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大自然の歌う「数の真理」の歌、それを心で聞いてほしい。
 
<宇宙大自然はその始原以来ずっと「真理の歌」を歌い続けている、しかし誰も気がつかず心に留めるものもいない。>
 

 
大古神道の秘密 『9の秘密』を探る。(その1)  (2010 3月 吉日上載)
                                                              <2013 2月加筆及び訂筆>

 これは未だ現代人の知らぬ驚くべき叡智である。これを知らぬ限り現代文明はもはや一歩も前進はできずただ衰退あるのもであろう。まさにその運命を変えるもの、それがすなわち、古神道の太祝詞「ひふみ…天地の歌」から現れた「数の理」なのである。
それは人類の持つ「10進法」を否定し、自然数学の歩を持つ「日本の九進法」を歌って止まないのである。人類のつくりだした「10進法」は自然の姿を正しく捉えることは叶わず、ただただ、無明の闇に導くだけである。
 
 その真実を導き出す「数の証(あかし)がこれから始まる「神の法陣」の数々の「数の語り」であり、そこにある「数の論証」である。
しっかりと目を開けて自然数の本当の姿を見てほしい、すべては不可思議な形を取りながらも「天の理」に合うものであり、

〔A〕「数の調べ」を正しく見る。(甚だ簡単なものであるが、現代人は未だ知らないものである)
 
 これらはすべて自然法図(n×n)の「ひふみ…法陣表(神の法陣)」の持つ二つの対角線の数字をそのまま拾ったものである。
 すなわち、それは正方形においては「二つの対角線の数加算()は同じ値である」が常に成り立たつと言う自然世界のスタンダ−ドな数の表れである。しかるにその真実を知るものは未だに誰もいないのであり、それゆえに自然の持つ大いなる数理の存在に辿り着くことが出来ないのである。
 
 これがその最初の門出とも言うべき自然とリンク状態にある誉れの高い不出の図であり、自然知の確たる存在を数が高らかに歌っているものである。それをありていに言えば、「ひふみ法陣表」そのものを宇宙大の広がりにまで展ばしてもこの法則は常に成り立つものであり、それにいたるまでの無限の法陣のすべてにわたって通じる大いなる宇宙普遍の法則なのである。
 
 それらのすべてに内在し、かつ全体を貫いているもの、そして現代人が未だに知ること叶わなかったこの「二つの対角線上の加算数は常に同じであると」言う大いなる数式なのである。これによって一つの「数の扉」は開かれ、現代人の未だ知らない「自然の数の理」という存在が明るみに出され、自然に一歩近づいたことになるのである。
 
 今まで余りにも自然数というものをないがしろにして、人間数学の構築にのみ力をそ注いでいたので、自然数の持つ「元型に準ずる内容」やそこにある「自律的な性格」、はたまた、そこにある「整然とした配置」、あるいは「秩序を持った大いなる規則性」などについては誰一人気がつくものがいなかったのである。まさに、千慮の一失であり、人間の知の歴史の中では数千年という大きな時間のロスと言ってもいいものであろう。重ね重ね残念なことである。
 
 これらの数図に関してもっと正確に言えば「n×nの正法陣」のセルの中に祝詞「ひふみ…の数」を順に置けばいい」と言う単純な図であり、誰にでも簡単に出来るものである。それを習得すれば、自然界における真の数の在り方、及びその計算手法の存在を知ることができ、誰でも[自然の知]を覗き見をすることが出来ると言うものである。 

 しかし、悲しいかな、この自然の普遍原理を今まで人類は手にすることはできずただただ暗中模索を繰り返していただけである。
 そのあたりから見てもまさに古神道の祝詞「ひふみ…天地の数歌」の功績は大であり、人類知史上において類いのない自然普遍性を持つ「数の調べ」の存在を高らかに歌い上げているものである。

 まさにそれは「ひふみ…天地の数歌」の名前の通り「宇宙普遍の数の妙なる数の道」を示すものであり、現在知を大きく揺るがす古代の知の由々しき出現と言ってもいいものである。
 これは一つの自然法則と呼んでもいいものであり、未だ人間の持つことの叶わない一つのネイチャ−スタンダ−ド(自然知の羅針盤、自然規範)のサンプル的な存在である。それはまた、これまでの人間知にはまったく無かったものでもあり、恐らくこれは確とした自然知の存在を広く世に告げるものとなるであろう。
 
 まさにそれは日本発の大叡智であり、世界に誇れるものと言える。 さあ、心して挑み、出来れば勝利のフアンファ−レを吹き鳴らすべく「神の秘密」、すなわち「宇宙意識の数の仕組み業」に肉薄してもらいたい。

≪試問≫ まずは連続する「神の法陣(自然法陣)」を作ってみよう。

@1次元表 A2次元表   B3次元表   C4次元表   D5次元表……→以下同 (自分で作ってほしい)
 
  
                                     (数多の要請によるこれら詳細追補図は2012・10・29)
 

 さあ、これを開けば世界の誰も知らない「数の理」を掴むのが可能であり、驚くべきあまたの「神の数の業」が次々と目に入って来るはずである。これが有史以来人類が尋ね求めてきた本当の「自然の数理」であり、自然との会話の糸口になるものである。
 この手法を古代の祖たちは知り、大自然と会話を交わしていたのであるが、現代人は誰もそのことさえも知るものはいないのである。何と言うこと…!!?、なんという無様な大失態であろうか…!!。

 願わくば、この「神の法陣」を自らの手で何回も検証することによりこの「自然真実の理」存在に気がつき、現代数学と言う自然とは則さない計算法式を持つ人間数学に疑問を持ってもらいたい。要するに、10進法を基盤とする現代数学は自然には一切通じないものであり、人間本位の単なるロ−カル的な数学手法に過ぎないことをしっかり知って貰いたいのである。
 なぜならばそれが真実を知るための第一歩であり、ペ−ジ・チエンジして未来へ向かう為の心の1里塚となるものだからである。     …参照、「神の法陣」初級、中級、上級講座の各編を、そこには息が止まるほどの珠玉の「数の秘物語」が数多描かれている

  〔A〕上記「神の法陣」の対角線数を見る

(初級向き@)→上記の各対角線上の数(各2ケ)の表れを見るがよい、それは 1次元表の対角数→1煤≠P煤、 2次元表の対角数→14煤≠Q3煤、 3次元表の対角数→ 159煤≠R57煤、 4次元表の対角数 →1627煤≠S714煤、 5次元表の対角数→ 17417煤≠T0483煤(Σは各次元図の対角線上の数の加算)
 
 この後は6次元表、7次元表、8次元表と続き、宇宙大まで無限に延びて、真実を告げているものである。これが自然の持つ数理であり、自然の数の計算法である。そして如何なる数学者と言えども決して否定することは出来ないものである。さあ、ここにおける計算手法とは一体…、??。何回でも、何回でも、自分の手と目で確かめるがよい。それが一番である。
 
 これは人間知の作った数の列ではない、すべては自然知が醸し上げた聖なる自然数列の厳とした姿であり、その確たる存在の確証でもある。しかし、これを現代数学から見ると何も意味をなさない単なるランダムな数列にすぎず、誰も関心を持つことない数列である。ところが、これを解き放つことにより自然の「数計算の仕組」の存在が明らかになるのであり、それと同時に十進法の不熟不合理の姿も分かってくるものである。 夢々決して粗漏に扱わず、心して扱いそこにある大いなる真実を探すことが望ましい。
それにより、貴方の心を一段と高みに置いて自然を見ることが出来、いろいろな現実を改めて真摯に見直すことも出来るはずである。

 そのあたりの配慮を十分にして学んでほしい。要はあなた自身の直観を信じながら、その上で素直に何事も考えるようにすることである。
 さて、視点を変えれば大変易しい小,中学生の問題であるが、果たしてあなた方、学の鼻高さんには解けるであろうか、!??。これによりあるべき宇宙普遍の数学の本当の存在と言うものをいささかなり掴むことが出来るであろうか…??。さてさて…??。  

 (初級向きA)…6次元表→186429Σ=483726Σ=、 7次元表→1087654Σ=7147147Σ=、 8次元表→11111111煤≠W6420753煤、9次元表→123456789Σ=123456789Σ=、10次元表→1357024681煤≠P111111111煤

 この後は11次元、12次元、13次元…と無限に続くのであり、楽しみながら時間をかけてゆっくり検証してほしい。
 これらは決して現代数学常識手法では解く事が叶わないものである。これを現代数学者が解いた時は彼は現代数学を捨てた時であり、新しい道を一歩踏み出した時である。この数を連続させると0156723480156723480156723480の循環数になる。 さあ、これを解くがよい…。     (答は『下記の〔A〕上記「神の法陣」の対角線数を見る』にある
 、 
 これでお判りであろう、自然には一切「十進法」などは通用しないことが、「十進法」とは人間のみに通じる一種の人間本意をむき出しにした計算法であり、人間同士の間だけに通じる符丁的な数概念に過ぎないものである。
 
 本当の自然に則し、自然に通じる計算法とは「古代の数理」に見られるような自然に沿った計算法であり、その有機的とも言うべき意識的な数概念を持つものなのである!!。この現代数学における甚だ無機的で個々的な関連性を持たない数計算の姿はまさに反自然的なものであり、自然とは決して相容れないものなのである。
 それをもってこの大自然を解明し、あわよくば人間知の向上に役立てようなどと余りにもおこがましい限りである。あなた方は知らないであろうが、その「10進法」誤りの原因はその繰り上げ方に問題があるのである。そこにおける数の繰上げの時に今まで滑らかに推移していた数の群れはここで突然波立ち、混乱状態に陥いり、完全に秩序を失ってしまうのである。 他方、「神の数学」による計算では数はあくまでも滑らか、スム−スに移行して順調平穏にその幕を閉じるのである。そのような自然に即した大変面白い計算法と目を見張るような素晴らしい検証法をもって「神の数学」は何時も自然と会話をはずませているのである。
 
 その始末の一切を知りたいならば「神の数学」の諸資料の「真実の数理」講座bR、「神の法陣」上級講座bU、bV、bW、bXにその検証仔細あたりが目を疑うような驚くべき形で事細かに記してある。出来れば、そのあたりを是非とも学んで目からうろこを落として貰いたい。
 
 要するに、我々の用いている現代数学とは神ならぬ身の人間が構築した一種の擬似数学と言うものであり、しかもそれをもって自然を解き放とうと試みているのである。何と傲慢なことであり、身のほど知らずの大それた考えとも言うべきものなのであろうか…!!。
 このあたりでそろそろ目を覚まして考えてみてほしい、自然は遥かに無限の時を超えてきた無窮の存在であり、森羅万般の知に通じている偉大な存在であることを…。それに比べれば、瞬時の歴史しか持たぬ我々の知とはまさにちっぽけな頼りにならないものであり、吹けば飛ぶようなはかない存在なのである…。まずはその差を知ること、それがすべての始まりの第一歩になるものであり、頑迷な頭を切り替える一つのスイッチとなるものである。、今、このような「数の概念の見直し」が日本でひそかに起こっていることを知ってほしい。
 私は言いたい、まずは「自然の知」の存在をしっかりと知ることである、そしてそれを学び、そして自然を崇めながら常に共存共歩していく…、それが我々人類の最善最良の道であり、未来永劫の繁栄をもたらす最大の良策と言うものなのである。
  これを解き放つことは、貴方の知が大いなる脱皮を行い、自然の真実に一歩近づいたことを意味するものである。
           (小、中学生に告ぐ、狽ヘ数字をすべて足し算することを表す記号である。素直に計算して、それから考えていろいろ試みてほしい。)
                                      …「神の法陣」初級講座ai12)より

