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       「数の中に永遠の真実を見る(1)〜(5)…25年10月の記まで…!!。
      


     
                                           
            数のささやき(1)                                      


  「数」の中に永遠の真実を見る。(1)

     まだ知らぬ自然の真実を尋ねて
      
<それは人間の知とはまったく相容れないものであった…!! 
                         平成256月の記 (5/27日載上)

大分長い間「神の数学」の欄の中で「数の意識性」、「数の真実」についていろいろと語って来たのであるが、どうも現代の人々の意識とは大分ギャップがあるようで、中々馴染めないようである。

「数には意識(こころ)がある」、それも「人間知以上の高い叡智」を所有していると例を挙げて説明しても耳を貸してくれるような奇特な御仁はなかなかいない。考えて見ると、それも無理は無い、現代歴史が始まって以来そのような戯言(たわごと)を口にした者は誰もいないのであるから。すべては遠い過去に起きた数計算法に誤りがあるのであり、すべては「10進法」と言う人間が作り上げた演算法に起因があるのである。

大部分の人は「数」とは人間が発明したものであり、そこには人間知の範囲外のものは決して含んではいないと思っている。それ故に、今まで誰も「数」の本当の姿や正体を調べようとすることも無かったのである。それはただ人間知の道具、人間知に属する一つの知の記号として万人にこき使われて来たのであり、今まで一度も日の目をみることも無かったものである。。

  改めて言いたい、「数」は人間の手になるものではなく、「神」の手になる一つの言語的なものであり、その意思を伝える道具であると言うことを…。しかも、「神」が大宇宙を創った時共に働いた、いわば「神」の分身とも言うべき尊い存在なのである。要するに、「神」の意思やその目的、あるいはその方法を明らかに出来るのは「数」だけであり、それを語っているものがこの「神の数学」なのである。要するに「数」は自然意識知の大いなるほとばしりと言っていいものなのである。

 

「数」は真実をただ語るだけであり、決して虚偽やいい加減な思いを語ることなどはない…。

なぜならば、「数」は自然の心と同調し、あくまでその心を伝えて止まないものだからである。

逆説的に言えば自然の心を知りたければ、我々は「数」に聞けばよいと言うことなのである。

もし、我々が何処までも「数」の言葉を信じて突き進めば大宇宙の真実、大自然の大律に出会うことになり、それに従って「数」を学べば誰でも大自然の答を得ることは出来るのである。しかし問題はその後である。要するに答を得てもその本質を知ることは出来ない、なぜならば、答は出せるがその意味内容は今でもまったく解明不能だからである。要するに、我々の今の知ではそこにある意味を解き放つことが出来ないのである。

すなわち、現時点の我々の知は自然の知に比べると余りにもその差が大きすぎて「得た答」を理解するだけの能力を持ってはいないと言うことである。そこにある答は正しいものではあるが、その正しさの証明も出来ず、その意味することも我々にはまったく理解不能なのである。
 要するに答は得たが意味不明であり解釈不能なので、ただただ不明として放り出すだけ、それが我々の知の現状なのである。。

 それだけ自然の知のグレイドが遥かに上であり、人間知ではどうあっても歯が立たず手の施しようがないのである。まあ、そのあたりは今回の「神の法陣」の導きだした答をしっかり検証を行うことにより、そのあたりの事情が十分に判るはずである。

 

考えて見れば、宇宙の知、すなわち自然知は宇宙の発生以来数百億年と言う長い間に少しづつ醸し出された真実を奏でる知であり、その間数え切れないほどの切磋琢磨や軌道修正を行ってきた者である。それはいわば完全完成された偉大なる知と言うべきものである。

 それに比べると我々の持つ人間知は時間的にはまだ数千年の歴史しかなく、まさに揺籃期の知と言ってもいいほど幼い知である。要するに、比べること自体が愚かであり、ナンセンスと言うことなのである。我々はもっともっと謙譲になり、教えを乞うことが必要なのである。

 

今回、我々はその際立った差を持つ自然の超知と合いまみえながら、対峙して見ようと言うのである。まことに恐れ多い事ではあるが…!!。

その知の答は「数」が導いてくれるので誰でも覗き込んで検証することは出来る、しかし、そこにある意味、内容に関してはまったく不明であり、手も足も出ないのが現状である。ただ、答を出すだけなら別に難しいものではない、小学生か中学生の知力で無理なく解けるものである。

しかし、その答の示すところの観念自体、概念自体そのものは今の人間知、科学知にはまったく存在せず、それを表現する言葉さえもまったく無い現状である。しかし、それだからと言って放りだしてしまえば人類の知は何も発展せず、このまま停滞があるのみになるだけである。

 

 そのあたりについてこれから諸氏と共に論じ合い、出来るなら、幾許(いくばく)かの許容可能な道筋を見つけ出してみたい。また、この後、数カ月間にわたっては同じような仔細の講義形式が続くはずである。要するに、すべてが疑問形式で始まり、疑問形式で終わると言うことであり、その答は今のところまったく無いのである。

 講義とは一方的に私の方から説明をするだけに留まり、対話的な形式ではないと言うことである。まあ、あなた方も研鑽を積んで将来は対話的な方向に進むようになることが望ましいのであるが…!!??。

まあ、それも今のところ、止むを得ないものであろう、何せ、あなた方は何も知らないのであり、手の内には何も持ってはいないのであるから…。

 

 再三言う、「神の数学」の中には結論的、結果的にあるべき真実を見出すことが出来ないものが数多存在する。是非そのことを知ってほしい。

すなわち、答はあるが、その答の内容を出しあぐねている意味不明なものが数多あり、今の我々の知ではどうしても解明不能なものである。

早く言えば、それらは私個人の乏しい知識では解明も説明も不能であり、どうあっても今のところ理解が出来ないと言うことである。

それらをなるべく簡潔な形で紹介しながら諸氏にも一つ考えて戴きたいと言うのが私の望みであり、願いでもある。それらにより、諸氏も宇宙自然の考え(宇宙意識)とはどのような傾向をもっているのか、また、どのように大宇宙を統べ、何処に行こうとしているのか、だんだんそれが判るはずである。私はその大仕事の遂行を是非、日本人に望みたい、それが可能なのは日本民族の感性であり、日本人のDNAだけが感応出来るものである。何故なら、これらの「数」の真実を知り、「数」の素性を知っていたのは古の日本民族、すなわち遠い我々の祖先だったからである…!!。
 その事実は今に残されている超古代文献により知ることが出来る。その文献の名は「神文伝(かみつふみのこととぎ)という古代の書物である。

 

今月からなるべく冗長無辺な説明は避け、簡単に要点だけを記して行くことにしたい。最早、「神の数学」に関しての基本的な概要はある程度まで述べた積りであり、諸氏もこれ以上の同じ言葉の繰り返しは迷惑千万でもあろう。

これからはなるべく理に沿った形で全般的な数理論の概要とそこにある問題の仔細を掲げるだけにしたい。出来るだけ、何回でも反芻熟慮してそこにある本質的な意味をしっかり考えて貰いたい。すべては人類史上初めての「自然の理」の存在語りであり、その珠玉編と言うものである。

これらの問題はすべて「神の意識」の現れであり、その問題を解こうとしているのは凡庸な我々人間なのである。例え何年かかろうが一向に気にすること等はない、なぜなら、解けないのは当たり前のことであり、解けること自体が不思議なことだからである。

人間が作った問題ならば、解けなければ心に悔しさが何時までも残るであろう、がこれは「神」の作った問題であり、解けないのが当然であり、何も悔むこと、恥ずかしいことなどは無い。 むしろ解けること自体が奇蹟であり、大変な異常事態なのである。
 まずは心を大きく持ち、くつろいだ気持ちで答の群を見つめながら推察考証に徹してほしい。何回も、何回も…、決して飽きずに…!!!。

 

恐らく、これらの問題は現在の我々の知のシステム、すなわち現代知ではどうにもならないものであると私は考えている。ならば、これを未来に託そう、そう考えてすべてを白日の下に公開し、あなた方に伝えようとしているのである。もし、あなた方が駄目なら次の世代へ、そしてまた次の世代へと連鎖的に送りながら伝え届けて貰う、それが私の狙いであり、同時にそれが神の意向と言うものでもあろう。

今回の講義の要旨を説明したい、別に難しいものではない、簡単なものである。答を出すのは容易(たやす)いが、その答の奥に潜む本義本体の意味は甚だ難解なものなのである。 甚だ悔しいが、今の我々の知ではどうあっても解くことは叶わないものである。

ひょっとすると難しいと思うのは私の思い過ぎなのかもしれない。なぜならばあなた方の誰かが簡単に解き放って意味を教えてくれる可能性も十分にあるからである。私はこの2,3年で知らされたことがある。それは我々に日本人の中には飛び抜けた才能を持つ優秀な方々が大勢いると言うことであり、不可解なことを可能にするような素晴らしい人々が数多(あまた)いることを…!!。
 例えば、神戸市のU氏である。氏は「ひふみ九九算表」の立体模型を作り、全体の「数」がつつがなく連動し、完全なる自律的機能を果たしながら、すべてが繋がっている超次元的な構造体であること証明して下さった。それはとても根気のいることであり、並大抵の努力では無かったはずである。私にはとても思いつかなかったことである。
 私は大変嬉しい、出来れば、もっといろいろなメッセジ−が飛び交い、言葉を熱くして語る大いなる場を作りたいとも思う今日この頃である。
 すべては日本のため、いや世界のため、そして人類の未来のためにである。

 

我々の一般常識では平面において、外側から中心に向かう全体的な道筋が連結状態にある場合には螺旋状に進んで外側から中心に至ると考えるのが普通である。しかし、「数」はそうではないとハッキリ言っている。その連結状態とは中心から外側にむかって波状的に進むのであり、個々は別々の独立状態にありながらそれぞれ繋がり合って外側に至ると「数」は言っているのである。要するに水辺の波がそのいい例である。  波紋運動とは中心から外側へと波紋状に広がりながら移動しているのであり、決して、外側から中心に向かって作用しているのではない。
 これは一つの自然エネルギ−運動の形態であり、運動性の基本と言うものである。すると現在の宇宙創生論にもぴったり当てはまるものである。
 すると波紋の例からあることが判る、それはすなわち、「数」は123456…と進むのではなく、逆に…6543210と中心に向かって、なびくように進んでくると言うことである。まあ、これも、いろいろな例を上げてそのうち説明しなければならないであろう。

そのあたりは口で説明するより実際に数に案内してもらう方が良く解ると思う。これから「数」に導いてもらうのでじっくりと「数」をなぞりながら検証し、そこにある結果を見て貰いたい。

 

例として、3次元法陣体を見てみることにする。

 〔例題〕 「神の法陣」3次元体を読む… 計算法に注意!!。


 ここにあるのは「神の法陣」の3次元体である。まずは中心線より対称位置にある二つの数列、すなわち、「陰」と「陽」の位置にある数列を素直に引き算するだけである。但し、引き算は「神算法」と呼ばれる決してマイナス数の無い自然の計算手法で行ったものである。「神算法」とは現代数学のようなマイナス数などは一切無い自然のままの計算手法であり、自然意識(神)が用いている計算法である。まだ、それを知らない方は次の数式を参考にして計算を進めてほしい。それがすなわち、0=9、1=−8、2=−7、3=−6、4=−5、……であり、御馴染の宇宙人の数学「システム オブ ナインズ」の数式である。すべてはそれに尽きるのであり、まさにこれこそが現代知が見出すことが出来なかった「自然の数法」と言うものである。
 
 諸氏は何を勝手なことをほざいているのかと眉をひそめるではあろうが、計算を行って見るとはじめてその意味がよく解ることになるはずである。

 たしか、現代物理学の大御所であるイギリスのペンロ−ズは「宇宙の計算は足し算、引き算、比、そして置き換えと言う単純な算術演算だけで事足りる」と言っている。それはまさに「神の数学」の用いている計算法と完全に一致しているものである。 まさに驚きである。

 まさに「神の数学」の計算法は自然宇宙の計算手法とまったく同じものであり、少しの狂いも無いものと言うことである。その証拠がこれらの中で「数」は数多の驚くべき宇宙自然の真実を語り始めている事実であり、それはすべては真実として認めざるを得ないものばかりなのである。

それは何と、ここに来て3千年前の古代知と現代物理最先端の宇宙の理がピタリと噛み合い、同じ姿を見せて始めている事実である。 要するに、旧物理学ではまったく合一点が見られなかったが、新しい物理学である量子理論とは一致点が多々あると言うことである。

 

 今回の本題あたりは何も難しいものではない、子供にでも簡単に出来るものである。答をただ並べて行くだけでその不思議さに気がつき、心がだんだん魅かれることになるものである。難しいのはあなた方の思考転換が出来るかどうかである。しかも、学に囚われている人々ほど更に理解が難しいものとなり、無視を決め込むことが多くなるのである。

 

 難しいのは答や結果を見ながら現代知でそこに潜む原理や構造を見極めなければならないことである。しかし、それではどうあっても、そこにある天外の真実、すなわち、「神の理」や「天のことわり」は決して姿を現わすことはなく、故に本当の自然の姿を見出すことは出来ないのである。

 

要するに、その真実は現代知の外にあると言うことであり、そこで思い切り妄想、仮想を膨らませて思索に走らない限り問題解決はおろか、解決の道にさえ至ることは出来ないものである。ただ現代知を基にいくら考えを巡らしてもどうにもならない、無駄であると言うことである。

 上記の例題で今回必要な「神の法陣」の計算法がおぼろげながら解ったと思うので本題に移ろう。

 すべてはまったく同じ計算手法を用いて答を出せばいいのであり、答は容易に出ることが誰にでも解るであろう。しかし、今回の問題はその答えを求めるだけであり、その大義本分については時間をかけて考えて貰いたいと思っている。それでも駄目なら未来に残すためにここに預けて置くつもりである。

  その中に誰かが紐解いてくれるであろう。50年後か,100年後になるかも知れないが…!!??。

 
 
                                                
<資料は「神の方陣」中級講座bTより> 


 
よく見るがよい、すべては「天地の数歌」の一つ、すなわち、0246813570を歌って止まないものであり、古神道の奥儀祝詞である「ひふみ天地の数歌」の驚くべき出現と言えるものである。 同時に、これはその正体を語っていると言えるものではないのか…!!。
 
さあ、さあ、「神の知」の降臨であり、人類史上最大の謎の一つの現れでもある。とにかく、直感と洞察力を生かすことが第一で、現代科学知などを持ち出してもまったく意味の無いものと化してしまうのである。  御用心…!!、御用心…!!。

 すべては「神の法陣」の語る計算により導かれる自然の真実の語りである。そこに現れたものは「数」の示す巧みな数の連結状態であり、何らかのとてつもない真実の存在を囁いているものと考えられるのであるが、それが一体何を意味しているのかがまったく不明なのである。

 ここにあるのはまさに不可思議極まりない次元体の語りであり、自然真実のほとばしりの現われと言ってもいいものである。

 この後、図は更に、…… 6,7,8,9、…→、更には 無限次元体へと続くのであるが、ここに現れる答は何処まで行っても常に数列 0246813570の循環連続数列体であり、それはまさに祝詞「ひふみ…天地の数歌」の3段目の数列である。 そのあたりをしっかり検証して貰いたい。

 この不思議さ、この神妙さをあなたは何と見るのであろうか…!!。まさに不思議な数列のオン・パレ−ドである。 一体何だろう…!!?。

 何と面白い数の表れなのであろうか…!!。まさに「神授の数物語」、「天与の数仕組み」と考えてもいいものである。

 お解りであろうか、すべての外円、中円、中心円は秩序ある並びを持ちながら、外側から中心に向かって連鎖的な繋がりを持つことが示されているのであるが、それは我々人間の意識の錯覚であり、本来は数列は逆向きに流れると見るべきものなのである。要するに、数は1234…と大きい方に流れると言うことでは無く、逆に…4321と小さい方に向かってすべての数は流れていると言うことである。
 我々の欲の心は何事も大きい方がベタ−と言う常認識を持っているのでそう思っているだけである。そこには大きな間違いがあるのであり、自然的なすべては小さい方、すなわち、0に向かって流れているのである。
 それは中心にある0、すなわち、小さい方がベタ−なのであり、すべての「数」は中心(0)と言う無に向かってなびいていると言うことなのである。
 

 まさに、不思議な「数の語り」であり、不可思議極まりない「数の姿」と言うものである…!!。
 是非、あなた方も十分に検証し、この不可思議な数の動きに目を見張るがよい。 この連鎖的な繋がりはこの後6次元、7次元、8次元体、……と何処までも無限に繋がって行くのである。恐らくは法陣が宇宙大に広がっても、この0246813570と言う「ひふみ九九表」の数列は連綿と繋がって、何処までも何処までも無限に向かって駆けあがって行く、いや無限の彼方から駆け降りてくる言うのが正しいのかも知れない。
 要するに、答は出たのであるが、しかし、その答の先にあるもの、そこにある答の指す意味がまったく判らない、一切は不明の限りなのである。 
 そこにある真実とは一体何であろうか…!?。我々の思考ではどうにもならないものなのであろうか…?!。 一つ考えてほしい。

     そこにある真実大義を求めない限り本当の理解はなく、我々は何も得ることは出来ないのである…!!

