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 「神の法陣」大精義講()

  「神の法陣」に次元の神髄を見る…!!!

   さあ、「神の法陣」の基本を学ぼう…!!  

 「神の法陣」は自然方陣であり、目に見えない自然の(かたち)を解き明かして
 くれるものである…!!
    
                                                           (2017年6月上載)



  恐らく、あなた方は「神の法陣」と言う言葉を初めて聞くであろう。この「神の法陣」の名付け親は私であるが、それは別に考えた末ではなく突然ポッと口に出てきたものである。しばらくは当然のように使っていたのであるが、ある時、聴講者の一人のご老体が指摘した「あなたの「神の法陣」とは、まさしく「魔方陣」に対応する性質を持っているように思えるのであり、名前にある「神」とはそれを承知で用いているのであろうか」と…?。

 まあ、思い出せば、恐らくは今から15年前の平成15年頃のことであった。

  確かに、私は迂闊であった、一応、「魔方陣」の存在は知ってはいたが、内容を調べ、「神の法陣」との比較検証はしたことはなかったのである。

 そこで改めて考え、その結果「魔方陣」は直線的手法、「神の法陣」は循環手法で答えに迫っていることが判ったのである。これを称して、現代数学では線形、非線形と言う言葉を使っているようであるが、私にはこの用語をいくら説明されても少しも要領がえられないのである。何故ならば、彼等の説明は専門用語等を駆使しての甚だ高等な説明に終始しているからである。

 

インドでは現代数学を直線数学と呼んでいるそうである。確かに、最も要領を得ているいい言葉であると思う。考えて見るがいい、現代数学は直線主義をモット-に1から始まり、無限に向かって一直線に進んでいるものであり、どこまでも進む一種の欲望追及数学と言つてもいいものである。

諸氏は知らないであろうが、自然には直線と言う欲望的な概念は無い、すべては完全性を持つ循環数学であり、廻り回って始原(0)に至ると言う単純な答えがあるだけである。

  物象的な最小単位である電子は核の周りを回り、地球は自転しながら太陽の周りを回り、月は地球の周りを回っている。また、衛星は惑星 (本星)の周りを、本星はもっと大きい恒星の周りを、またその大きい恒星は何かの周りを回っているのであるが、それはまだ解ってはいないのである。

 要するに、宇宙自然はすべて回転しながら存続しているのであり、回転により永遠性を保持しているのである。そのような観点から見ると、我々人間も回転運動をしていなければ永遠性を保てないはずである。しかしそんな運動は我々の生活の中には何処にも無い、まったく見当たらない。

 

  しかし、我々当事者から見れば解らないが、第三者的な目で見るとそれはあるのである。それがすなわち、毎日の睡眠であり、覚醒である。これも一つの生における循環作用であり、ある程度のミニ永遠を求めるための循環作用と言ってもいいものである。さらにはもう一つの忘れてはならないものが存在する。それが「この世」と「あの世」の循環作用であり、これも一種の永遠性を求めて止まない回転循環運動と考えてもいいものである。

それは当事者には解らないのであるが、第三者的な目で離れた4次元の宇宙から見るとよく判るのである。 確かに、自然的な見地からすると「この世」と「あの世」の循環は存在すべきものであり、それは一種のエネルギ-的な一つの回転運動であると考えても差し支えないものである。 確か、それは我々の言葉にもあるではないか、それがすなわち、輪廻循環と言うれっきとした言葉であり、真実を求めて止まない言葉である。
 しかし、現代科学は認めようとはしないので、今のところ信じている者は甚だ少ない。 でも、それは宇宙自然の真実と言うものである。

 

 要するに、私の言いたいことは宇宙自然の万物はすべて回転運動により、永遠を紡(つむ)いで存在しているのであり、この宇宙自然の中には直線的な運動を持っているものは一切見当たらないと言うことである。

例えば、我々が直線的な存在と見ている直線は大きく弧を描いて宇宙を走る循環円の一部であり、端的、刹那的に見ているから直線に見えているだけなのである。

 

 よく考えて見ると、確かに、我々の現代数学はあくまでも直線的なものであり、円的な運動を持つものに対しての拘束力はまったく無いものである。

要するに、円的、循環的な運動に対してはまったく効力は無く、甚だ非効率的なものと言ってもいいものである。故に、自然の象に対しては現代科学は甚だ無力なのである。

 それを知っていながら現代西洋科学は直線的な計算法をもって自然に対処し、それを解き明かそうと頑張っている。彼等もまったく不合理性も甚だしいことは十分に知っているのであるが、10進法数学に代わる数学が今のところ無いで止むを得ずに使っているのであると量子物理学者達は言っている。

 

 見るがいい、量子物理学のように自然の真実を解明しょうとしている学においても、今まで同様に直線数学を用いて盛んに挑戦しているのであるが、その結果、答えはまったく惨めなものとなって敗退しているのである。

 例えば、理論的には0になるはずのものが、10進法で計算の結果、無限大の答えとなって学者を慌てさせ、苦労して出来上がった答えはすべて完全に破棄されてしまうのである。

 要するに、それだけ現代数学は自然に対しては甚だ無力であり、拘束力がないと言うことになるのである。その事実について物理学者達は十分に知っているのであるが、他に手はないので、量子論も一般相対性原理も解けないことを知りながら10進法を使い続けているのである。彼らは自然と融和する新たな直感数学(自然数学)の出現を首を長くして待ち続けているのである。

  その現代知のサンプル的な存在があの「魔方陣」であり、現代知の姿をそのまま写しているものである。また、それと反対に「神の法陣」は自然のあるべき動きをそのまま描いているものであり、そこにある「数の動き」も自然と同様に循環的な姿を見せているものであり、それ故に、「神の法陣」はまさに「自然知の羅針盤」と呼んでも差し支えないものである。

 

改めて言って置きたい、遥か昔から「魔方陣」は大変難しい学問であり、多くの人々が解法を見出すことが出来ず、涙を飲んで敗退しているのである。  最近になって苦心惨憺の末に解き方が見つかったのであるが、その始末はハッキリ言って何の役にも立ってはいないデクノボウ的な存在であり、知的な要因は何もないものなのである。要するに、「神の叡智」などは何も見当たらなく完全に無駄骨で終わっているものである。その証拠に今では誰も見向こうともせず、あまり噂を聞くこともない。

 一方、自然の姿をそのまま写している「神の法陣」は易しいものであり、考えることなどはまったく不用なものである。何故ならば、自然数をそのまま辿れば答えが見つかるからである。しかも、それでありながら、解いた答えと言うものは常に「自然の秘密」の存在を囁き、ひそかに何事かを我々に教えようとしているものである。

 

 さあ、今回からはこの神秘に満ちた不可思議千万な「神の法陣」を紐解き始めることにする。是非とも多くの皆さんに興味を持って調査、検証されることをお願いし、なおかつ、新たな発見が諸氏の手で数多見いだされることをただただ祈るだけである。 すべては現代歴史始まって以来の驚くべき「自然の叡智」の発見であり、その大いなる紐解きがこれから始まろうとしているのである。

 

すべては日本起源のものであり、遥かな日本超古代に存在した大いなる「知の遺産」の迸(ほとばし)りなのである。恐らくは、これが世界に広がれば古代知に対する認識が180度変わって来るものであり、それと同時に現代知に対しても基本からの見直しが改めて始めなければならないであろう。

 まずは直線数学手法(現代数学)と循環数学手法(神の数学)の違いを明記して置くことが必要であろう。

   直線数学手法  12345678910…百、千、万、億…と無限に向かって一直線に進む。 いわゆる人間知(現代数学)。

  ②  循環数学手法 → 0123456789(0)の繰り返しでどこまでも循環的に進む。 宇宙意識の知(神の数学)

    ①  については諸氏のお馴染みのものであり、説明は不要であろう。

  ②  についての説明図は下記の通り、すなわち古神道の奥義祝詞の「ひふみ天地の数歌」そのものである。 すなわち、数とは123…6789の繰り返しであり、すべては一桁の単数で語られ、決して二桁とか三などの数の姿はまったく無いものなのである。

    要するに、現代数学手法で表される一桁以外の多桁はすべての桁の数を加算することにより、一桁化の数にするのである。例えば、21と言う2桁の数が現れた場合には2+1=3、すなわち、3と言う一桁の数に置き換えればいいのである。 321の場合には3+2+1=6となり、6の数に置き換えるのである。その手法は西洋世界の宇宙の数秘術と言われている「ゲマトリア」、あるいは「カバラの数秘術」、あるいは「インド占星術」等の手法とまったく同じものである。いや、「神の法陣」はそれらの手法を遥かに超えて本当の「数の本質」、「数の仕組み」を秘めているもの、いわば、現代人の未だ知らない驚くべき「自然の律」、すなわち、「宇宙自然の摂理」を秘めながら永遠に鎮まっているものである。 要するに、一桁の数の循環態こそが宇宙自然界のリズムであり、その調べ、すなわち、その波動が万象を形作っているのである。             

 

 日本神道の奥義祝詞の「ひふみ天地の数歌」はすべての数を含んでいるものであり、その数で「天地の万象」を語り上げているものである。

  
  


  この我々日本人の見慣れた古神道の奥義祝詞である「ひふみ天地の数歌」の数列は如何に不思議な数列であるのか、何故、そこには人知の及ばない「天地の仕組み」が秘められて鎮まっているのであろうか、そのあたりを少々調べて見よう。

  「神の法陣」の描く軌跡はまさに自然の粒子である「電子の軌道」とまったく同じもの、すなわち、循環回転することにより、永遠なる存在を語り上げているものである。要するに、これらの両者共に自然が作り上げた「自然の姿」をかいま見せながら、あるべき真実を語り継いでいるものである。 それらすべては「数」が描き出すフアンタージであり、自然が醸し出す妙なる「永遠の循環リズム」の姿でもある。

 

 「神の法陣」と「電子の軌道図」は相似的関係下にある。
  

  さあ、この不可思議な数の言葉を語る「神の法陣」をこれから紹介しよう

すべては「神の仕組み」であり、我々は謹んで聞かなければならない。

 たとえ、我々の知が不十分でよく聞き取れなくても決して無視すべきではない、懸命に努力して完全を期さなければならない大切なものである。

なぜなら、すべては真実であり、すべてはまごうことない自然の律により動かされ、形づくられているものだからである。

  その前に、「魔方陣」を紹介しておこう。 あなた方は「魔方陣」は中国が発祥の地であると思い込んでいるようであるが、そうではない、本来の発祥の地は超古代の日本である。 あなた方はマスコミや中国の宣伝に踊らされて中国発祥と信じているだけであり、巧みな宣伝文句に操られて信じ込まされているだけなのである。 そのあたりのことは最近起こった新幹線のパクリ事情とまったく同じものであり、真実を曲げても声高に世間にアピールすることにより、時間が経てば何時かは無理が通り世間が納得してしまうと言うことである。

その証拠となるものを日本に存在していることを私は二つばかり知っている。

その一つが日本の超古代文献の「竹内文書」に記されている記録であり、そこには日本に留学していた伏羲と神農が「易」と「薬学」を学んで故郷に持ち帰るとハッキリ記録されていることである。 しかし、彼らが持ち帰ったのは単なる風聞によるイミテーシヨンであり、本物ではなかったのである。 おそらく、彼らが頭を絞って作り上げたものが「3次の魔方陣」であり、イミテーシヨンに沿って作り上げた「偽方陣」と言うものである。それが河図(かと)」、「洛書(らくしょ)」と呼ばれるものであり、洪水の時に河から上がって来た大亀の甲羅にあった模様であるとか、神馬の額に記されていた模様であろうとか、無知な人々の関心を引こうとして大袈裟に吹聴しものであろう。

 まずは3次の「魔方陣」とは次のようなものである、紹介しよう…。

    まずは「魔方陣」を読んで見よう…

 

「魔方陣」とは縦3×横3の正方形のマスの中に1から9までの数を入れて縦、横、斜めのマスの中の数を加算すると、それらのすべては15になると言う他愛の無いものである。 下の図の通りである。検算して見るがよかろう。


  
  

この「魔方陣」には不思議な力が宿っていると昔から囁かれ、多くの賢人たちが生涯を賭けて研究にいそしんで来ている。 彼らは大きいことはいいことであるとばかりに、4次元、5次元、6次元の魔法陣を求めて頭脳を競い合い、「不可思議な力の発見」「神の存在」等を求めて頑張ってきたのであるが、如何にせん、何も見つけることは叶わず、すべては徒労に終わってしまったと言うものである。

 有史以来、今まで何十万、何百万の人々が涙を呑んで敗退したことか…!!。

 

 それはそうであろう、この「魔方陣」は不自然な秩序性を持っているもの、すなわち、自然の調べは何もなく、すべては人間の手により改ざんが進められて来たものである。それは全体的には甚だ不自然な姿を持つものであり、どう見ても自然流の産物とは言えないものである。

 確かに、愚なる人間の目から見れば、一応理屈が通っているようにも思えるものであろう、しかし自然的には決して流暢な流れを持っているものではない。

ハッキリ言えば、「自然形成陣」ではなく、「人工模造陣」とも言うべきものである。

 そこには決して、「自然の真理」等は何もふくまれてはいなく、すべては人間の手により作られたマガイモノであり、まったく虚ろな世界が顔を覗かせてアカンベ―をしながらて人々を惑わしているものである。


  要するに、「魔方陣」は現代物質文明の基本形である直線世界の産物であり、「神の法陣」は循環世界の存在を意味する意識世界の申し子と言うものである。

「魔方陣」は単純な直線的で、一元性の性質を持つ現代文明の姿を明示しているものであり、それに対して後者の「神の法陣」は変化に富んだ「陰」と「陽」と言う二元性を持った自然世界との関連性を示しているものである。それを例えれば、直線世界(現代世界)では死んだらそれまでと言う一面的な概念を持っているが、平面立体世界では循環的思想、すなわち、輪廻転生により生と死がめぐり巡っていると言う二面的な概念がまかり通っていることである。

のことを古神道の「カムナガラの道」ではハッキリと歌っているのであるが、誰もそこまで突き止めた者はいない、その噂さえもまったく無いのである。

例えばである、この「カムナガラの道」の横、縦、斜めの数列を直線に進んで行くと最後には数は途切れてそれ以上は進めず、ジ・エンドの状態で終わる、それが我々の世界で言う「死」と言われているものである。要するに、そこですべては終わってそれ以上の追及は如何としても出来ず、後は単なる噂話として「あの世」の存在が人々の口に残り花を咲かせているだけである。それが我々の平面世界の姿なのであり、頑是ない人々の住んでいるこの我々の世界である。

しかし、よく見てみるがいい…!!、この「カムナガラの道」の最上部と最下部の数列は奇しくも完全に同じ数列で作られているので、そこでその二つの数列を重ね合わして一つにするのである。それがすなわち、「カミムスビ」と言われている神の創造行為と言われているものである。するとそこには一つの円筒立体世界がが姿を現わし、それにより、横と縦の二つの数列は断絶から立ち直って完全なる循環数列となり再び息を吹き返すのである。そこがすなわち、「あの世」と呼ばれている場であり、我々の世界からは見ることはおろか、感じることもできない世界である。

更によく見ると、驚くことに最左端と最右端の数列はこれまた奇しくも完全にダブっている数列なのである。よって、この二つを同じように重ねて一つにする、すなわち再び「カミムスビ」を行って一つの超立体に移行するのである。 するとまたもや、不思議なことが起こり横に走る数列、あるいは二つの斜めに走る数列の断絶などはは即、消えてしまい、何と言うこと、すべては綺麗につながり完全なる循環数列となって息を吹き返すことになるのである。要するに、縦、横、斜めの二つの合計4ヶの数列は途切れることのない完全循環体となって息を吹き返し、無限循環を始めて止むことをしらない永遠なる存在になってしまうのである。 

  これが常々私が言っている大自然宇宙を作り上げている構造エネルギーの大いなる姿なのである。 オッと、調子に乗り過ぎて余計なことまでお喋り過ぎた、本当は「魔方陣」の解説のはずであったが…!!?。

要するに、「魔方陣」と「現代西洋科学」には「見えない世界(あの世)」の概念は無く、死んだらそれですべては終わり、そこまでと言う考え方なのである。それに対して、「神の法陣」と「日本のアミニズム」の思想とは生と死は繋がり合う一つの共同体であり、相互に循環し合ってプラスエネルギーとマイナスエネルギーの交換を計ることにより、エントロピ―0の世界を作り、永遠を紡いで無限を保っている自然の姿を示しているものなのである。

 もっと結論的に言えば、「魔法陣」と「現代西洋科学」は直線的思考であり、それに対して、「神の法陣」と日本人の思考(神道)は循環的な思考により成り立っていることを示しているものである。
 それが日本のアミニズムの本来の姿であり、日本神道の「現世(うつしよ)」と「幽世(かくりよ)」、すなわち、「この世」と「あの世」の言葉の語源となっているものである。

オット、そろそろ紙数が尽きそうなので取り急ぎ「神の法陣」の姿とその計算手法を手短に紹介して置くことにする。 とにかく、「魔方陣」は直線的な解法であり、「神の法陣」は循環的解法を持っ事に十分に心して「数の走り」を検証してもらいたい。

 恐らく、現代数学に慣れ親しんで来たあなた方には途方もないものに映るであろう。しかし、一歩退いて、遠くから眺めて見るとそれはまさにかけがいのない「宇宙自然の真実知」の現れであり、「神の心」を映している唯一の数による宇宙方程式と言ってもいいもの、それが「神の法陣」の姿なのである。 (方程式とは?……正しい答えを得るための決まったやり方)


  
 『神の法陣』とは…?

