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「神の法陣」大精義講()

  

さあ、一つ『数の語り』をジックリ聞こうではないか…!! ①

 

≪あなた達は「数の語り」を信じていないから聞こえないのであり、信じると数の方から語りかけてくるのである。

とにかく「数」を信じることからすべては始まるのであり、それにつれてあなたの持つ叡知は倍増、3倍増に増えていくのである≫

                                     2016年4月上載

 

 さて今月から表題を変えて「神の法陣」大精義講(4)に入り、大いなる「宇宙自然の秘密」を「数」の言葉で語って貰うことにする。

 
  ただしである、これから始まる驚くべき数多の「数計算の物語」は世界で初めてのものであり、初めて世の中に出すものである。それ故に、数学者を始めとする学者達には「あり得ない話」との反発を買い、轟々たる非難の声が巻き上がるかも知れない。しかし、そんなものには一切耳を貸さず、ただただ知らん顔をして今回の講座をジックリ学んでほしい。

何故なら、彼等は真理や道理を重んじるのではなく、ただただ自分達の学んで来た道を失うことが恐ろしいのであり、自分達が築き上げて来た牙城を崩され、無に帰してしまうのが怖いのである。ただ、それだけである。本当の学者なら「真実」の匂いを嗅いだら、すぐさま追跡を始めるべきであり、その答を手にして  欣喜雀躍としてほほ笑むべきではないのか…。

彼等は自分達が学んで来た「学の道」はひょっとすると真実ではない事を感じているのであり、薄々知ってもいるのかも知れない。なぜなら、彼等の学んで来た知には真実の「自然の証」、すなわち「自然の規範(ネイチャ-スタンダ-ド)」と言うものはまったく無く、その現実的な存在を知らず、盲目的に進んでいることを知っているからである。要するに、我々の知とはすべて自然の道に沿ったものでなければならず、それから外れているものはただ消滅あるのみなのである。それが普遍の自然の掟である。そのことを知っているならば当然そう思うはずである。

そのような訳で、私の奉持しているこの「神の数学(自然数学)」は自然の理には背かないものであり、ハッキリした「ネイチャ-スタンダ-ド」,すなわち、「自然の理律」を持っているものであ。その事をこれからハッキリと証明し、それをこれから書き出すつもりである。「ネイチャ-スタンダ-ド」の存在こそが論議を制し、人々を黙らせるものと言えよう。
 ここにある「数の走り」と「答の一致」は等しくそれを語るものであり、何らかの「自然の理律」の存在を語っているものである。それをまず、心に置いてもらいたい。
 恐らく、次回も同じような「自然の理律」の存在を語る「数の語り」を挙げて諸氏と共に懸命に検証し、論議して行きたいと思う。それにより、少しでも現代の学の一助になればまことに幸いである。

 

先月は確か「ひふみ…九九算表」を紐解いてその成立過程を説明し、「ひみ九九算表こそが『ひふみ…の天地の数歌』の本体であり、失われたと言われているあの「カムナガラの道」であることを証明し、その委細をシッカリ申し上げておいたのである。

要するに、 その証拠となるものがすなわち、ここに流れる数列のすべてはその中に 123456789の「ひふみ天地の数字」の基本数を持って存在し、何かを囁いていると申し上げ、同時に、その理由と言うものをシッカリと説明しておいたのである。何と、そこには現代科学では見出されていない「この世」と「あの世」の姿さえもしっかり描かれているのである。

それ以外にもこの「ひみ九九算表」全体の本質は0であり、それ故に、宇宙自然の本質0と共鳴同調し、宇宙と響き合っているものと言える。だから、その状態の下で、そこには自然の持つ驚くような理を数多秘めながら宇宙自然と知を共有しているのであると申し上げたのである。それらはまことに簡単至極でありながら、「現代の知」では決して見出すことは出来ないものである。なぜなら、それらはすべて「現代物理学」が未だ認めようとはしていない未来の物理哲学理論である「ブ-ツストラップ論」の正しさを証明しているものだからである。この「ブ-ツストラップ哲学論」は東洋の神秘思想とまったく相似なものであり、よく東洋思想の言葉である「融通無碍」に例えられていると言われているものである。


この「ブ-ツストラップ哲科学論」をひも解くと次のようなことである。

「宇宙は相互に関連し合った出来事のダイナミックな織物(ウエブ)的な存在であるとしているものである。 要するに、宇宙における個々の物象の相互関係が全体的調和生み、その全体的な調和が織物全体の構造を決定するものであると論じ、現代物理学を完全否定している最も新しい物理理論である。同時に、それは甚だ難解な大乗的な哲学論理を内蔵しているものと言われてもいる」……。

現在、この証明を現実的な自然の形で表わすことがまったく出来なく、更には「現代物理学」の論証と相反しているものとの理由で現代物理学者達から却下され凍結されたままである。

更には「『ブ-ツストラップ哲科論』の持つ自然観は東洋の自然神秘観に極めて近いものである」と言う馬鹿馬鹿しい理由で欧米の物理学者達には嫌われ、相手にされないことも一つの認められない原因となっているのかもしれない。

要するに、「見える世界」の向こうにある「見えない世界」を見出すために特別な計算手法が存在する、それがすなわち、S行列式を用いて「見えない世界」を「見える化」して調べる方法である。 また、「神の数学」が用いている手法とはブ-ツストラップ理論の「宇宙のすべての現象は互いの自己調和によってスム-スに決定される」、そして「構成要素は互いに調和を保ち合った自己調和と言う形で存在している」と言う手法をそのまま地で行っているものである。それが不思議にもS行列式とまったく同じ手法なのである。

しかるに、西洋の物理学者達は既にS行列式を無用とばかり捨ててしまい、今では顧みる者もいない。それとまったく同じ手法を用いているのがこの  「神の数学」なのである。


 要するに、それは予定された滑らかな数の序を追いかけて「見えない世界」を探索し、結果として「見える世界」と「見えない世界」を包含し結びつけていることをハッキリ証明しているのである。 なおかつ、それらにより、この二つの世界が相対しながら一つの真実世界(自然宇宙世界)を作りあげていることを確かめることが出来るのである。

≪S行列理論≫とは?……

 この理論はベルナ-・ハイゼンベルクよって1943年に始められた研究プログラムに由来している。そのプログラムはS行列理論と呼ばれ、物理法則を根本的に考えなおすものであった。この理論は、1950年代から1960年代に渡って著名な理論家たちによって支持されて来たが、1970年代に評価が薄れ、1980年代に研究は途絶えた。いくつかのアイデアは根本的に間違っており、量子力学が強い相互作用を説明する理論として取って代わったため、この理論は現在は使われていない。

 

失礼であるが、恐らく、あなた方には何を言っているのかは一切解らないものであろう。しかしである、後述するところの「カムナガラの道」をシッカリひも解いた後にもう一度読んで見ることである。 するとすべての疑問は完全に氷解して理解が出来ることになり、胸につかえていた疑問もさらりと解けてしまうのである。

それほど驚くことがこの古神道の「カムナガラの道」には描かれているのであり、述べられているのである。ただ、その事実は現代西洋知にぞっこんな御仁には見えない、聞こえないのであり、それ故に信じようとはしないのである。同じ日本民族でありながら、現代西洋知信者のあなた方には知の方向がまったく異なっているので理解することが出来ない、それが現状である…!!。

現在の日本神道は余りにも色々な教え、すなわち、仏教、儒教、易道などの教義が入った際に、それらを良しとする知識人達の手ににより勝手に改ざんされ、思うままに仕上げられて今日に至っているのである。要するに、それらの教義が入る前と後では内容が完全に変わり、本来のアミニズム的な素地は殆ど失われてしまっているのである。

それだけに現在では内容も訳の解らない言い回しが多くなって、我々日本人でも辟易しているのはあなた方も御存じに通りである。故に、我々日本人にも不明な内容を、いくら外国人に説明してもまったく要領が得ないのは当たり前であり、何ら不思議は無い。だから神道を学ぼうと言う外国人は余りいないのであり、普及もしないの当然のは帰着である。かくして日本神道は益々影が薄くなりつつあるのであり、今では本来の支え手である日本民族にもそっぽ向かれつつあるのである。

そこで私は本来の古神道に回帰し、立て直すことが必要であると考え、長年苦労しているのであるが、如何にせん、本来の古神道の真髄であるはずの奥儀祝詞やその本筋を伝えている「カムナガラの道」の内容やその本旨はすでに失われ、皆目不明となっているのである。それを何とか再発見するために長年困難な道を歩むことから始めなければならなかったのである。

しかも、その殆どは「神の手」を借りたものであり、または先達者達の資料、あるいはその魂を呼び起こして力を借り、再構築して来たものである。いわば、民族の集団的意識が作り上げた「あるべきしてあるもの」の集大成と言ってもいいものであり、決して個人が妄想的に作り上げたものではない。それを証明しているものが「数」であり、「その走り」の確かさである。

「神の数学」、そのすべては自然体であり、自然体系下の流れに沿って進んで来たものであり、すべては御存じのように自然の本質と同調共鳴しているものである。

故に外国から来た人々に説明しても割合簡単に理解し、頷くことが多いのである。いや、彼等は頑迷な日本人より余程素直であり、鷹揚にこなしていくことが多い。数字で教えて行くと私より先に計算を始めている。確かに、彼等は理論的で、右脳的な脳組織を持っている人種であることがよく判るのである。

 ここに前回と同じく、「カムナガラの道(ひふみ九九算表)  を掲げて置くので大いに利用して「神の御業」の確かさを心に刻み込ませながら、学んでもらいたい。

あなた方は西洋の知を学び、西洋の病理学を学び、西洋の薬を飲んで満足している。それらすべてはダイレクトのものであり、即効的なものである。故に、即効的なものしか信じないのであり、廻りくどいものは真実であっても信じようとはしない。だから、即効的な西洋薬は飲むがじんわりと時間をかけて直す東洋の漢方薬は飲まないのである。要するに、それは自然性が失われていると言うことである。だから、病気を治す薬でも、次々と強い薬を求めでさ迷い歩き、その挙句 ますます、体を不調にして苦しんでいるのである。 何故なら、本当の真実を知らないからであり、真実を信じようとはしないからである。

要するに、本当の簡単な答が目の前にあっても信じようとはせず、嘘にまみれた難しそうな答、ダイレクトな方に飛びつくのである。 また、常識知で判断不能の場合は、いかさまだと言って無視し、攻撃すると言う常套手段を用いるのである。 まことに不甲斐ない限りであり、情けない限りである。


 

   ご覧の通り、「カムナガラの道」の本質は0であり、「易」の太極図と同じものである。

  計算上、どのように0と9を用いるかについては先月(2006年3月)の「①0の置き方」を参照して貰いたい。

  

 


 

  数えて見れば甚だ当たり前のことではあるが、それでは済まされないのである。その裏には確かな真実が隠されて、我々に何かを囁いているのである。


 さあ、ここから今回の数の明かす「カムナガラの道」の秘密の幕開けが始まるのであるが、別に難しいものではない、小学高学年か中学生並みの知力があれば十分である。これらの「カムナガラの道」の秘密を知り、理解することによりあなたの心は「神」の存在、「神の知」の存在を知ることになるのでもある。ただし、「神」はいないと言う方は決して「神の知」の存在を知ることは叶わず、意味の無いただの「ガラクタ計算」にしか見えないのである。 要するに、「心」の共鳴度によるものであり、「神」との繋がりの「ある」、「無し」の問題である。

 「神」の存在をまざまざと知る同時に、あなた方は古神道の奥儀祝詞である「ひふみ天地の数歌」、すなわち、「カムナガラの道」の持つ、大いなる神力に恐れ戦き、伏して畏まるだけになるのであろう。 それは同時に、あなた方の心が開け、解きはなされたと言うことである。

 

 さあ、次にある「3×3の方陣」は上記の「カムナガラの道」の数表からランダムに取って計算(∑)を行ったものである。この「数表」の中には8×8=64ヶの「3×3の方陣」が存在する。その上、各「3×3の方陣」はA、B、C、Dの異なる象を持っていて、合計すれば8×8×4=256ヶの顔を持っことになるのである。

 

  まあ、ここでは256ヶの顔のすべてを計算して紹介することは出来ないので、例題として何個か計算して紹介しておくことにする。後はあなた方が気ままに「カムナガラの道」の数表の中からこの「3×3の方陣」を拾い上げて楽しみながら計算し、答を出してもらいたい。 要は楽しみながら、真実を見つけ出して貰いたいと言うことである。

 

 このようにすべての「カムナガラの道」の「3×3の方陣」はすべて0に帰すことになるのである。これは現代知や現代数学の力ではいくら考えても解明の出来ないものである。おそらく、これは最早数学などでは無く、「超叡知」、「超哲学知」、あるいは「神の知」に属するものであり、我々人間では手も足も出ないものである。 そう言えば誰かが「陰陽哲理学」とか「陰陽原理」とプログの中で言っていたが、まさに素晴らしい言葉であり、まさにその証明となる凹(陰)と凸(陽)の計算の姿と言えるものである。

 


  


  さて、このくらいでいいであろう、それでもまだ半信半疑な方は自分の手で時間のある限り、飽きてしまうまで計算を続けて見ることである。

 計算的に言えば、「カムナガラの道」は「10×10」のマスを持っている、その中に「3×3」の方陣は8×8=64ヶあるはずである。しかも1ヶの「3×3」の方陣は上下左右の4ヶの相をもっている。
 すると単純総計では8×8×4=256ヶの「3×3」の方陣が存在し、そのすべては0の本質を示していると言っているのである。それがどれだけ凄いことなのか想像して見て欲しい。  まさに、ナンマイダ-の世界であり、我々の常識知などではとても、とても計りかねるものである。。



 要するに、これらの数の組み合わせとは 0+9=0、1+8=0、2+7=0、3+6=0、4+5=0の五つの組み合わせから成り立つものであり、それはかってアメリカで墜落したUFOの中にあった宇宙人の数計算式とまったく同じものである。 おそらくこれは宇宙自然的な律(リズム)としては大きな意味を持っているものであろう。また、それは人間知にはまったく欠けているものであり、今のところ誰も知る者はいない。

 もう何回もあなた方に紹介している事であるが、あまり関心がないようである。それを称してNASAの科学者達は「システム オブ ナインズ」と呼んでいたものである。まあ、1960年代の出来事であり、大変、古い話である。

しかし、彼等NASAの科学者達はまったく不明なものとして葬ってしまったものであるが、実は、このように真実の「宇宙の自然真理叡知」として今でも生き生きとして輝いているのである。

「神」はこれを通じて何かを囁いているのであるが、一体、そこに示されている意味とは何であろうか…!!。残念ながら、私の知では読み取ることは出来ない…!!??。 



 これらはすべて「数」で書かれた「神のメッセ-ジ」であり、大いなる「自然の秘密」を書き記したものである。しかし、残念ながら、私はその解き方は知っているが、その内容をひも解いてあなた方に伝えることまでは出来ない、せめてあなた方と一緒に考えるだけが関の山ということであろう。

 

日頃、「神」、そんなものは無いとのたまっている西洋知の信者諸氏に聞きたい、これらの膨大な「神の証言」を無視してまで西洋学に尽し、その挙句、自然は難しい、自然はただただ複雑で混沌だけであり、秩序や調和などはまったく無い存在であると嘆いているのは如何なるものであろうか…。

 

「神の数学」を学んでいくと現代人が自然の矛盾に突き当たって、どうしても解けない問題などが、以外にも簡単に解けることが判る。例えば、100年以上も解けずに残っているボアンカレ-の予想、すなわち、「宇宙の形を求める」問題である。それはすでに「数」に教えられるままに解き放ち、あなた方にもその詳細を報告済みである。それは同時に、ボアンカレ-も知らなかった「輪廻転生」の秘密、すなわち、死んだらどうなるのか、我々の意識はそのまま保たれるのであろうか…!!?。 その現実的な解釈を解き明かして、我々の心を和ませてくれるものである。 そこにはまさに驚天動地の「天の仕組み」が我々を待って、新たな世界へと誘ってくれるのである。果たして、あなた方には信じられるのであろうか…!!??。 

                                                                       (「神の法陣」(3)の2015年10月と11月の報告に記載済み。)


             
 また、未来の科学理論であり、難解と言われている「ブ-ツストラップ理論」についても数と図の力を借りて考えて見ると、さもあらん と言うことがだんだん解って来るのである。
 現代物理学物理学のように難しい言葉、いかめしい数式を並べなくても、誰にでも簡単に理解可能なものであり、心で解って来るものである。
                                                                         

 

恐らく、今回の報告によっても、世界の物理学者達が21世紀の問題であるとして凍結した、大変難解な「ブ-ツストラップ理論」の大前提である次の命題、すなわち「宇宙のすべての現象は互いの自己調和によってスム-スに決定される」、そして「構成要素は互いに調和を保ち合った自己調和と言う形で存在している」と言う問題も既に何なくクリア-している事があなたには判るであろう。

 それが今回の「カムナガラの道」の数計算の結果であり、誰にでも判る歴然とした計算の結果である。何と、世界中の頭脳明晰な学者達が100年挑んでも解けない難問類を「古神道の知」は簡単に解いてしまっていると言う現実が存在しているのである。

 

それに付けても思いだされることがある。もう20年近く前の話である。

東京のある場所で講演中に私は「科学者達は間違っている、この宇宙は11次元もしくは26次元と言っているが、正確には9次元で成りたっているものである」と言い、また、「アインシタインの相対性原理」は間違っていると言ったことがある。すべては日本の古神道がその秘密を握っていると見得を切り、その証拠となるものを説明したところ何人かの学者達に何を言うかと詰め寄られ、持っていた原稿を没収され、捨てられてしまった苦い経験がある。

その中には有名な大学の教授(理学博士)もいたことを覚えている。しかし、知らず、知らずのうちに今では宇宙は9次元であることは定説になっているようであり、皆がそのように信じているようである。また、「相対性原理」も同様に今では否定されているようである。

一体、我々が信じきっている学問の世界はどうなっているのであろうか…!!?。

 

また、物質は光速を越えることが出来ないと言う「アインシタインの理論」、は日本のカミオカンデの実験で完全に否定されているではないか…!!。

何故ならば、微粒子ニュトリノは光速を軽々と破って地球に到達していることが完全に証明されているからである。確か、当時の「アインシタインの相対性原理」では物質は光速で飛ぶと質量が無限大になってしまうので、けっして光速はあり得ないと言われ、学者達もそのように大見栄をきっていたのである。

でも、今は何処を見てもそのような事は書かれている本などはない、ひょっとして100年前のアインシタインが未だ生きていて訂正をしたのであろうか…!??。それとも私が狂人のように独りよがりの幻を見ていたのであろうか、それともまた、私の知識は最早時代遅れなのであろうか、まったく解せない話である!!??。  

ハハハ- まったく面白い世の中である。

 

まあ、今回も、人類屈指の何問題を解決したと大見得を切っているので、その反動がいつかは現れ、学者達の反発を受けることになるであろう。その時は老人性ボケがはじまったか、寄る年波に知の混乱が激しいとでも言って謝っておこう。彼等は私の数の語りの内容を検証することもせず、言葉尻だけを掴まえて攻撃をして来るのである。せめて、自分の手で内容を検証し、間違いを見つけて反証してくれるならまことに有難いのであるが…!!?。

 しかし、「数の語り」は完璧であり、矛盾がまったく無いので本当の学者は反論する前にその真実を知るはずであり、有難いと思うはずである。これは私の希望的な観測ではあるが…!!。

まあ、学者と言うものは一旦、信じきったら決して論を変え無いし、何処までも一本調子なところが往々にしてある。 それだけ純粋なのであろう。 しかしである、もう少し、柔らかく心を持たなければ見えるものも見えないし、聞こえることも聞こえないことになり、その結果、大きな穴にはまって人類を破綻の淵に追いやってしまうことにもなりかねないのである。 これも余計なお世話、げすの勘ぐりと言うものであろうが…、 まあ、老いぼれのいうことである、あまり気を悪くしないでほしい。
                                                                            
                                                                                          (2016、4月の語り 完)

 


 

    「神の法陣」大精義講(4)

  
       さあ、一つ『数の語り』を聞こうではないか…!! ②

 

   ≪本来ならば、「数」は神の言葉であり、「神」の心を伝えてやまないものである。
    しかし、人間の心が増長慢になるにつけ「神」をないがしろにしたので、「神」は心を閉ざし、それと共に「数」の語りは完全に失われて、無言の存在となった。 今では単なる符号として用いられているだけである。  人類にとっては何と言う「大いなる叡知」の損失であり、無駄な時間を費やすことになったのであろうか…。≫

                                                           2016年5月上載

 
 遥かな古代に語られていた素晴らしい「数の語り」はどうして姿を消してしまったのであろうか…!!?。現代文明下では完全にその姿を見ることは一切叶わず、「数」は単なる数を表わす道具として我々人間に仕える羽目になっているだけである。 一体全体そこには何があり、どのような経緯が生じてそのような羽目になったのであろうか…!!?。

 

今の現代人は何も知らない、何も考えようとはしない、過去にあった事実などはまったく関心が無い。何故なら、彼等の知が実り始めるころは、、既に「数」の真実は姿を消し、以来、そのままの状態が続いて来ているからである。

まあ、これは歴史上、いや、人類知史上の大いなる謎と言うものである。

有史以来、この「数の謎」に言及した者は誰もいない、いやいや、そうでもない、ただ一人だけはいた、彼は懸命に世の中に訴えたのであるが、誰も耳を貸そうとはしなかった。
 それがあの有名なフランスの自然学者C・G・ユングである。

 

彼、ユングの主張は次の通りである。

 

「数」は発明されたものではなく、発見されたものである。

「数」は元型に類比出来るような相対的な自律性を持ち、元型と共通して意識に先行して存在する。

自然数の系列は意外にも同一の単位の単なるより合せ以上のものであることが判明する。そこには数学の全体と、この分野ではまだ発見されていないすべてが含まれているのである。

「数」はすでに存在しているがまだ知られていない整然とした配置、または規則性を把握するために予定された道具である。

「数」が元型的な基盤を持っていると言うことは、その中誰かが見出すであろうと数学者達は推測している。

 

 それ以来、世界の数学者達は「数の基盤」や「数の本質」を求めて100年近くうろうろしているのであるが、一向に見出すことが出来ないでもがいているのである。それはそうであろう、「数の基盤」や「数の本質」等は10進法の中ではなく、宇宙自然の用いている「9進法」の中に身を潜めているのであるから…。

 

最近になって、これらの「数」の秘密が明らかになるにつけて、「神」の存在の真実が次々と明らかになり、それに従って「神々」の存在が問題になって来ている。ひょっとして、それを恐れた「神々」は遥かな過去に「10進法」を人間に与えて混乱させ、「神々」の秘密を守ろうとしたのではなかろうか…!!?。確か、旧約聖書に同じような件(くだり)がある、神は人間の成長を恐れるあまり、人々の言語を乱し、まったく通じない違う言葉にしたと言う話である。

 そして「神」、そんなものは無いと人間達に思い込ませる為に与えたもの、それが「現代数学」であり、「現代科学知」なのではなかろうか…!!?。

その理由は何時も「神」を崇めて、何時までも「神」の下僕として仕えさせることが、身の安泰が保たれるはずと考えているのではないのか…!!?。

 

するとその場合、この現存鎮座している「神々」とは一体何者なのであろうか、そして、何を考え、なにを図ろうとしているのであろうか…!!?。

いや、その前に人間を作り上げて今日まで面倒を見て来たのは一体何ものであり、何ゆえなのであろうか、まずは、そのあたりを懸命に考えて見る必要があるのではなかろうか。

学者達は言う、我々は偶然に自然界において発生した小さな生命体が何十億年の年月を経てここまで変化生育したのであり、その結果、徐々に人間としての形が出来上り、長い間の経験則により更には知を持つようになったと…!!。

果たしてそうなのか、それにしては少々腑に落ちないことがあるが…!!。

しかるに、いくらそれを問いかけようとしても増長慢の人間、独りよがりの人間達にはまったく聞こえず、ただ無視され、軽侮されるだけである。

考えて見るがいい、人間の細胞は60兆ヶあり、その一つ一つがその中にDNAを持ち、また、そのDNAのの中には30億ヶにも及ぶ情報が書き込まれているゲノム、すなわち、我々の人生の設計図と言うものが存在しているのである。そこには我々の一生、いや、人類の運命さえもシッカリと書き留められていると言われている。しかもその情報は世代を経る毎に次々と変化し、無事に生きるための対応状態を変遷に応じて次々と変えられている事実があるのである。

その奇妙なるDNAを持つ生命体の一種である我々人間はとても偶然に生まれ、自然自然に生き永らえて今日あるのではなく、緻密に計算されて、計算の通りに生かされている一つの飼育体としか考えられないのである。その緻密に計算され、その計算の通りに生かされているこのプログラムを称して我々は運命とか、宿命と呼んでいるのではなかろうか…!!。

すると、問題は我々人間を生みだしたのは自己調節システムを持つと考えられる地球と言う「ガイヤ体」なのか、それとも宇宙の深遠から舞い降りて来た宇宙人なのか、それとも本当の「神」、すなわち、大いなる宇宙意識により「作られるべきして」作られた「神」の影武者的な存在なのであろうか…!!?。

時々このようなあやしい妄想に包まれながら眠りに就くことがあるのである。

 

考えて見るとまことに不思議な事であり、不可仕儀千万であある。何故、遥か古い時代に生きた日本民族の祖達は「数」のあやしい振舞いを知り、それを何故、古神道の中に封じ込めてて未来に残そうとしたのであろうか…!!。

その前に調べて明らかにしておかなければならないものがある。本当に「数」は「知の走り」、すなわち、「叡知の心」を持つ「神の言葉」なのであろうか、まずはそれを確かめることから始めなければならないのである。 しかし、今まではその「指針となるもの」、すなわち、手引きとなるようなものは何も無かったが、今は違う、何と日本の古神道にその一切が隠され眠っているのが発見されたからである。また、それをサジストするような古文書さえも見出されているのである。それが最近話題になっている「かみふみのこととぎ」であり、超古代文献である「先代旧事本紀」の中から見出されたものである。

 

まずは古神道の持つ「現実的な存在」を調査し、その内容と言うものを明らかにして行かなければならない。本当に古神道には現代知を凌ぐような「希代の叡知」が内蔵されているのであろうか…!!?。果たして、それは何らかの影響を現代知に及ぼすものなのであろうか…!!?、果たして如何なる形で……!!!??、 疑問は尽きない。。

それを調べるための最もいい教本(テキスト)となるものが古神道の持つ「カムナガラの道」、すなわち、あなた方の大好きな「ひふみ九九算表」である。

なぜなら、そこには現代科学知には無い素晴らしい「天与の叡知」が数多内蔵され、知らない形、見えない姿で天地の歌をひそかに歌っているからである。
 ただ、数千年、数万年と言う長い間に、それは完全に忘れられ、人々の脳裏から姿を消し去られたものであり、その後、ようとして行方が判らなかったものである。
 それが古神道の秘髄と言われているあの失われた「カムナガラの道」であり、最近になって発見されたものである。それがすなわち、「ひふみ九九算表」なのである。

たしかに、現代の「九九算表」は我々には馴染のものであるが、特別には面白味もさらさら無くただ声を張り上げて暗唱していただけであり、苦痛すら感じていたものである。そこに面白い形で話しかけている無上の叡知があるとは誰も知らなかったのであり、想像する者もいなかったのである。それだけ巧妙に真実が隠され、人々の心を欺いていたものである。

それが我々の持つ「九九算表」は現代数学的にデフォルメされた、異形のものであり、本来の「ひふみ九九算表」をつまらない姿に変えて、人々欺いてきたものである。 

 

一体、何故複雑な形に変え、内容を隠すことにしたのであろうか、…!!?。

やはり、そこにある「秘密」が明かされては困ると言うことなのか…!?。

我々はその答えはこれから尋ねて探し出さなければならないのである…!!。とにかく、日本民族に与えられた宿命であり、日本人以外には解くことが叶わないものであることを知って欲しい。

今のところ、その一切は藪の中であり、これからその転末の秘密を一切を紐解かなければならないのである。

 

先月は、紐解いた「ひふみ九九算表(9×9)」に組み込まれている「3×3」の次元表の内部解析を行い、それのすべては母体である「ひふみ九九算表(9×9)」とまったく同じく本質は0を持っていることを証明したのであるが、何せ、予定紙数がオ-バ-しそうになったの、それに続く調査の次第はやむを得ず順延して今回に持ってきたのである。今回も宜しく存分に御賞味下されたし…!!。

これも同じく世には未だ無い「珠玉の逸モノ」と自負している次第である。言葉等は何もいらない、ただただ「数」を読み、そこにある数のリズムを読み解きながら考えるだけでいいのである。

 

すべては淡々と語られ、同じ答が延々と続いて何事かを囁いているのである。それはすなわち、真実であり、疑うべからずとの神勅であり、真理そのものであることを証明するための手法である。要するに、何回も同じ答が繰り返されることにより、真実であることを感じ取れと言うことであり、夢、夢疑うべからずと言っているのでもある。それが「神」の流儀、常套手段であり、最も効果的な魂の覚醒手法であると言っているのである。覚えていて欲しい。

 

さあ今月も、先月と同様、「ひふみ九九算表(9×9)」に組み込まれている「3×3」の次元表の内部解析を行い、更なる「奇怪な(あやしい)数の振舞い」を見て見よう。その上で、何を語っているのかを検証しなければならない。すべては自然の手の中に握られているものであり、人間の手は一切触れていないものである。

下に掲げた「3×3」の次元表は先月と同じような結果を持つものであり、すべては「ひふみ九九算表(9×9)」の中から選び取ったものである。これらはすべて先月の続きのものであり、同類的な「数の物語」と言うものである。
 また、その「3×3」の次元表はこの「ひふみ九九算表」の中には全部で8×8ヶ、すなわち、64け存在するものである。 また64ヶの一つ一つが縦と横の∑の0を持っているので、ト-タルでは64×2、すなわち、128ヶの「0の相」を持っていることになるのである。

要するに、甚だ簡単、単純な計算であり、これらの表の縦と横の数列の足し算(∑)の答を出すだけである。  また、その計算を行いながら何故、このような計算答が現れて我々の頭を悩まし、心を苛(さいな)ますのかを考えて欲しい…!?。とにかく、これらの知は未だ誰も知らないものであり、初めて世の中に紹介する珠玉の「神の数学物語」の一片である。 なぜすべてに369(0)が現れて0に帰してしまうと言う結果になるのであろうか…!!??。

 出来る限りの人知を尽くして、この「神の秘密」の答を見出して貰いたい、それにより我々人類の未来は大きく開かれ、歩むべき方向性も決まるのである。我々はあなたの力にただただ期待するだけであり、望みを託すだけである。


 


  まあ、これは先月の続きすなわち,何らかの連続性と意味を持っているものと考えなければならないものである。

  また、計算上、どのように0と9を用いるかについては(2006年3月の「神の法陣(3)」の「①0の置き方」を参照して貰いたい。

 

 
  
  

  
  

  
  

   さて、このあたりで止めておく、何処まで行って同じ0、3、6の表れであり、まことに面白い内容、不可思議極まりない姿を持つものであることが判るであろう。

ここには3、6、9(0)の不可思議な数が現れて、すべての加算(∑)は「0の世界」、すなわち初源に還ってすべては丸く納まると囁きかけているのである。

すべての数が一様に口を揃えて「カムナガラの道」の持つ摩訶不思議な「369数の表れ」を歌い、そこにある何事かをひそかに囁いているのである

 

  何故、すべては3、6、9(0)の数の現れなのであろうか、この3、6、9(0)の数の現れとは一体どのような意味を持ち、どのようなことを語っているのであろうか…!!。
 それは昔からいろいろと噂されてはいるが、未だ誰も知らない…!!。考えてみるとまことに不思議な数である。

「ミロク」とは数で言えば、3、6、9(0)であり、まことに意味の深い「数言葉」であると昔から噂され語られているものである。

 また、最近の西洋の有識者達からの報告でもこの3、6、9(0)のヘルツ音は高次元、宇宙意識とつながる「数」として有名であり、人々はソルフェジオ周波数と呼んで大きな話題になっているものである。  宇宙意識と共鳴するとは、まさに奇奇怪怪な数である。 しかし、古神道にはこれを遥かに超越している「アマテラス」と言う驚くべき周波数が存在するのであるが、それは誰も知らない…!!。

 

この宇宙意識とつながる「数」、すなわち、(0){ミロク}の出それは一体何を語るものであり、何を示唆しようとしているものなのであろうか…!!?。

 

果たして、これは宗教家達の待ち望んでいる「ミロク」の世の到来を予告するものであり、そのさきがけとなるものなのであろうか…!!?。

予言書によると、古い価値観が崩壊して世の中が混乱する時が「ミロク」の世の始まりであり、新しい世界の誕生を意味する言葉であると言われている。

要するに、遥か古い時代の予言言葉の一つがそう囁いているのである。

 

今、何となく、現在の世界の情勢を見ると、とても常識では考えられないおかしな具合になっている。特に、この1~2年の世界の情勢を見ても甚だ混沌とし、経済は荒れに荒れて人心は荒みきっているような状態が続いている。すべての国々は一触即発の危険を抱えながら隣の国々と睨み合っているような状態である。人によっては第三次世界大戦勃発の危惧もあると言っているようである。

まさに、それは予言で言う「ミロク」の世の始まりの世相であり、新しい秩序を持つ精神世界の誕生の予兆の始まりと考えてもいいなのかも知れない。

 

確か、釈迦の没後、五十六億七千万年経つと仏滅の世となり、次いで弥勒(みろく)菩薩が現れて「新しい弥勒の世」を造り給うと言われているのも気になる。

調べて見ると、五十六億七千万年とは「神の数学式」で計算すると5,6,7で一桁化すると18になり、0になることであることが判る。

要するに、お釈迦様は遥か後の世の年代が一桁化した計算が0になる時が「ミロク」の世の始まりと言っているのであり、今年は2016年で、一桁化すると9であり、0になる当たり年になる時である。要するに、369(ミロク)の持つ0と共鳴して何か由々しいことが始まると言っている、まさにその時がこの2016年なのである。 

まさに、お釈迦様の予言が本当なら、今年はその入り口となる年であり、荒れ果てた末に、世の中の価値観が180度変わり、最後には「ミロク」に納まり、精神世界と言う「ユ-トピア世界」が出現することになると思われるのである。

恐らく、それは最近言われているアセンションの到来、すなわち、「次元上昇の世界」を指しているのかも知れない。

それは2020年までには必ず来ると言われているものである。

確か、この前お亡くなりになった船井幸雄氏もそのことについて熱心に語っておられたようである。氏の言葉によるとやはり2020年までには到来すると言っていた覚えがある。残すところはあと4~5年くらいか…!!。

 

では、もう少し考えて見よう、確か「ミロク」の世の到来が近づいて来ているぞと「ひふみ神示」の中でも天明さんも言っていた言葉にもあったはずである。

それがすなわち、この「カムナガラの道」がこの世に復活して再び「ミロク」の歌を歌い出すと言っている言葉である。 また、それは同時に「カムナガラの道」を持つ神道はいよいよ世界に旅立つ時が来たことを意味しているものである。 故、太田龍氏は言う「日本神道は否応なしに「世界神道」に、「宇宙神道」に成長せざるを得ない、そうならなければ、日本神道は生き延びることは出来ないと…!!。 今、現にそうなりつつあるのであるが、誰も知らない、誰も信じようとはしない…!!。 特に神道関係者は頑固にしきたりを守るだけであり、新しく見出された事実などは完全に無視するだけである。
 恐らく、彼等は古いしきたりを持つ日本神道と共に滅び去る運命と覚悟を決めているのであろう。 而(かく)して、目覚めた神道は「カムナガラの道」を抱いて世界に羽ばたくのであり、世界から歓呼の声で迎えられることになるのである。  しかし、果たして、誰が古神道をめざめさせて世に出すのか…!?、それは最早生気のないシャレコウベ同然の神道家では荷が重すぎる、かくして古神道を世界に出すのはあなた方日本民族の大いなる熱意であると言うことである。そのためにも、是非、この「カムナガラの道」の真髄を読み取り、そこにある「自然普遍の叡知」を何回も咀嚼しながら学ぶことを心に置いてもらうことを願うだけである。

それが「ひふみ神示」で言う「今迄の日本の宗教は日本だけの宗教。この度は世界のもとの、三千世界の大道ぞ、教えでないぞ。」の件(くだり)の言葉の意味でもある。

この本当の意味については今まで誰一人として知らなかったものであり、想像すらしなかったものである。それも当然であろう、今の今まで、世界の宗教家達から馬鹿にされ侮(あなど)られていたこの神さびた日本神道が世界の宗教を遥かに凌駕する素晴らしいものに変容して、改めて世界に君臨することになると言っているのであるから…。 恐らく、それを言い出している今の私も同様に侮蔑の目で見られていることでもあろう。 ハハハ-、それも当然なことと覚悟はしているが…。