 そこにあるのは余りにも「人知」と『神知』のレベルの大きな差、厚い壁であり、単細胞的な人知でいくら考えてもそこにある筈の意味はまったく理解することが叶わないのである。確かにそこには不可思議な真実が語られていることは事実である。しかし、我々はいくら考えてもその意味を解釈する手立てがまったく無いのであり、完全にお手上げの状態を示すだけである。

 恐らくは、そこには何か由々しい真実、恐るべき自然の真相が隠されているのであろうが、我々の持つ現代知ではどうにもならない、まったくもって推察不能なのである。まったく全然歯が立たない、意味が判らないのである…!?。 まことに残念の限りであるが。

  でも、私は待つ、僥倖にもそのうちに誰かがふとした直感でサラリと解いてくれることを…!!。

 私は期待している、そのような超人的な頭脳の持ち主が何時かは必ず現れることを…!!。そして、それをただ「神」に祈るだけである。

 現在、私は一つの予感的仮説を持っている。それはこの「神の法陣」の構造こそが宇宙自然の粒子的物質の本質的な運動形態とその仕組み表すものであり、すべてはこれに従って縦横無尽に大宇宙を超ハイスピ−ドで飛びまわっているのではないかと言う一つの大胆な仮説である。

 しかし、残念ながらそれについての理論、仕組みを述べている書籍、あるいは情報媒体等は何も無く、今のところ完全に盲目状態である。
 すべてはこれからの我々人類の宿題なのであろうか…!!?。

 では、現代科学に先立つ私の予感、とんでもない白昼妄想の件(くだり)を少しだけ申し述べて置きたい。

 現代物理は電気と電磁波はまったく別物に見えるが、この二つは奥底では完全につながっていて、一つのものの完全な裏側と表側の関係にあるものであると言っている。物理学ではこのような関係を「統一的理解」と呼んでいるそうである。すると、我々が挑んでいる「あの世」と「この世」の関係も同じものと言ってもいいであろう。要するに、この二つは本体と影の関係であり、まさに切っても切れない関係にあるものである。電気と電磁波の関係を「統一的理解」と呼ぶなら、当然、この「あの世」と「この世」の関係も同じ「統一的理解」と呼んでもいいものであろう。

  「あの世」と「この世」とはすなわち、プラス、マイナスの関係であり、陰と陽と言ういわば相対的な関係にあるのである。
 その相対的な関係とは一方が無くなれば、もう一つの方も自然的に存在不能になると言うことである。

 すなわち、プラス(+)があるからマイナス(−)が自然発生すると言うことであり、マイナス(−)があるからプラス(+)が自然的に対発生すると言うことである。 要するに、「陰象」と「陽象」が合い伴いながら対発生すると言う自然原理の結果であり、常にこの両者は不可分な関係にあることだけは知って欲しい。自然はすべてこのように陰(−)と陽(+)の仕組みに従い、生成発展しているのである。

 自然とはそのようなものであり、それが自然の本質である。要するに、「天が下」にあるものはすべて相似関係にあるのである。確か、「天の下のすべては天の上の写しである」という言葉はまさに正しいものであることを改めてひしひしと感じるものである。

 このように「神の法陣」の構造関係と数の並びは常に一定して決して変わることは無い。要するに、この外側と中心は螺旋的な関係で順に繋がっていっているのではなく、形態的には入り子状に伸びて全体が繋がっていると言うことである。「数」はいみじくもそう伝えているのである。

 要するに、対極同士の数が絡み合った瞬間に次の対極数に絡みが移り、それがまた次に移る、そのような関係下で全体が連続性を持ちながら進んでいると言うことであろう。

 現在の物理学者達は光は高速で進む、しかもそれは大きく螺旋的な軌道を描きながら直線的に進んでいると言っている。しかし、そこには螺旋を描きながら光速を得ると言う大変な不合理と無駄が見られるもであるが、果たして自然はそんな無駄をするであろうか…!?。
 恐らく、答は否であろう。なぜならば、自然はシンプルを好むからであり、単純をモット−にしているからである。すべてがそうである。
 現代物理学の言う「自然は複雑であり、カオスである」などの言葉は負けたものの捨て台詞であり、まったく事実ではない。

 それではどのような仕組みを得て光は光速というとてつもない速度に達しているのであろうか。その光速を得るためのエネルギ−は一体何処から補給し続けているのであろうか…??。

 ロケットや宇宙船ならエネルギ−タンクを持って補給しながら速度を得ている、だから限度があるのである。しかし、光の粒はそんなものは持たず連続状態で並はずれたスピ−ドを得て高速移動を可にしている、一体どのよな仕組みが光速を可能にしているのであろうか…!?。

 その恐るべきエネルギ−そのものを何処から得ているのであろうか。恐らくは、何処からか得る仕組みが自然には存在しているのであろう。恐らく、それがフリ−エネルギ−を生み出す究極の仕組みと考えてもいいものである。すなわち、エネルギ−は使われて消え去るのではなく、もう一つの対の世界(裏世界)に移動すると考えるのである。要するに、エネルギ−は二つの世界(裏と表の世界)を行ったり来たりの往来をしていると考える、すなわちプラスとマイナスの価が高速で入れ替わると言うことである。 それが本当な意味での「エネルギ−不滅の法則」であり、エネルギ−は消滅しても、必ず別なところに存在する」と言っている現代物理学の一大法則のなのであろう。

 今の科学者達は誰もそんなことは考えようとはしない、バカバカしいと笑うだけである。しかし、真実は余りにも難しすぎて怖気(おじけ)をふるっているだけではないのか…!??。それがすなわち、今、現代科学は余りにも遅遅として一向に進む気配がないと言う事実の存在なのであろう。
 ただ一人あのJ・C・マックスウエルだけは挑戦した。彼は「電気と磁気は別な力ではなく、同じ硬貨の裏と表の関係にあるものと主張したのである。要するに、振動する電場が磁場を造り、その磁場が今度は別な電場を造り、また電場が磁場を造ると言う関係で無限の鎖の波が高速で何処までも伸びて行く、それが要するに光の速度の仕組みであり、それが光速と言うものである」と言っていたことである…!!?。

  今から150年前の話である。その後、なぜかこの問題に関しては余り進んではいないようであるが…??。

 私も同じように考えている、すなわち、光と言う超微粒子にも実世界(+)と反実世界(−)という二つの対極世界(裏と表)があって、そのどちらかにエネルギ−が発生するとそのエネルギ−はピンポン玉のようにその二つの裏と表の世界を行ったり来たりする。要するに、エネルギ−価がプラスになったりマイナスになったりと激しく変化するのである。それにより、エネルギ−は無限の力を何時までも保持できると言うことである。
 そのあたりは原子内の電子の動きを見ればよく解るはずである。電子は動いて、動いて永久にとどまることを知らない。
 要するに、電子の(+)(−)と言う位置関係の変化が無限のエネルギ−を生み出していると言うことである。

 一方、宇宙は完全真空で何も無いと言われて来た。しかし、最近の研究では何も無いどころかすべて宇宙は電子(−)で埋まっている場であると言われ始めている。すなわち、宇宙は電子の海であり、無限の電子のトンネルが広がっていると言うことである。 

 要するに、電子は(−)価を持っているので、宇宙全体がマイナスの海なのである。その海にプラス、マイナスと高速で性質が変化する光と言う粒子が投げ込まれたら一体どうなるであろう。当然、高速で電子の海を転がって何処までも何処までも超スピ−ド走っていくことになるはずである。

 要するに、宇宙版リニア−モ−タ−カ−新幹線と言えばいいであろう、何故なら、仕組みが全く同じようなものだから…!!?。

 それに何と、素粒子の世界では粒子が小さければ小さいほど莫大なエネルギ−を内蔵し、驚くべき力を持っているのである。そのエネルギ−の保有量は大きい方から並べて見ると、

 原子は13,6、 電子は51万、陽子は9億3800万、クオ−クは198億ev( 単位はエレクトロンボルト)

 エネルギ−価が大きいと言うことはそれだけ+と−の変化が早いということであり、それに応じてスピ−ドも高速になると言うことである。

 まあ、現在のように科学者達が辟易して関与しないような問題に関しては好きなように想像をたくましくして考えていいのである。いや、そこは科学者が手が出ないのですべては未だ未知の原野の広がりがあるのである。誰も立ち入らず、干渉する者も誰もいない、口を出す者も皆無なのである。そこに  必要なのはたくましい超発想力であり、白昼夢的な幻想の大いなる構図である。すべてはそこから始まるのである。

 要するに、空想、夢想とは人間の持つ願望の現れであり、理想を追求する心がもたらしたものと考えるべきであり、排斥すべきものではない。  たとえ、大風呂敷のように聞こえても真実の匂いがあれば人の心を掴んで離れることなどは無い。しかし、一時的な出鱈目や捏造的でいい加減のものならば、決して人の心には残らない、いつしか自然消滅してしまう。人の心にある無意識と言うものはそのように偉大な存在である。

 確かに、道筋があり、答もしっかり提示されてはいるが、科学的な検証は出来ないもの、それが今回の「神の数学」の題材の内容である。 
 心の浅い科学者は言うであろう、検証できないものは科学ではない、何故なら科学の定義から外れているからであると…。

 すると、今の宇宙物理学や量子論等も科学ではないはずである、なぜならば実際的な検証は出来ないのは確かだからである。それらはただ理論的に完成されただけのものであり、実際的な検証を経て出来上がったものではないものだからである。

 要するに、今まで科学は科学的ではないと言う言葉で人の首を絞めて来たのであるが、今度は自分で自分の首を絞める羽目になっているのである、しかし、彼等はそれにはまったく気がつかない、忘れている。要するに、人のことは忘れないが、自分のこととなると忘れるのである。

 まあ、それはどうでもいいではないか…、それは未来の人が決めてくれることであり、今の我々の貧相な発想では判断不能である。要するに、知の不足状態にある我々現代人には間違っても決められない、決めることは出来ないと言うことである。

 まあ、不服のある方、批判のある方、あるいは科学的な見地に立っている方からは一言あるではあろうが、文句言う価値もない半ボケ老人の戯言と聞き流してもらえればまことに有難い、私もそれで満足である。まあ、せいぜい半ボケ老人のたわごとが世間を席倦するような事態に至ることの無いように懸命に考えて貰いたい、それが半ボケ老人の願いでもある。

 世の中には現在人口比で25%くらいの老人世代がいると聞く。その人たちの脳が健やかで伸縮自在であるならば、恐らくは痴呆になることも無いであろう。そのためには好奇心を失わず、何ごとにも果敢にアタックし、考えを巡らしてことに当たるべきである。無比無上なことに考えを走らせていると年なんては忘れてしまい心はまったく若者と変わらないのである。まさに知では青春たけなわの状態にあると言うことなのである。

 人間、やることがないから手足、体がきかなくなり、考えることがないから脳のボケが始まるのである。人間の体はそのようにうまく出来ているのである。いや、神様はそのように作られているのである。それが医学的な言葉ではアポ−トシスと言う言葉であり、使われない細胞は自然死するト言う神の定めた一つの法則なのである。 要するに、必要が無くなったので機能は不必要と見なされてどんどん失われてしまうのである。体と言うものは疲れない程度ならば、大いに使う、そのことが健康を維持するために必要と言うことである。

 医学用語ではそれをアポ−トシス現象と呼ばれているもので、不用になった細胞の自然的な自殺現象と言われている。老人なればなるほど頻繁に起る現象であり、2度と回復することは無いと言われているものである。そのことをシッカリ覚えて置くことである。

 知のアポ−トシス現象を防ぐにはこの「神の数学」が最適なタ−ゲットであり、とてもボケてなどはいられない。なぜなら、最初から最後まで数の語る物語には息がつけないくらいの面白さがあり、途中では止められない感情の高まりがあるのである。まさに血沸き肉躍るの毎日である。それでも残念ながら時間が足りないと感じられるのはまことに老人冥利に尽きるものであり、有難いものである。。

 学歴のあるなし、男女や子供等の場合でも一切ハンデイは無く、一緒にスタ−ト出来るものであり、頭の優劣、学歴の有無などは一切無いのである。要するに、どれだけ真摯に学び上げるか、どれだけ懸命に頭脳を働かせるのかが問題なのである。
 要するに、直感と洞察力に勝っていれば誰でも新しい発見、すなわち、人類の誰もなし得なかった「神の秘密」を見出すことが可能というものである。

 例え、一つでも「神の秘密」を取り出せば、それは永遠無上のものとして、生涯心に置くことにより、自信と勇気がわき上がり、また、常に生き生き溌剌として我が身を世に処すことが出来、と同時にそれが心の安定と身の健康に繋がっていくと言うことになるのである。

 見果てぬ夢、馬鹿の幻追いと言われてもいいではないか、言いたいやつには言わせて置けばいいのである。なんせ、確実なタ−ゲット、人間知では求めることが出来なかった「神の手になる問題」、どんな大学者でも否定が出来ない「神の問題」が目の前に鎮座して真実を誇っているのであり、あとは勇気を出してただそれに喰らいつけばいいだけである。それにより人生を一変させるような発見がある可能性も十分にあるのである。さあ、夢を見たければ直ちにHPの最初に戻って改めて詳細な検証を始めてほしい。そして、感動の涙を何回も流してほしい。
                                                               (2013,12、見直し完)

                                                           20136月の語り

   「数」の中に永遠の真実を見る(2)
  

  
まだ知らぬ自然の真実を尋ねて

      <それは人間の知とはまったく相容れないものであった…!!>
   

                       平成25年7月の記 (6/28日載上)


 さあ、今回もじっくりと考えて貰いたい。考えることにより、血の巡りが良くなり、相乗的に頭脳のヒラメキが倍加すると言われる。恐らく、人間の体の中では脳だけが使えば使うほど輝きと機敏性と柔軟性が増し、それにつれて考えれば考えるほど新しい局面が次から次へと展開されて来ると言われている。要するに、甚だ深遠なパ−ツと言うものなのである。

要するに、脳が活性化すれば面白いことが起る、すなわち、自分の知る筈の無いことさえも脳は何処からか引っ張り出して来るのである。それは一体どうした訳であろうか…!??。一体その知は何処から来るというのであろうか…!??。
  例えば、サバン症候群と呼ばれる特殊な症状の人々に見られる不可思議な能力の存在である、すなわち、とてもとても人間業とは言えないような不可思議な知のヒラメキ、我々から見れば想像もしがたい驚くべき脳の働きを持っている独特な人々の存在である。

恐らく、その能力は特殊なものではなく、すべての人の脳にはそのような天才的な才能が潜んでいるのであるが、今はまだ必要がないので眠っている状態と考えられる。その証拠に脳に対してちょっとした電気的な刺激を与えあるだけで潜在的な才能が俄然目覚めて人々を驚かすことなどが往々にしてあるからである。

要するに脳波のちょっとしたヘルツ転換が脳の一部を覚醒させて思いもよらない知を発現だせるのである。すなわち、今までオフであったスイッチがオンになった状態になると言うことである。

考えて見ると、我々の脳細胞の僅か3%を活用しているだけで、あとの97%は使われることも無く将来、知に目覚める時の予備脳、すなわち、バックアップ用として眠っていると考えられる。要するに、我々は本来あるべき知能力の僅か100分の3のレベルをマスタ−しただけなのであり、残りの97%はこれからの我々の知の進歩に従って少しずつ目を覚ますことになると言うことであろう。

我々の脳の90%以上は水で構成されている、すると脳内においては最早水は補助的に使われているのではなく、最早、主役と言ってもいいものであろう。すなわち、知を媒介するのは水であり、知の貯蔵体も水と言うことである。 恐らく、残りの僅か数%の脳内固形物質は水から情報を取り出すためのセンサ−的な役目とそれを伝達する為の神経的な役目をはたす物質であると考えてもいいであろう。

 そう考えなければこの90%を越える水の必要性、なぜそのような大量の水が脳内で必要とされているのかがどうしても解らない。が、脳を作り上げているものは水であり、水こそが知の保存体であると考えればすべてはスム−スに解けて来るのである。 要するに、水はコンピユタ−のハ−ドデスク的な役割を果たしていると考えられるのである。しかし、未だかってそんなことを言った人はいない、余りにも突飛で余りにも常識から外れているからである。それに水と言うものがあまりにも身近に大量に存在しているので、水にそんな重大な秘密があるとは誰も思わないからである。

学者達はまだ調査してはいないと思うが、他の動物の脳に占める水の割合はどのようになっているのであろうか…??。やはりどの動物でも脳の水分の割合は90%を越えているのであろうか…??。それとも知脳の低い動物ほど水のパセンテイジは低くなっているのであろうか…??。 もし、高等動物、知的動物の脳の水分パ−センテイジが大になる傾向があるならば、水こそが知の容量の鍵を握っているものであり、知の容量タンクと言ってもいいものであろう。

最近になって、現代の学者達は「水は情報エネルギ−を持って活動しているようだ」と推測しているようであるが、それも確かなこととして今ではうなづける話である。

そこで疑問が一つ生じて来るのである。それは要するに、なぜ、脳の水はどんどん変わっても脳の持つ知の容量や内容には少しも変化がないのかということである。それは恐らく、水が汚れると不活発になり、それにつれて脳の働きも鈍さを増して生命的な危険に対して対処できなるからなのであろう。

恐らく、地球上に存在する水は全て同一同質的なものであり、すべての水はまったく同じ情報を波動として常に伝達しあって共有しているのである。すなわち、すべての地球上の何処の水でも均一的にまったく同じ情報知を保有していると言うことである。例えば、水にある情報を持たせれば、それは地球上のすべての水に波動を介して瞬時に伝わり、すべての水が同じ情報を持つと言うことである。

 
 同じようなことを水の波動の研究で有名な江本勝氏も著書の中で述べている。氏は意識と水が宇宙を創造したのではなかろうかと述べているのも面白い。また、地球上に大きな変化があれば即、変化を知って地球全体の水の波動が変わるとも述べている。すなわち、どのような変化でも水は瞬時にそれを知ることが出来、それを情報としてまた発信していると思われるものである。
 しかもそれは実験の結果から判明した事実であるとハッキリ述べている。

また、氏は我々の言葉には意識が籠められているので言葉次第で水の形態が即変わるとも述べている。要するに、我々の意識は水に通じ、それに応じた変化を起こしていると言うことであろう。言葉を変えれば、水は我々の意識をハッキリした形で読み取ることが出来ると言うのである。

しかも、江本氏はその意識により変化した水の状態を氷の結晶として写真に納めている、すなわち、可視化させてその状態を写真集として発表しているのは皆さんもご存じの通りである。そして、その写真は御承知のように世界中の人々の中で話題を呼んで人々の心に共感を与えているのである。

 
 そもそも水は宇宙から飛来してきたものであり、宇宙には水の分子が何処にでも散在しているものである。その上、地球に最初に降り立ったのは多分水であり、水が意識を持っているなら、地球の最初からのすべての歴史を知っている可能性があるのである。要するに、水から情報を聞き出すことが出来れば、タイムマシンなどは最早不用であろう。なぜならば、水は宇宙の全ての情報、あるいは地球上のあらゆる過去の出来事などのすべての情報を知り、それを発信しているからである。恐らく、最後に人間が手にするものは水から情報を聞き出すことが可能な水コンピュタ−であり、それにより、すべての過去は鏡に映し出すようにまざまざと見ることが出来ることになるであろう。

 それは昔、あなた方の子供の頃、2度や3度は聞いたことがあるはずである、思いだしてほしい。
 そう、それは地獄の閻魔様が用いている過去を映し出す「浄波璃の鏡」と言うものであり、よく坊さんが子供を前にして語った話のものである。