 すべては循環的な自然数の動きにより真理を歌っているものであり、「魔方陣」の直線的な数の動きとはまったく異なるものである。信じられないであろうが…!!。

  

 

【A】    の「魔方陣」についてはすでに説明済みなので、【B】「神の法陣」について説明しよう。既に説明しているが「魔方陣」は直線に始まり直線で終わっているものである。   それに対して【B】の「神の法陣」は循環で始まり循環で終わるものである。その動きは中心に対しての循環、すなわち回転であり、行っては戻ると言う自然的な単純性を持っているものである。

その数の循環的な動きは次に掲げてある数の動きと言うものを読みながら、こにある1次、2次、3次、4次の「神の法陣」のすべてを解き放ってもらいたい。

それらのすべては循環の手法に尽きるものであり、それを読み解くことにより自然宇宙全般における森羅万象の動きが手に取るように判るものである。

    
   
『神の法陣』の解き方とは


   

 

 ここで一つ注意しておきたい、それはそれぞれ中心から対称にある「陰」、「陽」の数列があればそれらを結べばいいのであるが、そこには一つの数列しか無い場合、すなわち、単数列の場合には雌雄同性(陰陽同体)と見なして同じ数列を行って帰ってくればいいのである。 例えば123と行った場合には321と逆数列の関係になって戻って来るのである。

 よく日本には哲学や思想がないと外国人は言うが、そうではない。そもそも哲学というものは、紀元前ギリシャの昔から始まった思想、学問であり主にヨーロッパ、特にドイツにおいて研究、発展してきたものであり、日本には元々なかった概念なのである。その代わりに、日本には「神の概念や自然思想」があり、人々の心の中には常に「神」や自然の持つ強大な力に対する怖れがあって、人々の行動や思いを制限してきたのである。要するに、西洋の哲学は自然に対して挑んで、人間の優位性を主張するものであり、それに対して、長年にわたって日本人が育んできたエコロジ―思想の第一は自然に対する畏怖感であり、それにより自然の褥(しとね)にくるまれて生をまっとうすることが我々人間達の務めであるとと説いているのでる。そもそも哲学と言う観念自体が最初から違っているのであり、自然に対して人間は常に優位であるとの西洋の考えそのものがおかしいのである。一方、日本には先史時代から伝わって来ている自然の概念(自然哲学)があったのであるが、激しい人間的欲望を持つ仏教や西洋の思想に圧されて、いつの間にか勢いがなくなり、細々とした形になって、やっと息をついているような状態、それが今の日本神道の姿なのである。
 今や、仏教も西洋科学思想もドンづまりの状態に入り、ただただ、衰退の道を辿るだけであり、大自然の力に圧されて、ただただ逃げ惑うだけである。 そこで改めて、復活しつつあるのが日本の古神道の精義である「カムナガラの道」であり、その中で語り上げられて「自然の持つ律理」、すなわち、、現代科学の及ばない見えない世界の「大いなる仕組業」の存在や、大自然の持つ「輪廻循環」の律理(大道)などの大いなる自然の道筋(摂理)なのである。
 それが古神道の「カムナガラの道(ひふみ九九算の表))であり、そこにある「宇宙の大叡智」の数多の姿である。また、同時に「神の法陣」も同様であり、更に高度な「宇宙の真実の心」の存在を説いているものである。
 日本人の心、あるいはDNAの中には常に「カムナガラの道」の思想が流れ、常にそれが我々の思いや行動に結びついて制限帯として働いているのである。ただ、現代西洋知に惑わされ酔いしれている今の日本人にはその事実を何も知らないだけである。そのうち、すなわち、現代西洋知の夢が爆ぜた時になって初めてそれが判ってくるのである。 まさに「カムナガラの道」は偉大であり、それを所持している日本民族もまた偉大な民族と言えよう。

 

 さあ、試みとして、1次元法陣、2次元法陣、4次元法陣、5次元法陣を掲げて置くので予習の形で解いてもらいたい。 更に余裕がある御仁は6次元法陣、7次元法陣、8次元法陣9次元法陣、を作り上げてその秘密を解き放ってもらいたい。恐らくは、どえらいものを発見するはずである。

 そろそろ紙数も尽きるので 正しい解き方とその答えは次回に廻すことにしたい。

 

                                                           平成296月上載 (完)


    

    「神の法陣」大精義講()

      「神の法陣」に次元の神髄を見る…!!!

     「神の法陣」の基本を学ぼう…!! ② 

     「神の法陣」は自然方陣であり、目に見えない超自然の(かたち)
    すなわち「次元の仕組み」までも解き明かしてくれるものである…!!

                          2017年7月上載)

  あなた方は「神の法陣」の存在を恐らくは認めないであろう…!!。

何故ならば、これは今まで誰も知ることが叶わなかったものだから…。

これらすべては時の発露であり、一つの神の創造行為の存在、すなわち、宇宙次元の仕組みを明らかにするものである。 また、それは同時に「神」の存在を明らかにする強力な証でもある。

  要するに、これは現代西洋科学知に対する一つの挑戦であり西洋知と東洋知の「知の在り方」の違いと言うものをシッカリと垣間見せてくれるものである。

それはいわば、西洋知と東洋知の知比べと言ってもいいものであり、そのレフリ-(審判者)を務めようとしているのがあなた方と言うことである。

 しかし、昨今の諸事情、すなわち、日本の地理的特性や古の知的遺産等の現実からつらつら考えて見ると、現況の実際は西洋知に対する日本知の挑戦、もっと詳しく言えば、現代数学の計算基盤の「10進法」に対する日本古代の数法である「9進法」の真っ向からのぶつかり合いと言ってもいいものである。 要するに、この半世紀にもわたる西洋科学の停滞にしびれを切らし、古代日本の超叡智が再び甦りを果たそうとしている蠕動現象なのである。どういう訳か、今それが始まっているのである。

  
 すべては時の為せる業であり、歴史の繰り返し現象の現れなのである。これだけはいくら人為的な力で隠そうとしても所詮無理な足掻きであり、無駄に終わるものである。

 要するに時の力の前にはどのような大きな権力や知力、すなわち、自然にそぐわないものや、自然に逆らっているもの等は絶対に勝つことは出来ないと言うことである。

 

 確かに今の世の中、「現代数学」は唯一無二のものとされて人類全体が足並みを揃え、歩を進めて邁進して来ているのであるが、それはすなわち、「現代科学文明」は現代数学を基本の柱として組み立てられ、それを基礎に万事は整えられ、次々と発展し現代に至っているのは衆知のことであり、間違いの無いことである。

 なかんずく、現代物理学はその中でも群を抜いて現代数学に頼りっきりになっているのはこれまた事実である。 しかし、それ、すなわち、「現代数学」が自然に沿ったものでなければ、何時かは消滅して消え去る運命にあることも同時に知らなければならない。何故ならば、何時か、何処かで、必ず矛盾が生じ、進むことも退くことも出来なくなるからである。

  「現代物理学は理論の哲学的な背景や自然物理的な実証を無視して、あまりにも「数学」に集中し、かたより過ぎている」とデビット・ボームはその著書のなかで嘆き、

また「現代数学には根本的な指導原理である自然原理は何も無い」、すなわち、「自然界が基本としている自然の型は何も無く、すべては人間原理により成り立っている」とも述べている。

 また、現代物理学の雄であるマイケル・グリーン(ケンブリッジ大学教授)は「先端物理学理論が戸惑い、真実にアプローチ出来ないのは過度に現代数学的な内容に頼り過ぎていることが原因であり、もっと抽象数学な発展を考慮すべきである」と同様な意見を述べていることからも明らかである。

 

 これらのことは「先端物理学(量子理論・超紐理論)」が更に内容をステップアップし、自然的な事実を更に明らかにするには、数学的にまったく新しい手法、すなわち、自然物質世界の量子的な性質を知るためには新しい革命的な数学手法がどうしても必要である」と言っているのと同じことである。 また、「量子理論は連続性と大きさを持たない点の究極的な実在を否定しながら、それに反する連続性の数学、すなわち、現代数学の10進法を用い続けている」のであり、それ故に、真の答えに到達することが出来ないと言う大きなジレンマを抱えているとも言われている。

 

 要するに、今、彼等が待ち望んでいるのは、この350年の間、珠玉のように思ってきた数学手法、すなわち、現代数学的な言語を根本から変えてしまうような全く新しい数学手法、革命的な数学手法の出現なのである。

 例えばである、量子論における素粒子を数学的な枠組みの中で記述しょうとする場合、現代数学手法で重要な値を計算しようとしても、何時も無限大に悩まされるのである。そこにある素粒子のエネルギ-と質量は極めて小さいはずなのであるが、きちんと計算を進めて行くと無限大と言う結果が生まれてくるのである。

 これらの無限大の出現に対して、一部の物理学者達は「場の量子論の基礎には根本的な欠陥があるのではないか」と考えるようになっている。それでなくても、一般の学者達は〝無限大〟と〝無限小〟に関して恐れを抱いて、それらが出て来ることを極端に嫌っているのである。しかし、そのあたりの矛盾は「神の数学」においては完全に解消しているので、一切気にも止めることもない。

 

 確かに、「現代数学」における無限小と無限大の差は非常に大きく、「宇宙のマトリックス」の一つといってもいいものである。 しかし、それは「現代数学」の算用そのものに帰する基本原理の概念自体が問題なのであり、それに従っている限り当然そうなるのである。ハッキリ言えば、すべては「現代数学」の基本そのものに由来しているものである。

 

さあ、小難しいことはさておいて、先月出題した問題にかかることにしよう。

すなわち、宿題となっているあの「神の法陣」の大いなる意味解きである。 言って置くが、これは現代人の誰も知らない素晴らしい「神」の叡智であり、燦然とした流れを持っているものである。

 要するに、この「神の法陣」は人類の未だ知らない宇宙次元の大いなる秘密を内蔵しているのであり、それらは現在の現代知ではどうあっても解き放つことなどはまったく不可能なものである。

 

しかし、そう言っても、特に難しいものではない、それは自然的な常識さえあれば誰にでも手がとどくものであり、理解も出来るものである。要するに、魂が澄み切っていればいいと言うことである。魂が澄み切った状態とは、すなわち、偉ぶらない、固定観念にとらわれないと言うことであり、また、悟りの心、熱い魂の波動を常に持つことなどでもある。

 要するに、「数」の語りに魂が熱くなる程感動し、既存概念に惑わされずに「数」の言い分に従ってすべての答えを見出し、自分の力で纏め上げることが大切なのである。

 

 今回はそのあたりに重点を置いて語り、あなた方の心を熱くして見ようではないか…!!。 そして出来るだけ肯定的に見るのであり、否定的な心はなるべく出さないようにしてほしい。

 

 もう一度繰り返す、「魔方陣」は線形手法であり、『神の法陣』は循環形手法である。また現代文明世界の基盤は線形手法により成り立っていることはご承知のことであろう。要するに、これからの意識文明世界は非線形、すなわち、循環形手法が知の主役となって自然と歩調を共にすることが必要なのである。

 要するに、現代文明世界の線形手法は直線で始まり、直線で終わるものであり、それに対して、未来世界は循環形手法であり、すべては循環して元(始原)に納まって、自然世界と鼓動を同じくするものである。例えて言えば、両者には「直線」と「円」と言う根本的な違いが根底にはあるので、決して両立は出来にものなのである。

 

では『神の法陣』をあなた方と共に見てみよう。 これは日本独自の大叡智であり、今まで世界にはまったく無かったものである。要するに、中国発の「魔方陣」は「易」の母体として世界を席巻していたのであるが、ここにきて正体がばれ、マガイモノであることがはっきりと証明されたのである。 要するに、3次の「魔方陣」からは決して太極、両義、四象、八卦などの「易」の極意は生まれず、逆に日本の古神道の真髄である、「神の法陣」の母体、すなわち「カムナガラの道」からこれらの太極、両義、四象、八卦などの「易」の極意が容易に見出されると言うのである。

 

「易の仕組み」が遥か三〇〇〇年以上にわたって歴史を欺いて来たのはまさに由々しい大罪と言ってもいいであろう。何故なら、そこには数十万、数百万の知者たちが涙を呑んで生涯を終えてきたからである。この3次の「魔方陣」の中には太極、両義、四象、八卦などの「易」の極意が潜んでいると信じて時代、時代の大勢の人々が研究検証に邁進したのであるが、すべては無残な結果に終わり、尊い一生を台無しにしてしまったものである。

 要するに、実際は「何も無い」ものを風聞に惑わされて「ある」と信じて一生をその探索にすごしたのである。本当に歴史は無情である。恐らく、今でもその探索に懸命な御仁もかなり多いはずである。

 

 

では、ゆるりと『神の法陣』幻視考にあいまみえることにしょう、ただ、これは学識の有無には関係なく直感と洞察力の鋭さが必要なのである。要するに、解る人には判るが、解らない人にはどうしても判らないものである。そのことを心に置いてもらいたい。

 

まずは1次元、2次元、3次元、4次元表、……9次元表を次に掲げて置くのでシッカリと計算して答えを出していただこう。その答えこそが驚くべき真実を告げているものであり、それを理解出来る御仁は恐らく誰もいないはずである。

 

また、これは考え方によっては、これは古神道の奥義祝詞である「ひふみ天地の数歌」とまったく同じものであり、また、あのUFOから見いだされた宇宙人の数学体系である「システム オブナインズ」と同一なものとも思われる。 要するに、「自然宇宙」の次元的な仕組みと言うものを、この「神の法陣」は物語り、更には二重、三重にわたって広く開錠して止まないのである。

恐らく、世の中の学者と言う種族や、高学歴な知者を任じている方々は腹を抱えて大笑いするであろう、確かに言葉だけから判断し、「数の語り」の結果を見ない限り、確かに大ぼら吹きと言われても仕方のないことではある。

まあ、すべての結果を見てからの判断、数の語りの是非の検証を尽くした上での熟慮がものを言うのであり、それには今の現代知の進捗状態から見ると数百年がかかるような気がするが、まあ、それも止むをえないであろう。

 

1次元から8次元までの「神の法陣」の図を掲げて置くので自然的な「循環法」でこれらを解き放ってもらいたい。「循環法」とは先月説明した通りのものであり、自然則に沿って中心から対称位置にある数列を進行方向に加算するものである。

それは ①横の循環 ②縦の循環 ③斜めの循環に沿ってそれぞれの計算を進めることにより、すべては同一数を生み出すのであり、まさに妙理であり、天地を揺るがすものである。