 

まあ、それもよく考えて見ると、当然のことでもある。何故なら、世界の諸々の宗教は人間がつくったものであるのに対して、日本の古神道は神の手によりつくられたものであるからである。だから、神道には教祖がいないのは当然であり、煎じつめれば「神」がその教祖と言うの地位にあるのである。 

今まで、そのことを自信を持って人前で断言する日本人は誰もいなかったのである。それ故に、神道は外国の宗教家達に散々馬鹿にされ、侮蔑されて来た経緯があったことを再三申し上げているので、はあなた方もすでに御存じのはずである。

もっとも「神」が教祖であることは日本人の目には明らかであり、それ故に「神」が教祖であるとは誰も言わなかったのであろう…。まあ、それも日本人としては無理からぬことであろう。

何故なら、神道では「言挙げせず」と言う不文律があり、神道に秘められていることがら、すなわち、神の「真理」や「秘められた叡知」は決して人々に明かしてはならないと言う厳しい掟があるからである。

 しかし、これも奇妙な話である、何故なら、「神」を祀る神道が、なぜ「神」を隠そうとしているのであろうか、そこにも論じなければならない大きな疑問が残っているのである。
 恐らくは、自己保身、すなわち、「神」の真実を他人に奪われないため、あるいは一子相伝の秘事として大切にした挙句の行為であり、世にはばかるための一つの小細工であったのであろう。

 

この際である、よく考えて見よう、仏教は仏陀が開祖であり、キリスト教はイエス・キリスト、イスラム教はマホメットが開祖であることは衆知のことである。

すべての宗教はごく最近(2000年~3000年)以前あたりに派生したものであって、開祖は皆、人であり、我々とまったく同じ人間である。それが世界の常識であり、誰でも知っている当たり前のことでもある。

 

ところがである、神道だけが開祖が無い、それは遥かな太古から営々と伝承されて来ている「神の道」であり、神と共に歩む古神道と呼ばれているものだからである。  その神と共に歩む道、それが「カムナガラの道」であり、「神の数学」の発端となった大変由緒のある言葉である。
 また、それは古来から日本人の心の柱となって自然とつながっている大切なものでもある。要するに、そのアイデンティは自然と共生する形、いや、そうではない、自然優位を第一に置いて、その下で生活しようとしているものである。

それに対して、人の作り上げた西洋の宗教はすべて人間優位の自然観を持つものであり、最初から、聖書にある「地を従わせよ…!!、生きもののすべてを支配せよ…!!」の言葉をモット-に自然を見下し、簒奪して来たものである。

要するに、日本と西洋の宗教形態は最初から完全に正反対、両極的、相対的な存在なので、決してこの両者は結び付くことは絶対に出来ないのである。

 

その日本神道を捉えて、外国の宗教家達は開祖が無いから明らかに不合理なものであり、不審なものである、教本が無いから宗教にあらずと散々、世迷言を並べ立てて責め立てて来ているのであるが、それに対して、神道家達は一言も反論は出来ず、ただ茫然として俯(うつむく)くだけであったのである。 要するに、余りにも勉強不足で、あるべき知にもまったく疎く、その上新しい知の獲得、発展させることも無く、ただ無為に過ごして来たことが災いしたのである。

それもやむを得ない当然の帰着である。何故なら、彼等は神道のあるべき真実には背を向けて、仏教や儒教と一緒になって神道を改ざんして変形させ、あるいは意に沿わなければ己の意のままに変容させて来ていたと言う歴史経歴があるからである。 要するに、利害が一致すれば協力し合い、不一致の場合にはお互いが叩きあって相手を攻撃して来た歴史があるのである。

それが廃仏棄却や神仏習合等の悲しい事実であり、仏教の渡来以来度々行われて来た驚くべき歴史なのである。要するに、日本神道は古来から神道の真実を守らず、世相によっては外来思想と結び合ったり、争ったりして本来のあるべき日本の真実を失い、今では単なる神社の守り人としての存在に堕してしまっているのである。それが今日における日本神道の姿であり、まさに消えんとするばかりの空蝉のような儚い姿なのである。
 だから真実を知るには古来の神道、すなわち古神道に戻らなければならないと言っているのであり、現在の日本神道に天地自然の知、すなわち、「神の叡知」を求めようとしても無駄であると言っているのである。  さてさて、神道を大分貶(おとし)めて来たが、これらは日本人としての日本神道の再生を願っての応援言葉であり、励ましの意味として受け取って貰いたい。 特に、これから神官の位を継郷とする若い神官たちに申し上げたいことである。それは「治に居て乱を忘れず」という言葉であり、常に十年先、二十年のことを考えていかない限り、これからは生き残ることは出来ないと言うことである。
 

 さて、気分一新のために少々面白くて、おかしい、そして不思議極まりない話、それでいて十分に真実味のある予言の存在を紹介しておこう。一笑あれ、そして一考あれ…!!。
 要はこれからの日本人は世界を飲み込む位の気宇壮大な心を持たなければならないのであり、西洋世界何モノぞとばかりの大心をもってこれからの世の中を律していく気持ちを持ってことに当たるべしと言うことなのである。

 

さて、ここで予言について一つ加えて置きたいことがある。まあ、あまり怒らず我をはらず気楽に読んでもらいたい。以前にここに掲げたことのあるものであるが、今でも、どうにも不可解なものである。

これらの内容はすべてノストラダムスの予言書である「黄金の世紀」からの引用であり、その解読者は歴史言語学者であり、言語復元史学会を束ねている加冶木義博氏である。まあ、一つ、お茶飲み話として気楽に読んでもらえるとまことに有難いと思う次第である。 それにしても、500年前の西洋人が日本の国を名指しして事を構えたというのは不思議極まりないことである。それだけでも十分に歴史に残ることである。


         
ノストラダムスの大予言 

「黄金の世紀」…加冶木義博著より

 

  予言(1) 1989年に「輝かしい真理」の発現があり、その世紀の人々を満足させる。
               ヒント… ≪「輝かしい真理」→「神の数学」。 ≫        P24 (ページ24)  P 84(ページ84)

 予言(2)  偉大なる「輝ける真理」は西洋には現れず、アジアの国日本に現れる。 P 26

 予言(3)  大変偉大な時代である千年紀から遠くない範囲でそれは墓の中から抜け出すであろう。
                
ヒント… ≪ミレアム期である西暦2000年から遠くない時。   墓の中→長い間失われていた≫ P24  

 予言(4) 哲学者たちに一つのニュース、それは西洋の哲学とはまったく異なる東洋の哲学(思想)であり、世界の人々に支持される。    P 144、155、

 予言(5) ある男が古い言葉の研究に打ち込んで、それまで世界にはなかった世界最初の斬新な学の創始者となる。その男の告げる新しい哲学は人類を蝕んでいた旧道徳を消滅させる。
             ヒント…≪古い言葉 →ひふみ祝詞、旧道徳 →現代西洋知か?≫ P 86、118、 

 予言(6) その男は古い文献を他の学者の知識や手を借りず自分の力だけで完成させる。
              ヒント…≪古い文献→「古神道祝詞」の「ひふみ天地の数歌」≫  P 86 

予言(7) その男は失われた言葉を学び天下にない斬新な位置を占める。
             ヒント… ≪失われた言葉 →古神道の「カムナガラの道」  P 118

 予言(8) 「神」は彼に最多の素晴らしい理解能力を与え人類に密着していた道義を消滅させた。 
             ヒント…≪人類に密着していた道義→ 現代数学知や現代科学知か…??、それとも物質文明か…!?。≫   P 118

 予言(9) それまで不正に陥れられたものはその男により価値の高い作品にされた。
             ヒント… ≪不正に陥れられたもの →誰も馬鹿にして見向きもしなかったもの、すなわち古神道 ≫  P 86

 予言(10) それは墓の中の眠りから覚め、やっと正しい理解者にめぐり会えた。
             ヒント… ≪墓の中の眠り→神道の3000年と言う長い眠り≫

予言(11) 聖なる遺物の箱が征服された後に、大きな議会が議決する、しかし、彼の加入については裏切るであろう。立派な出版する聖なる遺物の箱…
             ヒント… ≪聖なる遺物の箱→ 失われた法陣表(易表)、すなわち、(n×n)の聖なる箱である≫  ≪大きな議会が決議する→ 間違いなく「自然の真理」を表わしていると科学者の団体が声明を出す ≫                        ≪彼の加入については裏切るであろう→そんな日本人はいない、すべては我々の手になるものであると言うであろう≫
                   ≪その聖なる「法陣表」についての一切は彼の死後、素晴らしい出版物として世の中に大きく広まるであろう。≫     P 92

 予言(12) その抑制を命ずる太陽と金星の偉大なる救世主の法は理解されないであろう、しかしそれは太陽(日本)、君のものであろう。
             ヒント… ≪抑制を命ずる救世主の法→物質欲を制し、精神的な救世の法とは「神の法陣」である。 太陽→日本 金星→中国。日本と中国にまたがる救世主の法、
                     すなわち、「方陣の秘密(易)」は中国発祥の作ではなく、古代日本に起源があるものであると言っているのである。それは古代文書である「竹内古文書」
                     に記されていることを思い出してほしい。≫ P 102

                                           (これらすべては神奈川県のYさんからの解釈の委細資料提供によるものである)

 

 さあ、如何であろうか…!!。これらすべてはノストラダムスの大予言書 「黄金の世紀」…加冶木義博著よりからの引用したものである。

何と驚くばかりの古神道の素性を語っている現代に関する恐るべき予言であり、今の今まで誰も解き放つことができなかったものである。

氏は言う、予言は未来を教えてくれるからこそ価値があるのであり、単なる過去を語るものでは意味はないものであると…。確かに、その通りである、これから起る未来の出来事の予言ならば、人類にとっては大きなメリットがあり、それを生かして行動すことも十分に可能となるものである。未来に無知では絶対に幸運は掴むことは出来ないのであり、過去を顧みるだけでは幸運は決してめぐって来ることはないのである。

 

加冶氏は更に言う、今までノストラダムスの予言を解読した中の殆どが100%的中している実績があると…!!。吾々はそれを信じようではないか…!!。 
                                                         
                                                                                  「黄金の世紀」…5P(ペ-ジ)より


  
しかも、この解説言葉も氏の解説をそのまま載せたものであり、私の解説言葉は少しだけ、特に特別なところだけの注釈に止めて置いたものである。

私の下手な全体的な解説などは用はない、あなた方の鋭い目と洞察心で真実は十分に解明出来るはずである。是非、その真実を突き止めて世間をアッと言わせて貰いたい。

果たして、予言とは実在しているのか…、それとも単なる儚い夢に過ぎないものなのであろうか…!!?。これは一つの事実検証となるものであり、まさに好機のサンプルと言うものである…。

 

 大体において予言とは遥か後世にならなければ真実かどうかは解らないものである。それを証するためには何回でも以前のことと照らし合わせ、付き合わせることが必要なのであり、長い時間をかけて実証を何回も繰り返す必要があるものである。そこで初めて、真偽が決定され、世の中に伝えられていくものである。今回がそのビックチャンスであり、滅多にない検証のチャンスでもある。 結果は恐らく10年内で判るはずである。 まさにチャンス到来と言うものであろう…!!!。

 

考えて見ると、予言とは大勢の人々に夢と希望を与えるものであり、常に人々の心を膨らまし励ましてくれるものである。今回の369(みろく)の世」の到来も現実ならば、是非そうありたいと心から願うだけである。 

 まあ、今月もいろいろと度肝を抜く話、信じられない話をしてしまったが、本当かどうかはここに示した「数」に訊いてもらいたい。その結果として、あなたの心に変化が現れたならば、それは大切に心して育ててもらいたい。 そうすることにより次の話、またその次の話と複合振動して大きなうねりになってあなたを動かすはずである。そして、それが何時の日かあなた全体を包んで本当の心のユ-トピア、すなわち、完全無欠の「意識世界」、この世の中に身を置きながら無病、無死の「精神世界」に誘うことになるのである。 その日まで是非、御身を大切に…!!!。      

                                                              (2016、5月の語り 完)


 

「神の法陣」大精義講(4)

  
       さあ、一つ『数の語り』を聞こうではないか…!! ③


 

「数」は自然の真実を知り、それを語れる唯一のものであるが、驚いたことにその事実を我々現代人は誰も知らな、要するに、「数」は有機的な存在であり、宇宙自然のすべての現象を語ることが出来る唯一の存在なのであるが、その事実を誰も知らないのである。 何と言うことであろうか…!!。
 我々はその事実をしっかり突き止め、学ばない限り、次のステップに移行することも、新たな叡知を求めることも不可能である。

要するに、「数」にすべてを語らせ、その真実を突き止めながら学び取ってこそ、初めて人類は更なる「知の高み」を得ることが出来ると言うことである。
                                                                                                                       

                                                 2016年6月上載


  今回からは諸々の数計算を行いながら「数」の持つ自然の知の存在を確かめて見ることにする。また、その計算値の真実を見る為に、「神の数学」の計算値と「現代数学」の計算値を並列させながら、その違いを見てみることにしよう。

 

  恐らく、これは現代史上初めての試みであり、人々の肝っ玉を冷やすことになるのか、それとも大いなるブ-ウイングを受けることになるかのどちらかであろう。何故ならば、「神の数学」の計算値と「現代数学」の計算値を見比べることにより、「現代数学」は甚だ不自然な計算系列を持つ反自然的な知であり、自然とは決して相容れないことが一目了然になるからである。いや、それともあなた方は目と耳を塞いで無視に走るのか…!?。まあ、そのどちらかであることは間違いないであろう。

要するに、自然系列の「数の動き」は滑らかな状態で何処までも推移しているのに対して、「現代数学」の数の動きは甚だぎゅくしゃくして、凸凹がありお世辞にも綺麗とは言えないものである。それは誰の目にも明らかであり、眉をひそめたくなるような不完全体として我々の目に映るものである。要するに、秩序と調和がとれてはいないと言うことである。

 

 今回からは「数の語り」の存在を明確にするために自然手法による「数計算」とその答を示しながら、「数」の語りを見てみることにしょう。 恐らく、あなた方は「数」は意識を持つ有機的な存在であると言えば大いに疑問を持ち、ブ-イングを始めるであろう。そんなことは信じられない、絶対に認められないと…!!。

 恐らく、日本人ばかりか、世界中の人々が大騒ぎして私の存在を絶ち切ろうとするであろうし、学者達は可能な限りの悪口雑言を投げ捨てて私を罵ることであろう。

 

 しかし、ジックリと現実を見定めてほしい、現代数学は「10進法を」を基盤に持つ故に、現代科学体系は迷いに迷っている悲惨な現状であることをまずは知らなければならない。
 このままでは何時になっ手も自然と対話が出来るようにはならない。100年経っても、1000年経っても今と全然変わらないはずである…!!。 是非、そのあたりから確かめて見てほしい…!!?。

一体、何時になったら、自然は我々に心を開き、持てる秘密を明らかにしてくれるのであろうか…!!。この質問にたいしては誰も答を出すことは出来ないはずである。

そもそも人間数学(現代数学)は自然を解くために「10進法」と言う道具を使って問題解決にあたっているのは皆さんも御承知であろう。しかも、その「10進法」と言う道具は人間が考え出したものであり、自然の計算法とはまったく異なるものである。しかし、そのことを誰も知らない、誰も疑問を持たずにして使っているのである。

恐らく、世間広と言えども、「現代数学」に疑問を呈し、騒いでいるのは私だけであろう。だから、私は畢竟の異端児であり、現代のドンキホ-テと言われる由縁なのであろう。

 

さあ、至極簡単な数の計算から初めて見よう、すべての「現代数学の知識」は傍らに置いて純心無垢、空白な心で数の語る「数の動き」を見てもらいたい、余分な知識は捨ててもらいたい。

そのために一つ言って置きたい、自然の姿、自然の心とは、すなわち、流れが淀(よど)まず静かに刻々と調和しながら変化しているものであり、見た目はシンプルで心に響くものである。その上、なおかつ、美しく感じられ、妙々な気持ちと共に心にはたぐいない共感を覚えて打ち震えるものである。

そのことを十分に心に置いて計算の過程と答をジックリと見てもらいたい。

要するに「数」が奏でているのは一つのシンホニ-のような整然とした調律曲であり、まさに調和と秩序が滲み出て心が温まるような素晴らしいメロディ的なものが感じられるものである。そこには目を顰(ひそ)めるような振舞いとか際立った変化は一切無く、ただ、ただ悠然とした流れ、永劫な流があるだけである。

 

 ここからは自然数が囁く自然のメロディを目で感じ、心で聞いてもらうのである。すべては自然数が描く自然の所作であり、自然数が語る自然の心の現れをモチ-フにした数のストリ-と言うものである。はたして、これらはどのような関係であり、どのような秩序を見せながら流れているのであろう…!?。 そして、それはどのような調和と変化を見せながら響き合っているのであろうか…!?。

ここからは、最早、直感と悟性、そして洞察力がモノを言う世界であり、「現代数学」信奉者は一切立ち入ることが出来ない自然が語る「真実の世界」の領域である。ただし、心を開いた方々は別である。

 

 真の数学とは「数の性質」や「本質」を求めて学ぶ、定性的な学問であり、それに対して我々の学んでいる「現代数学」は「数の表面」、「数の状態」を求めようとする定量的な学問なのである。 現代のような「神無しの世界」、すなわち現代文明世界では定性的な学問は既に窓際に追いやられ、活動は停止の状態である。しかし、次の「神有りの世界」、すなわち「意識文明」の世界では完全に逆転することになり、「神無しの世界」は完全に姿を消すことになろう。

    〔1〕     究極の「自然数のピラミット数表」を求めて、開いて見る

  
 


 


 

さて、さて、不思議極まりの無い数図であることがお判りであろうか…!!!。

上図を見てもらいたい「数計算式」自体も美しいが、右側の数列は更に美しい。そこには確かな鏡面対象数列が輝羅星の如く整然とした並びで鎮まっている。

はて、この姿はどこかで見たような気がするのであるが、果たして…!!?。記憶力が自慢の方は思いだして見るがいい。 さて、如何に…!!。

  そう、その通りである。これはまさに「ひふみ九九算表」の斜めの並びの数列であり、やんごとない「神の数列」そのものの出現と言うものである。

 確か、大分古い頃、ここで申し上げたことがある。それはすなわち、日本の神の名前は古いほど鏡面対称的な名を持っていると…!!。それが「天の中主」を初め、「天の常立」、「国の常立」、「大国主」、「一言主」の神、それに「皇産巣日(カミムスヒ)」、「高皇産巣日(カミムスヒ)」の名も気にかかる。どうして古代の人々は鏡面対称文字を用いて神の名を表わしているのであろうか…!!。


 

 一体、この「神のピラミット数」と「ひふみ九九算表」はどのような関係にあるのであろうか…!?。そして、これらの完全鏡面数列の出現は何を意味し、何を語るものであろうか…!!?。

誰か「その心」、すなわち共通する「芯」と言うものを教えて欲しい…!!?。

 考えて見ると、これらは土壇場にある人類の知をあるべき自然普遍の知に戻してくれる「数の語り」と言うものである。一つ、ジックリ考えてもらいたい…!!?。

 

 まずは心を無にして考えて見ようではないか、通常、我々現代人は夢想だにしなかったことであるが、「自然の象」と言うものは最初と最後に神を置いてはじめて存在化が可能になることを立証する極めつけの数図である。すなわち、自然万象は「この世に現れて来る時(顕在時)」と「死ぬ時(消滅時)」においては必ず「神」の仲立ちがあるからこそすべてはスム-スにいくのであり、無事に目的場に至ることができるのである。また、ここにおける「神」とは数で言えば0であり、すべての「数」は0から生まれてまた0に還っていくと「この数図」は言っているのである。 また、その他のすべての自然事象もそれと同じような軌道を描いて輪廻しながら転生を繰り返しているのであるのであるが、誰も気ずく者はいない。
 当然ながら我々人間も同じ輪廻循環の中に身をおいていることだけは決して忘れてはいけない、しかし、今のところ誰もそんなことを信じる者はいない…!!。

 

その事実を証明するために用いるのが上記の自然数のピラミット、すなわち「神のピラミット数表」、あるいは「ひふみ…ピラミット数表」と呼ばれているものである。それを通じて我々は本当の自然象の真実に遭遇することになるのであり、また、神々と共にある自然の叡知の存在を知ることになるのである。しかも、それが決して間違いでないことをハッキリ証明しているのがこの「ピラミット数表」の計算式であり、その答なのである。

 

この「神のピラミット数表」はお判りにように自然数である0123456789の数を1ヶづつ増やしながら並べ置いたものである。これに似た西洋の数表には「パスカルの3角形」があり、それを発見者のパスカルは「魔法の三角形」と呼んで大変気に入っていろいろと検証していたものである。

しかし、日本にも更に驚くべき「神のピラミット数表」と呼ばれる「3角形の数表が存在していたのであるが、現代数学」の性(さが)に魅入られ、魂まで抜きとられた日本人はその事実をまったく知らない、知ろうともしない。

 

本来、純粋な「自然数学」とは自然界における 「量(数)」、「構造」、「空間」、「変化」などを研究するための学問であり、我々の「現代数学」はこれらの中の「量(数)」に関する学問なのであり、極めて狭義な「数」の学問なのである。

しかも、そこでは「数」は単なる道具として用いられるだけであり、「数」自体は有機的な意味を持ってはいないとの認識下にあるだけである。

 

また、上記の「量」以外の量(数)、構造、空間、変化等を追求する数学は「位相数学」、すなわち「トポロジ-」と呼ばれている分野であり、現在のところ余り顕著な活動は見せてはいない。要するに、本来は「見えない世界」を探求するための数学体系であるが、「見えない世界」等は無いとする現代科学文明下では活躍の場がまったく無いのである。ちなみに、「神の数学」は完全な位相数学であり、「見えない世界」を簡単に解き明かしてくれるものである。

 

本来、「数」とは自然の象を解明するための学問、すなわち、物理学や化学、あるいは哲学上の諸問題を助けるための自然解明ツ-ルとしても用いられるべきものである。しかしながら、人間知のすべては反自然的な「10進法」と言う計算手法を基盤として培われているものであり、それは自然と共鳴不能な計算手法である故に、自然の本性、本質を明かすことは出来ないのである。

考えて見れば当然なことであり当たり前なことである。要するに、現在の人間知は自然とはまったく反りの合わない「モドキの知」と言ってもいいものである。

 

「数」の持つ答の意味が分かり、系統立ったつながりが判るようになれば、「数学」ほど美しいものは無く、これほど楽しいものはない。何故なら、本質を究めれば究めるほどに、すべては繋がりを持って華やぎながら、お互いに会話し合っていることが判るからである。

更には持てる直感と洞察力をフルに使うことにより、「目には見えない世界」が自然な形で存在していることが見えてくるのであり、更にはまったく別なもの同士ががその奥では密かに繋がっていることを「数」は教えてくれるのである。 まさに、「数」はオ-ルマイテイであり、無限の知を持っていることをうかがわさせるものである。

 

本当の意味の自然普遍の数学、すなわち、「自然数学」とは「数の性質」、「数の本性」について学ぶ学問であり、それにより、あるべき本来の自然象の仕組みの存在を伺えることになるのである。要するに、我々は「数」により数多の「自然の哲理知」の存在を知ることになり、それを学んではじめて新たな未来を築きあげることが出来ることになると言うことである。

 

それらは遥かに古い時代にはあまねく知られていた「数の仕組み」であったが、長い間なおざりにされた結果、今ではすっかり忘れ去られてしまっているものである。しかし、大いなる時の歯車が一回転して再び古の扉が現れ始めることにより、そこから消え去った古の叡知が再び顔を出し始めて、何かを我々に懸命に告げようとしているのである。

しかし、悲しいことに、そんなことは誰も気がつかないし、想像することもしない、ただただ現代西洋科学知に追従して彼等の歓心を買おうとしているだけである。

 

要するに、それが過去にあったことの再現現象と言うものであり、科学用語ではシンクロニシテイと呼ばれるものである。要するに、大いなる過去に存在した日本文明の再現現象が今、再び世界的な規模で甦り始めていることがそれである。そのことは現在の外国人の多くが日本に関心を持ち始めていることからも判るであろう。話によると、世界で最高峰の大学であるアメリカのハ-バドで現在最も人気のある国が日本であり、彼等の合言葉とは「この不確実性の時代を生き抜くためには、世界はもう一度日本から学ぶべきである」なそうである。

何故なら、現在の日本は世界の未来を先取りしていると言われているからである。確かに現在の日本は高度に進化した文明社会であり、公害や環境問題、更には先端をゆくテクノロジ-やエネルギ-等の問題など、解決しなければならない難問を既に解決しているのである。また、高齢者問題、人口減少などと言うこれから世界が直面しなければならない問題をどう捌くのか、世界は関心を持って見つめているのである。 何と、我々日本人は未来を拓くテストケ-ス、モデルケ-スとして世界中の人々から興味深々として眺められていると言うのである……!!!。

 

 あなた方は知らないであろうが、現存する超古代文献では遥かな昔、日本は世界の最高峰に君臨する盟主であり、数多の人々が知を求めて日本詣りしていたと伝えている。

古くは中国の伏儀や神農が易と薬学を学んで帰ったと言う記述、更には孔子、老子、孟子、徐福の來日が記され、また西洋からはモ-ゼ、キリスト、その他にインドの釈迦、マホメットが日本で色々学んで帰国して人々を導いたと記載されているのである。それを物語る明らかな証拠が、能登にあるモ-ゼの墓であり、青森県のキリストの墓なのである。確か、モ-ゼは最終的には民衆を引き連れて、乳と蜜の溢れる地(日本??)に向かって去ったと聖書には書かれているはずである。
ただ、過去を重んじない日本人は知らない、知ろうとはしないだけである。その中でもマホメットについてはアラビヤ回教史にも同じ記述があり、そこには「24歳のマホメットはAD582年に蘇我氏を頼って日本に行った」とはっきり書かれているのである。これらの合致した報告をあなた方はどのように思うのであろうか。最早、偽書である、後世の誰かが面白半分で書いたトンデモ本であるなどの偽弁はまったく通用しないのである。すべての真実は今、明かされようとしているのである。

 

また、南米ポリビアの山中の祠の中から石に刻まれた不思議な文字が見出され、それを日本人の外交官が日本に持ち込み古代文字研究家に調べさせたら、それは「天越根文字」と言う神代文字であり、51文字ある中の16文字であることが判ったのである。それとまったく同じ不思議な話は古代文献の「竹内古文書」の中にもあって「古代天皇は世界巡行の途中で南米ポリビアにおいて天皇持参のお守り文字の16文字を土地の土民に乞われるままに与えたのであり、その文字がすなわち、アイウエオ、カキクケコ、サシスセソ、と最後のンであった」と記されているのである。

まさに、これらは驚くべき東西の相呼応した現実の話であり、まさに不可思議な現実と言うものであろう。要するに、これらは歴史の歯車が完全に一致したと言うことである。

しかし、長い間、中国大陸や西洋に知の刷り込み、すなわち、洗脳を受けて育ってきた現代の日本人はそんなことはあり得ないと呵々大笑するだけである。

 

このように、の日本の古代文献には超古代に存在した日本の大文明の存在を明らかにしているのであるが、誰も信じない、誰も口にしょうとはしない。

ただただ、西洋知の常識を懸命に守ってひたすら進むだけである。

少々難しすぎるとお考えの方は次の簡単な問題、もっとシンプルでありながら、何故か辛吟するような不思議な数の仕組みを見て貰いたい…!!。

恐らくこれも小学生でも簡単に理解出来るものであるが、恐らく、大の大人の数学者達も頭を傾げる難しい問題と言ってもいいかも知れない。

 

さあ、簡単なものである、脳を柔らかくして、一つ考えていただこうではないか。前出〔1〕の「神のピラミット数表」の図を見てもらいたい、そして、そこから次のような「数の現れ」、すなわち、そこに縦斜めに走る数についての計算検証を行なってもらいたい。《加算》と《減算》についての二大考証である。

まあ、今回はあなた方の常識に従って数列の最後にある0を取り除いた形で検証してみよう。


 〔2〕


 

   〔3〕
 
  
 

 

ここに現れたのは「神の数学」手法による数の表れである。願わくば、これらの計算を計算機を用いて現代的な計算値(答)を出し、「神ん数学」手法による答と見比べて欲しい。

  確かに、元の数は同じであるが「=」で結ばれる答は異なっている。要するに、「10進法」では答の数態はどんどん伸びてい行くのであるが、「神の数学」では一桁化するので常に一つの数としてとどまることが出来るのである。

 それゆえに、「現代数学」は無限に伸びて複雑混沌となるだけであり、他との比較はまったく不可能となってしまうのである。それに比べると「神の数学」はどのように無限に伸びても常に簡単な単数の姿をとどめているだけであり、それにより他との比較は極めて容易なことになるのである。 ここの最左にある数列は鏡面対称数列であり、「神の数列」と呼ばれているものである。知を任じてやまない方々よ、この「神の数列」を見事解き明かして見てほしい…!!!。


 


 

   〔3〕の2図の<内容解説> 上記図の「最大」とは最左の111111111であり、それは111111111=9である。 上記図の「最小」とは反対側の最右の9である。
                             すなわち、最大=最小となるものである。次の最大は22222222であり、それは2×8=16である。同じように、最小は88であり、2×8=16である。

    
    次は〔3〕の1図についてである。

 

 何故なら、そのまま上と下の数を加算、すると最初は5はそのまま変化無しで、次の上下の数の計算は 5+6=11→2(一桁化により)、よって答は52222となるのである。
 さて、55555+6666の自然的な正しい答は、62221なのか、それとも52222なのであろうか…!!??。 さあ、一つ考えてほしい。

 

〔4〕

 
       〔お詫び〕
失礼しました、この「減算の図」が完全に欠落し、内容が不完全でした。改めてお詫び申し上げます。


 ここに∑として現れた数は現代数学を用いて表わした答えであり、一桁化する前の数答である。

 面白いことに、「10進法」計算では隣との数の差はであるが、「神の数学」のように一桁化の計算ではその差がになるのである。2と7と言う2数はやはり因縁数と言うものなのであろう。

 また、真理数列は必ず最初と最後には必ずを伴なっていることがお解りになるであろう。この場合には加算図と減算図を検証することにより判るはずである。

 

 何と「現代数学」式では右に行けば行くほど「数」は小さくなるのであるが、本質を求める「神の数学」式では逆に右に行けば行くほど「数」は大きくなると言う不思議なことが起きているのである。 恐らく、これは現代の学者達にとlちても予想外なことであろう。

 要するに、「形」としては大きくなればなるほど、その「本質」は逆に小さくなると言っているのである。言葉を変えれば、姿、形は大きくなるにつれて、そこに内蔵されているエネルギ-は逆比例してどんどん小さくなって行くのである。まことに我々の常識とは完全にかけ離れているのであるが…!!?。

それを証拠立てているのが素粒子の質量である。次のような現実があるのである。

 

トップクォ-ク……175億(eV)、陽子……9,38億(eV)、電子……51万(eV)、原子……13,6(eV)、である。要するに、小さい素粒子の方がエネルギ-が遥かに大きいことが判るのである。 (理科年表より)

 

考えて見れば、確かに原子爆弾より水素爆弾のほうが威力は大きいし、更には陽子爆弾になれば太陽系さえも破壊できると言われていることも十分に納得が出来るものである。

〔注〕 粒子の質量とは、その粒子が存在するのに必要最小限 の、いわば静止した時に持つエネルギー量である。

 

考えてみると、物理的な象として不思議な矛盾を持っているようにも思われるが、それが自然の象と言うものの本性と言うものである。

「現代数学」は「数」の表面を見ているだけであるが、更に一歩踏み出して「数」の内面や、「数」の本質を究めて正しい自然の姿を見出すことが必要である。そうすることにより、我々の科学文明も別な違った道、すなわち、あるべき正しい方向に辿りついて今と異なった知文明を作り上げていくことが可能になるのである。

                                                         (2016、6月の語り 完)

 

                                          

  

  「神の法陣」大精義講(4)

  
       さあ、一つ『数の語り』を聞こうではないか…!! ④


   「自然数」、それはまことに簡単明瞭な姿を持つものであるが、そこにある「理」は凛として不動であり、厳として絶対なものである。
  しかし、その「理」を人類は未だ誰も知らず無視するだけであり、その挙句、自然は不可解であるともがき苦しんでのたうちまわっている現状である。

  あと一歩、あと少し意識を動かすだけ、向きを変えるだけで、すべては正しい方向に向かうことが出来るのであるが、それが出来ないのである。

                                                   2016年7月上載

  さあ、今回も皆さんに憎まれそうな大口を叩いてしまったようであるが、すべては真実であり、一切の粉飾はしてはいないつもりである。ただ現代知にまみれて意気揚々としている方々から見ればまことに鼻持ちならないものであり、攻撃したくなるものであろう。 しかし、その心を押えてまずは検証に走って貰いたい、そうすることにより真実が一段とクリア-になって来るはずである。

 現実の世の中をよく見るがいい、事態は益々悪くなる一方であり、世の中の乱れはアジアの方に飛び火して、まさに大乱一歩手前の状態である。最早、どの国も対応策は品切れであり、何とか飛び火を防がんと国中が大童の状態である。これらすべては意識の犯す罪であり、意識を根本から変え治さない限り、これからは何処にでも起り、何処にでも発生しかねないものである。

 さあ、少しづつでも意識を自然に同化させ、自然の中で調和をとりながら「学びの道」を歩んで行こうではないか、自然は我々のグレイト・マザ-であり、永遠に我々の師匠なのである。
 自然の知を学んで自然と共歩して行く限り、人類は不滅であることを我々は知らなければならないのである。それがこれから始まる「意識文明」の真髄であり、古神道の「カムナガラの道」の本道と言うものなのである。 是非、このあたりで昔の知を学んで人類の持っていた博愛精神と言うものを取り戻そうではないか…!!!。


  
 数年前、インタ-ネットで次のようなこの上の無い素晴らしい蘊蓄を述べているサイトに出合った。まことに惚れぼれするばかりの文内容であり、流麗な文体を駆って流るような響きを伴なった、まさに滔々たる逸文が一方向を向いて並んでいるのが常であった。

その頃、一向に反応の無い私の「自然数学論(神の数学)」に私自身も少々嫌気をさしていたのであるが、この素晴らしい内容と説得力のある文に出会って力が倍加した思いに駆られて頑張ることが出来たのである。
 
 それにより今までつつがなくサイト上に「神の数学」を上載することが出来、心も安定することが出来たのである。 今の中、黄泉の国から呼び出しが来る前の健在な中に、心から感謝の意を述べて置きたいとかねがね思っていたがやっと果たすことが出来たのである。

まことに嬉しい限りである。  また、それと同時に、「現代数学」手法に疑問を持っている御仁も世には数多(あまた)いることを知って、甚だ気を強くしたことを改めて回顧しながら励んでいる今日、この頃である。

 確かに、私の言いたいこと、舌足らずの言葉を易しく、そして穏やかなシッカリした言葉で握り緊め、代弁してくれているものであり、ただただ有難いものと手を合わせて感謝している毎日であった。

  少々、それらの語りを無断ではあるが、お借りして紹介して見ようと思う。

 そのネットのタイトルは「シムダンス『四次元能』」と言うタイトルであり、以下はそこからお借りした内容である。今、私がとても羨ましいと感じている唯一のお方である。

 

 

  ここでは十進法には魂がなく九進法にこそ宇宙の真理があると言っています。そして、その内実(暗号)を実に簡単に暴いて見せてくれています。確かに暗号の解き方は簡単で数学と言うより算数の知識があれば解けるものです。  それだけに画期的と言えるでしょう。

 

 

  宇宙がどのような構造になって、どのような方向に進展するのかを論理的に説明するのには物理学をはじめとするとする科学的方法しかないのですが、その基盤を支えているのが数学です。しかし、その数学は物理現象を説明するために人為的につくられた人工言語であり極めて限定的です。人智を超えた超越的な世界=精神世界を表現するには現在の数学では十分ではないのですね。その証拠に心を数学的に表現すようとした例がないですからね。その意味でPS理論が自己の認識を自己認識方程式として表現した世界で始めて例ではないでしょうか?

