達も同意見であり、今のまま進めば今世紀の半ばあたりで現代文明社会は完全にダウンするはずであると言っている。

その最大の要因が自然から「神」を奪い取り、「神無し文明」を進めて来た「現代西洋文明」にあるのである。しかし、「現代西洋文明」を錦の御旗と考えている現代人達にとってはこれらの言葉はまことに晴天の霹靂であり、思いもよらない言葉としか映らないであろう。恐らくは誰も思ったこともない言葉であり、ただただ絶句する言葉であろう。しかし、真実はあくまでも真実であることはあらゆる「数」のことばは告げているのである。

 

 今はまさに現代文明の正念場である。現在を取るか、それとも「神」を戴いてこれからの未来に賭けるのか、それを判断する時が今なのである。遅すぎたら取り返しの出来ない羽目になるのは間違いなく、その時点から人類の不幸が始まることになるのである。

 

さあ、考えて欲しい、「神」を我々の守護者として認め、以前と同じく再び科学の中に戻すべきであろうか…!!!、何せ、それとも 350年前に「神を棚上げ」したデカルトに追従したままの状態で闇雲に将来を目指すべきなのであろうか…!!?。

さあ、今が思案のしどころ、すなわち、人類の文明世界の行方を定める大切な過度期であり、一つのタ−ニング・ポイントにさしかかっている時なのである。

この二一世紀こそが人類の将来の運命を左右する大切な分水嶺と言ってもいい時なのである。果たして、「神」を持たない現代西洋文明が未来を跨いで新たなる存在、すなわち、より高いレベルにある存在とフィ−ドバック・ル−プ的にコンタクトを交わすことが可能となるのであろうか…!!?。 

  さあ、考えよう、考えよう…!!!。人類に未来が残されていることを切に切に祈りながら…!!。

 

                                              ≪今月の記(2015年5月) 完≫ 

                           

 

「神の法陣」大精義講()

偉大な「自然の真実」の語り部達…!!(その6)
  
     ∴ 遥かなる0(神)を求めて…!!!<2>                    2015年6月上載 

 
 考えて見れば、我々は古来から本能的に「神」を求めてさ迷い歩っている. おそらく、それは人類の発生時からすでに始っていると言ってもいいものであろう。  なぜならば、我々の深層意識は「神」の存在をしっかり知っているからであり、 それを信じてに頼れば道は開けることを知っているからである。 
 それを知らず、無駄にもがいているのは「現代西洋科学知」の信者達だけである。
 そのあたりの仔細のすべてを「数」はシッカリ語り上げ、我々に教えてくれるのであるが、それに耳を傾けて聞く者は今のところあまりいない。 恐らく、時が少々早過ぎて、真実の理を飲み込むことが出来ないのであろう…!!??。 でもいい、じっくりと「数」の語る言葉を聞いて、少しずつ心を開き、あるべき「自然の真実」を掴んで、それを現実に取り込んで行く、それがつつがなく未来に生きるための最良の道と言うものである。

 
今、人類の心は病んでいる、あまりにも異常を来たしている。しかし、誰もその処方箋を知らない、治す方法を誰も知らない、このままでは20年後、あるいは30年後の社会秩序、国家体制は一体どうなるのであろうか…!?。 人々は「神」を恐れず、私利私欲に走り、その結果、金銭的な個人差は大きくなり、貧しい者がどんどん増えて社会はアンバランスな極限状態を迎えようとしている。
 すなわち、資本主義体制は極限まで来て崩壊のおそれが出て来ているのである。恐らく、どんどん終焉に近づきつつあるのであり、近い未来に民衆の蜂起により、ジ・エンドの旗が振られるであろう。
 現にその兆候は見えているのであるが、それさえも誰も気がつかない、何と言うことなのであろうか。 高学歴社会が進むにつれて心が豊かになり、住みやすい環境が出現するはずであったのに…!??。 我々の目指していたあの輝ける未来、夢一杯の大いなる未来は一体何処に行ってしまったのであろうか…!!?。
 
 このあたりで、「神」の存在に気が付き、心を改めなければ「現代文明社会」は完全に崩壊して、終焉を迎えることは間違いないであろう。  
 要するに、「心」の目覚めが今、求められているのであり、そのきっかけとなるものがどうしても必要なのである。 それがすなわち、「古神道の心」であり、数の語る「自然の真実」なのである。 これらのすべては古の日本から生まれたものであり、これから世界に向けて発信しなければならないものである。
 それが我々日本民族としての栄(
)えある義務であり、本来の気高き誇りを受け継いでいる由緒ある魂の務めと言うものであろう。
 そのような事情を鑑みながら、 この「神の数学」を心静かに学んで来るべき将来に備えてもらえれば幸いである。 これから世界は「精神文明(意識文明)」に向かって少しづつ歩を進めて行くのであり、それも恐らくは試行錯誤の繰り返しやその連続が数多待っている筈である。 それを克服するためには「神の存在」に気が付き、「その心」を知らなければならないのである。それを知ってこそ、初めて心に穏やかさが戻るのであり、そこで改めて「新たな意識思考世界」に向かっての新たなチャレンジが可能となるのである。 

 

それにしても、人間とは不可思議な生き物である。なぜならば、「神」、そんなものは存在しないと西洋科学はハッキリと宣言しているのに、それにも拘わらず今でも人々は「神」を求めて右往左往しているのである。ある統計によると人類の90%は「神」を信仰していると言うのである。これらの事実は一体何を意味するものであろうか…!!??。

  要するに、誰も「神」の正体を知らず、また「神」の姿、形もまったく知らないのである。それでなぜ、まったく知らないもの、正体不明なものを懸命に求めてさ迷っているのだろうか、まことに、思慮外なことであり、ただただ不思議の一言に尽きるだけである。

 そのような「知らない」づくしの「神」を求めて、人々は狂うたようにただただ恋い焦がれ、さ迷っているのである。それも人類が発祥した遥かな大昔から延々と続いているのである。一体何だろう、この不可思議な事実の存在とそこにある不可解な関係とは…!!?。

  いくら西洋科学が頑張り、逆立ちしても「神」については定義付けはまったく出来ない。「神」に関しては現代人も原始人でもまったく同じスタ−トラインにあるのであり、まさに、「神」に関しては両者共にまったく完全盲目状態にあると言っていいものである。

  しかし、口では否定しながら日本人は本能的には「神」の存在を信じ、「神」を崇め奉っている。恐らく、それは古代から延々と続いて来た特有なDNAの悲しい性(さが)であろう。
 ある記録によると日本人の99%は神道、仏教、その他の宗教の信者であり、神棚、仏壇、その他を祀って拝しているそうである。

このアンバランスの状態を我々は何と見るべきであろうか…!!。この不可解な理を何と判じるべきであろうか…!!!。 そろそろその回答が出てもいい頃であるが、「西洋科学知」の信者である学者達は相も変わらず「神」については無関心であり、ないがしろにしているようである。

 

 とにかく、「神の数学」の中では「数」は『神』の存在を常に熱く説き、その大切さをこんこんと教えてくれている。確かにそれは一つ、二つにとどまらず、すべてにわたっての同一事象の素晴らしい現れと言うものに、ただただ感動して一人熱い涙を流しながら感動に咽ぶだけなのは私1人だけなのであろうか…!!。

 誰かいるであろうか、この気高き一瞬の醍醐味の世界を共に語り合い、熱き心を持って肝胆相照らすような殊勝な方、新しい発見を共に喜び合えるような奇特な御仁は…!!!。

 

  神を崇める「神の法陣」の熱き語りをあなた方と共に検証して見よう…!!!。
 数の足跡を辿りながら
何を言おうとしているのか、その言葉を聞いて貰いたい。

 
 

                 図面喪失…!!!。

       (一)      2次元表

@   1243

A   14234132=110() → 

∴ 要するに、これは これは 「ひふみ九九算」、123456780の中の12である。

見るがいい、 この12の前にある「数」は当然、始原神のであることを…!!!。

 

 (二)      3次元表

@   1+3+0+7=11()

A   42+26+68+84=220(22)

B   150357051+753=1311(222)

∴ 要するに、これは 「ひふみ九九算」、 246813570の中の246である。

見るがいい、 この246の前にある「数」、すなわち、始原神の鎮座を…!!!。


        (三)4次元表

C   1+4+7+4=

D   52+38+36+50=176(77) 

E   063+273+825+615=1803(777)

F   4174+1627+4714+7261=17776(7777)

∴ 要するに、これは 「ひふみ九九算」、 753186420の中の7531である。

見るがいい この7531の前にある数は当然、始原神のである…!!!


    (四)5次元表

@1+5+7+3=

A62+41+26+47(77)

B273+306+615+582(777)=1776 →

C   7384+2852+4051+6036=20323(7777) →

D 50483+17417+71471+38405=177776(77777) →

∴ 要するに、これは これは 「ひふみ九九算」、753186420の中の75318である。

見るがいい、 その75318の前にある数は当然、始原神のであることを…!!!。


 


       (五) 6次元表

@   1+6+0+4=11(2)

A   72+53+38+57220(22)

B   483+420+627+681=21(222)

C   1504+3186+0516+7024=12230(2222)

D   72615+20753++38405+81357=213130(22222)→10→

E   483726+186420+627384+024681=1322211(222222) →12→

∴ 要するに、これは 「ひふみ九九算」、 246813570の中の246813である。

見るがいい、その246813の前にある数は当然、始原神のであることを…!!!。



 すべては「数の語り」であり、現代数学や現代科学では解明できなかった「神」の存在を語っているもの、すなわち、まず最初に「神()」の存在があって、それから自然現実象の基本エネルギ−()が生み出されていることを語っている大変貴重な「数の物語」である。どうしても、納得のいかない場合には、更に、「7次元法陣表」、「8次元法陣表」、「9次元法陣表」と検証し、十分に納得するまで何回でも考えるがよい。 これは「数」と「図」による自然真実の開示であり、「神の数学」の独断場と言うものである。     

これでお解りであろう、すべては「数学」であり、「科学」であり、「哲学」でもあり、同時に「神学」の答でもあることが、それらは一つのものの見方の違いにより発生した名称に過ぎないことをが…!!!。

 ≪なお、ここの( )内にある数字は「神の数学」の神算法で計算した答である。 見るがいい、そこにある歴然とした数の並びを…!!。 各法陣から現れ出た答の数はすべて27の連数の姿であり、しかも秩序正しく一ヶづつ順を追って増えていることが判る。 このあたりからも各法陣の間には秩序ある完全な繋がりが存在することが判るであろう。≫

 

ここで耳慣れない「神算法」と言う名前が出て来たので戸惑うであろう。 

これは大分以前に説明したのであるが、恐らくは諸氏は最早忘れ果てているはずである。

ここに改めてその手法を掲げておくので復習の意味を兼ねておさらいしてみよう。

 今回は「神算法」の加算の部の計算であり、そこには減算の姿は何も無い。

 

例として、「神算法」で上記の「3元表のB」、「4次元表のC」、「5次元表のD」、「6次元表のE」のそれぞれの計算を見てみよう。

 

≪出来るだけ直感力に磨きをかけ、頭と手を使って全体的な構図の在り方を見つけることである。これは数と図の描く「曼荼羅の世界」であり、それはコスモロジ−(宇宙観)的にも甚だ深い意味を持つものと言われている。

そもそも、「曼荼羅」の語源はサンスクリット語の「マンダ」、すなわち「本質」と言う言葉に、「得る」と言う意味の「ダ」の接尾語がついて「マンダラ」となった仏教の言葉なのである。 よく考えればまさに深い意味を持つ哲学的な言葉の姿である。≫

 

   ◎まずは、上記の「3次元表のB」の計算を「神算法」で加算し、その答を見てみよう。

B150+357+051+753=1311(222)→

                                   ≪「現代数学」の答は1311であり、それを一桁化するとである。≫

     

               1  5  0 ………6 → 6
            3  5  7 ………15 → 6
            0  5  1  ………6 → 6 
         +  7  5  3 ………15 → 6
          ―――――――                 
 縦は4×6=24 → 2+4=
             11  20 11

  ↓  ↓ ↓

     2   2  2 ………+→   ……   「神算法」で出た今回必要な答である…!!