 その同一数を称して、私は神の手になる「大いなる調和数」と呼んで、いろいろと重宝しているものである。

 

 次にあるのは『次元表の列記』である。これからは何回も顔を突き合わせていくことになるので、是非、馴染みになってほしい。

 

 

 

 これらの「神の法陣」図を手順にのっとり一つ、一つ解いていこう。

その手順は先月に記した通りであり、循環手法を用いて「大いなる調和数」を求めることが必要なのである。 その循環手法とは先月に公開した中心を対称点とした大いなる数の巡りであり、そこからもたらされた加算の答が「大いなる調和数」なのである。それらを調べて見ると、すべては予定されていた流れであり、自然とはその流れに沿ってすべては展開されていることがよく判る。そこには決して偶然は無く、すべては秩序を持って流れているのであり、決してランダムな構成を持っているものではない。故に、我々も十分に未来を予測することが可能であり、未来に対処することもあらかじめ出来ると言うことである。ただし、今のような西洋科学知では無理というものである。

 

これらの加算の答えを秩序通りに並べて見ることにより、自然大宇宙の構造序と言うものが判り、また、次元の仕組みさえもある程度判ってくることを知ってほしい。

それによると、我々の関与している「表の次元」の姿、すなわち、「この世」の次元は4次元までであり、5次元、6次元、7次元、8次元、9次元は、「表の次元」に対しての「裏側の次元」と言う関係にあるものであり、言ってみれば、我々の「実体次元」に対しての「影の次元」と言うべき相対的な次元の存在になるのである。

要するに、我々の「表次元」が存在するためには、「裏次元」と言う相対的な次元の存在が必要不可欠であり、それが無ければ存在不能になって消滅するのである。

 

もっとハッキリ言えば、実体化した「表の存在」に対しては必ず、表からは見えない「裏の存在」があるのであり、表と裏が相伴って初めて一つの実相体となるのである。 例えば、磁石を見てみるがいい、そこにはプラスの磁極とマイナスの磁極が相対的な関係にあって一つの実体的な存在となっているのである。要するに、プラスの磁極だけでは存在不能であり、また、マイナスの磁極だけでも存在出来ず、磁性そのものは消滅してしまうのである。要するに、それがこの大宇宙には単極(モノポリ―)と言う存在は無いと科学が断言している事実なのである。

 

そのあたりのことは古神道の奥義祝詞の本体である「カムナガラの道」や、それと双対の祝詞であった「アイウエオ五十音図」を見ると、「あの世」の存在と言うものがよく判るのであるまた、同時に、「カムナガラの道」や「アイウエオ五十音図」は人間の作ったものではなく、「神」が人間に与えた「数」で書かれた自然宇宙の大叡智の集大成であることがよく判るものである。何故ならば、それらの中には「あの世」と「この世」の必然的な存在がシッカリ描かれているからであり、「あの世」と「この世」があるからこそ、すべては巡り巡って丸く納まって永遠へとつながっていることが示されているからである。

 

考えて見れば、確かに、西洋科学知は「神の世界」、「見えない世界」を嫌い、「神無し」の状態のままで科学知を作り上げて来て久しい。しかし、そのうちに自然とはそぐわないもの、自然知に逆らうものとしてだんだんと排除されていくことになるであろう。現に、現代物理学は古典物理と名を変えて窓際に置かれ、現代哲学は最早、無いに等しい。そして、今、現代数学は発展を止め堂々巡りしている有様である。、

 

さあ、余分な話はこのくらいにしてこれら次元表の語る「神の秘密」を探索して見ようではないか…!!。

 

要するに、これらの次元表の縦、横、斜め数(対角線数)から算出される調和数は次の通りである。 是非、検算検証し、「数」の語る自然の真実を見てもらいたい。



  
  


  

 前回は〔例〕の部として3次元数図の解き方を明示したのであるが、今回は4次元数図の解き方を掲げて置くので宜しく紐解いて、ご検証のほどをお願いしたい。

   5次元数図、6次元数図、7次元数図等は自分の手で作り上げて検証してもらいたい。すべては同じ手順である。

 

 これらの答えである
各次元の「大いなる調和数」を見てみよう、次の通りである。

 

   0次元表1次元表→、2次元表→55、3次元表→1114次元表→8888、5次元表→88888、6次元表→111111

  7次元表→5555555、8次元表→22222222、9次元表→111111111

 

 
 
これでは少々判断がつかないので、次のように並べ直して見よう。



   

    

 



 要するに、次元に裏と表があり、我々に関す次元は次元の0,1,2,3,4、の次元であり、表次元としては4次元が最高の次元なのである。

 また、「裏次元」と「表次元」は相対的な関係をもって固く結び付いているのであり、一方を抜きにしては決して成り立たっことは無く、即、崩壊してしまうのである。

 

そもそも、今まで学者達が11次元とか21次元とか勝手なことを言っているが、そんな次元は無い、考慮外と言うものである。彼らは3次元とか、4次元の正体さえも何も解らってはいないのが実情である。 そもそも、3次元とか、4次元の言葉を使いだしたのは、確か、漫画家や小説家たちが面白半分に使いだした言葉が初めなのであり、科学者達はそれに引きずられて使っているだけなのである。アッ、失礼…!!。


  

これらの「数の真実」はすべては現れるべくして現れたものであり、「神」の手の発動により出現したものではなかろうか…!!?。恐らくは人間の知の貧困とはかなさを哀れんだ「神」が手を差し伸べようとしているのではなかろうか。

考えて見てほしい…、今まで誰がこのような劇的とも言える自然理を基盤に持つ数学の計算法を知り得た者がいたであろうか、そこで私は知ったのである。

この「神の法陣」の存在を知ったのは決して偶然などではなく、起こりえるべくして起こった必然の出来事である。すなわち、この「神の法陣」の驚くべきシナリオを描き、その筋書を定めた「何者かの存在がある」と言うことであり、また、それを受け取って理解すると言う何者かいると言うことを…!!!。

もっと分かりやすく言えば、「そこに発信者が存在すると言うことは、そこには同時に受信者もいる」と判断が出来ると言うことなのである。

ひょっとすると、それは我々人類ではなく、もっとハイ・レベルのこの宇宙の知的な先駆者か、または別宇宙の知的水準の高い住人達なのかも知れない。

彼らは恐らく、物質文明をとうの昔に捨て去り、華やかな精神文明の絶頂期にいて、更なる、高度な自然と調和した「神の叡智」を見出そうと懸命になって学んでいるのであろう。 それは、要するに、自然の持つ「大叡智」は限りないと言うことであり、いくら求めても、求め足りないほど膨大なものということでもあろう。

 すると、私は彼等の知を密かに横取りしているのであろうか…。私は危ぶむ…、本当にそうなのであれば心は痛むのであるが…。 誰か教えてほしい…!!。

 

 

 すべては「数」が語る次元の真実であり、我々の現代文明知などではとても追いつかないものである。恐らくはあなた方もため息が漏れるだけであり、現代知の儚さに地団駄を踏みたくなることであろう。

「神の法陣」の物語はこれで終わりではない、次回からはもっと現実の知に沿った驚くべき「神の知」の技法の数々をご披露申し上げたいと思う。

この「神の法陣」の中にはまだ数多の「神の秘密」が転がっていて、それを解き放つことにより人間の知、すなわち、現代の科学知、哲学知、更には神学知などは一気に2倍増、3倍増することになるのである。しかもそれも学者などではなく、あなた方自身の手によってである。 今回は取り急ぎ以上を掲示して参照講としたい。 例によって例のごとしである。 各々方、宜しくご検証のほどをお願いしたい。    (完)                                                                                                                                           

    

 「神の法陣」大精義講()

  「神の法陣」に次元の神髄を見る…!!!

    「神の法陣」の基本を学ぼう…!!  


「神の法陣」は自然方陣であり、それは人間知の至らなさを(さと)し、やさしく教えてくれるものである。

                                  2017年8月上載)

 

  「神の法陣」は宇宙自然の持つ「しきたり」の総括的な法典であり、それは現代数学の基盤である「10進法」とは決して相容れることはないものである。

 それ故に、現代数学を基本とする現代科学が自然の解明に挑み、そこにある法則を求めようとしてシャカリキになっても基盤が異なる故に、「宇宙自然の秘密」は決して正体を現そうとはしなかったのである。 

 それでも、人間の誤った傲慢性、成り上がり根性の浅はかさで、自然を見下し、「人間の知」こそ宇宙無双の大知であり、完全無欠の知であるとうそぶきながら、自然を脚下に収めようと営々と陣を進めてきたのである。

 

 しかるに、ここに来てパタッと歩みは止まり、すべての学問の進度は一斉に空回り状態に陥ってしまったのである。 哲学は大分前から姿を消し、数学はすでに袋小路に入ってしまい、最も力を入れていた現代物理学も古典物理学と名を変えられて窓際に追いやられ、代わりに登場してきたのが現代物理学とはまったく性質の異なる「波動物理学」、すなわち、「量子物理学」や「量子力学」なのである。 

 

 要するに、今までの西洋科学知は完全に変容を来たし、どんどん変わりつつあるのである。 例えば、数学では今までの自然数、すなわち、1234567…は姿を消し、今では0が付加されて01234567…が使われつつあるのをご存知であろうか。

 また、今までは重要な必須項目であった哲学はすっかり、面目を失いあまり話題になることもない。今では大学で哲学を学ぼうとする若者の激減により採算がまったく取れなく、開店休業の有様である。要するに、今の若者は直感的に哲学に魅力を感じなく学ぶ意欲をまったく失ってしまっていると言うことであろう。

 要するに、若者たちは考えることを止めた、すなわち、現実の重みに耐えるのが精一杯で未来志向の夢を完全に捨ててしまったと言うことである。

 それは若者たちに夢がない、未来には希望が持てないと言うことであり、それは同時に現代文明の終焉の到来を意味することになるものであろう。

恐らく、それは今からあまり遠い時ではないであろう、そんな気がしきりにするのであるが…!!。

 要するに、現代科学文明は危機に瀕している状態であるが、誰もそのことには気がつかないのであり、疑いを持つ御仁は誰一人としていない有様である。

 いや、それどころか、それを感じ、警告する人はまったくいない状態なのである。

 

 ところが、ここに来て日本の古神道が妙な動きを始め、とんでもないことを言い出し始めているのである。そのはしりが古神道の奥義祝詞である「ひふみ天地の数歌」の歌う地球天地の創造物語であり、それと同時に宇宙天地の開闢物語の仔細さえも数の仕組みを巧みに用いて朗々と歌い出しているのである。

 まさにそれは自然の巧みなメロディーを奏でながら、厳かな自然の真実の響きを歌っているものであり、がっちりと人の心をつかんで離さないものである。

 一つ言って置きたい、本来、「歌」と言う意味は心の穢れを清めるためのものであり、「禊ぎ」は身の穢れを払うものである。「歌」とはそれだけ生活上において大変重要な使命を持っているものなのであり、生命の息吹を体に吹き込むものなのである。そのあたりを心していてもらいたい。   (注) 本来、「歌」と言う意味は心の穢れを清め、「禊ぎ」は身の穢れを払うものである。…ホツマ辞典より

     

さあ、そればかりではない、誰も知らないが、古神道の奥義祝詞である「ひふみ天地の数歌」とは単なる題名であり、その裏にはその本体そのものが粛々とした形で横たわっていたあるが、今の今まで、それには誰も気がつかなかったである。

 何と、この「ひふみ天地の数歌」の本体こそが、あの失われた「カムナガラの道」そのものであったのである。その姿はまさに「神慮のままで、人為を加えぬ日本固有の道」であり、現代文明の先に存在した超古代日本文明の「超叡智」のまごうことのない姿であったのである。そこには現代西洋文明が否定している「あの世」の厳とした存在や輪廻転生の極みまでもシッカリ描かれているものである。
そこにあるのはまさに日本先史文明の息吹であり、世界に誇ることの出来る古代日本に存在した「神の叡智」そのものである。

 

  そのあたりを密かに語っているのがあの「アイウエオ五十音図」の仕組みにあるのである。 しかし、それも誰も知らない。しかし、それ以上にもっと不思議なことがあるのであるが、それもまた誰も知らないものである。 

どうしてこのような何千年にもわたって閉ざされていた神道の秘密がこの無学文盲な私にだけ解き放つことが出来るのか、それも不思議極まりない話である。

とにかく、すべてが不思議、不思議であり、まさに不思議の連続が続いているのもこれまた不思議と言うものである。

 

またもう一つ不思議な話をして進ぜよう、それは遥か昔の太古日本においては「ひふみ天地の数歌」と「アイウエオ五十音図」は双対の奥義祝詞として「神々」に奉納されていたのであり、その事実を証明する証拠は、これまた私のところにだけ存在しているものであり、今の今まで誰も知らなかったものである。これもまた不思議なことの一つである。

 

 要するに、それらすべての端緒となったもの、それが世界で最も古い歴史を持つ尊い国である日本に存在している古神道であり、その中から今になって現れ、懸命に何事かを囁き始め、動き出し始めているのである。そのあたりの事実をこれからあなた方と一緒に見てゆきたいと思う。

 

 日本人の誰でも知っているもの、それが古神道の双対の奥義祝詞である「ひふみ天地の数歌」であり、その本体が「カムナガラの道」なのである。この「カムナガラの道」の名はあなた方も今まで聞いたことがあるであろう。それはすでに失われてしまったとされ、ただ、その名前だけが辛うじて残っている現在である。

 辞書によると「神代から伝わってきて、神慮のままで、人為を加えぬ日本固有の道」であり、その内容は失われて久しいと記されている。

 

今、この「カムナガラの道」はすでに甦りを果たし、その内容はすでに公開されている。そればかりかそこにある内容もある程度は解明されているのであり、多くの人々は懸命にその謎解きに没頭している最中であることは是非知ってほしい。

 ただ、驚いたことに、この「カムナガラの道」はどのように考えても不思議が一杯であり、あまりにも我々の常識知(現代科学知)から外れているものなのであり、まさに奇想天外なものである。

要するに、それは現代科学知ではまったく解けないものと言うことである。

それを解き放つく鍵が、すなわち、古神道の奥義祝詞である「ひふみ天地の数歌」である。要するに、「ひふみ天地の数歌」は「カムナガラの道」の一部でありながら、かつ「カムナガラの道」の開錠キィーとしての役割を果たしているのである。 知るがいい、「カムナガラの道」とは「ひふみ天地の数歌」の集合体であり、それを変化させて森羅万象の響きを表しているものと言うことを…。

 

 ここで、そのあたりのことを要約してもう一度おさらいして見ることにしょう。

 大体、次のようなものになるはずである。思い起こしながらもう一度考えて検証に走ってもらえれば更なる数多の真実も見出すことが出来るであろう。

 

〔1〕

 どういう訳か古神道の奥義祝詞の「ひふみ天地の数歌」の正しい形には1の前に0を置くこと、すなわち、1の前に「カムナ」、または「カムナガラ」を置いて唱えるのが正しい唱え方であると伝えているのである。要するに、それをシッカリ教えてくれているのが「アイウエオ五十音図」の言葉なのである。

それはすなわち、0=神であり、「カムナ」とは「神の名」であり、「神の名」は0であると言っているのである。また、「カムナガラ」は神の行為、神の本質、本性を指す言葉であるとすると、やはり、同様に「カムナガラ」=0となるものである。それ故に、最も大切なもの、それを最初においてからすべては始まるのである。それが自然のル―ルと言うものである。

要するに、本当の自然数とは0を含めた、012345 … が正しいものであり、宇宙自然の心に沿っているものであると言うことである。

 

論より証拠、「ひふみ天地の数歌」の頭に「カムナ」、たは「カムナガラ」をつけて大声で唱えて見るがいい。 全身が反応して力がみなぎってくることがハッキリと判って来るはずである。一体、この不可思議な言霊の妙力は何に起因するものであり、何に帰属するものなのであろうか。改めて言う、これらのすべては古神道の業であり、西洋現代知などはどうあっても足元にも及ばないものである。

 