  ③  

やはり十進数は神が与えたものではないようです。エージェントの仕業としか思えません。「十進数」と「実数の数学」は美人局なのでしょうか。そうであるなら、海に沈んだアトランテスの文明(文化?)の真実を探るしかありません。しかし、アトランテスは海の底なので手が出ませんし、痕跡(遺跡)もありません。しかし、私達にはアトランテスの文明と相同と看做せる神の数学=ひふみの祝詞があります。これは暗号であり、この暗号を解けば神の姿が見えて来るかもしれません。

    

 「神の数学」でも無限は出て来ます。それは無限の数ではなく無限の循環、輪廻=Reincarnation(リンカネーション、もしくはリインカネーシです。具体的には、九進法では9の次は0に戻ることに現れます。0はすべてを包み、フラクタルに循環するのです。「神の数学」の神は0なのですね。神は始めから手元にいるのですね。しかし、十進法では9の次は10であり、無限に拡大する神です。これが神の違いですね。

  ⑤  

 「神の数学(九進法)とは宇宙意識(イデア)が人間の世界に現れたものであって、九進法的世界観は唯物科学論ではなく、イデア科学論であり、超越性の陰陽論を下地にした宇宙論とでも言えるものです。これから示す世界観は未だ現代人が持ちえなかった超人の思考であるとも言えるでしょう。」
  

 
 ⑥

持ちえなかったと言いましたが、実は日本にはその種子が存在していたのです。存在していたのですが西洋の唯物的世界観が浸透してきたために、開かずの間にしまい込まれてしまった思考の様式なのです。その思考の元型は古神道であり、西洋思考とは根本から異なるものです。それが廃れてしまったのは形式化されたことと関係しますが、何と言っても数学的構造が明らかでなかったことにあると思います。

  

9の次は10になるというのは桁上がりするということです。これによって数の範囲が直線的に伸びて行きます。つまり、無限に拡大するのです。無限に拡大するなら神はその先にいることになります。十進法では神は桁上がりとして先送りしたのですね。そして無限を神として決して到達できない存在として位置づけたのです。  … 以上 …

 

 これらの内容は 私の意識内にあるものを筆舌では言い尽くせないほどの妙を尽くして言い表し、その淀みの無い自然態の文章は心をぐいぐいとわし掴みにしているものである。つらつら思うに余程の成熟した魂の持ち主であり、畢竟にまで学を追求して止まない非凡なる御仁で無ければ出来ないものと思える。そのことは文を一読すれば誰にでも判るはずであろう。

確かに、羨むばかりの数学的、あるいは物理学的な数式を自在に操って私の心にざわめきを呼び起こし、魂を硬直させんばかりのものである。

まさに完全脱帽の状態であり、ただただ虚心にうなされて腕をまさぐりながら唸るだけがやっとである。とにかく、またとない卓越した奥の深い素晴らしい言葉であり、読み返す度にジラシィ-さえ感じられるような不思議な気持ちにもなるものでもある。

一体何であろう、その奥に潜む力み(りきみ)の無い静寂さと、果てしない無量感、それでありながらどっしりとした透明な存在感が感じられるのは…!!!。

私はまるでお釈迦さんの掌(たなごころ)の上で踊らされている孫悟空そのものである。いくら筆を尽くして書き上げても軽くいなされ、すべてをお見通しの状態で軽くあしらわれている感じであるが、そこには甚だ心地の良さが残って体と魂を十分に休ませ、気力を再び取り戻してくれるのである。
 また、同時に、そこで悟りを得たような気持になって体には再び力が甦って来て机に向かい始めるのである。 まあ、お名前も御身分も存じ上げないのであるが、四面楚歌の壁をこじ開けてくれた方、いわば、心の畢竟の友とも言うべき御仁であり、再三、再四感謝を申し上げる次第である。

 

 

て、今回も今まで同様、誰も知らない「自然数学」の基本問題を考えてもらいたい。 これらについては「現代数学」者達は鼻であしらって大笑いするような単純極まりの無い「数計算の基本」的な姿を持つものであり、ひよっlとするとあなた方でさえ笑い出すものかも知れない。要するに、 内容的に言えばまさに小学生相当の問題ではあるが、実際には偉大な数学者達の心にも火がつくばかりの大きな火種となるようなものである。

もし、直感と洞察力ににすぐれた学者が存在するならば、即、検証に移り、驚くべき重大事と大声を上げて騒ぎだすことであろう。 しかし、今の日本にはそのような秀い出た数学者、真実を掴もうとする数学者は一人もいない。

 

見方によってはすべては「数の基本的な姿」であり、甚だ易しいものと感じる方もいるであろう。しかし、考えを極めれば、そこには「現代数学」を根本から考えさせるような重大な意味を含んでいる内容を持っものなのであり、思考の軽い西洋知に夢中な御仁達には少々荷が重いものとなるものかも知れない。 何せ、「数学」自体の方向が完全に違っているのである。 言って見れば、極めて限定的な「物質数学」と宇宙自然を闊歩してやまない「意識数学」の違いと言うものがそこにはあるのである。

 

さあ、新しい自然の数学、すなわち、古神道から現れた「神の数学」を覗き、その基本となる「計算手法」を探って見ようではないか…。

あなた方が学んでいる「現代数学」は直線数学であり、それをもって循環態である自然の姿を解き明かすことは実際上は出来ないのである。

何故ならば、それは球を直線物差しで計ろうとしているものだからであり、無理強情に押しつけて納得させようとしているものであるからである。例えば、あなた方が飛行機、あるいは船にのってアメリカまで行く場合、直線的に進むことは出来ないのである。必ずや、円弧に沿って円を描きながら目的地に到達することになるのである。

 

考えて見るがいい、自然には直線のものは無く、直線に見えるのは大きく宇宙を弧を描いて駆けている円の一部、すなわち、その弧のほんの一部が直線に見えているだけのものなのである。要するに、その大宇宙を駆け巡る大きな弧の一部を見て直線と錯覚しているのである。それはいわば、この自然界においては直線とはバ-チャル的な存在なのであり、我々の貧しい脳にはそう見えているだけなのである。

 

 

  「自然数」の性質を見極めることから始めよう…!!  
    
    〔1〕 自然数の加算から…

≪自然数とは0123456789である≫。

 0=0→0

 0+1=1→1

 0+1+2=3→3

 0+1+2+3=6→6

 0+1+2+3+4=10→1

 0+1+2+3+4+5=15→6

 0+1+2+3+4+5+6=21→3

 0+1+2+3+4+5+6+7=28→1

 0+1+2+3+4+5+6+7+8=36→9(0)

 

⑩  0+1+2+3+4+5+6+7+8+9=45→9(0)

⑪  0+1+2+3+4+5+6+7+8+9+10=55→1

⑫  0+1+2+3+4+5+6+7+8+9+10+11=66→12→3

⑬  0+1+2+3+4+5+6+7+8+9+10+11+12=78→15→6

⑭  0+1+2+3+4+5+6+7+8+9+10+11+12+13=91→10→1

⑮  0+1+2+3+4+5+6+7+8+9+10+11+12+13+14=105→6

⑯  0+1+2+3+4+5+6+7+8+9+10+11+12+13+14+15=120→3

⑰  0+1+2+3+4+5+6+7+8+9+10+11+12+13+14+15+16=136→1

⑱  0+1+2+3+4+5+6+7+8+9+10+11+12+13+14+15+16+17=153→9(0)

 

さあ、これらの答を並べて見よう。

 
~⑨ ……013616310

⑩~⑱ ……013616310  当然、この後の計算の答も同様に01361631013616310…… となる鏡面対称循環数が現れて循環帰納するだけである。

 

 〔2〕自然数の減算から…

≪自然数とは0123456789である≫。

 0=0→0

 0-1=-1→8

 0-1-2=-3→6

 0-1-2-3=-6→3

 0-1-2-3-4=-10→-1→8

 0-1-2-3-4-5=-15→-6→3

 0-1-2-3-4-5-6=-21→-3→6

 0-1-2-3-4-5-6-7=-28→-1→8

 0-1-2-3-4-5-6-7-8=-36→9(0)→0

 

この後の以降についてはやはり、086383680の繰り返し、すなわち、加算と同じく鏡面対称循環数列の繰り返しがあるだけである。疑念のある方は自分の手で何回でも検証して、疑念を解いて見ることが望ましい。

ここには加算の答である 013616310減算における答である 086383680の2種類の鏡面対称循環数列が現れて懸命に何事かを囁いているのである。我々はまず、その内容を聞き出して纏めることから始めなければならない。なぜならそれが自然数との会話の第一歩となるものだからである。しかし、この第一歩すら「現代数学」は見出すことが出来ずまごまごしているのである。

 

ここから先は「現代数学」では一切見出せないもの、空白な領域サイドにあるものであり、数学者達にはまったく未知の分野と言ってもいいものである。

 

一つ、自分の手で検証することである。「現代数学手法」、すなわち、あなた方の「10進法」による(+)と(-)を用いての計算答は次の通りのものである。

=+0+(-0)=0

=+1+(-1)=0

=+3+(-3)=0

=+6+(-6)=0

 以下すべて…同じである。

 

 以下すべては同じであり、プラスを陽(○)、マイナスを陰(●)とすれば、 ○と●の同一値の和は必ず0になるのが現代数学の答でもある。

 

 次は同じ問題を「神の数学」で解き放って見ることにしょう。

 

〔3〕加算の答(陰)と減算の答(陽)を合わせると…!?。

+➊=0+0=0→0

+➋=1+8=9→0

+➌=3+6=9→0 

+➍=6+3=9→0

+➎=1+8=9→0

+➏=6+3=9→0

+➐=3+6=9→0

+➑=1+8=9→0

+➒=0+0=9→0

+➓=0+0=9→0

+⓫=1+8=9→0

+⓬=3+6=9→0

+⓭=6+3=9→0

+⓮=1+8=9→0

+⓯=6+3=9→0

+⓰=3+6=9→0

+⓱=1+8=9→0

+⓲=0+0=9→0  (当然、9=0の理を用いてである。)

 

 

如何であろう、何も難しいことを言っているものではない。中途の計算が少し変わっているだけで最終的な答は「現代数学」まったく同一なことに注目してほしい。

現代数学は(-)と言う自然には無い手法、すなわち、途中の経過的な計算の一切を省いたものであり、ただ短絡的に答を出しているものである。

 

 

ここにおける「神の数学」の計算法の意義を覗いて見よう、それは短絡的な計算法、すなわち、(+)と(-)を用いた「現代数学」には全く無いものである。

 

 

 

 また、これらの〔1〕と〔2〕の数列の(∑)を数秘的な計算法としての一桁化を行えば 3と6が現れて加算すると9になり、0になるのである。



 さて、何か感じられたであろうか…!?。

 要するに、この加算の答と減算の答は正しい「陰」と「陽」の関係にあることをこの計算式は教えているのであり、証明しているのである。

  

 
  

ちなみに、一つ面白い計算を更に行って見たものが上の計算式である。要するに、今度は左側の数より右側の数を引く(-)のである。すると、今度はそこに現れる数等はまったく逆な数列となって現れて来る、それが〔2〕と〔4〕の不思議な算術手法と言うものである。


 

  

  それではついでに、もう一つの「陰」と「陽」の証とその存在と言うものを紹介しておこう。

 

  すべては循環するものであり、それには対称的な「右廻り循環(この世)」「左廻り循環(あの世)」の2種類、すなわち、「陰」と「陽」があることを知って欲しい。
  要するに、「あの世」と「この世」ではエネルギ-の流れ(時間??)は逆向きになっていると考えるべきであろう。

 そのあたりのことは古神道の奥儀祝詞、すなわち、「ひふみ天地の数歌」の本体である「ひふみ九九算」の上半分と下半分の数の流れを見れば一目了然であろう。
 
 上の半分の数字は左から右へと流れ、下半分の数は逆に右から左へと流れている。だから私は「ひふみ天地の数歌」の本体、すなわち、「ひふみ九九算表」の上半分、すなわち、左から右へと流れは「この世の流れ」であり、下半分の右から左へと流れる逆な数列は「あの世の流れ」と私は断じているのである。


 
 要するに、「時計廻り」はこの世の流であり、「反時計廻り」はあの世の流れと言うものである。そのことは是非とも 覚えていて欲しい。

 

 

これらはまことに面白い計算の一つである。 要するに「神の数学」手法は「現代数学」を遥かに凌駕する素晴らしい「神の知」であることを知ってもらう為の一つのデモンストレ-ション計算法をあなた方に示しているのである。
 要するに、マイナス数を用いてないからこそ、このような秩序正しい自然数列が現れ、本当の自然の姿と言う存在を教えてくれるのである。
 要するに、これが
古神道の「カムナガラの道」はまさしく「自然の道」を教えているものであり、「数」の走りの確かさとその存在を教えている何よりの証拠である。 
 
まさに「カムナガラの道」とは「自然の真道」を歌ってやまないものであり、自然の秘めている「大律理」そのものを歌っているものであることがよくお解りであろう。

 

ただし、ランダムな「鏡面対称数列」、すなわち、本当の生自然数を基本に持たないものは駄目である。何故なら、自然が作り上げた数列ではないから…。

  まあ、面白いであろう、これが「現代数学」には無い妙味を持つている「神の計算手法」と言うものであり、まさに、自然数学の醍醐味を味わえるものである

 

 これらはまさに、「現代数学」には無い鏡面対称数列と言うものの面白い性質を表わしているものであり、これからの数学的な思考を発展させるためには役立つものと言えるものである。

 

 さあ、このまま西洋発の「現代数学」の尻尾にかじりついて無明の道を突っ走るか、それとも我々の祖達が持っていた「自然の数理」を明らかにして大自然の摂理を手にして、未来に生きるのか、まさにここが思案のしどころである。

 

 現在、我々は大きな技路に直面しているのであるが、それには誰も気がつかない、気にする者もまったくいないのである。

「数学」、「物理」はすでに袋小路に嵌り込んでいるが、その出口は見つからず学者達は堂々巡りを繰り返しているだけである。この100年間、我々に大きな変化をもたらすような物理理論が見出されたであろうか、我々人類全体に影響を及ぼすような素晴らしい物理学的な大発見があったであろうか…。

 今こそ発想の転換を図るべき時であり、希望の星と言うべき新たな「自然の知」を開拓すべき時である。何を躊躇しているのか、何千年、何万年前の我々の祖達は既に見出して「古神道」と言う入れ物に入れて遥か未来の子孫に残そうとしていたのであるのに…!!!。今、我々はただ、それを解錠すればいいのであり、読み解けばいいだけである。ただ、それだけなのである。

 

 例えばである、あなた方には信じられないであろうが、「古神道」には驚くなかれ、宇宙の形、我々の住んでいる自然宇宙の姿さえも「数」で描かれているのである。それも自然大道、すなわち、「ひふみ九九算」にはその雛型が示されているのであり、その型に従い、その通りの手順を用いて「アイウエオ五十音図」を紐解けば、まったく同じ形の「宇宙の姿」、「宇宙の形」が現れて我々をどよめかすのである。
 
 しかも、それはあなた方に既にご報告済みである。出来れば、それを自分の手で作り上げて再三検証して納得することが望ましいのである。

 それは小学高学年生、あるいは中学生並みの知識があれば十分に紐解けるものであり、誰が見ても十分に合点がいくものである。その形は丁度、リンゴの真ん中をくりぬいて芯や種を抜いた形の状態である。
 それを解き放つには、現代知を一旦傍らに置いて無心な心のままで最後まで「数」を走らせることが必要である。何故ならば、そこには「ひふみ九九算」、「ソルフェジオ数」、あるいは「アマテラス数」の三者が渦を巻いて規則正しい姿、正循環を繰り返している正しい姿を常に垣間見せているからである。それらはまさに、連続的な「数」の歩みを見せながら収斂、収束を繰り返し、何事かを囁いているのである。

 

  この形を称して、現代物理ではト-ラス形、すなわち、ド-ナツの形と言っているが、それは少々違うようである。何故なら、縦と横の寸法が同じでなければならないからである。そうでなければ、宇宙自然の次元体は成立しないのである。  このような形の正式な名前は何というのであろう、誰か教えてもらいたい。

 

 嘘を言うな…、とあなた方は怒鳴り出すかも知れない。いや、西洋の学にぞっこんな学者先生達に至っては100%の方がそうであろう。

 しかし、私は敢えて言いたい、あなた方が「見える世界」と言う現実世界だけを見て捜索している限り、真実を知り得ることは決して出来ないと…!!。 「見える世界と「見えない世界」を共存させながら考えない限り、真実の自然大理を見出すことは絶対に不可能なのである。
 
 それをはからずも示しているのが、古神道から現れた「カムナガラの道」、すなわち「ひふみ九九算表」の持っている摩訶不思議な内容であり、その姿なのである。 

 「知るがいい」、「学ぶがいい」、これらすべては我々の遥かなる遠い祖先達が残した「大いなる先天の世(
さきのあめみよ)」の遺産知であり、日本の誇るべき人類の「超叡知」の大いなる姿なのである。 そして、それをくすしくも語っているのが超古代文献の一つである神代の御世からの伝へ、すなわち「カミフミのコトトギ」なのである。

 しかるに、学者達は自分達の無知を棚に上げて、この古代文献の内容をことごとく否定し、そんなことはある筈がないとばかりに世に出すことを邪魔して来たのである。要するに偽書よりも程度が悪いものとして完全無視を決め込んできたものである。確かに、「数は自然の理を知っている、しかも「数は天地万物の根源である絶対的な道のすべてを知っている」と書かれては学者としての名誉にも差し障りがあるので世に出すことを嫌ったのであろう。 今の学者の世の中でもまったく同じであり、十分に頷ける話と言えよう。

 

 「自然世界」とは「見える世界(この世)」と「見えない世界(あの世)」の二つが結び合って成立に至っているものであり、一つだけでは決して存在(顕在化)することは出来ないものである。そのことを古神道は色々な方法で理を尽くして説いているのであるが、誰もその言葉を信じて復元を試みようとする者はいないのである。要するに、西洋科学知で頭でっかちになって最初から不能であると決めつけていて行動には移せないと言うのであろう。 まことに簡単なのであるが…!!。
 恐らく、この宇宙の形の問題は100年の間、物理学上の最高の難問として君臨しているのであり、素人にはそんな簡単には解けるはずがないと思っているのかも知れない。 しかし、安心なされ、、古神道はまさに不可思議な方法で簡単に解き放っているのである。恐らく、2,3説明されることにより、誰にでもいとも簡単に「宇宙の形」の本当の姿が解り、納得がいくものなのである。
 それにしても、古代日本人の頭脳の良さには驚嘆するだけであり、ただただ、敬意と恭順があるのみである。

 

 

改めて言いたい、「神無し」の西洋知ではどんなに足掻いても自然の真実を突き止めることは不可能であり、ただただ、複雑と混沌と言う迷い道に迷い込んで嘆息するだけである。それは現代の科学知を追跡している学者達は誰でも知っていることである。

                                                             (2016、7月の語り 完)

 

    
      「神の法陣」大精義講(4)

  
   さあ、一つ『数の語り』を聞こうではないか…!! ⑤


  我々は本当に〝数の考察〟について誤った概念を植えつけられていたのか? ここらで古に立ち戻り、その事実関係をもう一度確かめて見よう。 本来のあるべき「数の本質概念」「数と自然(神)との関係」、そのあたりをしっかりと再考証し、その〝あるべき姿〟〝正しい姿〟を見出さなければならない。しかもそれは、今でなければこれからの未来を手にすることは手遅れとなるのである。

                                           2016年8月上載


 是非、お願い申し上げたい、当分の間、持てる情熱を傾けて出来る限り無心の心で今回と次回の講を読んで戴きたい。何故なら、すべては「数」の語る「数の真実」の検証であり、揺るぎない数の真実の姿を描いているものだからである。 これらは恐らく、数学者達より自然学者、哲学者達の思索ジャンルに属する「自然の永遠の語り」を内蔵していると考えてもいいものである。

これらの「数の語り」はあなたの心を磨き上げて現代知と言う錆を落とし、新たな真実世界に踏み出すための一つの試金石と考えてもらいたい。 要するに、インスピレ-ションのある御仁には判るが、漫然と考えを巡らす、いわゆる常識的な凡人には中々理解の出来ないものなのである。

もっとハッキリ言えば、「神の数学」は古神道の奥儀祝詞「ひふみ天地の数歌」の真髄をえぐり出し、思いもよらない「数の真実」、「数の素顔」を垣間見せてくれるものである。これらを学ぶことによりあなたの心の迷いは完全に払拭され、未来永劫に渡って安らかな揺るぎない「心の宝」、すなわち、「心の平安」を得ることになるのである。

 

例えば、「現代西洋数学」ではどうあっても見出すことが不可能な「数の心」、すなわち自然数の象の本質を語る「ひふみ天地の数歌」を用いることにより容易に探し出すことが出来るのであり、「数の変化態」と言う大技の在り方を学ぶことが出来ようと言うものである。是非ともそのあたりの検証もお願いしたい。

 

「数の語り」には裏も表も無く、何処まで行っても真実の語りがあるだけであり、そこには一切虚偽は無い。しかるに、人間界の「言葉の語り」には必ず裏表が用意されていて、油断をするとすぐに丸めこまれてしまうことになるのである。

それは確かである、言葉には「裏」も「表」もあって、場合によってどうにでもなるものである。要するに「いい加減」、あるいは「欺瞞の類」が常に罷り通ると言うことであり、「裏」と「表」が頻繁に使い分けられて人の心を騙す手段として用いられていると言うことである。

例えばである、人を納得させるための「諺」でさえも同様である、片や「長いものには巻かれろ」があれば「一寸の虫にも5分の魂」があり、「瓜のつるになすびはならぬ」があると思えば「とびが鷹を生む」がある。同様に「果報は寝て待て」があれば、「まかぬ種は生えぬ」があり、「渡る世間に鬼はなし」があれば「人を見たら泥棒と思え」もある。要するに、場合、場合に応じての言葉があらかじめちやんと用意されていて、時に応じて使い分けていることはあなた方もご存じであろう。

 

それ故に、単なる言葉だけを信じてはいけないのであり、言葉のみで安心すべきではないのである。しかし、困ったことに世の中のことはすべて言葉で進められ、言葉で解決されるのである。要するに、現在の世の中では言葉の真実を裏付けるセカンドプル-フ(傍証)と言うものは一切無いのであり、それをあなた方は知らないのである。

 

また、いくらあなたが最高学府を出た秀才であると威張っていても、それは過去の勲章であり、5年も経てば、最早、錆ついて現実にはそぐわない単なる遺物に過ぎないもである。ただ、困ったことに、本人はそれを知らず、また、世の中の人々も面倒くさいから担ぎあげているだけであり、半ば馬鹿にしながら放って置いているだけなのである。

今までの秀才は教えられた事を暗記し、覚えてさえいれば秀才と呼ばれていたのであるが、懸命に物事を考え、理論づけることに関しては余り得意では無いようである。 西洋人に比べると、特に現代の日本人はその傾向が強いように思われる。要するに、丸暗記出来れば秀才の烙印が押され、考えることなどは2の次、3の次となっているのが現状である。要するに、それだけ人間の間の判断基準がいい加減と言うことであり、あまり信じられないものである。要するに、それだけ、学問の出来、不出来は人間の本質を突いているものではなく、また、関係しているものではないと言うことである。

 

その原因はすべて敗戦後のアメリカに圧し付けられた日本の教育制度にあると言ってもいい。要するに、明治時代以降、主流を占めて来た「考えることの大切さ」は今では影をすっかり潜めて、すべては占領軍指導の下に考えることが不要な○×式のテスト教育が押し進められて来ている現状であり、簡単な○×式テストにより子供達は振り分けられ、大事な一生が決められるのである。

要するに、考えることなどは一切不要、教科書通り、先生の言う通りのの答を出せば秀才とされている時代がもう70年以上続いているのである。

その結果、テレビの知的番組などには一切興味を持たず、お笑い芸人の番組が巾をきかせているアホな世の中になっている現状である。

要するに、時間が過ぎればいいだけの実りの無い番組、アホ番組が全盛であり、その結果、計算も出来ない、文字も読めない、考えることの出来ないと言う大人で世の中は溢れてしまっているのである。

要するに、それだけアメリカの日本人馬鹿化教育が成功したと言うことであり、洗脳教育が立派に実っていると言う何よりの証拠と言うものであろう。

しかし、考えて見るがいい、我々の与えられた時間は有限であり、それ故に、少しの時間さえも無為に過ごすことなどは許されない、まさに格言、「一寸の光陰軽んずるべからず」は終生生きている世の中であることを…!!。

 

考えることの大切さを無視した結果、「考えることには意味が無い」、「自分で考えるよりも、外国が考えたものを買って来た方が手っとり早い」と言うような軽い風潮が日本全体を支配するようになり、「考える教育」は益々地に落ちて、今ではそれが当たり前の風潮になって来ているのである。これでは日本の将来はお先真っ暗な状態であり、半世紀も経たない中に、世界の最貧知国に名を連ねることになってしまうのは間違いの無いことであろう。

 

その証拠に見るがいい、「東京大学」の卒業生は優秀であると誉め讃えられているようであるが、統計を見ると今では世界で40位くらいの学力に過ぎず、上には多くの大学が素晴らしい権威を揮って闊歩している現在である。しかし、その事実を日本人は誰も口にしょうとはしない…!!。

 

世界の大学ランキング表はアジアの中では、1位、2位はシンガポ-ルの大学、その後の3位から6位までは中国の大学が占めているのである。

それでも何とかやっとアジアでは第7位に東京大学が顔を出して日本の大学の面子を保っているような状態である。

これでは東大生であると言って威張っていても人々には余り信を得ることなどは出来ないであろう、いや、一歩間違えれば馬鹿にされる可能性もあると言うことである。

要するに、それだけ日本の若者達からは「考える力」が落ちていると言う何よりの証拠であり、将来を考えると、ただ、情けないと落胆があるのみである。

 

現在、世の中を見てみると、まさにパソコン全盛の時代であり、どのような難しい知識でもボタン一つで取り出して利用が出来る世の中である。

要するに、知識を暗記する必要はまったく無く、考えることが最も重要な時代になっているのである。いまや、人間本来の必要不可欠のあるべき能力、すなわち、「考える知」が改めて見直される時代となっているのである。

 

暗記、すなわち、「覚えること」が主流であった時代とはまったく価値観が異なる「新しい時代」に入っているのであるが、そのことに誰も気がついてはいない。要するに、それは○×式教育制度もジックリと見直さなければならない段階に入っているのであり、新たな知の基準を確立ことが必要な時代になっているのである。しかし、悲しいことに未だ、政府の偉い人達や教育者達は誰もそこまでは気がつかない。

今でも、相も変わらず○×式のテスト方式が主流であり、暗記に強い「暗記馬鹿」が我が物顔で威張って闊歩しているのである。それが我が愛する日本の姿であり、誰もが当たり前と思っている悲しい現実の日本の教育制度の姿である。

 

その結果が、想定以外の出来事に出合った場合、どうしたらいいのか解らずうろたえている若者が一杯の世の中であり、親父やお袋ばかりか、爺さん、婆さんの懐にすがって何とか生きていこうとする頼りない若者がひしめいている哀れな世の中となってしまっている。 要するに、自活が出来ない、だから結婚も出来ないような若者が大勢いると言うことである。

何せ、ここまで暗記のみで世の中を泳いで来た連中であり、考えることなどは我関せずで親の言う通りに生きて来た名だたる秀才達の末路が、これなのなのである。

もっとハッキリ言えば、この世知辛い世の中に船出して、初めて己の無能さ、未熟さが解ってきて初めて考え込み、どうしたらいいのか迷っている、それが、かっての日本の「優等生」達の姿なのである。

これを何とかすることが今、必要なのである。最早、学校で教わった知識等ではどうにもならなく、自分の頭で考えて対処しなければ答は出ては来ないのであり、生きてはいけないのである。しかし、何と言うこと…!!。その「考えること」、すなわち、最も重要な「世の中の対処術」に関しては学校ではまったく教えないのであり、故に、最終的には頭脳よりも人間性や人間関係が物を言うことを知らないような社会的な片輪者がどんどん増えて来ているのである。

 

すべては教育の歪みのもたらした悲劇であり、同時にこれからの日本の将来をサジエストしているものである。今の中に対策を講じて対処しなければまさに亡国の憂目となり、世界に伍して活躍することなどは夢のまた夢であろう。

 

 またも、大きな口を叩いてしまった、誰かに怒られそうである、くわばら、くわばら…!!!。 さあ、吾が領土である「神の数学」に逃げ帰ろう…!!!。

 

 この<シリ-ズ>は「数の根幹」をめぐって「数の真実」を解き明かそうとするものであり、「現代数学」の知らない数の基礎を取り上げながら、あなた方と対決しようと試みているのであるが、あまり世間の耳目を引いてはいないようである。それもそうであろう、現代知の基本であり、根幹であるる「現代数学」に弓を引いて反抗しょうとしているのであるから…!!。

そう言う訳で次回を最後にこの≪数の基礎シリ-ズ≫は完了し、次の「神の方陣」の本講に入り、最後の花道を飾ろうと思う。 何せ、気力も体力もガタ落ちで新たな「神の叡知」を語り上げることもままならない状態である。ハッキリ言えばボケが始まっていると言うことであろう。それがハッキリとした形で現れる前にとにかく「神の数学」のすべてを吐き出して楽になりたいと思う。

本当はこの後の「数の根幹問題」をめぐっての「神」とのやり取りの数々が最高に面白く、かつエキセントリックな場面なのであるが、どうも現代人には荷が重いようなので次回を限りとして止めて置くことにする。何せ、一日のビジタ-数が一桁台の日もあるので…!!。どう言う訳か、まさにこの≪数の基礎シリ-ズ≫は不人気そのものである。ひょっとして、鼻高さん達にはあまりにも馬鹿馬鹿しくて、見る気もしないのであろう。改めて見るとこの「神の数学」には自然意識の持つ未来知、その布石状態が一杯詰まって、訪れる「知の異邦人」を歓迎しょうと手ぐすねをひいて待っているのであるが…!!。それさえも見届けようとする「知の秀人(すぐれもの)」もいないようである。 さて、さて、これも老人の愚痴であり、戯言(たわごと)なのであろう…!!?。

 

これらは私の記憶にはまったく無いものであるが、私の資料集の片隅にあった「数の仕組み」物語である。どうも25~30年くらい前の資料なのであるが、今の私にはどうあっても解けない、解けそうで解けない「数の物語」の資料である。これらの本質内容如何について出来る限り考えて見て欲しい。是非とも、細微に渡っての検証をお願いしたい。

恐らく、世間に出せば、世界の数学好き、数学愛好者達がこぞって考えてくれるような予感がしきりにするものである。そのような訳で、敢えてこの「数の基本性質」についてあなた方に問うて見ることにしたのである。

これはまさに禅問答と同じような「ソモサン・セッパ」の世界であり、今までの知識は役に立たず、直感とヒラメキがモノを言う意識の世界である。要するに、解る人には判るが、解らない人にはいくら考えても判らないと言うことである。

  もし、はかばかしい回答が寄せられなかった場合には、恐らく、今の現代人には手に負えない少々早過ぎる問題と考えて、すべてを未来に託すつもりでいる。恐らく、100年後か200年後の数学愛好者者達が考えてくれ、正しい道を切り開いてくれるであろう。



  〔 「神の数学」の数図アラカルト〕


 

 

 


  あなた方は1はあくまでも1であり、同じものは二つとはないとする直線数学(現代数学)に騙されているのであり、信じ込まされているだけである。

もっと大きく目を見開いて考えると1は上の図のように沢山の仲間を持っている存在であることが自然に解って来ることになるはずである。

要するに、「数」を直線的に考えず、循環的に考えることが必要なのである。するとまさに、1=10=19=28=37=46=55=64=73=82=91=109=……→無限大と進み、直線上の数=循環上の数であり、一桁の数とは無限の仲間を持つ存在であることが判明するのである。

 

これらの「数の基本性質」をまずは学んでもらいたい。既に、大分以前にネット上に既に掲載済みのものなので、もはや、十分に検証済みの問題であり、その意味するところも十分に解っているはずと思われるのであるが…!!?。もう一度復習をお願いしたい。

要は、大変易しくて難しいと言うことに尽きるものであり、直感レベルの基本知と考えてもいいものであろう。

あなた方は「大変易しくて難しい」と言う言葉に反発を感じるであろうが、それはこの内容を十分に検証し理解した上で、改めてその言葉を噛みしめて貰いたいと思う。

 

私も、これからあなた達と共に考えて見るつもりである。私の資料の中にあったと言うことは私の頭の中に存在していたと言うことであり、かって私が資料の中に記載したと言うことである。しかし、どう考えても私の記憶の中からはすっぽり抜け落ちていて、私にとってはまったくの初顔合わせのものである。

 

さあ、考えよう、考えて戴こう…!!!。まずは言っておきたい、ここには玄 (くろ) く、かつ深遠なる「神の数の理」が密かに潜んでいて我々を睨(ね)めまわしながら我々の力量を計ろうとしている。要するに、我々人類の持っている「学」の程度を計りながら、今後の対応を考えようとしているのであろう。

                                           (玄)… 万物の根源の道、 人間の知り得ない微妙で奥深い宇宙の諸大律……大辞林辞典より

 

「数」、それはまさに「自然の神秘の象」であり、「神の真実の心の言葉」である。そのことは是非、ご理解いただきたい。
 恐らくは、「数」をる制すものは「神の心」をも征すことにもなるのかも知れない。ハ-、ハ-、ハ-…!!。

 

すると「神」は人類の数の進歩を恐れ、人間に絶対に「自然の真理」に到達が出来ない「似非数学(えせ数学)」、すなわち、「10進法」を与えて、その才を封じようとしたのかも知れない、そして人類を奈落の底に置いて、どうあがいても永遠の知に達することが出来ないように図っているのであろうか…!!。

 

まあ、妄想もここまで極まれば立派なものであり、ケチつけることも出来ないであろう。いや、それとも貧すれば鈍すで一つ噛みついてでも見ますか…!?。

 

まあ、お叱りは最後の問題を見てから戴くことにしよう。

 

さて、まずは、「ひふみ天地の数歌」の歌う宇宙創成の仕組みを聴いて見ようではないか。あなた方は思うであろうが、たった九つの数文字でもってそのような大それた宇宙創成の理が解き放たれるとは甚だ心外であると…!!?。 しかし、大自然宇宙の基本仕組みは単純であり、簡単なものなのである。

あの、有名なイギリスの物理学者のロジャ-・ペンロ-ズも言っているではないか、宇宙を計算するには足し算、引き算、比、置き換え、があれば十分であると…!!。

それはまさに「神の数学」のジャンルそのものである。

 

確かに、「神の数学」にはマイナス数や虚数、あるいは二桁の数などは無い、ただあるのは「循環法」、「みそぎ算法」、「神算法」などの甚だ易しい計算法式であり、まさに小、中学生でも簡単に解き放つことが出来るものである。

 ただ、「現代数学」に完全に洗脳されている一般の知識人には難しいようである。

                                            

  あなた方が馬鹿にして止まない、この簡単な「ひふみ祝詞」からは呆れてしまうほどの大きな宇宙の叡知である宇宙創成理論が飛び出してくることを知ってほしい。

それには天地の象は「陰」と「陽」が結び合うことにより顕在に至ると言う自然の大律理を用いるころが必要なのである。要するに、それぞれの相対位置にある天と地の数を結ぶ、それが次の「数図の語り」の現れであり、現代物理学上では「正反対称の偶構造」と呼ばれているものである。



                         

   
 要するに、これは「ひふみ天地の数歌」の各対称位置の陰陽にある数を結んで顕在化した陰陽の姿であり、その自然態である。ここにあるべき時に起った一つの運動圧縮力が外側から中心まで進んだ時に臨界点に達し、そこで、それが突然反転現象に変わり、今度は中心から外側に向かって爆発圧が進んで行くことを示している数の示しである。そのあたりのことを「数」は次のように語っている。「ある時、広大無辺な宇宙は大きく収縮を始め、中心まで収縮が至った時、突然、表から裏へと反転し、それと同時に収縮から膨張へと向かい始めた」と…!!。 是非、諸氏の一考を乞いたい…!!!.