 

要は縦の単数計算の答と横の単数計算の答は同一なものでなければならない単純な計算でもある。



  ◎ 次は上記の「4次元表のC」の計算を「神算法」で答を出して見よう。 

テキスト ボックス: C4174+1627+4714+7261=17776(7777)→ 1
                                                     ≪「現代数学」の答は17776であり、それを一桁化すると
である。≫

 4  1  7  4  ………16 → 7 …
   1  6  2  7  ………16 → 7  
    4  7  1  4 ………16 → 7 
+  7  2  6  1  ………16 → 7     縦は4×7=28 → 2+8=
―――――――――――  
             16  16 16 16 

   ↓  ↓  ↓  ↓    
             7   7   7  7   ………+→28  「神算法」で出た今回必要な答である…!!

 次は上記の「5次元表のD」の計算を「神算法」で答を出して見よう。 

D   50483+17417+71471+38405=177776(77777) →

                                                                         ≪「現代数学」の答は177776であり、それを一桁化するとである。≫

        



         5 0 4 8 3  ………20 → 2
         1 7 4 1 7  ………20 → 2
         7 1 4 7 1  ………20 → 2
      + 3 8 4 0 5  ………20 → 2   縦は4×2=8  → 
   ―――――――――――

        1616161616

↓ ↓ ↓ ↓ ↓  
         7 7 7 7 7 ………→35 「神算法」で出た今回必要な答である…!!

  次は上記の「6次元表のE」の計算を「神算法」で答を出して見よう。 

 483726+186420+627384+024681=1322211(222222) →12→

                                                        ≪「現代数学」の答は1322211であり、それを一桁化するとである。≫

  まったく同じ構図の「足し算」である、考えて答を出して戴きたい。

 

 それにしても、何と言う面白く、興味深い「数」の姿であろうか、まさに「数」は意識を持って存在していることをまざまざと見せつけてくれるものである。それがすなわち、この「神算法」と言う計算法である。ただし、「神算法」の加算の形であり、減算の形もあるのである。それはまた、何時の日かお目にかけなければならないであろう。

見るがいい、縦に加算しても、横に加算してもそこには何となく興味の惹かれる「数」が立ち並んで、まさに「神算法」計算のの醍醐味を味わわせてくれるものである。

これが、図と数の綾を為して語り上げる究極の「自然数学」、すなわち「神の数学」の本来の姿と言うものである。とにかく、今までの「現代数学」のような無機質の「数」の表れなどではなく、遥かに有機的な「数」の「言葉無き語り」であり、厳とした秩序と調和を持ってい納まる大いなる「真理」の現れなのである。

 

さあ、ここに示されている「数」の軌跡を追いながら、描かれた図形の語る真実を見出してほしい。 とにかく、自分の直感脳と手を使いながら何回でも「数」の歩みをしっかりトレ−ス(追跡)することである。すると、どの「神の法陣」においてもまったく同じ数の航跡が見出され、そこにはまったく不思議な「数の言葉」が繰り返し現れて何かを囁いているのである。

要するに、それが人間の未だ知らない数の語る「神の律」であり、本来の「自然の姿」を語るものなのである。その意味をシッカリ捉え、内容を完全に把握することが我々の為すべき任務であり、課された天命なのである。

 

 要するに、ここにあるようにすべての数列(現実象)の芽生えの前には必ず0(神)が存在し、現実事象をつつがなく導いていると言うことであり、それを示唆し、教えているのがこれらの答である。
 それがこの「神の法陣」の一連の図であり、これらの数が語り上げて止まないのが、これらの計算答の数列である。

 

もし、あなたが疑問を持つなら、その後に続く「神の法陣表」の並びを自分の手で検証するがよい。 確かに簡単な計算ではある、しかし、そこに現れた答に貴方は吃驚仰天し、懸命に考えを巡らすであろう。そして、その結果、あなたは現代知に疑問を持ち始め、その行く末に大いなる不安を抱き始めることになるであろう。

 

何と恐れ入った「数」の出現であり、まさに「神」の不可思議なご宣託と言うものである…!!。

ただただ、恐れ入り、畏まるだけである。要するに、規則正しい形をもって正方図をなぞると、そこにある「数」は真実を囁き、シッカリそれを伝えてくれるのである。

これはまさに、「神の数学」の中でも白眉中の白眉の「数の語り」であり、そこには「数」の真実がハッキリと現れて我々に何かを語ろうとしているのである。ただし、現代知に洗脳され、狂ってしまった我々には「その語り」を理解するには少々時間がかかるのである。

 

これを音楽に例えると、「数」はオタマジャクシであり、「図」は5線譜と言ってもいいであろう。

単にオタマジャクシだけでは意味を持たない、これらのオタマジャクシを与えられた順に、あるいは定められた通りに5線譜の上に置くことにより魂を揺さぶるような意味のあるメロディが次々と生まれて人々に感動を与えることになるのである。 まさに、「数」と「図」の関係もそれに似ているものであり、お互いが共鳴し合って自然の真実を永遠に語り上げているもの、それが「神の法陣」の「天地の律」である。


 要するに、図の中に自然数を並べて置き、その与えられた位置に、あるいは定められている位置に置かれている特定の「数」を定石通りに読み込むことにより、そこにある宇宙意思(神)の持っている「天の律」が次々と顔を出して真理を囁き始めるのである。

まさに面白く、興味を引くものであり、まさに天啓の「数の真実物語」の現れである。

まさにこれらは「神」の作った「隠された真理」を探す偉大なゲ−ムであり、自然の理を内蔵して止まないものである。我々はその存在にやっとと辿りついたのである。
 さあ、頑張って「神のゲ−ム」に挑戦してほしい。 我々には人間の作った意味の無い「ゲ−ム」で時間を無駄に過ごす余裕は最早無いことを知るべきである。

 

しかし、残念なことに、我々現代人はこのような「数」と「図」の関係が存在することを今まで誰も知らなかったのであり、従って「神」の意思や大自然の言葉の存在についても今、やっと解りかけて来つつあるのである。 要するに我々が丁度、鳥や獣たちのおしゃべりについて誰も関心を抱くことは無く、ましてや、そこには何らかの固有なメッセ−ジがあるなどとは誰も考えたこともなかったと言う事実とまったく同じ経過を持つ愚の表れと言うまことにお粗末なストリ−なのである。 そのような不見識な道理が今の今まで大手を振って罷り通っていたのである。

 

それとまったく同じ事が現在起こっているのである。要するに、「数」と「図」が秩序を持って秘められていた「自然の真実」を語り上げていると言う驚くべき真実の存在をまったく知らずに、自然と会話を交わそうとこの数百年の間、努力に努力を重ねて来たのである。何と言う大きな無駄な時間を費やして来たのであろうか…!!!。

まさに、自然から見ればまことに滑稽極まりないもの、それが人間の誇る現代知と言うものなのである。

 

それは要するに、今まで自分達を余りにも特別視して最高位に置いていたので、下々のこと、俗なことなどには関心が薄かった、少しも興味が湧かなかったと言うことであろう。

確かに人類は万物の覇者とばかり尊大な言葉を吐いて偉ぶってはいるが、大自然から見ると周囲からは完全に見離され、見る影もない哀れな姿としか見えなかったのである。

 

要するに、第三者の目から見れば「人間の知」はただただ哀れさを催(もよう)す反自然な知、単なる自己満足状態にある「知もどき」、「似非知(えせち)」にしか映らないものである。

 

さあ、古神道から現れた「古くて、新しい道」が日本民族の前に現れようとしているのである。それは、かって、我々日本民族の大いなる祖達が先鞭をつけた道であり、今ではすっかり失われてしまった日本固有の道なのである。

それがすなわち、「カムナガラの道」と呼ばれる神慮のままで、人為のまったく入りこむことの無い「大自然の律」の集大成の姿なのである。          
                                                                                                               
                                                                            ≪今月の記(2015年6月) 完≫ 
 

 

 「神の法陣」大精義講()

 偉大な「自然の真実」の語り部達…!!(その7)
  
     ∴ 遥かなる0(神)を求めて…!!!<3>                    2015年7月上載 

 

  どうも最近の世の中の動きは甚だおかしい。国家間の動向、経済、政治、すべてにわたって呼吸が乱れているようであり、一日たりとも目を離せない断末魔のような様相を示している。現在の世相模様の激しい変化ぶりを眺めていると、どうも2年後、3年後の世の中の動きを予想出来るような逸材、すなわち、近未来を予測出来る学者先生などは一人もいないように思われる。

また、それに伴うような形の自然災害の増加が見られるのも世相の混乱を助長している感があり、人々の懸念は益々増大に向かっていくことは避けられないように思われて仕方が無い。

一方、未来に心を馳せれば、年々食料の不足も益々増大して来て、飢えに苦しむ人々が後進国では蔓延する一方であり、それに輪を掛けて懸念されるのが地球上の人口の爆発的な増加である。学者達の計算によれば、あと30年、すなわち、西暦2050年には世界の人口は百億人を突破するのは間違い無いと言われている。そうなれば水と食物は完全に不足状態になり、恐らく、国同士、あるいは民族同士の生き残りを賭けた戦いが始まることは火を見るより明らかである。

ある有力な情報によると、現在の世界の指導者たちは一致団結して世界人口の削減政策を論じ、既に実行に移し始めていると言うことである。

すると一番先に狙われるのは比較的人口の多い国、しかも、人民が貧しい国であり、あまりまとまりの無い国であることは間違いは無い。

するとそれは恐らくはアフリカか中東、またはアジャの国に絞られる、すなわち、それはすなわち、人種的偏見、人種間の差別を絡ませながらの宗教間の争いから始まる宗教上の対立という名目を持って勃発することになるであろう。

しかし、アフリカや中東の大部分はすでに目的を達し壊滅に近い状態なので、今度はアジャの国がタ−ゲットとして狙われる可能性があるのである。

さて、あとは何時、どのようにして勃発するかである…!!??。

さあ、我々日本人も今までのように遠眼鏡的に世界情勢を見て、知らん振り、対岸の火事とばかりの傍観は最早許されないであろう。とにかくこれからは世界のニュ−スを出来るだけ先取りして真剣に考えることが必要であり、1ヶ、1ヶ洞察力をフルに回転させて克明に調査してなるべき火の粉が降りかからないように舵とりすることが望ましいのである。 それが政治家の本分と言うものである。なぜなら、一歩判断を間違えれば国の命取りになりかねないことが起り、アッと言う間に国家は壊滅状態になるからである。

それは最近の中東諸国、すなわち、アフガニスタンから始まり、イラク、イラン、リビヤ、シリャあたりの情勢を見れば誰にでも判ろうというものである。

 とにかく、これからは国際的にもすべてが厳しい情勢が続くことを覚悟して物事を対処していかなければならない。特に、日本を背負って立っている我々の代表である国会議員の諸氏は大きな目で世界の情勢を十分視野に入れて判断の上で、これからの未曾有の難関を無事にスル−して行くことが最大の主眼点と考えてほしいものである。党間、あるいは議員同士の争いなどは国民の目から見れば馬鹿馬鹿しくてただただ愛想が尽きるだけである。

今のような田舎芝居、または猿芝居もどきの掛け合い等は我々国民から見れば、まさに噴飯ものであり、ただただ笑止千万な漫才もどきにしか見えないものである。それを国民は横目で見て半ば呆れ、笑いをこらえて堪えているだけである。

我々国民の目から見れば、どちらが正論であるか、どちらが厳しい国際情勢を見極めている言葉なのかが本能的に判っているのであるが、あまりにも高く舞い上がった彼等、議員諸氏には最早それが判断がつかないようである。 彼等はただただ美辞麗句を連ねて存在感を示し、それにより国民の関心を引こうとしているだけか、それとも詭弁を振りかざして相手を威嚇しょうと目論んでいるようであるが、それは傍から見れば一目了然なものである。

とにかく、これからが政治家としての正念場、生命を賭けての土壇場が始まることを知って欲しい。いい加減な政治家などはもう我々は不要なのである。

これから、あなた方の手腕、あなた方の器量如何をじっくりと判断させてもらうつもりである。何の見識も無くただ雀のように囀るだけ、あるいは鷹のように他人の弱みを掴んで攻撃するだけしか能の無い政治家は最早不必要である。 もはや、我々の判断はついているのである。    これからは飽くなき直感と鋭い国際感覚を持って泰然と構える大政治家が必要なのであり、それを国民は求めていることを知って貰いたい。