 
 これらを解くことにより、自然の持つ「正しい算法」が分かり、それと同時に我々のもつ「10進法」に対しての疑惑の念が湧き起こるはずでもある。 これらすべては「神の法陣」図の持つ二つの対角線上にある数の奏でる不朽な真理であり、一つの宇宙普遍の哲理とも言うべきものである。そしてそれらすべては自然の知が醸した万古不易の自然の数の答の群れであり、決して人間の手に成るものなどではない。

 すべては私が長い間かかって見い出したものであり、未だ人類の誰も知らない不朽無双の「数の物語」ばかりのである。
 これを解き放つだけで、貴方の知は無限鏡面反射的とも言うべき状態で増殖を始め、新しい「知の世界」のフィ−ドバック・ル−プとつながりを持つ可能性があるのである。すなわちそれは、新しい知が新しい知を生み出し、それがまた新しい知を生むという連鎖的な状態に広がっていくということである。 疑うことなかれ、これらの真実がこの〔A〕〔B〕を解くだけで直ぐに解かるはずである。
 
 知の力にうずいている数学自慢の鼻高さんよ、果たしてあなた方はこの難関が突破できるのかな。これが本当の「宇宙普遍の数の理」であり、「神の数理」と呼ばれる至高の計算法の存在を証するものである。是非自分の手で試み、その理を明るみに出して納得してほしい。 そこには決していい加減とか誤魔化し、あるいは不整合等は一切無く、すべては秩序と調和に溢れ、希望と満足に満ちている無上至極のものである。
 
 ここには数多の「自然の真実の調べ」が歴然と存在し、あなた方を手招いているのが分かるであろう。検証するには一切の不足はないものであり、検証することにより貴方の心は一気に「真の目覚め」に入り、脳は次々と活性化を始め、新たな蠕動を始めるであろう。
 
 ついでである、一つ面白いことを教えよう、これら次元表の対角線上で成立している各二つの対角数列の最初の数と最後の数を加える、次は最初から2番目と最後からの2番目同士である。そして次は同様に3番め同士、それを続けるのである。要するに、対極数同士の加算である。それにより素晴らしい数の超理現象が起こり、貴方の魂を天外に飛ばし、迷える心を覚醒させてくれるのである。

 例えば次の通りである…

5次元表の対角数〕…17417の対角線数の対極数の計算は(1+7=7+1=4+4)であり、もう一つの対角線50483(5+3=0+8=4+4)であり、すべては共にである。何と素晴らしい数の超理的な数現象がここに姿を見せ始め、その挙句、貴方の魂を天外に飛ばし、迷える心を覚醒させてくれるのである…!!。その驚くべき姿が下記の各数列を中心で二つに折り、その重なった数を加算してみよう(対極数の加算)のにある計算法であり、そこに現れた「ひふみ…天地の数歌」の秩序ある姿なのである。  

 何と信じられない不思議な数の姿であろうか。すべての「神の法陣」にはまったく同じ手法が通用するのである。信じられない方は1,2,3,4,5……の各「神の法陣」を試みてそこにある厳然たる数の理を納得することである。
 それは「神の法陣」が宇宙大に延び広がっても一切変わることなく、永遠なる同一真理が最初(0次元)から最後(無限大次元)まで貫いていることを語っているものである。
 また、これらの「数の語り」を反復反芻して学ぶことにより、未だ人類の知らぬ「数の真実の姿」をあなたはかいま見、同時に心地よい至福感と安堵感に満たされてくるはずである。さて、これらの数を順に並べて、説明通りに展開するとそこに現れるものは!!??。
                                                          (2010年3月再追記)
 
〔B〕「数の調べ」を正しく考える。(驚くべき自然知の発見につながる、それは想像を絶するものである)

 さあ、〔A〕の<試問>を無事解き放つことが出来たならば、それを用いて〔B〕の<本問>を解かなければ全く意味は無いのである。 ここで0から9次元までの表を作り、その各表の「右上がりの対角線」と「右下がりの対角線」のそれぞれの数列をそのまま順序よく並べて2ヶの表を作るがよい。子供でも出来る甚だ簡単な作業であるが、そこにある大いなる真実は現代の知では想像することさえも叶わないものである。
 要するにそこには「陰」と「陽」の表と呼ぶべきものが存在し、相互的には反作用関係にありながら常に対となって行動している不可解な存在があるのである。
 [陰」と「陽」の本質とは、すなわち対逆的な正反の関係であり、しかも一つのものから現れた可分的な姿、すなわち、一つのものの裏と表の関係にあるものなのである。その事実を完全に証明し、なおかつその検証説明を行なうのが今回の目的なのである。ここに挙げたものはまさに「陰」と「陽」の仕組みを持った自然の完全作品図であり、決して人間の手になったものではないことはあなたが見ても判るであろう。 
 
 さあ、この二つうちの一つの対角線の表をひっくり返し、この二つの表をドッキングさせて見るのである。すると驚くべきことにそれぞれのすべての数列の切り口は寸分も狂わずピタリと合い、完全なる連続数列の群れ、同一的な答の群れとなって現れてくることが解るであろう。その余りの鮮やかさ、その玄妙な手口には我々をして、ただただ狂喜乱舞させ、止まることも知らない状態にさせるのである。また、驚くことにその答の数とは完全数の0であり、それは同時に万象の本質は0であることを指し示しているものでもある。
 いわば、それは次元宇宙の本質は0であるとする宇宙物理学の理論を側面から応援するものであり、普遍的な真実であることを証言するものである。
 何と言う不可思議千万なことであろうか…!!、そのあたりは一つ自分の目でじっくりとご判断のほどを…!!。
 
 現代数学的な考え方ではそのような事実はあってはならないことであり、もし、あれば現代数学は成り立たず即崩壊するだけである。 しかし、それは現実にあなたの前に完全な事実としての存在を見せているのであり、数理的には何ら疑いの無いものである。
 まさにそれは「神の図りごと」であり、「完全な意識を持った有機的な図」そと言えるものである。
 
 何と言うことであろうか、まさに見事の一言に尽きるものであり、自然知の確たる存在を高らかに告げて、我々人類に新たな知の覚醒を促しているものである。
 今まで、「陰」と「陽」との言葉はあったが、その確固たる本質の違い、その完全な大義の違いを示したものが果たしてあったであろうか、まさに答はNOなのである。
 誰でもここに現れた答の数字をただ一目見るだけで有史以来求め続けてきた「陰」と「陽」の違いの確かな姿、その本質の因差さえも十分に理解ができるのである。今まで苦しみに苦しみぬいてきた哲学的な難問がさらりと解けるのである。何と言うことであろうか…!。
 これが一つの「神の数学」の真骨頂であり、現代数学を全く寄せ付けない「普遍数学」、「生きた数学」の本当の姿と言うものである。
 これ一つ解くだけでよい、途端に貴方はまたとない知の徳者となるのは間違いの無いであろう。<どうしても詳細等を知りたい方には詳細資料「神の法陣」初級講座12(24ペ−ジ)をお送りすることにする>。(但し要、80円切手5枚)(2010年3月追記)

 
◎余り焦らしてもせんかたない、このあたりで一つ答を申し上げることにする。
                                                      (2010年4月吉日抄記)
 
 断っておきたい、これらは完全なる「神の秘儀」であり、今までの学問史上には一切現れたことはなものである。たとえ如何なる大学者と言えども夢想することも出来なかったものである。要するにあなたが最初の目撃者であり、史上初の会得者と言うことなのである。
 そのためにはまず「神の数学」の計算法(@循環法、A禊算、B神算法))を会得することが必要であり、不可欠なことである。

 〔A〕上記「神の法陣」の対角線数を見るより

 何と、そこに現れる各次元表の対角線上の柏狽順に置くと次のような驚くべき姿を持った循環数が現れるのである。
  →(0156723480156723480156723480 …)循環して無限に延びる(実際は円循環)。
  
  これは次のようにして解くのである。
        0 1 5 6 7 2 3 4 8 0 ……(永遠循環へ!)
         ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨
         1 4 1 1 4 1 1 4 1 …… (永遠循環へ!) (右の数から左の数を引く)
          ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ 
          3 6 0 3 6 0 3 6 …… (永遠循環へ!)  
 

 見事にここに「ひふみ九九算」の3の段が現れて真実であることを告げているのである。これが「神の数学」における真実証明法であり、すべて最終的には「ひふみ…九九算」の数列に収斂されてしまうと言う一つの「自然数証明法」と呼んでいるものである。
 (記、0156723480煤≠R6→9→0、141141141煤18→9→0、36036036煤≠Q7→9→0、すべて本質は0である)



Detail presentation
●これで判るのは各次元表、すなわち0次元表、1次元表、2次元表、3次元表…は完全なる連続体、もしくは連続的な関係にあることを証明するものである。その後の改めての推察は各自の洞察力とインスピレ−ションの助けを借り自由に描いて見てほしい。
●自然の仕組みとはすべては9で分節をつくって新たに最初からの循環が始まりものであり、その堂々巡りに終始するのである(円循環)。それはまさに古神道の祝詞「ひふみ…天地の数歌」そのものであり、その事実を明らかにしている確固たる証拠となるものである。でも、隣の青い芝生である現代西洋科学にぞっこんな日本民族はまったくそれには気がつくことはない。悲しい限りである…!!。
●そのいい例があなた方の知っている「元素周期律表」である。そこにあるのは12345678と進み0で休んで、次は別な軌道に移り、また12345678を形作る電子の美しく規律ある姿があるのであり、まさに律然とした自然真実の姿を見せているものである。そこには中央の原子核の周りを1ヶの電子が廻っている水素を筆頭に1ヶづつ電子を追加することによりまったく異なる様々な元素が次々と生まれて、九を分節として新しい別の世界(軌道)を次々と構築しているではないか。全部で108ヶの元素がこのようにして生まれ、自然界を創り上げているのであるが科学はその法則さえも未だに掴んではいないのである。そこには完全なる繰り返しのパタ−ン、すなわちすべては九で完結し、新たなる誕生を迎えている事実が示されているのでるが誰も気がつくこともないのである。

●そこにある自然定理とは(0=9)である、すなわちそれは最小=最大を示すものであり、また自然の基本は循環態であることを示しているものでもある。するとやはり、我々という生命体も輪廻転生を繰り返しながら永遠を紡ぎ、完全完成と言うゴ−ルに向かって昇華しているのであろうか、「数」はそう語ってやまないのであるが…!!。


〔B〕より、これらすべては現れるべくして現れた「意識数学(図形数学)」のあるべきそのままの姿である。ただ現在の我々の知では探り得ぬもの、求め得ぬだけなのである。「図形」と「数」、それは現代の言葉では「場」と「エネルギ−」に相当するものであり、宇宙の時空理論には欠かせないものである。しかし、未だ科学はそれを知ることさえ出来ずただもがいているだけである。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ発想を変えればすべては青天白日の下に姿を現して完となるものなのであるが…。 
(「図形数学」は自然の持つ基本的な図と自然数が奏で合う真理の調べを探究する学問、「神の数学」の独特のオリジナル手法であり、唯一の数学態なのである。)
   