あれなどは単なる仮想物語などではなく、大いなる過去にあった事実であり、意識の底に微かに残っていた記憶の再現なのであろう。恐らくは先代文明期の記憶がいくらか我々の深層意識に残されていて、それが突然浮き上がって来てすべてを映し出す魔法の鏡となって伝えられているのであろう。まさにそれは意識の輪廻であり、シンクロニシテイの発現と言うものであろう。
 恐らく、それが再び現実化するのは我々の現在3%の脳の稼働率では無理であり、恐らく、10%台に上昇した時であろう。また、脳の稼働率が100%と言う存在は「神」と呼ばれているものであり、全宇宙を仕切っている存在なのであろう。



 さあ、「神の数学」に話を戻そう。先月の内容はすべての「神の法陣」においては中心から外側までは完全な連続性を持ち、巧妙な繋がりを持っていることを「数」が証言したのであるが、今回は更に驚愕すべき大変な事実を「数」に案内して貰らおうと言うのである。
 それは余りにも突飛で奇抜なな方法であり、今まで誰も考えたことの無いものである。その上易しくて簡単なものである。しかし、あなたがたはすぐには理解は出来ないであろう。何故なら、あなた方は余りにも現代知や現代常識にまみれ過ぎてそれを外れたものに対しては考えが行かないからである。要するに、最早自分の力だけで考えることを放棄しただただ科学常識にべったりの状態なのである。


 それはすなわち、「神の法陣」の0から1次元、2次元、3次元、4次元……に至るすべての次元は完全に連続して繋がっていると言う驚くべき証言事実であり、「数」がその仔細をあますところなくその次第を開示しているものである。

恐らく、あなた方は疑いの目で見るであろう、既に述べたように一つの次元の内側から外側は完全にリンク状態に収まっているばかりか、更にはすべての次元が完全なる連鎖的な状態で結ばれているとは余りにも突飛過ぎて胡散臭い話であり、眉唾ものとしか思えないからである。

馬鹿にするのもいい加減にせいと…!!。しかし、その言葉は人間の誤った推理力に期待している言葉であり、何ら自然的なあるべき結果により類察されたものでもない、ただ、そんなことがある筈はないという思い込みだけが作り上げた一つの思い込み結論がそう言わせているだけである。

しかし、「数」は言う、「数」の語りには決していい加減とか不整合などの人間臭さなどはまったく無く、常に理に叶った正しいものであると…!!。

あなた方は考えたことがあるであろうか…、人間の作り上げた人間の学問は大変な不整合性が多々あることを…!!。それらを隠すためにいろいろな約束事を作り、半ば、それを公式化しているのである。だから、常に公式が重んぜられるのであり、公式から外れたものは即、除外されるのである。それ故、真実の如何、結果の如何などは最早誰も考えようとはしないのである。

例えば、人間知が基盤ととする現代数学にも考えられないような甘さがあり、それを隠すためにいろいろな約束事を作って考えを拘束しているのであるが、そのあたりはあなた方も御承知のはずである。そうでもしなければ、現代数学余りにも矛盾が多すぎて成り立たないからである。   

 例えば、6÷0は考えようによっては6/0=6、→6×0=6、等にもなるのである。

するとこの式から、6×0=6 が成り立つことになるはずである。

しかし、実際はには何を掛けてもになると言う決まり事があるので 6×0=6は不成立となるのである。

常識的には何かおかしい、(何も無い)を掛けても変化は無く、になるはずであるが…??。

しかし、現実的には実数にを掛けたり、割ったりするとすべてはになると言う公式がしっかり存在するのである。

一つ、考えて貰いたい、6ヶのリンゴを人で分けるといくらになるのか…、本来、それは分けないと同じだから6ヶが残るはずであるが…!!

 しかし計算ではなにも無い、すなわち、となるのが現代数学である。これが現代数学の仮面的な姿であり、実際にはそぐわない虚質的な計算法としか言えないものである。

 

アハハハ―、余分なことを言い過ぎた、さてさてこのあたりで本題である「神の数学」の講義に戻ることにしょう。

 

次に掲げた「神の法陣表」の各図をじっくりと見て貰いたい。

 そもそも平面的な正方図には対角線が必ず2ヶ存在するのであり、それらの長さは常に一定であることはあなた方もご存じのはずである。

これら二つの対角線は長さは同じでありと同様に本質も必ず一定なものである。確かに見かけは完全に異なってはいるものであるが…。
 確かに、片方は右下がりの形であり、もう一方は右上がりの姿を持っていると言う対称的な姿を持っていることはよく判る。
 要するに、対称形であるならば、内容的にもまったく同じであることが一つの対称形の条件と言うことである。 するとこの「片方は右下がりの形」と「右上がりの姿を持っている形」は=で結ばれなければならないはずである。
 さあ、
図を見て考えるがよい、すべての「神の法陣」の二つの対角線数列はどのように始末すればそれらの条件が満足されるのであろうか…??。これら対角線上にはやんごとない大数列が鎮座してあたりを睥睨しているのであるが、あなたにはその姿がお解りであろうか…!!。それらの数列は生ッチョロイ「現代数学」なんかではこの問題が解けるか…と怒鳴っているのであるが、あなた方には聞こえるであろうか…!!。     <この問題は来月に回す、解答にご期待を乞う>

 良く見ると、その二つの対角線の数列の姿は同一ではなく、一見するとバラバラでランダムな姿をしている。だから、現代数学では意味無しとして、完全に無視して投げ出され、見返されることも無いのである。まことにお粗末の限りである。

しかし、それは見かけだけであり、本当はまったく同一なものなのである。しかし、自然知にうとい我々はそのことを知らないのであり、調べる術(すべ)とて持ってはいないのである。

いや、我々の現代数学の持つ計算法が誤ってるのでそれらを認識出来ないと言うのが正しいのかもしれない。

 要するに我々の演算法は本来あるべき自然の計算法とはまったく異なっているのでそれを知ることが出来ず、その仔細を伺い知ることなどがまったく出来ないのである。

そこにあるべき本来の「自然の計算法」と言うものを古代の知者は知っていたが、今では10進法に迫されて消えゆくばかりの存在となっているものである。 なぜならば、古代から直秘伝として許された者のみに口頭で伝えられ、文字等で残すことは一切禁じられて来たからである。

それが彼の「ピタゴラスの数学術」や「カバラの数秘術」などの「数の語り」なのであるが、今ではペルシャの占星術やインドの運命学などと結びついてすっかる変貌し、人間の意思や欲望などが絡まって本来の「数の姿」や「計算の形」などはまったく失われてしまったのである。

 

古代と変わらない純粋な姿を持ち続けて来たのは東洋の神秘の国、すなわち、日本の国に密かに残されていた「数の語り」であり、それは古代から連綿と続く古神道の中に恭しく封じられ、そのまま手もつけられずに残されて現在に至っているものである。

それはまさに3000年と言う長い混乱した歴史の荒波をくぐりぬけながら、息も絶え絶えに現在に辿りついたものである。それは余りにも簡素な形、意味の無い馬鹿馬鹿しい姿に変形されて国が奉ずる神道と言う宗教の中で大衆に守られて来たのであり、それ故に今まで誰にも手をつけられることも無く、現在まで生き延びて来たのである。

そこにある姿はまさに西洋やインドのの数秘術の基本態と変わらぬものであり、数の仕組みなどにおいては遥かに勝(まさ)っている驚くべきものである。 なぜならば、そこのある「数の語り」には現代人でも知らない「宇宙自然の超理」や「数の持つ法則」などが様々な形で説かれているからである。 

果たしてどちらが本来のあるべき自然の理を解明する計算法なのであろうか。あなたはこの法陣の対角線により本当の真実を知ることが出来ることになるはずである。それは思いもよらない大真実の姿なので、恐らくあなたはただただ目を剥いて唸るだけであろう。

 

  さあ、ここでその残された古代の知を思う存分活用して自然の真実を明るみに出して行こうではないか…!!。


 
                                                        「神の法陣表」初級講座NO8より


 これらの「神の法陣」の二つの対角線上の数字群を見て貰いたい、と同時に二つの対角線の持つ規律ある方向性にも気をつけて貰いたい。
 「神の法陣」のすべては羅針盤的な同一方向性を示しているのであり、そこにはしっかりした秩序と調和性が存在することを間違いなく示しているのである。 その方向性が少しでもくずれるとすべてはランダムな状態になって意味を失ってしまうのである。確かめてほしい。

御存じのように、方陣の図には必ず対角線が2ヶ存在する、すなわち「陰」と「陽」の性質を持つものである。それらはお互いに調和的な結びつきを持ち、それぞれが介在し合い、相伴ないながら何事かを囁いているのである。すなわち、それを我々は聞き分けなければならないのである。

 何と、この二つの対角線上の数列を調べることにより今まで不鮮明であった「陰」と「陽」の性質、本質がハッキリと解って来るのである。
 今までは昼と夜、天と地、動と静、男と女、などの相対的な言葉だけがあるだけで、科学的(?)な詳細などはまったく説明されてはいなかったのである。それはただ漠然とした言葉を用いて意味を濁しながら無理やり辻褄を合せるようにして伝えられてきたものなのである。

 それをここでハッキリした根拠のある解釈を行ないながら、その性質、すなわち、本質をしっかりと見極めてみようというのである。

それにより、今まで誰も出来なかった「陰」と「陽」の本質や内容を「数」を用いることにより改めてハッキリと知ることが出来ることになるのである。 要するに、これも「数」の囁きの一つと言うものであり、自然の二元性の存在を明らかにして、自然宇宙の性質やその成り立ちを語るものである。そのあたりを心して学んで、出来ればあなたの心の隅にでも置いて貰いたいと思う。なぜなら、いずれ時期が来れば役に立つからである。                  <その詳細については次回の講座にて述べることにするので、それまで各自で調査考察をしながら考えて戴きたい>


 今まで、「陰」と「陽」の本質を知るには余りにも手掛かりとてなく、数千年の間、言葉のみのやり取りで終始するだけに終わって来ただけである。
 それ故に、一向に事態は進展はせず、曖昧模糊とした形でただ捨て置かれ、誰も真剣に論議しょうとはしなかったのである。     

要するに、2500年前の中国の「陰」「陽」の言葉と現代の言葉には何の変りも無く、また、言葉自体、あるいは意味の上での発展などはまったく無かったと言うことである。要するに、すべては2500年前とまったく同じ姿であり、まったく同じ内容を保っているものなのである。

 

更にもう一つ言って置かなければならないことがある。今までは各次元はどのような状態で存在しているのか、その存在態やその系列態などは誰も知らず、科学者達の長年の論議の的になっていたのは御承知の通りである。要するに、手掛かりと言うものがまったく無いのである。
 それ故に、解決は少しも叶わず、ただ闇の中の論議に終始しているだけである。

本当の次元的構造を知ろうとしても、余りにも手掛かりになるものは無く、この数十年の間言葉のみのやり取りで終始するだけで一向に事態は進展せず、ただ停滞だけが続いて来ているだけである。

学者の間では、見えない次元は無限に折りたたまれて小さくなり、不可視な状態になっているとか、我々の次元の裏に刷り込まれて存在するので見えない状態であるとかのいろいろな論議が飛び交い、現在でもまったく一致を見てはいないのは諸氏も御承知の通りである。

 今の物理学では現在の我々の存在するこの次元でさえも何次元なのかも不明であり、論議の最中と言うおかしな状態である。やれ3次元であるとか、いや、4次元であるとかの論争がこの数十年間続いて世間を賑わしているだけであり、何ら一致を見ることも無いのである。

それゆえ5次元の世界などとはまさに夢のまた夢であり、想像さえも出来ないものである。すると果たして、その上に存在する6、7、8、9、10…無限…の次元世界とは一体どのようなものなのであろうか…??。 誰も想像することも叶わず、学者達もただ口を閉ざしたままである。
 要するに、あり得ない無限の極みに落ちてしまい、ただただ思考停止に状態になってしまうと言うことである。

 

しかし、「神の数学」はそれに対して明確な答えを示している。しかも、いろいろな驚くべき「絵数図」と言う天啓の図をもってである。すなわち、その答えとは次にある通りである。

 

  ≪ 次元とは無限に存在する訳ではない、次元とは0、1、2、3、4、5、6、7、8、9次元だけが本体として存在するだけであり、その後の次元、すなわち、10、11、12、13、14、15、…と言う次元は影の次元としてのみのバ−チャル的な存在なのである。要するに、次元を調べるなら、0、1、2、3、4、5、6、7、8、9次元だけを攻略すればいいと言うことである。それらを克明に記しているものが「神の法陣」と言う数の図なのである。

何故なら、それ以降の次元は繰り返しの次元であり、本質的には0から9までの次元とは何も変わらないものである。「神の法陣」は0から9までの循環態から成っていることからも想像がつくはずである。

 要するに、数とは0123456789から成っているのであり、後はその循環に過ぎないと言うことである。人間の作った10進法だけが数は無限に伸びていくような錯覚を与えて、人々を騙し続けているだけなのである。

 

我々に本当に必要なのは大きな数の次元ではなく、数の小さい次元の方である。要するに、本当の高次元とは小さい次元であり、大きな数の次元などはまったく必要はないのである。我々の求める窮極の次元は0次元であり、「神」の次元と呼ばれるものである。そこは神変不可思議な無限のエネルギ−が存在する次元であり、その場である。それは素粒子が小さくなればなるほど質量が大であり、ゆえにエネルギ−量も大きくなるという量子理論からも十分に類察出来るはずである。≫ 

             @   原子13,6eV、A電子51万eV、B陽子9億4000万eV、クォ−ク198億eV(eVはエレクトロンボルト)…理科年表より

 

さあ、今回の「神の秘密」の一端をこれから明かし申そう、未だ誰も語ったこともない史上初の「次元の秘密物語」の一つであり、恐らく、それはあなた方の好奇心をくすぐって止まないものであろう。

まずは上記の次元体の中にある二つの対角線上の数、すなわち、右下がりの対角線〔A〕右上がりの対角線〔B〕の対角線数列を取り出して簡単な計算を行って見ようではないか。   (ただし神算法を用いる)


 


 さあ、ここに大きな「神の秘密」がいろいろな形で隠されているのであるが、お解りであろうか。じっとこれらの数列を凝視することにより何かが浮かび上って来るはずである。 要するに、あなた方に洞察力を奮って頑張って貰いたいと言うことである。

  ただし、これらは現代数学とはまったく異なる姿を持って語られ、仕上げられているものである。 よって十分に考察することである。

あなた方はこれを学ぶことにより、自然は甚だ易しく単純な形を取りながら現代数学では及びもつかないような深遠な宇宙次元の真実や真相を語り上げている事実に気がつくはずである。 それが次にある数が醸し出したた図であり、あなた方が仰転するような数の語りなのである。

 ひょっとすると、これは一つの「知のス−パ−ボックス(玉手箱)」、いや「知の遺伝子図」とも言うべきものであり、どうにか苦労して探し当て、答を出した大宇宙の住人だけがその恩恵にあずかり、一段上のステップに上ることが出来ると言うものかも知れない。また、ひょっとするとそれは永遠的な存在を歌う理の要として「神」と共に栄えゆくものかもしれない。 とにかく考えに考えることである、それがステップアップの道である。

 

 さあ、次の図は各次元体の二つの対角線数を加算(Σ)して、答を出した簡単なものである。出来れば、何回も意識を開いてしっかり計算し、そこにある答の意味を考えることである。


 

  よく見てほしい、これらは「神の法陣」図の二つの対角線上の数を単に加算したものであり、必要なのが最後にある右の数列である。
 それを連続した形で大声で読んで見るのである。すると驚くことに、それはまさに「ひふみ九九算表」にある2の段の姿であることが解る。

 まさしく、ここにも祝詞「ひふみ…天地の数歌」が降臨して何事かを囁いているのである。何と言うことであろうか…!!。

 これらを連続させると 246813570246813570246813570……となって果てしない連続性を持つことが解るのである。
 すると、次元の前にあるのは次元であり、次元の数であるの前の数を持つものである。すると、この連続数の数列を見るとの前はである、よって次元の本質数はと言うことになり、すべてが弥栄となるのである。 まさに弥栄の極みでもある。 弥栄、、弥栄…!!。


  
 

 さて、諸氏にはお解りであろう、ここにあるのは「神の法陣」の「陰」と「陽」の二つの対角線数列が加算された答、すなわち、Σ(加算答)である。  じっくりと眺めながらいろいろと洞察をして貰いたい。それによりいろいろと面白い「神の真実」が次々と顔を出し、興味が尽きないはずである。

 

〔1〕 二つの対角線数列を加算したもの(Σ)は我々に甚だ面白いことを教えてくれる。すなわち、各次元体とはバラバラにあるのではなく、まとまった状態にあると言うことである。しかも、それらは繋がった状態、要するに、連鎖状態で次々と繋がり、塊理の状態で存在していると言うのである。 何と言うことであろうか…!!。まさに驚きと言うものである。それを証しているものが上図の答のΣ数列である。

さあ、0次元から1,2,3,4,5…9次元の二つの対角線の数列を加算した数列をそのままの順序で並べてあるのが上の図である。それらをしっかりと見るがよい、一体これらの数列は何を囁いているのであろうか…??。見るがいい、それらの計算法は大変やさしいものであり、誰にでも計算可能なものと言うことを…!!。 

 しかし、そこにある答の意味とは現代知を持っては想像も出来ない驚くべき真実の存在を示唆しているものであり、現代の物理学者達の頭をショック状態に陥らせて、麻痺させかねないものでもある。

なんと、そこには0246813570の循環数列がすべてに顔を見せているのであり、全体の次元は完全に繋がって一つの連鎖的なブロック状態になっている塊であることを告げているのである。何と言うこと…!!!。

 この0246813570の循環数列とはすなわち、古神道の奥儀祝詞である「ひふみ…天地の数歌」の本体、すなわち、「ひふみ九九算」の数列にあるものである。それにしてもこの「数のささやき」は偶然などの言葉ではとてもとても済まされないものである。 恐らく、そこには何か必然的な意味のある理由が存在するのであろう。

 

  〔2〕 なぜ、ランダム的な次元表からこのような秩序と調和のある数列が現れて来るのであろうか…!?。

これらはまさしく人間知の領域外の超知の姿であり、いわば、「神の学」と言ってもいいものであろう。

果たして、我々はここに現れた規律ある数列の語ることを理解することは出来るのであろうか…!?。

   はじめはそこから考えて見ることが必要であり、それにより重大さが解り、ただ曖昧にして投げ出す、捨て去るなどと言う今までのような行為は出来なくなるはずである。

 