 

恐らく、数年後には大規模な戦争が始まるであろう、その時になってから慌てふためいてももう遅い。出来るだけ早いうちから考えを巡らし、その場に応じたシュミレ−シヨンを常に行い準備万端に整えておくこと、それが政治家としての当たり前の対応であり、国民を守るための常識的な国の方針に叶うものである。しかし、今の議員には……………!????。

 
 

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さあ、今回は遥かなる0(神)を求めて…!!! の最終回となる講義になるであろう。要するに、すべての始まりの前には「神」の存在があり、そこから、すべては始まったと言うのが現代科学の最も有力な自然象の見方のようである。

 例えば、ノ−ベル賞受賞者の物理学博士であるブライアン・ジョセフソンは「すべての始まりには意識があり、それは最高の存在であり、最高の知性を持った存在である」と言っている。要するに、最高の知識人である物理学者でさえも「神」の正体についてはハッキリとは解らないと言っているのである。

こそれが「神」と呼び存在であり、我々が慕って止まない究極の存在なのである。しかし、また、それは普遍的な存在でもあり、特別に探さなくても常に身近に存在しているものである。それは求めようとしても、求められるものではなく、逆に、求めなくても自然的に求めることが出来る存在でもある。

要するに、「神」を呼び寄せようとするのではなく、こちらから「神」に近付いて行く、すなわちこちらから「神」の懐に入って行くことが必要と言うことである。そのためには自然のままに生きることであり、欲の無い「神」の心のままを知り、それに出来るだけ順応していくことが求められるのである。 それにはまず、「神」の心、「神」の想い、「神」の目的を少しでも知ることが必要である。

それに従うように我々の心の目線を少しづつでも変えていくことが大切である。それにより、だんだん「神」の心の波動に近づき最終的にはある程度一致点に近づいていくことになるのである。そのためには「神」の心を知らなければならず、そのためにはある程度、特殊な学、すなわち、今まで人間が持ってはいなかった「自然普遍知」と言うものがどうしても必要となるのである。

そのための学問と言うのが、すなわち、古神道から現れた「神の数学」であり、特にその中の「神の法陣」の説く「宇宙自然の持つ律」の大いなる内容なのである。

とにかく、「神」とは大いなる宇宙意識であり、それが宇宙自然の万物を生みだす鋳型、すなわち母体となるものである。それを「数」で表現すると0」であり, それが母体となって色々なエネルギ−を生み出し、そのエネルギ−が重複重畳の結果目に見える現象として現れたものが、宇宙の森羅万象、すなわち、物質の姿と言うものである。

たしか、アインシタインの言葉には次のようなものがあった、それは「エネルギ−が一点に集中し、それが結晶化して物質になった」と言う言葉である。

 

その真実の姿を知るためにはもっとハイレベルなネットワ−クとの共振回路を見出して在るべき「宇宙普遍の叡知」を学ぶことが必要なのである。それが叶った時には、人類は更なる大きな飛躍を遂げて未来に羽ばたくことが出来ることになるのである。

しかし、そのために必要なのは新たな数学的手法であり、それを見出すことがこの停滞した「現代西洋科学知」の衣を脱ぎ捨てさせ、自然に沿った新たな衣を纏う為の原動力になるのである。 何故なら、現代西洋科学や現代数学ではどうあっても自然と共鳴不能であり、歩を共にすることが出来ないからである。
 我々は自然から生まれて来た、だから自然と共に歩を進め、自然と共に生きて行くことが当然のあるべき姿であり、当然の運命(さだめ)めなのである。

 

自然との共鳴回路を持ち、自然の扉を開けるにはトポロジ−的な手法、すなわち、「数」と「図」が語る不可思議な関係を知り、その間の会話を理解することが必要である。また、そのためには自然本来の真理法則を学ぶことがどうしても必要であり、すべてはそれを見出すことから始まるものである。 残念ながら、現代知はまだそのあたりのことをまったく知らず、模索しようともしない。

普段から「数」と会話を交わしていると何となく自然に判って来るものであり、しかも、だんだん明確な形で表されて来るようになるものである。それは行っている中に解るものである。 要するに、以心伝心と言う言葉の不思議がそこにも生まれて来るのであり、それがあるからすべては順調に整えられ、次第次第に形になって現われてくるようになる。

 

その「数」の示すトポロジ−的な姿は宇宙普遍の真理法則を描いているものである。また、本来は、それを知り、それを学ぶことによりハイレベルな真実世界のネットワ−クとの共振回路を見出すことが出来ると考えるべきものである。それ故に我々は、、もっと知のアンテナを高く掲げ、あらゆる自然の呼びかけに素早く反応して真実を掴む必要があるのである。 現在のように、現代知にしがみついているだけではこれ以上の進歩発展などは夢のまた夢である。あらゆる方向、すなわち、四方八方に目を配らせながら、「新しい知の芽」の出現、あるいは過去に芽生えて消えた「自然の叡知」の姿に探索の手を伸ばさなければならないのである。
 とにかく、今のままの半端な知では到底自然の持つ「神の知」を手にすることなどは出来ないと考えるべきである。 どうしても、今、この閉塞状況から脱出するために、我々は新しい、まったく新しい手法が必要であり、何よりもそれを見出すことが必要不可欠なのである。


 次に掲げてある「奇妙きてれつな数の語り」についてじっくりと考えてもらいたい。素晴らしい「真実」のほとばしりであり、「自然叡知」の存在を語る由々しきものである。

これは「単なる偶然の結果」であろうか、それとも数の語る「自然真実の語り」なのであろうか……!!??。 それはこれからあなた方がこれから判断すべきものである。

 これらの「数の語り」はれっきとした連続性のある「数の語り」であり、すべては完全な整合性を持って現われているものである。

また、それらはどうあっても、我々の知ではとても太刀打ちができないものであり、完全な異世界の「数学体系」の存在と考えるべきものである。

とにかく、「現代数学」に頼っている限り「自然の真実」を明らかにすることは出来ないと言うことだけはハッキリと断言して置きたい。

これらの「数の語り」は我々の「現代数学」を用いてどのように攻略しても、姿を現すことにない高嶺の花であり、決して見ることが叶わない永遠に咲き誇っている「神の真実花」である。

 

  早速ではあるが、次の計算を行って結果答を考えてもらいたい。(「現代数学」の知識は傍らに置いて、小学生並みの自然の知で解いてもらいたい)


 
               図面喪失…!!!。
  

 いちいち、面倒くさいので一気に表をアップして見た。でも、これまで「神の数学」を学んできたあなた方なら十分に「数」の足跡を辿り、真実に突き当たることは十分に出来るはずである。要するに、あなた方の「学の力」を誰よりもご信頼申し上げていると言うことである。 何回か数の跡を追うことにより、すべては歴然とした形であなたの目の前に真実が現われて来るはずである。とにかく、気長に「数」の足跡を追うことにより、何かがすこしづつ形となって現れ、あなたの心に囁きかけて来るはずである。

 

この≪ Aの図≫及び≪ Bの図≫は相対数列を結ぶ円(楕円)の中心を図の対角線に沿って次々と移動していくことにより、そこには驚くべき数の姿が現われて全体が弥栄で終わるのである。それはまさに神妙、かつ見事な「数の語り」の存在である。その事実を「数」の足跡を追いながらジックリ検証してもらいたい。

要するに、「数」が華麗なワルツのステップを軽やかに踏めば、そこには見事な「神の御業」が次々に現われて我々に何事かを伝えようとしている。

 まあ、「神」のワルツのステップを辿りながら、そこに刻まれる驚くべき「神の御業」をジックリ鑑賞してもらいたい。それは「神の数学」を学んでいるからこそ、その調和のとれた軽やかなステップの業が判るのであり、その意味することも判って来るのである。

「数」が右へ、左へと中心線に乗ってステップを繰り返し踏めば、そこには驚くべき「神の叡知」が次々と紡ぎ出されて来るのである。
 それはまさに古今無上の数の囁く「叡知の姿」であり、我々をして唖然とさせて止まないものである。

 

またAの(2)、 Bの(2)は同一中心点からそれぞれ等位置にある二つの各数列を加算したもの、すなわち、あくまで中心の一点を軸にしてステップの巾を次々に変えていったものである。そこにはまたもや奇妙な同一数が現われ、同じように何かを囁きながら「0の仕組み」を語り上げているのである。

 

すべては、「0の物語」、すなわち、すべては0に始まり0に終わることを示唆しているものである。また、それは0の本質を語り上げ、0の本質の存在を極めることを主張しているように思えるものである。
 でも残念ながら「現代科学知」ではの効用。その本質には一切迫ることが出来ないのである。

 

とにかく、すべては0を置かなければ発現せず、また、0があるから成り立つものである。0がある故にすべては調和を持って流れ、また0があるから最後にはシッカリ0に還ることによりすべては完全化することになるのである。  しかし、この完全化と言う言葉の説明は甚だ難しい。なぜなら、学者達はまだそれを知らず、またそれを説明する言葉も今に我々の辞書にもまだないからである。

 

要するに、「0」とはプラス(+)とマイナス(−)のエネルギ−が完全に重なつて合一状態になったものであり、「0」に近くなるにつれて物象粒子は物性波動となって無限のエネルギ−を得ることになるのである。 まさに、「0」こそは無限のエネルギ−の源泉であり、大宇宙全体の「0」と共鳴振動して協調体制に入ることが出来るものである。ひょっとすると、宇宙の誕生もそのあたりに起因するのではなかろうか…!?。

我流的な説明になると思うが、現代物理を絡ませながらの説明では次のようになる。すなわち、物質を極限まで小さくしたもの、それが≪粒子≫である。その粒子を更に無限に分解したもの, それは微小化されて波の状態を示すことになる。それが≪波動≫と呼ばれるものであり、同時的な運動を示すものである。それを極める為の学が「波動物理学」、すなわち、現在の「量子物理学」と呼ばれている「新しい物理学」なのである。

その「新しい物理学」の台頭により今までの物理学は「古典物理学」と名を変えられて窓際に置かれているのである。 今や、我々の教わって来たのはこの「古典物理学」であり、現在の「新しい物理学」の内容とはまったく異なったものである。要するに、我々の持つ知は古く、故に声高に学んだ理論を持ち出しても最早通じないと言うことになるのである。

 

「粒子までの物質」はエネルギ−が一点に集中した結果生まれたものであり、その粒子が何らかの自然の力で更に分解されて物質粒子が更に微小化したものが「波動」と言う今までとはまったく異なる運動性質を持った存在に変わるのである。要するに、今までの物理学ではまったく処理の出来ない新しい性質のものに変わったと言うことである。

それを解明するために用いられているのが新しい物理学、すなわち「量子力学」であり、別名、「波動性物理学」と呼ばれてるものである。

更に詳しく説明する、粒子(物質)はエネルギ−が一点に集約された固定的、限定的なものであり、量子(意識)はそれとは異なり、エネルギ−が開放的、空間的に広がる性質を持っているものである。 これを簡単な言葉を変えれば、物質は固定的で動きは無い、しかし意識は空間的な広がりを持ち、自在な行動範囲を持っていると言うことになるのである。 
 それはすなわち、、我々の体は物質なので固定されているが、しかし、物質(体)を捨てて、意識だけの存在(あの世の存在)になれば時間も、空間も関係なくなり、自在に時の間に顔を出せる、何処にでも思った場所に自由に行けると言うことである。

 これを「神の数学」的に解釈すれば、次のようになる。すなわち、粒子は「数」であり、量子は「0」である。故に「数」は固定的な存在であり、有限な力の存在である。また、「0」は空間的な広がりを持つ「無の存在」であり、かつ無限な力を持っている「有の存在」でもある。
 更にまた、言い方を少し変えて見ると次のようになる……。

 

「我々を含めて「自然の万物」は有限的な存在であり、力の限られた存在である。しかし、「神」は無限的な存在であり、かつ力はオル−マイティな存在でもある。 要するに「神」は万能の能力と無限の力を持っている存在と言うことである。

 