 これら上の「神の法陣図」の持つ二つの対角線数である右下がり(@)と左下がり(A)と言う相方、すなわち、陰と陽の「あるべき正しい組み合わせ」を探して見よう。それにより次元と言う自然の大象でさえ、そこには「陰(♀)」と「陽(♂)」が存在して合一関係を誇っているのが解かるであろう。何という壮大な「哲学的な表れ」であり、自然の「叙事詩的な姿」なのであろうか、ただ感激あるのみである。



 〔C〕「二つの対角線数列(天、)の秘密}を探る。

 @1次元表 A2次元表   B3次元表   C4次元表   D5次元表……→以下同 (自分で作ってほしい)
 
  
                                     (数多の要請によるこれら詳細追補図は2012・10・29)
 


 
 「神の法陣」における各次元表の二つの対角数、すなわち、「陰()」と「陽()」の対角数を見る。
                             
(@)右上りの対角線数(天)    (A)右下りの対角線数(地)     〔(@) はそのまま、(A)を上下反転させて(レンズする)そのまま結ぶのである〕。
0次元→0              0次元→0      0+(9)=087654321(煤j→36→9→0 
@次元→1            (1)1次元→1     @+(8)=111111111(煤j→36→9→0 (この場合、前の3ヶの1は10、うしろの6ヶの1は1)
A次元→23           (2)2 次元→ 41    A+(7)=234567801(煤j→36→9→0
B次元→357          (3)3次元→051    B+(6)=357024681(煤j→36→0〃
C次元→4714         (4)4次元→7261    C+(5)=471471471(煤j→36→0〃  (子供と同じ単純目線で見るべし)
D次元→50483        (5)5次元→71471   D+(4)=504837261(煤j→36→0〃
E次元→627384       (6)6次元→024681   E+(3)=627384051(煤j→36→0〃 <全体の(@)と(A)を=で結んで計算法を見るがよい>
F次元→7417417      (7)7次元→4567801   F+(2)=741741741(煤j→36→0〃
G次元→86420753     (8)8次元→11111111   G+(1)=864207531(煤j→36→0〃  (すべては何となく見たような数字であろう)
H次元→087654321    (9)9次元→087654321   H+0=087654321(煤j→36→0〃 ●全体はまさに〔「ひふみ…算」の出現〕である

〔すべては自分の手で「自然次元法陣」をつくり、そこに祝詞「ひふみ…」の循環数を横に順に置いて対角線数を求めたものである、そこに現われたのは何という素晴らしい秩序を示しているものであろうか、そこにある縦と横に整然と並んでいる数の姿をしっかりと検証してほしい。これらは小学生でも出来るものである!!〕


 
◎ この完全に連結が完了した完全数列群を改めて見るがよい、あなたはそこに「驚異の数の並び」とその「真実の語り」を見い出すであろう。そこにあるのはまさに厳然とした「現実の数」の姿であり、決して「バ−チャル的な数」の現われなどではない。
 
 上記の各数列を中心で二つに折り、その重なった数を加算してみよう(対極数の加算

 そこにある加算答の数字はすべて同じものであり、同一数字の出現であるという驚くべき結果にあなたは遭遇しているのである。
 
 <例>
      《0+(9)》の場合<0+1><8+2><7+3><6+4><5+5>= 
      《@+(8)》の場合<1+1><1+1><1+1><1+1><1+1>= 
      《A+(7)》の場合<2+1><3+0><4+8><5+7><6+6>= 
      《B+(6)》の場合<3+1><5+8><7+6><0+4><2+2>= 
      《C+(5)》の場合<4+1><7+7><1+4><4+1><7+7>= 
      《D+(4)》の場合 <5+1><0+6><4+2><8+7><3+3>= 
      《E+(3)》の場合 <6+1><2+5><7+0><3+4><8+8>= 
      《F+(2)》の場合
 <7+1><4+4><1+7><7+1><4+4>= 
      《G+(1)》の場合 <8+1><6+3><4+5><2+7><0+0> =(0)
      《H+0 》の場合
 <0+1><8+2><7+3><6+4><5+5>= 


 何と言うことか、見事な「123…天地の数歌」が現れて天地は開けたのである…!!.
 
 まさに目を疑うような秩序整列を持っている数の現れであり、まさに意識数学(自然数学)の珠玉と言うものである。

 ここでも言っているではないか…!!、「ひふみ…の数」はで終わりを告げ、新たに1から始まると…!!!。
 

 日本の神道では確かあの世とこの世は「合わせ鏡」であり、「天地一体」、「表裏一体」の姿であると説いていることはご承知であろう。上の表を見るがいい、一方の対角線が「天(表)」ならば、他の対角線は「地(裏)」の関係であり、まさに「合わせ鏡」の状態にあることがよく分かるはずである。この数図はその真実を表しているものであり、その仔細をしっかり物語っている貴重な数図である。
 そもそも「合わせ鏡」,「表裏一体」などと言う古くからある言葉とその言い回し等は日本独特のものであり、世界にはまったく類を見ないものである。
 
 また『ひふみ神示』は言う 「天と地の間には大きなレンズがあって夫神と妻神が別れ別れになり、夫が「この世の神」で妻が「黄泉の国(あの世)」の神となったと…。その言葉の確実なことを証明するのがこの「神の数学」である。
 
 しかもこの夫婦神が、時めぐり来て岩戸が開かれて合い抱き給う時節が来るとも言っているのである…。

 ここでしっかりと考えを廻らせば、そのあるべき仔細あたりも次第次第に解かってくるはずである。
 
 その為にもここにあるレンズの意味くらいは自分で探すべきであろう。すると「天と地の間にレンズを置く」と言う「ひふみ神示」の言葉と古神道の「神のムスビ」の姿はは同一同態であることが分かるはずである。それはまた、同時に現代語の「メビュ−スの結び」ともまったく同一であることも頷けるはずである。 要するに時代と共に呼び名が変わっているだけなのである。

 上記の「数の語り」を参考にいろいろと自らの考えを廻らし試行錯誤を何度も繰り返すすがよい、それにより四方、八方的に真実が見えて来て貴方の中に一つの確たる自然の具象考が確立されて、やがては羽ばたきを始めるはずである。…<詳細は《数学幻視考》27参照>

 なぜ正方形(n×n)の対角線の持つランダムに見える数字の群れからこのような規律正しい仕組みを持つ驚くべき数列の姿が現われるのであろうか…!?。そこにあるのは誇るべき日本独特の数の手法であり、それはまさに宇宙普遍の数の存在をかいま見せているものである。また、それは同時に自然の持つ「真実の律理」の姿を自然手法により描き上げ、同時にそこに存在する正、反二つのゆるぎない本性のあり方を開示しているものである。そのあたりを一見しながら考えを進め、更なる独自の真実を見い出していってほしい。

 それらを反復検証することにより「正図形」「正自然数」はお互いに呼び合い共鳴しあって自然の真理を告げ、その存在を高らかに謳い上げていることが判ってくるはずである。その事実を我々は最初に知ることが必要であり、それを調べることにより、そこにある因と果の確たる存在とその循環的な流れの存在さえも悟ることが出来るのである。
 要するに、それにより因と果の表れさえも循環的、反復的な流れに沿って現われていることが次第次第に解ってくるはずである。
 
 それらの自然事実を解明し、一つに纏め上げたものがこの「神の数学」と呼ぶ数学体系であり、実在する自然の数理体系を語る貴重なものである。それがすなわち「意識数学」と呼ばれる数学形態であり、科学、哲学、神学上の真実を十分にカバ−し補ってもまだ余りあるものである。
 
 ここにある「数の響き」と「その語り」をあなたの目と心をフルに使ってこの上記の数表から読み取ってもらいたい。
 ただの一読ですべてを了とする者は恐らくいないはずである、何回も何回も目と手と心で繰り返し根気よく検証して初めてこの数図の真価が分かるのであり、そこにある驚くべき「数の真義」がだんだんと心に伝わって来るのである。
よく考えると上記の数図(@)と(A)を180度ねじった結び方とはメビュ−スの輪と同一的なものであり、自然界のメビュ−スの輪的な実在を謳っているものと言えよう。何と言う驚くべき自然図の現れであろうか…。 Oh my Got !! 。
 
 このような不思議な出来事が現実にこの世にあるのだろうか…!!。まさに不可思議ドンピシャリの図である。それにしても、一体これらの対角線数の持つ連理は何を言おうとしているのであろうか…!!。何か大変な真理の存在を示唆しようとしているのは間違いのないことである。洞察力の鋭い諸兄の方々よ、願わくばこの難問を是非とも解いて欲しい…。

 恐らく、これを一瞥しただけで直観の鋭い学者は今までの学の空しさを知り、今までの一切を打ち捨てて新しき知の世界に飛び込むことであろう。

 そんな馬鹿なと笑う者もいるではあろう、これは単なる偶然であり、このような数図の更なる現われ等は決してないと嘲り笑い、誹(そし)る者もいるであろう。その時は改めて、もっと唖然とするほど摩訶不思議な、そして更に意味の深い驚くべき次の「神の作品」の数編をこのHPと言う俎板に乗せて紹介するつもりである。
 そもそもあなた方の誇る人間知、そんなものは自然の知、神の知に比べると砂上の楼閣同然に過ぎないものと心得るべきである。自然と反りの合わない科学知を持って何を得意然とし、偉そうに構えてふんぞり返っているのか…!。
 そんな驕りの心等はきっぱりと捨ててもって学ぶべし、宇宙自然の心、そしてその繊細高邁な超叡智のあるべき姿を。 喝 …!!。

≪Detail presentation≫

◎これら(A)の表を上下逆転(レンズ)にする、その上で上記の通り(@)の後部にもって行き(@)と(A)を結べばすべてその切り口はピタリと合い、一つの完全秩序数列と化して「ひふみ…算」が現れるのである。またその狽ヘすべて36になり、一桁化して9になり0になる。何と魅惑的な完全数の出現であり、そして美しい自然の数仕組みの現れなのであろうか!!。
 
 まさにそれは「超数学」の姿そのものであり、意識的(有機的)な姿を持った新しい数学の姿の出現である。それにしても何と調和ある美しい数のメロデ−の調べであり、素晴らしいリズミカルな「数の旋律」なのであろうか…!!。
 何と言う整然とした秩序を持つ稀有な姿であり、全体的な調和の取れた響きを持つ図なのであろうか…!。ただただ感じ入り、改めて己の知の貧しさを恥じて涙するだけである。
 
 そこに最終的に現われたのはまさに古神道の奥義祝詞「ひふみ…天地の数歌」の姿であり、数千年前の祖達が残した輝かしい「知の業」が昇華結晶したワン・フレ−ズの姿、すなわち古神道の奥義祝詞の姿となっているのである。
 
 まさに、それ、すなわち、祝詞「ひふみ…天地の数歌」の名の通りであり、大宇宙の歌(共鳴の響き)そのものである。
 
 まさにそれは真実(法則)の存在を歌っている偉大な天地のメロデイ−であり、天地無双の仕組みと言えるものである。
 
 我々はその事実を知ればいいのであり、ただそれを頭の中に置けばいいのである。ただそれだけで我々の人生そのものが一変し、すべてが自信に満ち溢れて無上感を感じ始め、やがては自然そのものと己の対話が始まることを予感し始めるのである。


また次に(A)の上下逆転の表を今度はそのまま(@)の頭部に連結させる、すると驚いたことにそれらの数は何とまたもやその二つの切り口がピタリと合って完全秩序数列と化すのである。そんなことが本当にあっていいものであろうか…!!。
 
