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蘆名盛氏 あしな もりうじ (1521~1580) 蘆名家
 陸奥の戦国大名で蘆名家16代当主。正室は伊達稙宗の娘。止々斎の号でも知られ、蘆名家中興の祖といわれる。父・盛舜から家督を譲られてすぐ、積極的な攻勢に出て会津における勢力を拡大した。同時期に起きた伊達稙宗・晴宗親子による天文の乱では、稙宗方から晴宗方に寝返って乱の終結に大きく関わり、乱の終結後は東方の田村家や佐竹家と争って中通りへの進出に成功。越後の上杉謙信が亡くなると、「御館の乱」にも介入して西方へも進出し、蘆名家最大の版図を築いた。領土拡大の裏では相模の北条家、甲斐の武田家と結んで佐竹家への挟撃体制を整えるなど、優れた外交政策も行っている。しかし、跡継ぎに恵まれず、嫡男・盛興には先立たれ、その後も養子縁組で当主を据えたが、盛氏の死後、わずか9年で蘆名家は伊達政宗によって滅ぼされた。


蘆名義広 あしな よしひろ (1575~1631) 蘆名家
 佐竹義重の次男。蘆名家20代当主。蘆名家は16代・盛氏の時に全盛を迎えたが、盛氏の子・盛興(17代)は父に先立って亡くなり、18代・盛隆(二階堂家からの養子)は、盛氏の死後、寵臣によって暗殺された。その後、盛隆の子・亀王丸(19代)も早世すると、家中は次の当主を佐竹家から迎えるか、伊達家から迎えるかで対立し、結果、佐竹家から迎えることになり、義広が20代当主となる。しかし、若年ということもあり、家中をまとめることができず、そこにつけ込んだ伊達政宗摺上原の戦いで敗北して蘆名家を滅亡させてしまった。その後は実家を頼って落ち延び、関ヶ原の戦い後も秋田に移封となった佐竹家に従った。


金上盛備 かながみ もりはる (1527~1589) 蘆名家
 蘆名家臣。金上家は蘆名家の一族。盛備は、蘆名家の全盛を築いた16代・盛氏の信頼厚く、優れた内政手腕から「蘆名の執権」と謳われた。19代・亀王丸の死後、次期当主に佐竹義重の次男・義広を推し擁立したが、義広に従って蘆名家に入ってきた佐竹家臣と蘆名譜代の家臣たちの対立を招く結果となり、蘆名家を衰退させてしまった。1589年、伊達政宗との摺上原の戦いに参加し討死した。


佐瀬種常 させ たねつね (?~1589) 蘆名家
 蘆名家臣。蘆名四天のひとつ佐瀬家の当主。おもに領内の商業発展に大きく貢献した。陸奥国の白河結城家や下野国の那須家との戦いでも活躍したが、1589年の伊達政宗との摺上原の戦いで討死した。


富田氏実 とみた うじざね (?~?) 蘆名家
 蘆名家臣。蘆名四天のひとつ富田家の当主。蘆名家19代・亀王丸の死後、次期当主を伊達家と佐竹家のどちらから迎えるか家中で揉めた際、伊達政宗の弟・小次郎を推すが敗れ、20代当主は佐竹義重の次男・義広となった。そのせいか、1589年の伊達政宗との摺上原の戦いでは傍観したのち無断撤退し蘆名家敗北のきっかけをつくった。戦後は行方知れずとなるが、伊達家に降伏したとの説もある。


富田隆実 とみた たかざね (?~?) 蘆名家
 蘆名家臣。氏実の子。蘆名家19代・亀王丸の死後、次期当主を伊達家と佐竹家のどちらから迎えるか家中で揉めた際は、父と共に伊達政宗の弟・小次郎を推したが敗れ、20代当主は佐竹義重の次男・義広となった。そのせいか、1589年の伊達政宗との摺上原の戦いで父・氏実は無断撤退したが、隆実は蘆名軍の先鋒として伊達軍の片倉景綱原田宗時猪苗代盛国と激闘を繰り広げた。しかし、後続の味方の支援なく敗れ、以後は行方不明となる。


平田舜範 ひらた きよのり (?~?) 蘆名家
 蘆名家臣。蘆名四天のひとつ平田家の当主。諏訪神社落成時に連署が見られることと、1578年に上杉謙信の調略によって反乱を起こした大槻、山内両家の鎮圧に功があったということのみ記録が残る。