〔3〕 さあ、次にこの答の数列の繋がり方をよく見てほしい。これらの各数列の右側を陽(+)とすると左側は必    然的に陰の性(−)になる。すると全体が見事に陽(+)と陰(−)が順を追って結ばれることにより、見事な自然的な繋がりを果たしていることが解る。それはまるで、磁石の S 極と N 極や電気の陰極(−)と陽極(+)などに見られる大自然の合体法のありかたと同じものであり、その確かさを示しているものであることが解る。

要するに、同極同士は反発しあい、異極同士は引き合うと言う自然の成り立ちの象を開示しているものである。要するに、次元体も御多分に洩れずそれぞれが自然の象である(+)と(−)の合体法則により固く結ばれて次元全体で一個の塊(ブロック)として存在していると言うことである。

 

 ここで改めて面白いことが解る、先月の「神の数学」の講座の中で各次元体の中心と外側部分は完全に結ばれて繋がった状態にあると「ひふみ数」は証言しているのであるが、今回は驚くべきことに今度は全ての次元体同士も完全な連鎖的な状態にあることを「ひふみ数」は証言していると言うことである。 しかも、それを証言しているのがまたもや、古神道の古神道の奥儀祝詞である「ひふみ…天地の数歌」の本体、すなわち、「ひふみ九九算」の中にある三番目の数列0246813570 なのである。

 

まさに、驚き桃の木であり、確かな必然性を持って鎮座しているものである。その姿はまさに天地の数歌の名に恥じず、古神道の「カムナガラの道」を彷彿させてなお余りあるものである…!!。そうするとおぼろげながら行方不明な「カムナガラの道」の意味も判ろうと言うものである。

思い出してほしい、先月の証言ともまったく同じ「ひふみ九九算」の三番目の数列0246813570が揃って立役者となっているのである。恐らく、そこには我々の知らない何らかの関連法則があるのであろう。何故なら、偶然にしては余りにも出来過ぎ、揃い過ぎているから…!!。

 要するに、これらは偶然ではなく、必然的な自然真実を語り上げて止まないものなのであろう。

ただただ、感無量であり、言葉も無いと言うのが今の本当の気持である。やはり、「神(宇宙意識)」の力は偉大であり、到底我々の知などは遠く及びもつかないと言うことであろう。

 

しかし、一体誰がどのような目的のためにこのような「数」と言う不滅の真実言葉を使ってこれらの「自然知の真実」の存在を語り上げているのであろうか…!!。そしてこれらを誰に告げようとしているのであろうか…!!。 何者かがこれらの「神の秘密」作り上げたと言うことは、そのメッセ−ジを送る相手がいると言うことでもあろう…!!。

一体、誰に届け、何を知らせようとしているのであろうか…!!。 まさに不可解の極みである…!!!。

 

それは「ひふみ神示」の天明さんが言っていた言葉通りであり、今更、氏の言葉が深く偲ばれて来るものである。それから半世紀、未だその真実は霧の中であり、あてもなくさ迷いつづけていることは御存じの通りである。

要するに、現代知を持っては如何にせん解くことは叶わず、ただ言葉を繰り返しながら撫ぜ廻しているだけである。それでは100年経ってもそのままの状態で、少しも紐解くことなどは出来ないと言うことであり、現代の知で考えてもどうにもならんと言うことである。

 「学も神力であり、神ざぞ。学が人間の知恵だと思っていると、とんでもないことになるぞ」、「科学を越えて神の学に生きて下されよ」などの言葉であり、「学の鼻高さん何も出来んことになるぞ、学の世はすみたぞ、学者は閉口するぞ」などの含蓄あるフレ−ズの数々である。

 また、「もうここまで来たなら、この先は神の道で無くては動きがとれん、神の大道は上の上であるぞ。神の道を明らかにすれば、神はその人を明らかにする」

 「神と人との和は神よりなさるものであるぞ、働きかける力は神からでるのであるから人間から和し奉らねばならんのであるぞ。この先は神の力戴かんことには、ちっとも先行かれんことになるぞ…、等の言葉であり、もって不可解な言葉と言うものである。

 要するに、最早人間の力は尽き果て、どうにも動きが取れん状態と言うのが現在の人類の姿であると言っているのであり、一つの警告の言葉と考えるべきであろう。

ますます増える自然の脅威、打つ手の無い環境汚染、大国同士のエゴのぶつかり合い、人々の不満が起こすデモ的な反乱、確かに、今の世界情勢や人間知の行き詰まりを見れば「ひふみ神示」の言葉通りであり、いくら考えても最早どうにもならない状況である。やはり、これから先は神の力、すなわち融通無碍の神の力を借りることになるのであろうか…!!??。

                                                                 (2013、7月の語り)



    「数」の中に永遠の真実を見る(3)
  
       
まだ知らぬ自然の真実を尋ねて

      <それは人間の知とはまったく相容れないものであった…!!>
   

                       平成25年8月の記 (7/28日載上)


 未だ人類の知らない「自然の持つ知」、「自然意識(神)の叡智」をあまねく知らせるべく「神の数学」の講座を開いてからもう数年にもなる。     でも、現代的常識知にまみれ、現代知こそ宇宙普遍の最高の知であると信じてやまないあなた方の目には破天荒なものなのであろう。 

しかし、それも仕方がないことである。何故なら現代知の発祥は数千年前であり、それ以降は唯一の人類の正しい数知識として人々と共に一路まっすぐ歩み続けて来たものだから…。

要するに、それ以外の知は全て招かざるものとして放逐され陽の目を見ることは叶わなかったのである。それが時代を越えた秘教秘伝の類であり、二ュ−サイエンスの基幹となってきたものである。例えば、そこから生まれて有名になった人には二ユ−トンやライプニッツ、あるいはコロンブスなどはその一人と言えよう。何故なら、彼は古い言い伝えを信じて世界一周に旅立ったからである。 ひょっとすると、日本の生んだ偉人である湯川秀樹博士もその一人かもしれない。なぜならば、中間子理論は般若心経がヒントになって出来上がったと言われているからである。

例えば、常識に逆らった異説である地動説を唱えて裁判沙汰になったガリレオ・ガリレイその人を見て見よう。彼はコペルニクスの地動説を取り上げ正しい理論であると主張したが、当時は天動説に傾いていたので人の心を惑わす者として投獄され、その論が正式に認められて完全に名誉が回復されるまでには350年もかかったのである。
 なんとまあ、一般常識と言うものは間違っていても強いのであり、それを覆すには長い時間がかかると言うことであろうか。

先月述べた「神の法陣」の対角線の講義の内容は恐らく、あなた方の意表をつくものであり、まさに常識外れのものとして、さぞかし、首をひねったことであろう。なにしろ、すべては人知の外にある自然の叡知の産物であり、現代人にはまったく意表を突いた異説だからである。  
 しかし、真実は誰が見ても真実であり、誰がどう見ても真理なのは間違いの無いことである。しかも、簡単極まりの無い真の自然事実であり、小中学の子供でも簡単に計算出来るものである。それをして不可解などと口にするようでは現在の学も不信を招く原因となるはずである。
 でもそれが当たり前に通る現在の世の中なのである。そう言う訳であまり世の中には受け入れられてはいない現在である。
 するとやはり、世間に評価され、真価が認められるようになるまでは、それこそ長い長い時間がかかるのであろう。その間は現代知は歩みを止めながら堂々巡りをして進歩などは一切無いのであろう。

「神の数学」の中には、今回講義するような真実があることはまだ誰も知らない、そこにはまさに「神の数学」の面目躍如たるものであるのであるが、やはり、人々は関心を持って見つめるなどと言うことは無いのであろう、少々時代が早すぎたのであろうか…!?。

 

ここにある「神の法陣」の対角線群こそは最も理解しやすい「自然の学」であり、単純極まりない自然の知の現れなのであるが、それでもやはり、問答無用とばかり無視され、追い払われて姿を消す運命にあるのであろうか。それとも、2度と過去の轍を踏まないとばかりに学者達は陽の目の下に引き出してくれるのであろうか、それにより人類の知の進歩の度合と言うものはまったく異なって来るはずである。
 しかし、本来学者と言う種族は己の学だけを主張し、その他の人の学は排斥する傾向が強いようである。それを嫌った有能な学者達は次々と外国へ飛び出して自分の学を磨いているようである。特に日本はその傾向が強いと言われているのである。
 それは逆に言うと足の引っ張り合いで自滅する者が多いと言うことであり、結果として、有能な学者はなかなか生まれては来ないということになる。まさに、悲しい日本の学の現実であり、このままでは将来に深く影を落としかねないものと言えよう。

 

本来、「神の数学」の持つ内容一般こそが、本当の自然の学と言う「自然の叡知学」の姿であり、その本髄なのであるが、これら全般は今までの人知ではどうしても見出すことも叶わなかったのである。要するに、人知の学問には基本に大きな誤りがあり、その誤りが現代科学文明をとんでもない方向へと向かわせているのである。しかし、その事実を誰も知らない…!。

まあ、当分の間は現代の学はひとまず傍らに置いて、自然を語る「神の数学」のささやきに耳を傾けてほしい。そうすることにより、現代知の誤りが判るはずである。その上で「あるべき真実」の姿を少しでも見出し、それを基盤にして本当の自然学の姿を見出してほしい。

それによりあなたの現代社会に対する不満や荒びた心は徐々に平静を取り戻し安らかになるはずである。要するにストレス発散の妙薬であり、精神高揚の種と考えて十分に楽しんでもらいたいと言うことである。それが一番であり、自己の魂を磨がいて正しい形にすることにつながるものである。

 

 ここに 前回と同じ「神の法陣」の各次元表を掲げて置く。要するに、先月の「神の法陣」の対角線の講座を<bP>とすれば今月の講座は<bQ>と考えて貰っても結構である。答を繰り出す度に、もつれた糸は次々とほどけて来ることになるのである。まさに、あな面白きかなである。

まずは先月の講座を眺めながら今月の講座に心を移すことである。その上で色々と思索を試みて自然の妙を確かめてほしい。
 要は、現代知のしがらみを断ち切って、思いのまま、心ゆくままに楽しむことである。

すべてはあなた方の直感力と洞察力の鋭さに懸かっているのであり、その二つの感性が足元を照らしながら導いてくれることになるのである。

あなたの持っている生半可な思慮思索などではかなぐり捨てて、思い切りとんでもないような考察を考え出して貰いたい。そこには秩序と調和と言う法則が成り立っていればそれでいいのである。それが自然の本当のあるべき姿であり、現実自然の流れと言うものなのである。

現代の科学常識を天下ったような発想は最早役には立たないものと思ってほしい。なぜならば、現代科学常識を突きつめて行けば、最後には複雑と混沌があるだけであり、本来のあるべき答などは何も見出すことなどは出来ないのである。

 

よく見るがいい、現代数学には最早栄光は無く、あるのはただ行き詰まりの姿であり、いくら模索を繰り返しても新しいものは何もでては来ない現状を…。 現代数学上、この半世紀の間に何か新しい発見があったであろうか、いや、残念ながら何も無いといわなければならない。

例え、あったとしても過去の数学の焼き直しであり、過去の数学者がやり残した問題の答が判明したと言うことくらいであろう。それが360年ぶりに答が出たと言う「フェルマ−の定理」であり、別に大騒ぎするようなことでもない。すなわち、人類文明に貢献するようなことではないということである。ただ彼、フェルマ−が360年前に「驚くべき証明法を見つけたが、それを書く余白が無い」と書き記したことから、それを解いて名を売ろうと数学者達が競争に走ったということであり、ただ、それだけなのである。

さあ、ここに「神の法陣」の表を掲げて置く、これはn×nの方陣に古神道の奥儀祝詞である「ひづみ天地の数歌」をそのまま入れただけのものであり、自然数の順を乱すこともなくそのまま秩序通りに置いた「自然方陣」とも言うものである。要するにこれらは「易」の基本である河図や洛書、すなわち、「3次魔方陣」のように人為的に数を置き替えた「まがいもの」ではなく、本当の「神の心」がこもっている自然の作品なのである。
 要するに、人工的ないい加減な作品では無く、本物の「神の手になる作品」と言うことである。

まあ、考えて見ると、「易」の持つ秘密を掴もうと有史以来、どれほど多くの人々がこの魔方陣に挑戦し、無駄な日々を送ってきたことであろうか…。挙句の果てには、全員が無念の涙を飲んで敗退しているのである。 なぜならば、最早そこには何も「神のこころ」などは無く、すべては欺瞞の方陣と化していたものであったからである。なぜならば、「数」を人間の手で移し替えたので、本来のあるべき神の心はすでに失われてただの形骸と化していたからである。

 さあ、これから繰り出すものはまごうこと無い本来の「自然方陣」であり、古代日本に起源を持つものである。願わくば、現代数学知を振り払って純で素直な日本民族の心に還って心の目で見て考え、更には虚心坦懐な気持ちになってこれらの「神の法陣」をひも解いてもらいたい。
 
 
 すべては古神道の奥儀祝詞「ひふみ…天地の数歌」から現れ出た「神の知」であり、いわば、宇宙普遍の「叡知物語」の姿である。
 つらつら考えてみると、これらは日本民族の祖達が残した「知のオパ−ツ」とも言うものであろう。 そこには現代科学文明の持つ知よりも、遥かに高度な哲裡学上の思考形態が顔を覗かせていることが解り、我々の心の隙間を埋めて完全なものにしてくれるのである。それは現代の学には無い新しい形態の「数の語り」であり、自然宇宙全般の流転の原理を「ひふみ…天地の数歌」と共に解き明かしてくれるものである。

 

 上記の様々な「神の法陣」の持つ二つの対角線数列の存在に心を集中して貰いたい。そこにはいろいろな不可思議な「数の語り」が存在して我々を手招いているのであるが、それがあなたにはお解りであろうか…?。

素直に「神の数学」を学んで来た方にはその囁きが聞こえ、微笑みさえも感じられるはずである。

 例えば、3次元の「神の法陣」について見てみよう。ここには二つの対角線数、150753が存在しているのはお解りであろう。そして、この二つの数列はまったく同じもの、すなわち=で結ばれるものである。すなわち、150=753が成り立つと言っているのである。 さて、さて…?!。

我々の概念では150753はまったく別物であり、決して同一数などと言うことは出来ないものである。

しかるに、自然意識はこの150753はまったく同じものであると言っているのである、さてはて、そちらが正しいのであろうか…??。

要するにあなた方の言い分は本当であり、間違いないのである。一方、私の言っていることもまた正しいものであり、撤回は出来ないものである。さあ、何が間違っているのであろうか…!?。

さぞかし、あなた方はあきれ果て不審な顔を見せていることであろう。

では説明申し上げることにしよう。何回でも検算、検証を行い十分に心で納得してもらいたい。

 
 要するに、あなた方は「3次の法陣図」を平面的に見ているのであり、私はそれを平面立体的に見ていると言うことである。
 それが意見の相違の原因なのである。あなた方はこの平面立体的と言う言葉に少々抵抗を感じるかもしれない、しかし、この言葉はこの場合にはピッタリ合っている言葉なのである。要するに、平面立体的とは平面上に立体的な姿で描かれたものであり、平面的な図よりも一段上の手法を意味するものである。それはすなわち、平面状に描かれた立体的なデスクリプションを指す言葉であり、残念ながら、現代の日本語にはこの言葉は無い。今の西洋かぶれの日本語では平面の上はすぐ立体となる。要するに、日本独特のおくゆかしい古代言葉と言うものである。

そもそも、この言葉は天明さんの「ひふみ神示」にある言葉であり、知を持って任じている方々にはどうしても言葉の誤りと思われたものであり、怪訝に感じられていたものである。 しかし、決して言葉の間違いなどではない、あなた方の知不足、認識不足がそうさせているのである。

いや、そうではなく、それは現代人の知の不足が原因であり、学者と言われる人達の勉強不足、自然の理やその仕組みの理解不足がその大きな原因であったのである。 

 

要するに、この3次法陣の対角線数、150753は平面的(現代数学的)に見ると、150753そのままであり、まったく異なるものである。
 しかし、これらの数を平面立体的に見ると大きく変り、あるべき自然の知として新たにものを言い始め、重要な位置を取り始めることになる。

 そのあたりのことを天明さんも言っていたのであるが、もう一度よく噛みしめて見ることである。

  「大真理世に出るぞ、新しき太陽が生まれるのであるぞ。」

 「学の鼻高さん何も出来んことになるぞ。学の世は済みたぞ。学者は閉口するぞ。」と…。

「仕組み途中でグレンと変わり、ガラリと変わる仕組みをしてあるのじゃ。…火水(秘密)の仕組み、富士と鳴門の仕組み……。
 
<「数の仕組み」は途中で完全に180度変わってくるようにしてある、すなわち、「現代数学」から「神の数学」にである。それは誰にも推測不能である。それが富士と鳴門、
   すなわち富士の山(凸)と鳴門の海(凹)の仕組みである>


 さあ、このあたりで心機一転「神の法陣」の語る「宇宙自然の数の語り」に耳を傾けて自然の声を聞いて貰いたい。

 それらはまさに心を揺さぶられる真実の声であり、まごうことのない神の心の確かな表れなのである。

 私は何回も申し上げてきている、自然の象とは必ず裏と表の顔がある。だから、表の顔だけでは役不足であり、裏の顔だけでも役不足なのである。要するに、、両方合わせて初めて象は現象化して実質的な存在になるのである。一方だけではどうあっても影の存在となるものである。

要するに、正と反と言う二つの相反する顔を持ってきて初めて一つの現象として現れ、存在化に至ると言うことである。

そのあたりのことを何度も何度も謳っているのが上に掲げた天明さんの「ひふみ神示」である。

 「神の法陣」の二つの顔とは「陰」「陽」の顔であり、それは中心を挟んで相対的な位置関係を持っているのである。面白いことに、「神の法陣」に関しては厳しいほどその位置関係は守られ、決して例外などは無いのである。

しかし、悲しいかな、その事実を現代人はまったく知らない、まったく問題にもしてはいない。要するに、自然界の中において最も基本的で重要な「天の律」を無視して自然を論じようとしているのであり、無理に自然をねじ伏せようとしているのである。
それでは最初から自然を語る資格は無いのであり、自然のあり方、自然の仕組みを正しく知ることなどは決して出来ないのである。