 是非そのあたりを自らの手で試み歓喜の声を上げるがよい。要するに、頭部に置いても末尾に置いてもすべての数列の切り口は不思議にもピタリと合い完全数列である「ひふみ九九算」が次々と姿を現すのである。また、そのすべての狽ヘ36、一桁化してになりになるのである。何たる不思議、!!。何たる妙なる象なのであろうか…。(注……「完全数列」とは合計して0 になるものである)

  一体これらを通して宇宙意識(神)は我々に何を示し、何を教えようとしているのか…?、そのあたりを真剣に考えてほしい。
 現代数学ではそのような有機(意識ある)的ともいえる数仕組み等はまったく見られず、あくまで無機質のものが流れ、無機質に終わるのであり、そこには相互的な響き、リズム等は一切見られない。すなわち、全体的な相互関係などは一切見られず、よく見るとすべては不完全な形、穴だらけな姿で終わっているのである。そのあたりは日頃数学者であるあなた方が感じている通りのものであろう。


あなた方は問うであろう、本当に大自然は知を持っているのか、宇宙意識(神)は本当にあるのかと、今まで誰もそれには答えた者はいない。しかし、あなた方の前にあるこれらの問題を本気で解こうとするならばその答は直ぐに見つかるはずである。例えば上記の(@)(A)の場合、そこにある対角線上の数字の取り方の方向を一歩でも間違えばすべては水泡に帰し、混乱が始まるだけである。すなわちそこにある何千、何万、何億の「神の法陣」の二つの対角線の取り方には一定のル−ルと規律が厳として存在すると言うことである。一つの対角線を右下がりに取り、もう一つを左下がりに取った場合、残る無限に伸びる膨大な数の「神の法陣」もまったく同様な方法で処理しなければならない、さもなければすべては無残な結果に終わってただただ終止符をうつだけであろう。例えたった一つでも取り方の方向が少しでも違えばすべてに影響を与えて混乱が生じるだけである。それはすなわち、すべては確たる意図をもって創られた有機的な存在であり、かつ数によりしっかりと管理されているものであると言う何よりの証拠である。我々はこの教訓は十分に生かしてこれからの人生を歩むべきであろう。 

 (「神の法陣」初級講座(12)にはこれ以上の恐るべき「神の秘密」が開示され、その答が恭しく鎮座している。それはまさに驚嘆の逸品である。是非、あなたの直観と洞察力を駆使して、それを検証し、更にはその奥へと踏み入ってもらいたい。果たして何が現れてあなたに「秘かなる真実の理」を囁やきかけるのであろうか?。)

 お解かりであろうか、数はすべてを知り、しかもそれを教えてくれるのである。これらは人間の知(現代数学)より遥かに簡単であるが、実際は大いなる玄理に富んだ非常に厳しく、威厳に満ちているものである、決してあなどり安易に扱うこと等は謹んでほしい。すべては自然の真実を告げながら同時に宇宙普遍の真実の「数の理」の存在を示し、大いなる自然の真理法則を巧妙に数で描き上げているものである。まさに今行き詰まっている数物理、哲学、神学界等の求めている真実探索の材料としてまさに格好のものであろう。また、これらを順次辿って行くことにより「新しい知の世界」の存在が明らかになり、その扉を叩くことが可能になるのでもある。時間などはいくらかかってもいいではないか、自分自身の将来のための試金石としてこれらの数の検証を是非試みて、これからの人生に生かしてほしい。 すべてはあなたのため、人類の未来の為にである…!!。Open sesame !! (開け ゴマ)
 これらはまた現代の数学者達にとっては青天の霹靂であり、気も狂わんばかりの情けなさと焦りを覚えるものであろう。そしてとどのつまりはいつもの通り、ただただ不問、不介入を決め込み、無視するだけになるのである…。
すべては万古不易の「数の物語」であり、宇宙普遍の「数の囁き」である。また、すべては未だ人間の見やらぬ「神の叡智」の数々である。 「神の法陣」初級講座(12)より

 上記の例題は「神の法陣」初級講座(12)から転載したほんの一例であり、「神の数学」の中にはこれ以上のものが何段にも重なって数十、数百と転がっているのである。すべては人知的にはノ−ベル賞級、いやそれ以上の自然数理の知られざる逸品ばかりであり、自然知の珠玉の宝庫と言ってもいいものである。例えば、この「神の法陣」初級講座(12)の中にはまだ数多の驚くべき超知が展示され、訪れる者を待っているのである。そこには「神」の確たる存在証拠とその偉大なる合理性そのものを驚くべき方法で数が開示しているのである。それらはまさに唖然とするものであり、なぜこんなことが今まで判らなかったのであろうかと頭を抱えて宙を舞うことは必然である。
 その真実の答は誰でも、何処でも、何時でも簡単に自分の手で検証できる、すなわち、自己検証が可能なものである。是非そのあたりを楽しみながらじっくりと考え、新たな真実の心を芽生えさせてほしい. 要するに意気込み、熱意がものを言うのである、決して学力の有無、知能のよしあしなどではない。
 残念ながら、現代の秀逸と言われる学者達はこれらの知をまったく知らず、想像すら出来ないものである。だから現在の段階では決して認められることはなく、忌避されて無視されてしまうことには間違いないであろう。そのあたりは十分に知って取り扱ってもらいたい。
 それでいいではないか、ただただ自然の中に溶け込み、自然を相手に嬉々とした会話を楽しみながら自然の真実を知る。このような大歓喜に包まれた素晴らしい世界に立ち入った者が果たして今までにいたであろうか!。まさに極楽涅槃の境地であり、尽きぬ知の醍醐味の大いなる世界に遊んでいる幸せな果報者である。まさに弥栄の境地の最中である。やさかましませ、いやさかましませ!!。 
 ●≪天の筆、『九の神』、やさかましませ、いやさかましませ、一二三四五六七八九で足りるのであるぞ…≫…
 ●≪弥栄ナルトの道は九の御座の問ひに開くぞ≫……「ひふみ神示」より。

 <そのうちに上記問題が教えようとしている宇宙自然屈指の大原理、大摂理、すなわち、長い間人間知が常に求めて止まなかったこれらの永遠の答をここに上載するつもりである、但し、大勢の人々の要求があり、気分が乗ればの話である。それまで出来る限り自分の知と洞察力を用いて自分なりの答を見つけ出してほしい。「求めよ、さらば開かれん」、「一心岩も通す」の気概を常にもつことが何より大切なことを忘れないでほしい>。
<知の人間は広く進むぞ、タテとヨコでであるぞ、二つが織りなされ結んで弥栄になる仕組み>…「ひふみ神示」より                                                                    (2010年4月吉日抄記)


   大古神道の秘密 『9の秘密』を探る。(その2)  
  
    「ひふみ…天地の数歌」が歌う“真理の歌” (7)より再掲示
                                                           
    ≪数<9>とドレミの不思議な関係、そして数<9>の不可思議な話
                                                リンク ひふみ神示黎明編「神の数学」

                                                 2011年8月謹んで上載                     
 
 もう既に祝詞「ひふみ…天地の数歌」の人文的な考察、あるいは数理的な解析は大分終えたので、引き続きそれに関する傍証的な真実の考察に入って見たい。よく目を見開けば我々の周囲にはそれらに関する古代の名残がしばしば見受けられるのであるが、今では誰も見向く者とていない有様である。願わくば、あなたの視線の限りで結構である、見たこと、感じたことを納得いくまで調査検証して見ることをお勧めしたい。更に今回のこの記も読み終えた時点で貴方の直観的視線でもう一度よく世の中の事象を見定め、改めて直観と洞察力を駆使してもう一度考えて見てほしい。恐らく、あなたの記憶の中にも何かこれらに類することがあるはずであり、それを引っ張り出して再吟味して戴きたいのである。

 古神道の祝詞である「天地の数歌…」の意味をもう一度改めて考えてみよう、今まで我々は単に「ひふみ…」の数詞のみを指すものと考え、深い考えには至らなかったのである。要するに、その後に続くべき本体の存在にはまっいたく気がつかず、数千年の間放置したままであったのである。まことに迂闊であり、あまりの深慮の至らなさに地団太踏みたい気持である。

 改めて考えて見るとそこにはそれだけの大きな背景と理由があったはずである。例えば、古代文書が伝えているようなすべてを呑み尽くした限りない天変地異や、民族を滅ぼすような大規模のはやり病(伝染病)、はたまた歴史を揺るがすような他民族の侵攻、あるいは権力者の大きな政権交代、それらが何度もあり、そのたびに、徐々に古代知の分散喪失が進み何時の間にか失われてしまったのであろう。これらの歴史変動が無かったと言うほうがおかしいのである、何せ、縄文期とは1万5千年という世界一長い歴史を持つものである、そのいずれかの時代には信じられないような大文明が存在したことは疑いのないものである。その証拠に、日本には世界には類を見ないほどの超古代文献があまた存在し、しかも、その多くは現代と基点が異なる「遥かな叡智」の諸々が記されているのである。それゆえに現代の学者達には信じられず無視の憂き目に合っているのである。察するに、その当時はもっと深い意味で宇宙の構造と合い響くような深い知や仕組みがあまた知られ、多くの人々者がそれを学んで日頃生活の中で用いていたと思われる。

 今回は我々の周囲にある不思議な数『9』についていろいろ考えをまとめて、その真実を探求して見よう。

 最初にこれだけは知ってもらいたい、現代数学者達の間で数字《9》はとても不思議な数、得体の知れない不可思議な数であるとも今も言われ続けていることを…。要するに、現代数学者達さえも9の本当の正体、本体は知らず迷っていると言うことである。また0についてもまったく同じであり、数学者達は完全にギブアップの状態を示しているものである

 古来より日本に伝わる言葉の中には「九」、もしくは「九の倍数」にあたる数字が驚くほど多く存在し、そしてその殆どは意味も知らずに使われていたという“不思議な現象”が存在している。恐らくそれらについては誰も気がついてはいないものと思われる。

 そのあたりから今回は話をスタートさせることにしよう。

 まずは諸氏がお馴染みの「ドレミファの音階」に潜む驚くべき秘密を探り、誰も知らない真実を明るみに出してみよう。相変わらず誰も知らない話であり、夢想だにしたことも無い突飛な話でもある。しかし、この事実はあなた方の心を十分に揺すぶって魂を天外に飛ばしてしまうことは何時もの通りのことであり、またあなたの心に一つの余裕が生まれリ元気が出ることは請合うものである。心に余裕を持って生きる、そのためにもこのような法外な話も時にはいいではないか…!。

 更には音楽の基本である音階ドレミファの「ド」について考えてみよう。「ド」は261ヘルツの振動を持っている音である、それに対して1オクタ−ブ上の「ド」は522ヘルツであり、2オクタ−ブ上の「ド」は1044ヘルツ、3オクタ−ブ上の「ド」は2088ヘルツという振動を持っているのである。そのあたりは音楽を志している方はよくご存じであろう。

 この場に主音「ド(261ヘルツ)の音叉を数個用意して一個だけを叩く、すると面白いことにこの音叉は上下のオクタ−ブには関係なく、どのオクタ−ブの「ド」にも共鳴しすべての音叉は振動を始めるのである。要するに、すべてはドの音階のみに反応し、共鳴音を奏でると言うことである。おそらく、そこには自然流のエネルギーの受け渡しが行なわれているのであろう。この自然流のエネルギーの受け渡しの理屈は今のところまったく未知数であり、大変不可思議な形態と思われる。
 この不可思議な自然流エネルギ−の発生形態を持つものにある種の蝉がある。あの小さくてか細い発声器官しかないのに空気を揺るがすばかりか、全山を揺るがすような大音声を発して我々を驚かせているのである。これはまさに驚くべきエネルギ−の創出発散であり、小さな小さな共振力が考えられないほどの大きな共鳴エネルギ−を誘発し、耳を聾せんばかりに山々を揺らすのである。
 