 何かおかしいところがあるであろうか…!?。ご意見があればお聞きしたいものである。ただし、上記の「数の走り」を見ながら、内容を精査して見てからである。

 更に話は続く、誰も知らない「神」の正体を知るためにはもう少し辛抱してもらいたい。

 

「神(0)」とは量子より微かな存在であり、無限の空間と共鳴が可能で、同時にその無限の空間と自在に交流可能な存在、いや、無限の空間そのものである。  要するに「0」=「無限大(∞)」と言うことである。

また、距離や時間は一切関係なく瞬時に交信出来、行き来さえも出来、同じように無限の空間のエネルギ−さえも自在に扱えるものである。

要するに、己の性質0は無限の無の空間を示す0とまったく同じものであり、同一視してもいいものである。 それは、「神(0)」の力=宇宙全体の力(0)であり、無限の力、無限の能力を持っていると言うことでもある。

 

 原子は粒子であるが、それを構成する電子は波であり、量子的な存在と考えてもいいものである。要するに、電子は一対で存在しているものであり、その相手の電子が宇宙の端にあってもお互いに相手の動作を見て取り、相手と同じ動作をすることが出来ると現代物理は言っている。  要するにそこには時間とか距離はまったく関係が無いのである。

 

「0」は無であり、量子よりも遥かに小さいものである。しかし、量子よりも力、能力は無限に大きいものである。その波動は絶対的に無に近く、故に、無限の力、無限の能力を持っている存在である。それが「神」の正体であり、「0」の姿でもある。

 「神の数学」では何回も言っているではないか…!!。「数」は大きくなればなるほど、そこにある「力」、すなわち、エネルギ−は小さくなるのであり、一番多くの力を持っているのが「0」であると…!!。

 要するに、現代物理でも、素粒子は小さいほど質量が大、すなわち、持っているエネルギ−が大きいと言っているではないか…!!。恐らく、あなた方は嘘だ、そんなことは信じられないと言うであろう。しかし、「理科年表」には次のように明記されているのである。

 「原子は約13,6eV」、「電子は約51万eV」、「陽子は9億800eV」、「クオ−クは198億eV」…(eVはエレクトロンボルト)…。 ただしこれは原子と粒子に限りの数字のみについてである。

 

その証拠に、原子爆弾より力が大きいエネルギ−を出しのが水素爆弾でり、更に大きいのは陽子爆弾であると言われている。陽子爆弾は太陽系を破壊する力があると言われている。
 しかし、この中で粒子的には陽子が一番小さいものである。

 

 要するに、「神(0)」は間違いなく存在し、普遍的に何処にでも存在しているものである。しかも、何時も我々の身に及んでいるものであるが、一切我が身に呼び込むことなどは出来ないものである。もし、どうしても呼び込みたいのなら、自分の身を0にすることであり、一切の欲は捨て去り、自然な心に還って無心になることである。それが最低限には必要なものと言うことである。

 「無心」こそが「神(0)」と共鳴し、「神」の心に叶うものである。「無心」になった時初めて「神」の波動、リズムと一致してあなたの望みが叶うことになるのである。

                                                  ≪今月の記(2015年7月) 完≫

 

通信……

 「神の数学」の勉強会が神戸の六甲の里、サラシャンティで開かれています。詳しくはサラシャンティhpを…。

第1回…5月10日  日本神道は「世界神道」である、その証拠とは…!?。 (資料及び説明DVDあり)

第2回…6月210日  日本神道は「宇宙神道」である、及びその驚くべき証拠。(資料及びDVDあり)

 第3回…7月19日 @ 「ひふみ…」と「アイウエオ」の大いなる言霊とA「ひふみ九九算」の秘密を探る。

第4回…9月20日   題未定

第3回…10月18日    〃

第3回…11月 8日    〃


   驚くべき真実の「日本古代史」の存在に興味のある方は是非御参加されたし。

 

「神の法陣」大精義講()

 偉大な「自然の真実」の語り部達…!!(その8)
  
     ∴ 遥かなる0(神)を求めて…!!!<4>                    2015年8月上載 





 さて、遥かなる0(神)を求めて…!!!の記述については先月で幕を下ろし次の講義題に入るつもりであったが、考えて見ると、まだ書き残して後世に伝えなければならないことが山ほどあることに気がついた。そこで改めて、誰も語らなかったこれら「神」に関する記述を少々伸ばして後2〜3回程度の講義を続けることにする。

 今後は数学以外の余分なことがらで道草をすることを極力抑え、語っておくべき日本歴史の真実、あるべき日本神道の驚くべき真相のみをジックリと語り上げることにしたい。

考えて見ると、私も年である、今を逃せば恐らく授けられてきた古神道の本来の伝承知は再び時のはざまに消え去り、何百年かのブランクが再び生じて真実歴史の不在の期間が生じることになるのである。まことに責任は重大であり、身が引き締まる感がして仕方ない心地があるだけである。

そうなれば「私の存在」さえも単なる幻と化し、意味の無いピエロ的な存在となって笑われて終わりを告げることになる…!!。それはあまりにも我慢がならないむごい時の仕打ちであり、あまりにも酷すぎる神の手さばきと言うものであろう…!!?。  私は単に「神」の手助けをしているつもりでいるのに…!!!。

 
 
これから語り上げるものはまさに日本古来の「神の真実物語」であり、謎を秘めたままで噂されている未解決の「古神道物語」を「数字」で解き放ったものである。

「数」が自然の謎や歴史の謎など、すなわち現代知ではどうしても突き止めることが出来なかった謎を解き明かすことが出来る…、、何と言う不可思議極まりない言葉の響きであり、現実には信じられないものである…!?。  さあ、このペ−ジを捲り、真面目に取り上げ、深い考察を試みて笑みを浮かべるような殊勝な御仁は果たしているであろうか…!!?。

現代人はただただ口をあんぐり開けてキョトンとするばかりの解せない話と言うだけであり、とても常識知では理解が出来ないとしてただただ否定するだけであろう…!!。

それでもいいではないか…、解くことも出来ず数千年の長い間放りっぱなしの状態で、誰も近寄ろうともせずに打ち捨てられて置かれるよりは…!!!。

 

今回は神道の歴史上で最も新しい「神の表れ」、「神の表現言葉」を選び、言い伝え通りにその内容をそのまま描き上げて見たものであり、すべて原本通りのもので書き改めなどは一切無い。。

今回、その題材として最も新しくて、最も難題と言われている天明さんの「ひふみ神示」を選んで見た。着手する前に色々と解説文献なるものを読んでは見たが、すべては原文そのままを掲げているだけで、少しも解明にいたっているような書は一つもなかった。ましてや、最難関と言われてい「アレの巻」に挑んでいる者などは残念ながら誰一人として見られなかった。何と言うこと…!!?。

 確かにこの「アレの巻」は難関中の難関である、しかし、そこに記載されている言葉の群はすべてある一点を指しているものであり、言葉を変えながら「あるもの」を讃えているものである。その「あるもの」とは、すなわち、「祝詞の心」であり、数で表されている「ひふみ九九算」である。 そこに秘められているものは宇宙普遍の自然の原理を歌っているものであり、現代物理学でも未だ語られてはいないものばかりである。
 何と、すべては現代知では到底及びのつかないもの、まったくその存在さえも掴んではいないものばかりである。要するに、現代知ではどうにもならない内容なのであり、現代知では如何とも仕難いものなのである。

 

この「ひふみ神示」の仕組み、そして、この「ひふみ神示」の全貌を示している祝詞「ひふみ天地の数歌」の本体、この二つを比較検討すると、そこにある難解な「数の表現とその意味」「数と文字による不可解な流れ」など、すべては霧が晴れるように明確度が増し、その輪郭がだんだんと見えてくるようになるのである。しかも、『ひふみ神示』の中でも最も難解とされていた『アレの巻』の言葉の謎とその意味さえも次々と洞察の範囲に入ってきて、次第々にその明らかな姿を現し始めるのである。

何故なら、すべては『神の数学』の歩みと同一の内容、同一の数の仕組みを持っているからであり、搦め手から攻めればそれは容易に陥落するものだからである。したがって「今日に至るまで、何故に誰にも解けず、何故に判らなかったのか」、その理由も次第に明らかになってくるのである。

この「ひふみ神示」は終戦と時を同じくして誕生したものであり、殆ど一介の素浪人と言ってもいい人物である岡本天明氏により自動書記と言う手法で天界からもたらされたとされている。まあ、そのいきさつはあなた方の方がよく御存じのはずであろう。

 その「ひふみ神示」の中でも最も難解で殆ど手がつけられていないものが「あれの巻」の言葉であり、あなた方が最も悩み苦しんでいる難解言葉の群がそこにはシッカリ鎮座して納まっているのである。

ハッキリ言えば、この局面を理解するにはどうしても「神の数学」の知識が必要であり、それを欠く限りこれらの難解局面を打開することは絶対出来ないと言うことである。

一つそのあたりについての解釈を試みて見よう。

 

そこには次のような難解言葉が記されていて訪れる人々を当惑させ煙に巻いているのである。それが、すなわち、大いなる「九の花」の言葉であり、いわば、「神の花」の姿、「神の花」で満開な存在、すなわち、極まった大弥栄の仕組みを告げているものである。
 まことに難解至極な弥栄言葉の存在とも言うべきものであり、それらの言葉の存在こそが今まで人々の目を曇らせ攻略不能、難解この上ないものにし、研究者達を困らせ嘆かせていたのである。

そこで今まで誰も解き得なかったこれらの難解言葉の意味をこれから皆さんにお目にかけるとしょう。それはシッカリと「神」の存在を歌ってやまないものであり、まさに「神」の化身である()の花」の競演によりすべては進展し、栄えある弥栄を迎えることが出来ると歌っている驚くべき言葉である。 これらの言葉に迫り、解き放つことが出来るのは宇宙自然の真実を説いている古神道から現れた「神の数学」だけなのである。

考えて見れば、この()の花」の言葉はすでに「ひふみ神示」が現われる50年前の明治三〇年には大本教の創始者により既に語られているのであるが、誰もその真意を解すことは出来なかったものである。 それを語った本人でさえも判らなかったものである…!!?。

一つそのあたりを紹介して置こう。

 
  ◎≪九つ花は誠から咲せる花であるから、三千年の経綸を致した誠の元であるから誠の人の世話でないと、このお世話は決して出来んぞよ。≫

 ◎≪この大望な経綸の致してあることを、世界に一人知りておる。誠の人はこしらえてあるから、この誠の人が出て来ない限り解らんぞよ。≫

 

 例えば、≪九つ花に咲く一輪の言霊の経綸≫と言うまことに簡単な言葉の内容でさえ、明治30年(1897年) 以来誰も解すことは叶わず、120年近くただ捨て置かれているのである。この言葉の意味するものは古神道における奥儀祝詞である「ひふみ…天地の数歌」であり、そこに秘められている九つの言霊による地球自然の誕生物語を指しているものである。

 

まずは「九」に関する言葉を「ひふみ神示」の「アレの巻」より拾い上げて見るので、  初めて目にする方はジックリ読み込み、十分な洞察と検証をお願いしたい。

 今までの「ひふみ神示」研究者達のすべてはここにある不可解極まりないな言葉に惑わされて一歩も進むことは叶わず、ただ原文を掲げて満足するしかなかったのである。

 恐らく、この「九っ花」については皆さんもご存じのはずである。なぜならば、それは世間で有名な天明さんの「ひふみ神示」の中で盛んに語られている言葉であり、最大の秘密言葉とされて人々を惑わし、悩ませているものだからである。

 その「ひふみ神示」中には最も難解な文と言われている「アレの巻き」がある。

そこではひと際目だって「九」の言葉、及び、「九」のデフォルメ言葉が数多く用いられていることを知ってほしい。要するにである、この「九」なる文言は「ひふみ神示」を完全に解くにあたっては無くてはならない極わめ言葉であり、最も深い意味を持つ数言葉の神髄と言ってもいいのである。何故なら、「九の花」=『0の花』の意味であり、「神の業」を意味するものである。それが沢山並んでいる様はまさに「0の花」と言う「神の花」が一斉に咲き誇り、まさに「神の力」と言うものを誇示して止まない「言葉の群」なのである。

 

一つ、それを「ひふみ神示」の中の「アレの巻き」から拾って見ることにしょう。

 