これらの自然の持つ陰、陽の元については今まで何回も講座の中で説いたのであるが、最早忘れているであろう。
 一つ上に掲げた天明さんの言葉を参照しながら、もう一度軽く復習することにしよう。

 まずは軽いトレ−ニングとして3次の「神の法陣」を相手に陰と陽の2元性の存在とその確かさを見つめて貰いたい。
 要するに、全てに置おいて真実の数とは「中心」にからんで発生していることが解るはずであり、それが秩序と調和を生みだすのである。。



 さあ、先月書きおいたもう一つ対角線に関しての真実知を改めて申し上げることにしょう。これについてはだいぶ以前ではあるが講義申し上げた覚えがある。、出来ればもう一度目を通して思い出して貰いたい。

〔A〕

「神の法陣」の持つ二つの対角線ABには優劣関係は無く、全く互角の関係を持つものなのである。要するに、常にA=Bが成り立つと言うことである。しかし、現代数学の目を持ってではどうあってもそうはならない。決して、A=Bが成り立つことなどはまったく不可能なのである。

この二つの対角線上の数の読み方を学んでほしい、それにより10進法の曖昧さが良く判ると言うものである。

さあ、復習のつもりで振り返って思い出していただこう。
1次元…1=1, 2次元…1432、 3次元…159753、 4次元…16274174、 5次元…1741738405、 

6次元…186429483726、 7次元…10876547147147、 8次元…1111111135702468

9次元…123456789123456789、 
  10次元…13570246811111111111、 

 
 さて、どのようにすればこれらの二つの数、すなわち「神の法陣」の二つの対角線数列は=で結ばれるのであろうか、考えながら計算を仕上げてほしい。その計算法は説明済みなのでもうお解りのはずである。 
 すべては古代の哲理にあるものであり、現代知には無い「自然の数の持つ知」と言うものであるである。

 上図〔A〕にある対角線数列の姿をしげしげと眺めて貰いたい。何と、二つの対角線数列はまったく同じ値を表すものなのである。確かに、数字は完全に異なってはいるがその二つは完全に同じものでなければならない、それが自然の法則なのである。さあ、どのように処理すればその二つは=で結ばれるのか、考えて戴こう。現代数学知などを持ち出して考えては駄目である。なぜならば、そこには自然の道は無いからである。

 〔B〕

 次はそこにある次元の二つの対角線数列の和、すなわち、Σの姿を覗いて見よう。それは次の通りである。

0次元…0+0=、 1次元…1+1=, 2次元…14+32=46、 3次元…159+753=813
  
 4次元…
1627+4174=
5702、 5次元…17417+38405=46813、 
  
 6次元…
186429+483726=570246、 7次元…1087654+7147147=
8135702

8次元…11111111+35702468=46813570
  
 9次元…
123456789+123456789=246813579(0)

  更には …10次元…
1357024681+1111111111=2468135702、 ……続く

 

  要するに、この答の数字をそのままの順序で並べていくと一つの循環数列が現れる、それは次の「ひふみ九九算表」の2の段である。

   0246813570246813570246813570246813570……無限の循環体。

 それはすなわち、次元構造と言うものは各次元がバラバラな状態で存在するのではなく、一糸乱れない整然とした秩序と構造を持って一つのブロックとして存在していると言うことである。一応、先月の「数の中に永遠の真実を見る(2)」で説明したものである。もう一度参照して貰いたい。

  ≪面白い数の証言≫〔1〕

 そうすると、論理的には0,1,2,3.〜〜7,8,9, までの次元全数(天地の全数)を加算した答もを示すことになるはずである。

それを計算して確認して見よう。

0246813570246813570246813570246813570(Σ)=144→9→0

これはまさに真理のほとばしりであり、一切の矛盾や誤りなどは無いものである。

 ≪面白い数の証言≫〔2〕

 今度は〔B〕における全体加数Σを直線上に並べて見る。   2次元数は46→1、3次元数は813→3、4次元数は5702→5、…→

 0次元=0、1次元=2,2次元=1、3次元=3、4次元=5、6次元=6、7次元=8、8次元=7、9次元=0となる。

   直線的にならべると次の通りである。

       0  2  1  3  5 | 4  6  8  7  9 … 
                           
    
                    
中心点

 要するに、この数列は中心を挟んで折り曲げ合体させるとすべてはになり、になるのである。それゆえ、片方はであり、片方はであることが判る。 これにより、それらそれぞれの次元体はハッキリした「陰」と「陽」の世界に分かれていることがお解りであろう。
   
    

    
陰と陽の世界とは古神道ではのことである。

  
 確か、大分以前の古神道の祝詞の「ひふみ天地の数歌」の数字による説明の中に「天の部」と「地の部」の数物語があったはずである。それにこの数を当てはめて考えるのである。確か天と地には優劣は無く平等であり、合一するとになると説明したはずである。思いだしてほしい。

 ≪天の部≫02135のΣ=11→

 ≪地の部≫46879のΣ=34→

  すなわち、ここでも天の部地の部=9→0  (まさに祝詞「ひふみ天地の数歌」と創られ方が同じである) 

 
 どうであろう、このあたりまで来ると、どことなく数の並びに或る規則性や順応性があることが何となく感じられることに気がつき、心うずくのが判るであろう。それが直感性というものであり、何となく感じられて来るものである。


  ≪面白い数の証言≫〔3〕

そこでついでである、ここに再び「宇宙人の数学」、すなわち、(システム オブ ナインズ)にある数式1+8、2+7、3+6、4+5を適応させて見るのである。 すると何と言うことすべては完全に開けて虚空、すなわち0が顔を出して、ジ・エンドを告げるのである。すなわち、すべては完全無垢なスタ−トラインに還ることを如実に示しているものと言うことである。


   
≪面白い数の証言≫〔4〕

それらを一つ計算により確かめて見よう。決して、夢とか幻などではなく事実そのものである。

次元体Σ(0)次元体Σ(246813570)024681357(完全体)=36→9→0

1次元体Σ(2)8次元体Σ(46813570)246813570(完全体)=36→9→0

次元体Σ(46)次元体Σ(8135702)468135702(完全体)=36→9→0

次元体Σ(813)次元体Σ(570246)813570246(完体全)=36→9→0

次元体Σ(5702)次元体Σ(46813)570246813(完全体)=36→9→0

 

この場合には「天の数」を初発に置いて後部に「地の数」を置いたものである。すべては完全な秩序を持って並び、その姿は祝詞「ひふみ…天地の数歌」の本体、すなわち、「ひふみ九九算」の数列そのものであり、その聖なる循環態の姿であることがお判りになるであろう。
 ここの現れた「ひふみ九九算」のすべての数列に対してカミムスビを行い円形にして見るがいい、すべての数列は円形循環体になって完全体をつくり上げていることが解るであろう…!!。

驚くべきことに、次のように前と後ろの関係を変えても数列の数の流れはピタリと合い、決して混乱を招くことはないのである。その回転の一部始終を下記の≪ひふみ完全体≫の図で確かめるがいい。

一体、何だろう、この不思議さは…!!??。  

≪面白い数の証言≫〔5〕

 これはまことに不思議物語の最たるものである。どうしてこのように全てがピッタリと納まるのか、とても人間業などでは考えられないものである
 これだけは今の私でもただただ頭が下がるだけであり、余りの有難さに涙がこぼれ落ちるだけである。

   これは〔4〕における前後の次元を変えたものである

       9次元体Σ(246813570)0次元体Σ(0)=246813570(完全体)=36→9→0

      8次元体Σ(46813570)1次元体Σ(2)=468135702(完全体)=36→9→0

7次元体Σ(8135702)2次元体Σ(46)=813570246(完全体)=36→9→0

6次元体Σ(570246)3次元体Σ(813)=570246813(完全体)=36→9→0

5次元体Σ(46813)4次元体Σ(5702)=468135702(完全体)=36→9→0

               

何だろう、このピタリと筋が通っている数の流れは…!!。見ていると神気が溌剌と感じられ、思わず身がひきしまる思いである。

 恐らく、この意味とは「陰、「陽」とか、「天」、「地」とかの名称は完全に「別なもの」、「作用が反対なもの」としての区別名であり、本質的意味としては合一すればを生みだすものと言うことである。
 要するに、片方が「陰」であれば、他方は必然的に「陽」になるということである。我々の持つ現代知でも同じ意味で用いているようである。
 相対するものの片方が(ー)であればもう一つの方は必然的に(+)になると言うことである。 要するに、(−)(+)でも良く、(+)(−)と呼んでもいいのである。

一つ間違えばすべては駄目になるのであるが…!!。すべてはピッタリと流れに沿って流暢に流れて止まないのである。また、ここには確かな不可思議な数の真実の囁きと言うものが存在しているようである。一体、何を囁いているのであろうか…!!??。
 誰でもいい、鋭い洞察力のある方はこの数の不可思議な動きを徹底的に探って見て、その仔細一切を聞き出して貰いたい。

 このあたりのことは天明さんも言うているではないか、

 「あの世とこの世を合わせて真実の世となる。あの世ばかりでも片輪、この世ばかりでも片輪、まことは成就せんぞ。あの世とこの世は合わせ鏡、」と…。  この意味することを理解した御仁は残念ながら、今のところ誰もいない。

ここに示されている通り、あの世とこの世を合わせて初めて完全体と言う一つの実在象となるのである。それは上記の図0246813570…の循環態の図から判断すればよく判るのであろう…!。

その完全体は各数列を加算して一桁化すると現れてくるものである。余りの不思議さに肝を冷やすことになるであろう…!!。 が別に私が数に魔法を掛けたとかトリック的なことを行っている訳ではない。

これが「自然の真実」であり、「神の仕組み業」なのである。是非、その真実を学んで貰いたい。

まさに不思議、まさに神業としか言えないものである。これらの素晴らしい「神の知業」に比べると我々の持つ現代知などは恥ずかしくてとても知などとは呼べないものである。

 このあたりまで来ると「数」はまさに神の言葉であり、不整合とか不完全であるとかの一切の人間的な臭みなどは無いことが次第に解り始めるのであり、改めて「数」に対する万籟の信頼感が湧き起って来ることになるのである。

どうしても解らないことがこの「ひふみ九九算表」の中にはまだまだある、それは恐らく我々の知らない何らかの自然の真実を示唆し、教えているものであろうが、今の私の知の段階ではまったく判断がつかないのである。まことに残念な事ではあるが…。

要するに、我々の知はまだ「神(宇宙意識)の知」に比べると絶対的に低いのでまだまだ理解することが出来ないと言うことであろう。

その一つが、これらお互いの数列を前と後ろに置いて見ても常に流れは正常に流れて狂いなどは一切無いことである。確かに、何処を見ても流れは正常であり、常に前後の数との公差は2を保っているのである。

要するに、どちらを見ても、常に0246813570の数列の循環輪からは外れてはいないということである。

よく考えて見るとそこには余りにも見事ば形と数の完全さが輝いていてまぶしいほどである。すると、そこで語られている真実とは自然の成立にとっては余程重要なものと考えてもいいものであろう。

さあ、考えて戴こう。時間はいくらかかってもよいではないか、なんせ、人類の歴史始まって以来の難問であり、かつ、誰にでも出来る易しい問題なのであるから…!!。

これらの学は「神」、あるいは「大自然」が数百億年をかけて作り上げた、いわば「宇宙創生」に関わる一大叙事詩、あるいは「神の知のぺ−ジエント」の大いなる展開物語と言っても決して言い過ぎではないものである。それらの確かな存在を知るため、あるいはそれを解こうとして今まで学者達は何千年も懸命に努力を続けている。しかし、残念ながら、まだその一片も掴んではいない実情なのである、甚だ残念ではあるが…。

いまでは彼等は諦め顔でそんなものはある筈がないとか、人間の知の限りを尽くしても見出せるものではないと捨て台詞を吐いているのであり、完全に尻尾を巻いて逃げ廻って虚勢を張っているのである。

一時は人は人、我は我、と割り切って 「Going my  way」…を決め込んでいたのであるが、余りにも事の重大さに気が付き、遅ればせながら公開することにしたのであるが、果たして、どうなることやら。
 誰かがこの「自然数学」の存在の重大性に気がつき、メッセ−ジを発してくれることを願うだけである。日本人の中にはそのようなセンステイブな未来頭脳、自然頭脳のヒラメキを持った方々も大勢いるはずである。

まあ、最初は2,3人の志ある方を探し出して、胸襟を開いて語り合いたいものと気軽にHPに上載したのであるが、いつの間にか大勢の方々が関心を示すこととなったのはまことに喜ばしい次第と考えている。後は命のある限り「神の数学」を講義し続ける積りであるが、それも何時まで続くことやら。

まだ道は遠い、全体の半ばまでもまだ行ってはいない。後代に残すべき「神の叡知」はまだまだ数え切れないほど山積みであり、机の上に散乱している状態である。さて、後、何年この世に在籍出来ることやら…??。

今まで人類は余りにも長い間、数を意味の無い無機的なものと見なし、ただ軽んじてきただけである。 本来、「数」は神に次ぐ偉大な意識を持つ知性体であるが、ただ、人間は完全にその正体を見抜けず、その扱い方も知らなかったのである。何と言う悲劇であろうか…!!

今、長い間人間知には不在であった「知られざる叡知」の突然の出現により「人間知の欠陥」が完全に暴かれてしまい、学者達はただおろおろとして考えることも出来ない有様なのである。

恐らく、驚きの余り声すら出ない状態と言ってもいいであろう。恐らく、その結果、無視を決め込む者が大勢を占めることになるであろう。

まあ、そのうち目覚める者も出て来て追々追跡検証を始めることであろうが、恐らく、それは外国の学者達であろうと思われる。何せ、彼等は理論的計算には敏感に反応し、飽くことの無い追求心に溢れているからである。最初に食いつくのは彼等である。
なぜならば、インタ−ネットにはその叫びがあるからである。「数の「9」には大きな秘密がある、誰か「9」の本当の意味を知らないか」と…!!。

しかし、本来はそれでは駄目なのである、純日本人のDNAを所持した日本人がこれらの「天の叡知」を世界に先駆けで出してこそ初めて「天の岩戸開き」が行われ、先祖に申し開きが出来ると言うものである。

「天の岩戸開き」とは神の業を学び、神の世界に入ることであり、神と共に学んで栄えゆくと言うことである。

そのあたりのことは天明さんもシッカリ言っているではないか、…!!。何せ、「ひふみ神示」をひもとけば何となく「神の数学」の内容を暗示していると思われるフレ−ズが山のように出て来るのである。まさに、おびただしい類似しているフレ−ズである。

 ●≪九九には九九の立場あるぞ。……それが数霊、動くと音出るぞ…≫ 音が出るとはものを申す、口をきくと言うこと

●≪123(ヒフミ)唱えて岩戸が開くぞ、123を説けよ、123は神ぞ、神のはたらきが123であるぞ、123は神の息吹ぞ、123の仕組みとは永遠の動かぬ道のことぞ、…。≫ → 123(ヒフミ)とは「ひふみ99算表」のことである。

 ●≪仲良しになって道伝えよ、道を説けよ、一切を肯定し二九(九九の道)を伝えよ≫…と。二九とは「九九の道」であり「ひふみ99算表」のことである。

今までの宗教は日本だけの宗教このたびは世界のもとの3千世界の大道ぞ 今までの宗教とは「神道」のこと

 ●≪天地には天地のキ、民族には民族のキあるぞ。そのキは時代によって変わってくる。それに合わんものは滅んでしまうぞ。≫
    → 為すべき天命、民族の定められた運命、民族の深層意識の働き、

 ●≪神から出るものは理に決まっているぞ。この平凡の理の道理がなぜ判らんのじゃ。得心出来んのじや。それに従えばこそ向上、弥栄するにじゃ。    天狗ざから、慢心するから、理が無くなり行き詰まりのじや。 一応は世界一家の型できるのじゃ。≫

 ≪日本の、世界あけたり、あなすがすがし、日本晴れぞ、二二は晴れたりとは真理の世にでることぞ。≫

                                                                     (2013、8の語り完)




    「数」の中に永遠の真実を見る(4)
  
       
まだ知らぬ自然の真実を尋ねて

      <それは人間の知とはまったく相容れないものであった…!!>
   

                       平成25年9月の記 (8/28日載上)



 今月も先月に引き続く形で「神の方陣」の講義を続けたい。しかもその内容は先々月(1)、先月 (2)の続きであり、いわば、3とも言うべき「神の法陣」の対角線についてである。対角線の図、それはまさに「神の心の図」であり、我々の心をぐいぐいと引っ張っていくものである。

 まあ、これらの現実的な「数」の語り上げる「神の象」、「神の仕組み」に対して声を上げて反論する道化者もいないではあろう。もし、いたとしても自らの愚かさを暴露するだけであり、天に刃向かう者として周囲から冷ややかな目で見られるだけである。

 要するに、余りにも天の理は完璧過ぎて余論の入る余地はまったく無いと言うことであり、宇宙意識(神)の心の宿っている数の理にはまったく不整合や不合理は無く、完全無欠と言うことである。

 

つらつら思うにこの「神の方陣」の中に納まっている「神の秘密」は止まることを知らない、まさに「神の知のラビリンス」と言ってもいいものである。とにかく、そのすべてはまったく人間知の預かり知らない天外の知であり、古今東西の学問の中にはどうあっても見出すことはできないものである。それが古神道の中から続々と現れ出ているのであり、様々な「神の知」を囁いて鎮まっているのである。

 

 この「神の法陣」の持つ知は何となく宇宙意識(神)のつくり給うた永遠の姿を持つ「神の叡知」の匂いが漂うものであり、どうも宇宙創造の際に神と共に働いた。いわば、パ−トナ−とも言うべき「数」の残した「宇宙創生のメモ帳」と言ってもいいものと考えられる。

 なぜならば、「神の方陣」には無数の宇宙律(法則)が内蔵され、果てない永遠の真理を歌っているからである。しかし、今まで、現代人は誰一人としてそれに気がついた者はいない。

 