 我々の常識ではエネルギ−とは広く拡散するか、または多くのものに分散移行するに従って減衰していく物質形態の一つであり、拡散するにつれて無秩序化されて減衰していくと考えられている。要するに、拡散してエネルギ−の力が小さくなると利用が出来ないもの、それが今の人間の利用している物質化エネルギ−、すなわち、石油、石炭、ガスなどの物質的な有限エネルギ−である。
 しかし、自然にはこれら以外の無尽蔵とも言える非物質エネルギ−があまた存在し、見えない形で縦横無尽に走り回っているのである。ただ、我々はそれを未だ利用する技を持たないので捉まえることも出来ずただ放りっぱなしにしているだけと言うことである。

 要するに、まだ我々の知はまだまだ未熟であり、従ってテクノロジ−が低いのでそれらを利用出来ないと言うことである。

 自然エネルギ−現象の身近なものでは雷がある、あれも一つの非物質エネルギ−である。上空のマイナスイオンと地上のプラスイオンの均衡が同調共鳴し、本質が0になる時にすざましいエネルギ−を放って鳴り響き大音響を轟かせるのである。これはまた大きすぎて制御できず放りっぱなしであり、科学者達は完全無視の状態である。これを利用してエネルギ−を作ればいいのである。現実的では無いと言うなかれ、確か、70〜80年前に空に雲を作ったり消したりしていたライヒと言う有名な学者がいたではないか、もっとも彼は医者のくせに物理学の領域を侵したとして投獄されそこで死んでしまったが…。

 今の我々は数十年先の物質エネルギ−の枯渇をめぐって、ただおろおろしている現状である。そこで一つ規模の小さい実験室的な雲を発生させ、その中で雲(+)と大地(−)を電極とした静電気を発生させ連続的に衝突させてエネルギーを作って蓄電しておけばいいのである。今は不可能でも、20年、30年もかければ必ず出来るはずである。このように利用可能な未知エネルギ−、すなわち、自然エネルギ−の一つである静電気を捉まえて利用することを国家単位で考えていけばそのうち道は開け無限のエネルギ−が得られるはずと思うのであるが…。考えてみると。今から300年前にベンジャミン・フランクリンと言う確かな先駆者もいたではないか…。彼は雷を捕まえてエネルギーを取ろうとした最初の科学者であり、その事実は教科書にも載っていたはずである…。

 「静電気」、それは自然界に無限にあるエネルギ−であり、未だ人間の手の届かない究極のエネルギ−、すなわち、未来のエネルギ−源と言ってもいいものである。しかし、科学者達は今のところ避けて通るだけで誰も相手にしょうとはしない。
 雲の正体は判った、雷の原理も解ったと豪語し、嘯いているている科学者諸氏達よ、それらを人類のために応用利用してこそ初めて科学者としての本分をまっとうすると言うことであり、その熱き使命と言うものであろう、そうではないのかな…。

 ただ理解した、判明しただけでは「花は咲けども実はならぬ」であり、全く意味のない無駄花の類と少しも変わらないはずである。

 これらの自然の力の発見、そのためのキ−ワドが「0=9」であり、それと「自然は簡単明瞭に出来ている」の二つである。ここにおける0とは姿の無いエネルギ−であり、9とは物質化された姿のあるエネルギーである。確かアインシタインは「エネルギ−が集中して密度が濃くなったもの、それが物質である、要するに、エネルギ−と物質はまったく同じものである」と言っていたはずであるが…!!さあ、
話はとんでもないところに飛んでしまったが元に戻そう。

 さて、このドレミハ…の「ド」の振動数、すなわち、ヘルツの値を見てみよう。

「261ヘルツ」Σ=9→0、「522」Σ=9→0、「1044」Σ=9→0、「2088」Σ=9→0、 ……。

 なぜか知らないがすべては倍数関係になっているのである。しかもそこにある数とは加算すればすべては9になり、0になると言う不思議極まりない数の関係としてそこに出現しているのである。

 まあ、このオクターブが倍々で増える、すなわち、倍数関係にあるのは解るのであるが、そのΣの数である9の出現にはまさに驚き桃の木である。察するに、この主音の「ド」には9の本質数である0が宿り、宇宙の本質0と同調共鳴を作り上げているのであろう。
 まさに「ドレミ…」の音階とは宇宙のリズムと相呼応しているコズミックメロデイ−であり、我々の心を優しく癒してくれるものと言える。

 なぜ、私が突然「ドレミ…」の音階を持ち出したのか、諸氏はさぞかし不審に思うであろう、が何を隠そう私にはこの「ドレミ…」の音階と古神道から出てきた「ひふみ九九算」そのものが本質的には全く同じものと思えて仕方がないからである。なぜならば、「ド」の音階は倍数関係でオクタ−ブを上げていっても、その本質は常に0であり、宇宙のリズムと常に共鳴し、同調状態で響き合っているのである。それが我々心に強い力で迫って来ると言うことは、すなわち、我々の心も本来は0の本質を持っていることを意味するものである。 一方、「ひふみ九九算」も御承知のように各数列は倍数関係を持って次々と展開され、その本質はすべてにおいて0を示していることは今までの証言でお分かりのはずである。まさにこの二つは同じ本質を持っているものなのである。

 また、面白いことに、古神道では「天地の数歌」としてはっきり「歌」と命名され、神官たちにより一つの歌形式で朗々と奏上されるのが常である。要するに、時代や形こそ違うけれどもこれら二つ、すなわち、「ドレミ」と「ひふみ九九算」の中身は全く同じと言ってもいいものであり、まさに自然の持つリズムと共鳴している驚くべき歌形式を持つものと言えよう。

 つくずく考えると、「歌」とは生命のエネルギ−の自然的な発露であり、そのゆるぎない心の語りを表現するものと言える。しかも、その語りのエネルギ−とは心に浸みる微かな振動であり。、宇宙のリズムと共鳴同調波動の姿を持っているものなのである。

 この場合、この「歌」の波動が大自然のリズムと共鳴調和すれば、当然、心は母胎に包まれているような安らぎが生じ、調和安定の境地になる、すなわち、心が丸くなるのである。要するに、我々が名曲を聴いて感動すると心のしこりやわだかまりがすべて取れ、苛まれて歪んでえびつになった心が丸iい自然の状態に還るのである。それが気が休まり、リフレッシュな心地よい心になるのである。
我々の心とは本来、自然の持つ丸い完全波動と響き合えば丸くなり、歪んでえびつな反自然な波動と同調すれば自然にえびつになってくるのである。要するに、それは諺の「朱に交われば赤くなる」の言葉通りのものであり、まさに生きている言葉と言っていいものである。 我々がすべてを忘れて感動の涙を流す時とは大自然のリズムと我々の心が完全共鳴して、大調和し合ってまさに心が丸くなって素直になったその瞬間なのである。

 音楽音痴の私にははっきり分からないが、恐らく中間のレ、ミ、ファ、ソ、ラ,シ…も同一的な原理状態にあるのではなかろうか…?。もしそうならば「ドレミファソラシド」の音階とは天空の音楽であり、まさに宇宙の根源リズムである「宇宙の本質波動」に完全につながるものである。それが知らず知らずに無意識のうちに人間の心(本質0)につながって、気持ちが安らぎ、癒されると言う状態作り出すのである。 何と、「ドレミ…」は宇宙の本質波動と同調しているものであるが故に我々の魂と共鳴し安らぎを与えていると言うことであり、まさにそれは心を癒す「魔法のリズム」であり、天啓の「魔法の言葉」そのものと言ってもいいものである。

 するとやはり、音楽を聴かせると植物がよく育つとか、乳牛のミルクの出がいい、あるいはお酒の発酵には音楽が何よりであると言われているのも頷けることであり、まさにそに事実こそ自然のリズムとの同調現象の存在、自然のつくる妙なる円滑現象であろう。

 日本には古来より「九」、もしくは九の倍数にあたる数字が驚くほど多く存在し、また「九」に関する不思議な言葉が世界に類の無いほど多い、それは一体何ゆえなのであろうか。そのほとんどは意味も知らずにただただ慣用的に使われているだけである。
 おそらく、すべては古代からの伝承言葉であり、一つの慣用語として人々の中でひそかに愛用されて伝承され続けてきたものであろう。それらを一つ一つ見れば、まるで彼等古代の人々は「九」の数の持つ不可思議な性質をしっかり知り、扱っていたように思えてならない。恐らく彼等は何らかの理由で「九」の数の正体を知り、不可思議な力を持つ「神の数」として崇め奉り、招神退魔などの際に用いて日頃の生活の中で活用していたのであろう。

 ところがである、最近の日本人は「九」は「苦」に通じるものと何ら根拠も無い怪しげな理由で「九」の数を忌避し嫌っているようである、まことに情け無い。そこには知性のかけら等は一切見られず、まさに、無知そのものとしか言えない。
 そのあたりをお馴染みの言い伝えを例にとって追跡し、それらの真実を確かめて見ることにしょう。相変わらず誰も知らない話であり、夢想だにしたことも無い突飛な話、法外な話ではある。しかし、これも事実であり、事実の証言としての大切なものである。恐らく、読むにつれてあなたの心を十分に揺すぶり天外に飛ばしてしまうことは何時もの通りであろう。また時としては心に不思議な余裕が生まれ、同時に心が大きくなって滅多にへこまなくなることは十分に請合うものである。心に余裕を持つて他人と相対する際にこのような法外もない話を知っていても損にはならないはずと思うのであるが…!。

 本来は「九」の数は最高に尊ばれ、崇められるべき尊い数であり、「神」の心に類比すべき数なのであるが、そのことは今では誰も知らない。要するに、日本人は10進法の便利さに帰依するあまり、それまで持っていた古代の自然に基づく数理に関してはすべて忘れてしまったのである。 それはまさに「悪貨は良貨を駆逐する」の諺通りのものと言えよう。

 考えて見るがよい、10進法とは人間には指が10本あるので便宜上使われている計算手法であり、何ら自然の事象に起因するもの、あるいは自然の範例に由来するものでは無い、すなわち、自然の持つ数の扱いとはまったく別のものと言ってもいいものである。

 ただ、それは人間が手を使って計算するには便利なだけであり、自然の用いている絶妙な「数の仕組み」とは全く異なるものと言うことである。そのことだけはしっかりと心に刻み込んでおいてもらいたい。

 江戸時代の刻限を表すのに「九つの時」があり、刻限で一番大きなものは九ッ時であり、それ以降は八ッ時、七ッ時。六ッ時(明け六ッ)言われてきている。どういうわけか、数は大きい数から小さい数に向かって走っているのである。

 九ッ時とはすなわち、真夜中の0時であり、「子の刻」と呼ばれていた時刻である。その次は丑の刻、すなわち丑満つ時と呼ばれていた真夜中の2時である。要するに、1、2、3…の代わりに子、丑、寅…の十二支を用いていて時を計算していたのである。要するに、九が一番最大で最後の数でありながら、最初にもってきいると言う大きな謎があるのに気がついてほしい。一説にはいわく、それは本来は 09、18.27、36、…を意味するものであるが、その最初の一桁の数を取り去って9、8、7、6、…としたと囁かれているのであるが、それも確かではない。そこにある本意とは一体全体は何であろうか…、今では誰も知らない。。