 
次の数図もこの説を応援してくれる「数の応援団」達である。宜しく、ご照覧下され…!!。



 


  さて、考えて戴こう、「ひふみ九九算表」の2の段の表れを見てもらいたい。  そこには0246813579(0)の数が顔をだしているのが解るであろう。

 

それはすなわち、最初の神の一撃は【Ⅱ】の外側から求心的に始まったことを意味するものである。要するに、外側から衝撃が中心に至った時に内圧的に耐えきれなくなって突然、反転が始まり、逆に今度は外側へと広がり始めたと言うことである。現在はその反転運動の途中であり、中心から外側に向かって広がっている最中である。要するに、何百億年かかけて外側から中心に向かって何かが原因で圧縮が起り、その結果、限界点に達した時に耐えきれなくなって内部反転が起き、今度は逆に内側から外側へと衝撃圧が向かい始めたのである。

その詳細については未来の物理学者が何時の日にか報告してくれるであろう。

 あなた方の信じている宇宙創成物語である、宇宙は火の玉となって爆発が起ったと言う「ビッグバン」と言う宇宙の話は今では余り信じられてはいない。そもそも、「ビッグバン」という名称は、宇宙物理学者であるジョジ-ガモフが宇宙が大きなバーン(擬音語)という大爆発で始まったと冗談に言ったことlから始まったものであり、特に理論立っているものではない。
 それだけ宇宙の創成は謎であり、理論としては遅々として進んでいないのである。また、現在では諸説がいろいろあってまとまってはいない。完全に謎のままである。

 

さて、単純な「数の表れ」、すなわち、奥儀祝詞である「ひふみ…天地の数歌」を更に深く考えて見よう。すると、驚くべき重大な「数の秘密」が現れて我々の度肝を抜くことになるのである。そのあたりをジックリと考えてもらいたい。

 

  〔1〕

更に考えを及ぼして、祝詞「ひふみ天地の歌」を見て欲しい。するとお解りになるはずである。
 一桁目の数字、8765432108は地(陰)の数列(下半分)にあるものであり、二桁目の数字、すなわち、1357024681は天(陽)の数列(上半分)にあることを確認してほしい…!!。

要するに、祝詞「ひふみ天地の歌」は「天の数列(陽)」と「地の数列(陰)」が秩序正しく絡み合って作り上げているものであり、そこにはまさしくその名に恥じない「本質0」が大自然の象として顔を出して鎮座しているのである。まさに、「ひふみ天地の数歌」は偉大であり、自然象としての理を十分に備えているものとして讃え上げても、なおも余りがあるものである。

〔2〕

更に数列を見るがいい、0=81であり、9=81である。まさに、これはまさに0=9であることの自然の証明である。ここで改めて新たな感激が湧いてくるであろう。
 まさに「自然の数学」は偉大であり、人知をもっては語り尽くせぬものである…!!!。

 

さあ、困った、ここまで稿は順調に進んで来たのであるが、紙数が尽きてしまったようである。予定していたもの、すなわち、私の記憶にはまったく無かった「数の仕組み」及び「数の物語」の資料についての記載は来月改めて記載するので今回はここまでとしたい。

すべては30年くらい前の資料であるが、今の私にはどうあっても解けない、解けそうで解けないものなのである。だからと言って記載せずに捨て置いても、塵芥(ちりあくた)となって何時かは時の間に埋没してしまうものである。それでは余りにも勿体なく、また、「神」の意思に反すると言うことになるので、どうしてもあなた方にご報告しておかなければならないものである。

それらを次回に記載するので、我こそは…と思う方、直感と洞察力に秀いでていると自信のある方は是非、挑戦して見て欲しい。

まあ、今回は小手試しの類(たぐい)であり、次回こそは「数の語り」の神髄であり、真骨頂でもある。とにかく、今のところ、私の手にはあまるものであると言っておこう。
 是非とも、諸氏の力を貸して戴きたい、

                                                    (2016年8月記 完)

 

 お詫び、2016年 9月 の 「神の法陣」大精義講(4)の上載はパソコンの不具合により、延期し、来月に持ち越しをすることに相成りました。 なんせ、騙し、騙し10年近くも使っていたので、とうとう老衰の結果完全死亡とのパソコン・ドクタ-の宣告が下されて、あえなく召天してしまいました。宜しく御了承をお願いいたします。
 明日から、新しい相棒を探す旅に出たいと思っております。



 

  「神の法陣」大精義講()

  さあ、一つ『数の語り』を聞こうではないか…!! ⑥

 

 さあ、本当の「数の概念」を最初からッカリ振り返り、ジックリ考察して見ようではないか…!!?。

 もっとハッキリ言えば、もう一度「現代の数」以前に返って改めていろいろと考えて見ようと言うのである。 あなた方は「数」は単純なものであり、人間が作り上げたものと考えているようであるが、それはとんでもない大きな間違いなのである。「数」とは宇宙創成以前に存在したもので「神(宇宙意識)と共にこの大宇宙を作り上げた立役者なのである.
.

今回はそれを糺すためにも数の語る色々な「数の姿」、「数の本質」そのものを取り上げて改めて考えて見ることにしたい…!!?。

                                                 2016年10月上載

 

  前回書き残した「数の基礎的な真実」について私の知る限りの「数の真実」の姿について語って見たい。これらは確かに前回に約束したはずである。

 

爾来3千年と称す古神道から現れた「神の数学」は二桁、三桁の数を一桁化して簡易な形にすることにより、「数」の本質に迫ろうとしているものである。  いや、それは「神の数学」ばかりではない、「カバラの数秘術」「バビロニアの占星術」、あるいは「インドの占星術」などのすべても同様に数を一桁化してから作業に入っていることを知るべきである。要するに、これは普遍的な古代の数の処理法、共通な数の計算法であり、何か現代の我々には未知な「数学手法」があったことを伺わせるものである。しかし、それはすでに失われてしまったものであり、今となっては取り返す術は何も無い…!!。

察するに、なんらかの偉大な「神の叡知」を見出す手法であったと考えるべきであろう。ひょっとすると、それは未来の出来事や運命と言うものを計算出来る予言的、予示的な性質を持っているものだったのかも知れない。

 

 どうして多桁を一桁にして計算する、あるいは、それぞれの各桁の数を一桁になるまで何回もプラスするのであろうか…??。果たして、それは正しい計算手法であり、正しい答をはじき出す方法と言えるものなのであろうか…??。
 何となく、胡散臭い感じがするのであるが…、果たして、その証拠となるものは…!??。

確かに、「現代数学」に馴染んだ方々にはまことに不可解であり、怪奇な手法である。要するに、そこには現代数学的な根拠、あるいは自然的な根拠は何も無い、だから成り立たない、だから間違いであると声を揃えて言っているのである。

 

果たして、そうであろうか、いや、本当はそうではない、本当の答は「現代数学」は未だ未熟、、その上自然とは全く合い呼応しない異端の数学なので、そこにある真実をどうしても見つけることが出来ないと言うのが正しい答である。

要するに、「現代数学」そのものはまだ自然の象を解剖し、その本質を探り出すためにはほど遠い存在であり、本当の「自然の数理」からは外れているものである。それは、いわば過度期にある未完成の「数の学」に過ぎないと考えるのが妥当であろう。

 そう考えると、「現代数学」、「現代科学」の低迷、あるいは現代人が抱えて苦しんでいる行く先の無い人類の「未来の学」に対する絶望感などの兆候なども自然、自然に判って来るような気もする。
 なんせ、現在は5年、10年後の科学知に対する希望観などはまったく無いご時世であり、喜び、あるいは期待感を与えてくれるような「科学的な発見」の兆候などはまったく見られない。まさに世の中全体が行き詰まったような絶望感が支配しているような世の中の中である。これを何とか打開して、新たな道を見出さない限り、最早、我々人類には未来を謳歌するようなチゃンスは無いような気がするのであるが…!?。
 さあ、新しい道、未来につづくあるべき本来の正しいあるべき道を探そうではないか…!!。 そのためには広い視界をもって古い領域を探し、新しい価値のあるものを掘り出すことが必要不可欠である。
 
 思もいっきり、歴史にダイブして表面の下にある埋もれた「知の宝」を探しだそうではないか…、そのためには まず先入観を捨て去り、発想力を逞(たくま)しくして、直感力を鋭く絞ってから始めることである。すると答えは自ずから見えてくるはずであり、心も不動状態になって凛凛となってくるはずである。

 さて、余計なことについ口が滑ってしまった、本題に戻ろう。

  恐らく、「現代数学論」者達は12=3と言う馬鹿な計算式が何故に成り立つのか、それは12と3は同じものと言うことであり、計算的、理論的にはあり得ないものである。成り立つと言うならその実際的な論拠を示せと迫るであろう。

しかし、先祖代々、そうであると教えられて来たカバラの数秘術者達や、現代の占星術者達は証拠を示すことがまったく出来ず、ただ、黙るだけであろう。

そこで「現代数学」は勝ち誇り、意気陽々として勝ちどきの声を上げている、それが現在の我々の無知な恥ずかしい姿なのである。.
 
 しかるに、この「数の理」の真実、なぜそうなるのか、なぜそのような答えになるのか…!?。それについては現代人は誰も知らないままであり、一切考えようともしない。
 要するに、数秘術を操っている者達も、現代数学者達も五十歩、百歩の違いであり、ほとんど五分、五分の悲しい違いがあるだけなのである。何せ、両者共に考えたこともない問題なのであるから…!!。
 そのあたりのことは「ひふみ神示」にもあるではないか…、「1に1足すと2だとのみ信じているが、現実界ではその通りだが、それは平面の見方、考え方と言うもの、いくら極めても進歩も弥栄もないのじゃ」と…。

 

しかし、考えて見るがいい、我々現代人の頭の中では物事は何処までも、すべてにわたって一直線に進むと言う直線的な概念で構成されているので、常にそれに従ってすべてを直線的に見ようとしているのである。一方、占星学を学んでいる占星術者は常に空を見上げて、すべての天体は円運動で構成されているので、循環こそが自然の本性であることを学んで十分に知っている人々なのである。

彼らの理からすると12=3は至極当然なことなのである。是非、次の〔2〕九進法の図を調べて納得することである。

ここでもう一度考えて見よう、自然の本性を学んで知っている者達と、自然とは関係なく自分達で築き上げた自己知をもって「数の学」を作り上げている我々ではどちらに軍配を上げるべきなのかを…!!。そして、知るべし、我々は昔から常に自然を学ぶために知の歩を一歩、一歩進めて来ていることを…!!。そして、今でも相変わらず、同じ状態にあり、何ら変わってはいないことを…!!。我々は今も相も変わらず、自然の持つ「天地の理」を探し求めて彷徨(さまよい)続けている状態なのである。

 よくよく考えてみると、どうも勝ち目は自然に学んだ占星者達にあるような気がする。自然のすべては循環態であり、一つの節目を持って秩序ある循環を繰り返しているのは我々にも十分に解る判るからである。すると、これら自然の事実を知っている彼等こそが正しい目の持ち主であり、数を正しく操つっている者達と言うことになるのである。そうなると結果としてはどちらの計算方が的を射ていることが誰にでも判る。

考えて見るがいい、結果は自然々に判ってくるはずである。それをハッキリと証明するものが古代日本の「カムナガラの道(ひふみ九九算表)」であり、遥々、先史文明時代、すなわち、先天の御代から伝わっている「自然の理の道」の存在なのである。
 何と、私が見出したあの「ひふみ九九算表」は遥かな昔は「カムナガラの道」と呼ばれていたものであり、長い間行方不明になっていたいわくつきのものであったのである。
 その「カムナガラの道」はハッキリと歌っているのである。すなわち、自然の理は「循環の理」であり、循環こそが正しい自然の理であることを…!!!。

 

この二つの違い、すなわち、直線法と循環法の違いは次の図をみればよく判るはずである。

 

〔1〕      十進法(直線法) 

 

 012345678910 11 12 13 14 15……100 1000 10000 ……無限

 

〔2〕    九進法(循環法)

  


  

このように真実を語る循環言葉である「ひふみ数詞」を用いての数を見ると、それはまさに12の数とまったく同じものであり、何ら、変わらないものであることが判るはずである。

 

 この循環数の形態を用いて宇宙自然を治めているのが「神(宇宙意識)」である。

それ故に、祝詞「ひふみ…天地の数歌」の持つ九つの数詞、すなわち、「九進法」は宇宙の真実を握っている大義数なのである。

 

もっとハッキリ言えば、我々の用いている10進法と言うのは「神」の御心に叶わない数手法であり、単なる人間至上主義と言う妄想が生み出した勝手極まりのない反自然的な計算法なのである。その不完全な計算法をもって宇宙自然の秘密を探ろうとしているのが我々現代人である。まさに噴飯ものであり、至極滑稽な図と言ってもいいものである。

 例えばである、マイナス数や虚数などと言うものは自然界には存在しない数であり、学者の頭の中だけ存在している一つの観念数であることをあなた方は知っているであろうか…!!。

要するに、それらは一つの虚構論理であり、学者達が自然を解くために作り上げた便宜上の数であり、実際には存在しない架空の数なのである。

英語では虚数のことを「imaginary number」、すなわち、想像上の「数」と呼んでいることからも判るであろう。

 日本語では「実数」に相対する言葉として「虚数」と呼んでいるのであるが…、それは便宜上の数であり、まったく、存在しない数なのである。

また、マイナス数は「Negative number」と呼ばれ、プラスの数は「Positive number」 と呼ばれているのはご承知の通りである。

要するに、「Negative number」とは否定的な数、すなわち「実際には存在しない数」と言はれているのであり、「Positive number」とは「存在する数」と言われているものである。

  お判りであろうか…、「Negative number」、すなわちマイナスの数とは否定的な数、すなわち「自然界には存在しない数」を指す言葉なのである…!!。

あなた方は日本語に騙されて、いかにも「マイナス数」や「虚数」とは存在している「数」であると思い込んでいるだけなのである…!!。 いい加減に目を覚ましてほしい…!!。

 

そのあたりのハッキリとした事情を語っているのが「現代九九算表」であり、また、甦りを果たした「ひふみ九九算表」でもあるのである。出来れば、その両者を比較検討しながら、ジックリ考えるがいい…!!。

その上で、そこにある差異をジックリと調べて見ることである。だんだんそのあたりのことが判って来てなるほどと叫ぶだすであろう。 まずは自分の手でジックリ調べて,その上で考えて見ることである。

 

よく考えてみてほしい、何となくおかしいではないか、「現代九九算表」が「現代数学」を代表している作品ならば、なぜ、すべては9×9で終わりを告げているのか…!!。

 なぜ、10×10、9×11、9×12 ……と進まず、すべては9×9で終わり、9をもって終止符(そこで終わり)としているのであろうか…??。現代数学のくせに…!!?。
 まことに、不思議なことである。
 せめて、9×10ぐらいは有ってもよさそうなのであるが…!!。なぜ、で終わっているのであろうか…!!。まことに不可解極まりないものである…!!?。。

そのあたりから調べて見るのも面白い結果が生じて来るのではなかろうか…。

 

 また、現代数学は自然を語る自然数は0、1,2,3,4,5,6、7、8、9、11、12、…と定義しているだけで、そこに付随する変化数態の存在、すなわち、0から9までの循環数の存在と言うものを今までの教育では教えようとはしなかったのである。

 

あなた方のご承知の通り、日本においては0123456789こそが、古神道の第一奥儀祝詞であり、それに続く本体がすなわち、「カムナガラの道」なのである。しかし、それはすでに失われてしまい、行き方知れずと言われて最早久しいと言われている。

ひょっとすると「10進法」が普及されるにしたがってこの「九進法」は目障りであり、不要なもの、欲を求めるためには邪魔なものとして捨てられてしまったのであろうか…!!?。

 

しかし、この循環的な「カムナガラの道」を現代数学で解き放とうとしても無理であり、意味不明な数図として扱われるか、無視されて捨てられるかのどちらかである。

要するに、「カムナガラの道」を開(ひら)くにはどうしても循環法の数の歩みと言うものが必要であり、循環法を用いない限り、扉は開かないのである。
 しかも、その計算数式はあの「宇宙人の数式」、すなわち、「システム オブ ナインズ」とまったく同じなのである。そのあたりから推測すると、はるかな昔に、宇宙人が日本に降り立って日本民族に残したものがこの「カムナガラの道」と言う「宇宙の律理」を納めている尊い「数図」なのであろうか…!!。
  そのように推測しなければ、この聖なる「カムナガラの道」の存在を説明を説明することが出来ないのである。神話にもあるでないか、その昔、カムロギ・カムロミ神の2柱が火の玉に乗って幣立の地・高天原ご降臨されたと…!!。

 

  出来る限り、素直な気持ちでシッカリ目を凝らして各数列間、あるいは答えの数の奏でる「真実の響き」を直感的に捉える、そうすることにより、過日、何回かにわたって紹介した「宇宙人の数式」が至る所に現れて、目を剥くような流れの展開が始まるのである。
 しかし、そんなことは誰も信じようとはしない、話も聞こうとはしない…!!。これを知らない限り、どうしても「カムナガラの道」を解き放つことは不可能であり、「宇宙の大律」の存在を知ることは出来ないのである。

 

そもそも、私が「宇宙人の数式」、すなわち、「システム オブ ナインズ」の存在を世の中に紹介し、それはまさに、古神道の「ひふみ九九算」を解き明かす鍵であることを大勢の人々に伝えであるが、誰一人として信じようとはしなかった。それどころか、揶揄と哄笑で迎いられ、暫時、口を開くもままならなかったのである。要するに、宇宙人という名を聞いただけで科学者を始め、多くの日本人は忌避反応を起こし耳を塞いでしまうのである。

何せ、この古神道の「カムナガラ道」を解き放つと、そこには「あの世」と「この世」が現れ、この二つは現象的につながり合って一つの宇宙次元を創り上げて安定化していることを伝えているものである。しかも、これを立体化(3次元化?) すると、すべての縦の数列は自動的に無限体となって0に収斂して収まってしまうのである。

次に、これを超立体形化(4次元化?)することにより、すべての横の数列、縦の数列、そして右上がりの斜め数列、右下がりの斜め列の四者はすべては0になって無限回転状態になるのである。これを称して私は「宇宙の形」、「宇宙と言う構造体」であると言っているのであるが…!!。 しかし、誰も自分の手では調べて見ようとはせず、ざわめくだけであり、無視するだけである…!!。 まことに至極簡単なことなのであるが…!!。

 要するに、宇宙はこのようにホログラム的な仕組みにより作られているのであり、その仔細一切のすべてを古神道の「かムナガラの道」は語り上げて止まないのである。 しかし、今の世の中、誰も信じる者はいない、耳を貸す者もいない。それはまことに至極簡単なことであり、中、高校生でも判る理屈なのであるが…!!。
 

  大分、以前に「アイウエオ五十音図」を「ひふみ…天地の数歌」で解き放つと不可思議な「宇宙の形」が現れるとあなた方に報告したことがある。

 それはすなわち、現代宇宙物理学者たちが論理化している「ド-ナツ形」の宇宙の件であり、それとまったく同じ形のものがここにも現れて厳として鎮まっているのである。しかし、ハッキリ言えば、それは宇宙物理学者の言う「ド-ナツ形」の宇宙、すなわち、ト-ラス形で等ではない。
 「数」の語る宇宙の姿とは、すなわち、ちょうど縦と横の寸法が同じリンゴを、芯を含む中心を丸く抜いた形そのものであり、その周囲辺をこれらの4種類のエネルギーが包んでホログラム的なバリアーを作り上げているのである。 この事実はやっと西洋の科学者たちも突き止めたようであり、、最近では動画でも話題になっているようである。
 
 また、それは「カムナガラの道」でも、あるいは「アイウエオ五十音図」においてもまったく同じものが出現して、同じことを証言していることを知ってほしい。 要するに、それらお互いが自然的なセカンド・プル-フとなって自然の確かさを証言し合っているのである。
 しかし、この自然界に存在するダブル・プル-フの存在さえも現代人はまったく知らないのである。ダブル・プル-フとは、すなわち、複数のものが相伴ってお互いを証明しあって、その理論的な成立を可にしているのである。
 これはまさに、「数」の描く真理の一大ぺ―ジエントであり、「神」の理を尽くした、「数」の絵巻物と言ってもいいものである。何せ、平面構造が立体構造になり、それから超立体構造に変化する数の語る「数の絵巻物」の出現には、にただただ、吃驚するだけであり、 あまりの不思議さにただただ唖然とするだけであった。 正直に言うと、最初は私自身もあまりの奇々怪々な数の証言には半信半疑の状態で平常心も失われてしまっていたことが多かったのである。

 それは無理もない、世界中の科学者達が立ち往生している甚だ難しい問題を数千年前の日本民族が知っていたと言うのは甚だナンセンスな話であり、甚だ突飛な話だからである。

 恐らく世界中の科学者達も大笑いし、相手にする者なんては誰もいないであろう。それは当の私が言うであるから間違い無い…、は、は、は…!! 。

 

  実を言えば、あの「アイウエオ五十音図の「秘密の儀」はこの「カムナガラの道」に示されている「神の秘儀」からの盗用であり、そっくり、そのままの拝借したものなのであることを白状しなければならない。

 要するに、この古神道の神髄である「カムナガラの道」に示されている通りのもの、そのままの仔細を引用し、そこにある「数」が案内するままに「数」を組み立てたものなのである。要するに、すべては「数」が語っているものなのである。

それだけ、古神道の「カムナガラの道」とは素晴らしい大自然の叡智を秘めている[偉大な神宝」であり、宇宙全般の理に通じていることを如実に証明しているものなのである。

だから私は「カムナガラの道」は、まさに、先史文明時代、すなわち、「神々」の時代から伝承されて来た驚くべき「知の遺物」であり、聖なる「知の金字塔」であると申し上げてやまないのである。
 とにかく、そう言う以外にはこの超古時代の知の遺物である「カムナガラの道」を説明する手段が無いのであり、この「カムナガラの道」の素晴らしい大叡智の存在を説明する方法がないのである。

要するに、日本神話にある通り、彼等(神々)は遥々宇宙の中からこの日本に降り立ち、人々に「宇宙の叡智」を与えて日本の国を作り上げたのである。その宇宙の叡智を収めたものが、すなわち、この古神道の「カムナガラの道」なのである。

 ばかばかしいと思うかもしれない、しかし、調べてみると、この偉大な古神道の「カムナガラの道」の中には優に500ヶをゆうに越える「神の律」「神の秘儀」が存在して何事かを囁いているのである。
 何と、この小さな「10×10」の法陣の中に驚くべき数の「神の秘儀」、「神の叡智」が内蔵されていて何事かを囁いているというのである。まさに、驚き、桃ノ木、山椒の木であり、にわかには、信じられないことであろう…!!!。


これをあなた方は何と見るのであろうか…!!.無視を決め込む前に、それらを少しでも探しだし、心の糧、これからの人生の指針として 大切にすることを勧めたい。それが残り少ないわずかな人生を無理なく過ごす秘訣と言うものである。

 ただし、すでに発表してある「宇宙人の数学」、すなわち、「System of ninnes」 を十分に理解しない限り、決して「かムナガラの道」を解き放ち、「神の秘儀」を取り出すことは出来ない、それだけは覚えていてほしい…!!。

 私は考えている、これは「神話の世界」と「現代の日本」をつなぐ物語りの糸と考えることで、すべてはつながって来るのであり、すべてが相結ばれて、終止符が打たれ完結することになるのであると…。
 まさに、今、古代と現代の循環の輪が結ばれ、恭(うやうや)しく閉じられて日本の歴史はf大完成を迎えようとしているのである。 何という時のロマンであり、何という壮大なスケールをもつ叙事史の出現なのであろうか…!!!。

 まさに、日本古神道万々歳であり、古神道よ弥栄にあれと叫びたい気持ちでいっぱいである。

 

 また不思議なことに、最近ではこの「カムナガラの道の表」を常に体につけて携帯していると魔に魅入られないとか、邪が入らないと言ってご婦人方は持ち歩いているようである。私も、まさか、と思っているのであるが、暫時、静観するつもりである。なぜならば、心の片隅ではさもあらんとの呟きも少しばかり芽生えて来ているからである。  あなた方もできれば、是非試みるがいい…!!!。                

                                                                (2016年10月記 完)




  

 「神の法陣」大精義講()

  さあ、一つ『数の語り』を聞こうではないか…!! 

 

    『カムナガラの道』を言祝(ことほ)ぎて (上巻)

 


  本当に「数」は有機的な姿を持ち、「神」の言葉を伝えることが出来る存在であろうか!!?。おそらく、あなた方の99、99%は否定するであろう。 それは結局、現代人のすべては「現代知」に牛耳られて、あるべき正しい自然の理の真実を知らないと言うことに尽きると言うことである。果たして、我々の「現代数学」は正しい自然の理を語ることが出来るのか…!?。私は大いに危ぶみ、ただただ、これからの道の途切れが来ないことを祈るだけである。しかるに、「神」の言葉の「数」は依然として自然の理を深く語り、ますます語気を強めているのである。

今回はそれを糺すためにも数の語る色々な「数の姿」、「数の本質」そのものを取り上げて改めて考えて見ることにしよう。

 そのための一番大切な「テキスト」となるものが古神道の神髄を語っている「カムナガラの道」である。しかし、何ということ、日本民族はその存在をまったく知らず、ただ、辞書にはすでに失われたものとあり、「すべては神の手になるもので、人間は一切手を加えてはいない自然の道そのものなのである」と記されているだけであり、内容は一切語られてはいない。

 考えて見れば、本来、すべては自然が主であり、我々人間は従なのである。それを間違えて人間が主であり、自然が従であると考えているから、すべてがおかしくなって来ている、それが現代なのである。

                                                                                                                                             (2016年11月記)                                




 恐らく、今回の『「カムナガラの道」を言祝ぎて』は、(上巻)と(下巻)をもって終了の運びの予定であり、古神道の真髄を語っている「カムナガラの道」の最初にして最終の講義となるものであろう。これらすべては失われていたと言われている「カムナガラの道」の再発見による驚くべき内容を解き明かしたものであり、驚くべき「神の叡智」の存在と、そのすべてを解き明かそうとしているものである。まず、これらをもって今までの「神の数学」の回顧録とし、次の語りは「神の法陣」の本篇となり、更なる驚きの連続の幕開けが始まることになるのである。

 

何回も言っているが、ここ、「カムナガラの道」に潜在している「神の秘儀」の数は数知らずであり、今のところ私の見出した確かな数は500ヶを遥かに超えることは確認済である、それも、たった[10×10の方陣]の中にである。そのあたりから考えて見ると、確かに、神代由来とされる古神道の内容は恐るべきものであり、並み居る人間宗教とはまったく異なる異次元的な姿と内容を同時に持っているものであることが判るはずである。

 確かに、それら一つ、一つは未だ人知の及ばない「自然の叡智」、すなわち、「神の叡智」の存在そのものであり、現代歴史上見たこともない、聞いたこともない不可思議極まりの無い形をもって「自然の律」を朗々と語り上げているものである。  

恐らく、これらの真実は「神の存在」を証明する最大の証(あかし)となるものであろう。 また、それらすべては「現代知」を遥かに超える「宇宙自然の語る知」であり、現在の我々には思いもよらぬ「自然の叡智」の確たる存在を披露してくれるものであるが、悲しいかな、今のところ、我々人間にはそれを理解するだけの能力が無く、数的な意識水準はだまだまだ低レベルの状態であると言えるものである。

 

 シッカリ考えを巡らすと、日本の古神道はまさに宗教のジャンルを遥かに超えた別格の響き、すなわち、天の重み、地の尊さを説いている世界に類の無い超宗教であり、並み居る宗教とはまったく異なる本質を持つものでる。

なぜなら、それは人間を宗祖とする他の宗教とは全く異なり、人間の知らない諸々の「宇宙の叡智」の存在をゆくりなく語り上げ、我々の心を一段と豊かにし、そして大きくしてくれるものだからである。しかし、残念ながら、現代の日本人はその事実をまったく知らず、ただただ、格下の西洋文明知を夢中で追いかけているだけである。ああ、何と言う情け無い姿なのであろうか…!!?。

 

 今から、100年前あたりから日本神道は全く意味のないもの、すなわち、完全な未開宗教であり、稚児でも知っている「12345……」の数詞を崇め奉るっている原始的なものであると、諸外国の宗教家達から叩かれ侮蔑され、それ以来、完全に変容し、力を失ってきたことはあなたがたも知っての通りである。

その挙句、神官達は学ぶことも忘れ果て、その結果、完全に落ちぶれて今では見る影ないありさまである。なんせ、身内の日本民族も愛想を尽かされ、今では神社詣でする者もまばらであり、観光者相手に何とか息をついているような状態なのである。

 なぜ、そのようになってしまったのであろうか…!?。

よく考えて見るがいい、本来の日本の神道、すなわち、古神道は仏教伝来と共に変質しまって肝心な神道の本髄は失われてしまい、内容は低次元化してしまっているのである。しかし、神道家たちは我が身可愛さにその事実を認めようとはせず、相変わらず意味の無い古い知識、古いしきたりにしがみついているだけである。それは、歴史をジックリと見て、考えて行けば簡単に判明するはずである。そのあたりの真実の史実を簡単に申し上げて見ることにしよう。

 

6世紀の半ば頃、仏教伝来とともに日本の知識層は神道派と仏教派が分かれて国を半ばするような大きな争いを始めたのはご存知のことであろう。

仏教派は蘇我氏や聖徳太子、それに対して神道派は時の有力者の物部氏であり、血みどろな戦いの挙句、神道派は遂に敗れてしまい、同時に神代より伝えられて来た「万国の記録書」、「神道宝典」などのおびただしい御宝古文書はすべて焼き捨てられ、神道派の物部氏は力を失い仏教の天下となったのである。すなわち、ここから神道は仏教に完全以に飲み込まれて「神仏習合」とか「本地垂迹説」などが唱えられ、仏が上で、神が下の状態のままが約1400年間続いて来たのである。

 そのあたりのことを知りたくば、古代文献の「九鬼(くがみ)文書」を開いてもらえば詳しく記されている., ここにある「九鬼(くがみ)」とは「九神」、すなわち、「ひふみ九九算表」の九つの神々のことである。

 

ところが、明治維新を迎えると同時に有識者たちにより、神道を仏教伝来以前の姿にもどそうとする運動が始まり、それに答えて新政府が出したのが「神仏分離令」である。それと同時に、日本中は廃仏棄却運動が盛んになり、多くの仏像や仏画などは焼かれたり、捨てられたりしたのである。

要するに神社は神社、お寺はお寺の分限を守れと言うのであり、その時、武士で食えなくなった大勢の下級武士達が神職に鞍替えし、神官となったたのである。要するに、新政府が仲立ちして、神官に仕上げたにわか神官が多かったと言うことである。

その結果、にわか神官、素人神官が多発して村々の神社を再建したり、新しく作ったりして神道は一時的には大いに栄えたのである。しかるに、彼等には神道の知識はあまりにも低く、にわか仕込みの知であったので、本来の神道の回復には至らず、逆に神道の権威の失墜に拍車をかけるようになったのである。

さあ、また、本筋をどじり、余計なことまで申し上げたようである、申し訳ない…!!。 何か最近は年のせいか、話の本筋から往々にして脱線することが多い、今回もその公算が多い。まあ、その時はその時であると思い、別に、あまり気にすることもない。あなた方もまたかと思い、あまり気にしないでもらいたい。

 

 改めて「数」の話に戻ろう。

 

「現代文明」が始まって以来、誰も「数の本質」について考えを巡らし、その本質を調査検証する者はいなかった。それ故に、「数」の正体はまったく不明で、完全に見過ごしたままで数千年が経過してきているのである。しかし、知ってもらいたいのは、今を去ること1400年前の古文書、「神文伝(カミフミノコトトギ)」には遥か遠い神々の時代には「数」は天地自然の深遠な「理」を持っていたと記されていることである。恐らく、これは世界で唯一の「数」に関する古代の記録であり、あのギリシャの哲人プラトンが言った失われたアトランチスの「哲理数学」とまったく同一のものと思われるのである。

 今まで、この問題を最も深く考えたのは古代ギリシャ人達である。古代ギリシャの時代、多くの哲学者が「数とは何か」や「数の意味」を議論していたのであるが、誰もが満足する解答は得られず、そのままになっているのである。

最近では、誰もが諦めてしまったのか、それとも馬鹿馬鹿しいと思うのか、数自体に関する議論などは一向に聞くことも無い、まったく静かなものである。特に日本においては…!!!。

 

しかし、これだけは言って置きたい「数」とは大いなる自然有機的な性質を多分に持っている存在であり、自然意識知を持っている大変貴重な存在なのである。それがどのようなものであるかについては、今の我々の言葉ではとても言い表すことは出来ない。なぜなら、われわれはその言葉をもってはいなく、ボキャボラリ-も無いからである。ただ、解ることは「数」は現代数学の分野ではまだ知られてはいない整然とした「場の配置」、あるいは「その規則性」を持っているものであり、一つの聖なる自然意識(神)の道具であると言うことである。 そのあたりのことは、最早あなた方にも十分にお判りのはずであろう。

 

 今まで、現代人は余りにも冷ややかな目で「数」を見て来た、その結果、「数」を継子(ママコ)扱いにされ、ものを言うこともなく、関心持たれず奴隷ように働かされてきたのである。本来、「数」は太古の昔には神託や占いに用いられ、人知の及ばない自然の神秘を探って来た聖なる存在であり、「数」だけが人間の未来までも知ることの出来る唯一な存在であるとして大変尊ばれてきたものである。また、それは同時に「神」との語りの言葉として大切に扱われて来ているのである。

 

人類の犯してきた大きな過ち、それは「数字」と「数」を同一視したことであり、そのことにより、自然の持つ一つの真実叡知は完全に閉ざされて、人間知と言う反自然的な闇が幅を利かせて来ているのである。

本来、「数」こそは「神」の言語であり、「神」の分身と言ってもいいものである。要するに、「数字」は人間が発明したものであるが、「数」は「神」以前にすでに存在し、「神」と共にこの大自然宇宙の創造に参画して来たものであるが、誰もそのことに気付く者はいなかったのである。

 確かに、「数字」は人間の手により作られた一種の記号文字であり、認識文字でもある。そして、その種類もこの地球上には数多(あまた)存在して人々の欲望を満足させているものである。要するに、人間は「数」そのものまでも人間の発見した所産物であると思い込み「数字」と「数」を同一視して来ているのである。

それが、そもそも人間サイトの大きな間違いであり、自然と現代科学を乖離状態にして溝を作って来たものである。

その間違いが無ければ、とうに人間は自然の秘密を「数」から聞き出し、宇宙自然と足並みを揃え、自然の叡智を手中に修めることが出来たはずである。

ところが、「数」は人間が作り上げたものであり、人間の知らないものが「数」の中には何も無い、すなわち、「数」そのものは有機的な意識性など何も無いと思い込んで、ただただ奴隷のようにこき使って来たのである。

 

しかし、その一方、紀元前500年頃、ギリシャの哲人、ピタゴラスは「宇宙自然は数により支配されている(Number rules the universe)」と言っていた。

また、今から200年前の偉大な数学者であった数学者ガウスは「神は数学をする」との名文句を残し、更には、100年前のC・G・ユングは「数は意識化された元型的な基盤を持っている」とハッキリ述べているのである。

しかし、その後は誰も「数」の玄なる深みについて議論する者は現れず、ただ、「数」は「人間数学」の傀儡、すなわち、操り人形となっているような有様である。

 

本来ならば、「数」の持つ本性、本質を敏感に感じなければならないのは日本民族なのである。しかし、如何にせん、生来の人の良さ、他人を重んじる気風、すなわち、事上げせずと言う古来よりの習慣が災いして大陸の仏教や儒教を懸命に受け入れたり、更には、その後西洋科学思想にべったりと貼りついたりして、その先兵、その布教者となって忙しく立ち働いて来ている。それが現在である。

その挙句、祖先たちの残した世界に無い「数の本性の現れ」等の文言の存在などにはまったく目もくれず、ただ、ただ、無視して現代数学に夢中になっているのである。

 一方、現在の欧米の数学者達の注目の的は数の一つである〔0の正体〕についてであり、その不可思議で縦横矛盾な能力について懸命に調べ上げようと頑張っている最中である。まさに、今は〔0〕についてのラブ・コ-ルが盛んに起こって、猫も杓子も〔0〕を追いかけているような状態である。 

 

もっとも、私の持っている本の題名は「無の科学」K・C・コ-ル著であり、数学的な見地から見たものと言うより、自然的な観点から見た「0の正体」を見出そうとしている現在の学者たちの奮闘物問と言ってもいいものである。

なんせ、古いものである、日本語の出版は平成2年なので原著はそれより大分以前と言うことになるが、内容を見るとまことに面白く、全般に的を突いている論議が大変多いように思える。気になる言葉を見つけた、一つ紹介しょう。

 古代バビロニア人は、「数」が抜けていていることを示す方法として、一種の楔形の印を入れることを考え出していたようだ。この原始的な「0」が初めて見られるのは紀元前500年頃のことで、それは無の存在と言うよりも、何かの欠如を示すものであった。要するに、1 の数の前には何かがある、書き表わすことの出来ない何らかの数の序があるとして楔で「チョン」を打って、そこにある何かを表わそうとしていたのである。それが現在の0でと言う文字の発端であると考えられている。

 

 それはまさに、古神道の奥儀祝詞「ひふみ天地の数歌」に関しても同じことが言える。要するにこれは、祝詞12345…の先頭の言葉である「ひぃ(1)」の前には何かが隠されていることをこの祝詞「ひふみ…天地の数歌」は密かに、そして懸命に伝えているのであるが、誰もそれには気が付かないのである。何と言う落ち度なのであろうか…!!。まったく情けない…!!。

ただ、それはあまりも巧妙に隠されていて、しかもある特定な鍵になる言葉を用いない限り決して解き放つことが出来ないのであり、とうの昔にその手法は忘れられてしまったのである。

それ故に、簡単なものではあるが、今の今まで誰もそこにある事実には気がつかなかったである。

何とそれはある「日本独特の言葉」がそこの鍵として存在していて、それを用いない限り、決して開くことは出来ないものである。この解法を知り、その事実を世の中に出せば、世界中で話題になるものである。