 それが古代日本の祖である「神代の神々」が知っていたことが判明するに至っているのである。どう言う経路があったのかは知らないが、これらの「天外の知」は古神道の中に納められていたのである。しかし、今の今まで、誰もその仔細を知る者は一人もいなかったと言うのである。
 今まで多くの神道研究者達が神道の中には世界を救済するような「神の叡知」が封じられていると言う噂をもとに長年の間探索を尽くして来たのであるが、結局、見出すことは叶わずただその言葉だけで終わっていたものである。
               【そのあたりの仔細は「日本神道と天寿学」の121n…大田龍著、及び「人類文明の秘宝」の294n…馬野周二著を参照してほしい。】

そもそも、古神道は爾来3千年と言う長い間日本民族と共に長い歴史を歩んで来て現在に至っているものである。 要するに、その事実は古代神話にある天孫降臨の話にもつながるものと考える必要があると言うことである。そうすると、まさに古神道の神話は生き生きとした真実味を帯びて来ることになり、歴史も息を吹き返すことになって来るのである。 
 
 歴史書を見るがよい、戦前には確かに書かれてあった「神代の神々」の文字は完全に省かれ、世迷言として抹殺されているのである…!!。
 それも僅か50〜、60年と言う短い間にである…!!。

 現代の歴史学者達は余りにも歴史を軽んじ、我が物顔で歴史をこねくり回しているこの事実、恐らく、後代の歴史家は眉をひそめるであろう……!!。
 
 要するに、この古神道から現れた驚くべき「数の理」を見るとどうしてもそう考えざるを得ないと言うことである。
 そもそもその「数の理」の基本構造は現代数学とは轍が一致せず、次元的な異なりとも言うべき外観性と内容を持っているものである。
 
 確か、それは大分以前にアメリカで発見された「空飛ぶ円盤」の中にあった「宇宙人の数学体系」に酷似しているものなのである。いや、まったく同一的なものと言ってもいいもなのであろう。

 それの意味するものとはすなわち、我々日本民族の祖とは遥か遠くの星から渡って来た宇宙人であり、彼等が携えて来た「宇宙の叡知」を封じ込めたものが古神道と言う尊い伝承道なのである。そうでも考えなければこの驚くべき事実の内容の説明がつかないのである。

その証拠となるものこそが今まで人知の介入を一切拒んで来た古神道の奥儀祝詞である「ひふみ天地の数歌」の尊い姿であり、「アイウエオ五十音図」の不可思議な発音形態の図である。共に太古にあっては双対の「神の言葉」として崇められていたものである。

 これら二つは双対の古代遺物知であり、お互いに「陰」と「陽」の関係にあることは明白である。

 なぜならば、「ひふみ天地の数歌」を鍵として「アイウエオ五十音図」を解き放つと「神の秘密」が現れ、反対に、「アイウエオ五十音図」を鍵として「ひふみ天地の数歌」を開けば、またもや一つの「神の秘密」が現れて確かな「自然真実」の存在を告げているからである。要するに、この二つは切っても切れない関係にあると言うことである。まさに、人知外の産物と言ってもいいものである。 <その関係についてはSee → 「古神道」bU、bV>

 

そのように考えると日本に残されている諸々の不可解な超古代文書の存在もうなずけることになり、古代神話の内容も段々ハッキリして来るのである。例えば、古事記の国生みの神話も太陽系の惑星の誕生の件を描いたと考えれば辻褄が合うのである。ただ、その話を何もしらない原始的な民族に話しても要領を得ないと考えて、スケ−ルを一段小さくして国生みと話としたのであろう。

 

 これら古事記に残されている神話は別に私の創作ではない、先達はすでに何人かいるのである。興味のある方は次の書を一読することを勧めたい。  <真説「古事記」…山田久延彦著、宇宙創世記「古事記」…辻村興一著>

 これらの先達諸氏は科学的な考察を経て真実の目を持って滔々とした説を立てているのであり、今までの学者の四角ばった陳腐な解説などはとても足元にもおよばないものがある。ぜひ、そのあたりのことを知って欲しい…!!。

 

余り知る者もいないようであるが、例えば古事記にある言葉、すなわち高天原(タカマガハラ)については江戸時代の神道研究家達によりいろいろと議論され、取り纏められていた事が専門書を読むとよく判るのである。それも今の学者が聞けば目を剥くような宇宙観と哲学性を持って宇宙の根源さえも語りあっていたのであり、まさに驚くべき非凡な洞察力と才能を発揮していたことには大いに注目しなければならない。

驚くことに彼等の眼点は常に宇宙の始まりに置かれていることである。すなわち、高天原とは天の神々を生みだした宇宙の根源とも言うべき場であり、知慮分別を越え、一切を孕むと同時に一切を貯蔵することの無い清浄空無の聖空間であるとさえ断じて、宇宙の根源論にまで至っていたのである。
 そのあたりのそうそうたる学者達とは新井白石、本井宣長、平田篤実、それにイギリス人のウイリアム・ジョ−ジ・アストンをはじめとする江戸期の神道研究者達である。

今の私には余りにも高邁過ぎて理解に苦しむ言葉であり、数百年前の洞察力と理解力にはただ驚き、畏れるだけである。
 それに比べると何と今の学者達の知の貧困の度合いとその発想力の乏しさにはただ呆れるだけである。彼等は解らなければ、ただ捨て去るだけであり、無視するだけである。

例えば、神道などは完全な過去の遺物であり、現代の学とは相容れないものであると考えて完全に蓋をしている状況であったのである。
 その結果として、学者達は古神道や超古代文書の類を忌み嫌い、ただ排斥するだけで、決して近寄ろうともしなかったのである。
 まあ、早く言えば、慣れ親しむことがなかったので理解することが出来なかったと言うことである。その結果、苦し紛れに後代の誰かが作り上げた偽書であり、読むのも馬鹿馬鹿しいとして無視を決め込んでいるだけであった。まったく、何と言う愚な話であろうか…!!?。

 

さあ、今月の講義に入る、今回の講義は先々回、先回に続く「神の法陣」における対角線の告げる真実物語であり、永遠なる「神の秘密」の一端を解き明かすものである。出来れば今まで同様に心静かに相対して、そこにある「神の心」をしっかりまさぐって貰いたいと思う。

 

先回同様に「神の法陣」を掲げて置くので参照方々真実の追求に心を投じて貰いたい。要するに、今回は先回に続くシリ−ズであり、そのbRとも言うべきもの、すなわち、これらは純選3部作といってもいいものである。

すべてはまがうこと無い真実の図であり、「神の心」の宿っている自然の叡知と言うものである。これらを学ぶためには素直な心と不乱の洞察力を持ってあたって貰いたいものである。

 

あなた方が如何に現代知を揮って「神の法陣」にアタックしても、それを解き放つことは出来ない。なぜならば、そこに立ち入って扉を開くためには鍵が必要であるが現代知の中にはその鍵は無いからである。その鍵とは、すなわち、0=9であり、現代の学者達が最も嫌って、逃げ回っている言葉である。

0=9とは0=∞のことであり、現代の学ではどうしても解くことの出来ない宿命の命題と言うものである。




 この図は1〜8までの「神の法陣」における二つの対角線の数列を示しているものであり、別に頭をひねるようなものではない。ただありのままに素直に考えてもらえればいいものである。

 まあ、一見すると何の変哲も無い数の乱舞であり、まさにランダムな数以外の何ものでもない。しかし、現代の学者達はこれを判ずることが出来ない。なぜなら、これを解き放つためには現代知を捨てない限り、決して解くことが出来ないからである。

  あなた方は恐らく、一つの「神の法陣」における二つの対角線上の数列はで結ぶことが出来ると言う大変な命題は最早クリア−していることであろう。でも一応、参考のために解法を記しておくことにする。 まあ、幼稚な問題であるが、現代数学者は決して解くことは出来ない問題なのである。

 要するに、これら各法陣の対角線数列を加算して答を一桁化すれば答は自ずから明白になると言うことである。例えば、次のように。

   、≪6元の法陣表≫

A=186429(Σ)→30→   B=483726(Σ)→30→   よって  A=B

 例 、≪8元の法陣表≫

A=11111111(Σ)→       B=35702468(Σ)→35→  よって  A=B

 

すなわち「神の数学」的な手法ではA=Bが完全に成立し、しかもその手法とはすべての「神の法陣」、すなわち、0から無限大までの全ての法陣に及ぶものである。これこそが今まで誰も見出すことの叶わなかった「天の真理」、「神の律」であり、自然の真実を語って止まないものである。
 信じられない方は他の「神の法陣図」で心いくまで検証に励むことである。それが最も素直な方法であり、数の真実が解るものである。



 要するに、これこそが、我々現代人が学ぶ必要がある「神の知」であり、自然の「真実を囁き」と言うものである。

この二つの対角線の存在事実を物理的に、あるいは哲学的に詮索するならば、この「法陣」の持つ二つの対角線は相対的な位置を占めながら、空間的にもエネルギ−的にも同等同格であり、力関係もまったく同じであることを如実に示しているものである。
 ただ一つ異なるのはその方向性が完全に異なり、180度の変化位相も持っていると言うことだけである。その180度の位相の異なりこそが「陰」と「陽」の違いであり、その本質の差なのである。要するに次元の違いとは位相が90度異なることであり、180度とは2位相の異なり、すなわち、正反対の位置を示しているものである。すなわち、それは「陰」と「陽」の異なりと言うことである。
 また、その180度の位相差の意味とは、すなわち、二つの力はお互いに拮抗し合って中和状態にあると言うことであり。まさに自然の象そのもと言うことである。

更に詳しく量子的な目で見るならば、これらの二つの対角線は相対的な位置を占め、常にシンクロしながら相手と共鳴状態にあって相手を認識し合っていると言うことである。要するに、お互いに共鳴しながら拮抗状態、すなわち、中庸状態であるを保っていると言うことである。
 何と言う素晴らしい自然の象の姿であろうか…!!。まさに量子物理学の筋書通りのものであり、それを裏書きするものでもある。

 

例えば、それについては原子における二つの電子、すなわち、(+)電子と(−)電子の位置関係を見れば判るはずである。すなわち、(+)電子と(−)電子の位置は常に対向方向にあって常に相手を監視し、通じ合っているのである。例えばである、この二つの電子が宇宙をはさんでこっち側とあちら側に位置していても常にお互いの位置を知ることが出来、感じ合うことが出来ると言うのである。これを称して物理では「宇宙対向の静電気原理」と言っている理論である。なぜだろう、その答えは「神の数学」を学べば、すぐにでも判ることである。要は、0=9の問題である。

その件(くだり)については「波動性科学」(大橋正雄著)から引用して見よう。

 

「宇宙のバランスの法則により、エネルギ−が創生される時は必ず対照的なエネルギ−が対発生するのであって、+電荷が一定の位置から一定の方向へ回転すれば、−電荷はそこから180度ずれた反対側から同じ方向に瞬時に回転を始める。」「波動性科学」71Pより

 

 さあ、次の命題にスイッチすることにしよう。要するに、各次元の二つの対角線AとB上の数を更に目を凝らして見るのである。





 さあ、よく上記の数字群を観察することである。数字と仲良くなったあなたの目には何か戸惑うような感じがあるであろう。この結果の答の出現こそが、恐らく、あなたを驚愕の坩堝に叩き落とすであろう、そう、まさにその通りである。

 

≪2の図≫

 ≪1の図≫の本質的な関係を見て見よう、この場合には〔B(地)〕の数図を180度回転させるのである。要するに、平面的な処置の場合には180度真ん中から二つに折って重ねるのであるが、この場合は平面立体的なので片方を180度立体回転させることにより真実が見えるのである。


 

何と言うこと…!!。このような驚くべき数列の群が現れて何事かを囁いているのである。しかし、残念ながらその意味を解き、答を出せる者は誰もいない。現代のような西洋科学の信者である学者先生達ではなおさら無理な事であろう。新しい知の出現は何を語っているのであろうか…。

要するに、自然の声を解することは現代知では出来ない、歯が立たないと言うことである。

 それが現代科学知の姿であり、まったく自然と乖離(かいり)している学の姿なのである。

また、残念ながら、現代の科学者や数学者達はその事実をまったく知らず、現代の学は自然の学に沿っているものであると自画自賛しているのである。何たることであろうか…!??、まさに曲解そのものである。

 
≪3の図≫

 よく見るがいい、ここにある天地の合体図はまさに「ひふみ九九算表」そのものであることが判るであろう…!!。まさに不可思議の一言であり、驚嘆と畏敬があるのみである。

何と、それぞれの「神の法陣」の対角線の数の一方を回転加算することにより、そこには何と思いもよらない「ひふみ九九算表」が現れて来るのである。一体、全体、それは何を示唆しているのであろうか…!!。

 そこには少々見慣れない数列があるがそれも本来の数列の2次的な現れに過ぎないものである。

例えば、174174…の数列は本質を見ると「ひふみ九九算表」の7段目の数列0630630…の2次的な現れであり、1111111…000000…の2次的な現れと言うものである。

なぜならば、174174…の各数からを引くと数列063063…が現れるのであり、111111…の各数からを引くと000000…が現れるからである。

また、それでも疑う方はこれらの数列の本質を見てみることである。それらは次の通りである。

 

1 7 4 1 7 4      0 6 3 0 6 3(右の数から左の数を引く)
   ∨ ∨  ∨ ∨ ∨         ∨ ∨  ∨ ∨ ∨
   6 6 6 6 6          6 6 6 6 6 ……(二つの本質はまったく同じ)

 

1 1 1 1 1 1       0 0 0 0 0 0 (右の数から左の数を引く)
   ∨ ∨ ∨ ∨ ∨         ∨ ∨ ∨ ∨ ∨
   0 0 0 0 0          0 0 0 0 0 ……(二つの本質はまったく同じ)

 要するに、これら二つの数列は姿は変われども本質はまっいたく同じものと言うことである。お解りであろうか…!?。

 

それにしても古神道の祝詞「ひふみ…天地の数歌」とはよく名付けたものである。何と言う素晴らしい「天理の知」を我々の祖達は持っていたのであろうか、ただただ驚くだけである。

このようにして色々と「神の数学」の検証を進めて行くと「天地の数歌」の名の由来が良く判ってくるのであり、古代の租達に対する敬虔な心も知らずい知らずに湧いてくるのである。

なぜならば、天地の根源を追い進めて行くと最後には必ず祝詞「ひふみ…天地の数歌」が現れてその幕を閉じることになるからである。

何故そうなるかについては今の私は知らない、ただ不可思議の声を上げるだけであり、ただ驚嘆に尽きるだけであるる。

 

≪4の図≫  (不可思議の図…??)

 ≪1の図≫の〔A(天)〕の表の中を見て貰いたい。まずはそこに流れる縦の数列を見るのである。

そこに縦に流れる最初の数列は11111……であり、00000……と同一的な姿を持つものである。

 では2番目の数列はどうか、それは上から456780123と流れる数列である。

 では3番めはどうであろうか、それは02468135と流れていることが判る。

 では4番目はどうか、それは7147147と流れる数列で036036…の変化数列である。

このように縦列を眺め渡すとそこには「ひふみ九九算表」が歴然とした顔を見せていることが判ると言うものである。

この意味は、すなわち、0次元から9次元、あるいはその後に続く全ての次元は完全な繋がりを持っている事をここでも示しているのである。何と言う「神のみ業なのであろうか…!!。

要するに、全次元は完全な繋がりを持った存在であることを「数」が示唆しているのである。

 

≪5の図≫  (不可思議の図…??

 今度も≪1の図≫の〔A(天)〕の表の中の最後尾の数を見て貰いたい。そこには149779419(0)、最後尾から2番目の数列は15212518と流れる数列が見出される、これは完全な鏡面対称数列でと言うものである。ではその本質を一つ見ることにしょう。

 1 4 9 7 7 9 4 1 9    1 5 2 1 2 5 1 8
  ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨     ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ 
  3 5 7 0 2 4 6 8、     4 6 8 1 3 5 7 …… 「ひふみ九九表」の三段目の数列

何と、ここにもシッカリと「ひふみ九九表」の三段目の数列が現れ何かを叫んでいるのである。

しかし、残念ながら我々の持つ現代知などではその叫びを読み取ることは不可能なのである。

疑う方は≪1の図≫の〔B(地)〕を調べて見るがよい。同じ数象が起きて何事かを囁いているはずである。

 

≪6の図≫  (不可思議の図…??)