 ひょっとして、真夜中の12時から朝の6時までを「あの世」に通じる時間として捉え本質0である09、18.27、36、…と言う「神の数列」を置いたのであろうか…??!。

 これらを見ると江戸時代の初めあたりまで「古代の知」は引き継がれ残っていたと思われる。恐らく、それは遥かなる平安初期に生を受けた空海、すなわち、弘法大師が長年かけて諸国を訪ね歩いて捜し求めた「先天の数の理」であり、その一つあたりであろう。その「先天の数の理」の存在については空海よりも150年前に生まれた聖徳太子がその書「先代旧事本紀大成経」の中の「先天の伝え」でいみじくも語っているのをご存じであろうか。
 太子はその中で、 『経(ふみみち)はここに露(あらわ)なり。学(まなびのみち)はここに始まる。その言(のたまい)は数にあり。しかも数の道は理(ことわり)を含む。その理(ことわり)は、玄(ふかき)を有(たもち)てあり。しかし、人はこれを知らじ。これ先天の傳(つたえ)なり』と記しているのである。ここにある先天とは現代文明より先立って存在した先史文明を指すものであり、それはまさに数々の古文書にある日本超古代文明の存在を裏書きするものであろう。

 同じように「あの世」を開く道具に数珠(じゅず)ある、その数珠の玉の数を見るがよい。どう言うわけかその数は36、45、63、72,81、108、と決まった数であり、すべては0に通じる「神の数」である。これらの数は「あの世」を開く数としてる遥かな昔から知られ、伝えられてきているものである。これらの小さい数の数珠は手首に巻き、大きい数の数珠は体に巻きつけて用いることにより、「あの世」と心が通じ、交信可能と言われているのである。

 これら「数の秘密物語」は佛教伝来の遥か以前から日本に存在していたものである。恐らく、その概念の起源は爾来三千年の歴史を有する古神道の初源か、あるいはそれ以前の日本起源の「本易(神の易)」あたりにあったはずである。それが何時の間にか、仏教の「あの世」の概念と結びついてそのまま現在に至っているのであろう。たしか、佛教発祥の地であるインドや伝来経路である大陸にはそのような数の用い方は一切見当たらず、その概念さえもまったく無いものである。

 要するに、09、18.27、36、45…の本質は0であり、「あの世」につながる数として深く用いているのは日本だけであり、世界中何処にもその類はないものである。この事実は一体何を語り、何を伝えようとしているのか…?!。

 あなた方はあいも変わらず、日本は知的後進国と教えられ、それに洗脳されて甘んじているようであるが…、実はその逆が真実なのである。古代日本には世界の知を支えてきた大文明が栄えていたのであり、世界各国から知を学ぶために大勢の人々が訪れていたのである。そのあたりのことはまさに超古代文書である「竹内古文書」に記されている通りのものである。

 戦後、それらを知ったアメリカはありとあらゆる超古代文書を日本中から集めて本国に持ち帰り、調べたのであるが、何せ,当の日本人さえ真実を明かし得ないものばかりなので、超古代の真実を見出すことは叶わず、今でもどこかの図書館の奥で眠っていると言われている。彼等は戦時中にアジア、奥満州のコンロン山脈、そのほか、世界の各地から集められた日本に関する文献の存在から素晴らしい日本古代文明の存在を知ったのであるが、当時の日本にはそれを知る学者は誰もいず、また、古いものを測定する技術さえも持たなかったので全部本国に持ち帰って調査したと言われている。しかし、そこにあったのは、あまりにも古い日本古代文明であり、その驚くべき内容の存在にただ吃驚し言葉もなかったのである。  

 さあ、大分本題から外れてしまったが、このあたりで元に戻すとしょう。しかし、ここまで来たのである、一つ歴史書の外側にあるもう一つの伝承言葉から歴史書には無い古代風景に視線を当てて見てみることにしょう。

 古代日本における『九』の役割とその本当の姿を見てみよう。

 本来、古代日本では『九』の数は大変崇められ、秘数として信仰の対象、あるいは厄除けに用いられていたのである。しかし、今ではすっかりそのパ−ソナリテイは落ちぶれ果て、最も忌み嫌われる数としての存在に化しているのである。

 そのすべては10進法の数え方の普及に端を発し、その勢いが増すにつれ『九』の姿は次第に失われてしまったのである。要するに、現代数学が普及するにつれて、古代の「九」の数は庶民の中に身を潜め細々と生き続けて来たと言うことである。

 そのあたりの姿を少々書き出して見る、諸氏も何か心当たりがあるなら是非とも見つけ出して教えてほしい。

お寺の瓦に「九」の文字を彫りつけ、厄除け、邪霊よけとした。

陰陽のお札、別名「物忌札」に「九」の文字を沢山記し、魔除け、厄除けとした。

僧侶の秘呪として「九」の文字を唱え、「九の印」を結ぶ「九字護身法」の存在がある。

山伏、忍者達が九字を切る時に用いた横五、縦四の手印の法、合計9回切る。

除夜の鐘…すべては完了し、時が新しい次の刻みを始める合図、108の鐘の音、一桁化すると9である。

大晦日以外の毎月の晦日には18の鐘が打たれる、一桁化すると9である。

僧侶の持つ数珠の数は36、45、63、72ヶ、…であり、すべて一桁化すると9である。

花札遊びで「九」はカブと呼ばれる最高数であり、「十」はブタと呼ばれる最下位の数。

武芸十八般、歌舞伎十八番、娘十八、すべてこれ以上は無い最高を表す、これらを一桁化すると9である。

◆ 鯉は「六六鱗」と呼ばれ、36枚の鱗を持ち、龍は「九九鱗」で81枚の鱗を持つ。36はこの世の数であり、81は
     あの世の数である。要するに、9,18,27、36、45は「この世の数、54、63、72、81は「あの世」の数と言うことである。

結婚式の三三九度の杯を交わすとは、すなわち、3と3で6である、それを九回重ねると6×9で54である、54とは、
  すなわち「あの世」の最初の数であり、あの世までも一緒に連れ添うと言う大変意味深い言葉である。

 

  「九」にまつわる古代の叡智とは一体何を意味するものか、…?!、何ゆえに数「九」が尊ばれ、崇められていたのか…??。
  その秘められた背景とは?!。 現在でも数「9」は謎の数と言われ、数学者達の大きな関心の的となっているものである。


  次に歴史の世界に目をやり、「9」の数を見つけてみよう、驚くべき事実が存在する。

 中国の『盤古神話』には「盤古が生まれて一万八千年目に天地が分かれ、その後一万八千年目に天地が完全になった。盤古は一日に九度姿を変えながら成長し、十万八千年生きて没し、三十六天界の最上位に昇った。その天は地から九万里のところにある」と記されている…。「三五歴記」より。  【これらの数字を一桁化するとすべては9になる】

■ 私の死後五十六億7千万年になると弥勒(369)菩薩が悟りを得て仏になり、世の人々を救うであろう。弥勒菩薩は身の丈十八メ−トルある方である。……(インドのお釈迦様の言葉)

■ 「星空の1回転は2万5千9百20年であり、王様は天から降りて、まずエリドウに受け継がれた。アリルムが王となり、2万8千8百年統治し、アラルガルは3万6千年統治した。その2王だけで6万4千8百年統治した。大洪水が地を洗い流した後、日神ウトウの子メス・チャグ・ガシエルが王と大祭司を兼ね324年間統治した。…「シュメ−ルの神話」より。

■ 九を聖数として崇めてやまないのはヘブライ人、すなわち現在のイスラエルの人々である。例えば、「9本のロ−ソクに火をともし、必ず九礼拝する」習わしを持つ。…(イスラエルの人々神に祈る際の儀式)

 次は少々自然に目を向けて「9」の現象を探してみよう。諸氏も数「9」の持つ不可思議な魔力に驚嘆の目を向けるであろう。

 また、巷間では次のような常識が流布しているのをご存じであろうか…。

海岸に打ち寄せる波は1分間に18回

人間の生命波動の基本は9ヘルツ。つまりα波の状態である。

人間の生命を維持するための連絡孔は9ヶ。<目(2)、鼻(2)、耳(2)、口(1)、排出孔2 >

人間の感覚器官は全部で27ヶ。(手指10本、足指10本、目(2)、鼻穴(2)、口(1)。耳(2))。

人間の正常な呼吸数は1分間に18回

◆人間の体温は36度。


人間の脈拍は1分間に72回

人間の正常な血圧の上限は144、下限は72、またその中心値は108である。

………これらすべての数のΣは9である。

 見るがいい、ここにある数を一桁化すれば、すべては9であり、0である。これらすべては大いなる自然のリズムであり、0と9が織りなす陰と陽のゆらぎの存在を物語るものである。すべて森羅万象はその響きを受け共鳴調和しているのであり、またすべてはそれを基調として千変万化の姿を繰り返しているのである。この「ゆらぎ」に関して科学者達はいろいろと言ってはいるが,大体は当てずっぽうな意見であり、あまり的を得ているものはない、つまり全く正体不明なのである。

 その中でも最も真実に近いのが宇宙物理学者の佐治晴夫氏のユラギの説明である。彼は「完全透明で見えない水がある、そこに風が吹いて来て波が立ち、縞模様の影がゆらゆらと立つ、要するに見えないものがゆらぎとして揺れて見える存在となるもの、それが「ゆらぎ」として我々の感覚に感じられるものであると言っている。

 また彼は「プラス電荷とマイナス電荷が完全に重なって見かけ上中和され見えない状態になる、次にこの二つの電荷の位置がが少しずれる、すると完全に重なった時には見えなかったがものがずれることによりプラス電荷とマイナス電荷の端と端が見え始まる、要するに、見えるものと見えないものが連続的に繰り返される、それが「ゆらぎ」であると述べている。妙なことにこれは「神の数学」の数の囁きと同一なものであり、見事なゆらぎの本質を語っているものであると言えよう。

 これら奇妙なる「九」の数の意味は一体何を示唆しているものであろうか、そこには未だ我々の未だ知らぬ何か大きな自然
の理があるはずである。しかし、誰も知らない、考えようともしない。ただただ、無視するのもで、近づこうともしない。
そのあたりを追って不可思議な自然の囁きを見てみよう。すべては現代科学が発見した科学上のデ−タ−である。

 ◎《天空の巻》

@ 天空(銀河系宇宙)は72年に一度位置を変える。 (72→7+2=9)

A 天空(銀河系宇宙)の一回転は25920年。   (25920Σ=18→9)

B 太陽が出発点に戻る周期……25,92年    (2592Σ=18→9)

C 太陽の自転……25,38日

D 地球の歳差運動……945万日、または25776年

E 地球地軸の傾き……23,4度(平均太陽日の86400分の1)

F 1日の秒数……86400秒  (86400Σ=18→9)

G 1秒……光の振動周期の9192631770倍 (9192631770Σ=45→9)

H シユ−マン共振波(地球の振動波)……7,83、Σ=18→9

I NASAのアポロ計画に参加した科学者のモ−リス・シャトランは「太陽系に属する惑星、衛星、重要な長期彗星の公転周期や会合周期のすべては“9の倍数”である」と述べている。