 しかし、悲しいことに、今の今まで誰一人として気づかず、完全に見過ごして来たのである。まさに、それはオ-、マイ ミステイクと叫んでも誰も驚かないような普遍性のあるものである。

 

要するに、それは1の前には何かがあると、秘密めいた「呪文言葉」を綴り残して、その意味を解くべしと数千年にわたって悲痛な言葉を囁いているのであるが、残念ながら、今まで、気付く者は誰もいなかったのである。

しかし、爾来、何千年の間には何百、何千万の人の目がそこを通り抜けて来ているのであるが、誰も立ち止まって考えようとはしなかったのである。

 

それは今のあなた方も同じである、その「呪文言葉」とは一億数千万人の日本人の誰もが知っている言葉、中学生でも知っている言葉ではありながら、誰も少しも注意を払わない、誰も気にもしないような言葉なのである。

ただし、言って置きたい、いくら知力があり、学力があっても解けぬ物は解けないし、そこに直感力とひらめき、そして縁というものが加わらない限り、あなたは単なる無縁の衆に過ぎないのである。要するに、あなたに縄文人の知の助けといくばくかの縄文人のDNA、そして「神」の助けが無ければ決して解くことが出来ないのが本当のことである。それだけ、「神」に縁のあることばであり、「神」と縁を切った現代日本人にはどうあっても解くことは出来ないのである。

 

まあ、そのうち、私の気が向いた時、機嫌のいい時にまた改めて、その問題についてじっくりとあなた方と話し合わなければならないと思う。恐らく、それについては近い中とだけは言っておきたい。

恐らく、それが、「現代の知」の不足している「自然の本当の姿」を表しているものであり、「現代数学知」に一つの風穴を開ける結果になるかもしれないものとなるかも知れない

 

問題は確かに容易(たやすい)いものではある、が、正直に言えば、私の手にも余るものでもあると言っておきたい。なぜならば、そこには何千年と言う歴史の闇が立ちはだかり、言語や発音等のすべてを変えてしまっているからである。

要するに、我々は現代の知や思想にがんじがらめになっているから判らないのであり、素直になれば誰にでも解けるものである。確かに、それは自然的な理屈では正しいのであるが、「現代数学知」では認めることが出来ないのである…!!。なぜならば、それは現代数学知には無い、すなわち、現代の言葉では説明、検証などはとても出来ない内容を持っているからである。確かに、それは自然数の概念さえも変えてしまうものである。それを考えれば、考えるほど悔しく、嘆かわしく、切ないものである。ただただ惨めな気持ちがあるだけである…!!。

 

要するに、自然数の語るのは、すなわち、我々の常識知、すなわち、我々の考えている数の歩み方は自然的には正しいものではないと言うのであり、実際的には小学生でも判るようなもっと論理的なものなのである。確かに、それを数学的にではなく、物理的に説明されるとまさにその通りであり、「神の数学」の論拠とピッタリ合致するものである。出来れば、そのあたりのこと、すなわち、ひふみ1、2、3の1の前には何があるのか、を一つ考えてもらいたい、要するに、それは古神道の奥義祝詞「ひふみ天地の数歌」ともう一つの古代祝詞であった「アイウエオ五十音図」を重ねることにより答えは中から不思議な形で出て来るものなのである。しかも、それは誰にも有無を言わせないものである。

 さあ、それでも我々には時間はたっぷりある、そこで今回諸氏と一緒に三千年の祖達が思いを込めて残した言葉のパズルに挑戦してみようではないか…。  

恐らくは、今のところ、誰も十分に納得することは出来ないであろうが、それでも、「現代数学」に対する大きな疑問を持つことは出来るであろう。

今回はそれでいいのである、ぜひ考え抜いて、考え抜いてこのパズルの真実に近づいてもらいたい。新しく年が明けたら答えを披露するつもりである。

 まあ、一つの古代史のロマンであり、現代知の不備を突くためには考えなければならないものである。皆で考えて行けば、何とか始末がつくであろう、私が生きている間にでもある程度答えを見出すことが出来れば幸いと考えている。

 

さて、話はまたもや変わる…。

 最後にもう一度、古神道の奥義祝詞の裏に隠されていた「カムナガラの道」は「神の知の宝庫」であり、探れば探るほど、現代人の我々の知らない「自然宇宙の理」が数多(あまた)顔を出してくると言ったことを思い出してもらいたい。

また、そのためにはどうしても、宇宙人の数学である「システム オブ ナインズ」の語る数式を十分に理解しなければならないとも言ったはずである。

 しかし、今のところ、誰も信じようとはしない、ただ笑い転げるだけである…!!。

 確か、数年前の本に書かれてあった、「アメリカ人の8割はUFOの存在を信じているが、日本人の8割は信じようとはせずに笑うだけである」と…!!。

確かに、その通りであることを今、思い知ったのである。遅ればせながら。

 

大分前に、私は言ったことがある、ここ、すなわち、「カムナガラの道」の中には我々の想像以上の「神の秘儀」が内蔵され、一定の意識水準に達した「心ある者」だけがそれを解き放つことが出来るのであると…。
 恐らく、そこには500ヶを超える「神の秘儀」が折り重なるようにして畳み込まれている
とも言ったこともある。

しかし、あなた方は当然、「そんなものがあるはずはない」とか「単なる偶然の悪戯である」と言うだけである。もっとも「現代知」支持者達には最初から論外なことであり、決して理解することなどは出来ないものである。まあ、当たり前と言えば当たり前なことではあるが…!!。

 

さあ、今回もこれ以上話が脱線しない中に本題にはいろう。

 

おっと、本題は何だっけ、そうそう、古神道の本髄である「カムナガラの道」について最後のまとめに入って有終の美を飾ることにしょうと言うのである。

要するに、「カムナガラの道」に収められている「神の秘儀」を明かして、あなた方の度肝を抜いて、終わりにする予定になっているのである。驚くことに何とその数はゆうに500ヶ600ヶを遥かに超えるのである。信じられるであろうか…!!!。
 しかも、そのすべては「現代の知」では解くことは出来ないものであり、宇宙人の数学、すなわち、「システム オブ ナインズ」の力を借りなければまったく解けないものなのである。

 

まあ、いろいろと質問、ご意見、お教え、等が甚だ多いのでもう一度全体的な説明、解説を改めて申し上げて置くことにしたい。私の資料集には数多の事例が記されているので、その時によっては少々異なる事例が掲上されることになるかも知れないが、その時は年に免じて許して下され…!!。

 

 確か、今までには「日本神道(古神道)は世界神道である」として古神道の奥義祝詞である「ひふみ天地の数歌」の姿は西洋の旧約聖書の最初の文言とまったく同一なものであると論じ上げた。要するに、古神道の祝詞「ひふみ天地の数歌」が遥々海を渡って西洋の地に芽吹いた、それが紀元前1500年ごろに成立した旧約聖書の冒頭の創成記の部分である。それはまさに古神道の「ひふみ天地の数歌」そのものの姿であり、その内容なのである。それが、「神の数学」の第一幕開け、すなわち、プレリュード であり、私の最初の一声であったのである。

 まことに恐れ多いことではあるが、続く「古神道物語」として、『日本神道(古神道)は宇宙神道でもある』を世に伝えたのであるが、現在のところ、あまり反響はないようである。  しかし、これは天下の一大事であり、真面目に考えて学び取れば、恐らく、現代人は一瞬にして100年の未来の知を得ることが可能になるものである、しかし、まだ、時は熟してはいないようである。おそらく、時が少々早すぎたと言うことであろう。

 まあ、再三再四の登場で、あなた方も耳にタコが出来ているかも知れないが、例の、墜落したUFOの中から現れた、あの「システム オブ ナインズ」の数学式のことである。あれこそまさに、自然数学の基本業の最たるものであり、宇宙自然を解く最大のカギになる数式と言ってもいいものである。たぶん、あなた方は笑い転げるであろうが、シッカリ学べば笑うなどではなく、逆に顔が引きつって来ることになるはずものであるが……。

 そこに並ぶ数の姿はまさしく、古神道の奥義祝詞である「ひふみ天地の数歌」そのものであり、しかも、それは「ひふみ天地の数歌」を天と地に分けて結んで真実を説いているものである。
 その天と地に分けて結んでいる数の関係、真実の秘儀とは次の通りである。

 

   0+9=9、 1+8=9、 2+7=9、 3+6=9、 4+5=9、等である。

ところが、NSAの科学者たちは意味が判らず放置してしまい、すべてはあ御蔵入りとなっているのである。

 

当時、私はすでに「ひふみ九九算表」の謎を解き、すべては9=0と置けば、すべては繋がることを見出し、意気込んで次々と新しい「図」と「数」の関係を調べ上げ、資料に書き込んでいたのである。

ある時、偶然にも、書店で上記のUFOの中に残されていた「宇宙人の数式」を見つけ大いに満足したのである。 その書の名前はご存知の方も多いであろう、そうあの「UFOの内幕」…フランク・スカリ著である。

 

要するに、この宇宙人の数式において、9=0 を用いれば次のような数式が生まれて、すべてを満足させることが出来るのである。

 

0+9=0、 1+8=0、 2+7=、 3+6=0、 4+5=0

すなわち、0=9、 1=-8、 2=-7、 3=-6、4=-5、 であり、その反対の姿、すなわち、5=-4、6=-3、7=-2、8=-1、である。

要するに、マイナスの数が現われた時は、すかさずそれに対応するプラスの数に置き変えれば自然の持つ答えが出て来ると言うことである。

 

これが自然の持つ循環数学であり、直線に進むのではなく、円的、循環的に進む、それが自然の本来の姿と言うものである、ジックリ考えて見てほしい。

 何回も言うようであるが、最初の講義は古神道の奥儀祝詞「ひふみ天地の数歌」は西洋の旧約聖書の最初の文言と同一なものであり、世界的な宗教である「キリスト教」の大元の言葉であったことを証明したものであった。すなわち、旧約聖書の初めにある文言は、まさに古代日本の古神道の奥儀祝詞から移された文言であり、遥々、遠く、日本から海を渡って運ばれたものであることを証明したものであり、その題名は「日本神道は世界神道である」と言う人々が驚くようなものであった。

 

また、今回はそれよりも一段と大きなスケ-を持つ「日本神道は宇宙神道でもある」と言う、アッケにとられるばかりのタイトルである。ジックリと耳を傾けてこれらの内容を学び、全身全霊をもってそれらの検証に当たって貰いたい、それが、今の私の偽りの無い心境であり、あなた方に是非ともお願いするメッセージなのである。

それは要するに、最初の講義は祝詞「ひふみ天地の数歌」は世界的にも通じるような素晴らしい内容を持つと言うものであり、小さな地球の出来事の詳細説明であったが、今回は更に大きなもの、すなわち、祝詞「ひふみ天地の数歌」の本体の部分は、さらに大きな世界である大自然宇宙の姿さえも詳細に描いている驚くべきものであると言う大変な報告、すなわち「日本神道は宇宙神道でもある」と言う甚だスケールの大きい「日本神道物語り」となったのである。

 

恐らく、神道家本人達も、ただただ呆気に取られるだけであり、「神道」に現在、何が起こり始めているのかまったく判らないと言う状態であろう。

例によって、今回の報告も誰も反駁、反証等は出来ないものであり、人間の屁理屈、詭弁などの類は一切通じないものである。何故なら、「数」が語る言葉は、宇宙自然の万象の大律であり、反証、反駁するには言葉ではなく「数」を持ってこの不合理性を示すことが必要だからである。

 

まずは最初になぜ、宇宙神道」なのか、なぜ宇宙と言う言葉がここに出て来るのか、そして、それが何故、日本神道=宇宙神道となるのか、それについての十分な釈明を行うのが筋道であろう。まずは、その由縁、すなわち、その理由となるものを説明をしたい。 もう、すでに十分に理解し、更なる高みに飛翔している御仁もいるであろうが…!!。

 まあ、話は一挙に宇宙へと飛ぶことになる、これから語ることは正真真明の事実であり、すべてはれっきとした文献からの引用であることをまずは知って貰いたい。また、決してこれらは私の絵空事や架空な物語などではなく、アメリカの講演文献からの引用なのである。また、その事実をシッカリ検証するための参考文献のコピが当方にあるので必要な方は請求していただきたい。

 初めてのかたは大いに戸惑うことであろう、簡単に述べて置く。すなわち、話は1950年のアメリカのデンバ-で起った事件である、空飛ぶ円盤が荒れ地に墜落して乗員は全員死亡した。調査員達が内部を調査するとそこには見知らぬ「数学式」があり、それをNASAの学者達は「九の倍数体系(システム オブ ナインズ)」と名前を付けて長年調べ上げたが、結果として、全く内容は不明であり、そのままお蔵入りとなったのである。 その数の関係仔細は先に述べた通りである。

そして、何回も申し上げているのであるが、古神道の神髄である「カムナガラの道」はこの「九の倍数体系(システム オブ ナインズ)」を用いない限り、決して「神の秘儀」は現れてはこないのである。その点だけは何回も繰り返し、繰り返し言いたい。要するに、「現代数学」の持つ10進法は宇宙自然と会話が出来ない数学体系であり、自然と共通する「九進法」を用いない限り、スム-スな会話は出来ないと言うことである。

 

さて、さて、驚いた、思いつくままに書きなぐってきたのであるが、思ったよりも内容が込み入っているので大幅な増ぺ-ジとなってしまったのである。

この分では(上)、(下)の巻には納めることが出来ず、(中)が必要になるかも知れない。まあ、すべてはその時如何に任せることにしよう。

とにかく次回は精一杯「カムナガラの道」にある「神の秘儀」を解くことに専念することをお約束する。  暫時、お待ち下され…!!。       (2016年11月記 完)       

 

 

  

   「神の法陣」大精義講()

  さあ、一つ『数の語り』を聞こうではないか…!! 

      『カムナガラの道』を言祝(ことほ)ぎて (中巻)
                                                                             2016年12月記

 

  『カムナガラの道』とは数千年前に失われてしまった古神道の神髄を語るものであり、驚くべき「神の叡智」の存在と、そのすべてを解き明かしているものである。いわば、それは日本民族の魂の原点と言うべきものである。

その「神」の存在を証明するような驚くべき「数の語り」、すなわち、古代の遺物知である「カムナガラの道」が図らずも今回、見出すことが出来たのであるが、その内容のあまりの深遠さにただただ茫然とし困惑している有様である。

しかも何とそれは「現代数学手法(10進法)」では決して解くことは叶わず、自然の数理法である「9進法」を用いない限り、この内容本義を知ることは出来ないものなのである。

要するに、今のあなた方の持つ「現代の知」では到底解くことなどは出来ないものであり、「あなた方の知」とは完全にかけ離れているものと言うことである。さあ、じっくりと考えて、あるべき解決策を探して見てほしい…!!!。

 

今回の『「カムナガラの道」を言祝ぎて』は、(上巻)と(下巻)をもって終了の運びの予定であったが、やはり、危惧した通りに(中巻)を間に挟まなければ完成には至らないことになった。まずは、これらをもって今までの「神の法陣」の回顧録とし、次の語りは「神の法陣」の本篇に移行するつもりである.。
..

恐らくは来年の春からであり、十数回にわたる連載をもって「神の数学」は完全終了になる予定である。あとの人生はゆっくり「数」と会話を楽しみ、誰も知らない「神の秘密」の更なる奥を探って見ることにしたい。

要するに、これからが驚くべき本格的な神の知を語る連続の「数の物語」の神髄が始まるのであり、今までのは単に「神の数学」のプレリュードに過ぎないもの、本当にあるべき「数の概念知」を翳(かざ)したものと思ってもらいたい。

恐らく、今までの「神の数学」の内容はあなた方の持つ知を脅かし、苛(さい)なむことになったはずであり、ある程度、カンフル剤としての役割は果たしているはずである。ひょっとすると、これから始まる「神の法陣」の本篇は現代知にくるまれてノホホンと過ごして来たあなた方を絶望の淵に立たせることになったかも知れない。

ただ、その結末とゆく末は神のみぞ知るである。

 私も今回からは歯にものを着せぬことにして、思っていることをずけずけ言うつもりである。恐らく、神道の概念さえも変えてしまうことになるのかも知れない、大いにその危惧はあるのであり、ひょっとすると、ここで日本神道が新たに衣を着替えて世界に飛び出す契機になる可能性も十分い残されているのである。これは今の日本神道にとっては最後の活性化のチャンスと言うものである。

 ここにある内容を十分に模索検討し、その上で異考、異存を抱いている方は、ぜひ、その証拠となるものを揃えてシッカリ異議等を申し立ててもらいたい。 ただし、訳の判らない神道談義や理由理屈の通らない神道講釈は一切ご無用にしてもらいたい。

別に私は日本神道を謗(そし)ろうとしているのではなく、逆に日本神道を擁護して、永遠なる命を保つことを切望してやまない由緒正しい日本民族の一人である。恐らくは純な縄文人のDNAを最も引き継いでいる最後の一人であると自分では考えている次第である。そして、どういう訳か、この滅亡の際に立っている「神さびた神道」には愛着を感じて仕方がないのである、私の中の何かが大いなる過去に繋がりがあって、それが今生では芽生えとなって現れているのであり、恐らくは何か重大なご縁があって、このような仕儀と相成っているのであろう。

そのような訳で、神道に反逆を企てる謀反者等と捉えられることになれば、まことに我慢がならない、それだけは取り違えないでもらいたい。 それだけは改めてシッカリお願い申し上げることにしたい。

 これから、恐らくは、神道家諸氏には初めて耳にする言葉、驚きの余り卒倒するような驚くべき言葉がポンポンと飛び出すので、あなた方は面食らうばかりか、腹を立てるような羽目になるかも知れない。

もし、どうしても私の発言が気になる御仁がいるならば、是非とも、拙宅を訪ねて心のモヤモヤを消し去るがよい。その時は改めて、あなた方の持っている自説、すなわち、ご高説をしっかり伺わせていただくことにし、その上で、望むなら私の神道談義をジックリと申し上げることにしたい。しかし、単なる好奇心や、物見高さで訪れることだけは遠慮してもらいたい、わたしも、最早老年であり、そろそろ「あの世」へ出向するための身支度を始めなければならない身なので…。

 おっとっと、またもや脱線しきりである、ト、ホ、ホ、ホー…、情けない。 自分ではなるべく本筋から外れないように気をつけてはいるのであるが…。

 

私が掲げ,奉っている古神道発のダイナミックな「自然の理」は、あなた方が何千年も引き摺って来た「神道知」とは方向が全く違っていることに気が付いているであろう。要するに、最初の基盤となった「記紀」などに記されている大元の知からはまったく異なっているものと言うことである。

よく考えて見ると異なっているのは当然なことである。

現在の神道家の持つ神道知のすべては「記紀」、すなわち、「古事記」や「日本書紀」に記載されている言葉からの引用により、改めて作られた、真実の無い、うわべだけの言葉に過ぎないものであり、全体をまとめる芯と言うものが無いような気がする。なぜならば、あるべき本来の神道知はすでに失われていたので、仕方なく「記紀」を参考に新たに作り上げて世に出した二番煎じの「神道」のように思われて仕方がないのである。それは何となく、全体的にストリ-が幼稚っぽく、意味があまり判然とせず、真実があまり感じられないと言う理由によるものである。

要するに、すでに失われていたものを後代の人が噂を下に作り上げた「レプリカ」、すなわち、「事実と異なるもの」、それが時代と共に生きて来たのが現在の「日本神道」の言葉と考えているのであるが、如何であろうか…!?。

その証拠が、遥か神代から伝承されて来たあまたの「神典」や「天地の言文記録」、伝承されて来た「御宝古文書」などは神道と佛教の争いの中で火中に投じられて燃やされてしまい、すべての神代からの尊い伝承物は完全失われてしまったと古代文献には記されている事実があることである…!!。

 

要するに、その結果、古神道の神髄である「カムナガラの道」をはじめすべての神道の資料は完全に失われてしまったと歴史書は嘆いているのである。それは誰も否めない事実であり、辞書にもそう記されている。

それからその後の1400年間は仏教が日本を牛耳(ぎゅうじ)り始め、仏教全盛の世の中が始まったのである。要するに、その後、神道色はますます薄れ、ひたすら仏教色に染められていったのである。その後、明治維新になって初めて神道は復活を果たしたのであり、「日本神道」として新たな衣をまとって再び、お目見えしたのである。

 

 そのような訳で、この1400年と言う長い間にすべての「神道の道」は忘れ去られ、日本神道は名ばかりの存在で中身は何もない状態が続いて来たのはご承知の通りである。今、現在でも、おそらく、その延長であり、あまり事態は変わってはいない。要するに、神道復活の面目は果たしたが、そこにある内容は相変わらず乏しいまま、忘れ去られたままでであり、依然として変わってはいないのである。要するに、すべての真実は失われてしまい、ただその形骸があるだけである。                

すなわち、現在の「日本神道」は本来あったはずの「自然の真実」とか「自然の理」などの自然の知は何無く、、そこには単なる、空しい言葉や人を圧するようないかめしい祝詞の類だけが漫然と身を寄せあって並んでいるだけである。まさにそれらは前後のつながりがない意味不明の言葉の群れであり、持ってきて付け足しただけの空虚な姿であることがすぐに判るものである。

 しかし、神道研究者達は言う、日本神道は古代からの伝承道であり、古来からの言葉通りのものである、だから、その古代の言葉をしっかり守っているのであると…!!!。

しかし、考えて見てほしい、その旧態依然の姿こそが現代の神道の衰退の大きな原因であり、滅亡寸前の危機を招いている最大の要因であることを…!!。今では従来からの仲間である日本民族にも理解されることは無く、そっぽを向かれている状態なのである。

 ましてや、今のままでは世界の人々の理解を得ることなどは夢のまた夢であり、逆立ちしても出来ないことは皆さんのご承知のことであろう。

 

  さて、さて、あまり本当のことを言うと怒られそうである、時間とぺ-ジが失われる前に本題に入らなければならない、急ごう、急ごう…!!。

 

 まずは、その前に、神道に関係するいろいろな言葉、すなわち、神道文言言葉の本当の意味と言うものを調べておくことが必要であろう。なぜなら、これら神道言葉の殆どは本来の意味から離れたものであり、そのほとんどが遥か後発の神話物語である古事記や日本書紀、あるいはその他の風土記の中からの転用されたものばかりである。要するに、それらは、あるべき自然の主観性が欠けているものであり、あるのは転用当人の意識が強く入っているものばかりである。従って、あまり当てにはならないものと考えるべきであろう。要するに、一応は神道言葉ではあるが、それらを裏づける確たる証拠と言うものは何も無いのである。 そのあたりのことは心を使えば、誰にでも判るものである。

 そのあたりに目を付け、そこから始めて見よう。まずは日本神道の持つ神道言葉の本当の意味と言うものをハッキリさせ、そこにある明確なアイデンテテイを確立させておかなければ、世界に出しても誰も相手にされず、無視されるだけである。
 よく考えて見るがいい、今までは、余りにも曖昧にして正確性を欠いていた言葉の故に同胞の日本人の心さえも取り込むことも出来ず、ただ、ただ、そっぽ向かれ、見放されることが甚だ多かったことを…!!。

とにかく、今のままで世界に出しても意味不明で外国人の魂を揺るがすことは決して出来ず、ただ嘲笑をかうだけである。要するに、何事も最初にハッキリとしておかなければ人の心をつかむことは出来ず、人々が寄って来ることもないのである。

今までのような甚だ曖昧模糊な状態、日本人でさえ目を白黒させるような意味不明の神道言葉をもって世界を相手にしょうと言うのでは余りにも虫がいい話しであり、とんでもない話でもある。

そんなに世界は甘くは無く、そうは問屋は卸さないのはあなた方も十分にお判りのはずである。とにかく、どこかで一つケジメをつけて置かない限り、前には進むことは全く不可能なのであり、それが出来なければ、日本神道はジ・エンドとなって完全消滅するだけである。是非、そのことだけは心に置いてもらいたい。

 

 

《古神道の言葉》

   
 〔表裏一体〕

   《従来の解釈》

 二つのものの関係が、紙の表と裏のように密接で切り離せないことを言う。

   《「神の数学」による解釈》

「あの世」と「この世」は表裏一体の関係であり、切り離せない一体構造的に作られているものである。

要するに、「あの世」と「この世」の一方だけでは成り立たず、片方が無くなれば他方も成り立たず、共に消滅してしまうと言うことである。

また、「あの世」と「この世」を合体させれば、本質0の「無」の世界になってしまうのである。これらすべては古神道の「カムナガラの道」にハッキリと「数」で記されているのであるが、しかし、今のところ誰も知る者はいない。

  「カムナガラの道」、それはまさに「神」の導く自然の「哲理の道」であり、永劫に変わることの無い「宇宙自然の大道」なのである。

  《八百万の神々八百万の神々》

     《従来の解釈》

古代より、日本人は天地自然の中に八百万の神々を見出し、畏れ敬ってきている。神々への畏れ敬いは、天地自然への畏れ敬いを示すものである。です。日本人は八百万の神々を一般自然の中に見出すことで、天地自然の崇高さを直に感じ、共生しながら生きて来ているのである。

  《「神の数学」による解釈》

 日本の古代の人々は遥か神代(超古代) から伝承されて来た神道の真髄言葉、すなわち、自然の理を説く「カムナガラの道」の中に記されている八百ヶもの大量の「神の律理(自然の法則)」を見出し、それを「八百万の神々」と名付けて大切に崇め奉っり、祭ってきたのである。しかるに、この「カムナガラの道」が行き方知らずとなると同時に、当然、この「八百万の神々」も詳細不明となり、ただ、記憶の言葉を頼りに「沢山の神々」と呼ばれて、現在まで人々を導いて来ているのである。

要するに、「八百万の神々」は今でも自然と共に在る実在の「宇宙自然の律理」の存在を語っているものであり、それを「神」と崇めて祭り上げてきているのである。 この「宇宙自然の律理」は常に我々と共に在り、我々を見守っている存在なのである。 
 ただ、ひ弱な真理眼しか持たない現代人の我々には見えない、感じないのであり、それゆえに、今では完全に忘れ去られ、誰も知らないのである。
ちなみに、オックスフォ-ド英英辞典で「神」の項を調べて見ると、「神」とは宇宙自然の律理、法則であるとある
 要するに、我々はあまりにも「神」を擬人化して人間に味方する存在と考えていたが、それはとんでもない間違いなのである。もう一度、考えて見る必要があることを知らなければならない。

 見るがいい、「ひふみ神示」には次のように書かれていることを…!!!。

「八百万の神々神集いに集いたまひ 天の岩戸あけ放ち、天の弥栄弥栄に智湧きに智湧き」とあり、最後には「網母(ひふみ九九算)の九の字はことごとく定まり、弥勒の世と成りふるなり」で結ばれているのである。
 それはまさに、今現れている「カムナガラの道」のの内容を語っているものであり、そのままの姿を表している言葉と言ってもいいものである。

 
 恐らく、今まで日本神道を守って来た人々からは「いい加減なことを言うな」、「証拠を出せ」との怒号が飛び、激しく私を責め立てるであろう。

 しかし聞いてほしい、現に、私のつたない知で解き明かしただけでも、この「カムナガラの道」の中に潜在する「神の律(自然の理)」の数は少なく見積もっても500ヶは遥かに超え600ヶに近いものである、そう計算は告げている。しかも、私はそれらの大部分は5,6分も時間があればあなたがたに解き明かし、告げることが出来るのである。

すると残るのは200ヶ少々であり、ここで、あなた方の協力を得ることが出来れば最早800ヶの到達などは夢ではなく、簡単に出来ることになるものである。

古代から用いられて来た聖なる神道言葉の一つである「八百万の神々」の由緒とその真実がやっとここに来て解き放されて真実が明るみに出される次第である。今、やっと「天の岩戸」が開かれ真実の「神々」が世にその姿を見せようとしているのである。要するにこれから始まるのが神ながらの日本文明であり、西洋文明の自然簒奪文明(剛構造)に対する自然と協調、協和の文明(柔構造)の姿である。

 まさにこの事実は言祝(ことほ)ぎの極みであり、弥栄の三唱の運びと言うであろう。しかし、誰も弥栄をしない、言祝ぎもしない。

 

古来から「数」には秘儀的な要素が多々あると言われ、多くの数学者や哲学者達はそれを求めて辛吟苦労を重ねて来ているのであるが、今のところ、何も明らかにはされてはいない、その尻尾さえも掴んではいないのである。

 ところが、今回、そこにあったのは、あまりにも理路整然とした「神」の知のお出ましであり、その驚くべき威力に圧倒されて考える力さえも失ってしまうような姿を持った「神の叡智」、すなわち、失われた「カムナガラの道」の出現そのものであったのである。

 私は常々言っている、「神」は偉大なる数学者であり、「数」を駆使してこの宇宙自然を創り上げたと…!!。そして「神」の言葉は「数」であるとも…!!。

 

 このまま言葉だけで更に進んで行けば「大ぼら吹き」、「ペテン師」、などのあなた方の怒声が聞こえそうである。それではせっかく、ここまで「神の数学」の筆を進めて来た今までの私の努力も無駄になり、甚だ寝覚めが悪い状態になるのは間違いの無いことと考えている現在である。

 そこで勇を奮ってここに記した「八百万の神々」の正体を少しずつ「数」で明かし,それをあなた方にここで伝えて行こうと決心した次第である。

しかし、あまりにも完全に「数」を用いてで詳細説明を行った場合、あなた方は考えることもなくただ数字をなぞるだけとなり、数を見出す面白味と言うものは何も感じられないはずである。そこで、私はすべてを言葉と文章だけで、ことの次第を書き込んで行くので、あなた方はそれをしっかり読み解いた上で、その答えのとなる数字を取り込んで並べてもらいたい。それにより、すべての真実は明らかになるはずである。ハッキリ言えば、何も難しいものではなく、すべては小学生並みの知能で計算が出来る容易(たや)すいものであり、少しばかりに洞察力があれば、簡単に紐解くことが出来るものである。

  今回は基本的な問題、簡単なる問題から始めるので、まずは文言通りに「数」をシッカリ置いて、その経過をゆっくりと考えながら始めてもらいたい。

 

 まずは例によって、

「カムナガラの道」(ひふみ九九算表)を掲げて置くので、説明言葉通りに「数」をシッカリ拾い上げて真実を見出してもらいたい。

とにかく「数」をシッカリ読み込むことである。なぜなら、生半可な読み方は己を失うばかりか、すべてを滅茶苦茶にしてしまう恐れがあるからである。


 

 

〔基本的な計算のルール説明〕

 まずは基本的な「数の問題」から検証して見よう。ここにある「数」を計算するためには、ルールを知らなければならない。このルールを定めたのは「神」であって、私ではない、わたしはそれを発見し、あなた方に伝えるだけである。そこにあるルールはこの「カムナガラの道」を計算する際には、どうしても守らなければならず、守らなければ自然の道の正しい答えと言うものはは決して現れては来ないことを知ってほしい。

 

そのルールとは計算の場合、この「カムナガラの道」の図の左半分に現れている0のすべては0と置くことであり、また、右半分にある0はすべて9と置くことが必要である。また、中間にある場合の0はその時に応じて0と置くか、9と置くのかを決めればいいのである。

そのあたりの真実は次の「カムナガラの道」の各数列の計算答を綿密に検討すれば容易に見出せるはずである。

 

 

 

 





  基本〔その1〕

 (1)

この図のように0と9を法則通りに置くことにより、ここにあるすべての横、あるいは縦の数列の和(Σ)はキレイに45になり、一桁化して9になり、0になるのである。これはすなわち、ここにある横10ヶの数列、あるいは縦の10ヶの数列の本質はすべて0であることを示しているものである。すべては「神の理」、すなわち、「自然の律理」の確たる存在を告げているものであり、我々にはどうにもならないものである。更に、好奇心のある方は、数列を構成している相対的な位置にある単数に目を向けてほしい。
それらの二つの単数のすべては加算すると9になり、0になるのである。まさに、それは宇宙人の数学の語る通りであり、この「カムナガラの道」の神髄と言うものである。更には、全体の数も加算すると9であり、0であることはお判りであろう。
この単数の計算は0であり、数列の計算もすべて0、更には全体の計算も0であることは、すなわち、one is aII であり、aII is one を歌っている物理学理論の「ブ-ツストラップ理論」の正しさを物語っているものである。その数は縦10ヶ、横10ヶであり、それに全体の数の0を加えると21ヶか…?。
 
 「ブ-ツストラップ理論」……
(宇宙の個々は一つの相互に関連しあった全体であり、それぞれの中に全体があり、全体の中にそれぞれの個がある。要するに、個は全体を含み、全体は個を含むでもあると言う一つの自然宇宙論である)

 要するに、ここにある0とは内面的な本質(見えない本質)の表れであり、9は外面的な表れ、すなわち、表面的な(形、姿)を表わすものである。それを例えて見れば、あなた方の心は内面的な本質の表れを持って「見えない世界(潜象界)」に対処しているものであり、あなた方の体というのは外面的な現れをもって「見える世界(現象界)」に対処しているものなのである。それはまた、自然宇宙の究極の二元性原理であり、それに沿っている存在が「陰」と「陽」の言葉である。また、「無」と「有」、「意識」と「物質」などの有象、無象的な相対言葉の綴りもまったく同じものである。

  (2)

ジックリと見るがいい、この「カムナガラの道」(ひふみ九九算表)を横の中心線で上下に分ける。その上で中心軸から上下対称位置にある各数を見てほしい。すると驚くことに、それらはすべて加算すると9になり、0になる。それもすべての数に当てはまるものである。その組み合わせは全部で50ヶある。その姿はまさに、何回も紹介しているあの「宇宙人の数学体系そのものなのである。何と、誰も存在を信じなかったあの「宇宙人の数学体系」はしっかりと「ひふみ天地の数歌」の中に生きていて真実を語り続けているのである。それはすなわち、古神道の神髄、すなわち「カムナガラの道」と「宇宙人の数学体系」は完全に同一同根のものであることを証明しているものである。
 要するにそれらは 0+9=9、1+8=9,2+7=9,3+6=9、4+5=9を表すものであり、縦の中心線においてもまったく同じである。要するにそれは、50組の多くにわたって存在し、すべては本質0になることを歌っているのである。

 (3)

 この「カムナガラの道」(ひふみ九九算表)を横の中心線で上下に分ける。その上で中心軸から上下対称位置にある各数列を見てほしい。すると驚くことに、それらを加算するとすべてが0999999990になり、見事な9の連数が現れ、本質0を示すのである。  、① 0123456780+0876543210=0999999990  ②0753186420+0246813570=0999999990 ③ 0360360360+0630630630=0990990990=0 以下④、⑤同じ…。
 また、次に、「カムナガラの道」(ひふみ九九算表)を縦のの中心線で左右に分ける。その上で中心軸から左右対称位置にある各数列を見てほしい。すると驚くことに、それらを加算するとすべてが0999999990になり、見事な9の連数が現れ、同じく本質0を示すのである。

 (4)

また、その縦の中心線から左右に分けた左半分の数列を加算すると、上から0123456780となる数が並び、また、右半分の数列を加算すると上か0876543210と数は並んでいるのであり、それら右と左の数を加算するとここにもまた、見事な0999999990と言う九の花が咲いているのである。すなわち、これらが「ひふみ神示」にある「九の花」であり、神々が熱く所望している「九の花」の満開な姿なのである。また、そにには「九の道」を早う開いてくれよ、早う伝えてくれよ…、と言う神の言葉もシッカリ添えられているのである。
 また、「九の道」は真理の道でもある。また、そこにはあるではないか…、フジは晴れるぞ、大真理世に出るぞ、新しき太陽が生まれるのであるぞ…と、フジとは不二、すなわち、二つとない「真理」のことである。すると、すべては明らかになり、現代西洋科学に代わる新しい太陽(「学」)が日本に現れて来るぞよ、と歌っているのである。
 
 (5)

 さあ、ついでに煌びやかに並ぶ「斜めの数列」を見て見よう。そこには二つの対角線がある。一つは右上がりで、もう一つは右下がりの対角線数列である。この二つは常に直角、すなわち90度位相が異なる「陰」と「陽」の性質をもつものである。まずは、その相対位置にある二つの斜めの数を加算して見よう。

  ①  0140770410+0850220580=0990990990→9999999999.②026323620+073676370=999999999、③03866830+06133160=99999999、④0410140+0580850=9999999、⑤053350+046640=999999、⑥06560+03430=99999、⑦0770+0220=9999、⑧080+010=999、⑨00+00=99、⑩0+0=0→、これらすべては九の花であり、九の花が咲き誇っているのである。また、これを更に開けば、90、81,72、63、54、45、36、27、18、9、0となり、一桁化すればすべては9になり、0になるのである。まさに、九の花の妙技であり、「自然の理」そのものである。またそこにある各数の和は ① 3+6=9→0 ② 3+6=9→0 ③ 2+7=9→0 ④ 8+1=9→0 ⑤ 2+7=9→0 ⑥ 1+8=9→0 ⑦ 4+5=9→0 ⑧ 1+8=9→0 ⑨ 0+9=9→0 ⑩ 0+0=0となってすべては0となるのである。
要するに、すべては9になり、0に還ると言っているのである。ただ、この09の仕組みは未だ学者達には明かされてはないのである。それだけ、頭が固い、融通が利かないと言うことであり、「現代数学」の熱烈な信者である故に理解不能なのである。


   「ひふみ神示」は言う、「道開く理の極みは九」であると。数と字の絶対は()の道であり、弥栄の答えは九の御座の問いに開くぞとある。また、「仲良しになって道伝えよ、道を説けよ、九九を伝えよともあり、 また、今度の御用は九の花を咲かすことじゃ、真理に九の花咲くのであるぞともある。。

 (6)

この表の横の中心軸を対称軸にして上下を二つに折る、すると、すべての「表」と「裏」の重なった数は加算により9となり、全体的に0となる。すなわち、上半分(陰)と下半分(陽)を合わせるとすべてが0になるのである。それは、神道にある【表裏一体】と言う言葉であり、「裏」と「表」の関係を意味するものであり、神道では「裏(あの世)」と「表(この世)」 は一枚の紙の裏と表のようなもので決して切り放つことは出来ないものであると言っている。しかし、「カムナガラの道」はその二つ、すなわち、「あの世」と「この世」を合わせる、すなわち、「あの世」と「この世」を経ることにより「0の世界」に入り、すべてはそこからまた、新たに始まるのであるとハッキリ言い、その道を教え、導いているのである。 

 

(7)

次に、図の縦の中心軸を対称軸にして左右を二つに折る、すると、すべては(3)同様に重なった数は9となり、すべては0に同値化する。すなわち、左面(陰)と右面(陽) を合一により0が生じるのである。それは、神道にある【表裏一体】と言う言葉そのものである。神道はこの世を「顕世(うつしよ)」、あの世を「幽世(かくりよ)」と言ってその間を人間の魂は常に輪廻を繰り返しているのであると繰り返し伝えているのである。この古神道の「カムナガラの道」とは宗教などではない、宇宙意識の持つ普遍叡智でありながら、我々にとっては「超叡智」とも言うべき大変有難いものである。 天明さんも言っているではないか、「今までの日本の宗教は日本だけの宗教、このたびは世界のもとの、三千世界の大道ぞ、教えではないぞ…」、と。 また、

 

 さて、またもや紙数はジ・エンドを告げている、残る「八百万の神々」の正体は次回に持ち越さなければならない。甚だ、不本意ではあるが…!!。

 

でもここまででも「神々の叡智の数」は最小でも200柱は遥かに超えているはずである。今まで私の見出した神々は500柱以上と言っているので残りの300余の神々の存在は次回に回すことになる。

まずはあなた方には、今回のこれら200柱の神々をしっかり見出し、その真実を検証し、それを心に置きながら更に歩を進めてもらえることが出来れば、これまた、まことに幸いである。

 

 すべてはあなた方の心次第によるものである。西洋の科学者達のように、「神などは無い」と思えば「神」は無いのであり、それゆえに「神」の恵み、導きなどは一切無いのは当然である。しかるに、面白いことに一般西洋人の90%は「神」の存在を信じているそうであり、「神」の名を唱えていると聞いている。

また、同じように、日本人にそれを問えば、90%は「神」を信じてはいないと言う、しかし面白いことに、彼らの99%は神棚を祭り、「神」を崇めているのである。何だろう、この不思議な「心のあや」は…!!?。   
                                                                                             
                                                                                                      今月(2016年,12月)

                                                                                                      

 

   「神の法陣」大精義講()

  さあ、一つ『数の語り』を聞こうではないか…!!