<道開く (99)の極(9)みぞ>  <陰陽の極(9)み、言(9)との極(9)み>  <弥(18(くく))(さか) >  <ここ(99)の理>  <数と字の絶対光(9)の道>  <花咲(873=18→9)く時>  <光(9)の経綸>  <山にも地にも光(9)の花開くの理ぞ>  <天の言玉(180)の理>  <光(9)の答>  <根っこ(9)の理>  <光(9)の文路知らせたり>  <言(90)の絶対の答>  <光(9)の神>  <咲く花(3987=27→9) >  <軸(29=99(くく))の理ぞ>  <不二(真理)軸(29=99(くく))の世>   <光(9)の御座>  <空(9)字御霊>  <数開(18)き> <ひつ(筆)九の神>、 <九の道を早う開いてくれよ>  <一二三唱えると岩(18)戸が開くぞ>  <不二(真理)に九の花どっと咲く、御代近づきぬ>  <光(9)の神には何事も弥栄弥栄ざぞ>   <字の言座(99)、名の極みぞ>  <心(99の神)しめて読む解きぞ>

 また、この「ひふみ神示」のなかでは「ひふみ九九算表」の名前は次のように呼ばれている。「百取りしろ」、「網母十理しろ」、「網母なる極み」、「玉秘出づ理」、「玉基理」、「つき秘理」、「九なる識道」、「百霊継ぐ文字の道」、「基の大数さなる大神」、「光(9)の御座」、「秘加理」、「秘継ぐ数字の大神」等であり、すべては同じものを指す言葉である。

 

また、「神の数学」で解ける「ひふみ神示」の難解フレ−ズは次のようなものである。

 

 <ひふみの秘密出で開き鳴る>   <ひふみ祝詞する時は神の息に合わせて宣れよ>   <岩戸開くとは元の姿に返すことぞ>   <ひふみの仕組みとは永遠に動かぬ道のことぞ>   <今度は神があるか、ないか、をハッキリと神力見せてイシヤを改心さすのぞ>   <学た知恵では外国にかなうまいが、神たよれば神の力出るぞ>  <こ(9)の道は神の道であり、人の道であるぞ>   <今度の戦いは神力と学力のとどめの戦いぞ  ・ (意識)ばかりではならぬ ○(物質)ばかりでもならぬ?がまことの神の元の国の姿ぞ 元の神の国の臣民は?でありたが、・ (意識)が神国に残り○が外国で栄えて、どちらも片輪となったのぞ>   <一厘の仕組みとは○に ・を入れることぞ>   <今度の九の花は真理に咲くのみざぞ>   <秘継ぐ数字は大神(0)であるぞ> <不二(真理)に九の花咲くや媛>  <九の花咲けばこの世に出来んことは無いぞ>  <五十意図(アイウエオ五十音図)始めの光((九)知りて尊き御世となりふる>

 

中でも私が一番気に入っている言葉は次のものである。


 ◎第一歩の前に0歩があるぞ、0歩が大切ぞ、心せよ。そなたは行き詰まって苦しんで御座るなれど、それは間違った道を歩んで来たからぞ。

 解釈 …12345…の自然数の前にはがあるのである。そのが最も大切なものである、そこに気をつけよ。現代科学知は終焉と言われて苦しんでいるが、その大元は自然の知と異なった道を選択したことが原因である。要するに、0 の道を知ることにより自然の大道が開かれると言っているのである。

 

◎ 一二三とは限りなき神の弥栄であるぞ、一(ひ)は始めなき始めであるぞ、ケは終わりなき終わりであるぞ、神の働きが一二三であるぞ。

 解釈 …ひふみ祝詞は永遠なる大自然の大律を歌っている大切なものである、 1と言うものは最初の数とされているが、そうではなく 1の前には数がもう一つ初めの「神の数」であるが存在しているのであると歌い、更には、最後の数であるケ(9)は終わりではなく、その後にはまだまだ数が続いていると歌っているのである。

 

◎ 『五十音図(アイウエオ図)』初めて光り知りて尊き御世となりふる、まことの神の筆なるぞ。

  解釈 …アイウエオ五十音図は初めて正しく読み解かれることにより素晴らしい時代が来るぞ、これは人間の手になるものではなく、まさに神の手になる尊き「書きもの」であるぞ。


 ◎ 天が上で地が下で、中に神人あるのじゃ、それが弥勒の世じゃ。

 
 解釈…天と地の間に神界が存在する、それが本当の正しい自然現世の仕組みである。神界とは我々の中、我々と共に在る自然界の中に存在しているのである。

 

確かに、ここにあるこれらの言葉は大変難解なものである、それは要するに、先触れ予言書である「ひふみ神示」だけでは決して解くことは叶わないものであると言うことであり、後から出て来る「ひふみ神示」の本文を解いて初めて弥勒の世が出現すると言っているのである。

その答を完全に解き放つにはどうしても古神道の祝詞である「ひふみ…天地の数歌」とその本体を十分に知らなければならない、それだけは知っていてほしい。

その本体をシッカリ理解することにより初めて「アレの巻き」の難解言葉の意味を察することが可能になるのである。

要するに、「ひふみ神示」は予言の書であり、その後、その真実の束ねである「神の数学」が出て来て揃わない限り完全な読みに入ることは出来ず、その内容を把握することはまったく不可能であると言っているのである。 

 

そこにはシッカリ記されているではないか…!!!。

 

 ◎ ≪今迄の日本の宗教は日本だけの宗教。この度は世界のもとの、三千世界の大道ぞ、教えでないぞ≫と…。

 解釈 … 今のところ神道は日本だけにとどまっているが、しかし、正体が判れば世界的なものになる、すなわち、それが「世界神道」となると言うことである。 また、神道こそは「この世」「あの世」を含む宇宙自然を跨ぐ大きな自然の律理の道を説くものである。それが、すなわち『宇宙神道』と言われる由縁となるものである。その理は甚だ簡単なものであり、宇宙自然には(マイナス)は無く、すべては(プラス)の象だけであると言う単純なものである。

 

◎ ≪「ひふみ神示」は経綸の計画書じゃ、束ねの神は、束ねの人は後からぢや。あとから出るぞ、少しの時の早し遅しはあるなれど、いずれは神示通りに出てくるぞ≫…と。

 解釈 …「ひふみ神示」はあるべき道の大要を示しているものである。その本当のことを知る人物はこれから現われて来るのである。時間的な事はハッキリ言えないがその中に予言通りに現われるはずであるぞよ。しばし、待て…!!。

 

これらの文言は更に延々と続き、最後には次のような言葉で結ばれているのである。  さあ、賢明なる諸氏はこれらを何と読み、何と判じるのであろうか…!!?。

 

重複するであろうが、私の二〇年前の研究詳細綴りの中から見出したものを解説文と共に記載して置くので、出来るだけ諸氏の頭脳の限りを尽くして追加説明を加え、世界中の人々が納得するような解説文に仕上げてもらいたい。  それが恐らく、「ひふみ神示」の完全説明に至る本当の近道であると考えている。

 

すべては神意による謀(はかりごと)≠ナあり、一つの歴史の流れとしてある時期が来るまでは秘密のうちに隠し置かれ、立ち入ることは許されなかったものである。

 その時期≠ニは、すなわち、これらのの母体とも言うべき古神道の大祝詞「ひふみ天地の数歌」の全容が人々の前にあからさまにされ、指し示される時である。

 

これらの私の解釈は『神の数学』との比較対照に基づくものであり、以下に記す解釈は、『神の数学』の目をもって考察した私流、我流の一つの解釈であり、何ら他意のないものであることを先ずお断りしておきたい。

要するに、あまり歯牙に止めることなく、あなた方の心の行く所、思った通りの表現で言葉にしてもらいたいと言うことであり、これらをあなた方の言葉に変えて表現しても一切構わず、何ら遠慮などはいらないものである。

 

では次に『ひふみ神示』に記されている内容を確かめてみよう。その上で次に示す各節の意味についての考えを巡らし、その意味の仔細を十二分に考えてもらいたい。

 

◎   途中でグレンと変わる仕組みしてあるぞ、その秘密の仕組みとは富士と鳴門の仕組み…  

      ⇒ 今の知の仕組み、すなわち、現代西洋科学知が完全に否定され、180度変わるものである。それが富士と鳴門の仕組みの意味が分かるった時である。

◎   富士が動くまで何がありても堪えてくだされよ

   ⇒富士が動くとは富士の仕組み≠キなわち、不二(真理)の仕組みが解けることである。何とか、その秘密が明かされる時まで頑張って下されよ。

◎   富士と鳴門の仕組みいよいよぞ、これが判りたならば、どんな人民も腰をぬかすぞ…

⇒「0の仕組み」と「9の仕組み」いよいよ解明される時が来たぞ、それが明らかになった暁には誰もがビックリして腰をぬかす状態になるぞよ

  ◎富士は元のキなるぞ、鳴門はその現れの働き…

⇒富士は元の気=宇宙の意識、すなわち「0」、鳴門はその現れの働き、すなわち、「9」であるぞ。→ 意識「0」が→物質「9」

◎   動かん富士の仕組み、開けて渦巻く鳴門じゃ

⇒絶対律である0の仕組み、そして判れば吃驚仰天する9の働き≠ェあるぞ。

 

◎   富士とは火の仕組みぞ、鳴門の渦うみとは水の仕組みで、火(ひ)水(みず)、すなわち秘(火=富士火山)密(水=鳴門の海)の仕組みぞ、今に分かるて来るぞ  ⇒ 「火=()=(意識=0)」と「水=(みつ)(充満=9)の仕組み」。 すなわち、「陰」と「陽」の仕組みのあることが判るはずである。これが今まで誰も知らなかった秘密の仕組みであるが、それがだんだんに判り始めることになるぞ…!!。

◎   なりなりて十と開き、二十二となるぞ、富士晴れるぞ、大真理世に出るぞ

⇒すべては秩序と調和による「0」の秘密であり、その仕組みが明らかになるぞ、大真理世に出るぞ=今の科学知を越えるもの=『神の数学』が現われるぞ。

◎   新しき世界の宮はトチ(神知・十知)であるぞ、スマイ(数真意・場)であるぞ。

⇒トチ(土地)の上にと住まい(家)を建てる、それはは不可分な関係である。それを示しながらトチ(神知)とスマイ(数真意) は同様に不可分であることを示す。即ち「神の知」と「真実の数」は不可分であると言うのである。それはすなわち、「神の知」=「真実の数」と言うことである。

 

また、現れるべくして現れた『ひふみ神示』の「アレの巻」に示されている大真理≠ニは、次のような内容をもつものである。     (『ひふみ神示・アレの巻』より

 
 ◎九九の理、字の絶対出づ
 ⇒ 「ひふみ九九算表」の真実が分かる、「字」は《地》である、すなわち、 「ひふみ九九算表」の「本質的な性質」「先在的な理」の存在が判って来ることをを示すものである。

 

 ◎ 根は九ざぞ、まことざぞ ⇒『根』とは「根本原理」「基本原理」であり、それを表す「0」=「9」に注目せよの意である。

 

 ◎道開くは『0』の極みぞ ⇒ すべての道を示すものは「0」の理である、「0」は1の前の数≠ナあり、それは『神』の姿を指し示し、宇宙自然を生んだ母体ともなる大切なものである。

 

 ◎数と字の絶対『九』の道 ⇒数と字(場)の「九の道」とは古神道祝詞であるひふみ…九九算(九進法)≠フこと、 また、 (「字」とは小さい場の小区分のこと…、そこから数(エネルギ―)と場(空間)の絶対的な法則の存在を言う)

 

 ◎字の『九九』の意味の極みは「あの世」ぞ、富士に花咲く時ざぞ ⇒「ひふみ九九算」はあの世、すなわちもう一つに併存する自然世界の存在を示すものがある。それは「ひふみ九九表」の意味と仕組みを考えればすべてが判るものである。それを称して不二(真理)が現れるというのである。

 

 ◎山にも地にも万劫『九』の花咲くの理ぞ (万劫の「九」の花→0999999990) ⇒自然界は「9」のリズムで共鳴し、それが相和同調することにより森羅万象に合い伝えるものである。

 