松本氏輔 まつもと うじすけ (?~1574) 蘆名家
 蘆名家臣。蘆名四天のひとつ松本家の当主。通称は図書助。主君・蘆名盛氏から「氏」の偏諱を受け氏輔と名乗った。詳しい資料が残っておらず、1574年に安積郡で田村清顕と戦い討死した事以外ほとんど分かっていない。


猪苗代盛国 いなわしろ もりくに (1536~?) 蘆名家
 蘆名家臣。猪苗代家は蘆名家の支流だが、独立心が高く主家に対して度々反乱を起こしていたという。1585年、子・盛胤に家督を譲って隠居したが、後妻との間にできた宗国を溺愛し、盛胤の廃嫡を考えるようになる。1588年、後妻の讒言もあり、盛胤が城を留守にした間に猪苗代城を奪い、そのまま伊達家に寝返って摺上原の戦いのきっかけをつくった。摺上原の戦いでは先陣をつとめ、勝利後は伊達家の準一門に列せられた。


猪苗代盛胤 いなわしろ もりたね (1565~1641) 蘆名家
 蘆名家臣。盛国の子。1585年に父・盛国から家督を譲られたが、盛国と後妻との間に宗国が生まれると、宗国に家督を譲りたくなった盛国によって城ごと伊達家に寝返られ城を失った。摺上原の戦いでは、主君・蘆名義広に従って奮戦するが敗北し、義広と共に常陸へ落ち延びた。その後、義広と別れて猪苗代にもどり同地で亡くなった。


安東愛季 あんどう ちかすえ (1539~1587) 安東家
 出羽北部の戦国大名。「斗星の北天に在るもさも似たり」と評された名将。檜山系と湊系に分裂して対立していた安東家を、優れた政治手腕で平和裏に統一した。土崎港を改修して北日本最大の湾港都市を築き、比内の浅利家、庄内の大宝寺家を降して出羽北部の沿岸部一帯を支配下に置いた。日本海交易を通じて中央の情勢をいち早く入手しており、遠い北の地にありながら、本能寺の変が起きたことを1ヶ月も立たないうちに把握していたといわれる。勢力を内陸部にも広めるべく角館城主・戸沢盛安との戦いに赴くも、病を得て陣中に没した。晩年には姓を「秋田」と改め、愛季死後、秋田家は関ヶ原の戦いを経て常陸宍戸藩主、そして陸奥三春5万5千石の藩主となり明治維新を迎えた。


石川昭光 いしかわ あきみつ (1550~1622) 石川家
 伊達晴宗の四男。輝宗政景の弟。陸奥国石川郡三芦城主・石川晴光が伊達家の後ろ盾を得るため、養嗣子として迎えられ、のち家督を継いだ。しかし、領地が離れた伊達家の援助を受けるのは難しく、結局、常陸の佐竹義重に従うことになり、人取橋の戦いでは伊達政宗に敵対した。蘆名家が滅ぶと政宗に従うが、豊臣秀吉の小田原征伐に政宗の命で参陣せず改易となった。その後は政宗に召し抱えられ、朝鮮出兵や大坂冬の陣に従軍した。


岩城常隆 いわき つねたか (1567~1590) 岩城家
 常陸の戦国大名。父は伊達晴宗の長男・親隆。母は岩城重隆の娘。親隆が病(?)により当主としての責務をはたせなくなったため、佐竹義重の後見を受けて家督を継いだ。そのため、以後は義重に従うことになり、人取橋の戦いや郡山合戦などで伊達政宗と敵対した(郡山合戦では途中から中立に転じ、和睦に尽力)。その後、豊臣秀吉小田原征伐に参陣して所領安堵を勝ち取るが、まもなく病に倒れ亡くなった。常隆には実子・政隆がいたが、豊臣政権の都合から家督は、義重の三男・貞隆が養嗣子となって継いだ。政隆はのち伊達家の家臣となり、祖父の影響もあって一門に列せられた。