〔2〕

また、不思議千万なことであるが、双対の祝詞である「ひふみ天地の数歌」と「アイウエオ五十音図」の仕組みを探って行くと、驚くことに最終的にはまったく同じ啓示図が現れて真実を囁いているのであり、それは人知では決して作り上げることは不可能なものであり、まさに「神」の手になるものであることが判る。それをして、厚顔無恥な学者達はやれ唐天竺から伝わったものとか、南方から伝わったものとか言って大恥をかいている始末である。なんせ、彼らは自分の手には負えないものはすべて外国発としてうやむやにすることが多いのである。

 確か、最後の国学者と言われている国学の大家であった山田孝雄博士は「アイウエオ五十音図」は人間の頭脳などでは製作不可能であり、「神」の関与が有るからこそ、これらの終始がピッタリと合っているのであるうものである。」と述べているのであるが、それも頷けることでもある。

要するに、「ひふみ天地の数歌」を「アイウエオ」を用いてひも解くと「神」の存在が明らかになり、その「神」を冒頭に置くことにより厳かに天地は開かれ、素晴らしい地球自然の成り立ちが悠然とした姿を現すことになるのである。 

また、逆な形、すなわち、「アイウエオ五十音図」を「ひふみ天地の数歌」でひも解くとそこに現れるのは素晴らしい自然宇宙の姿、すなわち「あの世」と「この世」を併せ持った整然としたト-ラス構造体(ドーナツ形)の姿が現れて我々を驚かせるのである。
 それはまさに、整然とした循環的なアルゴリズム形式を持っている驚くべき姿であり、「現代西洋科学知」」などでは逆立ちしても及びもつかないものである。

  〔3〕

このように、古神道の流儀に沿って自然の数の理を尽くすことにより、そこには厳然として雄大な宇宙開闢の理(宇宙創成理論)が悠然と姿を現わして、我々を驚かすすのであり、しかも、それを司っている宇宙エネルギー体のすべての構造までも明らかにされるのである。その矛盾の無い素晴らしい姿には我々を驚嘆の坩堝に引きずり込んで慌てさせるのである。

それも、一つや二つではない、「カムナガラの道」から1体、それから「アイウエオ五十音図」から2体、合計3体がまったく同一な宇宙構造を示している素晴らしい図が現れるのである。一般的に、「神」のネイチャースタンダ―ド(自然規範)はダブル、すなわち2ヶなのであるが、このようにトリプル(3ヶ)で現れるのは珍しいことである、「神」にとってはよほど重要な事柄なのであろう。

  〔4〕

この「カムナガラの道」の中には800と言う大勢の神々が潜在し、口々にすべては「空」であり、「無」であると叫んでいるのである。神道で言う八百万の神々とは数多の神々と解釈されているが、本来は八百柱と言う大勢の神々と言うべきものである。 なお、皆さんが知っている「般若心経」の中にはすべては「空」であり、「無」であると叫んでいる言葉は30~40ヶくらい存在していると言われている。

 それは仕組みさえ解れば大変易しいものである。一つ、頭の体操と考えて解いてみては如何であろうか、すると知もいろいろと練れてくることになるであろう。

 

  〔5〕

この「カムナガラの道」の中にはこの大宇宙は複相的なメビュース構造になっているのであり、宇宙の端は無く、反転して元(初発)に還っていくと数は語っている。

いや、そればかりか古神道の祝詞「ひふみ天地の数歌」ではこの大宇宙は極限状態を迎えると反転が起こり、それにより収縮と膨張が交互に繰り返されていることが語られている。
 これらは簡単な方法で語られているので誰にでも理解が可能なものである。ただし、頑固頭の持ち主である学者達を除けばである。

 

 さあ、このあたりで今回の主題に戻ろう。

先回の「神の法陣」の講座の中で語った「網の法陣」の仕組みにおいてページの関係で語り切れなかったものが一つあるので、今回はそれを紹介したいと思う。

 要するに、先回は同一中心点を持ついろいろな円上の数、すなわち、横、縦、斜めの数列を加算すると不思議にもまったく同一の数の数列が現れ、何事かを囁いていると言う話をしたのであるが、それだけではまだ完結には至ってはいないものであり、まだまだ続きが存在しているのである。それが今回の「右下がりの循環」と「右上がりの循環」における同一数の現れである。

 そこには更なる不思議なことが存在し、あなた方に呼びかけをしているのであるが、お判りであろうか。今回はその説明に入るのであるが、一つじっくりと考えながら答えを見出してもらいたい。私はもう老いさらばえて知は枯れてしまった、後はただただ、若いあなた方に期待するだけである。

まあ、あなた方、如何に知に秀でていても、答えることなどは出来ないのではないかと危惧しているのも事実である。そこには何か人知を超えた大きなメッセージがあるのであるが、如何にせん、私の頭脳ではとても探り出すこと等は出来ないのである。あとはあなた方に任せることにしたい…!!。

まあ、あなた方は若いのである、じっくり当たって、ゆっくりと考えてもらいたい。

 

下図に示しているものは左側は同心円を持った縦、横、斜めの循環図(A)、(B)であり、右側は同心円を持った斜めに走るそれぞれの循環図の姿(右上がり、右下がりの各々2ヶ)である。そのあたりについては先月の講座、および先々月の講座を見てもらえば意味は了承されるはずである。すべては繋がって物語を展開しているのであり、すべては連続的に走っているものである。

 その最も右側にあるのが今回の物語、すなわち、「斜めに走る循環図」の計算式である。よく勘案しながら仔細を検証し、「数」の語る不思議な物語を十分に賞味してもらいたい。


          先回の「神の法陣の解説」   今回の「神の法陣の解説」

                                                   

   

 

要するに、右下がりの循環数列の計算も、左下がりの循環数列の計算も まったく同じ同一数列が現れて何かを囁いているのである。さて、その意味は…!!??。

 考えて見るがいい、一つや二つの図ばかりではない、何十、何百と言う図のすべてが4重、5重の体制で一つの数字で統一されていることから見ると、何かが起こっているのであり、まさに知の非常時体制と言ってもいいものであろう。

  何と、奇妙なことなのであり、あまりにも不思議な数の語りではないか…!!?。まさに「神」による数の語りであり、とても人間業ではとても、とても不可能な数の走りである。一体、これは何なのであろうか…!!?。

 

 易しく言えば、各々の「神の法陣」はすべてたった一つの数で語られ、一つの数で守られていると言うことである。要するに、図は全体的な共鳴により会話を交わしているのであり、何らかの意識を持っている存在と考えてもいいのである。よく仔細の判らない御仁は前回の7月の講座を参照して事の重大さを知ってほしい。 まさに、人知を超えた自然の叡智と言うものである。

そこは特定数の独断場であり、一つの社交場となって玄なる大真理を囁いていることが解る。

我々は夢を見ているのであろうか、白昼夢にさいなまされてであろうか…!!。いくらそう考えても計算は常に同じものを算出してやまないのである。

 

 これを見て知の疼(うず)きを覚えない者は学徒ではない、知の礼賛者でもない。いや、何も感じないのは人間失格者、豚馬と同じと罵(ののし)られても仕方が無いことであろう、何故ならば、この図は現代人のまだ知らぬ知の局面、知の応対的な別面と言う存在を見せている可能性があるからである。

ひよっとすると、我々はすべてを見直して知の再構を計らなければならない可能性も出てくるかもしれないのである。なぜなら、これによりすべての現存する知の楼閣(現代西洋科学知)は音を立てて崩れ落ちたのであり、最早や、術(すべ)はまったく無いからである。

なんせ、人間の常識外としている、厳とした「神の語り」がそこにあるのは確かなことであり、動かせない事実が起きているのもこれまた事実である。

我々はあまりにも愚かすぎたのであり、自然を甘く見ていたのである。

 

 この「数の語り」を私なりの流儀で解釈を下して見よう、次のようなものである。

 

(A)の0、1、11、111、これを常識的に判断すれば0、1、2、3、であり、自然数の0123である。同様に、(B)の0、8、88、888,8888の存在も個数から見れば0、1,2,3,4、と規則を持って並んでいるのであり、一つの自然数的な存在、すなわち、これらは1,2,3,4、の自然規範をもって真実であることを告げているものである。

 しかし、常識的に見れば、図は1234…となっていて、0の姿が無い、そこでまた、ジックリと考えるのである。 すると、この「神の法陣」の外側には何もない空間、すなわち、0(神)の群れ、すなわち、絶対神の群れが無限に広がっているのである。 要するに我々の「見える世界(物質界)は見えない世界(意識界)に囲まれながら共存しているのである。

すると、有限の存在である「神の法陣」と言う実体はその無限の0から生まれたものであり、、無限のこそ有限(ありてあるもの)の母体であることが解る。それ故に、最初に母体である0が存在し、そこからすべての実世界は生まれた、だから自然数の最初には0を置くのが当たり前であり、同時に自然の理に叶っているものなのである。

あなた方は突拍子も無いことを言うと落胆するかも知れないが、最近の宇宙創成の理論バージョンをのぞき見して見るがいい。 今まで宇宙は何もない真空状態と思われていたが、実は無と言うエネルギーが満ち満ちてそこから有となる物質が飛び出してくると言い始めていることからも判るはずなのである。

 

     そのあたりを改めてシッカリと考えてもらいたいものである…!!!。

 

例えばである、(B)の0、8、88、888,8888を現代数学的に解釈すると0、8、16、24、32であり、中心に進むにしたがって数は大きくなる。

 しかし、これを9進法で表せば0、8、7、6、5となり、中心に進むにしたがって数は小さくなる。一体、この真逆の形は一体を意味するものであろうか…??。

 これは天下分け目の戦いである…!!!,ジックリと時間をかけて考えてもらいたい。

   これは人知を左右するばかりの「神の知」の出現であり、人類の未来を賭けての挑戦なのである…!!!。

果たして、我々は「神」の意思を解き放つことが出来るのであろうか、「神」が語ろうとしている「自然宇宙の真理」を理解することが可能なのであろうか…!!?。

それとも、相変わらず忸怩(じくじ)たる思いで人間知の歩を進めて行くことになるのであろうか。、私は大いに訝(いぶか)しみ、大いに怪しむのである。

       一つ断っておきたい、この「神の法陣」の基本を学ぼうのシリーズの①②③は3篇をもって一つと考えて検証してもらいたい。いわば、これらは三身一体で一つと考えるのである。 そうすることによってこれらの不思議さはますます輝き始め、 それと同時に我々現代知には無いいろいろなことを更に手にすることが出来ることになるはずである。                  
                                                                                           以上……(今月の講座完)

 

 

  「神の法陣」大精義講()

    「神の法陣」の基本を学ぼう…!! ④ 


「神の法陣」は自然方陣であり、本来の自然知の在り方を示す、叡智の羅針盤なのである。
                                  2017年9月上載)


 

  我々は一体何処からきて、何処へ行こうとしているのであろうか…!!?。 ただ判るのは中途半端な知を持ちながら自然に逆らい、妥協を拒みながら独り歩きしてたださ迷い歩っている最中であると言うことだけである。

 その知の出生も知らず、叡智の歴史も持たずにただ流れに身を任せて漂っている、それが現在の我々の姿なのである。「神々」の教えの存在も知らず、ただひたすら自分たちの力だけでこの広大無限な時空の海を押し渡ろうとしているのである。何ら目的も無く、意味も持たずに、代々、次々とひたすら輪廻転生を重ねながら時を乗り越え、懸命に何処(いずこ)かに向かわんとしているのである。考えて見るとまことに魔訶不可思議な存在である。

 まことに、哀れな物語であるが、その理由や仔細を知る者は誰もいない。

また、考えることも無く、ただただ無為無策の日々を送りながら、懸命に時間とエネルギ-を無駄に費やしている、それが我々の今の虚ろな姿である。一体全体、我々は何者なのであろうか…。

 

 そして、最後の今、力も尽き果て知の刀は折れ、矢は尽き果てなんとしているのであるが、それさえも知る者は誰一人いない状態である。それぞれ、勝手気ままに歩き出して勝手な方向へと身を向けて歩き、止まることを知らないと言う一方的な態度が裏目に出て、今や、まったく動きが取れない状態を迎えようとしているのである。でも、そんなことは誰も知らない、ただ、明日を迎えるために、がむしゃらに毎日を生きて、息をついているだけである。

今となっては、大自然に深く頭をたれ、大自然の知に帰して共存共栄を図るべきなのであるのであるが、それさえも知らないので出来ないのである。本来ならば、大自然との共存共栄を図るべきであり、それが無い限り我々は未来を生きることが叶わないことくらいは当然の知として知っておくべきなのであるが…!!?。

何回も叫んでいるのであるが、改めて、声を大にして叫びたい、一旦古(いにしえ)の心に帰るべしと。大いなる太古の事実、それがすなわち、自然万象は古神道の祝詞「ひふみ…天地の数歌」に封じられている数で示されている「天地の大理」であり、我々もそれに従うことが必要なのである。出来る限り、即刻学んで、知らなければならないのである。

その大理がすなわち、超古代日本に存在していた古神道の「カムナガラの道」であり、古神道の祝詞「ひふみ…天地の数歌」の奥に隠されている驚くべき神のメッセ-ジ・コ-ドなのである。

   

      「神の法陣」と斜め連続循環図、そして、その不思議…!!!。



  


  

  この後は「神の法陣」を宇宙の大きさに延ばしてもまったく同じような数示が現れて、何事かを囁き、あなた方を何処かにいざなうはずである。


 要するに、最上の0と対角線を結ぶ楕円形をそのまま次の斜め数まで移行し、それを次々と連続的に行えばいいのである。 次の図のようにである。

 
  

 

 さて、今回は少々忙しい、何故ならば、先回(先月)手抜きをして「斜めに走る循環図」の計算の左下がりの計算を省いてしまったからである。私としては同じような仕組みなので簡単に出来ると考えていたのであるが、それでは駄目でもう少し詳しくかつ丁寧に教えてほしいと言う叱責のお便りが2,3通ばかり入っているからである。彼らは私と同様な高齢者達であるが、知的な欲求は大変高い同胞たちである。よって今回は手抜きをせずに全般的に書き表さなければ叱られそうな気がすると一時は思ったのではあるが…!!。 しかし、何か、すべての図を描くのが面倒くさい、年のせいなのであろうか…。

そこで少々ズルをして簡略化するが、そのあたりは一つ大目に見てもらいたい。答えには何ら間違えはないのでどうぞ、ご安心下され。 後掲の「次元表」を例にとって考えてもらえば判るはずであるが、これらの図のようにすべてを計算しなくとも、対角の数列だけを加算し、それを一桁化して次元の数だけ並べるとまったく同じものが出来上がるのである、労を省くためにも是非知ってもらいたい。

 

その要領を用いて、これら0次元~9次元までの答えを出して、次に掲げておくのでいろいろと検証をしてもらいたい。 必ずや、あなた方の直感にピンと響き、それと同時にもろもろの興味が次々と湧き上がって来てあなたを悩ますことになると思う。


 

   この「神の法陣」と斜め連続循環図を考える


  


 

これらは次のように考えるとその意味が解り、自然次元はどのようにして成り立って機能しているのかが判るはずである。すべての相対する「陰」と「陽」の加算関係は0であることが判るはずである。

 

 要するに、これらは私が何時も言っているように自然次元は常に2極、すなわち、表次元と裏次元と言う2極関係(陰と陽)で成り立っているものであり、それが成立不能になればすべての次元系は崩壊して完全な消滅をしてしまうと言うことなのである。

 
 

 これは前々回の「神の法陣」の基本を学ぼう…!!② にある自然次元の図とまったく同じ仕組みを持っているものであり、恐らくは自然が作り上げたもう一つのネイチャー・ スタンダード(自然規範)であると考えていいものであろう。

 

 よく考えて見ると、現代西洋科学にはネイチャー・ スタンダード(自然規範)を取り入れて、それに準じようと考えるような心がけはまったく無く、すべては人知と言う怪しげな知で構成されているような気がするのであるが、如何であろうか…!!?。それでは自然と足並みを揃えて進むなどとは片腹痛しではないのか…。

 