    
      『カムナガラの道』を言祝(ことほ)ぎて (下巻)

                                                  2017年1月上載)

ここに示されている内容はすべて古神道の奥義祝詞「ひふみ天地の数歌」からもたらされた真実である。驚いたことに、「ひふみ天地の数歌」とは一つにとどまらず、その奥には隠された複数の本体が鎮座し、そのすべてが「ひふみ…天地の数歌」の姿をその奥に秘めている不可解な構図を持っているものなのである。その奥に秘められている本体本義、それが「カムナガラの道」と呼ばれる行方不明の古神道の神髄であったのである。

『カムナガラの道』、それは数千年前に失われてしまった古神道の神髄を語るものであり、驚くべき「自然の理」の存在を明かしているものである。そこにあるのは現代西洋科学が懸命に解いて来た物質世界は単なる「見せかけの世界」であり、その裏には「物質世界」の基盤となる大いなる「精神世界」が本質を見せながら横たわっていることが語られている大変、重要なものである。 なおかつ、その中で「物質世界(この世)」と「精神世界(あの世)」は裏、表の関係で常に連携しながら存在していると語られている。

しかも、その「語り」は誰でも聞くことが出来るのであり、誰にでも理解が出来るものである。そこには難しい計算式とか難解な数学符号などは何も無く、小、中学生でも簡単に解き放つことが出来、意味を理解することが出来るのである。ただし、素直な心と深い好奇心と洞察力に富む方であればである。

さあ、前回の〔中巻〕に続いて、この〔下巻〕でも古神道奥義である『カムナガラの道』の中に鎮まる『八百万の神々』、すなわち800柱の神々の正体である「宇宙自然の理」を明らかにして見よう。現在の日本神道にある漢字で記されている神々の名は大変難しく、意味不明が多いのであるが、恐らくは神道書には漢字で300か~400柱くらいは明記されているはずである。

しかし、その正体や役割はまったく不明であり、従って何も判らないのである。 要するに、昔から延々と名前を連ねて淀んでいるだけの神々であり、その名前なのである。恐らく、これからも相変わらずそうであり、1000年経っても、その本性が解明されることは間違っても無いであろう。

そのあたりから察すると、恐らく、100年も経たない中に、厄介払いにされて徐々に姿を消してしまうことになると思われる。要するに、何ら役に立たず、意味不明で邪魔なだけと言うことになり、自然に消滅してしまうと言うことである。それが、自然の決まりであり、「神」の心と言うものである。

それに比べると、この古神道奥義である『カムナガラの道』の中に鎮まる『八百万の神々』はそろってハッキリと、宇宙自然の基盤である一つの「宇宙自然の理」を歌い上げているものであり、あまねくその姿を開示しながら人知れず鎮まっているものである。要するに、そこには八百柱の神々が声無き声を上げて、一つの自然の秘言定理を厳かに歌い続けているのである。

この「カムナガラの道」と言う10×10の小さな方形の中に宇宙自然の八百柱の神々が鎮まっていて、宇宙自然のある一つの真理真実を等しく説いていると言ってもあなた方は信じられず、ただ、ただ、笑い転げるだけであろう。

そこで私はこれらの「神の秘儀」を改めて糺し、かつその秘言を明らかにしなければならない、それが現在の世においては必要、すなわち、意識的に敏感な方々に覚醒を促すことが早急に求められているからである。

一つ、断っておきたい、我々人間は「神々」を擬人化し、人間とのリスポンス(会話)が出来ると考えているようではあるが、それは大きな間違いである。

そもそもも、最も古い辞典である「オックス。フォード英々辞典」を調べて見ると、「神」とは自然の律、すなわち自然の持つ「絶対的な法則」を指すと記されている。要するに、自然の持つ「普遍的な理」、「人知では信じられない自然の妙力」、すなわち、「自然の律理」、それが「神」の正体であると言っているのである。

 何と…、「神」とは自然の力のことであり、あまねく自然宇宙に広がっている「自然のリズム」、「自然のエネルギー」、すなわち、「自然の持つ神妙な力」を指す言葉であると言っているのである。すると、すべては了解されるのであり、現代科学との共通点もシッカリ見出せると言うことになるのである。

現代物理学は言う、そこには絶体的な強い力とそれをサポートする弱い力の組み合わせがあり、常にバランス的には均衡し,助け合っていると…。しかし、今の段階ではそれ以上の説明をすることは出来ないようである。

その関係を神道では「天の神」と「地の神」と言う相対的な神々の姿であり、西洋流にいえば、「絶対神」と「自然神」の関係と言うものである。 また、日本神話にもあるではないか、「天津神」と「国津神」の両神の存在が…。
 要するに、神々と我々の間には『次神』と呼ぶ「神もどきの存在」があって、それが「神々」との仲介役を果たしているのである。その存在は「神のエネルギー」と「人間のエネルギー」の中間の波動感覚を持つ「エネルギー体」であり、ある程度「神のエネルギー」と波動を共有し、「神の力」を持っている存在しているのである。それを称して、我々は自然霊、すなわち、精霊、物の怪、妖怪、ゴースト、などと呼んで、恐れながら讃えているのである。

もっとハッキリ言えば、それは神界と人間界の中間にあってかすがいのような役目を果たして両者を繋いでいるのである。そのあたりの様子は「カムナガラの道」の図を見れば誰でも一目で了解し、納得がいくはずである。そのあたりのことを西洋の物理学者のイツアック・ベントフは次のように述べている。

「スピリチアルの最上層(次神)は「『神』のレベルと混じり合うので、ハッキリとした境界線を引くことは大変難しい、そのため、次神は神の知識と構造に直につながっているのである程度の神の力を持っている」と…。

そう考えると、日本人の「神の知識」と「西洋の神の認識」とはまったく一致するのであり、いささかの差異はないと言うことになるのである。

 

さて、冗長な説明はこのくらいにして、そろそろ本題に入いろう。

さて、先回約束した通り、今回も続いて「カムナガラの道」と言う10×10の小さな方形の中に宿る『八百万の神々』の姿とその[不可思議な力」、「不可思議な業」を見出して見ることにしょう。
 恐らく、あなた方はまたもや、大ぼら吹き、白昼夢的な妄想であると声を揃えて私を攻め立て,嘲るるであろう。

まあ、それだけこの言葉の責任は重大で、かつ歴史的な重みも十分にあるものなのである。確かに、一歩、一歩、慎重に筆も進めて行って期待に沿わなければならないと言う強い責任感がひひ、ひひと湧いてくる現在である。
 もし、期待に叶わないものならば、無視されて終わりとなり、軽侮されてハイ、さようならですべては終わることになるのは明らかなことである。

そのような訳で私も責任を持ってシッカリ説明するので、あなた方も今回の命題の真実性を懸命に追及し、納得していただきたい。

これは日本民族の威信を賭けた「古代知の真実証明」であり、更には「意識文明」の先駆けともなる日本古代叡智の「真実の語り」なのである。もし、笑われて終わりとなれば、それは現代知の限界を示すことになるのであり、それ以上の知の発展は夢のまた夢と言うものであろう。

 

『カムナガラの道』に『八百万の神々』を見る…!!

  ①   この『カムナガラの道』の中には3×3の方形が8×8ヶある。そのどれでもいい、その一つ選んでその中にある9ケの数を加算して見てほしい。
   すると必ず、9の倍数になり、一桁化して9となり、0になるのである。→「神の秘儀」の数…64ヶ

 

  ②   どれでもいい、選んだ3×3の方形の中心にある数(A) を取り出し、更にはその中心数を囲む周りの数(B)のすべてを加算してもらいたい。するとすべての表の(A)と(B)の関係とは0と9、1と8、2と7、3と6、5と4の関係になり、加算すると9になり、0になるのである。まさに、ここには見事な「宇宙人の数学」が顔を出し、全体を締め括っているのである。  「神の秘儀」の数…64ヶ

 

  ③   どれでもいい、選んだ3×3の方形の横列を加算すると、そこには必ず3、6、9(0)の数か、0、0、0、が現われて、答えとなるのである。また、縦の数列を加算すると同様に、3、6、9(0)の数が現われるか、または0、0、0、が現れるのである。 それは、要するに、そこにある3、6、9(0)と0、0、0、の本質は同じものであることの証明である。 「神の秘儀」の数…8×8×2=128ヶ

 

  ④   この『カムナガラの道』の中には3×3の方形は8×8ヶ=64ヶある。どれでもいい、その中から1ヶ選び出し、それを凸と凹の二つの形に分解する。すると一つの3×3の方形の中には 上が凸、下が凸、右が凸、左が凸の4種類があることになる。そこで、これらの凸と凹の中にある数を加算する、すると、4種類の凸と凹の中の数の加算答は必ず、0と9、1と8、2と7、3と6、4と5となり、あの「宇宙人の数学」が現れるのである。そして、これらの二つの数を加算するとすべては9になり、0になるのである。その姿はまさに宇宙人の数学万歳である…!!!。 「神の秘儀」の数…8×8×4=256ヶ

 
⑤   この『カムナガラの道』の中には、古神道の「一霊四魂」の仔細が詳しく語られている。要するに、それらの詳細を計算すると次のようになる。なお、最初の直霊(ナオヒ)とは天(神)と繋がっている神に最も近い霊であると古神道は伝えている。

 

①  〔一霊四魂のエネルギー(数)的証明〕

◎直霊(ナオヒ)=最外側の枠の0の群れ…5×9×4(周辺の4数列)=180→9→0(天(神)と繋がっている神に最も近い霊である)

◎荒魂(アラミタマ)=2番目の枠の数列計算…36×4(周辺の4数列)=144→9→0

◎和魂(ニギミタマ) =3番目の枠の数列計算…27×4(周辺の4数列)=108→9→0

◎幸魂(サチミタマ) =4番目の枠の数列計算…18×4(周辺の4数列)=72→9→

◎奇魂(クシミタマ) =5番目の枠の数列計算…9×4(周辺の4数列)=36→9→0 

 

要するに、中心部の数から改めて並べると、36、72、108、144、180となり、比に直すと、1:2:3:4:5 となるまた、この36、72、108、144、180を一桁化すると9の倍数であり、すべては0の姿となることを知ってほしい。まさに、そこには自然数の姿である「ひふみ天地の数歌」,の冒頭部分、すなわち、1,2,3,4,5が浮かび上がって来る不思議があるのである。

もう一つ、言って起きたい、ここには「空間的存在」と言う一つの真実的な傍証もシッカリ存在して、ゆるぎない真実の叫びを歌っているのである。それが②の「空間的証明」である。

これまでは「数(エネルギー)」による「ひふみ天地の数歌」の存在であったが、今度は「セル(空間)」による「ひふみ天地の数歌」の存在が浮かび上がっているである。要するに、それは一つの傍証的な検証の存在であり、共にゆるぎない真実の叫びを歌っている数の証明と言うものである。

ここには数(エネルギー)による計算実証とセル(空間)によるセカンド・プルーフの存在と言う二重になった自然の証明ネットがあることに注意を払ってもらいたい。
 それは要するに、誰も否定の出来ないと言うことである。


②〔一霊四魂の空間的証明〕

   最外側の枠の数…10×4=40 

  2番目の枠の数×4=32

  3番目の枠の数×4=24

  4番目の枠の数×4=16

  5番目の枠の数×4=8

中心、すなわち⑸⑷⑶⑵⑴と数を並び替えれば、8、16、24、32、40、となり、比に直せば、1:2:3:4:5となり、同じく「ひふみ天地の数歌」がまたもや現れて来る。また、それらのエネルギーと空間の関係を調べると次のようになる。

 〔1〕    大きい数(エネルギー)を小さい数(空間)で割ると次のようになることが判る。

最外側の枠…180と40→180÷40=4,5

2番目の枠…144と32144÷32=4,5

3番目の枠…108と24→108÷24=4,5

4番目の枠…72と16 →72÷16=4,5

5番目の枠…36と8 → 36÷8=4,5


 〔2〕 
小さい数を大きい数で割ると次のようになる。

最外側の枠…180と40→40÷180=0,222222222…

2番目の枠…144と32→32÷1440,222222222…

3番目の枠…108と24→24÷1080,222222222…

4番目の枠…72と16 →16÷72=0,222222222…

5番目の枠…36と8 →8÷360,222222222…

 これは要するに、エネルギーと空間の間には一定の関係、すなわち、定数が存在していることを示しているものである。ただし、現代物理ではまだ捉えられてはいない。

要するに、「エネルギー」と「空間」は常に密接な関係で結ばれていることを「数」はいみじくも語っているのである。これが「数(エネルギー)」と「空間」が語るセカンド・プルーフ(傍証)と言うものであり、そこには決して遺漏は無いものである。

                                      ここにある「神の秘儀」の数…50ヶ~60くらいかな!?。

さて、さて、もう少し驚いてもらうために、ある程度、高邁な理論体系について調べて見ることにしょう。本来は易しい話ではあるが、あなた方、現代知に酔いしれている方々には到底信じられない話ではある。出来るなら、あらゆる知を総動員してこの真実を突き止めてもらいたい。それは結局あなた方のためになるはずである。

 大分以前の話である、この「カムナガラの道」は「あの世」と「この世」を表している「平面図(2次元)」であり、その上下の0群を重ねて立体化(3次元)し、更に、左右の0の群れを重ねて超立体形(4次元)を作ると、それはちょうどリンゴの芯を抜いた形となり、縦と横の長さが同じドーナツ型の形が現れる。それは科学用語では「トーラス形」と呼ばれているものであると語ったことがあるが、あまり興味を持つ者はいなかった。

 現代科学は「この世(物質世界)」、すなわち「見える世界」だけを視野に置いて、その原理の探求に大わらわであるが、それではまったく不完全なものであり、まさに片ちんば同然の理の探求であると言ってもいいものである。それでは決して円満大乗の自然真理を見出すことなどは出来ないのは当然なことである。

 要するに、この「カムナガラの道」は「あの世」と「この世」を含んで一体化している完全究極の図であり、それゆえに、すべては完全円満循環の世界であり、すべての運動エネルギー形態のプロセスは循環して0に還り、それを繰り返して永遠の姿を保っていると言う自然の最終的な形が示されているものである。

 本来は、「あの世」と「この世」は双対的な存在でありながら、一体の存在でもあり、同時的な存在でもある。だから、エントロピーは常に一定値のままで、増えもしなければ、減りもしないのが真実である。しかるに、「あの世」の存在を無視している学者達はこのままではいずれ、エントロピーは増大して宇宙自然は圧死してしまうと大騒ぎをしている。しかるに、冷静な学者達はそんなことは無い、確かに形而下の世界ではエントロピーは増大し続けるが、それは形而上の世界の存在を考えないからであり、形而上の世界を入れて共に差っ引き勘定をすれば、常にエントロピーは一定の値であり、増えもしなければ、減りもしないと言っているのである。要するに、これは先端の科学者たちは形而上の世界、すなわち、「あの世」の存在を認めている、いや、認めなければ自然の象は成立しないと言っているのとまったく同じことである。

 さて、本題に入ろう、古神道の奥義祝詞である「ひふみ天地の数歌」の本体である「カムナガラの道」には現代科学を遥かに凌駕した驚くべき究極の「自然の姿」が開示されているのであるが、その事実は誰も知る人はいない。ただ一度だけ、あなた方の知の程度を探るために、この「神の数学」の講座の中でその事実を披露したことがあったが、案の定、目をとめて舐め回そうとするものは誰もいなかった。

 私も、それっきり忘れ果て、今の今まで、再掲しようとも思わなかったのである。

 

さて、もう一度申し上げよう、これは、どうあっても「神(自然意識)」が作り、人類に与えた究極の「自然宇宙原理図」としか思えないものであり、どう考えても、人間の知などでは想像することも及ばないものであるもし、人間の手になるものであれば、現代人の百倍も千倍も程度の高い知能の持ち主である古代人の存在があったと言うことになるのである。それとも、神話にある宇宙から舞い降りた神々、すなわち、宇宙人が残して行ったものかも知れない。要するに、それほど、我々にはふさわしく無い「知のエビデンス」の存在であり、我々の知にはまったく似つかわしくないものである。そういえば、有名な国学者であった大正から昭和にかけて活躍した山田孝雄博士は「アイウエオ五十音図」をして、とても人間の手で作られたものではなく、「神」の手になるものであると言っている。私もそのことは断言できる、なぜならば、「アイウエオ五十音図」の中には現在西洋で有名になっている「ソルフェジオ周波数」が見事な形で鎮座してその威を広く示しているからである。 悲しいかな、本家本元の日本人は誰もその事実を誰も知らないのである…!!.。

この「ソルフェジオ周波数」とは一種の秘言、すなわち、呪文でもある。それは「神」との交信、あるいは「人間の魂」に語り掛けることの出来る自然の波動原理(リズム)と言うものである。要するに、「ソルフェジオ周波数」のすべてが、この「アイウエオ五十音図」の中にシッカリ存在しているのであり、何時でも、誰にでも簡単に取り出すことが出来るものである。

 しかも、それを見出すための基本図はどうしても、古神道の「カムナガラの道」の力を借りなければならない。要するに、「カムナガラの道」の基本図こそがすべての自然の始まりであり、その終わりまでフルに示しているものである。この「カムナガラの道」の別名は「宇宙次元原理表」とも言う。ただし、これは私が命名した初期段階での名称である。

 

何をタワケタことを申すのかと、あなた方は大笑いするであろう…!!。

しかし、これから申し上げることをしっかり理解すれば、そのあたりの疑念はすべて解消し、あなたは一段と高みの意識世界、すなわち、「自然真実の知」の世界に入っていくことが出来るのである。要するに、素直になれば、あなたはすべての「自然真実」の姿を一瞬で知ることが出来ると言うことである。

 

それではこれから「自然真実の知」の世界を垣間(かいま)見て、そこにある真実を引っ張り出し、それと現代宇宙物理学の見出した究極の自然真実を対比させて見よう。そうすることにより、現代物理学の進捗度を考査することが出来ようと言うものである。果たして、現代物理学は自然の真実を正しく追っているのであろうか、私は大いに疑問を感じている次第である。

 現在、現代宇宙物理学は理論のみの追及であり、実証などはまったく不可能である。それは己の作った罠、すなわち、実証不能なものは科学ではないと大言壮語し、多くの自然理論を葬り去った来た過去がある。ところが、今ではその事実とまったく同じ行程を自分たちが歩んでいるのである…!!。 それは、まさに自縄自縛の最たるものと言ってもいいものであるが自分達は気がつかないのであろうか…!!。

 

「カムナガラの道」は宇宙自然の心を語るものであり、自然の真実を「数」で開示しているものである…!!。

 「カムナガラの道」、それは「宙自然の律」を高らかに語っているものであり、そこにある繊細な「リズム(波動)」の妙理を歌っているものである。「リズム」、それは変幻自在でありながら、その強力自在な調べを持って自然の象に濃淡を描き、万象を生み出しているものである。あなた方は知らないであろう、現代物理の先端を行く「量子物理学」の正しい名前は「波動物理学」であることを…!!?。

 要するに、「波動」の変化が森羅万象を生み出しているのであり、しかも「0」と言う絶対性を持った無の波動が森羅万象を生み、育(はぐく)み、そして統(す)べているのであり、いわば、すべてを生み出す波動の母体と言ってもいいものなのである。

まさに、「0」は絶対神、最高神であり、他の追従を許さないものなのである。

 

 さて、さて、またもや余計な講釈をしてしまった、ぺージも尽きかけようとしている、急いで本筋の結末を記しておかなければならない、急げ、急げ…!!。

 何回も申し上げているが、この「数」で記されている「カムナガラの道」の上半分、すなわち、上段の5列の数列は「この世」の存在を表しているものであり、下段の5列はそれと対称的な「あの世」の姿を表しているものである。

要するに、「あの世」と「この世」が相対的に向き合って対峙し、「0の世界」を作り上げているので、すべては円滑に推移しているのである。この場合の円滑な推移とは、エネルギーが「あの世」と「この世」を循環して初めてエントロピーが0になり、そこで改めて新しい出発点に戻り再生可能な状態になると言うことである。それが、すなわち、万象の輪廻転生と言う自然律であり、現代科学が未だ掴んでいない究極の物理象なのである。

 

 そのあたりのことをシッカリ説明しているのが、この類まれな「カムナガラの道」であり、古神道の真髄ともいうべき素晴らしい古代の伝承遺物なのである。

 

それをもう一度、改めて説明申し上げることにしょう。

 ①  この「カムナガラの道」は平面図、すなわち2次元図である。その上下にある0の数列を重ねて、円筒形を作る、それが3次元図であり、立体図と言うものである。すると、縦に走る数列はすべて見事な循環体となって無限的に循環を始めるのである。見るがいい、それらの数列はすべて1巡して本質は0となって、再び新たな走りに向かうのである。しかも、永遠にそれを繰り返して無限循環に入り、止むことはないと言うことを「数」は教えてくれているのである。(神の秘儀10ヶ)

 ②  さて、次は①で作られた3次元体、すなわち、立方体の左右の両端を見てほしい、すると、その両端は0の数列で作られていることが判るであろう。今度はその両端の0列を重ねてドーナツ形を作る、すなわち、4次元体を5次元体に変体させるのである。この5次元体とは、すなわち、超立体と言うものであり、我々には馴染みの無いものである。するとどうであろう、今度は横に並んでいる数列はすべて、1巡して本質は0となって新たな走りに向かうのであり、またもや、永遠に無限循環を繰り返して止むことはないことになるのである。要するに、縦の数列9ヶ横に数列9ヶが無限循環に走って常の0の状態を作り上げているのである、。 (神の秘儀10ヶ)

 

③  次はそこに並ぶ、斜めの右上がり(10ヶ)と左上がり(10ヶ)の二つの見事な「神の数列」、すなわち、鏡面対称数列の姿を見るがいい、それは超立体の中で見事な鏡面対称の姿を持って一巡し、すべては本質は0となって新たな走りに入っているのである。要するに、これら40ヶの鏡面対称数列は調和しながら、永遠に無限循環を繰り返すと言う循環システム回廊を作り上げているのである。   (神の秘儀40ヶ)

これらが本来の古神道の「カムナガラの道」に鎮まる神々であり、八百万の神々と呼ばれているものであり、すべては「0の本質」を持って鎮座しているのである。

 よく考えて見ると、日本には古代から「0の本質」、すなわち、「すべては0から生まれて、また最後には0に還るのであり、すべては空しいものである」を歌っている言葉は大変多いことに気付く。

 

要するに、この「カムナガラの道」を筆頭に「イロハ歌」や「アイウエオ五十音図」も同じく「無常の世界」である「あの世」を歌っている哲学的な意味を持つ言葉であるただ、あなた方は教えられてはいないだけであり、西洋言葉に目くらましをされているので、気が付かないだけなのである。

 また、言葉では「色即是空」、あるいは「諸行無常の響きあり」が有名であるが、西洋言葉には無い内容なのであなた方は軽く見ているのであり、内在する深遠な意味を解すことをためらい、躊躇しているだけなのである。

 

 では次回は「アイウエオ五十音図」に宿っている驚くべき「神の秘儀」を改めて探し求めて見ようではないか…!!。

 要するに、この「カムナガラの道」を案内図にして、本当のあるべき真実自然の道をあなた方と共に訪ねて見ようと言うのである。そこには驚くべき自然の真実が隠されていたのである。まさに、それは驚ろき、桃ノ木、山椒の木である。

 要するに、この「アイウエオ五十音図」は「この世」の見せかけの姿だけを表しているものであり、「あの世」の部分が欠けているものである。その全体図を「カムナガラの道」の基本図を案内に、あるべき「あの世」をあぶり出し、完全な形を作り上げてから宇宙次元の真実を辿って見るとすぐに判る。そこにある「アイウエオ五十音図」完全な姿は「カムナガラの道」と瓜二つのものであり、それはまさに真実とは二つとは無いものであるとの自然の証言とも言ってもいいものなのである。しかし、極楽トンボの日本人は誰もその事実を知らない……!!!。

 まさに、すべては驚ろき、桃ノ木、山椒の木であり、開けてビックリ玉手箱である。すべては「数」が教えてくれているのであり、「数」が語ってくれているのである。

  「数」はまさに自然真実の語り部であり、真実のメッセンジャーと言うものである…!!!。

 

さて、興味深々な方々よ、次回をお楽しみあれ…!!!。

                                  今月(2017年,1月)               

 まことに申し訳ない、せっかく作り上げた大切な2月分の資料がパソコンから消失不明となり、
回復が不能となった。色々と手を尽くしたのであるが
もはや私ではどうにもならないので最初から作り直すことにする。

 よって、2月は休講となる、よろしく、御

    
  「神の法陣」大精義講()

  さあ、一つ『数の語り』を聞こうではないか…!!

   『アイウエオ五十音図』の隠されている秘儀を読む…!!

                     (上巻)

                    2017年3月上載)

 

 それは大分以前のことである、私は「ひふみ…天地の数歌」と「アイウエオ」は古代においては双対の祝詞であったと語ったことがある。しかし、ある神社の神主はそんなことは未だかって聞いたことがない、それは確かか、一つ判るように説明してもらいたいと恐ろしい形相で詰め寄られたことがある。
 しかし、約束は果たせなかった、なぜなら、彼はそれ以降の講義の席には現れることはなかったからである。何故だろう、そのあたりのことを思い出しながらこの稿を書いている。恐らくは、あまりの不見識極まり無い私の発言に愛想が尽きたのであろう。

 考えて見れば、この問題をわずかな時間で答えを出すことは難しい。なぜならば、これは神道の歴史始まって以来の重大な確認事項であり、本来なら大勢の神道学者たちが詮議して真実を確かめるべき神道上の重大な事項であるからである。しかし、残念ながら、今の彼等は今までの旧態依然な神道を守るだけであり、新しい解釈に対してはただ、目を瞑(つむ)るだけであり、呼びかけても、ただただ無視して聞こえない振りをするだけである。 それが大変悲しい。

 それは己の道を狭くするだけであり、神道滅亡の歩を早めるだけである。それを防ぐためには本当の神道の面目に沿った真実というものをシッカリ見出して世の中に出し、人々の関心を引き付けることが必要なのである。
 なまじっか、過去の神道知をそのまま引きずって、守っている限り、これまで以上の発展を見ることは決してなく、ただ無明の闇に飲み込まれて消滅するだけであろう。もし、神道の存続を願い、更なる発展を望むならば、このあたりで、気持を新たにし、装束も一新して再スタートを図ることが最もいい方法なのである。それにより、日本神道は再び見直され、間違いなく世間の耳目を惹くことになるのである。
 それは見識と格式を重んじる老人などではなく、これから世の中に出ようとする敬虔な若者達の役目であり、 完全な世代交代が、今どうしても必要となるのである。要するに、すべてを一新し新たなスタ-トを切ることにより、新しい天地の展開が始まり、神道は再び日の目を見ることが出来るのである。

 幸い、ここに古神道から現れた「カムナガラの道」が甦り、世の中にこれから羽ばたこうとしている時であり、それと相まって宇宙人の数学である「システム オブ ナインズ」が見いだされていると言う千載一遇の貴重なチャンスである。まさに「陽」と「陰」の関係を持つ鍵と錠が相揃って開錠されるのを待っている願ってもないチャンスが訪れている時なのである。すでに時は熟しているのであり、今度はあなた方が目を覚ます番である。この今こそ、この鍵と錠をシッカリ持って開錠しなければならない大切な時なのである。

  さあ、「カムナガラの道」の真髄については先回とどこおりなく3回に渡って公表され、諸氏の目に留まったはずであるが、あまり、信じて検証をする者もいなかったようではある。
 もっとハッキリ言って置くべきことがある、それはこの古神道の秘儀である「カムナガラの道」を解き得たからと言って、けっして慢心してはいけないと言うことである。要するに、この古神道の奥義である「カムナガラの道」は、言ってみれば一つの解き方の指南書、すなわち、単なる手引き書であり、サンプルに過ぎないものなのである。 要するに、これをどのように用いるかによりもう一つの本当の「本編、カムナガラの道(仮称)」の出現を促すことにより、そのあるべき本性をシッカリと見定めることが出来ると言うものである。ここで言う「本編、カムナガラの道(仮称)」とは、すなわち、今回から始まる「アイウエオ五十音図」における不可思議な数の流れであり、その本流を辿ることにより、宇宙のエネルギ-的な構造、あるいは宇宙の形状さえも知ることが出来るのである。それにはただ本気でぶつかり、本気で攻め立てることである。
 そのことだけはシッカリ心に置いて学んでもらいたい。汝、奢れるなかれの言葉と共に…!!。

言ってみれば、それだけ「神々」の懐は奥深いものであり、いくら頑張っても所詮我々人類の知などは足元にも及ばないものなのである。ただただ、我々は敬虔に学ぶことであり、素直に教えを乞うだけである。

  一つ、これだけは言っておきたい、これらを解くことが出来、かつ知ることが出来るのは、ただただ我々日本民族だけであり、その中でも特に太古の血を引いていて、感性がすこぶる敏感な者達だけである。要するに、これから彼等がその主導を務め、伝承知の伝道と言う責任を果たしていかなければならないのである。その上で、人間のまだ知らない「自然の叡智」を見出し、自然と轍を共有しながら未来に向かって歩を進めて行くことが必要なのである。

 さあ、今回はお約束通り、古神道の双璧祝詞であった「アイウエオ五十音図」に鎮まる八百万の神々を紐解いて、その正体を解いて見るつもりである。これはまさに、先回の「カムナガラの道」を凌ぐ稀代の「数の仕組み」を持っ素晴らしいものであり、まさに我々に与えられた叡智の白眉と言うものであり、すべては「神」の手になる稀代の名品中の名品と言ってもいいものである。是非、何回でも反復検証し、納得のいくまで繰り返し調べてもらいたい。
 確か、だいぶ以前に一度掲上したことがあるが、なんせ、藪を棒でつついたような感じがしただけであり、まったく反応は無かったことを覚えている。
 恐らくは、あまりの私の文のお粗末さと奇想天外の呆れた内容に並みいる諸氏も呆れ果てて、それ以上に注意を払う者はいなかったと言うことであろう。 
 そこで時期が少々早かったのかと自分を慰め、数年間、暖めておいたのであるが、如何にせん、年も年である、墓場まで持っていくのもはばかれるので、今回稿を新たにして書き換えて纏めて見たところである。ぜひ、持てる蘊蓄の限りを用いて「我々の知」と異なる、この別次元の知に挑戦してもらい、新しい知の発掘に力を貸してもらいたい。

その上で、あなたの知を如何なく発揮してこれらの「神の叡智」を完全に学び取ってもらえれば大変うれしい。 恐らく、これらは〔上〕と〔下〕の2巻、あるいは〔中〕を含む3巻となってお目見えすることになるはずである。

 何回も申し上げるが、これらは遥か古代にあっては双対の古神道の奥義祝詞である「ひふみ天地の数歌」、すなわち、「カムナガラの道」と「アイウエオ五十音図」は双璧の祝詞とし「神」にささげられ、謹んで取り扱われていた稀代の「神に捧げる奏上言葉」の真実である。しかも、それもだんだん年月を経るにしたがって内容は忘れられ、ついにはすべてが失われて、無明の闇に消えてしまったものである。
 それを称して歴史上では行方知れずとされて、内容は完全に失われてしまったと言われているのである。要するに、これは歴史の犯した一つの過失の一端と言うものであろう。

ただ辞書にあるのは次の言葉があるだけである。すなわち、カムナガラの道とは「神代から伝わる、神意のままで人為を加えない日本固有の道」と…。
 
 さて、あまりの繰り言を言っていても仕方がない、本義に進むことにしょう。

 まずは、過去に発表した「アイウエオ五十音図」はただ「この世」についての真実を記したものであり、「あの世」については少々憚りがあったので遠慮し、上載をとどめたが、今回は遠慮はせずにすべてをぶちまけるつもりである。それにより現代科学がいかに過ちの道を歩んで来たのか、そして、その結果、結論の無い押し問答、果ての無い推測をを長年続けてきたのか、あなた方もだんだん解って来るはずである。

 これも今回をもって最後とするつもりであり、恐らくは二度と言及することはないであろう。何故ならば、、次の「神の法陣」と言う大物に取り掛かるので手一杯と言うことになり、余分なことにはあまり拘泥されたくないのが本音である。なお、このことについては今後、あなた方で自由に調査して、検証してもらって論議のまな板の上に乗せてもらっても結構である。 最初は難解と感じるかも知れない、しかし、一つ、一つと謎がほぐれていくにつれて、心は歓喜の渦に包まれ、心に満足感が広がってくるはずである。

ただし、これらすべては人類知の向上発展のため、新しい未来文明の開化を目指すための一つの知の試金石としたいので、私的な流用、利益的な使用はできるだけ遠慮して貰いたい。