大崎義隆 おおさき よしたか (1548~1603) 大崎家
 陸奥の戦国大名。父の代まで伊達家にしたがっていたが、最上義光と結んで独立を目指した。大崎家の内紛に乗じて攻めてきた伊達政宗を大崎合戦で一度は撃退するが、最終的には臣従に近い形で和睦し、摺上原の戦いでは政宗に協力した。しかし、その後も家中の内紛は収まらず、政宗からも再び狙われる状況下では動けなかったのか、豊臣秀吉による小田原征伐には参陣できず改易された。その後は蒲生氏郷上杉景勝、最上義光と主家を変えていったといわれる。


氏家吉継 うじいえ よしつぐ (?~1591) 大崎家
 大崎家臣。主君・大崎義隆の寵愛を受けた新井田隆景が、権勢を振るい始めると、これに対抗するために伊達政宗に内通して義隆とも敵対し、大崎合戦のきっかけをつくった。大崎合戦は敗北に終わるが、和睦して帰参する。義隆が小田原征伐に参陣せず改易となると、伊達家臣となった。


新井田隆景 にいた たかかげ (?~?) 大崎家
 大崎家臣。絶世の美男子で主君・大崎義隆の寵愛を受けた。義隆の寵愛を恃みに権勢を振るったため、同じ大崎家臣である氏家吉継と対立して大崎合戦のきっかけをつくった。


葛西晴信 かさい はるのぶ (1534~1597) 葛西家
 陸奥の戦国大名。伊達家と結んで宿敵・大崎家と戦った。上洛して織田信長に謁見するなど、領土の安定をはかったが、大崎家との抗争や有力家臣の家督争いなど、領内が不安定であったことから豊臣秀吉小田原征伐に参陣できず改易された。改易後は加賀に移り住んだとも、奥州仕置で徹底抗戦して討死したともいわれる。


小峰義親 こみね よしちか (1541~1526) 白河結城家
 白河結城家の出身で、庶流である小峰家を継いでいたが、のちに主家を乗っ取り白河結城家の当主となった。はじめは蘆名家の後ろ盾を得ていたが、常陸の佐竹義重が攻めてくると義重に臣従し、人取橋の戦いや郡山合戦に従軍した。蘆名家が滅ぶと佐竹家を見限り伊達政宗に従うが、政宗の命により豊臣秀吉小田原征伐に参陣しなかったため、改易された。諸国放浪後、政宗に召し抱えられ、晩年は厚遇を得た。


相馬顕胤 そうま あきたね (1508~1549) 相馬家
 陸奥の戦国大名。相馬家14代当主。正室は伊達稙宗の娘。伊達稙宗・晴宗親子が争った天文の乱では、稙宗方として戦い、西山城に幽閉された稙宗を救って居城・小高城に引き入れた。稙宗も賞賛する勇将で、先陣に立って指揮をとり、晴宗を追い詰めることもあったという。晴宗と戦う一方で、周辺の反乱分子を討って勢力を伸ばし、相馬家が戦国大名へのし上がるきっかけをつくった。存命中は他国からの侵攻を一度も許すことがなかったといわれる。


相馬盛胤 そうま もりたね (1529~1601) 相馬家
 陸奥の戦国大名。相馬家15代当主。顕胤の子。磐城小高城主。伊達稙宗晴宗親子が周辺諸国を巻き込んで起こした天文の乱では、母が稙宗の娘ということで、父・顕胤と共に稙宗方に属して戦った。乱は晴宗の勝利に終わったため、以後、伊達家とは敵対関係となる。父の死後、家督を継いでからも晴宗、輝宗政宗と伊達家三代と半世紀近く互角の攻防を繰り広げたが、家督を子・義胤に譲ったのちに連合軍として参加した人取橋の戦いで政宗を討ち漏らし、その後、政宗の反撃によって滅亡寸前まで追い込まれた。しかし、運よく豊臣秀吉による小田原征伐が始まり、惣無事令によって滅亡を免れ所領を安堵された。関ヶ原では中立を保ってしまい、戦後、問題になるが、裁定が下される前に病没した。


相馬義胤 そうま よしたね (1548~1635) 相馬家
 陸奥の戦国大名。相馬家16代当主。盛胤の子。元服したころには既に伊達家と敵対していたため、父・盛胤と共に伊達晴宗輝宗政宗と伊達家三代と戦った。1578年に父から家督を譲られると、一時、政宗と和睦することもあったが、人取橋の戦いでは連合軍として再び伊達家と敵対した。その後、政宗の侵攻に敗北を重ね、滅亡寸前に追い込まれるが、豊臣秀吉の総無事令によって滅亡を免れ所領を安堵された。関ヶ原では日和見的な態度をとってしまい改易されそうになるが、嫡男・利胤を江戸に遣わして直談判に及び改易を免れた。1612年に家督を利胤に譲るが、先立たれたため、孫・虎之助の後見をつとめた。