 本来、自然の知とは我々人間の頭で生み出すものではなく、自然から学び、自然と共有すべきものである。 要するに、それにより自然と語り合いながら知を共有し、自然と共に足並みを揃え未来に向かうことが出来る、それが本来の姿である。

 

しかし、我々の頭の中にはそのような考えは微塵も無い、常に自然と相対し、争闘の挙句、年中苛(さいな)まされている始末である。それが現代文明の本当の姿である。

 

 我々はもっと素直になって自然を学び、自然の知を吸収して自然と同体化しながら生きる術を学ばなければならない、それが宇宙自然における最低的な姿勢と言うものである。

ところが、現実はどうであろう、中途半端な人間知、未熟で未完成の人間知を振りかざしながら自然を恫喝し、簒奪に明け暮れているような始末である。 要するに、それが有無を言わせない人間サイドの一方的な略奪姿勢と言うものであり、まことにアンフェアーなものであることが誰にでも判るものである。

  要するに、我々は次のような自然の仕組みを知り、そこから改めて「天地の理」、すなわち、「陰陽の摂理」を学ばなければならないのである。

 

 ただし、断っておきたい、そこにある答えとは必ず一つではないはずである。

 物理学的な頭の持ち主は物理学上の答え、哲学的な考察をする者には哲学的な答え、神を念頭に置いて追及する者には神学上の答えを必ず見出すことが可能なものである。

 本来、宇宙自然上の知にはあまり区別はないのであるが、いろいろな知を想定して「知のジャンル」を作り上げて悦に入っているのは我々人類だけなのである。

 その理由は人類は区別と競争が好きだからであり、それによってその分野の第一人者になることが夢であり、大きな野望なのである。

ようするに、それは心の器が小さいと言うことであり、まだまだ熟練度が低く、完成までは程遠いと言うことである。もっとも無理は無い、まだ誕生してから数万年~数十万年と言う浅い歴史しか無いからである。


  下の図は私が見い出した科学、及び哲学上の答えである、是非、検証願いたい。実際はこれにとどまらず、まだまだあるはずである。出来れば、思索の限りを尽くして大いに洞察の網を広げてもらいたい人類のために心からそう願うだけである。

 

   

 
  さあ、この図の持つ「神の真実」を見てみょう。


   

  
 見るがいい、これはまさに宇宙人の数学「システム オブ ナインズ」そのものである。

この数の並びを一見すると何となくランダムで不規則な数列に思えるのであろう、しかしこのように計算を重ねて見るとすべての筋妻はピッタリと合い、自然的な完全性を持っているこの表はまさに、「神の表」そのものであり、「神の啓示」であることをシッカリ示していることに気がつくであろう。

 
 

 要するに、この「神の法陣」の各次元の数表の語る「次元物語」の中には何らかの大きな「神の秘密」の存在を示唆しているのであり、何事かを懸命に我々に語りかけているのであるが、今の我々には解読が不能なのである、恐らく、それは本来のあるべき「自然の知」が不足しているので、読むことは叶わないと言うことであろう。

 

私は出来る限りこれ以上のことを知ろうと私は何度も挑戦したのであるが、すべては失敗に帰した。でも、老いさらばえたけど、まだくじけてはいないつもりである。 恐らくはこれからも、何度も、何度も生のある限り挑戦することであろう。

  とにかく、「神」は何事かを懸命に語っているのであるが、残念ながら、我々にはそれを解することが出来ないのである。何故ならば、「神の知」と「我々の知」の間には大きな、大きなギャップがあってお互いが語り合うことが出来ないからである。

ただ判るのはそこにある共通する言葉は「数」であり、「数」を介して意思疎通が出来るのではないかと言う、一つの希望的観測があると言うことだけは言って置きたい。 とにかく、すべての鍵は「数」にあるのは間違いの無いことである。それは遥か昔の超古代文献(カミフミのコトトギ)にも記されているのであるが、日本人は誰も信じず笑い飛ばすだけであったのである。それは今でもまったく変わらない。本来、「数」とは「神の語り言葉」なのであるが…!!!。

 

 例えば、古代の哲学者であったソクラテスは「万物は数から成り立っている」と言っていたと、現代人は笑うけれど、それはまさに正鵠を得たものであり、正しい言葉であったのである。

 また、

 確か日本にも同じ内容を持つ偉大な知、すなわち、驚くべき超古代の叡智が存在していたと言う事実があるのであるが、西洋知を敬愛して止まない日本人、西洋知に溺れ果てている日本人は誰一人として振り向こうともしない。

 その確たる証拠となるものが、何と言うこと、この「神の法陣」であり、「カムナガラの道」なのである。 なぜならば、「神の法陣」を解き放つと、そこには「カムナガラの道」が現れて、次々と「自然宇宙の大摂理」を語り上げると言う魔訶不可思議な事実が起こるからである。そこではまさに、「数」はハッキリとした秩序を持って何かを歌っていることを意味するものである。

 とにかく、我々の日本人の祖たちは我々の知らない大いなる「宇宙の叡智」持っていたことは明らかであり、それを古神道の中に封じて未来に託そうとしたのは間違いのないことなのである。そこにはどのような事情があって「神の秘密」を隠す必要があったのであろうか…。恐らくは国や、文化が滅び去るような懸念が生じたので、知恵を絞った挙句、古神道に目をつけて人知れずにその言葉の中に隠し、国民に唱和させて、未来に残そうとしたのであろう。
 それが、すなわち、古神道の奥義祝詞であり、その中に秘められていた「カムナガラの道」なのである。


    

    「神の法陣」の 0から9法陣までの一覧表


    

  一つ、今回の「神の法陣」の方式説明をしておきたい。実は今回の不思議図は「神の法陣」の基本を学ぼう…!!②における「裏」と「表」の次元図のサイド プルーフ、すなわち、自然の持つセカンド ネイチャースタンダ―ド(自然理法、自然規範)なと言うものである。

要するに、この図は次元は相対する「裏」と「表」と言う完全な対極性を持って存在していることを改めて証明している図なのである。

 

、あなた方はあざ笑うかもしれない、現代の科学者たちの誰もが予測もしなかった自然知の存在を一介の田舎者が口にするのは甚だおかしく、笑止千万であるといと…!!。しかし、現在のような人類知の停滞期をじっくりと見てみると、これ以上の現代西洋知の発展は無理であり、望む方がおかしいことが判るはずである。

 なぜならば、現在、すべての科学知は袋小路に入り、脱出することが出来ず、ただもがいているだけであり、ただ小手先の知に惑はされて満足しているだけであるからである。それらは数学、科学でもしかりである。この100年の間、知の土台を揺るがすほどの大きな発見があったであろうか…!!?。 それはあなた方がよく知っているはずである、。

 

 確かに不思議であり、おかしい話でもある。しかし、じっくりと考えて見てほしい。要するに、現在、西洋科学は停滞している、立ち止まったままで進歩は無い、すなわち、壊死の状態にあると言うことなのである。それはすなわち、現代文明は静かに滅びようとしていると言うことであり、ほどなく終焉を迎えると言うことである。

 

               

 さて、次回は今回の講座で少し触れたソクラテスの「万物は数から成り立っている」と言う言葉を少々もじって「宇宙自然は数から成り立っている」と言う自然真実を証明して見よう。 それは現代人のあなた方は馬鹿馬鹿しいとばかりに現実視を避け、大笑いをしているものである。しかし、超古代の人々は真面目に取り組み、立派な業績を残している事実に気がつけば笑うどころか、慄然となるはずである。

 

しかも、「数」は言う、これらを検証することにより、宇宙次元は間違いなく、「神」のセオリー通りに作られ、セオリー通りに動いていることが判明すると…。要するに、大自然は何時も完全なるつながりを持って存在しているのであり、すべてはその関係下で動いているものである。我々はその事実を最初に知らなければならないのである。しかし、現代西洋科学知はそれを知らず、人間知の赴くままに構築され、人間知の命ずるままの方向へと顔を向けて突き進んで満足しているのである。その結果、自然知との差はますます広がり、最早、抜き差しならない局面に入っているのであるが、その事実を誰も知らないのである。

 また、同時に「神」は確実に存在し、宇宙自然のあらゆる万象を司(つかさど)っていることが解るのである。そのシナリオが、すなわち、この古神道の「カムナガラの道」であり、それは「数」で描かれている「宇宙叡智」の大金字塔ならぬ大金字表なのである。それを綿密に辿ることにより「神の存在」が明らかになり、誰もが感嘆の声を上げて、鎮まってしまうのである。

 

 そのあたりのことを次回は例を引いてじっくりと説明し、検証して見よう。 「神の法陣」はまことに偉大であり、現代人と自然をつなぐ「叡智のバイブル」と言ってもいいものである…!!!。

すべては「神」のセオリー通りに作られ、セオリー通りに動いていることが判るようになれば、あなたはすでに「神の世界」に一歩足を踏み込んだも同然であり、「神の知」の継承者の一人として世の中に足跡を残すことになるであろう。

                                                                     〔今月の講座(2017年9月)はこれで完〕

     


   

 

  

「神の法陣」大精義講()

「神の法陣」に次元の神髄を見る…!!!

     さあ、「神の法陣」の基本を学ぼう…!! 


 「神の法陣」は自然方陣であり、それは我々の知らない「自然の理の確かな存在」を密かに我々に告げているのである。
 しかし、誰もそれには気がつかない…!!!。
                                                        2017年10月上載)

 さて、さて、「数」は自然の知、すなわち、自然超知の語り部であると説いてきたのであるが、あまり信じて学んでくれるような奇特な御仁はいないようである。

無理は無い、長年にわたって10進法が幅を利かせすべての人間知を抑え、牛耳ってきているのである。要するに、10進法計算が大きな間違いであることを誰かが立証しない限り、まだまだ10進法の世界は続き、それにつれてますます現代文明の跛行状態は大きくなって行くのである。

 

なんせ、10進法は物質世界の計算法であり、欲と絡んで無限大を目指しているものである。その結果として、大きいことはいいことだと言って、直線的な尺度を果て知らずの無限大まで伸ばして満足しているものである。

その結果、最終的には計算不能となり、複雑系であるとか混沌(カオス)であるとか訳の分からない言葉を並べ立てて人々を欺いている、それが現代物理である。

「複雑系」=複雑な相関関係にあって何が何だか訳のわからん状態。

「カオス」=ぐちゃぐちゃに入り混じっていて、何だか訳のわからん状態を指す。

本来の宇宙自然は永遠なる調和と秩序を保っている存在であり、連続的な流れを持って存在しているものである。要するに、一見すると複雑にもつれた糸のようにグチャグチャに見えるのであるが、実際は連続している存在であり、少し引っ張ればするすると伸びて完全な一本の糸となるものなのである。しかし、一見しただけではまさに複雑そのものであり、ただただカオス(混沌)に見えるものなのである。

要するに、現代人間知により表面だけを見てそう感じているのであり、その奥にある本質と言うもの見るまでにはまだ至っていないと言うことなのである。

ハッキリ言えば、まだそこまで知が成熟してはいない、すなわち不完全な知が蔓延している状態、未だ物質的な見解知の下にあると言ってもいいものである。 

しかし、そのことを誰も知らない、考えることもない…!!

それらすべては基本である出発点が間違っていたことに由来するものである。

しかるに、誰もそのことには気がつかないのである、まことに困ったことである…!!?。

 

それはすなわち、「見える世界(現象界)」だけを見ているだけで、「見えない世界(意識界)」にはまったく目が行っていないと言う現実である。その結果「見えない世界」などは存在しないと言い放ち、「見えない世界」との断絶を宣言し、一切の研究を止めて、「見える世界(現象界)」の調査に専念するようにした、それがあ近代科学の祖であるフランス出身のルネ・デカルトである。それ故に、現代西洋科学は現実的な事象の半分、すなわち、物質界のみの研究に没頭するだけであり、残りの半分、すなわち、「見えない世界(意識世界)」のことは禁じて来たと言う歴史を持つ。    

しかるに、ここに来て現実の物象世界とは「見える世界(現象界)」と「見えない世界(意識界)」が2元的な陰陽関係で結びついて顕在化していることに初めて気がついて慌て始めているのである。

 

果たして、これからどのようにして新しい物理学を構築してゆくのであろうか、まずはその始まりの一環として現代物理学を窓際に追いやって、まったく新しい量子物理学(波動物理学)を配し、素粒子物理学(「見えない世界」の物理学)を体系づけつつあるのである。

要するに、もはや物理学ではなく、神学的な形態(目に見えないものを探る学)に近づきつつあると言ってもいいであろう。もっと、ハッキリ言えば現代科学は、その根本において間違いがあるのであり、現代知はそれを基盤にして構築されている一つの蓋然的な虚構と言ってもいいものである。

 それではいくら懸命に自然の理を解明しょうとしても、ただただ空をつかむだけであろり、決して実を結ぶことはないのである。

 さて、さて、大変生意気なこととあなた方は感じていることであろう、しかし、「神の数学」を十分に学ぶと、そのような感慨を誰でも持つことになるのである。

 例えば、「神の法陣」を次々と広げて行けば、そこにはいつの間にか「ひふみ九九算」が完全なる秩序を持って現れて来て、すべては完全無欠な真実であることを「数」は宣言し、われわれはそこでただただ感涙にむせぶだけである。

 

多くの人は「神の法陣」は古神道から現れた畢竟のものであり、それ故に、両者は完全なつながりがある連続体である説明すれば、やれそれを証明せよとか、「神の法陣」は古神道とは何ら関係なく、完全な別物であるとのかまびすしい声が何時も聞こえてくるのである。 それ故に、その二つは十分な関係があることを改めてここでハッキリ証明しておくことにしたいと思う。

  それらの両者がどのような関係にあるのか、諸氏も十分に興味をお持ちであろう。 また私にしても、そのあたりを改めて検証して見るのも楽しみである。

果たしてこの二つはどのような関係下で結びついているのであろうか…!!。

まさにそれは興味深々の「神道ロマンの物語」があり、スリル満点の「古神道幻視行物語」の始まりなのである。すべては宇宙創世期に「神の描いた筋書き」であり、

「神の御心」通りに「数」が働いて作り上げたシナリオそのものなのである。例えば、日本の古神道には奥義祝詞である「ひふみ…祝詞」がある。学者達は馬鹿にして止まないのであるが、そこには「宇宙創造」の一切がたった九つの数によりて語られているのである。しかも、その内容は現代宇宙論等を一蹴しても、かつ余りあるような簡単にして、明瞭なシナリオを持っていて、論じる者を唸らせる素晴らしいものである。 また、そこには現代の数学者達が論じても結論が出ない調和、大調和、完全調和、などの素晴らしい論理証拠さえも人知れず眠っているのであるが、それらについては誰も知らない、尋ねる者もいない。
 それらはすこぶる、簡単なことであり、小、中学生でも簡単に解る論理、道理なのであるが…!!!。

 信じる人にとっては甚だ面白いものであり、興味の尽きない方々には成程と言って安堵の中に胸を撫で下すばかりの本当に不思議千万な物語なのである。

今回はそのあたりを徘徊しながら、しばし諸氏と共に楽しもうではないか…!!!。

確か、数年前にその事実をこの「神の数学」講座の中で発表したことがあったが、恐らくは、あなた方は覚えているであろう。実を申せば私もこの数年間すっかり忘れ去っていたものである。

 

すべては真実であり、あなた方も自分の手で計算して実証することが出来ようと言うものである。 それは決して変な数学記号や難しい計算式を用いてあなた方を弄ぼうとするものではない、すべては 筋が通って甚だ易しいものである。

多分、それについては小学5,6年生の頭脳があれば十分に計算が出来るものであり、更には素直に考えれば十分に理解することが可能なものである。

 まずは、概要を示しておく、 下に掲載されている「神の法陣」の1~9次元までの次元図をジックリ見ていただこう。それから各次元図の縦の数列を加算するのである

例として、「神の数学」の3次元図を用いて縦の列を加算するので、その答えの数列をじっくりと見てもらいたい。 何と、それはあなた方のよく知っている「ひふみ九九算(カムナガラの道)」の数列の一部であることが判明すると言う事実を知って驚きを隠せないことであろう。これらは決して偶然の産物ではなく、宇宙創成の時に「神」がシッカリ確定して置いていたものなのである。 それ故に、この「ひふみ九九算」を超古代の祖達は「カムナガラの道」と呼んで崇め奉っていたのである。

果たしてこの事実は何を語ろうとしているものなのであろうか、恐らくこれは「神」が意識的に書き残したものであり、宇宙に散らばる知を持つ生命体に対する一つの「知のメッセージ」であり、何事かを伝えようとする一つの重大な「神のメッセージ・コード」と言ってもいいものである。

恐らくは、これを解き放つことにより、「次元の秘密」が解錠されることになり、人々が期待している次元の上昇(アセンション)と言うものが始まるのかも知れない。

なんせ私の直感がしきりにそう囁いて止まないのである…!!!。

確かに見ての通り、問題としては確かなものであり、大変重大なものであることはお判りになるはずである。確かに推察通りにこれらは「神の手になる大作品」と言ってもいいも差し支えないものなのである。

しかも、共にシッカリ筋は通っているものであり、盤石な重みのあるものでもある。果たして、この語りの意味すること、その言わんとしている内容は一体何であろうか…。

誰か調べて、直感的に解ったことがあれば是非教えてもらいたいものである。

これは直感がひらめかない限り、考えれば解るような簡単なものではない。

 

 つらつら考えて見ると、そこには何かとてつもない「神の秘密」が鎮まって,何かを囁いているのであるが、今の私にはどうしても私には読み解くことが出来ないのである。

 出来れば、若い弾力のある頭脳の持ち主が現れて、非凡な直感を用いて一刀両断の形で解決策をもたらしてくれることを望みたい、それが私の今の望みである。

 

   

  〔1「神の法陣」の秘密を紐解いて見よう…!!