 すなわち、あらゆる天体の反復する周期、同一の出発点に回帰する循環周期はすべて9と言う母数を持つ、すなわち9で割り切れると言っているのである。

◎《自然の巻》

■ 脳から出るα波 …… 波動の中心値は9ヘルツ

■ 木炭の波動 …… 波動の中心値は9ヘルツ

■ 人体の出す遠赤外線の数値 …… 7〜12ヘルツ(中心値は9)

■ 動物や植物の欲しがる遠赤外線の波動 …… 7〜12ヘルツ(中心値は9)

■ 水分子の結合角度 …… 104,31度  (10431Σ=9)

■ 水(H2O)  …… 18(水は水素2、酸素16の原子をもつ分子)→9

 このように「9」や「9の倍数」を持つ自然周波(波動)は多くあり、そこには何らかの「自然の秘密」が隠されているような気がするのであるが、いかがであろうか。

 おそらく、古代の人々は自然の中に「9」の真実を発見して数の不可思議な姿に目を見張り、長年かけてそこにある秘密を見出し、活用していたのであろう。

 ここにある9とは本質は0であり、それはすなわち、《9=0》と書き換えることが出来るものである。

 考えてみれば、まさに0こそ「至高の数」であり、すべての数の母胎なのである。すべての数は0から生まれ0に戻っていくのである。それを歌っているのが0123456780の自然数列であり、その他の「ひふみ九九算」の数列なのである。すべては0で始まり、0で終わっていることは一目でお分かりであろう。「神の数学」では0を母数と呼び、9を帰母数と呼んでいるものである。
                              <詳細は「超数学の世界」講座(8)を参照してほしい>

 姿は変われども「ひふみ九九算」におけるすべての数列の連比は見事に012345678となり、同一体の姿を見せているものである。この事実は少々頭をひねって考えて見れば誰でも簡単に解ることなので是非検証して見てほしい。

 考えてみると、そこには現代数学者達が目を剥くような数の理が隠されて、自然のあるべき姿を開示しているのである。
大変簡単なものではあるが、現代数学的な概念ではなかなか解くことは難しいと言ってもいいものかもしれない。

 たとえば、何時も例に挙げているのは次のようなものである。

 「ひふみ九九算」のC番目の数列、0360360360、また、H番目の数列の0876543210、これらの数から何故0123456780と言う自然数の連比状態が生まれるのか…?!。どにようにすればそれらから0123456780の連比数が現れてくるのか…?!。
 頭の固い現代数学者は恐らく解くことの出来ないであろう、しかし、頭の柔軟な中、高生には甚だ簡単に解けよう。まさに、 それはまた、自然の持つ真実の「数の理」であり、「数の序」を示すものである。まさに簡単にして、単純な自然の「数の理」である。
  固い頭をほぐすためにも、出来るだけ懸命に、そして気楽に脳をオ−プンにしながら考えてほしい。要するに、直感力の有無の問題である。多分解答を見た後で、なんだ馬鹿馬鹿しいと自分の余りの思慮の無さを嘆くはずである。(回答は来月(9月)の記に掲載予定)
 
 これらの祝詞「ひふみ…天地の数歌」から現れた「ひふみ九九算表」のすべての数列は同じように0123456780の連比が見事に現れてくるものであり、それゆえに「ひふみ…天地の数歌」の名前を持っていると考えるべきものである。恐らくこれで長い間の疑問、すなわち、何故、この単純極まりない「ひふみ…の数詞」が日本神道の奥儀祝詞として最高の位置に君臨していたかの疑問も解けてくるはずである。要するに、我々の祖達はそれだけの素晴らしい頭脳を有し、懸命に自然万象にアプロ−チしていたということである。

 いかにせん、「9」という数は昔から数学者達の話題になってきた不可解な数である、計算過程において9の数を絡ませると不思議な数の並びが現れると言うのである。また、古代中国や古代の西洋でも9の数は聖数として崇められ、皇帝数として敬われてきたのである。単に「9」は数の最高位置にあるからとの単純な理由だけではないはずである。果たしてその真実とは何であろうか…?。そこにはどのような秘密が隠されているのであろうか…?!。現代人がこの「9」の秘密に気がつくのは何時のことであろうか…?!。

 今、世界の数学者達は「0」の持つ大きな秘密に気が付き、盛んに0を攻め立てその秘密をあばこうとしている.。今まで0は数の範疇にも入れられず、散々冷遇され続けてきたのである。要するに、0は数として扱われず、単なる位どりのための記号としか見られなかったのである。ところが驚くことに、最近になって、0は哲学、科学、数学、宗教の土台を根元から揺るがそうとしているのである。 
 この一見無害そうに見える0が突きつけるパラドックスに現代科学的の思考概念が今まさに崩れようとしている、なぜならば、人類は0を宇宙に対する――、いや神に対するものとの見方を形づくりはじめたからである。
 また同時に0(ぜロ)と∞(無限大)は双子の関係にあり、同時にこの二つは対等にして正反対、陰と陽の関係にあるものと考えはじめている。まさに学者達はこの二つは逆説的なものでありながら、同一的な本質をもつものと推測し始めているのである。
 今や、この奇妙な数0の持つ数学的、哲学的な性質は西洋の根本哲学と完全に衝突を始め、押し負かそうとしているのである。
 何と、この0の数が突きつけているこのパラドックスに20世紀最高の知性達がうろたえ、科学的思考の枠組みが崩壊する寸前なのであると言うのである。何ということであろうか…!!。
 これは私の言い分ではない、次の書からの転載である。  数学、物理学が最も恐れる「異端の数ゼロ」…C・サイフエ著より    。

 これらの西洋の学者の突きつけた証言は、まさに「神の数学」の内容そのもであることにあなたは気がつくであろう。 以上


  大古神道の秘密 『9の秘密』を探る。(その3) 
  
大自然の歌、究極真理の数(9)の歌を聞こう

  完結数≪9≫の大秘密を語る(1)

                 2013年月 謹んで上2/25


 あなた方が捨て置き、凶をもたらす数としてただただ忌諱していた数、『』についての最終的な考察に入る。古来はいざ知らず、最近は「9」は「苦」に通ずるとばかり、変な難癖をつけて「9」を追放しているようであるが、これは甚だ片腹痛い小者の理屈であり、天の道理に背くものである。まさに、現代人の愚かさを物語るものである。まずはそのあたりを語り申すことにしょう。

本来「九」は神の数として甚だ尊ばれ、崇められてきた大数である。隣の中国では皇帝の数として「帝の数」と呼ばれて常に重用されて来たものである。要するに、皇帝は常に「九」の数を傍に置いて重用し、すべてを九で括って活用していたのである。一体それらは何を意味するものであり、何を示唆するものであったのか…?。すべては失われてしまった今となっては残されている伝承、史伝、伝道物から読み解くしか方法はない。しかし、それも「神」の力を借りない限り、いくら頑張っても到底不能と言うことであろう。

 
 例えば遊び道具である「サイコロ」を捻くり回して考えていると何となく面白い事実が彷彿と心に浮かび、いろいろと話しかけてくれるのも楽しい。それは過去の記憶、すなわち過去に魂に刻まれた大いなる記録の甦りと言うものかもしれない、いや、そうではなく遠い過去に有った事実を深く考えることにより現在に甦らそうとする自然のあるべき意思によるものかも知れない。そう言えば誰かが言っていた、「現在の発見とか発明とかは過去に有ったものの再現であり、その甦りであると」。そうかもしれない、強く、そして露わな思いを長く抱けばそれが天の記憶の蔵に届いて、その中の最も合った過去の事実が選び出されて反応として送りだされてくれるのであろう。それが自然の持つ「普遍のあるべき理」なのであるが、それはまだ人間には知られてはいないものなのである。

簡単に言えば、欲望、限りない思いを熱く抱けば自然はその思いを何時かは満たしてくれる、そのようなシステムが自然には備わっていると言うことであろう。例えば、キリンが高いところにある果実を取りたいと実を見るたびに常に思っていたら時間が経つにつれて次第に首が長くなったとか、常に高いところを飛ぶ鷹やトンビが小さい獲物を見つけるための鋭い視力が欲しいと常日頃から願っていたら自然が少しづつ力を与え、思いもよらないような視力が与えられた等である。恐らく、その欲望の繰り返こそが生物進化の本質であり、自然の過程と言うものであろう。

我々は人間である。まことに一般の動物とは異なる大変思考力の強い超生物であり、時たま思うと言う程度の動物の思いよりも遥かに強い思考力を有しているはずである。その力は他の生物よりも何十倍も、何百倍も強いはずである。すると一般動物が数千年、数萬年かけて獲得した能力は数年、数十年で獲得出来ると言うことになると考えてもいいのではないのか…!!?。

但し、常に強い思いを持続させることが絶対的な条件であることは言うまでも無い。人間の中の成功者の例を見るがよい、すべては強い思考を持っている意思の強い人であり、生半可で生きて来た人間などは間違ってもいない。それが昔から成功の秘訣と言われているものなのである。 ただ、そのようなことは今までは誰も本気で考えようとはしなかった、知ろうともしなかっただけである。


 そんな簡単なことを人間が知らなかったはずはないと様々な抗議がくるかも知れない。しかし、人間の知はまっいたく荒削りであり、緻密さを欠いているものである。自然知に比べると自然知全体の数%くらいであろう。次のような例があることもお忘れなく。

例えば、「数」についてである。我々は数と数千年を共にして来た、しかし、自然数の持つ「元型に準ずる内容」及びそこにある「自律的な性格」や、はたまた、そこにある「整然とした配置性」、あるいは「秩序を持った大いなる規則性」などについては誰一人気がつくものはいなかったのである。要するに本気で考えようとはしなかったので埋もれたままで今まで現れることはなかった、すなわち、呼び起されることも無かったものである。

要するに、人間なんて言うものは、自然に対してはまだまだ未熟であり、まだまだ知らぬことが多いと言うことである。知っていると思うことが傲慢であり、思い込みのなせる業なのである。とにかく、思いを絶やさぬこと、そして強く思うことが肝心なのであり、必要なことなのである。それが現代人には最も欠けているものであり、学ぶ必要のあるものである。是非、このことを心に置いてほしい…!!。

 さあ、今回も誰も知らない日本の素晴らしい「知の秘密」の存在の一端を見てみようではないか…。


 これもまた、世界に冠たる日本古代の「超知物語」であり、世界中の人々があっけにとられることは必定と言ってもいいであろう。
それほど素晴らしい知が大いなる過去に存在していたと言う一つの希有な証拠でもあり、まさに世界に冠たるものと言ってもいいものである。

今ではそれらの知のすべては歴史の中に忘れられ、ついには失われてしまっているのである。

古代言語研究者のC・ベルリッツはいみじくも言っている、「古代の記録で今日に伝わっているのは恐らく1割以下である、しかし、記録保存の難しさや長い社会歴史の変遷を考えると、例え1割以下でも残っているのはまさに奇蹟である」と…。
                                                
「謎の古代文明」…C・ベルリッツ著より

 

あなた方は日本には世界の知として誇れるものは何も存在しないと今まで思っていたはずである、要するに、それが足枷となって古代の知は貶められ、歴史さえも歪められる事態になっているのである。要するに、民族全体が一つの催眠にかけられ、操られていたと言うことである。恐らく、そのかけた主とは○○であり、意味があるのであろう。そのあたりは追々と判って来るはずと思う。