相馬利胤 そうま としたね (1581~1625) 相馬家
 陸奥の戦国大名。相馬家17代当主。義胤の子。関ヶ原の戦いで父・義胤が中立的な立場をとり改易されそうになると、お家の命運をかけて江戸に赴いて直談判に及び、本多正信の口利きで改易を免れた。また、所領安堵のいきさつには競馬を行い、本多忠勝の機転によって勝ち得たというものもあり、この逸話は「大穴」の語源となった。1612年に家督を譲られ、14年には大坂冬の陣に参加。しかし、翌15年の夏の陣は参陣途中で病になり、代わりに父・義胤が参陣している。1625年、父に先立ち病没した。家督は子・虎之助が継ぎ、義胤が後見をつとめた。


田村隆顕 たむら たかあき (?~1574) 田村家
 陸奥の戦国大名。正室は伊達稙宗の娘。智勇兼備の将であるが、周りを佐竹、蘆名、岩城、相馬といった強者に囲まれた小領主にすぎず、伊達稙宗の娘を正室に迎えることで後ろ盾とし領土を守った。稙宗・晴宗親子が争った天文の乱では稙宗方として参戦。しかし、同じ稙宗方の蘆名盛氏と不和となり、盛氏が晴宗方に寝返ったことで敗北した。乱の終結後は相馬顕胤と結ぶなど、巧みな外交術で佐竹、蘆名と渡り合い家名を存続させた。


田村清顕 たむら きよあき (?~1586) 田村家
 陸奥の戦国大名。隆顕の子。正室は相馬顕胤の娘。父の死により家督を継ぐ。佐竹、蘆名に対抗するため、一人娘の愛姫伊達輝宗の嫡男・政宗に嫁がせて後ろ盾を得た。娘が嫁いだ伊達家と正室の実家・相馬家との間に領土問題が起こると、それに介入して和睦させるなど活躍したが、1586年に急死した。家督は政宗と愛姫との間に生まれた男子を養子にもらって継がせるつもりだったが、間に合わず、政宗が推した清顕の甥・宗顕が継ぐことになった。


津軽為信 つがる ためのぶ (1550~1608) 津軽家
 弘前藩初代藩主。南部家の庶流・久慈家の出身といわれる。のち、同じ南部家の庶流・大浦家の養子となって大浦城主となった。主筋である南部晴政と晴政の養嗣子・信直が、晴政の実子・晴継が生まれたことで家督を巡り対立すると、その隙をついて信直の実父・石川高信を攻め、石川城を奪取した。そのため、晴政、晴継の死後に南部家を継いだ信直とは激しく対立するが、信直は家督相続に不満をもっていた九戸政実の動きもあって思うように動けず、その間に津軽地方を平定した。豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、信直に先立って秀吉と謁見して所領を安堵され、南部家からの完全独立を果たした。関ヶ原の戦いでは東軍につき、大垣城攻めに参加したが、嫡男・信健が西軍についたため、戦後は2千石の加増に留まる。石田三成と親交があり、三成処刑後、三成の次男・重成と三女・辰姫を引き取った。これは小田原征伐のとき、所領安堵で世話になった恩返しといわれる。


天童頼貞 てんどう よりさだ (?~1579?) 天童家
 出羽の国人。最上八盾と呼ばれた出羽の有力国人で結ばれた同盟の盟主をつとめた。最上家10代当主・義守とその子・義光が争った天正最上の乱では義守に味方して義光と戦い、居城である天童城を攻められた際には他の最上八盾と協力して義光を撃退した。その後、娘を義光の側室にして義光と和睦するが1579年ごろに亡くなったといわれる。


天童頼澄 てんどう よりずみ (?~?) 天童家
 
出羽の国人。頼貞の子。父・頼貞の死により幼くして家督を継いだ。頼貞の時代、天童家は最上八盾と呼ばれた出羽の有力国人同盟の盟主として最上義光と戦っていたが、頼澄が家督を継いだときは姉(妹?)が義光の側室となっていたため和睦していた。しかし、1582年に姉が亡くなると同盟は解消されて義光に再び攻められ、最上八盾の一角、延沢満延が義光方に寝返ると天童城を落とされ落ち延びた。その後は伊達政宗の家臣となった。