    
  

これらは0次元から6次元までの「神の法陣」の縦の数の加算を行い、その答えを最下部の黒枠の中に赤字で示したものである。 この後続けて残りの7、8、9、… の各次元の縦の加算計算を自分の手で行い、全体としてどのような数の配置になって来るのかを是非とも見て、そしてジックリ考えてもらいたい。 

その上で、それは一体何を語っているのかをあなたの持つ独特の直感力を用いて解き明かしてもらいたい。 そうすることにより、「古神道」と「神の法陣」はどのような関係で結びついているのかが判るはずである。
  確かに、その二つには十分な関係にあることは見て取れるのであるが、そこにはどのようないわく因縁があるのかについてはいまだ五里霧中で未だ判ってはいない。 まことに残念なことであり、知の足りなさゆえである…!!。

 一応、私の出した結論を聞いてもらいたい。これらの加算数、すなわち、赤い数字は平面上(2次元上)から見たものであり、それを90度視線を変えて見たもの(3次元上)、それが各法陣の姿とも思われる。自信はまったくない。
 なぜなtら、3次元と言うのは立体化したものである、しかし、この「神の法陣」には立体の要素は見られないのであるが、恐らくは、考え方に不備があるのであろう…!!?。

 

一応、参考のために0次元から、9次元までの各次元数の加算答えを下に挙げて置くので検証してもらいたい。

   
0 1 46 360、1504、16273、630630、1864207、76543210、000000000、 …… と数は進んで行く…!!。


  まだここには大いなる「神の秘密」が数多く眠っているのであるが、それらを是非、見出してもらいたい…。  考えることにより、あなたの知のエネルギ-は次から次へと湧き出し、頭脳はますます冴えわたることになるのである。

 〔2〕「ひふみ九九算(カムナガラの道)」の秘密を見てみよう…!!


  

  
  

上の図は「ひふみ九九算表(カムナガラの道)」の左右にある0の群れを結んだもの、すなわち、「カミムスビ(円筒形)」にして前後左右に転がしたプリント図、すなわち、循環図である。である。ここには「古神道」と「次元表」は完全以結ばれていると言う完全な証拠が現れているのである。しかも、そこにははっきりした序が見られ、我々の心をときめかせ、唸らせるのである。

 何と言うこと、そこにある「赤い数字」は、まごうことない前掲の「神の法陣」の0次元から9次元までの縦の数列を加算したものであることはあなた方にもお解りであろう。要するに、それらは単なるランダムな数の羅列ではなく、何か、とてつもない素晴らしい意味を込めた「天啓の数」の並びと言うものである。その事実の重大さは一見しただけであなたがたにも十分にお判りのことではあろう。
 
あなた方は「古神道」と「神の法陣」には何ら関連性が無い別なものと思っていたであろうが、そうではない。このような切っても切れない驚くべき密接な関係がそこにはあったのである。

 

一体、ここに現れた「数列の一致」は何を語ろうとしているのであろうか…!!。ここまで両者の数字が一致していると言うことは、何らかの関係、あるいは何らかの重大な意味が必ずあるはずである。

 何を我々に告げようとして現れて来たのであろうか…!!。今の我々の知では解明不能なのか…!!?。そこには一体…!!?。

ただただ、理解に苦しむだけであり、頭を捻っても一向にそこにある意味が解らないと言う塗炭の苦しみが残るだけである。

 要するに、この正体を突き止めることが、すなわち、「神」は次元の違いをどのような形で表しているのかを解く鍵となるものである。これは2次元と3次元の違いを「数」で表しているものである。
 ただし、それをどのように我々の貧しい言葉で言い表すのか、それが問題なのである。 甚だ簡単なものなのであるが、甚だ難しいと言うことである。そのうち、誰かが綺麗な言葉で誰にでも判るように説明してくれるであろう。

 ただ、我々日本人の祖達が残したものであり、その子孫である我々が解き放つことが義務であり、責任と考えている。我々日本人が解かずして誰が解くことが出来るのであろうか…!!?。 考えれば日本民族の責任は甚だ重いと言うことであり、ひょっとすると人類の未来が懸かっていると言ってもいいものかも知れないものである。

 なんせ、これらは古神道から現れた「神の大叡智」の一部であり、まだまだ、無尽蔵な「神の語り」がその中には眠っていて、起こされるのを待ちわびている状態なのである。誰か、勇を鼓して扉を叩いて見るものはいないのであろうか…!!?。

 言わずと知れた、私がその門番である、遠慮は要らぬ、訪ねて来てこの「カムナガラの道」の扉を叩くがよい…。 懸命に、そして心の限りに…!!。何事も、熱意があれば扉は自然に開いてくることを知ってほしい。
 これはまさに、現代知を遥かに凌ぐ最強の「神の秘文図」であり、現代物理や現代数学」、あるいは哲学や宗教を総なめするばかりの自然の大摂理が秘められているものである。
 実を言えば、私はその答えを知ってはいる。しかし、答えの意味、すなわち、なぜそうなるのか、どのような過程を経ることによりそのような答えになるのかについては悲しいことにまったく不明なのである。

 

 さあ、今のところ、古神道の語り上げるこれらの驚くべき事実には世界中の誰も気がついてはいない。それはすなわち、我々日本人には考えるための十分な時間が用意されていると言うことであり、思い切って非常識な世界へと取り舵を切って見ることが可能と言うことでもある。 ハッキリ言えば、常識的な考えから生まれて来るものは、すべて常識であり、簡単に誰でも知り得るものである。 一方、非常識な考えから端を発したものは、すべて非常識なものであり、それは人々に知られ、馴染んで行くごとにだんだんと常識に変わってゆくのである。要するに、常識と非常識は紙一重の差であり、時間と共に徐々に変化し、同一の形態と化すことになるのである。それはすなわち、、すべては心の認識知の変化によるものであり、時の流れ、時代と共に少しづつ変わって行くものであると言うことである。

 

 考えて見るがいい、我々の日常会話を100年前の人々が聞けば、まことに非常識な会話の連続であり、あってはならないものに聞こえ、まさに狂人じみたものと映るであろう。 しかし、我々には当たり前のことであり、誰でも即座に理解が出来るものである。要するに、100年前には非常識であったが現在では常識なのである。例えばである、現在、多くの方々が持っているスマ-トホン、あれは10年、15年前には想像も出来なかった非常識極まるものであり、とんでもないものであった。ところが今では普通の若者が当たり前のように用いて、遊んでいるのである。要するに、非常識が常識化するスパンが甚だ短くなっていると言うことであり、人類の歴史も極限に向かっていると言うことでもあろう。。

 これが人間の進化であり、知の上昇と言うものなのであろう。そのような段階を経て、初めて知は磨かれるのであり、絶対的な方向へと舵を切って進んで行くのである。

 

 恐らく、この古神道の奥義祝詞から見いだされた「カムナガラの道」や「神の法陣」も100年から200年後の未来の世界では当たり前の数の語っている事実となっていて、何ら不思議なものではないと言うことになるであろう。

 これらすべては古神道から現れた誇るべき日本古代の大叡智であり、我々は有難く押し頂いて検証に走り、そこにある素晴らしい内容を早急に習得すべきなのである。

 

最早、躊躇すべき時間は残ってはいない、残りは僅かである。ただ、あなた方は何も知らないので鷹揚に構えているのであり、知らないから大笑いしているだけなのである。

 

一つ、恐ろしいことを教え申そう。

 

  1992年ブラジル国連会議(地球環境サミット)で採択されたのが『アジェンダ21』

 

それは「人口を85%削減」することが記載されている『国連も査定報告書』である。つまり、そこには1930年までには現在の世界の人口 70億人のうち60億人を減らし、10億人が“適正人口”にすることが国連ですでに決定されているという、恐ろしい事実が書かれているのである。まさに由々しき重大な事なのであるが、誰も騒ぎはしない、我関せずの態度で毎日の生活を送っているだけである。

また、米バラク・オバマ政権で、大統領補佐官(科学技術担当)を務めるジョン・P・ホルドリンは 「地球に最適な人口は10億人である」 と主張していることも見逃すべきではない。

すると、残る時間は僅かに13年である、一体何がこれから起こると言うのであろうか…!!?。これから大幅な人口削減計画が始まるのである。そうしなければ、最早人類は未来が無いのである。

 

うろ覚えでまことに相すまぬが、確か天明さんの「ひふみ神示」にも「三分の一の人民になると、早うから知らせてあるではないか…!!、何もかも三分の一ぢゃ」とあったはずであるが…!!?。
 それと何らかの関わり合いがあるのであろうか…!!?。

 

とにかく、これからの世界はとんでもないことが多発するはずである。もうすでに、すべてのシナリオは現実化して稼働しているはずと思われる。地球温暖化、大規模な人工の天災、地災の出現、または国の内乱、民族の闘争、あるいは水と食料不足による国同士の戦争か…。それとも国を左右するような世界的な人工的パンデミックの襲来がこれから起こるのであろうか…??。 とにかく、これからは何が起こるかわからない世の中、すなわち、一寸先は闇の世の中が始まると考えたほうがいい…!!!。。。

 

とにかく、今後の10年間の世の中の動きはますます混沌の度が深まり、支離滅裂な動きが始まるはずである。

ご用心、ご用心、のほどを…!!!。これからは世の中の動き、一挙一動に十分気を付けて見ることが大切であり、その動きには十分心を配るべきである。

 

                                                                                              《今月の講座はこれで完》


   
  

 「神の法陣」大精義講()

  「神の法陣」次元の真髄より 

      「神の法陣」の基本を学ぼう…!!  

 「神の法陣」は自然方陣、すなわち、それは我々の行く道を告げる「羅針盤」であり、「神」の指さす道標(みちしるべ)なのである。我々はそれに従ってその道を進む、それが縄文のDNAを引き継いでいる我々日本民族の宿命なのである。

                                     2017年11月上載)

  さあ、じっくりと「神」の指さす未来への道のりを探索し、真実を見つけようではないか…!!。

すべては「数」が知っているのであり、「数」が教えてくれるあるべき自然の真実の姿なのである。

しかし、悲しいかな、今の日本人はそれ、すなわち、「数」の本質本性をまったく知らず、ただ無視して一向に顧みようとはしないのである。

 

 そもそも、本来のあるべき日本神道の奥義とは「数」から始まり、「数」にて終わるものである。それが「ひふみ祝詞」であり、「カムナガラの道」と言う真の道なのである

 それをハッキリ告げているのが、あの「先代旧事本紀大成経」であり、その中の「カミフミのコトトギ」なのである。そこには「数」は自然万般、すなわち、天、地、神、人、物のあらゆる律理を解き明かすものであり、万法の基本となるものであると記されている。この書の初めには聖徳太子撰録と明記されたこともあって、近世初頭まで『先代旧事本紀』は記紀よりもずぅーっと古い 史書・神書として珍重されていた。

 しかるに、これらの内容は現代の歴史観を大きく覆すばかりものであり、その内容は現代アカデミズムの立場から顧みるとあまりにも大きな差異があり、それ故に、一切は後世なってから作為的に作られた偽書であるとの烙印を押されていて、この数百年の間、完全無視の憂き目にあっていたものである。現代でもそれが続いていて、あまり学者達は手をつけようともしない。

 

 しかし、最近になって、学問の基礎である「現代数学」が堂々巡りをするだけで、一向に発展する兆しがないことにより、改めて、自然との見比べが始まり、「現代数学」の手法、すなわち、「10進法」で自然を解き放つことには無理があると感じるようになったのである。要するに、それが「10進法」と「自然の数学」は合わない、量子学的にはまったく反りが合わない、だからあちこちで計算的な矛盾が出て来て、計算不能になって来ているのであると先端の学者達は言い始めて来ていることなのである。

例えば、計算的には答えは0になるはずのものが、いくら計算を繰り返してもただただ無限大の数が果てしなく伸びて行くだけであり、まさに、混沌の極みに入るのみで学者達は困憊この上無しの状態なのである。

 

ただそれ、すなわち、「自然の数学」を本格的に解き放つためには、素直な心と極まりない洞察心が必要であり、あくなき自尊心と自然を愛でる心がなければ解き放つことは出来ないものである。  

要するに、それらが無い限り自然の素直さ、自然の美しさを見出し、その心に入ることが叶わないと言うことである。例えば、現代科学では同調共鳴や、一致と言う共鳴の響きなどがまったく見られないことである。

 

本来、自然の奏でる摂理の偉大さを感じ、それに従ってその理を解明すること、それがが肝心なのであり、大切なことでもあるのである。しかし、我々はそれをまったく無視してすべては人知を優先して考えると言う愚かな道を選んでいるのである。

 

それがいかに愚なことであり、自然の道に外れていることかは「神の数学」の「神の法陣」による「数の語り」を調べてみるとよく判るのであるが、如何にせん、数千年前の西洋発想の現代概念ではまだまだ無理と言うものである。

 

さあ、そのような訳で今回も先回同様に「神の法陣」の語る「数の理」を調べ、如何に人間の作り上げた「10進法」と「自然の数理」の間には飛んでもない大きな違い、落差があるのかを一つ検証して見ようではないか…。

 

あなた達は「数の言葉」に従い、それに沿っての計算検証を是非ともしてもらいたい、その結果に感動を覚えれば、改めてそれに従い道を進めばいいのである。

 すべては新しくそこを起点に始まるのであり、それが新しく始まるあなただけの自然叡智を見出すための出発点であり、新たな「神の叡智」を見つけ出す最良の方法なのである。

 「神の数学」はサークル状になっているのであり、どこから始めてもいいものである。どこから始めても行き着く先は必ず全体の知であり、すべてを網羅して止まないものなのである。


 


 

これらの「神の法陣」の二つの対角線上の数字群を見てほしい、と同時にこれらの二つの対角線の持つ規律ある方向性にも気をつけて見てもらいたい。

「神の法陣」のすべては羅針盤的な同一方向性を示しているのであり、そこにはしっかりした秩序と調和性が存在することを明らかに示しているものである。

でも、あなた方のように「現代数学」に心を奪われている方々には一切それが判らず、ただ首をかしげて思案するだけであろう。

 

御存じのように、方陣の図には必ず対角線が2ヶ存在する、すなわち、それらは「陰(-)」と「陽(+)」と言う正反対の性質を持つものであり、それはお互いに調和的な結びつきを有しながら介在し合い、常に相関関係にあって何事かを囁いているものである。しかし、本質的にはその両者はまったく同じものであり、差異が無いことは各対角線の数を加算すると同じ答えの数が現れることからも解るであろう。