 ◎『九』の仕組み四十八音となるぞ、「いろはの理」であるぞ ⇒ 九の仕組みにより「五十音図」の理は解ける。『九』の仕組みで「アイウエオ」の謎も解けのである。

 

 ◎理の極みの九の答は大空間(宇宙次元)、百霊継ぐ文字の道(あの世の仕組み)、生の極みたり(この世の仕組み)
   ⇒宇宙の極みの「9」のリズムこそ「宇宙次元原理表(ひふみ九九算表)」」にあるぞ。すなわち、それが「あの世」と「この世」を貫いている大律理と言うものである。
そのことは「ひふみ九九算表」にシッカリ示されているぞ…。

 

 ◎秘通基(ひつき・大自然の秘密)開く文字、すべてが成る『九』なり ⇒宇宙自然の秘密を開く文字、それは9の裏返し、すなわち『0』である。
  それはすなわち、将棋の成る≠引っ掛けて「9 =0」を示すものである。 (9の裏返し= 0の裏返し=9  まことに巧みな表現である。

 ◎世界中金の草鞋で捜しても九九より他に判らんぞ。
    ⇒世界中どこをどう探しても「ひふみ九九算表」以外には真実を示しているものは無いぞ。「ひふみ九九算表」だけが自然の真実を語っているものである。

  ◎面白に秘解く成答、文道にとどめたり⇒次から次へスラスラと面白いように解け、合わせて「九」になる秘密の答を論文として残すべし。

 ◎富士、鳴門の仕組み動くぞ ⇒いよいよ「0」と「9」の仕組みが解け始めるぞ。

 ◎字に成り成りませる『九』の神には、何事も弥栄弥栄ざぞ ⇒本質が解明されている「ひふみ九九算表」には何もかも満足であり、万々歳であるぞ。(「九の神」=「ひふみ九九算表」)

  ◎祝詞の心、はじめの開き字(一二三…)に現はるぞ ⇒祝詞の真実『ヒフミ…』、すなわち「012345…9」のもっている秘密が判ることになるぞ!

  ◎富士に花咲く御代 嬉し 嬉し 早う『九』の文路知らせたり、急ぐ『九九』の不思議ぞ⇒「0」という偉大なる真理≠ェ現れる時が来る。早くそれを含む「九の理」の文として解説を出して欲しい。早くひふみ九九算表の神業の素顔(内容)を見せてくれ、時間はないぞ。急いで九九の不思議な業を見せてくれ。

 

このような文言がさらに延々と続き、最後に次のように結ばれているのである。  さあ、これを何と読み、何と判じるべきであろうか。


 
◎ 心しめて読む時ぞ。まことの神と飛来の神と皆和する時成るぞ。あら楽し、あなさやけ、富士は晴れたり、言答は開けたり 
   ⇒しっかり心で読んでほしい、の日本の神と宇宙の神が結ばれて弥栄となる時が来た、何と素晴らしい、すべては成就したのであり言霊の本当の姿も明らかになったのである。
    (日本の神とは祝詞「ひふみ天地の数歌」、宇宙の神とは「宇宙人の持つ数学体系」であり、それらはまったく同じものであると言っているのである。また「宇宙人の持つ数学体系」      とは古神道にあるマイナスの無い数学体系であり、それが私が言っている「神の数学」の計算方式なのである。)

 ◎秘継ぐ数字は大神 ⇒秘密の数の基は「〇(ゼロ)」である、すなわち大神とは「0(ゼロ)」であるぞよ。

 
◎数開き成ること、大自然にあり ⇒数の本質の現れは大自然の中にいくらでもあり、いくらでも見られるものであるが、ただ人間がそれを知らないだけである。

 ◎道実る世 数の極み 真理ぞ⇒ 数の真実が現われた現在、数の本質の姿が明らかになるのである。それがすなわち、自然の普遍真理を表すものである。

 

 あなた方は呆れ、騒然となるであろう。しかし、私は常に講演会などを通じて、すべてを理路整然と説き、説明してもいる。その講義タイトルが「古神道は世界神道である」及び「古神道は宇宙神道である」と言う完全なる現代的な事実、数学的な発想に基づいて語られている現代版の古神道物語なのである。これは日本神道を改めて見返す必要のあるものであり、全国民に知って貰いたい大事実と言ってもいいものである。
その講義内容については、今のところ誰も疑念を発した者はいない、それだけ、誰も知らない由縁由来と確かな資料をシッカリ備えて講義申し上げていると言うことなのである。

まさに、それは神道研究者必見の驚愕の内容を秘めている歴史的な発見であり、神道界にも大きな衝撃を与えて止まないものであると考えている。

その説明仔細を知りたい方は神の数学の「講義書とDVD」を求めの上、改めて本当の神道研究に邁進して戴きたい。 まさに古神道は日本の「知の宝」であり、人類の未来の為の「叡知の秘宝」でもある。 
           それを知ることにより、はじめて日本に生まれてよかったとの安堵感が生まれ、生きる力が甦がえって生き生きと心もリフレッシュ状態が生まれるのである。 更には古代に対する探究心も一入増して密かに
          楽しんで魂をウキウキさせることになる。  その上更に好奇心が増すことによりとてもボケてなんぞいられない気分になるものである。   60歳以上の若者達よ 元気出さんかい…!!、ウワッ ハ− ハ− ハ−…!!。
                                                (それらの詳細についてはHPで神戸・サラシャンテイを索引し、問い合わせて戴きたい。)

 

 また天明さんは次のようにも言っている…!!。

 

≪「此処(ここ(九九))は()の道伝え、行う所であり、教えでないと申してあろう。教えは教えに過ぎん。道でなく教ではこの道判らんぞ≫

 

≪「世界の何所さがしても、今では九九(ここ)より外に、神のマコトの道知らす所ないのざぞ。何も分らん枝葉の神に使はれていると気の毒出来るぞ、早う其の神と共に此処(ここ(九九))へ参りて、マコトの言を聞いて誠に早う立ち返りて下されよ≫           

 

≪こんどの()の花は真理(不二=ふじ)に咲くのみざぞ。不二に九(こ)の花咲くや媛(ひめ)まつれと申してあるが、九(こ)の花、おのおのの心の富士(真実)に咲くのざぞ。九(こ)の花咲けば、此の世に出来んことないぞ。≫   ≪日本の古()語がマコトの言葉ぞ、言霊ぞ、数霊とともに弥栄ゆく仕組み≫  ≪九の花咲けば皆よくなるのぞ、九の花中々ぞ≫   ≪世界の何処を探してもココ(99)より他に神のまことの道知らす所はないぞ、≫  ≪今度の御用は九の花咲かすことじゃ、真理に九の花咲かすのじゃ≫   ≪第一歩の前に0歩があるぞ、0歩が大切ぞ≫  ≪世界中金のわらじで探しても、ここ(99)より他は解らん≫ ≪九の仕組み近づいたぞ、神代近づいたのであるぞ≫。

 

 もう一度、「ひふみ神示」をシッカリ読んで見てほしい、改めて呆れるばかりの九の言葉の礼賛があちこちに見られることに気がつくであろう。

しかし、残念ながら、今まで誰もその言葉の真実を追及した者は誰もいない。 いや、追求したくても肝心の九に関する知識はまったく無く、まったく手の施しようが無かったと言うのが実情である。

 今、私が手にして涙で頬を濡らしているのが、他の方々には決して解ることにない「ひふみ神示」の一フレ−ズであり、驚くべき真実を語っているものである。紹介しよう。

 「鏡を掃除してくれよ。今にこのお告げが一二三ばかりになるから…」がそれである。 

 恐ろしいことに各「神の法陣」の数を計算すると、答はすべて123…が出て来ることにより正しい答となって終わるのである。 するとこの「神の法陣」は3種の神器のひとつである「鏡」なのであろうか…!!。 そう言えば、確かに歴史のある古い神社には神の本体として鏡が祀られ、大切にされている。一体その意味は…!!、ただ一人悩んでいる最中である。 考えて見ると、三種の神器とは確かに言葉の比喩に過ぎないものであり、三ヶの器具などと言う物体などでは決してないはずである。 恐らく、それは神器(ジンギ)ではなく、神誼(ジンギ)、すなわち、「神の道(自然の大道)」を意味する「カムナガラの道」を指す言葉を意味しているものではないのか…!!?。
 すると、その比喩の先にある本当のものとは一体何であろうか……!!??。 3ヶの自然の持つ素晴らしい叡知を指すのか、それとも、我々が知らなければならない3ヶの自然の道の存在すなわち「カムナガラの道」の内容言葉なのであろうか…!!?。  「誼」とは辞書によると「道」、「道義」の意味である。すると失われたと言われている「カムナガラの道」と3種の神誼(ジンギ)は同一と言うことになるのである…!!??。】

 

 さて、この不可解な古代と現代にある知のレベル・デファレンスは一体何であろうか、それを解き放つことにより歴史の大きな現実がしかと見えて来るのである。

 要するに、そこにあるものが、すなわち現代知と先史文明知の大きな隔たり、その相違なのである。またそれは知の基盤が完全に異なっていると言うことでもあるのである。

 当然、その隔たりは「知」だけではなく「神」に関する知識が異なっていても何ら不思議はない。要するに、現代知の世界で数千年間放って置かれた「神」の真実が古代では誰かによりシッカリ顕わにされていた可能性もあると言うことである。

 それを証しているものが、あの古代文献「神文のこととぎ」の不可解な言葉なのである。

  そこにはシッカリと書かれているではないか、先天(天御世)の伝え後天(御世)の伝えと…!!。それはすなわち、「先史文明」「現代文明」の確たる存在を表す日本の古代の言葉なのである。 するとやはり、超古代文献類の語る超古代の史実は間違い無く存在したと言うことになるのである…!!!。

 

古代と現代の隔たりとは、すなわち、そこにある言葉がすべてを説明しているのであり、それが、すなわち、先史文明現代文明の存在を意味する世界に類の無い歴史言葉の存在なのである。しかし、我が身の大切さを重んずる学者達は無視するだけで、歴史の真実などはまったく気にしないのである。

 

 我々日本人は西洋文明の言葉に操られ、地上に現われた初めての文明が現代文明であると言葉巧みにそそのかされて、今の今まで、そう信じきって来たのである。


 その手先になったのが学者達であり、日本の数多の古代文献を偽書扱いにし、最近の作であると愚にも無いことをこぞって発表して国民を煙に巻いて己の立場を擁護していた。まあ、考えて見るとまことに愚かな行為であり、国民を裏切り、国を貶め、かつ、人類の歴史を損なった卑劣な行為と言ってもいいものである。勝手に歴史を書き換えることは「神」にも出来ない不届きな行為であり、破廉恥な行為と言うものである。

その結果が今ある日本の歴史のちぐはぐな姿であり、時の権力者により古き歴史的事実の消去行為が行われてちぐはぐになっても誰も訂正が出来ない、そのまま伝えて疑問を持たないと言う魔不可思議な世の中ななっているのである。歴史学者であるなら矛盾があれば歴史を問い質すくらいの気概は持っても貰いたいものである。
 確か、日本の歴史年表には3から4世紀にかけての長い空白期間があるはずであるが、学者達は当時の大陸の歴史書には何も書かれてはいないので不明であると言い、それで空白の理由であると言っている。裏を返せばまったく不名誉な事、恥ずべきことである、僅か2千年前の自国の歴史が何も判らず、他の国の書にすべてをおもねて平然とし、自助努力をまったくしない、何と不可解な態度であり、呆れた始末なのであろうか。それで民族の宝である古い歴史を持つ超古代文献にたいしてはケチをつけ、偽書として無視し、何ら調べることもしない、なんと破廉恥な態度なのであろうか…!!。ただただ、呆れるだけである。

 
 ロ−マ興亡史を表した歴史家ランケは「およそ、個人ばかりではなく、民族または国家さえも自らを信じる力を失った時、それが滅び去る前兆なのである」と喝破しているがまさにその通りである。  今の日本を見るがいい、まさしくその前兆の予見が感じられるような気がして仕方がないのであるが…!!!。

 人々を信じ、民族を信じ、国を信じて生きて行くことが、国家を繁栄させ、民族を勢い付けて未来につないでいくことになる原動力なのである。 果たして日本は…!?、我々は…!!?。
 