戸沢盛安 とざわ もりやす (1566~1590) 戸沢家
 戸沢家18代当主。出羽角館城を居城とした。「夜叉九郎」の異名をもつ勇将でありながら、捕らえた敵をむやみに殺さない慈悲深い一面もあったといわれる。病弱な兄に家督を譲られ若くして当主となり、父・道盛がまとめ上げた家臣団に支えられながら各地を転戦、横手城主・小野寺義道や出羽北部に勢力を誇った安東愛季と戦いながら、仙北三郡をほぼ支配下に置いた。中央の情勢にも気を配り、豊臣秀吉による小田原征伐のことを知ると、わずか6騎(足軽を含めると9人)で増水した大井川を渡って馳せ参じ、所領安堵を勝ち得た。しかし、小田原在陣中に病を得て25歳の若さで亡くなる。死後、弟・光盛が当主となるが早世、子の政盛が幼くして20代当主となり、最終的に出羽新庄6万石の藩主となった。


南部晴政 なんぶ はるまさ (1517~1582) 南部家
 陸奥北部の戦国大名。南部家24代当主。三戸南部家の出身といわれる。家督を継いだ当初、南部家は領内外に敵を抱えて混乱期にあったが、父・安信と石川高信ら優秀な叔父らが築いた基盤をもとに八戸、九戸といった南部家支族をまとめあげ、「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われるまでの領土を獲得して南部家の全盛を築いた。しかし、跡継ぎになかなか恵まれなかったことが、南部家に陰りを落とす。跡継ぎ候補として石川高信の子・信直を養嗣子として迎えていたが、その後、実子・晴継が生まれため、信直との関係が険悪になってしまう。この対立が津軽為信の謀反を招き、晴政死後も尾を引いて為信の独立も許してしまい、南部領は大幅に削られてしまった。


南部信直 なんぶ のぶなお (1546~1599) 南部家
 陸奥北部の戦国大名。南部家26代当主。石川高信の子。24代当主・晴政の跡継ぎとして、養嗣子となるが、晴政に実子・晴継が生まれると次第に疎まれるようになった。晴政死後、晴継が家督を継ぐが、早世してしまい、晴政の娘婿・九戸実親との間で家督争いが生じる。結果、有力重臣たちの力を得て26代当主となるが、実親とその兄・政実との対立は続き、この家督を巡る争いの最中に津軽為信の専横を許し、津軽地方を奪われた。小田原征伐に参陣した際、為信を訴えるが、為信はすでに所領安堵をとりつけており、訴えは取り下げられたが、九戸政実の乱を豊臣秀吉の力を借りて鎮圧したのち、為信に奪われた領地の代替として奥羽2郡(和賀郡、稗貫郡)を拝領した。秀吉の死後は徳川家康に接近するが、関ヶ原の前年に亡くなった。


九戸政実 くのへ まさざね (1536~1591) 南部家
 陸奥九戸城主で南部一族の重鎮。南部家24代・晴政の時代には、安東愛季に奪われた鹿角郡の奪還に貢献するなど、家中でも勇将として名を馳せた。晴政、晴継と当主が相次いで亡くなると、晴政の娘婿で弟でもある実親を推して、晴政の養嗣子・信直と対立する。結果、南部家の家督は他の重臣たちが推した信直が継ぐが、なお反発を続けた。奥州仕置後、公然と反旗を翻して九戸城に立て籠もり、信直が要請した豊臣秀次を総大将とする討伐軍の攻撃を受ける。初めは善戦するものの圧倒的兵力差の前に降伏。しかし、許されず、城に籠っていた女子供を含む一族全員が処刑された。


二本松義国 にほんまつ よしくに (?~1580) 二本松家
 陸奥国・二本松城主。二本松家8代当主。二本松家は室町幕府の三管領・畠山家の流れをくみ、奥州管領として陸奥に入国した。しかし、義国の時代には勢力を失っており、さらに天文の乱後には蘆名家と田村家の抗争に巻き込まれて、その衰退ぶりに拍車がかかった。そんな状況ではあったが、巧みな外交術で伊達家、蘆名家、田村家、相馬家など同盟相手を変えながら家名を存続させ次代に繋げた。