何と、この二つの対角線上の数列を調べることにより今まで不鮮明であった「陰」と「陽」の性質、本質が解って来るのであり、その相関関係もハッキリとして来るのである。

今までは確かに、昼と夜、天と地、動と静、男と女、などの単なる相対的な言葉の「陰」「陽」と言う漠然とした認識程度だけで終わり、科学的(?)な詳細説明などはまったく無かったのである。 要するに、今までの歴史上ではこれらの「陰」「陽」の本質を知らずただ言葉を濁しながら無理やり辻褄を合せるように試みているだけであったのである。

 

それをここでハッキリした根拠のある解釈を行ない、その性質をしっかりと見ようというのである。要するに、「数」の語りにより、今まで誰も知らなかった「陰」と「陽」の本質や内容を「数」を用いることにより改めて知ることが出来るのである。正しい「陰」と「陽」の本質の解明、これも「数」の囁きの一つであり、これら二元性の存在を明らかにして、本来の自然宇宙の性質やその成り立ちなどを語ろうとするものである。

まずは上記〔A〕図の各次元体の中にある二つの対角線上の数、すなわち、右下がりの対角線〔A〕と右上がりの対角線〔B〕の対角線数列を取り出して見てみょうではないか
 

 それが次の数列であることはよくお判りであろう。




 


 これら対角線の数列は「現代数学」上から見れば、単なる数字の羅列であり、関係性は何も無いように見えるものである。要するに、「現代数学」的には考えるにはまったく値するものではない。そこで、これらを「神の数学」、すなわち、自然数学上から見てみることにする。すると、これらすべては「神の意志」を語るものであり、大いなる「自然宇宙の知の結晶」であることが判るのである。本来、これらの事実を知らずして、自然を語ることは出来ないのであり、甚だおこがましいものなのである。シッカリと数を見るがいい、そこには〔A〕=〔B〕の図式が並んでいることを…!!!。それを不思議と感じないならあなたには「自然数学」を学ぶだけの心が無いのであり、、「自然の理」をうんぬんするだけの資格にも欠けていると言うことである。

 

すべては巧みに編み込まれた「神の秘儀」であり、よほどの慧眼の持ち主でない限り、真実を見抜くことは出来ないであろう。また、見抜いてもその先、すなわち、これらの答えを今の我々の生半可な知能程度では紐解くことは出来ないのであり、知がある程度完熟してこそ初めて解き得るものなのである。

しかし、私は断言する、誰かが少しづつそのあたりを開いていけば、あるいは数年、数十年後にはある程度の「神の秘密」を読み解くことが出来れば、それは大いに人間知に貢献することになると言うことを。

 

さあ、さあ、こうなったら私の知っている限りのことは伝えて行くのが筋道と言うものであろう。それを手掛かりに、稀有なる御仁が更なる「神の奥義、秘儀」を見出すことになれば、私としても大変喜ばしいことである。

恐らくは知る限りの「神の数学」の計算手法を使って苦労に苦労を重ねてこそ、初めて完全な答えを手にし、「神の心」を知ることが出来ると言うものである。

しかも、不屈の心と熱意、そして直感と洞察力、それに大いなる天意が相供なわない限り、これらの答えを見い出すことは不可能なのである。

 

 今まで、「陰」と「陽」の本質を知るには余りにも手掛かりとてなく、数千年の間、言葉のみのやり取りで終始するだけで一向に事態の進展はなく、曖昧模糊とした形でただただ捨て置かれてきたが、それもこれで終了となるであろう。  

要するに、2500年前の中国の「陰」「陽」の説明言葉と現代の説明言葉には何の変りも無く、意味の上での発展などもまったく見られなかったのである。

それらは、今でも2500年前とまったく同じ姿をさらけ出しているものである。

 

更にもう一つ言って置かなければならない、今までは各次元はどのような状態で存在し、その存在態やその系列態などは一体どのようになっているのかは誰も知らず、科学者達の長年の論議の的になっているのは御承知の通りである。今もその解決は至らず、ただただ闇の中の論議に終始しているだけである。とにかく、今のままでは次元に関する検証証拠などは一切無く「神」と同様に果ての無い無限の論議が繰り返されるだけであろう。

 

ある学者は言う、我々の存在する次元は見える存在であるが、それ以外の次元は見ることは叶わない。なぜならば、それらはあまりにも小さくて、あまりにも無限に小さ折りたたまれている存在となっているからであると…!!。

 何となく詭弁のようにも思われるのであるが、これが現代知の偽らない実情なのである。何故ならば、本当の次元的構造を知ろうとしても、余りにも手掛かりになるものは無く、この数十年の間、言葉のみのやり取りで終始して来たのである。

それ故に、一向に事態は進展せず、ただ停滞だけが続いている、 それが現代科学知の本当の姿であり、人類知の偽りのない姿である。 

学者の間では、我々の次元の裏に刷り込まれて存在するのが高次元であり、それ故に見えない状態なのであるとか、または、などの、いろいろな論議が飛び交い、現在でも一致を見ることが出来ない状態である。

今の物理学では我々の存在するこの次元でさえも何次元なのかもまったく不明であり、論議の最中と言う状態である。極端なものは、やれ10次元であるとか、はたまた、21次元であるとか…。 いやいや、そうではない単なる3次元であるとか、いや、4次元であるとかの論争がこの数十年間続いて世間を賑わしているだけであり、何ら一致を見ることは無い現在である。

それゆえ5次元の世界などとはまさに夢のまた夢であり、想像さえも出来ない世界である。すると果たして、その上に存在する6、7、8、9、10…無限…の次元世界とは一体どのようなものなのであろうか…??。 誰も想像することも叶わず、現在の学者達もただ口を閉ざして黙っているだけである。

 

さあ、余分な口上はこのくらいにして、〔1の図〕の問題を片付けて行こう。

次のようになるのである。 是非とも、検証をお願いしたい。


 


 さて、諸氏にはお解りであろう、ここにあるのは「神の法陣」の「陰」と「陽」の二つの対角線数列が加算された答、すなわち、Σ(加算答)である。じっくりと眺めながらいろいろと洞察をして貰いたい。それによりいろいろと面白い「神の真実」が次々と顔を出すことになり、果てしない興味が湧くことになるはずである。このような「理外の理」の存在は「現代数学」では絶対に見られないものである。

 

 要するにである、ここに現れたのは「カムナガラの道」の3番目の数列であり、完全な循環数列体なのである。要するに、それはすべての次元体、すなわち、1次元体から9次元体までは完全なつながりを持っていると言うことであり、いわば、一つの塊状でありながら、完全なる循環的な規律を持つ連鎖的な塊であることを証明しているものである。それはすなわち、片方の端をもって摘み上げれば最後までずるずると持ち上がると言うことである。

 

 次にここに現れた答えの数を一桁化して見るがいい、次のようになるはずである。


    

  

 如何であろうか…!!!。この図は何回も言っているように実次元とは0次から4次元までであり、5次元以降はすべて裏次元となって我々の「見える世界」とは対照的な「見えない世界」となっていることを証言しているものである。 

これを称して古神道では「表の世界」と「裏の世界」と言っている。

 

 考えて見るがいい、現代科学は次元に関しての論理は沢山あるが、すべては脳の中の仮設としての存在であり、現実的な検証資料は一切無いのである。

それ故に、2次元、3次元などの基本的な次元の定義さえもままならず、その確定的な論証も曖昧模糊となっているのである。

いや、今では次元を口にするにも憚れる状態である。何故ならば、「神」と同じ永遠に解決することが出来ない永遠のテーマ問題であると考えられているからである。

さあ、それではもう少し、検証を行ってみよう。

 

 
  またもや、ここのもあの「宇宙人の数学」である「システム オブ ナインズ」の数理が顔を出し、すべてを論理的に納めているのである。要するに、あなた方がこの「宇宙人の数学」である「システム オブ ナインズ」の存在を信じない限り、更なる大いなる真理のステップを踏むことは叶わないと言うことである。

 

出来るなら、あるべき真実には目を瞑るべきではない、あなたが成長を望むならば。なぜなら、目を瞑れば目を瞑るほどあるべき真実からどんどん離れて行くだけであり、ただ、心は迷うだけになるからである。

 

改めて言う、今まで何回も伝えて来たように数は異口同音な形で一つの真理を叫び続けているのである。果たして、我々は人間の脳が産み出したバーチャル的な仮説を信じるべきなのか、それとも数十億年、あるいは数百憶年の年月を跨いで、真実を紡ぎ続けて来た大いなる宇宙自然の言葉である「数」の語る言葉に耳を傾けるべきなのであろうか…!!??。

さて、はて…!!!!。                                                    平成29年11月上載 (完)




  

 「神の法陣」大精義講()

「神の法陣」次元の真髄より 

「神の法陣」の基本を学ぼう…!!  

 「神の法陣」は自然方陣、それは「自然の在り方」、「自然の方向」、「自然の意志」等を指し示す「神のモノログ」の集大成の図であり、「叡智の基盤」となるものである。ただし、この「自然知の基盤」の秘密は現代西洋知ではどうあっても解くことは叶わない。何故ならば、基盤が完全に異なっているからである。   
                                                                                                             2017年12月上載)

 「神の法陣」、さても、不可思議な「数の語り」であり、「数の図」でもある。まことに単純、簡単な「数の仕組み」を表しているものであるが、現代知ではどうしても解き放つことが出来ないものなのである。 それはおかしい、そんなことは無いと疑う方は是非いとも簡単な「神の法陣」を現代数学を用いて解いて見るがいい。果たして、解けるであろうか…??。どう足掻いても無理であろう。
 そこに現れた答えとは我々の知らない何かの真実を示し、何か重大なことを教えているのであり、決して他愛の無い戯言などではないのである。論より証拠、現代知で解いてみるがいい、出来るであろうか…!!?。

 答えは「ノン」である。 そこに現れた「数」は単純素朴なものであり、つまらない「数」の羅列に見えるものばかりである。その上、すべては意味を測り兼ねるものばかりであり、考えあぐねるものばかりである。 いや、本当はそうではなく、余りにも単純な故に、我々の目には特別な意味は無しとr映るだけである。その挙句、用は無いとしてただ捨てらるだけであり、考えられることなどは一切無いのである。

本来から言えば、自然は単純なもの、素朴なものを好むのであり、故に単純、素朴なものの中に真実と言う本当の答えを隠し持っているのである。それが本当の真実なのである。

それに反して、何故か、人間は難解、複雑なものを好み、難解、複雑であるからそこには真実があるものと思い込んでいて、難解、複雑なものこそ高等なものであり、挑戦するに値するものであると考えて懸命に挑んで来ているのである。

 要するに、見解の相違と言えば、そうかも知れない、しかし、考えて見るがいい、我々の文明はすべて、難解、複雑なものから簡単で明瞭なものへとシフトしながら発展して来ているはずである。宇宙自然もまったく同じであり、不規則、不定則で難解のものから簡易なもの、すなわち、簡単な規則、定則を持つものへと膨大な時間をかけながら審議しながら、移ってきているのである。それが科学者達の言う「シンプル イズ ベト」と言う大いなる言葉の本当の意味なのである。しかし、彼等、科学者たちはその事実を知りながら、どういう訳か、日ごろ、難解、複雑なものを目指してことに当たっている。要するに、口とは裏腹により難解、複雑なものへとターゲットを絞って研究を進めていると言うことである。その結果、複雑であり、混沌であると言って戦意を無くしているのである。

 例えば、次元の問題でもそうである。彼等科学者たちは次元は数の多い方が高等なもの、「神」に近いものであると考えてより高次なもの、すなわち、4次元、5次元、6次元と次元数の多いものを高次元と名ずけて懸命に追及しているのである。ところが、何たること、本来の次元の姿は、次元の低い方が「神」の存在に近いものであり、最も低い形である0次元こそが「神」の存在象を表すものになるのである。 要するに、0次元こそが「神」そのものであり、「神」の存在場と言ってもいいものなのである。

 

 例えばである、何時も言っている通りに、古神道の奥義祝詞である「ひふみ天地の数歌」を神に捧げる際に、ひ、ふ、み、…の前に0、すなわち「カムナ」を置いて唱えてみてもらいたい。そうすると全体的なバランスが取れて荘厳さが増して来ることがひしひしと伝わってくる。要するに、全体的に力を帯び、凛凛とした気風が自然に生じ、まさに「霊威を持つ神言」であることが判るのである。

要するに、「ひふみ天地の数歌」こそが超古代から連綿と受け継がれて来た「真理」を持つ究極の言霊であり、大宇宙の自然の素晴らしい姿をいみじくも語っている大いなる言葉であったのである。

ところが、今では神社をお祭りしている当の神主はその事実を知らない、その存在さえも知らない者が多いのである。それが日本神道の今の姿である。

それでは人を救えないのは当然であり、逆に、神主達は人に救われてやっと生きているような哀れな状態であり、それが今の「日本神道」の状態なのである。

さあ、愚痴はこのくらいにして、本題である「神の法陣」に入ろう。あなた方は決して間違ってはいけない、「神の法陣」こそが「神」の手になる最高の「数図」であり、崇高な「神の知」の手引書なのである。

世界ではそれに類したものとしては中国の「魔方陣」がある、これは人知による「数図」であり、ただ一種類だけの知的な開示法があるだけである。それに比べれば、「神の法陣」はすべてにわたって同一の数多の開示法で開けるのであり、内容に置いても数十倍、数百倍と言うの意味深いものを秘めながら、開示されることを待っているのである。

「神の法陣」を開く前にもう一度言って置きたい、世界中の人々は「易」とは確かに中国で作られたものであり、「3次の魔方陣」を基に数千年前の中国の学者達が苦労の上に完成させたものなのである。しかしである、よく聞いてもらいたい、この「易」の土台となった「3次の魔方陣」は約4000年前に日本に来ていた中国人である伏羲が人々に聞いた風聞をそのまま持ち帰って苦労して完成させたものなのである。それをあなた方は作り話であると思っているようではあるが、実際に「神の法陣」を紐解いて見れば、さもあらん、まさに古代文献の記述は本当であり、事実以外にはなにものでもないことがハッキリと判ってくるのである。

よく考えて見るがいい、如何に人の好い日本民族でも、そのような大事な国の「宝物」をおめおめ単なる一介の外国人に見せたり、教えたりすることは無いはずである。恐らく、あちこち聞き廻って何とか外見、概要を手にして中国に帰り、散々苦労しながら作り上げたものが「3次の魔方陣」であり、「易」の原型となったものなのである。

しかし、古代日本に存在したまことの「神の法陣」はどうゆう訳か、その後完全に行方不明になり、それと共に輝かしい「古代日本の秘宝」、「神の叡智」はすべての人々の記憶からも消え去ってしまった次第である。

 それが再び、姿を現わしたのは西暦1990年代であり、古神道の奥義祝詞の「ひふみ天地の数歌」の内容調査の際に見出した「カムナガラの道」と共に再び日本民族の元へと回帰を果たしたのである。この祝詞「ひふみ天地の数歌」と「カムナガラの道」は同一同根のものであり、同じように「カムナガラの道」と「神の法陣」は切っても切れない関係にあるものである。要するに、祝詞「ひふみ天地の数歌」と「カムナガラの道」は同一同根のものであり、同じように「カムナガラの道」と「神の法陣」も切っても切れない深い関係下「にあるものなのである。ハッキリ言えば、この三者は同一線上にあるものであり、その関係については説明すれば、誰でも簡単に納得できるほど単純であり、かつ相対的な深い関係下にあるものなのである。

 何と、「ひふみ天地の数歌」と「カムナガラの道」、それに「神の法陣」の三者はまさに同一同根なものであり、本来は不可分なものであったものである。今の、神道関係者たちはそんなことも知らず、相も変わらず先人たちの説いた「神道の本義」を追い、夢見心地のまま「神」を語り合い、「神」を祭って平然としているのである。