                                                                                 ≪今月の記(2015年8月) 完≫

 

  

「神の法陣」大精義講()

 偉大な「自然の真実」の語り部達…!!(その9)
  
     ∴ 遥かなる0(神)を求めて…!!!<5>                    2015年9月上載 

 

 先々月に引き続き古神道の祝詞「ひふみ…天地の数歌」の持つ驚くべき秘儀についての大検証を行なうことにする。そこには未だ人知の及ばない「自然の数理の仕組み」や「大いなる宇宙普遍の知」等が数多存在し、無窮なる時の刻みと共に永遠の存在を誇っているのである。その事実については現代の学者達は何も知らず、あまつさえ、古代の人々とは無知蒙昧で何も知らない無学な人々であったとうそぶいているだけで、一切、真実を知ろうとはしない。
 
 
 もし、彼等がこの数千年前の古神道の祝詞「ひふみ…天地の数歌」の古今無双の「神の叡智」の存在を知ることになれば、少しは考えを改めて真面目に考える羽目になるかも知れない。要するに、現在のような知の閉塞状態を打破する為にはこれら古代の秘伝秘儀の存在をシッカリ確認することが必要である。
 なんせ、日本には世界には類を見ないような古史古伝の類がゴロゴロと転がっているのである。ただ、それらは現代のような学者の脳の程度では御しきれないものであり、ただ彼らにはまったく理解不能なものと言うことである。

 

例えばである、古事記の中には訳の判らない神の名前が沢山記され語られているが、それらをしっかり読み込むことにより宇宙や地球の創成や自然の成り立ちが描かれていることの気がつくはずである。また、「カタカムナ」「ホツマツタエ」などの未知の文字で記されている超古代文献の類などもあるが、学者達は理解不能として、ただただ無視を決め込んで、捨て置くだけである。
 
 今、時代は大きく変わり、日本の縄文時代の歴史は世界最長のエジプト文明期に比肩するばかりの一万5千年と言うスパンを持つとさえ言われ始めている。確か、数十年前の縄文時代のスパンとは僅か3千年くらいではなかったか…?。

それにしても余りにも変わり過ぎる、一挙に5倍とは…!?。歴史ってそんないい加減なものなのであろうか…!?。

このわずか100年余りの間に、世界に名だたる国力を開花させた日本民族がこの縄文期と言う長い一万5千年の時の流れの間には何回か同じような誇るべき「知の文明」を開花させたはずである。そのことは十分に予想出来るものであり、超古代文献にもその事実はさまざまな形で記されているではないか…!。

ただ、日本の学者達は臆病であり、仲間外れにされるので言いだすことが出来ないのである。そのうち、外国の学者に促されて誰かが言いだすであろう。

 

歴史には再起性がある、繰り返し同一現象があると言った有名な歴史家がいたはずである。彼は「歴史は繰り返す」とも叫んでいた有名な御仁である。

彼以外にも有名なフランスの自然学者であるC・G・ユングも述べている、歴史とは時間の谷間に現れる「時のシンクロニシテイ(再現現象)」であり、「時のコインシデンス(生起現象)」であると…!!。

 

それらの古代日本の超文明の存在は様々な古代文献にはしっかり記録され物語られているのであるが、如何にせん日本人は誰も信じようとはしない、  それどころか、ただこけ下ろし、笑い去って無視するだけである。

何と自虐的な悲しい構図であり、愚かな現実なのであろうか…!!。

改めて知るべきである、「歴史は繰り返す」と言う言葉の持つ大きな真実性を…!。 また、それが自然の大道であり、大宇宙の大いなる因果的自律性の表れ、すなわち、歴史の持つ一つの慣性とも言うものである。

 

今回は改めて日本神話の「神物語」の中にある数の語る神々の系図とその本当の姿を改めて古事記に従って読み開き、その真実性をジックリ見てみよう。それらは今まで同じ言葉の繰り返し、3千年前の古代人の語った言葉の単なる繰り返しがあっただけで誰もそこにある神々の真実を確認しょうとしない。

ただこの3千年間同じ言葉の繰り返しが続くだけで、在るべき詳細な説明などは一切語られた事はない。それは余りにも単純、あまりにも言葉の少なさ、それに恐らくは国の誇る古神道の第一文言の故に恐れをなしていたのであろう。でも誰かが踏み込まなければこの由緒ある第一文言の言葉を開くことは出来ないのである。そこで不肖、私がかって出たと言うわけである。了承のほどを。

 

まあ、名だたる神道家諸氏には恐らく、叱られ、苛(さいな)まれるではあろう。それは十分に承知はしている。しかし、その中に歴史がこの真実を証明し、真実を明らかにしてくれるであろう。要するに、これは「数の語る」事実であり、その証明なのである。

しかし、これを覆すには難しいであろう、何故ならば、それには新たな歴史事実の証明が必要であり、第三者的な揺るぎない真実証明が必要がどうしても必要だからである。



   『古代の神々の秘録』より

古事記に曰く、

 「天地初めて(ひら)けし時、高天(たかま)の原に成りませる神の名は、天之(あまの)御中主(ごなかぬしの)(かみ)次に(たか)御産(みむ)()(びの)(かみ)神産(かみむ)()(びの)(かみ)此の三柱の神は、(みな)(ひとり)(みの)(かみ)と成り()し、身を隠したまひき」とある。

 それを要約すれば、天と地が初めて開けた時、高天の原(たかまのはら)に出現した神の名は

天の御中主(あめのみなかぬし)の神。
次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。
     次に神産巣日神(かみむすひのかみ)。
          この三柱の神はみな独神(ひとりがみ)となって身を隠されました。

 

「天之御中主神」は天地開闢(カイビャク)神話で宇宙に一番最初に出現し、高天原の主宰神となった神である。 その名のとおり宇宙の真ん中に在ってすべてを支配する神で、日本神話の神々の筆頭、すなわち、創造神に位置づけられている「大神」である。

  それらの神々の仔細をここでシッカリ明かし申そう。

ここにある古神道の奥儀祝詞「ひふみ天地の数歌」の本体である「宇宙次元原理表(ひふみ九九算表)」を見れば、これら三柱の神々の姿がよく表されているのであり、その芯をシッカリ読み込み、精査することによってその神々の存在がだんだん判ってくるはずである。

 まずは、この神々の存在場とは我々の縦横の世界に対して45度の異なりを持つ斜めの場にあると言うことを知らなければならない。 その45度の異なりを持つ斜めの場こそが「神」の大いなる御座であり、我々の存在と常に境を接しながら存在する「神界」と言われる場なのである。それは言わば、我々の体の中に、あるいは我々と完全密接している自然の中、すなわち、我々とまったく同じ存在場に重複の状態し、完全に隣合わせの状態で「神の場」がシッカリ鎮座しているのである。そのあたりのことはこの「宇宙次元原理表」を調査することによりよく判るはずである。まずは、この神々の存在場とは我々の縦横の世界に対して45度の異なりを持つ斜めの場にあると言うことを知って欲しい。その45度の異なりを持つ斜めの場こそが「神」の大いなる御座であり、我々の存在と常に境を接しながら存在する「神界」と言われる場なのである。

要するに、我々の次元世界は縦の場と横の場であり、その中間にある「神の場」を見ることは許されてはいない。我々の描くことの出来る次元の場は点の世界(1次元元の世界)であり、それを90度転位した縦と横の世界(2次元の世界)、またそれをまた90度転位させた縦と横と高さの世界(3次元の世界)だけである。

我々には縦と横の世界だけの存在であり、半直交(45度)の世界などを覗くことは許されてはいないのである  それ故に、今まで誰もその斜めの世界の存在には気がつかなかったのである。 ただし、我々の直感と本能は「斜めの世界」に「神」はおわす事を知っているのである。その証拠に我々は知らず知らずに眼球を斜め上に傾け、難問の答を求ようとしているではないか…!!。難しくなればなるほど頻繁に斜め上の世界に目を寄せ心を運んでいるのであるがあなたはそれには気がつかないのである。

 

それは言わば、「神々」とは我々の生活圏の中に、あるいは我々と完全密接している自然の中で共存状態にある、すなわち、我々とまったく同じ存在場の中に重複した形、すなわち、完全に隣合わせの状態で「神の場」場は鎮座していると言うことなのである。 

そのあたりのことは「神の数学」の「宇宙次元原理表(ひふみ九九算表)」を調査することによりよく判るはずである。


そのあたりを我々の祖である古代日本民族は自然の中に宿る神々を五感で意識し、毎日の生活の中でその存在を崇め、伏し拝んでいたのである。確か、40〜50年年前までは神々の名を札に認(したた)めて毎日感謝を捧げていたのである。まあ、80歳前後の御仁には心に覚えがあるであろう。

それが山の神、井戸の神、台所の神、便所の神などの名札紙であり、それぞれの活躍場にしっかりと貼られていたのである。恐らく今でも由緒ある田舎の家では見かけることが出来るはずである。

 しかるに、現在では人々の思想は西洋化して完全に異なった状況下にある。今では「神」、そんなものは無いと口では否定しながら神棚を祀って礼拝しているのであり、こぞって宗教に参加して「神」を讃えているのである。

神を追い求めている人々は遥か遠方に本当の「神の場」があると考え、それを求めて旅立ち、あるいは遥か遠方の有名な神社に御利益を求めて参拝しょうとしている。また分限者は神に近づく為に大金をはたいて仲介者を見出そうとして,懸命に東奔西走を行っているようである。彼等は自分と重なってまったく同じ場に「神」が存在しているなどとは夢にも知らないのである。 まさに、哀れと言えば哀れな存在である。

神を求めようとするならば、神と呼吸を合わせる、すなわち、気持ちを自然と一体にして欲とか名誉、邪(よこしま)な心などを捨て去り、一心不乱に神の心に同調するようにしなければならないのである。ただ、その心の純度に比例して「神」の心は動くのである。まあ、時間は異なるが、これは、止むを得ないことであろう。

 最も今まで誰もそんなことを言った者はいないし、詳しく説明する者などもいなかった。それだけ、太古に比べて現代人は神への感謝の気持ち、崇拝の念が少なくなり、その分だけ直感力や洞察力が落ちて来ていると言うことである。

 ここで改めて、古神道の奥儀祝詞である「ひふみ天地の数歌」の表を見て欲しい。そこの縦と横の間にある斜めの数列、それが「神々の存在場」である。

見るがいい、そこにあるすべての数列は驚くべき鏡面対称の姿を持っているのである…!!。一体その意味とは何であろうか…!!。

そこにある姿こそが本当のあるべき「神の姿」であり、驚くべき神の正体を表しているものである。そう言えば、確か西洋の諺にもあるはずである。

神の言葉として「I am I」と…。すなわち、それは鏡面対称の姿、すなわち、「神」は左右対称の姿を持つていると言っているのである。

 

その斜めの最初に鎮まる≪0≫の姿こそが宇宙自然の絶対神である天之御中主神の鏡面対称の尊い姿である。その次にある≪00≫とは次神である高御産巣日神(0)神産巣日(9)の二神の姿であり、これら三神は隠れて見えなくなったと記されている神々である。 ここであなた方は戸惑うであろう、何故ならば、以前に最大数列の対角線が「天の中主の神」の姿であると言ったことがあるからである。別にそれは間違いではない、≪0=9≫の法則からここにある≪0≫と≪対角線上の最大数列≫は共に「天の中主の神」として成り立ち得るものである…。 その仔細はまた、後日話するつもりである。

 

また、日本神道では全部では「10の神界」があり、そこにはそれぞれ男神と女神が対となって神界を護っていると言われている。 これからそれらの男女の神々の姿、及びその位置関係を数字で追って見よう。 それが古事記に語られている通りであれば、それは古代文言の正しさ、伝承言葉の素晴らしさの証明になるものである。

 

古神道で語られている「10の神界」とは斜めの場にある 0、及び次の00、そしてそれに続く「斜めの世界」に鎮座する10ヶの数列の姿を指すのである。 もちろん、そこにも当然、「陰」と「陽」の世界が存在して、各担当神が仕組みを握って順序よく鎮座しているのは勿論である。その「神々の仕組み」の内容を説明するのが今回の私に与えられた使命なのである。