また、質問、あるいは懐疑については何時でも問い合わせ次第で即、答えることにしているので遠慮は無用である。ただし、私の知っている限りにおいてである。

 もう一度言って置きたい、この「アイウエオ五十音図」は大変面白くて、興味の尽きないものであるが、恐らくは数年、あるいは数十年かけて調査してもまだまだ謎は残るであろう。また、現代科学の粋をいくら集めてもこの「アイウエオ五十音図」の語る内容には遠く及ばず、ただただ、地団駄を踏んで口惜しがるだけであろう。
 何故なら、そこには「あの世」と「この世」の仕組みや、輪廻転生の仔細とその仕組みと言うものをはっきりと「数」で記し、案内されているからである。
 まずはそれを探し出して理論化することから始めてもらいたい。何故ならば、それにより現代物理学でも知り得ない宇宙自然の正体、すなわち、形やその仕組みが明らかになり、それと同時に、現代科学知と自然の叡智の溝も少しずつ埋まり、すべては丸く収まることになっていくからである。

それについては参考意見を求められれば私は知っていることを答えるだけであり、本来のあるべき真実についての余分な推量は差し控えることにしたい。
 なぜならば、あまりにも、奥が深いので、私は入り口だけしか知らないからであり、それが理由である。甚だ口惜しいが、未だ、奥には立ち入ることの出来ない哀れなれな状態にあるのである。

 では大分以前に掲上した「アイウエオ五十音図」を『ひふみ…天地の数歌』で開いた図を、改めて次に再掲するので、その理(ことわり)をもう一度改めて考えてもらいたい…。
 この「アイウエオ五十音図」は何回も言うように、超古代においては『ひふみ…天地の数歌』と共に神に奏上されていた双対の奥義祝詞の一つである。

その明らかな由縁や、理由はそこにある「神の秘儀」を開いて行けば自ずから判って来るのである。何故ならば、この二つはまさに姉妹と言ってもいいくらい内容がなったく酷似し、言っていることがまったく同じことだからである。 まさに、この二つは秀逸で、かつ稀代な「数の語り部」と言う正体をもつものである。その理由は内容を調べると誰にでも判るであろう。



   
「アイウエオ」の縦の相を『ひふみ天地の数歌』で観て見よう。

 

これは「アイウエオの図」を縦に見て、そこに12345…の「ひふみ天地の数歌」をやはり縦に置いていったものである。要するに、アイウエオ、カキクケコの場に連続的な数、123456780を循環形式で次々と置いていくのである。また、この形式は祝詞「ひふみ天地の数歌」を奏上する場合の連続して3回行うと言う神道の行事から引用したものであり、一つの循環形式を表しているものである。

 ただしである、我々の知っている「アイウエオ五十音図」は「この世」、すなわち、我々の現実の世界(物質世界)を表しているものであり、この図と接して「あの世(意識界)」が存在することを「カムナガラの道」が語っていると何回か述べたことを思い出してほしい。。

要するに、すべては「カムナガラの道」が案内する通りに「数」を進めてゆけばいいのであり、その通りに「数」と言う駒を動かせばいいのである。何故なら、前にも言った通り、「カムナガラの道」の図は指南書であり、その手引き書としての存在に過ぎないものだからである。

 

まずは、「アイウエオ五十音図」とまったく同じ枠、すなわち、横10×縦5の枠(あの世)を作って「アイウエオ五十音図」の下に密接して並べて横10×縦10の枠を作るのである。それから【その2】を参考にそこにある縦の数列を次々と伸ばして「数」を入れていく、そのようにして出来上がったのが「あの世」と「この世」を内蔵している完全次元図であり、まことに不可思議な3次元図(平面図)なのである。要するに、この2次元図(平面体)を基本として立体図(3次元体)が生まれ、更にはそこから超立体(4次元体)が産み出されるのである。ここで言う2次元体とは縦と横の平面体であり、3次元体は2次元体の端と端を結んで重ねた円筒形(立体形)、また、超立体(4次元体)はさらに、その円筒形の両端を重ねた形がド-ナツ形、すなわち、ト-ラス的な超立体構造体となるものである。あなた方の科学物理では一つずつ要素が多くなることにより次元体は次々と高次元体に変貌すると言っているようであるが、それもその根拠が崩れてハッキリとは理論検証が出来ず、現在ではまったくおざなりの状態でまったく進展はしてはいない。もう、数十年来、止まったままの状態であり、少しの動きもない。

 自然の本当の姿とは 1次元の姿は点、2次元は縦と横の平面、3次元は縦と横と高さを持つ立体、4次元は??と言われている。要するに、ある現象が2次元体(平面)の最下端からさらに下に進んで隠れ去った次の瞬間、自然的に3次元体(平面)の最上端から現れて来るような構造体、それが3次元体、すなわち、平面体の上下を結んで作られた円筒形(立体形)なのである。それは我々の考えではありえない不可思議な現象なのである。しかし、それは3次元的な意味では当たり前であり、何の不思議もないものなのである。模型を作って試してみれば誰にでも判る簡単な理屈であり、自然のまっとうな当たり前の理屈である。
 その宇宙模型の作り方の詳細は、お尋ねがあれば何時でもご送付申し上げるつもりである(次元本体と組み方の説明書共)。それは決して矛盾はないものであり、真剣な目と忌憚のない真心が有れば誰にでも理解が出来るものであり、誰にでも組み立てることが出来、深い感銘を与えて止まないものである。 

また、3次元体における斜めの数列(2ヶ)は、上下、あるいは左右で消えて失われてしまうが、その消滅を防いで円滑な数字の群れを秩序正しく出現させて面目を保っているのが4次元的な構造体、すなわち、ト-ラス構造体(ドーナツのような形)である。要するに、我々3次元の世界では不可思議千万に見えるのであるが、自然的には当たり前な現象なのである。そのあたりはト-ラス体の模型を作って検証して見れば小学生にでも判ることである。
 すべては「数」が語ってくれるのである。そのあたりはあなた方も、これから「数」の足跡を辿っていくと自然に判るようになるはずである。とにかく、「数」の跡をシッカリと追い、そして、思考を重ねることである。そして、現れた真実は決して疑がわないことである。なぜならば、「数」は「神の分身」であり、決して嘘はつかないし、いい加減な行動は取らず、常に規則通りに動くからである。

 

さあ、次の図は「アイウエオ五十音図」に縦に「ひふみ…天地の数歌」を置いていったものである。一見すると何のことは無い「数図」、意味のない「数図」に見えるが、しかし、右側のΣ(加算数)を見ると、上から順を追って123456789となる自然数が秩序を持って流れていることから重大な真実を語っていることが判る。すなわち、それは全体としては一連の繋がっているものであることを示するものであり、「この世」と「あの世」は連続している「完全体」となって永遠を紡いでいることを表しているもの、すなわち自然の持つ証明数列と言うものである。

 
  
 

 さあ、ここからますます面白くなってくる、古神道の双対祝詞である「アイウエオ五十音図」の真骨頂が始まり、古代のロマンが再び甦り、「真実の舞い」を踊ることになるのである。

まずはご説明申し上げよう。上部の10×5の数の図は「この世(物質界)」の場であり、それに接している下部の10×5の図は「見えない世界」である「あの世(意識界)」の姿である。
 その二つを用いて作り上げた本来のあるべき「自然真実の世界」の姿がこの「数図」、すなわち、「アイウエオ五十音図」の語る「あの世」と「この世」の物語である。

 要するに、この自然界は「陽(見える世界)」と「陰(見えない世界)」と言う相対的な世界から成り立っことにより、「完全世界」が形成され限りない永遠を紡いでいるのである。この下半分の赤い数はあの世の数であり、
 本来は見えないものである。
その見えない数を強引に引っ張り出して「見える化」したのが上の図である。要するに、「この世」に納まっている数を、その流れに沿って下してきたものである。それが正しいか、正しくないかは
 この図の最右にある横数の加算数を見れば解るはずである。そこには間違いなく、この世の数の12345が並び、あの世の数の67801につながっているである。要するに、正しいとすうがご宣言しているのである。

 

 そのような訳で、今回は主に我々の住む「2次元の世界」、すなわち、平面上の不可思議な「数の語る物語」について説明することがどうしても必要である。

 別に難しくはない、小、中学生にも解けるものであるが、恐らく、あなた方現代知の賢者には判るであろうが、知者には皆目不明であり、首を大きくひねることであろう。

 

 別な言葉で言えば、これらは古神道の八百万の神々の現実的な存在を物語る由緒のあるものであり、史上未だかって開かれたとの無いものなのである。

 そこでは八百万の神々が一斉に声を上げて何かを叫んでいるのであるが、誰も気にも留めなかったものである。その叫びとは一体何なのであろうか、何を語ろうとしているのであろうか…!!??。ここでシッカリ心の閂(かんぬき)を外してその声を聞いてもらいたい。その叫びこそが、「神」の存在を物語るものであり、「神」の証を実証するものである。 要するに、今までの「神は存在する」、いや、「神は存在しない」の論議はもう成り立たず、「神の存在」は確定的なものになっているのである。「神の存在」とその発見、それは数千年来の人類の悲願であったのであるが、もはや、その夢は達せられたのであり、「神の知」を共有できる段階に達したと言うことであろう。。

 

〔1〕2次元世界(横3×縦3)の不思議…!!。 

  この「アイウエオ五十音図(10×10)」の中にある(3×3)の2次元世界、それが我々の世界である。この「アイウエオ五十音図」の中にある(横3×縦3)の世界の秘密、そこにある不可思議な秘密の謎を探って見よう。

 不思議発見…!!、我々の世界、すなわち、3×3の枠の中のすべての数を加算するとすべては9になり、0になるのである。計 8×8= 64ヶ
 
 不思議発見…!!、これら「3×3方陣」の横列の3数を加算すると、必ず、3と6と9(0)が現れる。また、同様に、縦に並ぶ3数を加算すると、これまた、必ず、3と6と9(0)が現れる。この3と6と9(0)はミロクの数でと呼ばれている不思議な数である。   計 2×8×8=128ヶ 

不思議発見…!!、これら「3×3方陣」の中心数を含む、「縦の数列」、「横の数列」、「右斜めの数列」、「左斜めの数列」をそれぞれ加算するとすべては同一数が現れる。要するに、中心を含むこれらの4種類の数列の加算の答えはすべて同じ数になると言うことである。   計 8×8=64ヶ

不思議発見…!!、しかも、③の合計の答えの数を左から右へと並べると306306306となる自然秩序数が現れる、すなわち、そこにあるのは「カムナガラの道」の数列の現れである。 計 8×8=64ヶ

不思議発見…!!、 どれでもいい、この3×3方陣の中の1数をとって、Aとし、それ以外の8数を加算した数をBとする。すると驚くことに、A+B=9が必ず成立し、0に還元するのである。要するに、そこにあるAとBの関係数式はアメリカの砂漠に墜落したUFOの中にあった数式そのものであり、それをNASAの学者たちは「システム オブ ナインズ」と呼んでいたものである。その数式は必ず、0と9、1と8、2と7、3と6、4と5の関係にあるものであり、我々にはまったく不可解な数式と言うものである。       計 8×8=64ヶ

不思議発見…!!、3×3方陣を凸と凹に分解する。すると上、右、左、下と4種類の凸と凹の関係が生まれる。その上で凸の中の合計数と凹の中の合計数は、必ず、0と9、1と8、2と7、3と6、4と5の関係となり、その二つを合計すると必ず9になり、0になるのである。         計 4×8×8=256ヶ


これらはどうしても、宇宙人の数学である 「システム オブ ナインズ」を持ち出さなければ解決しないのである。さて、何故この数式は、超古代の古神道の中にあってその意義を果たそうと頑張っているのであろうか…!??。

この①~⑥までの不思議発見…!!、についての詳細説明については、不明であり、詳細の説明書が入用な方はお尋ねくださればご送付いたします。 (ただし郵送代と実費少々いただきたい)

恐らく、まだあるであろうが飽きてしまった、目がウルウルして来たので、あとは是非、あなた方の手で更なる検証を進めることをお願いしたい。

  何と驚いたことに、これらの声にはならない「数の叫び」は宇宙自然の真実の理(ことわり)を伝えているものあり、これをして、我々の祖先達はこの「神」の響き、すなわち、この「偉大なる真実」を「神」の姿として尊び崇めていたのである。そのあたりのことは古神道の祝詞「ひふみ天地の数歌」をジックリと調べれば誰にでも判るはずである。是非、調べることである。

しかも、その「数の叫び」は我々日本人の先人達が遥か以前から折に触れて言葉にして伝えていたものである。しかるに、我々はその言葉が宇宙自然の持つ真実理と重なっている「素晴らしいもの」とは誰も感じなかったのであり、考えようともしなかったものである。おそらく、それはあなた方も知っている哲学的な重大な意味を持つ言葉であり、今でも時々聞かれる言葉である。しかしながら、何と現代の学者でさえも、あまりにも難解なゆえに解きあぐねているものでもある。さあ、あなた方もここを先途としてシッカリ考えをめぐらして見てほしいものである。果たしてその神々が叫んでいる重大な「メッセ-ジ」のとは…!!・、その答えとは…!!?。

 

 さあ、更にここには我々の世界の理とはまったく異なった「高次元世界の理」の素晴らしい理が沢山語られているのであるが、現代人は誰一人として知らないものである。そのあたりのことをぺ-ジの尽きるまで語り上げて見よう。出来るだけ易しい言葉と、なるべく簡単な理を用いて申し上げることにしょう。

   

〔2〕3次元世界(立体)の不思議…!!

 

 次元体とは2次元体、すなわち、平面体の端と端を重ねて結び立体にしたもの、すなわち、古神道で言う「神結び」を施したものである。その場合の必要条件とは結ぶ両端がまったく同じものであることである。その上で、その同じものを重ねて一体化する、いわゆる、重合、重ね合わせと言うやつである。恐らく、これが日本神話にある「神結びの神」であろう。古事記には「神産巣日神(カミムスビの神)とあり、「陰(女)」と「陽(男)」を結びつける神とある

 その言葉、すなわち、「重ね合わせの原理」は現代物理にもあったような気がするが、恐らく、用途は違うものかも知れない。この「神結び」は易しいものであり、両端にまったく同じものが現れた場合には、それは重ねて同一視する、すなわち、完全に重ね合わせて一つにすればいいのである。

 

 さて、この完成された自然の図、すなわち「アイウエオ五十音」のこの本図(縦)をジックリと眺めて見るがいい。

すると最上段と最下段はまったく同じ数列、すなわち、まったく同じ1504837261であるのが判るであろう。これは面白いことに、「カムナガラの道」の上から5番目の数列であり、全体を加算すると0になるのである。また、これは最上端と最下端を重ね合わせて同一視せよとの意味であり、我々はそれに従って上下の両端を重ね合わせて立体形を作ればいいのである。  するとそこには円筒体が現れ、平面が立体化されたことを告げるのである。

 それと同時に、平面上のすべての縦の数列は、一つ減って10ヶが9ヶになり、九つの数を持った数列になり、その九つの数の和は必ず9であり、0となって無限循環を始めるのである。

 そのあたりのことを詳しく調べたいのなら古神道の奥義祝詞である「カムナガラの道」をシッカリ、そして徹底的に調べることである。そして、そこにあるすべての数列は本質0をもっていることを知るがいい。

 

要するに、「カムナガラの道」の横、あるいは縦の数列を加算すると必ず9となって0となることがお判るはずである。 これらすべての横、あるいは縦の数列は0の本質を持ち、無限性を持つことになると言うサンプル的な証明、それが古神道の祝詞の「カムナガラの道」の示す「数の走り」なのである。

 

よく見るがいい、この「アイウエオ五十音」の数の図を縦に読んだ数図では、縦に結んだすべての数列は0の本質を持って無限循環に入ったのであるが、横の数列はそのまま、すなわち、未完成のままである。また、二つの斜めの数列も完成されずにそのまま残されている。要するに、縦、横、斜めの二つの数列、合計4ヶの数列の中、縦の1ヶだけは無限循環に入ったが、その他の3ヶは不完全体のままなであり、完全完成体にはまだ程遠いと言うものである。

 

 その2次元(平面世界)とは動きが完全に制限されて動きの無い世界、すなわち、不自由な蝶の「卵の中の静の世界」的な存在である。そこから生まれた蛹(さなぎ)が3次元(立体世界)と言う「縦横の世界を自由に闊歩する動」を得たものである。それもやがては4次元(超立体世界)的な存在と言う羽を持つ蝶々のような存在となり、縦、横、高さ、と言う自然世界を自由自在に飛び回ることの出来ることになるのである。それは我々が生を終えた後の「あの世」の世界に入ることを示すものであろうか…!!!。さて、さて、興味が尽きない「あの世」のスト-リの物語がこの「アイウエオ五十音」の数の図の中には語られているのではなかろうか…!!?。

 

 〔3〕4次元世界(超立体)の不思議…!!

  さて、2次元体(平面世界) から3次元体(立体世界)に移行したが、まだ完全完成(超立体世界)には至ってはいないのである。まだまだ、欠陥的な要素を多分に持っているのであり、オ-ル マイテイにはまだまだほど遠いものである。

そこで、今度はこの3次元体(立体世界)を4次元体(超立体世界)にもっていくと言う最終的な変態が必要となるのである。要するに、醜く足の鈍い蛹が軽々とした舞いを持つ蝶々に変身するように次元を自然的に変態させ、完全世界に入ることが可能となるのである。それが我々の最終的な終焉の場であり、また、涅槃、極楽浄土、、「全てがあって全てが無い状態」、すなわち、無で代表されるオ-ル マイテイの世界を表しているものであろう。

 

 よく見て見ると、3次元体であるこの円筒形の両端は、またもや、まったく同じ数列が並んでいることに気が付く。それは、すなわち、その円筒形の両端をまたもや「神結び」で重ね結んで超立体を作れ、と言う「神」のやんごとない思し召しと考えるのである。 そこで更に残った両端を重ね結ぶと、そこにはド-ナツ形が現れて、完全完成に至ったことを告げるのである。それが超立体であり、物理学者たちが現在、宇宙の究極の形としている「ト-ラス体」の出現である。 それはまた、神話の世界の「古事記」では高御産巣日神(タカミムスビの神)とあり、神皇産霊神(カミムスビ)とともに「創造」を神格化した神であると言われている。
 
 するとすべては合点が行くではないか…!!。
 確かにこれらの平面図、あるいは円筒形の端と端を結ぶと言うことは、すなわち、「陰」と「陽」と言う極端的な因子を結んで新しい事象(4次元)を生み出すことにつながるのであり、神話の神々の物語もまんざらではない、真実を具体化した形で一般の人々に判りやすくかみ砕いて物語化しているのである。別に、神話をおかしな話であると攻撃しても、それが攻撃する者の思慮が足りないと言うことであり、深く考えてはいないと言うことである。
 ちなみに、現代宇宙論を語る物理学者たちはこの宇宙は4次元的な構造体であると言っている。

 

 果たして、これらの結びの工程が正しいものなのか、それとも否なのか…!?、

そこで、この数列を調べることにより、真実の如何を確かめることが出来というものであるではそこにある「縦」「横」、それに「斜めに走る二つの数列」、合計4ヶのやんごとない動きを見せているこれらの数列の答えが何を示しているのか…??、それをこれから一つ検証して見よう。

 

①   まずは、縦を作っている9ヶの数を加算して見よう。そこにある超立体化された姿、すなわち、「ト-ラス体」の縦の数列は「カムナガラの道」の2番目の数列である012345678の循環形の姿である。要するに加算数(Σ)は36であり、それは一桁化して9になり、0になるものである。

 

  ② 同じく、横を作っている「ト-ラス体」の9ヶの数を加算して見よう。それは「カムナガラの道」の5番目の数列である048372615の循環形の姿である。その加算数(Σ)は36であり、一桁化して9になり、0になるのである。

 

③   次は右下がりの斜めの数である。それは「カムナガラの道」の6番目の数列である0516273840の循環形の姿でがあり、その順を追って流れているものである。そのその加算数(Σ)も36であり、一桁化して9になり、0になるのである。

  ④ 次は左下がりの斜めの数列である。そこにあるのは、何と、面白いことに、今、西洋で騒がれているあのソルフェジオ周波数が9種類の陣を張って間違いなく並んでいるのが判るであろう。ソルフェジオ周波数とは自然の   持つ正常なリズムであり、宇宙万物の汚れたものとか、破損したものをあるべき正常なものに修復する、いわば、自然のドクタ-的存在と言われている自然の正波動(リズム)であり、9ヶ揃えて節を作り、その合計数は間違   いなく9になり、0になる不思議な数である。

 

     ソルフェジオ周波数

 

①  147147147→Σ=36→9→0     ⑤ 582582582→Σ=45→9→0

② 2 58258258→Σ=45→9→0    ⑥ 603603603→Σ=27→9→0

③ 3 60360360→Σ=27→9→0    ⑦ 714714714→Σ=36→9→0

④  471471471→Σ=36→9→0     ⑧ 825825825→Σ=45→9→0

                     ⑨ 036036036→Σ=27→9→0

 

 この「ソルフェジオ周波数」は九つの数で一つの分節を作って0になる不思議な数である。また、それは「カムナガラの道」の縦横のすべての数列でもまったく同じことが起こっていることに注目してもらいたい。要するに、すべて、すなわち、縦、横、斜めの二つ、計4ヶの構数列は九ヶと言う集合数列をもって分節を作り、本質が0となって永遠性を紡ぎ不滅な状態を保っているのである。それが4次元世界の姿なのである。

 

やれ、今月も予定ぺ-ジを越えてしまった、残念ながら、これ以上の話は来月に回そう。一回や、2回読んだくらいでは到底納得の出来ない話であり、10回も20回も手とペンで検証して、初めて納得のいくものである。

これは現代史上初めての稀代の「数物語」であり、その分、あなた方にご負担がかかり、大変ではあると思うが、大いなる興味を持ってよろしくご検証、推察をお願いする次第である。

 もし、どうしても解らない、でもどうしても知りたい御仁は拙宅に来ていただければわかるまで図面や模型で十分に説明をするつもりでいる。解れば簡単なことであり、誰にでも理解が出来るものである。
 今では日本国中、新幹線が走っているので、女子、子供でも簡単に行き来できる世の中である。本当の真理を追究するためには少々の骨身を惜しむべきではない…!!!!!。

 易しくて、難しい学問、それが「神の数学」である。一つ、ここでもう一つハッキリしないのが次元の姿である。三次元の世界とは縦横高さのある空間の世界だから我々の世界であると人は言う。
 また、ある人はこれに時間の概念を足せば四次元になる.. だから、我々の世界にも時間があるので、四次元世界であるとも言う。要するに、今のところ、ハッキリとは断定が出来ない状態である。
 また古神道の「カムナガラの道」jは言う、平面(2次元世界)を神結びすることにより、立体(3次元世界)が生まれ、その立体を神結びすることにより、超立体(4次元世界)が生まれると…。

 あなた方は、私と違って最新の現代物理学を学んでいる優秀な現代人である、だから、現代の最新物理学な考察をもってジックリと考えて見てもらいたい。そして、この哀れな老人に是非、真実を教えてやってほしい。

  果たして、我々の住んでいる世界は3次元世界なのであろうか、それとも4次元世界なのであろうか…!!??。


次回は「アイウエオ五十音図」の
横の物語であり、この姉妹編である、宜しく、ご期待のほど…!!!。

  あまりにも現代知から乖離しているものなので、私自身もこの次元の問題には四苦八苦の状態である。なんせ、数学の次元、時空の次元、物理の次元、それに、また、古神道「カムナガラの道」の次元の出現である。
 考えて見ると、確か天明さんの「ひふみ神示」にもこの「カムナガラの道」の次元のことが書かれてあるようである。平面から立体へ、また立体から複立体へとあるが、恐らく複立体と超立体は同じものであろう。
 私も本文を時々読み糺して誤謬の有無を調べて、誤りと思えるものは訂正加筆していくつもりである。そのあたりは改めて言っておきたい。 時々、来訪して読み直してもらい、腑に落ちないことがあれば直に質問して
もらいたい。 一緒に考えようではないか…。どうもこのあたりに来ると、天明さんの息吹が感じられて仕方がない…!”!。 何故…!!!。 (平成29年3月28日加筆訂正)
                                                                                                        (完)     (2017年 3月記す)

 

     「神の法陣」大精義講()

  さあ、一つ『数の語り』を聞こうではないか…!!

                     

     『アイウエオ五十音図』の秘儀を読む…!!

               (中巻)

              2017年4月上載)

 

前回は『アイウエオ五十音図』に『ひふみ天地の数歌』を縦に置いて,数の語る「神の秘儀」を見てみたのであるが、今回は『アイウエオ五十音図』に『ひふみ天地の数歌』を横に置いて数の語る「神の秘儀」を見てみようと思う。

 

 要するに、今度は前回と完全に90度異なる数の置き方を与えて見ようと言うのである。何故、そのように考えたのかと言うと、それは「カムナガラの道」がそのように作られているからである。

 よく見てみることである「カムナガラの道」は横に置いても、縦に置いても全く変わらない姿を持っていることを…!!。

 

 そのような訳で、今回はアイウエオ五十音図』に『ひふみ天地の数歌』を横に置いた場合、何か重大なしるしが現れるのであろうか、それを確かめようと言うのである。これは一つの賭けであるが、もし前回と同様な由々しい結果がもたらされた場合には、まさに天下の一大事となり、現代科学知などは何処かに吹っ飛んでしまうようなことになるのである。少々、大袈裟かな…。は-は-は-。
 しかし、是非、確かめて見る必要がある、ついて来てもらいたい。

 

 もし、これが確かな結果を生むのなら、それはまさに「神の業」であり、「神」の存在を確かなものにするものである。それでもあなた方は「神」は存在しないと叫んで、「神」を無視しょうとするのであろうか…!!。

 

 要するにこれらは「神」の存在を明らかにするものであり、いわば、「神」の存在証明となるものである。すべては「数」が語っているものであり、「数」が証明しているものである。

 
 

 

  この図は『アイウエオ五十音図』に対して『ひふみ天地の数歌』を横に置いた図である要するに、右から左へと123456780の数を連続的に置いた図である。よく見ると、『アイウエオ五十音図』の右にあるΣ数の現れは前回とまったく同じ数の群れが現れて、何かを告げていることがお解りであろう。

たしか、仕組みは90度異なるものであるが、何故、同じ数群が現れているのか、何か面白いことが起こるような予感がするのであるが…!!。

 

さて、次に、この表を取り出して、拡大し、そこに見えない「あの世」の図を連結させて「この世」の数を伸ばして入れて見る、するとそこには不可思議な結果が現れて我々の心を完全に魅了して離さないのである。ただ、言って置きたいのは頭だけで考えても無駄であると言うことであり、頭と手を用いて何回も、何回も検証し、そして考えることが絶対的に必要なことである。恐らくはその検証回数がものを言うのであり、その度にどんどん正しい答えに近づきつつあると言えることは確かである。

何故ならば、この図表はあくまでも平面図(2次元)であり、この平面図を立体図(3次元)に移行させ、更には立体図(3次元)を超立体図(4次元)に移行させていくのであり、我々の平面的な単細胞の頭脳では内容を追いかけることは出来ないからである。確か、我々の世界は3次元世界である、だから、3次元世界のことを十分に知っているつもりであると考えるのなら、あなたは完全な落第生である。何故ならば、我々、3次元世界の住人は一つ下の2次元世界のことは一目で判るのであるが、同じ、3次元世界のことは中々解らないと言われている事実がここに生きているからである。要するに、現時点でも私たちが3次元だと認識している世界は、実はある面の上に2次元的に存在するものであると言う理論が現在持ち上がっているのであり、それを検証するため、現在、米フェルミ国立加速器研究所にて実験計画が行われようとしているのである。それは「ホログラフィック宇宙論」という物理理論であり、ひょっとすると、我々の世界は2次元世界の可能性もあると言うことになる可能性もあるのである。

 

とにかく、現在の科学知では我々の住んでいる世界は「2次元世界」、あるいは「3次元世界」なのか、はたまた「4次元世界」なのか、現在ではまだ、はっきりしてはいないのが実情である。ただ、頭の中で我々は縦と横と高さを持っているので3次元世界の住人である、とか、いや縦と横と高さ、それに時間が作用している世界の住人だから、我々は4次元世界の住人であると勝手気ままに言っているだけであり、現在ではまだはっきりと確定はしてはいないのが実情である。それも「4次元」や「5次元」などは小説家か漫画家が初めて言い出したことと私の記憶は告げている。

 

一つだけ、ハッキリしていることはある、それは我々が時間を勝手に行き来できるのなら、4次元世界の住人であると胸を張って言うことが出来ると言うことである。要するに、今の我々には出来ないが、「あの世」に行った場合には時間を自在に操つって過去や未来に行けるので、「4次元世界の住人」であると言えると言うことである。すると我々は「3次元世界の住人」なのであろうか…!?。いや,それもおぼつかない、なぜならば、我々は高さの観念はあるが、高さを自由に扱い、高さを征服しているとは言えないからである。

要するに、翼を持った鳥だけが高さを征服しているので「3次元世界の住人」であると言えば言えるのである。しかし、実際はそうではない、なぜならば、鳥の高さにも制限があるからである。

ただ、意識しただけで縦、横、高さを自在にクリア-できるならば3次元世界の住人と言うことが出来るかもしれないが、今のところ、我々には無理である。。

すると我々はどうしても「2次元世界の住人」と言うことになるのであろうか…!!?。

 要するに、我々の住む世界は「2次元世界」でも「3次元世界」に非常に近い存在であり、3次元の一部を占めているのかもしれないのである

 すなわち、我々は「2次元世界」と「3次元世界」を跨(また)いでいる存在なのかも知れない。

 

 一つ、言って置きたい、学者達を含めて、あなた方は「2次元世界」、「3次元世界」、あるいは「4次元世界」は完全な別固な存在であり、完全なセパレ-ト(分離)している状態と考えているようであるが決してそうではない。それは大きな多重次元と言う全体的な塊の中の一部分を表すものであり、全体としては一つの大きな機能体を作り上げて存在しているものである。

 

そのあたりは「神の法陣」をジックリと検証を重ねれば解ってくるはずである。「神の法陣」、それはまさに驚くべき人知未踏の自然叡智の塊であり、いろいろな自然の「叡智の世界」を我々に垣間見せてくれる古代日本の「宝知」とも言うべきものである。それは多くのことを我々に教えてくれ、思いもよらない叡智の存在を語ってやまないものである。

例えば、それは中国起源と言われている「魔法陣」の虚構を完全に暴いて意味のないものとし、更には、その発祥の地は古代日本であることを数的に証明しているものである。よく考えて見ると、日本の超古代文献にその事実が述べられているのであるが、日本人は誰も信じようとはせずに、笑い飛ばして無視するだけである。

 

よく調べて見るがいい、「魔法陣」は人為的に作られたものであり、それをもって自然の心を計ろうと試みているものであるが、そこには人為的に作られているがゆえに、自然の心などはまったく無く、不届き千万なインチキ性をもつて数千年と言う長い間、世の中にはべり、居座って人々を騙して来たのである。それが自然的ではないものの証拠には、1次元は無い、2次元も無い、3次元になってやっと一つだけ「魔法陣」が出現し、4次元の魔方陣は880ヶ、5次元の「魔法陣」は何と275305224種類も存在していると言う無軌道性が見られるのである。それはまさに、不合理の極みであり、自然性などはまったく欠落しているものである。それに比べると日本の「神の法陣」はまさに自然の賜物であり、自然性を持ちながらすべては成り立っているものである。

要するに、「魔法陣」は直線主義が建前であるのに対して、「神の法陣」は循環性を持った自然の動きと同調しているものであり、自然の動きをそのまま再現しているものである。そして、「神の法陣」は自然の流れに沿って一つの方陣の解法はそれぞれ一ヶであり、しかもすべてに次元は一定の数の流れを持ち、常に他の次元と同調して流れていることを「数」が証言しているものである。そのあたりの秘密はこの講座、一つ『数の語り』を聞こうではないか…!!の終了次第改めて講義申し上げることにする。

おやおや、またも本題から脱線して余分なおしゃべりとなってしまった、さあ、再び本流に戻らなければぺ-ジはまたもや尽きてしまう…!!!。


 

  

 

  シッカリと目を開けてみるがいい、あなた方が知っているこの世の「アイウエオ五十音図」に対し、前回は縦に「ひふみ天地の数歌」を配したが、今回は「ひふみ天地の数歌」を右から左へと横に配した数図である。要するに、数の配し方を90度ずらしたものである。その「あの世」の図の下側に密着させて同じ縦5×横10の「あの世」を作り、「この世」の最後の数字を追いかけて、同じ「ひふみ天地の数歌」を配したものである。すると不思議なことが起こっているのに気が付くであろう。すなわち、縦に並んでいる数が最初の右上から最後の左下の数まで完全な連続した「ひふみ天地の数歌」のお出ましとなっていると言う事実が見られるのである。確かめてもらいたい。

要するに右上から左下の数までの「横の数列」でも、または、右上から左下の数までの「縦の数列」でも完全な連続性をもって「ひふみ天地の数歌」が現れていると言う事実である。まさに、驚くべき「数図」の出現と言えよう。

 

また、この『アイウエオ五十音図』横の物語の右にある数の現れは前回の『アイウエオ五十音図』の右にある数の現れとまったく同じ数の群れの出現であり、完全な「ひふみ天地の数歌」の姿をもって現れているのである。

この意味するところは「この世」と「あの世」は完全に連続連結している一つの自然世界であり、しかも、連結循環して、完全な連続性を保っていることを証明しているものである。それがここにある「この世」の12345であり、続いて流れる「あの世」の67801と流れている自然数列の姿である。それは、まさに完全性の極みと言うものである。

こころみに、最初と最後の数を重ね合わせて結び上げると、片方の1が消え、123456780の「ひふみ天地の数歌」が現れて、Σ=36→9→0を示し、すべては「神の心」のままであることを歌い上げていることを知ってほしい。

 

では改めて、申し上げよう。上部の10×5の数の図は「この世(物質界)」の場であり、それに接している下部の10×5の図は「見えない世界」である「あの世(意識界)」の姿である。その二つを用いて作り上げた本来のあるべき「自然真実の世界」がこの「数図」なのである。

要するに、この自然界は「陽(見える世界)」と「陰(見えない世界)」と言う相対的な世界から成り立っことにより、「完全自然世界」が形成され、限りない永遠を謳歌しているのである。我々はそこにおける平面上の「3次元の世界」、すなわち、横3×縦3の極まった世界の住人なので、平面上の現象しか見えないのであり、解らないのである。要するに、「4次元世界」とか「5次元世界」に関しては改めて「神結び」を施してそこの住人にならない限り、我々には皆目解らないのであり、想像も出来ないのである。 そのような訳で、今回は主に我々の住む「2次元の世界」、すなわち、平面上の不可思議な「3×3の物語」について説明と言うことになるのである。

 別に難しくはない、小、中学生にも解けるものであるが、恐らく、あなた方現代知の猛者(もさ)には皆目不明なものであり、首を大きくひねることになるであろう。

果たして、平面上の「3×3」の神々は一体何を囁き、何を叫んでいるのであろうか…!!?、一つそれをあなた方と一緒にこれから尋ねて見ようではないか…!!!。

 

その前に一つ断っておく、それは我々の住んでいる「この世」は果たして何次元世界なのであるのか。誰もはっきりとは断定はできないのである。そこには数学の次元時空の次元、物理の次元宇宙の次元など様々な次元があるのであり、それに、また、古神道「カムナガラの道」の次元の出現があるのである。まさに百花繚乱 いや、百鬼夜行の理論の横行であり、私も調べて見て、ただただ唖然としている状態であり、驚きを隠せない状態である。

要するに、我々の世界は「2次元世界」であるのか、「3次元世界」、または「4次元世界」なのか誰も断定出来ないのである。人々は思ったことを口にし、3次元であるとか、4次元であるとか言っているだけである。現時点でも私たちが3次元だと認識している世界は、実はある面の上に2次元的に存在するものであると言う理論が現在持ち上がっているのであり、それを検証するため、現在、米フェルミ国立加速器研究所にて実験計画が行われようとしている予定であるとニュ-スは述べている。

 

それでは「八百万の神々」の雄叫びを聞いてみよう

 

まずは、この〔2〕の「アイウエオ五十音図」の語る横の物語の図の中から、なんでもいい「3×3」の方図を選び上げて見てほしい。この「アイウエオ五十音図」の中に大雑把に言って縦8×横8の方図、すなわち、3×3=64の方図が存在するはずである。。

そして、それらのすべての方図はある一つの真理を我々に囁いているので、それを見出さなければならないのである。

それが次に示す〔不思議発見…!!〕の次第である。是非、検証をお願いしたい。

 

不思議発見…!!、我々の自然世界、すなわち、この「アイウエオ五十音図」の中にある3×3の枠の中のすべての数を加算するとすべては9になり、0になるのである     計8×8= 64ヶ

 

 不思議発見…!!これら「3×3方陣」の横列の3数を加算すると、必ず、3と6と9(0)が現れる。また、同様に、縦に並ぶ3数を加算すると、これまた、必ず、3と6と9(0)が現れる。この3と6と9(0)はミロクの数でと呼ばれている不思議な数である。 このミロクの数が現れる年は世界的な混乱が起こると言われている。     計 2×8×8=128ヶ 

 