 要するに、本来のあるべき「神の大儀」の道に戻り、改めて「本来の知」を習得することにより、世界に羽ばたくことが出来るのであるが…、その事実をまったく知らないのである。

  何も難しいことは無い、これらの「ひふみ天地の数歌」と「カムナガラの道」、それに「神の法陣」の三者を理解する心があれば、それで十分なのである。 

  もう一つ伝えて置きたい、誰も知らないが、この「神の数学」は天明さんの「ひふみ神示」や出口なおさんの「大本教」などとも大いに関係があるようである。

それにしても不思議である、何故、時を経て産声を上げたこれらの「神の経綸」がここに来てピタリと合うことになったのか、まことに不思議なことであり、驚くべきシンクロなイズの発現象なのである。

 

例えばである、大本教の言葉である「この大望な経綸の致してあることを、世界に一人知りておる。誠の人はこしらえてあるから、この誠の人が出て来んと解らんぞよ。」、それに、「九つ花に咲く一輪の言霊の経綸」などの不可解な言葉の謎は「神の数学」を学ぶとシッカリ判って来るのである。何故ならば、この言葉は宇宙人の数学「システム オブ ナインズ」と大いなる関係があるからである。また、古神道の「カムナガラの道」もこの「システム オブ ナインズ」を用いることにより、すべてが明らかになっているのである。これらの事実は「カムナガラの道」を学んだ方々はよくご存じのはずである。

 

また天明さんの「ひふみ神示」の本当の意味は「神の数学」を学ばない限りは絶対に判るものではない。「神の数学」に通じている者が見れば何となく全体が見えて来るものであり、ははん、と頷けるものである。

何故、そうなるのか、それは私にとっても甚だ深い謎である。しかし、遠からず、直感と洞察力の強いお方が現れてこの謎を解き放ってくれるであろう、私はそう信じている。それが何時になるのか、その時を私は首を長くして待っているつもりである。たとえ、それが20年後、30年後であろうとも私はシッカリ待っているつもりであり、100歳になろうと120歳になろうと私は頑張っているつもりである。ハ、ハ、ハ……!!。

 

おっとっと、またもや、論旨が「神の法陣」から外れてしまった、堪忍、堪忍…!!。

 さて、「神の法陣」の基本を学ぼう…!!の①から④までに於いて、「神の法陣」の開き方を3通り伝授申し上げたのであるが、それ以外にも2通りあるので、それらを公開するので、是非、あなた方の調査の参考にしてもらいたいと思う。すべては順序通り、定則通りのものであり、変則的なものは何もない、すべては予定通りであり、「神」の定めた調和の道の通りにすべてがまかり通っているものである。そこにはおかしいところは何も無く、難しいことなどもさらさら無いものである。

 

   

 次の図は解き方の参考図であり、現代知とは大きく異なるものであるので、これを参考にして筆を進めてもらいたい。

 

 

上図に示したように「数」と「セル」は共に「60:20=3:1」、「12:4=3:1」となる同一的対比性を見せていることに注意を払ってもらいたい。 そのあたりから考えると「数(エネルギー)」と「セル(空間)」の間には絶対的な緊密性があることが判るであろう。

 これだけではない、この後、4次元法陣、5次元法陣、6次元法陣、……とおなじ手法を用いて検証計算を続けてゆくと、何と、偶法陣は、1、2、3、4、6、…となって自然数が続き、奇法陣は1、3、5、7、9、…となって、何かを囁いているのである。

 この案内は「4次元方陣図」であるが、これとまったく同じ数の進み方で「2次元法陣図」、「3次元法陣図」について計算を完成させてもらいたい。そうすることにより、あなたも十分にそこにある意味を察することが出来るはずである。

 その後は、この「2次元法陣図」、「3次元法陣図」、「4次元法陣図」の解法を元に「5次元法陣図」「6次元法陣図」「7次元法陣図」、……と解いて行くと面白い「数との会話」が始まり、現代西洋科学ではまったく不明な「宇宙の意志」が鮮明なる形で現れてくるのである。 

その結果、総じて現代西洋知は自然に対して有用なのか…、それとも完全に腰砕けに終わっているものかが判断出来ることになるであろう。そうすると、「神の数学」は現代知に対しての一つの試金石、いや、方向を占う「知の羅針盤」とも言えるものになるかも知れない。是非、真面目に考えてもらいたいものである。

 とにかく「神の数学」においては「数」を秩序正しく運用する限り、意味のない「数の運び」などは一切無いのであり、その最後に現れた「答え」に至ってはすべて「神の心」が籠っているものばかりである。

 これら解き方について一つ注意をしておきたい、それは中心に1ヶのマスの場合には上のように公平な計算を施さなければならないのである。恐らく、この考えは現代知には無いものであり、まさに、「神」は公明正大を好み、大いなる「愛」をもって我々自然界のすべてのものに接していることが判ろうと言うものである。

このように次元を追って次々と計算を進めていくと、「数字」は「エネルギ-」であり、「セル(枠)」は「空間」を表している事実が判るであろう。そうすると、これは「エネルギ-比」と「空間比」は常に同じであり、「エネルギ-」と「空間」の間には密接な関係下にあることを示している図なのである。まさにこれは現代西洋科学知ではまだ確かめられてはいない物理理論的な事実であり、これからシッカリ確かめなければならないものである。

 要するに、この方法によってすべての次元における「エネルギ-の比」と「空間の比」は完全に同一性を持っていることが判るのであり、そこには現代知には無い新たな時空次元の理論と言うものが浮かび上がっているのである。

 つまり、この「神の数学」による図の計算は、単なる数字の計算としてではなく、そこには物理学上の基本要素、未だ知られてはいない物理象が姿を見せていることになるのである。これ以上は物理の問題であり、このあたりの理の解釈は今後、科学者達が行ってくれることであろう。

それにより、50~60年前からある「宇宙次元」とは偶構造なのか、それとも奇構造なのかについての論争も終止符を打つことにもなるであろう。


 

 
この事実を更に確かめるためには、様々な「神の法陣」を作ってこれらの事実を確かめてもらいたい、それにより、真実は次々と明らかになるであろうし、あなたの心も晴れ晴れとなるであろう。


 これについては特別な説明は要らないであろう、ハッキリ言えば小学生の問題である。故に、解けない、難しいなどの泣き言は言わないでもらいたい。もし、難しいと思うならば、改めて、1次の「神の法陣」から9次の「神の法陣」をシッカリとアナリスして心で納得してほしい。果たして、そこにはどのような数が並ぶのであろうか。

 素直に見て、素直に考える、それが本来の「自然の道」と言うものである。

それに比べて「現代数学」は余りに功を焦り過ぎるあまり、複雑、難解な道を選び過ぎて、結果として、自然からますます乖離するだけであり、今になって自然は難しい、人知では解明不能であると泣き言を並べているのである。

  もし、これらの意味が判らない、もっと詳細な資料がほしいとのたまう方には、この続きの計算仔細表を差し上げるので、じっくりと検証をして見てもらいたい。

それにより、こんがらかった頭を正常に戻すことである。あなた方は自然に学ぶことを忘れ、人知により創り上げた現代西洋科学にきりきり舞いして正常な判断力を失っているのである。 それを正常に戻すためには昔の通りに自然と語らい、自然に学びながら、改めて恭順に服すことが必要なのである。 恐らく、それが最もいい妙薬になるのではなかろうか…!!。

 

 自然を愛し、自然を慈しむ、それが自然に生かされている我々日本人の本性なのであり、遥かな古来から続いている日本民族の生きざまなのである。

確か、ついこの前、ほんの100年前まで、我々の祖達は常に自然を愛し、自然と語り合い、自然を友として崇め、毎日を過ごして来たのであり、自然を「神」として尊敬し、崇拝してきたのである。それに比べて、西洋人は聖書にあるように「自然を簒奪して我が手に収めよ、産めよ増やせよ、地に満ちるまで…」と叫んで、常に自然をぼうどくし、傘下に収めようと図って来たのであるが、どうであろう、その結果が今のように自然の反抗を招き寄せ、人々を苛まし続けると言う無残な有様になってしまっているのである。この両極端は何を物語っているのであろうか…!!!??。

 

現在の自然の姿を見るがいい、生命の源である水と空気は汚れ果て、魚は住めず、鳥や昆虫は絶滅寸前の状態なのはニュースなどでもご存知であろう。

スズメは極端に減り、イナゴやバッタは見ることも少ない、秋になったら空を乱舞する赤とんぼなどもほとんど目にすることもない、農家にとっては守り神である蜂も見事なくらい少なくなってしまった。例年ならば、渋柿が熟する頃になるとムクドリの大群が押し寄せて来て、4,5日で木になっている柿の実を食べつくすのであるが、今年(2017年)は一羽も来ない、柿の実は赤いままで熟して落ちている。何かおかしい、何か変である …!!??。
 しかし、そんなことは誰も気にもしない,ただ、我関せずで横を向いて知らん顔をしているだけである。

今のように、自然を乱し、自然の反乱を招いた結果、自然はますます凶暴になり、地球全体を飲み込もうとしているのである。その証拠に、ヨーロッパでは今までは無かったような異常気象が続き、天候不順、巨大な竜巻、拳(こぶし)大の雹、霰が降り、それが洪水となって人家を押しつぶし、生活を不能にしているのである。

また、アメリカを見るがいい、今までには見たことのない巨大な竜巻が群れをなして発生し、人々は「オ― マイ ゴット」と叫びながら逃げ惑っているのである。

 

これらの異常気象は今のところ、納まる気配などはまったく無い、それどころか、年々凶暴になって行くと予想されるだけであり、我々人類にはもはやどうしょうも無い、手が付けられない状態が続いているのである。それはすなわち、明日は我が身に起こることの前兆と受け取って、前後の手段を考えなければ、ただ、破滅があるだけなのである。

 

しかし、学者達は地球は活動期に入った、昔から繰り返されている一つの地球の活動の一駒なので我々にはどうしょうもないことであると逃げを打つだけである。

さあ、もう12月であり、来年も目前に迫っている、恐らく、来年も自然の反乱事態は深刻さは目を覆うばかりであり、その勢いの度は倍加するだけであろう。一体、これからどうなって行くのであろうか…!!??。

我々には自衛手段は何もない、せめて出来ることは小高い丘に頑丈な地下室を作って自然の猛威から逃れると言う小さなことしか出来ない、それにより、天変地異から身を守り、家族を守る、それが精一杯なのである。しかし、それも時間の経過次第ではどうなることやら、とにかく、今後の様子を見守りながら身を潜め合ってびくびくとしながら天命を待つだけである。情け無いが、それが個人で出来るささやかな自然に対する最大の防御法であり、保身の限界と言うものであろう。

 来年、すなわち西暦2018年に幸いあれ、日本国土に荒神が来ずに、幸神が訪れることを、皆で、古式ゆかしき古神道の奥義祝詞を奉じながら懸命に祈ろう。

 「カムナ、ひ、ふ、み、よ、 いつ、むぅ、なな、や、ここ、たり…」と……!!!。これで子音は順序立って、アイウエオ、アイウエオと流れてやまないのであり、やっとこれで、数千年、数万年ぶりで「神」の御許へ無事に届くことになろうと言うものである。試みに、双対の古代祝詞であった「アイウエオ五十音図」を調べるがいい、

「アイウエオ、カキクケコ……」の流れの子音は必ずアイウエオ、アイウエオ……と流れて止どまることを知らないのである。調べてもらいたい。

だから、当然、祝詞「ひふみ…天地の数歌」の子音も同様に、アイウエオ、アイウエオと流れて行かなければならないのである。

要するに、今まで通りの古神道の奥義祝詞「ひふみ天地の数歌」を唱えている限りでは、「神」には届かないと言うことである。何故ならば、その中には「神」が省かれているので「神」は感応出来ないからであり、 そこで最初に初めて「カムナ=神の名=0」を入れることにより、すべてが完成し、「神」に感応しながら「神」の許に届くことになるのである。要するに、今までの「ひふみ祝詞」は「神」に感応しない傀儡祝詞にすぎなかったのである。これらについての詳細はあなた方が心で納得するまで、じっくりと考えてもらいたい。すると自然、自然にその理は判って来るはずである。

 「カムナ」とは「神」の本質である0を意味するものであり、ひぃ、すなわち、1の前に0,すなわち、「カムナ」を置くことにより、「神」の流れは完成し、一つの自然完成体となって無事に「神」の御前まで運ばれることになるのである。要するに、すべての前、すなわち、天地創造の前には0(神)があってそこからすべてが派生した、すなわち、1234……の母体は0であると言っているのである。

 これであなた方はご承知になったであろう、現代西洋科学知には「神」は不在であり、日本の古代の叡智には「神」が存在していたことを…!!?。

 

そのあたりのことは天明さんの「ひふみ神示」にもあるではないか…、「ひふみとは限りなき神の弥栄であるぞ、1 は初めなき始めであるぞ、ケ(9)は終わりなき終わりであるぞ」と…。要するに、1の前には0と言う初めがあるぞ、それを忘れるなと言っているのであり、また、9は終わりのようだが、終わりではなく永遠に循環するものであると叫んでいるのである。皆さんはこれを忘れているようであるが、それでは解釈は一向に進まず、堂々巡りを続けるだけである。 まことに哀れではあるが…!!。 また、天明さんは同じところで、この正しいひふみ…を唱えよと何回も言っているではないか、神と人が声を合わせてこの「ひふみ…」を唱えれば天地が開くぞと叫んでいるではないか…、天地が開くとは自然の本当の道が判るということであり、真実が判ると言うことである。それはすなわち、正しい「ひふみ…」である「カムナ、ひ、ふ、み、…」を唱えるとすべてが判明するぞ、と言っているのであるが、、誰もそれについては理解が出来ず、言及することもない…!!。ただ、今まで通りのうわべだけの解釈ですまし、涼しい顔をしているだけである。

 

何せ、西洋知は初めから「神」を度外視していることは自然数を1234…とすることにより、「現代数学」を作り上げたのであり、最初の0(神)の存在を無視して自然数の定義を制定したと言う過程があるのである。 今になって、大学の数学過程では自然数の定義では0を付け加えて0、1、2、3、4、…としているようであるが、今となっては既に遅すぎた感は否めない。何故ならば、0=神の認識はとうの昔に無くなり、誰も信じないからである。

 

考えてみると、ほとんどの外国は、いま、テンヤ、ワンやの大騒ぎである。今まで大国と言われていたような強力な国でさえも、即、内戦が勃発するような気配である。アメリカ、ソ連、中国、それにアラブ民族対ユダヤ民族、まさに世界は一触即発の状態であり、緊張の度が増すばかりである。平穏なのは日本だけの感じである。それもまさに嵐の前の静かさと言うものであり、明日は判らないち言うような刹那的なものであることを誰も知らない。
 これからの数年間、政府の中枢部は出来る限り、シッカリと日本丸の舵を取ってもらいたい…!!!!!。今のあなた方なら、それが出来るはずである。よろしう、お頼み申す…!!!!。

年が明けたら果たしてどうなることやら…。おお こわ…、おお、こわ!!
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 済みません、何と言うこと、図面が出せません、2~3日待って下さい…!!!。 何と、契約したホ-ムペ-の容量リミット(無料分)をオ―バ―してしまったそうである。
   さて、どうすればいいのか…!!!???。 さて、さて、…!!!???。  このあたりで、年貢の納め時にせよ…、との「神」のご沙汰(アドバイス)なのであろうか…、さて、さて、……!!!???。                                                                                               
       

 

 
お知らせ…
!!!、 来る12月17日(日)  神戸六甲のサラシャンテイにて「神の法陣」の勉強会を行う予定、今まで発表した「神の数学」の内容について不明な点、あるいは疑問
                               等がおありの方は是非とも、ご参加の上それを糺して頂きたい。 勉強会の後、30分から1時間くらい質疑応答の時間を十分に設ける予定。 

                               ( なお 時間、人数などの委細についてはサラシャンテイにお問い合わせください。 TEL 078 802 5120
                                また、遠距離、時間の都合等で出席不能の場合には講義録やDVDがサラ シャンテイにあります。)