遠江 国分寺跡と復元模型



【国分寺】

 昭和26年の発掘調査により、七重の塔をはじめとする奈良東大寺様式の配置が確認され、翌年、国の特別史跡となりました。

 金堂を中心に、北側に講堂、南側に中門が配置され、金堂と中門は回廊で結ばれていました。伽藍の範囲は東西約180m、南北約250mにも及び、築地壁によって囲まれていました。壮大な国分寺の伽藍も、中世にはほとんど消滅してしまいました。

 その後、国分寺跡の一角に堂が建てられ、国分寺の名を受け継いだ小寺が興されました。寛政2年(1790年)の絵図には仮本堂や閻魔堂などが記載されています。

 現在は、春には梅や桜が美しい史跡公園となっていますが、塔の礎石が残っており、当時をしのばせています。


【国分寺建立の背景】


 奈良時代/685年、天武天皇の仏教国家確立を目指し「家ごとに仏像をおき、礼拝せよ」と国民に命じ、737年・聖武天皇による「国ごとに造佛、写経をせよ」の発願から、各国への国分寺建立の構想が固まったと言われる。それと同じくして「一国一之宮」として各国府に一之宮を建立した。

 736年から天然痘が北九州より発生し、全国へ蔓延し、都にも流行し、平城京の役人100人も発病した。

 そして、聖武天皇の親戚となる藤原不比等の子・4人が病魔に襲われ死亡した。

 更に、740年には、藤原広嗣が、大宰府より挙兵し、都に対して謀反を起こした。まさに、人心騒乱の時期であった。

 これらを鎮める為にも仏教の力を頼り、741年、聖武天皇の詔により、全国一斉に六十八ヶ所の国府に国分寺と国分尼寺を建立するよう発布された。

 多くの場合、国庁とともにその国の最大の建築物であった。大和国の東大寺、法華寺は総国分寺、総国分尼寺とされ、全国の国分寺、国分尼寺の総本山と位置づけられた。 正式名称は国分寺が金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)、国分尼寺が法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)である。

 遠江の国にも20年前後を費やし、国分寺が建立された。古代日本国家にとっての一大事業であった。



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