 今度は検算のために「神の法陣」の二つの対角線列の引き算を行って見よう。要するに、これら二つの対角線数列がA=Bで結ばれると言うことは、すなわち、ABは同じものならば、当然A−B=0が成立するはずである。では検証して見よう。果たして、A−B=0 が成立するのであろうか…?。

  

 この「数の語り」の意味するものを読み込んでほしいと言うならば、読み込むこともやぶさかではない。ただし、私の主観の限りであり、正しいものであるとは断言することは少々はばかれる。

何故なら、「神の数学」の場は私の独断場なので誰も審判を下せる者はいないからである。

それは私一人がりきみかえっても理解する者は誰もいないと言うことであり、それはまさに群衆の誰もない舞台に立ったピエロであり、滑稽極まりない光景を演じていると言うことである。 要するに、まったく無駄であり、意味が無いと言うことである。

また、この0次元〜9次元の表で見る限り、進むにつれて次々と鏡面対称数列が付加されて大きくなっていることが判る。それによって少しづつ捻じれが生じ、全体的に回転状態にあることを示しているのである。

それを例えて言うなら、ちょう我々の細胞における染色体のDNAの構造が全体的な二重螺旋的な構造を持って、捻じれを生じさせながら次々と伸びて行っている状態と甚だ似ている図と言えよう…!!。 いや、まさにそっくりと言うべきである。

すると宇宙の次元構造と我々の細胞の持つDNAは構造性においてはまったく相似的に作られていると言うことであろうか、そうであるならば、我々人間の心と宇宙意識は常に同調関係にあってお互いに共鳴状態にあると言われているのも納得出来ると言うものである。まさに、すべては摩訶不思議、不思議千万なことであり、驚嘆に満ちているものである。果たして、そのような事が事実として存在しているのであろうか…!!。

また、我々のDNAの納められている染色体は]的な形を持ち、真ん中で交叉している。その交叉こそが神秘の源であり、知の母体である。それはまさに、その姿は「神の法陣」の構造そのものであり、まさしく相似的な形を持っているものと言えよう。やはり何か関係があると考えて学を進めるべきである。
 この中心交叉には大きな秘密がある。それを明らかにしたければ、「神の数学」B『中心の秘密』をもう一度探索すべきである。何回も言うようであるが、とにかく、この『中心の秘密』の手法はまだ人間知には無いものであり、獲得すればそこには大いなる宇宙との共鳴が見られ、あなたの心にも大きな影響を与えて止まないものである。是非、十分に学んで新たな「宇宙の叡知」を身につけて貰いたい気持ちで胸一杯である。。

よく考えて見ると、現代知には「鏡面対称数」に関しての知識はまったく無いので取付く暇が無いと言える。それはすなわち、事実を証明する術(すべ)は何も無いと言うことである。要するに、今までは誰も「鏡面対称数」と言うものの存在を知らなかったと言うことである。
 そもそも、鏡面対称数の形は同じようではあるが、前から読んだ場合と、後ろから読んだ場合にはまったく性質が異なるものであり、「陰」と「陽」の関係にあるものなのである。 一つそのことを老婆心のため付け加えて置くことにする…!!。さあ、じっくりと考えて見てほしい…!!。

せめて、これを機に数学者達が発奮して鏡面対称数の秘密を解き明かすことが出来るならば、あるいはこの「神の秘密」も何時かはヴェ−ルを脱いで素顔を見せてくれるであろう。要するに、発想の転換が出来るかどうかと言うことであり、それが問題なのである。

これらの「数の囁き」は現代知の向こう側にある自然の真実を語るものであるが、恐らくは、いまの所、誰も否定も肯定も出来ないものであろう。我々に出来ることは、出来るだけ考えに考えて、それでも判らない場合には無理をせず、すべての真実の答は将来に託せばいいのである。
 それが今の我々が出来る最良の方法と言うものであろう。

ただ判らないから闇雲に否定に走るのは現代の学者達の悪い癖であり、将来につまらない禍根を残すだけである。

 

ただ、ここで我々に解ることは自然宇宙の象は全てシンクロ(同調共鳴)しながら繋がり合っているいと言うことである。シンクロこそが現実に存在している象であることの何よりの証(あかし)なのである。宇宙の万物はそろってシンクロ状態にあるので顕在しているのである。

例えば、≪3の図≫の本質を見ると差はすべて同じ、すなわち同じ数が現れて互いに共鳴し合っている、すなわち、同じ状態にあってシンクロ(同調)していると言うことがよく判る。

偉大なる科学者達は言う、宇宙に存在するものは多かれ少なかれ互いに同調状態にあり、シンクロし合っているから存在し、永遠性を持ち続けていると…!!。

我々人間でも同じである。心がお互いに共鳴同調状態(シンクロ)にある者同士は本当の友達になれるとか、気持ちが判りあえて気が休まると言われているものである…!!。その証拠に、昔からこれに関する沢山の諺が残されているではないか…!!。

 

自然数学の世界、それは我々の現実世界の奥にあるものであり、現実世界の雛型的な基本構造を持っているものである。その事実を現代数物理学者の分野で世界のリ−ダ−格であるイギリスのロジャ−・ペンロ−ズの言葉から一つ引用して見よう。

プラトニック・ワ−ルドすなわち、精神世界こそが本当の数学的な構造を持っているのであり、物質世界はそこから生まれた二次的な存在である。もっと易しく言えば、何と我々の体(物質)は我々の意識(想い)が作りあげたものであり、意識こそが本当の主人公である。」と言っている。  まさに、その言葉は「神の数学」を学んでいると心から納得出来るものであり、さもあらんと思われる言葉である。

 

そのあたりのなるほどと頷けるような言葉を天明さんの「ひふみ神示」の中から更に拾い出してみよう、その言葉が私と同じようにあなたの心の琴線に触れるようならば最早あなたの意識は平面的な現代知を離れ、ワンステップ上の立体平面な世界を目指そうと試みていると言う状態であり、すでに心は現代の学から離れつつあると言うことである。

それはいわば、卵からかえり、さなぎになりつつあると言ってもいいものであろう。

するとやがては羽ばたく日が近いということであり、縦横無尽に自然の心を読み、自然の心と知るようになって来ると言うことであろう。身も心も自然に軽くなって来るようにも思えるものである。

 

「もと(母答)を正さねばならん、間に合わんことになるぞ。」 【もと(母答)とは数学の基本である10進法】

●「イズモの神の社をかえて竜宮(理由空云)の乙姫(音秘)様のお社を陸(理空)に造らねば、これからの世は動きがとれんことになるぞ。」
 【理由空云=今まで細々と伝えられて来た  音秘=言霊  理空=シッカリした論理】

「神に抱かれたそなたは平面から立体のそなたになるぞ。……1本足では立てん、2本足が良いぞ。」
   【1本足=現代数学の直線態法、  2本足=視線数学である循環態法、すなわち、陰と陽 】

「大切なもの一切は神が人間に与えているではないか、人間はそれを処理するだけでいいのであるぞ。
    【遥か昔に神は知のレ−ルを創り上げていたのであり、 我々人間はそれを学ぶだけでいいのである】

「何故に生活にあくせくするのじや。悠々、天地(自然)と共に天地を歩め。」
     【なぜ、骨身まで削って頑張るのか、天から与えられた知と共に自然に生きるがよい!。】

「平面の上でいくら働いても、もがいても平面行為で有限ぞ。立体に入らねばならん。一から二に、二から三へと次々に進めねばならん。進めば進むほど、始め(0)に還るぞ。ちょん(神)に至るぞ。」、

●「あの世とこの世合わせて真実の世となるのぞ。あの世ばかりでも片輪、この世ばかりでも片輪、まこと成就せんぞ。」、「今の裏のやり方、ひっくり返して表のやり方すればそれでいいのじや。」、

●「神示よめよ、秘文、世界に写せよ。人間の知のみでは世界は良くはならん。」、「ウとムは互いに相反するのであるが、これが一つになって動く、ウとム組み組みてと、申してあろうが。」、

●「反対の世界と合流する時、平面の上でやろうとすれば濁るばかりじや、合流するには立体でやらねばいかん、」

●「現実的には不合理であっても、不合理にならぬ道をひらくのが、霊現交流の道であり、立体弥栄の道、行き詰まりのない道、」新しき世界へのみちである。平面ではどうにもならない時となっているのに、何して御座るのか。」

●「そなたは学に囚われて御座るぞ。科学を越えて神の学に生きてくだされよ。そなたは自分で自分の首をしめているようなことをして御座るぞ。自分で勝手に小さな自分の神を作っているぞ。一度その神を捨てなされ」

●「心の窓を大きく開いて、小さな我が慾を捨てると、遠くが見えてくるのじゃ。見えたら先ず自分の周囲に知らせねばならん。知らすことにより次の道がひらけてくりにじゃ。自分だけではうれしうれしとならん。うれしくないものは弥栄しないぞ。」

●「そなたはまだ方便をつかっているが、方便の世はすんでいるのぞ。方便の教えとは横の教え、いろはの教え、平面の教えの事ぞ。仏教もキリスト教も回教もみな方便ではないか。教えはみな方便じゃ。

教えではどうにもならん。変わらぬ大道でなくてはならんぞ、方便の世はすんでほうべんの世となり、

そのほうべんの世もやがて終わるぞと知らしてあろうが。理とは三界を貫く道の事ぞ。宇宙にみちみつ神のあり方ぞ。法則ぞ。秩序ぞ。神の息吹ぞ。弥栄ぞ。喜びぞ。判りたか」…。

●「マコトに祈れと申してあろう。マコトとは0(),1,2,3,4,5,6,7,8,9(),10()のことと申してあろう。マコトで祈れば何事もスラリスラリと叶う結構な世ぞ」。

●「何事も清めて下されよ。清めるとは和することであるぞ。同じもの同士では和ではない。違ったものが和することによって新しきもの生むのであるぞ。奇数と偶数を合わせて新しき奇数を生み出すのであるぞ。それがまことの和であり、清めであるぞ。善は悪と、陰は陽と和すことじゃ。和すには同じあり方で、例えば五と五との立場で和すのであるが……、これが和の正しいあり方で、これを公平と申すぞ」。

 

まあ、天明さんの「ひふみ神示」をひもとけば何となく「神の数学」の内容を暗示していると思われるフレ−ズが山のように出て来るのである。まさに、おびただしい類似しているフレ−ズである。

                       (2013、9月の語り 完)




      「数」の中に永遠の真実を見る(5)
  
       
まだ知らぬ自然の真実を尋ねて

       <それは人間の知とはまったく相容れないものであった…!!>
   

                       平成25年10月の記 (9/28日載上



 「神の法陣」の秘密を探る講座も早いものでもう5回目になってしまった、出来れば、今回でキリをつけて、次の項目に進むことにしたい。ここまで示しておけば「神の法陣」の持つ大きな秘密に気がついて続々と後継者が現われ、更なる秘密を解き明かす努力をしてくれるであろう。

私はここまでしか知らないのではない、これで恐らく資料の10%か、15%くらいの開示であろう。ちなみに「神の法陣」の資料講座としては「初級(12巻)」、「中級(12卷)」、「上級(10卷)」の3講座、〆て34卷の資料を所持している。もし、考えが頓挫したり、思考に行き詰まった場合にはこれらの資料を拡げて見て、ヒントの所在を確かめながら先を進んでほしい。

 

この世知辛い世の中を乗り切るためには格好の希望の書となるはずである。なぜならば、上級講座あたりは、とてもとても人間の知などでは及ばない数の語る「夢幻の書」の感があり、私自身でさえも時々覗き込んでは驚嘆の吐息を洩らし、眉を曇らせながら考え込んでいる状態である。

しかし、しっかり読み込んでいくと、何処にも誤謬や不整合などは一切無いことが判り、そこで改めて驚きながら深い感慨に耽ることもしばしばである。しかも、何回読んでも、何回繰り返しても何時も同じ状態を迎えてしまうのであり、何時もそうなのである。

本来なら、少しは記憶の片隅にでも残っていてしかるべきものなのであるが…!!。

 

すべては私の知識であって、私の知識ではないようである、時々読みながら涙を流している自分を見つけて驚くのであり、深く考え込んでいる自分を見つけて慌てふためくのである。確かに私の書き上げ完成させたものであるが、あまり記憶にないということは一体全体どう言うことなのであろう。まさに、不可解極まりないものである。
 今、私はこれらの稿を書き上げるために資料を読んでいるのであるが、その度に新しい感激が生まれ、新しい心のときめきと躍動感を感じて心が活性化するのを覚えるような次第である。

 

さあ、「神の法陣」についての新しい「知」を見つける旅に出よう、すべては「古代のロマン」を見つける旅であり、古代人の残した現代知も及ばない「古代の叡知」を探索する旅である。

また、この知を探し出すことは我々日本人の責務であり、その上で世界に出すと言う運命を背負っているのである。それだけは是非とも知っていてほしい。

 

さあ、早速例の「神の法陣」表を掲げておくので参考にして貰いたい。常に表を思い浮かべながら暗算を行い、頭の中でその数を整えて見ることである。常に知に飢え、心に安らぎを覚えない御仁にとってはもってこいの至福を感じる時であり、我を忘れて止まない無上夢幻の時である。

誰も聞いたことのない新しい「神の知」、まだ誰も見たことのない「数の走り」、そして知る天地の果てしない囁き事、それらの存在を是非とも知って欲しい。すべては時の流れであり、時代の変遷の極みを経ようとする現代知のあがきの果てにある「天の叡知」と言うものである。

 

 



 この「神の方陣」の対角線数列を見る度にとても深い思索に捉われて仕方が無い、要するに、その度、何時でも心のどこかで考え続けている孤独な自分の姿を見出すのである。 それ余りにも人間の知は一人よがりで自然とは同行出来ない孤立状態にあることを悼むあまりにである。

この対角線数列をよく見るとランダムな数の並びなどではない、あなた方が何時でも見ている数列なのである。それだけでもこの対角線数列は何か大きな意味を持っていることが解るであろう。要は、直感力と洞察力の不足であり、同時に、傲慢と怠惰が招いたものと言うことである。
 確かに、今までは漠然と見るだけで考えることもしなかった方々にとっては少々難しいかもしれない、しかし、時間をかけて本気で取り組めばだんだんに解って来るはずである。時間はかかるかもしれないが、いいではないか…。 頑張って考えて見ても損は無いはずである。

 

数を信じようとはしない者には数は何も語りかけては来ない。ましてや現代数学のように最初から数をないがしろにしているような「片輪の学」に対しては決して口をきいてくれることはない。まずは、それを知るべきであろう。
 そもそもその基本形態が全く異なるものなのである、それ故、いくら合わそうとしても合わないのである。片方は直線系、他方は循環系と言う全く異なる系なので共通する部分がまったく無いのである。それでは考えても無理であり、いくら共通部分を探そうとしても無駄骨と言うものである。

余計な話に立ち入ってしまった、話の路線をもとに戻して探索を続けよう。

 

よく見ると、これらの対角線数列は「ひふみ九九算表」にある数列であり、その数列の1部分を示しているものである。しかも、その二つの対角線数列は一つは「陰」、一つは「陽」と言う二元性を持って鎮座していることを示している。しかも、誰にでも判る方法で指し示しながらである。そのあたりの整然とした姿を探し出し、共に歩んで見ることをお勧めしたい。
 要するに、これこそ自然系の世界には整然とした自然秩序があり、決してランダムなどでは無い事を示している格好の図である。 さあ、じっくりと考え、その歩みを指でなぞって戴こう。

この「ひふみ九九算」と「神の法陣」はまさに「神」の手になる自然の設計図であり、この二つは同じ設計図の表と裏の関係にあるものである。さて、これらをどのように摺り合せ、接合させたなら一つの「設計図」として完成されることになるのであろうか…!!??。

いったい、何と言うことなのであろうか。これらは今まで我々には無かった知、すなわち、天空の霹靂とも言うべき「自然の知」の出現であり、史上初めてのものである。すべての天の数象は巡り巡って「ひふみ九九算表」の数列に改めて還っていくことを物語っているのである。
 しかも、至極当たり前のように、当然の帰着のようにである。すべては天の配剤のように決まった数と秩序ある並びを持っているのである。

 まさに、それは古神道の祝詞の持つ「天地の数歌」の流れそのままであり、まさに「天地の開示」を語るものである。 
 それはまさしく、「陰」と「陽」と言う二元の確かな存在を語り、歌っているものである。 何と素晴らしい「古代の叡知」の姿なのであろうか…!!!。ただ、感激で涙がこぼれ、ひれ伏したい心地になるだけである。
 これこそまさに、世界に冠たる日本発の古代叡知の宝であり、現代西洋知などはとても足元にも及ばぬものと知って欲しい。

 

要するに、このような驚くべきものが爾来3千年前の歴史を持つ古神道の中に奉じられ、秘隠されていたと言う事実はすなわち、日本の歴史には何か重大な誤謬があり、あるべき真実が隠されていると言うことである。ただ我々は今までそれを見出すことが叶わなかっただけであり、思いを馳せることがなかっただけである。何故なら、余りにも強力な西洋科学思想に乱され、我も我もと飛びつき過ぎたからである。
 その結果、余りにも古神道を軽んじ無視が過ぎたのである。故に、その道の専門家達さえもその中を本気で覗き、調べることもなく、、深く考えることも止めてしまったのである。恐らくはそのあたりから日本人の心の荒廃が始まったのであり、国の威信も失なわれ始まったのであろう。

 さあ、「神の方陣」の持つ「陰」「陽」の秘密を探り出し、その正しい存在の確かさを見てみよう。

別に難しくはないが、少々手間と時間がかかるが、検証すれば答を得ることが出来るものである。

 

≪対角線の囁きを聞こう≫

 
 2次元体の対角線数ABから14、すなわち、14からそれぞれ1引いて03となる。03は「ひふみ九九算」の 
                           
           「ひふみ九九算」 0360360360の一部である。

 B=32、  「ひふみ九九算」の 0876543210の一部である。aiueo

 

同様に、3次元体から、     A=150…「ひふみ九九算」の  04837261500の一部。

                     B=753…「ひふみ九九算」の  0753186420の一部。

 

同様に、4次元体から、   A=1627…「ひふみ九九算」  0516273840の一部。

                   B=4174… それぞれから1引いて3063、すなわち
                              、「ひふみ九九算」の 0630630630の一部

 

同様に、5次元体から、   A=17417… 、数から1引いて06306、すなわち、

                                「ひふみ九九算」の 0630630630の一部。

 B=38405  …  「ひふみ九九算」の 162738405の一部

 

同様に、6次元体から、  A=186420 … 「ひふみ九九算」の 0753186420の一部。

 B=483726 … 「ひふみ九九算」の 0483726150の一部

 

同様に、7次元体から、 A=1087654 … 「ひふみ九九算」 0876543210の一部。
           
                    B=7147147 …、
全数から1引いて 6036036、要するに
                                    
「ひふみ九九算」の 0360360360の一部


 同様に、8次元体から、  A=11111111… すなわち、全体から1引いて00000000
                   
「ひふみ九九算」0000000000の一部。

B=35702468…「ひふみ九九算」0246813570の一部

  
 すべての「神の法陣」の二つの対角線の数字は古神道の奥儀祝詞「ひふみ天地の数歌」のいずれかの数列の一部分、あるいはその数列の循環体の現われなのである。 これだけの検証を覗くだけでも、あなた方が無視している日本の神道の偉大さ、その素晴らしさが判ろうというものである。
 
  
それにしても、日本民族の祖達は何と素晴らしい知の持ち主であったのであろうか…!!。

   <なぜ、1を引くのかについては「神の方陣」上級講座(4)に詳細説明あり、参照されたし>

9.10,11.12次元体……も同じような形、すなわち、「ひふみ九九算」の数列が現われて無限循環を繰り返し、何事かを囁いているのである。その囁きを何とか読み取ってほしい…!!。それはまさに日本の知の誉(ほまれ)と言うものである。

 あなた方も検証するがよい、例えば、3次元体と6次元体の数を見るがよい、それらはお互いに足りないところを埋め合って完全な「ひふみ九九数列」をつくり上げているのである。何と、3次元体のA=150、B=753は6次元体の欠けた部分であり、これら二つが協力しあって「ひふみ九九の数列」を大完成に導いているのである。これに習って全ての他の次元体をしらべて完成させるがよい。面白い結果が生まれるはずである。

さあ、それらの数の囁きを聞くために〔1〕〔2〕の二つの図お用意しておく、確かな洞察力と鋭い直感力でこの数の囁きの意味を解き放って貰いたい。そこには何かがあるはずである。ただし、私には見えない。なぜならば、まだまだ未熟であり、洞察力に欠けているからであろう。甚だ残念であるが。

 