 願わくば、何回も、何回もこれらの内容の仔細を十二分に検証して古事記に述べられている伝承言葉の正しさをシッカリ確かめてもらいたい。国の威信のためにも…!!!。

 

ここにある隠れて見えなくなった3体の神々は古文書では日本独自の神々であると学者達は位置付け、そう語っているが、別にそれは日本独特の神々ではない。 ただ、心の狭量で島国根性丸出しの日本の神道家達が日本独自の神々と言っているだけであり、広く世界の神々観を調べて見ると、現代物理学上でもまったく同一的見解下の神々の姿を見出すことが出来るのである。 それを知らずに、日本独特の知であると息巻いていた神道学者たちとはまさに井の中の蛙的な見解を持っていたと言いたい。

世界的な目、すなわち、現代物理学的な世界観によると現代物理学上では次のように考えられている事を知って欲しい。これは私の空事や寝言などではなく、れっきとした現代意識物理学者の著書からの言である。

 

 「現存する自然世界の頂点に位置するのが創造主のレベルである≪絶対≫と言うあらゆるリアリテイの基盤的存在であり、その下に位置するのが<霊的レベルと言う存在>である。

すなわち、最上界の≪絶対≫とある程度混じり合った状態が<霊的レベル>の存在と言っているのである。ただ、その二つの間にハッキリとした境界線を引く事は大変難しい、何故ならば、<霊的レベルの存在>は≪絶対≫を通じて宇宙の知識、及び宇宙の構造とはじかに繋がっていているので、ある程度、≪絶対≫と知を共有している存在であるからである。

                                      ……「超意識の物理学入門」(イツアック・ベントフ著)より。

 

大きく目を見開いてこの西洋科学の言葉をじっくりと見てほしい、ここにある≪絶対≫とは日本の大神である『天の中主の神』とと まとまったく同じものであり、同様に、次の霊的レベルの存在とは次神である高御産巣日神神産巣日神の神々の姿を指しているものである。 あいうえお
 要するに、これら古代日本の神々と現代の西洋物理学者の云う神々は本質的にはまったく同じものと考えられるものであり、そう考えてもいいものである。 

 

要するに、「現代物理学の神」と「古神道の神々」はまったく同じと言う驚くべき展開がそこにはあるのであるが、 今の日本の学者達は自分の国の古史古伝を一切顧みることはしない、むしろ、あまりの内容の貧弱さ、あまりの内容の唐突なことを恥と思いタッチすることさえも拒んでいる状態である。

しかし、今、完全なる逆転劇が始まろうとしている、それが「現代物理学の神」と「古神道の神々」はまったく同じ内容を持っていると言う驚くべき事実の存在である。

すると、恥ずかしいのは古史古伝の内容ではなく、神学研究者達の勉強不足、認識不足な頭脳であり、真摯な心掛けの欠乏と言うことになるのである。 

その証拠に昔と異なり最近では学者と名乗っても誰も驚かず、頭を下げることも無い、逆に憐憫の表情を見せるような始末である。何故なら、我々は世界有数の超古代文献、あるいは先史時代に遡るような素晴らしい知業を持っているのであるが、彼等にはそれらを生かしきれることが出来ないからである。

 さあ、つぎに掲げた「ひふみ九九算表」を更に深く考えて戴こう、 「神」存在場とその姿を描いている驚くべき「数図(斜め)」である。 一つ、あなた方の知の限り、力の限りをしっかりとぶっつけ、玉砕して戴こう…!!!。

   

  


  これらの「宇宙次元原理表」の数の場をじっくりと見てもらいたい、その表の斜めの場には 0から始まり00と続き、更には00以下に並びいる斜め数列 、すなわち、010,0220…等の鏡面対称数列の姿が見出されるであろう。 これが「陽の場」にある『神の数列』である。

更には対角線を挟んでその下半分にまったく同じ数列である「陰の場」が存在しているのがお解りであろう。それは対角線を挟んでまったく同じ形、同じ数列、すなわち、鏡面対称的な数列の姿をもち、なおかつ全体的な場としても「陰」、「陽」となる鏡面対称な存在として対峙している「斜めの数列」こそが『神の数列』と呼ぶべきものなのである。


 要するに、中央の対角線(天の中主の神)を挟んでまったく同じ「鏡面対称数列」が対の状態で存在しているのである。

この片方の「場」が神の「陰の場」であり、もう一つの「場」が神の「陽の場」として一つの構図の中にシッカリと納まっているのである。そしてそれぞれの場の主宰神が、いわゆる「カミムスビの神」と「タカミムスビの神」と呼ばれる二柱の親神でもあることは以前に述べたことがある。覚えているであろう。

古事記では神皇産霊(カミムスビ)、高神皇産霊(タカムスビ)と記されている神々であるが、そこにある文字から判断するとそれぞれの神々の生んだ子供、それがすなわち陰界と陽界に鎮座している十柱の神々(夫婦神)であり、姿はまったく同じであるが誰も知らない相対的な性質(+)(−)を持つ神々なのである

 

要するに、「カミムスビ(陰の場)」と「タカミムスビ(陽の場)」をつくり上げている諸々の神々、すなわち、古神道にある男神と女神と言われる「10対の神々」が力を合わせてこの宇宙自然をつつがなく治めていることをシッカリ物語っているものである。

 

次に、これらの綺羅星のように鎮座まします斜めの「10の数列(神々)」の姿をじっくりと見てほしい。その各場に現われた神々の姿はすべて左右対称の姿を持ってシッカリ納まっていることを見てもらいたい。要するに、これらの左右対称の姿とは「神」の本当の姿を表していることを知って貰いたい。

この事実は今まで、あまり「神道家達さえもも知らなかったものであり、殆ど語られることはなかったものである。

 シッカリ目を据えて見るがいい、それらの数列はまさしく、古神道で言う10の神界の神々の存在であり、すべては左右対称、すなわち鏡面対称の姿を持って鎮座しているのである。本来、神々とはこのように左右対称な鏡面的な姿を持っているのであるが、今の亜流日本人達の多く、すなわち縄文人の血をひいていない多くの日本人達はその事実をまったく知らないのである。


  
ここで改めて古代の神々の姿の真実を説明したいと思う。

 超古代の神々の姿とは何故か鏡面対称の姿を持っていることが多い

例えば、「天之御中主の神」の主な文字は「天」、「中」、「主」の鏡面対称文字から構成されている、同様に、「天の常立」、「国常立」、「大国主」、「高皇産巣霊」、「一言主」、等の古い神々の名前は鏡面対称文字が多く用いられているのである。 しかし、それもこの3千年来、縄文人の人口の数倍もの他民族の日本流入により徐々に失われ、忘れられていったのである。

 また、この「陰界」と「陽界」にあるまったく同じ鏡面対称数列であるが、エネルギ−の方向がまったく逆、進行方向はまったく正反対なことを知ってもらいたい。要するに、「陰」と「陽」の流れとなって相対的なエネルギ−の流れは0になっているのである。 また、すべての自然象は「神」の手で生み出され、「神」の手で最後は始末されることをこの「宇宙次元原理表(ひふみ九九算表)」は語り上げている、それを是非とも知るべきである。

まずはそのあたりのことを説明して置く必要があるであろう。ランダムに選んだ一つの例をサンプルに計算をしたが、出来れば他のすべてを計算して答を検証してほしい。
 それによりあなたの心には満足感が漲り、一つの完成した弥栄の心地、目出度し、目出度しの満足心が得られることになるであろう…!!。 

 

  例えば、例としてその中から、進行方向が逆である陰界の046640(→)陽界の046640(←)を取り出し、その本質を調べて見ることにする。

 
   

   

 「神」の心とはすべて無心、すなわち、片寄りは無く常に中立、無慾、無限小でありながら無限大であることをすべての計算結果が示している、それは同時にすべての自然象の本質は0である事をゆくりなく物語るものでもある。


  また、日本の神社の多くの本殿には「神の本体」として鏡が祀られていることは御承知であろう。

何故なのであろうか、その答えがこの「宇宙次元原理表」にしっかり納まっているのである。要するに、この事実も「ひふみ九九算表」を 何回も繰り返し、調査検証することによりすべては明らかにされて来たものである。

これら鏡の祀置理由についてはただ、神道家達は古代から伝承されているシキタリであるとして誰も疑問などは持たずただただ「神の本体」として崇め奉っているだけである。

 

これはすなわち、「神」は鏡面対称と言う姿を持っていると言うことであり、逆に言えば、鏡面対称的な姿こそが本来の「神」の姿であるとの古い時代の認識が心の底に残っているからである。

 

そもそも日本の神道家達は余りにも真面目すぎて、神道の先達者達の研究結果からはみ出すことを忌嫌い、決して路線を曲げようとはしなかった。 要するに、古代の神話やの言い伝えなどをそのまま信じているだけで、改めて新しい仮説を立ててそれらを根本から走査することなどは一切試みることはなかったのである。

何故なら、 それは一つの尊い「神」に対する非礼であり、「神道」をないがしろにするものと考えられていたからである。しかし、よく考えて見ると、余りにも神道に対しての従順、かつ恭順の心があり過ぎたのが今になって、逆に仇を為すことになったと言える。要するに、よかれと思って来た行為が逆に今の崩れ落ちんとする日本神道の現状を招くことになったと言うことである。 まさに今は過度期である、このまま手を拱いているだけならば、日本神道は長くはもたないであろう、誰か、危機感を持った若い人が立ちあがって根本的な事から改革を始めなければ、自然的に現在の当主あたりで滅亡となるであろう。現状では余りにも悲惨過ぎる、努力しな過ぎる。最早打つ手が無いと悲観するなかれ、まだ救いはある。
 別に、偉ぶるわけではない、静かに聞いて欲しい。私が日頃説いている「日本神道は世界神道である」「日本神道は宇宙神道でもある」を心行くまで精読することである。それにより、あなたの心の暗雲は消え去り陽の光が射して来る来るはずであり、心には勇気が満ちて力が漲って来るはずである。

 資料とDVD合わせてもたしか、3000円くらいで手に入るはずである。その上で内容に不審、あるいは不鮮明なところがあれば私にじかに尋ねるがよい。僅かな金子を惜しんで苦しむことなかれ。、まずは日本神道の古の精神に戻り、その最初の心を見出すことである。すべてはそこから始まるるものであり、最初の言葉がモノ言うものなのである。まずは勇気と克己心持つてことに当たるべきである。 その内容は大変易しいものであり、誰でも共感する超古代の事実をそのまま述べているものである。 出来ることなら、縄文の心を持っているすべてのを日本人に知って貰いたい驚くべき内容を持つものである。古代の知を偲び、古代人の心に感動を覚え、その度に熱い感激の涙を流してもらいたいものである。   
       言葉上、無礼、あるいは生意気な感じも多々あるであろうが、気に障ったら堪忍、かんにん。

 

古代からの神話、口承伝、古代文献などを頼りに、与えられた「神道奥儀の道」を精読熟慮して見ると、あやふやな姿と化した真偽不明なものや、行き方知れず、あるいは意味不明となっている神道の古い言葉等が多々見られる。

それをじっくりと見直し、並べ直してそこにある真実を現代的な知の下で改めて精査して見た結果生まれたのがこれらの「神の数学」の内容であり、同時に、「古きを学んで新しきことを知る」と言う諺の真実的存在と言うものを知ることが大切なのである。

 

 すべては時の流れの業であり、「神」の心の現れの大きなうねりを物語るものである。 歴史とは閉じられた輪の中で起る一種のフィ−ドバックであり、あざなわれた縄のように交互に場が現われて次々と行き過ぎ、変遷を繰り返していくものである。  要するに、現われた場の違いにより認識も次々と変わっていくのであり、学や常識もそれに応じて変わって行くのが常である。

それが「この世」の移り変わりであり、宿命なのでもある。 あまり固執しても意味が無いものであり、騒ぎ立てても時間と共に世の中はうつろいでいく、それがこの世の常なのである。

                                        ≪今月の記(2015年9月) 完≫   
次回からは「神の方陣(3)」に衣替えして「神の存在」を証明する積りである。さて、この人類永遠の命題を世界に先駆けて我々日本人が数的証明法であきらかにするのである。 しかも誰も否定できない見事な方法によって…!!。是非、応援をお願いしたい…!!!。