二本松義継 にほんまつ よしつぐ (1552~1585) 二本松家
 陸奥国・二本松城主。二本松家9代当主。義国の子。父の死後、伊達政宗と対立して降伏したが、所領を大幅に削られた。政宗の父・輝宗の斡旋で処遇は緩和されたものの、恨みは残っていたのか、輝宗に謝意を表すためと訪れた宮森城で輝宗を拉致した。輝宗を拉致したまま国境の阿武隈川まで逃れたところで政宗に追いつかれ、輝宗の命によって政宗が放った鉄砲で輝宗ともども討たれた。輝宗拉致は、自分が暗殺されると勘違いし、突発的に起こしたともいわれる。


最上義光 もがみ よしあき (1546~1614) 最上家
 出羽の戦国大名。山形城主。妹・義姫伊達輝宗の正室で政宗の母。事実上伊達家に従属していた父・義守とは度々対立し、家督を譲られてからも伊達輝宗に介入されるなど厳しい状況にあったが、これを退けて輝宗と和睦し、伊達家からの完全独立を果たした。その後、敵対していた最上八盾と呼ばれた国人たちを調略、謀略もって降していき領土を拡大する。豊臣秀吉による小田原征伐では、父の死が重なり大きく遅参するが、申し出ていたたため、咎めはなく、24万石の所領安堵を得た。奥州再仕置の九戸政実の乱平定後、山形城に寄った豊臣秀次に愛娘・駒姫が見初められ、側室に出すが、のちに関白秀次事件に連座して処刑され、この恨みが、のちに関ヶ原で東軍に属す遠因になった。その関ヶ原では上杉景勝の名参謀・直江兼続と戦って上杉軍を東北に足止めし、戦後、その戦功で57万石を拝領した。しかし、その後、後継者を巡って様々な問題が起き、義光の死後、最上家は改易されてしまった。


鮭延秀綱 さけのべ ひでつな (1563?~1646) 最上家
 出羽鮭延城主。はじめは横手・小野寺家に仕えたが、最上義光の調略によって家中を内部から切り崩されて降伏し最上家臣となった。その後は、旧主・小野寺家との戦いや交渉で活躍する。慶長出羽合戦では、副将として長谷堂城に派遣され、城主・志村光安と共に上杉家の名将・直江兼続を撃退し、兼続からその武勇を讃えられた。戦後、1万1千石を与えられるが、義光死後、お家騒動(最上騒動)を起こしてしまい、最上家は改易される。自身は徳川家臣・土井利勝の預かりとなるが、のちに許され、そのまま土井家臣となった。


志村光安 しむら あきやす (?~1609) 最上家
 最上譜代家臣。「其心剛ニシテ武威の名顕レ、然モ口才人ヲクシキ、イカナル強敵ト言エトモ彼ニ逢イテハ即降リヌ」と評された最上義光の腹心。義光の信頼厚く、織田信長へ貢ぎ物を届ける使者、小田原征伐の際にも豊臣秀吉への使者として遣わされたという。槍働きでは、義光の勢力拡大に関わる戦のほとんどに参加。特に出羽慶長合戦では長谷堂城の守将として、援軍の鮭延秀綱と共に上杉家の名将・直江兼続から見事に城を守り切り、兼続撤退後も庄内地方から上杉勢を駆逐するのに貢献した。その功で戦後は亀ヶ崎城主となり3万石を拝領した。


延沢満延 のべさわ みつのぶ (1544~1591) 最上家
 最上家臣。
出羽野辺沢城主。最上家10代当主・義守とその子・義光が争った天正最上の乱では最上八盾の一角として義光と戦ったが、義光の娘を子・又五郎に娶らせることを条件に義光方に寝返って最上八盾が崩壊するきっかけをつくり、義光の勢力拡大に大きく貢献した。1590年、義光に従って上洛するが病を得て、翌年亡くなった。武勇に優れた剛力の持ち主で、義光に家中の剛の者7、8人を差し向けられて実力を試された際、その者らを軽くあしらっただけでなく、桜の木にしがみついて逃げようとした義光を桜の木ごと引き抜いたという逸話がある。