〔1〕 

 「ひふみ九九算表」は平面図の世界 

 

 要するに、「見える世界」は右回りの数構造になっているのに対して、「見えない世界」は逆廻りの数構造を見せて存在しているのである。それは言葉を変えれば正廻り(右回り)と反廻り(左回り)の対構造となってお互いに打ち消し合って無の世界をつくり上げているのである。

 その正廻り(右回り)と反廻り(左回り)と言う対となっている次元的な構造の真実を知りたければ次の5つの「ひふみ循環円」を徹底的に調べるがよい。「ひふみ九九算表」は直線手法で描かれている平面の図であり、「ひふみ循環円」は循環手法で描かれている平面立体的な図である。


 〔2〕

「ひふみ循環表」は平面立体の世界

 
「ひふみ循環表」とは「ひふみ九九算表」の最初の0と最後の0重ねて(結んで)平面立体の形にしたものである。それはすなわち、平面から平面立体に図を移行したものと言うことである。要するにこれを昔の人は「カミムスビ」と名付けて「神の聖なる行為」としていたのである。

 この際なので、一つ、「ひふみ九九算表」と「ひふみ循環表」をしっかり見比べてもらいたい。

 すると、この二つは「平面図」「平面立体図」の違いそのものであり、本質はまったく同じ事を語っていることが判る。

 

この「平面立体図」と言う聞いたことのない言葉には諸氏もさぞかし、首をかしげるではあろう。別に私が作った言葉ではない。この言葉は天明さんの「ひふみ神示」にはよく出て来る言葉である。要するに、日本の超古代には存在したが今は失われてしまった言葉なのである。
 すなわち、この「平面立体図」の言葉は日本がお手本にして来た西洋科学知概念にはまったく見られない言葉なのである。

 

その「平面立体」と言う言葉の最もいい例が写真である。普通、我々は絵でも写真でもすべて、平面といって区別していないが、本来、絵は平面図であり、写真などは平面立体の図として区別すべきものなのである。しかし、残念ながら、その平面立体と言う言葉はいくら探しても現代知には無い。

次にあるのが、すなわち、平面的な「ひふみ九九表」とはまったく異なる姿を持つ平面立体的な「ひふみ九九表」である。
 この二つはまったく同じことを語っているまことに貴重な図である。要するに、「ひふみ循環表」は平面図の「ひふみ九九算表」よりももっと判り易く内容を説明し、その本質を語っているものである。

よく調べて、意味が解るまで読みこなしてほしい。


  〔2〕

「ひふみ循環表」




 「ひふみ循環表」とは「ひふみ九九算表」の最初の0と最後の0重ねて(結んで)平面立体の形にしたものである。それはすなわち、平面から平面立体に図を移行したものである。要するにこれを称して、昔の人は「カミムスビ」と名付けて「神の聖なる行為」の数象としていたものである。「カミムスビ」、すべては古神道にのみ残されている「神言葉」である。

 確かに、この「ひふみ九九算表」の両端に位置するを「神」とすれば、その二つの(神)を結ぶ行為が、すなわち、「カミムスビ」と言うものである。要するに、超々古代(神代)の人々はそれを「神結び」、「神産巣日」、「神霊日」などの漢字をあてて神聖な神事ごととして敬っていたのである。そうすることにより、「ひふみ九九算表」の両端にある0は一つ消えてしまうのである。それが直線体と循環体の違いと言ってもいいものである。

  この際なので、一つ、「ひふみ九九算表」と「ひふみ循環表」をしっかり見比べてもらいたい。

 
 すると、この二つは「平面図」と「平面立体図」の違いそのものであり、本質はまったく同じ事を語っていることが判るであろう。。

 このように図を自然に即した形にして見ると、すべては一目瞭然となるのである。まさに自然の造作とはまことに偉大なものである。

それはすなわち、「右回りの世界(この世)」「左回りの世界(あの世)」は同じ空間に同一的でありながら逆な関係を持って存在し、内容的には全く別な存在、完全に異なった世界をつくり上げているのである。それが「右回り」の存在であり、「左回り」の存在なのである。
 たしかに、合わせるととなることが判るであろう。  上記の「ひふみ循環表」のすべてをしっかり見てほしい、そこには天地に走る中心線を挟んで左右に並ぶ相対的な数が存在していることが判るであろう。
 見るがいい、すべては 1と8、  2と7、  3と6、  4と5、の関係になって、併せると0になることが判るであろう。

要するに、これらは二つの数の位置的とはすべて「陰」と「陽」の関係になって納まっているのである。 それはまさに、宇宙数学である<システム オブ ナイン>の姿そのものである…!!。 何と言うことであろうか、まさに事実は空想よりも奇なりであり、更に凄いと言うことである。


   〔3〕 対角線数列は交叉の世界(神の世界)


  交叉の世界とは「神の世界」であり、「神の業」の世界である。

  見るがいい、人間の神経は間脳で交叉し、その上と下は逆の作用をしている、また遺伝子のDNAも交叉しての形状を持っている。
 何故なのであろうか、必ず大きな意味があるはずである…!!。 が学者達は何も判らず、調べようともしない。

 敢えて私が言おう、この構造はコスミック的な共鳴構造と言うものであり、必ず相似的な構造を持っていることが必要不可欠なのである。
 このコスミック共鳴構造を通じて我々の間脳やDNAは大宇宙と交信している、いや共鳴感応しあっているのである、それがすなわち、あなた方の言うアカシック・レ−コドを読むと言うことを意味しているものなのであろう。
 この二つは、お互いに相似性的な形を持って共鳴し合うので情報の交換が可能なのである。なぜならば、相似的な形を持っと言うことは発する波動が共鳴性を持つことになるからである。 それが量子的な形ならば距離がどんなに離れていても、即、相互が理解し合え、相手の確認が可能なものである。
 もっとトポロジ−的な説明を加えるならば、相似的な存在、すなわち、同一的形態の存在であるならば、いくら遠く離れていても、いくら形に大、小があっても、それには関係なく、、お互いにコミニュ−ケ−トが十分に可能であると言うことである。
 あなた方は糸電話を御存じであろうか、それは送話口と受信口の形状が同じであれば、糸を通して会話が明瞭に出来るものである。要するに、、糸を伝わった微細な波動が同じ」形状を持つ受信口で増幅されると同時に波動は言葉になって再生されるということである。
 ただ、それが二つの相似的形状の中で宇宙規模の大きさで量子的に起っていると言うだけのことであり、別に驚くことでもない。


 その意味で、改めて、各「法陣表」の対角線数列をそのまま取り出して検証して見ることにしよう。

 要するに、すべてはの形状通りにである。  


 さあ、ここにある自然の計算の妙を確かめておこう。これは現代知には無い自然の叡知の姿であり、叡知の真髄でもある。

今までそれを獲得することが出来なかったために現代知は長い間放浪を余儀なくされて来たのである。すべては現代知には羅針盤となる自然の叡知がまったく無かったことに起因するのである。まずはそれを取り出して検証して見ることにしょう。


           (2次元体)   (3次元体)   (4次元体)    (5次元体)   (6次元体)
 

最外側の数  1234Σ=  1397Σ=  1474Σ=  1573Σ=  1694Σ=

外側2番の数  無し       5555Σ=  6721Σ=  7018Σ=  8228Σ=

外側3番の数           無し      無し、           4444Σ=  6743Σ=  

 

すべては中心から円を描くように相対的な位置にある数を結ぶのである、するとそこには確固たる調和的な関係があることに気がつくであろう。
それが、調和数であり、すべては同一数的な姿を見せて共鳴状態になり、一つのハ−モ二−が生じていることを示しているのである。

これらは4に延びる場合、すなわち、四方向(正方形など)に対応する場合の中心のあり方を示しているものである、それは今までの現代知には無い一つの「自然の叡知」の存在を教えてくれているものである。そのあたりをよく検証の上、しっかり学んでほしい。

 

以前に確か二方向に延びる場合、すなわち二方向に対応する場合には中心数を2ヶ(ダブル)にしなければならないと記したが…。

ここでは4方向が示されているので中心数を4ヶ(クアドラブル)にすることにより全体的な釣り合いがとれること数は語っているのである。

 だからここでは3次元体の中心の1ヶであるをを4ヶ置いて5555として調和を図り、また、同じように、5次元体では中心数である44444ヶ置いて調和を図つているのである。要するに、すべては永遠な形をとる円満状態を見せながら永遠の数の形を持って鎮座していると言うことである。これが、自然本来の調和愛の姿であり、最も必要なものでありながら、人間知にはまったく欠けているものである。

 何と、我々の常識に反して、中心とは一つではないと言うことである。すなわち、言葉を変えれば、中心は求められるだけの数が存在すると言うことである。それはすなわち、球の場合には無限に中心は存在すると言う意味でもある。

  では、それが真実であることを更に7次元の表をもとに検証し、更なる確認を得ることにしょう。
  

  〔4〕


 

 如何であろうか、これが自然の数の語りと言うものであり、現代知にはまったく無い「自然の叡知」と言うものである。

あなたは何処かに不具合、または不整合を見出すことが出来るであろうか…!!。それは出来やしない、あなた方には不可能なのである。
 なぜならばこれは自然が語る永遠の真理であり、天地の摂理と言うものだからである。

 

さあ、次に参ろう、ここで一つ面白い計算を披露申し上げることにしょう。この手法は現代史上では初めて公開するものであり、極めて現代知に貢献する偉大な自然の叡知と言うものである。 是非、もろもろにわたって検証を行い、その真実を学んでほしい。

出来るだけ、徹底的に検証してその一切を学び取り、出来れば現代知に応用して、新たな知の世界を構築して貰いたい。

これに少々類似している数手法は先端物理学の手法にもあるはずである。それは確か「マトリックス手法」、あるいは「S行列式理論」とか言う名前であり、一つの順序立った数の流れを読んでその先にある未知のもの、不明なものを類察しょうとする甚だ先端的な手法である。
 しかし、大変専門的なのであり、限定的なものなので一般的にはあまり知られてはいない。

 しかしである、それは「神の数学」の中では頻繁に利用して成果を上げていることを伝えて置きたい、故にこれを避けて通る訳にはいかない。
 今回は丁度都合がいい場面に遭遇しているいい機会なので、それを一つ諸氏にご説明申し上げて置くので十分に検証してほしい。
 将来、もしも、あなたが数理、あるいは物理の道に進む時があれば、是非、思いだして活用してもらえれば、まことに幸甚の限りである。


 上記の「神の方陣」の図の最初に1次元体がある。そこでこの1次元体の調和数を求めて貰いたい。確かに難しいものではある、恐らく、現代知では全く歯がたたないであろう。なぜならば、その答が果たして正解かどうかの傍証さえも持ってはいないからである。

 でも、「神の数学」にはその二つ、すなわち答と傍証を満足させるような素晴らしい手法があり、それを用いて全てを一挙に解決することが可能なのである。それを一つ、これから紹介しよう。

 

 それはすなわち、1次元体の調和数は8次元体の調和数と同じ4であり、1111なのである。なぜならば、次元体は4次元ト5次元の間を挟んで鏡面的な構造を持っているからである。その理由は次の次元数列を見れば判ることである。すべては自然であり、自然の流れに沿って存在しているのであり、左右対称と言う鏡面対称数列に沿って流れているのである。それ故に、、1次元体と8次元体の調和数はまったく同じものであり1111なのである。

 では次に1次元体の調和数の正体である1111のあるべき姿を見て見よう。 その調和数の正体は上部に対する、下部にたいする、右部の、左部のでのであり、並列数で表せば1111となるのである。すなわち、正方形とは4辺あり、その各辺は中心に対して見えない圧力をかけていることを数が教えているのである。考えて見ればまことに正論であり、理屈に合っているものである。
 要するに、そのままでは中心は潰れてしまうので中心はそれを押しのける力を持つことにより平衡を保っていると言うことである。

 それを人間の物理学では次のように論じている。「見える世界」と「見えない世界」の万物(森羅万象)は次元と言う壁を超えてお互いにつながっているのである。そしてそれは目的に応じて引力、あるいは反対の性質を持つ斥力、すなわち、引力に対して反発する力として変幻自在に働き合っている、これがすなわち、万有引力であり、万有斥力と言うものの本当の正体と言うものである」と…。 

 しかしである、人間の作った物の理よりも、自然の説明する理のほうが、余程素直で理に叶っているものである。言葉などではなく、図と数による説明次第なので小、中学生でも簡単に頭に入ると言うことである。何も難しい言葉を使うことは無く、あたり前の理屈を述べているだけである。

 

 まあ、面白いではないか、超数学の講義のはずがいつの間にか、超物理の講義に内容が変わってしまっているのである。要するに、数学分野の物事の真髄を極めるにはいくら数学の奥儀に通じていても駄目であり、物理の奥儀、神学の奥儀等まで極めていない限りは無理なのである。

その限りでは、人間の学者では宇宙自然の真髄を究めることは到底出来そうにもない、全員落第と言うことであろう。残念ながら…!。
                  (2013年10月14日、中心の在り方が不明であると読者から叱責を受けたので説明のために追加加筆した。しかし、有難いことである。)

これらは上記の計算に現れた各次元の調和数を用いることによりすべては解決するのであり、それにより1次元表の正しい調和数が求められ、すべてには自然の道があることを謳っているのである。

 すべては、自然の語る「自然の大道」であり、それを「数」が教えてくれているのである。

まずは上記にある「神の法陣」の調和数を次元順に掲げて置くので、考えて見てほしい。

 

1次元表  2次元表   3次元表   4次元表   5次元表   6次元表  7次元表   8次元表  

 

    1     2     7    7     2     1     4   


 よく眼(まなこ)を凝らしてこの数列を眺めてほしい、ここに並んでいるのは間違いなく鏡面対称数列である。すると自然に判ってくるであろう、
 X=4であることが…!!。 ただ、左右を見比べるだけでいいのであり、少々視野を広げるだけでいいのである。

なぜならば、4次元表5次元表の間を分境として右と左に数字は流れて鏡面対称数列をつくり上げているからである。あとはただそれを対称数列に沿って読むだけでいいのであり、見比べるだけでいいのである。 それが、鏡面対称数列 の特有な姿であり、特質と言ってもいいものである。 この分野に関しては数学者達は何も知らない、いまだ手付かずの状態なのである。

次に、ここに現われた鏡面対称数列である4 1 2 7 7 2 1 4のの本質を見てみよう。

 

 4  1  2  7  7  2  1  4

  ∨     ∨     ∨     ∨    ∨    ∨     ∨  

  6     1      5     0    4    8     3 …(何と、「ひふみ九九算」の数列が現われている)

 

どうであろう、ここに出現した鏡面対称数列とは正しい由緒を持った数列であり、奥深い意味を持つ数列であることがお解りになるであろう。


  要するに、「神の数学」とは現代数学とはまったく異なり、まさに非の打ちどころのない純正なる自然の数学であることがお判りになるであろう。
 一つの数を打てば、他の数が応えてくれるのであり、まさに、数同士が合い寄って正しい答を出してくれるのである。
 「現代数学」ではとても、こうはいかない、何せ、数字同士が孤立していて相手のことなどには決して口を挟むことなどはないのである。

現代数学はこのあたりのことはまったく知らず、鏡面対称数列などが出現すればただ意味無しとして捨て去るだけである。しかし、本来は鏡面対称数列は神の最高のメッセ−ジであり、やんごとない「神の語り」と言うものなのであるが…!!。

 

我々は今まで「数」と「数字」は人間が作りだした人間の持ち物であり、その中には人間知以上のものは何も含まれてはいないと考えて、現代数学概念論の基本をつくり上げたのであるが、それは大きな間違いであったのである。

そのあたりのことをフランスの自然学者であつたC・G・ユングの著書から引用してみよう。

「確かに「数字」は数を表すために人間が発明したものである。だが「数」は悠久無限な神の持ち物であり、我々はそれを見出し、少しばかり利用させてもらっているに過ぎないものである。いわば、「数」は自然(神)の創造物であり、その所有物なのである。ゆえに、その中には元型(宇宙自然)に類比できるような相対的な自律性と整然とした配置性を持ち、意識に先行するような内容をもっているのである」…C・G・ユング

 

この指摘はまさに「神の数学」の内容そのものであり、完全に一致するものと言ってもいい。

また、この言葉は「数」の本質をしっかり見抜いている言葉であり、真実の在りかを伝えているものなのである。ただ、我々があまりにもボンクラなだけなのである。真実知を知ること、それは未来の正しい航路をサジェストしてくれる唯一の案内者であり、羅針盤的な役割を果たしてくれるものである。我々は決してそれから目を背けるべきではないのであり、それに従って次の通過点を見出さなければならないのである。

ところが、それから半世紀を迎えようとしているのであるが、「現代数学」はただ足踏みを繰り返すだけで、一歩たりとも前進してはいない有様ばかりか、終焉の姿を迎えようとしているのである。なぜならば、ユングの言葉を誰も解そうとはせずに、その追求を止めてしまったからである。

今や数学者達は大きなジレンマを抱え、意識の転換を迫られているのである。しかし、新しい数学革命の種はまだ現われてはいない、いまや物理学者達はジリジリしながら新しい数学的記述をもつ手法の出現を待っているのである。その求められているものはまったく新しい考え方であり、新しい数学的な手法なのである」。  下線部は「超ひも理論入門(上)」…E・D・ピート著より


 この問題を更に深く追求して見たい方は「神の法陣」中級講座(bX<下>)を参照願いたい、そこには更に不可思議なストリ−が展開されてあなた方の心と目を瞬(しばた)かせることになるのである。


                                                                      (2013、10月の語り 完



 次回の講義は新しく稿を改め、「数のささやき(2)」として始める。要は、「現代数学」の誤りの原因についての詳細説明と言うものである。
 すべては「計算法の単純なミスが引き起こした大いなる誤謬であり、それが人間知全体の根幹をあらぬ方向へ導いてしまったのである。
 恐らくはこの報告講義により多くの方々の不興を買う羽目になるであろう、しかし、真実をこれ以上曲げて進んでもますます抜き差しならない状況になるだけである。このまま黙って見過ごす訳にはいかない、道半ばではあるがこの小さなスぺ−スで急遽皆さんに問うことにしたのである。

 お笑い下されても結構であり、見限られても泣き事は一切言わない、せめて一かけらの真実を見出して心の中に置いていて貰いたい…。

                                       2013年10月「神の数学」主幹    佐藤            

                                                                                                          敬具
        

 

 
           










      







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