不思議発見…!!これら「3×3方陣」の中心数を含む「縦の数列」、「横の数列」、「右斜めの数列」、「左斜めの数列」をそれぞれ加算するとすべては同一数が現れる。要するに、中心を含むこれらの4種類の数列の値は皆同じ数になると言うことである。計 8×8=64ヶ

頭で考えてもままならない、実際に手を用いて検証に走らなければ決して真実を知ることは出来ない。

 

 不思議発見…!!、しかも、③の合計の答えの数を左から右へと並べると306306306=45→9→0となる自然秩序数が現れる。また同様に、③の合計の答えの数を上から下へと並べると306306306となる自然秩序数が現れて来る。まさに、ともにそこに現れて来るのは「カムナガラの道」の4番目の数列の現れである。  計 8×8×2(縦と横)=128ヶ

 

不思議発見…!!、 どれでもいい、この3×3方陣の中の1数をとって、Aとし、それ以外の8数を加算した数をBとする。すると驚くことに、A+B=9が必ず成立し、0に還元するのである。要するに、そこにあるAとBの関係数式はアメリカの砂漠に墜落したUFOの中にあった数式そのものであり、それをNASAの学者たちは「システム オブ ナインズ」と呼んでいたものである。その数式は必ず、0と9、1と8、2と7、3と6、4と5の関係にあるものであり、我々にはまったく不可解な数式ではあるが、これを用いない限り、「古神道の秘儀」は解けないのである。       計 8×8=64ヶ

 

不思議発見…!!3×3方陣を凸と凹に分解するすると上、右、左、下と4種類の凸と凹の関係が生まれる。その上で凸の中の合計数と凹の中の合計数は、必ず、0と9、1と8、2と7、3と6、4と5の関係となり、その二つを合計すると必ず9になり、0になるのである。

それはどうしても、宇宙人の数学である 「システム オブ ナインズを持ち出さなければ解決しないのである。さて、何故この数式は、超古代の古神道の中にあってその意義を果たそうと頑張っているのであろうか…!??。   計 4×8×8=256ヶ

 

  恐らく、まだあるであろうが飽きてしまった、まだ800の神々にたどり着くには大分不足、恐らく100ヶくらいたりないであろう。あとは是非、あなた方の手で更なる検証を進めて、新しい「数の語り」を見出してもらいたいと思う。

 

  前回でも述べたように、これらの声にはならない「数の囁き」は宇宙自然の真実の理(ことわり)を囁いているものあり、これをして、我々の祖先達はこの「神」の囁きを「偉大なる神の言葉」であると感じて尊び崇めていたと思われるのである。そのあたりのことは古神道の祝詞「ひふみ天地の数歌」をジックリと調べれば誰にでも判るはずであり、偉大なるその言葉の意味も掴めるはずである。

しかも、その「数の叫び」は我々日本人の先人達が遥か以前から折に触れて言葉にして伝えていたものでもある。しかるに、我々はその言葉が宇宙自然の持つ真実理と重なっている「素晴らしいもの」、「現代科学が求めようとしても求めることが出来ないもので」もある。しかも、それは現代においても、哲学上や、科学上、大変重大な意味を持つ言葉であり、現代人は解しかねている大変な言葉と言ってもいいものである。それが、すなわち、「すべて万象は空であり、無である」と言う言葉であり、「色即是空、空即是色」と言う言葉でもある。

何と現代の学者でさえも、あまりにも難解なゆえに解きあぐねているもの、すなわち、宇宙万物の本質を見事に紐解いている言葉なのである。さあ、あなた方もここを先途としてシッカリ考えをめぐらして見てもらいたい。

 これら「カムナガラの道」、「アイウエオ五十音図」に鎮まる八百万の神々は「すべては空である、すべては無である」と声を揃えて歌い上げているのである。そのことは何回も検証すれば、あなた方にもだんだん判ってくるであろう。

 
 
また、それは我々一般庶民が好んで口にして来た「イロハ歌」にも大きな影響を与えていることに気が付く。知っているかたは口ずさんで見てほしい…!!!。

 

   「色は匂へど 散りぬるを、我が世誰そ 常ならむ、有為の奥山 今日越て、浅き夢見じ 酔ひもせず」……!!!。

 

〔3次元、4次元の世界物語〕

 

さあ、更にここには我々の世界の理とはまったく異なった素晴らしい3元世界の理や4次元世界の理が沢山語られているのであるが、現代人は誰一人として理解がまったく出来ないものであろう。そのあたりのことをぺ-ジの尽きるまで語り上げて見よう。なるべく簡単に申し上げることにしたい。

 

今回のアイウエオ五十音図』の横物語の図をよく見てもらいたい、この図の上下と左右はまったく同じ数列で構成されている。それはあの「カムナガラの道」の図と同じ構成始末とまったく同じものなので、それを見習って作ればいいのである。要するに、「カムナガラの道」と同じ理屈で、まずは上下の両端を重ね合わせ、一つにするのである。すると、縦に10ヶ並んでいた数列のすべては9ヶの分節となり、それらの9ヶの数を加算すると、どの縦の数列も9になり、0になり、無限循環を始め永遠の世界が出来上がるのである。

そして、そこに現れた形状は円筒形であり、そこに縦に走る数列はすべて9ヶとなって分節となり、、加算すればその本質は0となるものである。要するに、平面次元(2次元)から立体次元(3次元)に移行が完了したと言うことである。その移行する手法が、すなわち、両端の重ねて結ぶ方法であり、それがすなわち、「神結び」と言う神業なのである。

これがすなわち、神話が伝えている「カミ結び」の真実と言うものである。

 

この「カミ結び」と言う行為がこの自然世界を生み出し、さらに、もう一つの高次元を生み出した更なる神業行為が存在し、それが「タカミ結び」であると神話は語っている。それがこの円筒立体形(3次元世界)の両端を重ね合わせて作り上げた世界が超立体世界(4次元)の世界と言うものである。すなわち、円筒立体形(3次元世界)の両端を重ね合わせて結んだ神業行為のことを神話では「タカミ結び」と呼んでいるのである。これら「カミムスビ」と「タカミムスビ」の神業は後の世には天地造化の神々と称され、神格化されて人々に崇拝されているのである。また、それらの神々は身を隠してしまったと言われているが、何のことはない、自分達が作り上げた最高の境地である超立体世界(4次元)に行ってしまったと考えればすべては丸く納まるのである。要するに、神話は嘘やフィクション等ではなく、今のところ、我々の知ではまだまだ追いつくことが出来ないと言うのが真相であろう。

 

何時までも「神話の世界」と放っておくより、真実を語るものと考えて出来る限り活用することが大切である。やはり、神話は何事かの真実を伝えようとしているものであり、それ故に、何千年と言う長い間、消滅もせずに現代まで頑張ってきているのである。虚構であり、真実が無いものならば、とうの昔に消え去っているはずである。自然とはそのようなものである。そのあたりのことを斟酌しながら「神話」と相対しなければ真実は決して現れては来ないものである。

 

さあ、まだまだ伝えなければならないことが沢山あるのであるが、残念ながら今回も予定のぺ-ジが尽きてしまった、あとは次回に回すことにしたい。

 次回は更なる重大な真実を語り上げ、あなた方と共に「3次元」と「4次元」の持つ「神の秘儀」を見出し、それを検証してみることにしよう。

 

                                                                                                 (完)     (2017年 4月記す)

 
   

   「神の法陣」大精義講()

   さあ、一つ『数の語り』を聞こうではないか…!!

                     

       『アイウエオ五十音図』の秘儀を読む…!!

                 (下巻)

                  2017年5月上載)

 さて、今回をもって「『数の語り』を聞こうではないか…!!」は完了となり、いよいよ次の「神の法陣」の本講が幕を開くことになる。

恐らく、これらのすべてはあなた方には信じられないような「数の語り」であり、信じてはいけないような気持にもなるであろう。しかし、もっと沈着に気持ちを構え、シッカリ冷静に落ち着いて考えて見ると、すべては辻褄が合うのであり、更には「数は嘘をつかない」と言う言葉が真に迫る勢いで、頭に甦えって来て心はシュンとなって戸惑うばかりであろう。

 

もっとハッキリ言えば、あなた方の知、すなわち現代知はあまりにも程度が低くて自然の真実を見極めることが出来ないのであり、あまりにも考慮不足で足が地について歩ってはいないと言うことでもある。それでいて、自然から学んだ古代人の知については頭から馬鹿にして、信じようとはしない。

例えばである、我々の知っている日本神話の神々は古代人の空想の所産などではなく、何らかの実体を反映しているものであり、意味を持つ真のストリ-であると考えて、もっと、本気になって追及すべきものである。

1.     

例えばである、宇宙に最初に現れた「神」の名は『天の御中主(アメのミナカヌシ)』であり、最初の天地創造神であるると言われているが、誰も何らかの不審や疑惑を抱こうとはせず、何ら、チエックしょうともしないのである。

そう、そこには天、中、主の左右対称の文字、すなわち、驚くべき鏡面対称文字というものが現れていて何事かを頻りに告げようとしているのである…!!。

また、次に現れた神々の名は高皇産霊(たかみむすび)、神皇産霊(かみむすび)であり、やはり、多くの鏡面対称文字を持っている事に気がつくべきである。

そればかりではない、天の常立の神、国の常立の神、大国主の神などの古代の主だった神々もやはり、鏡面対称文字を持っていることに気がつかなければならないのである。
 また、どういう訳か、神々が新しくなるにつつれてその対称性はくずれて来るのである。

 

何故、太古の大神の名には鏡面対称文字が使われているのであろうか、何か、いわれがあるはずであるが…!!。

今まで誰もそれに対して疑問を持った者はいなかったのであろうか…!!。

何かそこには大きな秘密、歴史には記されてはいない秘密が潜んでいるような気がして仕方がないのであるが…!!。

 

考えて見れば、日本では古くから、鏡を「神」として丁寧に祭る習慣があるのも理由は知らないが甚だ面白い限りである。見るがいい、日本中の由緒ある神社の本殿には恭しく鏡が安置され、神官たちは毎日その大鏡に向かって祈りを捧げている。あなたたちはそのあたりのことは普段に見聞きしているはずであるが、今まで何か、不思議さを感じなかったのであろうか。

 何故に、鏡は神の依り代としての役割を果たしているのであろうか…!?。しかも、これは日本独特の風習なのである…!!。

さあさあ、どうして、何故…???、考えてもらいたい…!!。

 

調べて見ると、はるか大昔から鏡は「神」の代用、「神」の依り代として使われているのである。要するに、それは「神」は鏡面対称性を持っている存在と考えられていた故に、鏡は「神」の代用として崇めていたと考えられるのである。

すると何故に、「神」は対称性を持っていることに気づいたのであろうか…!!。

何か、そこにはその謂れと言うものがあるはずである。さて、さて…!?。

 

歴史的な見解としては、日本では天皇家の秘宝として3種の神器、すなわち、「玉」・「鏡」・「剣」が代々継承されていることをあなた方はご存じのことであろう。

何故、それが「玉」・「鏡」・「剣」なのであろう、その意味するところが今までには誰にも解らないのであり、何故それらがそんなに大切なのかと、昔から人々は不思議に思ってきたようであるが、その理由が一向に解らないのである。

 

それは要するに、この3種の神器の形を見れば見当がつくはずである。これらはすべて鏡面対称的な形をもっているのであり、まさに、「神の姿」に似せて作られているものなのである。でも、「神の姿」は何故に鏡面対称的な形なのかについては現代人は誰も知らないのであり、誰も想像すらしたことのない。

 

見るがいい、勾玉で表されている『玉』とは完全に閉じられた形を持っている球体を意味するものであり、平面上(2次元)で縦にひっくり返しても、横にひっくり返しても、斜めにひっくり返しても一切は変わらないものである。すなわち、全方位回転してもまったく姿が変わらないと言うことである。それは間違いなく超立体形と呼ばれるものであり、4次元的な存在と言うものである。要するに、完全完成された本当の意味での鏡面対称性を持つもの、それが球体なのである。

 

次の八咫鏡で言う鏡とは2次元平面上で360度平面回転させてもまったく変わらない姿を持つものであり、まさに鏡面体そのものと言えるものである。

 

また、草薙の剣で言う古代の剣は左右対称の形を持っている。すなわち、それは2次元平面において左右に反転(180度)させても同じ姿を持つもの、それが古代の剣である。

 

要するに、「玉」は4次元世界、「鏡」は3次元世界、「剣」は2次元世界(縦×横)を表しているものであり、すべては対称的な存在を表しているものである。恐らくは、言葉で説明するのはあまりにも複雑で判りにくいので一つの比喩により類似した具体性のあるものに置き換えて判りやすく説明したものであろう。

 

一方、話は変わって「カムナガラの道」を見てもらいたい、そこに並ぶ数は

「横」、「縦」、「斜め」の3種類の数列である。この中でも「横」と「縦」は誰にでも判るが、「斜め」の数列には誰もあまり気がいかない、要するに我々にはあまり馴染みのない数なのである。しかし、ここが大切なのである

 

ここ,すなわち、「カムナガラの道」の図上にある右上がりの斜め数列、それに右下がりの斜め数列、私はこれを称して、「神の数列」と呼んでいる。よく見るがいい、これらのすべての数列は何ということ、すべてが見事な鏡面対称の姿を持って並んでいるものである…!!。  そこにある意味とは一体何であろうか…!!。 考えてもらいたい。

 

普段、我々現代人は「縦」と「横」の関係には気を使うが、斜めの関係にはあまり言及しようとはしない。それがすなわち、直線法である「10進法」を用いている人間の宿命であり、「神」の存在を知らないが我々現代人のふだんの生き方なのである。要するに、斜めには中々目がいかないのであり、忘れがちなのである。 確かに、「横」と「縦」の関係には敏感であるが、斜めの関係についてはまことに鈍感である。

 

実際は、斜めに視線を上げたり、考えたりすることにより、インスピレーションが湧き、それにより真実に突き当たることになるのである。それは要するに、「神の心」にも触れる行為であり、それを人々は無意識のうちに行っていると言うことである。

例えばである、ものごとを懸命に考える際、ふと目を斜め上にあげると一瞬にして思わぬ答えが心に浮かんで来るのをあなた方も経験した覚えがあるはずである。

 

さあ、大分御託を並べたのでだが、今の極楽トンボの日本人、すなわち、社会の一律の流れと言うエスカレータに乗って遅れまいとしているだけの日本民族にはピンと来ないであろう。なんせ、考える余裕などない忙しい人々が多すぎるからである。

要するに、現代人の頭に無いことをいくら申し述べてもあまり意味が無いと言うことである。しかし、出来るなら考えてもらいたい、日本歴史の本当の真実を知るためにも…。

 

 さて、今回は前々回と前回の最終的なまとめを申し上げる予定である。

要するに、誰も知らない驚くべき自然宇宙の持つ最終叡智をこれから申し上げようというのである。それは未だ、現代知の遥か領外にある超叡智であるが、自然にとっては基本的な運動形態の一つに過ぎないものである。

恐らく、これは現代人のひ弱な頭でいくら考えても埒が明かないものであろう。しかし、紙とペンと自分の手をシッカリ使いながら、脳の少しを使って考えるだけで道はスム―スに開かれるのである。要するに、はじめから、次元的な基礎知の無い2次元的な存在の我々が遥か上の3次元、4次元的な存在と言う問題を垣間見ようと頑張っても土台無理なことなのである。

そのような訳で考えることは暫時とどめておいて、言われた通りに素直に手と目を動かして経過を眺めながら、少しずつ考えてもらいたい。これは本当の自然の仕組みを考える上では大変大切なものである。

ハッキリ言えばこれは易しい問題であり、自然の基本問題であり、小、中学生でも解ける問題である。しかし、その事実を現代の物理学者達は解くことが出来ず困っているのも、これまた事実である。

 

 まずは、下記の〔1図〕「アイウエオ五十音図」 〔横〕の図中を左上から右下にかけて斜め線上を走る数列、すなわち、 111…、222…、333…、等の数列を追いかけて見ることから始めてもらいたい。何故なら、,この数列が一番簡単で追いかけやすいからである。例えば、1なら、1111111111…,  2なら、2222222222…とどこまでも追いかけて見てほしいのである。それらの数の追及なら易しいことであろう。
 そうすることにより、崖っぷちが見えて追及が不能になるはずである。それがあなた方の死であり、その先はまったく不明、すべては終わりとしているものである。でも、立ち止まってはいけない、そこからまた更に何回も考えるのである。すると驚くような事態が展開されあなたは仰天することになるのである。要するに、あなた方はコロンブスの時代に地球は平らであると信じて、端に行ったら落ちてしまうと信じていた一般の人々であり、私はそんなことはない、地球は丸く、直線的にどこまでも進めば出発点に戻って来ると大見栄を切っていたコロンブスと言うことであろう。 ハ、ハ、ハ、…、例えが可笑しいかな…!!。
 ヒントは下に揚げておく。そのうちに、あなたも大切なことに気がつき、大慌てになるであろうから…!!!。 考えて見ると、大変簡単なものであるが、現代西洋科学の信者であるあなた方にとっては大変難しいものであろう。

 

もし、その追いかけている数列が最上端、あるいは最下端で途切れた場合には上下に並ぶ数列(まったく同じもの)を重ねて、カミムスビしてもらいたい。すると2次元平面は立体化されて円筒形になる。そこで、途切れた数列をそのまま伸ばすと、あら、不思議、またその数列は連続し始め、それをそのまま進むと、今度は左、または右でまた途切れることになる。

 その場合、今度は最右端の数列と最左端の数列はまたもや、まったく同じものなので、それらを重ねる、またもや「カミムスビ」を行うのである。そこで前回同様に途切れた数列をそのまま伸ばすのである。 するとまたもや、同じ数が次々に現れてどこまでも進む、すなわち終わり無き無限回転を始めるのである。何と言うことであろうか…!!?。

 

 要するに、この数表のなかのすべての「縦の数列」、「横の数列」、「二つの斜めのめ数列」が同じように終わり無き無限回転を始めてとどまることを知らないと言うことである。

 それが、すなわち、宇宙を作り上げている「循環波動エネルギーシステム」であり、ハチの巣構造であるハニカム構造(6角構造)よりも更に強い八角構造体なのである。

 

 

 その事実を下に示してある〔1図〕「アイウエオ五十音図」 〔横〕の図により確認してもらいたい。十分に納得のゆくまで…!!!。


    
   

 

ここに最も判りやすい「アイウエオ五十音図」 〔横〕 の斜めを見て見ようを掲げておいた。この右上がりを完全にマスタ-したならば、次にこの図の右下がりの対角線数列を検証するがいい。まったく同じ解法によりすべては解決するはずである。

 

さらに、そのすべてを終えたなら、次には「アイウエオ五十音図」 〔縦〕に挑んでもらいたい、そこにある二つの「斜めの調べ」もまったく同じ手順で解き放たれるはずである。まずは目と手で行い、それから考えることである。何故なら、あなた方の思索心などは宇宙の心と比べれば月とすっぽんの違いがあることが判るからである。

 

更にはその後、同じ手順で「カムナガラの道」を解き放ってもらいたい。すると、これらの3ヶは完全につながりのあるものであり、3ッ子の関係にあるものである。そうすと、やはり、昔から言われている「ひふみ天地の数歌」と「アイウエオ五十音」は双対の奥義祝詞であったと言われているのも合点がゆくはずである。

これら「アイウエオ五十音図」 〔横〕、②「アイウエオ五十音図」 〔縦〕、③「カムナガラの道」、の3者はまったく同じ経過と答えを持つものであり、それにより、揃って何事かの「神の秘密」を囁いていることが判るはずである。それをシッカリこれからあなた方と共に聞いて見ようではないか…。 よく調べて見ると、そこには何と言うこと、800柱の神々が存在して声を揃えて何事かを密かに囁いているのを見出すことが出来るのであり、その歌っている(囁いている)内容をあなた方にシッカリ聞いてもらいたいのである。

何と「数」が我々に優しく話しかけ、自然の真理を授けようとしているのであるが、誰一人として耳を傾けようとはしないのである。本当に誰も聞く耳をもたないのである。まことにもったいない話であり、不遜なことでもある。

 

 要するに、我々の最終目的はその囁きを聞いて理解することであり、それにより、我々の文明を一層の高みのある永遠にして、不動のものに押し上げて、自然と同に未来に生きながら永遠を謳歌することが可能となるのである。

 そのあたりのことを順次頭に入れながら問題解決に向かっていこうではないか。一回には無理でも、何回も試みていると自然に意識は高まり、それにつれて次第に判って来ることが多い、それが我々人間の脳の常と言うものなのである。

 

まずは、前項で述べた通りに、この「アイウエオ五十音図」 〔横〕の最上段の数列と最下段の数列を見比べることである。すると、その二つは寸分違わぬものであることに気がつくであろう。
 
そう、これが最も大切な事項であり、必要欠くべからざることである。何故ならば、それは最上段と最下段を重ねて一つにせよ、との「神」の御沙汰であり、それが一つの自然の手法なのである。これが即ち、古神道で言う「カミムスビ」と言う言葉である。 ああ、「カミムスビ」、何と言う素晴らしい言葉の響きなのであろうか…!!。

 

 〔1〕

  さあ、もう一度おさらいして一気に解き放って見よう。

まずは、その最上段と最下段を重ねる「カミムスビ」の行為により「カムナガラの道」と言う2次元平面体が3次元体である立体図、すなわち、円筒形に変化するのである。その上で、今度は斜めの数の流れを見てもらいたい、するとどうであろう、不思議にも淵で断ち切られた数の流れは連続した流れになっていることに気が付くであろう。これらが、いわゆる「神の数列」であり、すべては完全鏡面対称数列なのである。

 要するに、今まで下に流れて、そこで途切れ、行く場所の無かったものが、「カミムスビ」により一気に上にのぼって再び連続した数列体として下って来るのである。また、それにより永遠に連続して循環し、永遠なる連続性を保つて存在しているのである。

  同じように、流れが右端、あるいは左端で切れて、行き方の知らなかったものが右端と左端を重ねて「カミムスビ」を行えば、また数列は甦って動き出すのである。

 これらの2回にわたる「カミムスビ」は古神道では「カミムスビの神」「タカミムスビの神」と称せられて宇宙を作り上げた造化の神々とされているものである。

 

 要するに、1回の「カミムスビ」を行うことにより立体(3次元体)が生まれ、更にもう一度「カミムスビ」を行うことにより超立体(4次元体)と言う宇宙次元世界が生まれたのである。
 その一回目と2回目を区別するために「カミムスビ」と「タ(他)カミムスビ」と呼んでいるのであろう。 タ(他)とは=もう一つのと言う意味である。

 

 この超立体(4次元体)を称して現代宇宙物理学者達はトーラス体と名付け、二つの循環エネルギ-で構築されているものであり、まさに現在の宇宙の姿であると言っている。またそのトーラス体とはちょうどドーナツの形であると言っている。

 

しかしそこには大きな間違いが二つある。その第一は形についてである、すなわち、「数」の言う宇宙の形とは丁度、縦と横が同じ寸法のリンゴの形であり、その中心の上から下までくり抜いて穴が開いているような状態、そう「数」は囁いている。しかし、ド-ナツ体はそうではなく、横のエネルギ-の流れは縦のエネルギ-の流れの何倍もある。

 

 その間違いの第二はトーラス体は二つの無限に循環する二つのエネルギーを持っていると彼らは言っているが、実は、そうではなく、縦、横、斜め二つの4ヶの循環エネルギ-が基本構造体であり、それらが我々の宇宙を強固に創り上げていると言うのが真相である。それが、すなわち、ハチの巣構造であるハニカム構造(6角構造)よりも更に強い八角構造体なのである。

 

 また、些細なことであるが、この4ヶの循環エネルギ-が穴の中心で交差してメビュース的に走って外側に出るものである。そのことはシッカリと「カムナガラの道」の図に書かれている。ぜひ、それを探し出して検証してもらいたい。それは「カムナガラの道」の数図を検証調査すれば、誰でも簡単に見出すことが出来るものである。

 

  さて、もう一度「カムナガラの道」の図に目を戻してもらいたい。些細なことではあるが、私が以前から懸念に思っていることがある。大変面白いものなので少々、そのあたりを皆さんに伝えておきたい。

 

 この「カムナガラの道」は古神道上の正式な名称であるが、地方によってはいささか響きが異なるものである。あまり大声で言うと神道家に差しさわりがあるので小声で申し上げよう。この「カムナガラの道」を名付けて、富士神界では「コノハナサクヤヒメ」と申し上げており、また、白山神界では「ククリヒメ」と申し上げているのである。

これを漢字で書けば、前者は「九の花咲くや姫」であり、後者は「九九理姫」となり、 共に女性の神となっている。そう言えば「アマテラス大神」も確か女神である。すると…どうなる!!。

なぜ、これが「カムナガラの道」と関係するのか、それを申し上げよう。

まあ、「カムナガラの道」を何回も検証したあなた方には恐らく、ピンと来ていることであろう。 そう、その通りである。

 

例えば、「カムナガラの道」の図の最上端(陰)と最下端(陽)の数列を加算する、または上から2番目の数列と下から2番目の数列を加算、同様にすべての対称位置にある数列(陰陽の数列)を加算すると答えはすべてにわたり9999999999となる。また、最右端と最左端のすべての対称位置にある各数列を加算しても、やはり御同様にすべてにわたり9999999999が現れて9の花を咲かせるのである。 要するに、ここには10ヶの9999999999の花が咲いているのである。

 

また、斜めの鏡面対称数列に関しても同じであり、すべては9のみの数列が現れるのである。 信じられないことかもしれないので少々検算検証を行って見よう。

まずは、右上がりの対角線数列と左上がりの対角線数列の二つはそれぞれ陰陽関係にあるのであり、その二つを加算すると9999999999が現れる。 次に、二つの対角線数列の隣にある二つの数列を加算すると999999999が現れる。また、それぞれの対角線数列の二つ隣にある数列同志を加算すると99999999が現れるのである。

同様に、3ヶ隣は9999999であり、4ヶ隣は999999、5ヶ隣は99999、6ヶ隣は9999、次は999、次は99、次は9となってすべてが9の花のオンパレードの状態にあるのである。

しかも、最初の9999999999のΣは90、次は999999999→81、次は99999999→72、以下同様に、63、54、45、36、27、18、9、0となり、一桁化すれば9になり、0になるのである。また、この現れた9の数を10見れば、10ヶ、9ヶ、8ヶ、7ヶ、6ヶ、5ヶ、4ヶ、3ヶ、2ヶ、1ヶ0ヶとなり、見事な「ひふみ天地の数歌」が現れて真実であることをしかと証言しているのである。

 

昔の知恵者は驚嘆のあまり、これらの多くの九の現れを称して「九の花咲くや姫」と名ずけたり、「九九理姫と名付けて「神」として敬っていたのも、これまた、頷ける話である。

遥か遠い、昔の古神道の誕生秘話の埒もない話である。信じてもいい、信じなくともよい。 今ではうたかたの果ての遠い話であるので、懸命に説明しても解らない方々が多い多難な時代、目先のことしか考えない時代である。
 この「九」に関する文言は天明さんの「ひふみ神示」に、とにかく多く出てくる。しかし、解釈を施している「ひふみ神示」の大家たちはこれらの「九」を意味不明として避けているようである。例えば、『「ヶ」であるぞ、「ㇾ」であるぞ』、は「9」であるぞ、「0」であるぞ、すなわち《9=0》を言っているのである。また、『今度の御用は苦9の花を咲かすことじゃ。真理に苦の花咲くのであるぞ。』、は苦を「九」と書き直せば、すべては前述の通りとなってハッキリし、すべては真理の出現を指していることが判って来るのである。

 

ついでに甚だ不遜であるが、もう一つ「神道上の秘密」を明かしておこう。

それは神社の鳥居についてである。今の日本人に鳥居は何のためにあるのかと聞けば、鳥が止まるためなどと答えて我々を嘆かせている。しかし、そう言っても我々は彼らを責められない、なぜならば、我々日本人の誰も鳥居の本当の意味を知らないからである。要するにわざと意味のない漢字を用いて人々を惑わしているのか、それとも、誰かが故意に真実を隠そうとしたのか、そこには何か大いなる事情があつたものと推察されるのである。

古代の日本では()()()、または()()()と言う名で通っていたのある。その「十理囲」の意味するものはあの「カムナガラの道」であることはまさに字の通りで誰にも判るのである。ある事情により、この「カムナガラの道」を隠すためには「十理囲」を「鳥居」に名を変えることが必要であったのである。何故ならば、「十理ではすぐに内容が解ってしまうからである。何故ならば、それは「10種類の神の大律を持つ囲まれた場」という意味を持つものと言うことは誰にでも判ってしまうからである。それは転じて(マス目)の中の聖なる場と言うことであり、そ「マス目」で囲まれた内部の場が神の場であり、神社なのである。また、マス目は結界を意味するものであり、近づいてはならない「神の場」を示すものである。

そういえば、「十理」の井は神社の鳥居の形であり、また、この井の内部は結界が張られている神界であることを知らせるもなのである。 それにしても、昔の人々は直感的な力が強かったようである、しかし、西洋の「もどき学」があるべき「真実の学」を追い払って、無明の世界を作り上げ、現在の複雑、混沌の現代西洋科学世界を構築し、人類知の進歩を妨げ始めているのである。

 

 これからは始まるのは奇妙(きみょう)奇天烈(きてれつ)な「数学知物語」であり、現代数学者にはまったく解らないものであろう。今までに何回も紹介しているのであるが、ただただ、冷笑され、爪はじきの対象になっているだけである。しかし、真実はどこまで行っても真実であり、何百年経っても変わらないものである。そのことだけは知っていてほしい。

 

 〔2〕

さて、「カムナガラの道」の話に戻る、この縦10×横10の方陣の中から随意に3×3の3方陣を選んでもらいたい。そこには間違いなく、8(横)×8(縦)=64ヶの3方陣が存在しているので、その中から選べばいいのである。

 

   どれでもいい、選んだ3×3の方陣の中の数をすべて加算してもらいたい。するとすべては9になり、0になるのである。

  ②    どれでもいい、「カムナガラの道」の中から「3×3」の方図を選び、そこにある3ヶの横列の数を加算してほしい。また、次にはそこにある3ヶの縦列も同じように加算する。すると、縦、    横すべてにわたり3、6,9の数字、すなわち、弥勒 (ミロク) の数が現れてあなた方を驚かせることになるであろう。

確か、お釈迦さまは56億7千万年後には弥勒 (ミロク) の世が現われる、それは古い価値(お金、権力)への執着が崩壊して、全世界は混乱する時が来る、それがミロクの世の始めであると言っている。すなわち、56億7千万年後とは5+6+7=18→9→0となり、それは今年の2016年に通じるものである。 なぜならば、(2+1+6=9→0)になるからである。

よく考えてみると、すべては天意の現れであり、我々にはどうにも仕様がないものかも知れない、しかし、あらかじめそれを知って備えておくのも、これまた大切なことでもある。

確かに、今年(2016年)の始めあたりから世界はあり得ないことがリ起こり、異常な混乱が巻き起こり始めている、天変地異、国際問題、国家異変、政治の大変遷、金融経済の混乱等、今まで、経験したことが無いものばかりが起きているのである。まさに、世界中は大騒ぎであり、人々はなすすべも無く、ただ、追われるだけ、逃げ出すのに懸命である。

今のところ、我々にはまったく手立てはなく、終始狼狽があるだけである。世界の指導者達も我が身可愛さにたじたじするだけであり、自分の国を守るだけで手がいっぱいのようである。

すると、やはり、ミロクの世の前兆なのであろうか…。さて、さて…!!?。

 

   どこでもいい、「カムナガラの道」の中から「3×3」の方図を選び、その図の中心の数字とそれを囲む8ヶのセルの中の数字の合計数を見てほしい。すると、必ず中心数とその周囲の数の合計した数の関係は、「システム オブ ナインズ」そのものであり、その2数の和は必ず9→0になるのである。要するに、それらの組み合わせはすべて、0と9、1と8、2と7、3と6、4と5、の組み合わせが現れて全図を仕切っているのである。その姿はまさに、宇宙人の数学「システム オブ ナインズ」そのものの姿である。げに恐ろしきは「宇宙人の数学」であり、その総数はここでは8×8=64ヶにも及ぶものである。

 

   どこでもいい、「カムナガラの道」の中から「3×3」の方図を選び、その図をオス(凸)とメス(凹)に分解する。 すると一つの「3×3」の方図から4ヶのオス(凸)とメス(凹)の組み合わせができる。それはすなわち、①オス(凸)が上にくる場合、② オス(凸)が左にくる場合、③オス(凸)が下にくる場合、④オス(凸)が右上にくる場合の4種類である。

これらすべての、オス(凸)の中の数の加算数(Σ1)とメス(凹)の中の加算数、(Σ2)を総加算する。すると驚いたことに、すべての(Σ1)+(Σ2)は9となり、0に同値化するのである。しかも、すべてにわたりまったく同じ数の組み合わせ、すなわち、「システム オブ ナインズ」の数関係が現れが見られるのである。

その数を調べてみよう、それはすなわち、8×8×4=256となるまさに膨大な数の出現があり、何事かを叫んでいるのである。それは(1)の4倍と言う驚くべき数であり、特筆すべきものであろう。要するに、「カムナガラの道」の10×10=100の中に256ヶのオス(凸)とメス(凹)の組み合わせが存在し、そのすべては合一して0に還って初元に還ると言っているのであり、それが「自然宇宙の原理」、「宇宙自然の正律」であると「数」は言っているのである。

 まだまだ、沢山の神々が鎮まって声を揃えて「すべての本性は0である」と歌っているのであるが、それを是非とも見つけ出すがよい…!!!。神の加護のあるのを信じて…!!。

要するに、この「カムナガラの道」の中には800の神々が鎮まり、声高に何事かを歌っているのであるが、あなた方にはお判りであろうか…!!!。

私の言いたいことはそのことなのである。古神道では八百万の神々と称し、八百万(やおよろず)をもって沢山とか、大勢とかに解釈しているようであるが、そうではなく、万(よろず)がその意味を引き受けているのであり、実際は800体と言う大勢の神々と言うのが正しいものである。この「カムナガラの道」の中に鎮まっている800の神々は口(くち)を揃えて一斉に何事かの真実を歌っているのである。

それがすなわち、「森羅万象の本質本性は0であり、無である」の言葉であり、「すべては0から成り立ち、0により作られている」と叫んでいると言うことなのである。

 

要するに、この「カムナガラの道」の中に鎮まる800柱の神々が口々にある一つの真理言葉を叫んでいるのであるが、西洋科学知にまみれた我々現代の日本人にはまったく聞こえないのであり、聞こうともしないのである。要するに、直感力とか洞察力に関しては古代日本人たちは遥かに優れ、自然の営みの中では特に群を抜いて自然の声に敏感であったと言うことである。

 

また、それは双対の奥義祝詞ある「アイウエオ五十音図」の横の図、あるいは縦の図中でもまったく同じことが起こっているのであるが、残念ながら、誰も知る者はいない、知ろうとする者もいない。要するに、これら「アイウエオ五十音図」の横の図、あるいは縦の図の中でもまったく同じ文句が叫ばれているが、すべては虚ろなこだまとして空しく消えていたのである。

 要するに、「カムナガラの道」や「アイウエオ五十音図」の中でも、神々は同じように「すべては空であり、無である」と歌っているのである。 知に目覚めた者は探すがいい。この「カムナガラの道」と「アイウエオ五十音図」はまさに双子の関係で同じ言葉を歌っているのであり、まさに双対の奥義祝詞の名にふさわしいものである。また、その意志は平安時代に成立した「いろは歌」にも引き継がれ、やはり同じ無常観が歌われているのである。それがすなわち、〈色は匂へど散りぬるを,我が世たれぞ常ならむ,有為の奥山今日越えて浅き夢見じ,酔ひもせず〉の歌である。

 

ホイホイ、まだまだ、不思議な「数の物語」は続き、いろいろと申し上げたいのであるが、残念ながらぺージ数が限られているのでこれで終了としたい。 あとはあなた方の手で更なる「神々」を見出し、すべてを完成させることを宜しくお願いするだけである。ただただ宜しく、そのあたりのことをお頼み申し上げるだけであり、ひたすらお願いするだけである。 そもさん…!!!。

 

 次回からはぺ-ジを改めて「神の数学」の本髄である「神の法陣」本講に移行したいと思う。すべてはこれからが本番であり、自然数の不思議な活躍が目を見張るような形で始まるのである。 ただ、それと反比例するような形で私の体と心が萎え始まっているので、いつ何時、突然終了となる時が来るかもしれない。その時は志を継いであなた方の手で完成させ、世界に出してもらいたい。 せっぱ…!!!。

                                                                            (大完) (2017年 5月記す)

                             次回からは衣を改めて「神の数学」の「神の法陣」との項としてお目見えすることになる。宜しく、ご鞭撻のほどをお願いしたい。