なにゆえなのであろうか、それはこのあとの「数の語り」を読み解き、その次第を事実検証をすればひょっとして解るかもしれない。まさに、これは事実はフィクションよりも奇なりを地でゆくものである。恐らく、大部分の人々は口をあんぐりと開け、驚いた、とても信じられないを連発することであろう。
 しかし、その「数の語り」を辿れば次第々に納得することになるのは間違いない。それは一つの意識の覚醒であり、新しい時代が始まったと言うことである。それはまた、新しい知の誕生が確実に始まろうとしていることを意味するものである。

さて、今回の主題は誰でも知っている「サイコロの目」についてである、但し、現在、主流になっている西洋くずれの「サイコロの目」ではなく、日本古来の厳とした日本流の「サイコロの目」が主人公であり、その目の持つ自然真実の真相を話そうと言うのである。
 これは一つの驚くべき自然の知の存在を解き明かすものであり、現代知の裏側に潜む驚くべき古代知の存在をかいま見ることが出来る貴重な「数の語り」である。まあ、じっくりと考えて過去に思いを馳せ、密かなロマンを感じてもらいたい。

 

日本の学者達はいつの間にか西洋文化にすっかり丸め込まれて日本古来のあるべき真実をすっかり忘れてしまい、その挙句、西洋知の前に常に頭を下げ、ただ平伏している有様である。いや、我々の日常に於いても同じである。西洋のきらびやかさ、限りない甘い言葉、見かけの雰囲気に飲まれながら、ただその摸倣に一途に精を出し、挙句の果てにはかいらいとなって完全に取り込まれている現在である。しかし、誰もそれには気がつかず、ただ満足しきっている状態である。それが今の日本民族である。

要するに、西洋風の雰囲気にすっかり騙され、本来の日本の真実を放り出してしまったのである。

そのあるべき真実を今ここで「神」の手を借りて少しでも復元しょうと言うのである。

日本本来の真実、それは遥かな古い由来と名残を持つものであり、恐らくは現代文明の前にあった先史文明の名残を持つものであろう。しかし、学者達はそんなものは無い、あるはずがないと言葉を荒げるだけであり、口にするのも汚らわしいとばかり無視するだけである。しかし、それはただ国をおとしめるだけであり、人々の心をないがしろにして止まないものである。

恐らく今回も、ただ学者達のご機嫌を損ねるだけであろうが、そんなものは構ってはいられない、私はただただ真実を述べて、それを諸氏に直に検証してもらうだけである。

要するに、これからその真実の存在をここにしっかりと記し、そこにある真実を改めて諸氏と共に考えて見ようと言うのである。

 我々は通常、数字を用いて計算を行っている、しかし、この数字と言うものは人間が考え出した一種の符号であり、民族によりまちまちで種類は無数にあるものである。それも世界が一つになった現在、甚だ不都合なのでを人類全体の共通の記号として便宜上用いようと考え、アラビヤ数字をもって統一したのである。しかし、アラビヤ数字も一種の人間的な符号なので自然(神)の持つ数形態とはどうあっても一致することはない、ましてや、そこには神秘性などはまったく無い。その事実さえも人間は誰も気がつかないのである。

「神」の持つ数形態」とは自然が生み出した象形文字であり、その文字一つ一つに意味が込められ、またその組み合わせによりいろいろな意味を持ち、0にもなれば無限大にもなるものである。まさに不可思議な形態を持つものであるが、そのハッキリとした仔細を語るための言葉が人間知のボキャボラリ−には無く、どうしても最終的には説明が不可能になり途切れてしまうのである。

要するに、それは人間知の未だ達していない、いわば「神」の領域にあるものであり、人間知やその言葉のボキャボラリ−ではどうあっても説明が出来ないものであり、今のところ説明不能であり、将来に期待すべきものと考えるべきであろう。

宇宙意識(神)が用いている「数」の形態とは我々が用いているものとはまったく異なるものであり、内容的に見ても人間の数字とは異なり、更には大きな意味をもつて存在しているものである。要するに未知の「大いなる存在」の一つであることを知って欲しい。

まずはそれを説明し、納得した後でその本体の内容を会得することから始めなければならない、それが道理と言うものであろう。

我々の用いている数はアラビヤ数字であり、それは人間同士の認識文字、パタ−ン文字として有効ではあるが、象形的なものではないし、神秘性を持つものでもない。ただ単なる符丁としての人間だけに通じる片寄った存在である。
 ゆえに、それをもって自然を解明しようとしてもまったく歯が立たないのである。  要するに人間の持つ数字では到底自然のもつ「数の仕組みの妙理」を説明することは不可能であり、不能とと言ってもいいものである。そのあたりをしっかり心に置いて欲しい。

しかし、不思議な事にはその自然の妙理を見事に説明した驚くべき数の形態が過去の日本には存在していたのである。しかし残念ながら、我々の持つ現代知ではその意味を解くことが叶わない。ただただ、一つの疑問符を付けながらたらい回しにして満足しているだけである。それがすなわち、「ひふみ神示」にある簡単だけれども難解な文句であり、未だ正しい解釈には誰も至っていないものである。

なぜならば、あるべき「数の形態」が超古代の時代と今ではすっかり変わってしまっているからであり、現代数学ではまったく解くことは不能なものとして人々の関心を呼んでいるのである。 それがすなわち、次の言葉である。

「マコトの道にかえれよ、マコトとは012345678910と申してあろう、その裏は109876543210で合わせて22であるぞ」…… 「ひふみ神示より


  @「ひふみ神示」 ……

今まで多くの人々がこの言葉を解こうと試みて来たが、誰も解くことが叶わなかった。恐らく、記した天明さん自身も理解不能なものであったのであろう。確かに、これは大変易しく、そして難しいフレ−ズであり、自然の真実を知らない限り決して解くことは叶わないものである。

 UFOの真実 ……

更に告げて置きたい真実がある。この奇怪な「ひふみ神示」の言葉こそは私が常々言っているアメリカで墜落したUFOの中で発見された奇怪な宇宙数字の並びの姿であり、瓜二つのものである。何と、我々より遥か高度な知を持っている宇宙人が用いている「数の理」と天明さんの言う言葉とまったく同一なものと言うのである。何と言うことか…!!?。

 B 「神の数学」……

更に、もう一つ驚くことがある、それはこの奇怪な「数の語り」の一切が古神道から見出された「神の数学」の中にしっかりと鎮座していると言う事実の存在である。一体全体どうなっているのであろうか」…!?、一体どう考えれば辻褄が合い、理解が出来るのであろうか…!?。

 まあ、「神の数学」と「天明さんの言葉」が一致していることはあり得る事かも知れない。しかし、それが宇宙人の「数の語り」とまったく同一とはどう考えても不可解なことであり、いくら考えても考えが及ばないものである。

その答となるものはただ一つ、存在する真実はただ一つであると言うことである。すなわち、この「数の語り」こそが唯一の宇宙の普遍真実であり、宇宙普遍の共通真理であるということである。そう考えると心はなごんで穏やかになるはずである…!!。

恐らくあなた方の頭は混迷の限り、パニックの状態であろう。そんな馬鹿な、そんなことが一致するはずがない、恐らく、何かが間違っているのか、それとも白昼夢でも見ているのであろうとの思いで一杯であろう。

 しかし、改めてよく調査して見ると、これらの「数の物語」は全て同じことを語っていることが判って来るはずである。その事実証明は自然(神)の象形文字を用いて表すと十分に理解が可能であり、すべてはピッタリと一致することになるのである。
 要するに、人間の作り上げた数字と言う符丁は形だけ、ものの多少を表すだけでそれ以外には何も内容的には能が無いのである。
 それは余りにもに無機質過ぎ、自然的にはまったく応用価値、利用価値が無いものと考えるべきであろう。

しかし、本来の「自然の数」とはそのあたりの事情をしっかり語って止まないのであり、応用範囲も甚だ広いと考えなければならない、それをいみじくも語っているのが、「神の数学」であり、古神道から現れた古(いにしえ)の知の大道である。

そのあたりの姿を諸氏と共に見てみよう、果たしてあなた方はこの事実を納得出来るものなのか、それとも今の我々の知の水準では納得不能なものなのか、私は是非それを知りたいと思う。

 

まずは自然の持つ数の表し方とはドット、すなわち、●印の数象である。この●こそが自然の本当の「数の姿」であり、原始的ではあるが誰の目にでも等しく映る真の「自然数の姿」を表すものなのである。その上、この●はまことに簡単ではあるが自然の「大いなる仕組み」の存在を語ることが出来、その上、自然の秩序と調和の有様を理路整然とゆくりなく語ることが出来るものなのである。

要するに、自然の数である●(ドット)は人間の持つ数字では表すことが出来ない自然の大いなる法則及びその仕組みの素晴らしさを視覚的な形でも表すことが出来ると言う優れものなのである。

余計な講釈はさて置くことにして、まずはこれら自然の持つ数字である9を●で描き表して見よう、次の通りであり、大変美しく、神妙な形を有し、融通無碍なものであることが判るであろう

 

 さて、ぼちぼちお待ちかねの、外題の「サイコロの目」の真実を語ろうではないか。

その事実はまことに奇想天外であり、摩訶不思議の一言に尽きるものである。我々は古代人の知の深さにただただ脱帽するだけであり、ただただ感激の涙を流すだけである。何とこの●の数は簡単簡潔ではあるが、縦横無尽な大理を駆使して見事な自然の真実を我々に示してくれているのである。ただ、余りの簡単な姿ゆえに我々は見落としていたのであり、追及することもなかったのである。

歴史とは一体何であろうか、我々は長い時間を経て膨大な知識を獲得して現在に至り、同時に古代人の知を嘲り、蒙昧無知と決めつけ学ぶものは何も無いと大言壮語して無視して来たのである。しかし、今になり、彼等の残した知の文言が少しも解くことが叶わず、悩みに悩んでいる状態である。ひょっとすると、我々は知においても彼等古代人に劣っている、後塵を拝しているのではなかろうか…、そのような疑心暗鬼の思いが心によぎることもままあるのである。

サイコロとは漢字では「賽転(サイコロ)」であり、その文字の意味、すなわち、「賽」とは「あの世」であり、賽日とは地獄の釜の蓋が開く日であり、閻魔の賽日などの言葉も日本にはある。転(ころ)とは転がって落ちることである。この漢字は日本独特のものであり、中国では采子(サイコロ)と書き子供の遊び玩具という意味である。目は隙間、一つの落ちる場所、すなわち、地獄、極楽の場を指す。するとこの「賽転の目」の意味の凄さにはただただ驚くだけである。要するに、過去の日本人の誰かが「サイコロの目」の現す不可思議な働き、すなわち、「あの世」の存在と地獄、極楽の場を知っていたと言うことである。 さあ、それを一つ覗いて見ようではないか…。

その前に一つ断っておきたい、我々はまず「サイコロの目」には西洋式と日本式の目の表し方の違いがあることを知らなければならない。西洋式はかっこいい、しかし日本式は少々愚直であり見た目は悪いと感じるであろう。しかし自然に叶い、自然に沿った形を持つのは日本式であり、西洋式は自然を破壊するだけで何の役にも立たないものである。日本式の「サイコロの目」は自然に即した形態であるが、西洋式の「サイコロの目」は自然破壊的な形を持っているものである。

なんとそれは奇妙にもそれぞれの文化形態を表しているように感じられるが、それとも偶然なのであろうか…!!。諸氏もそのあたりを考えて考えを進めて貰いたい、「数」がそれを語っていると言うなら、甚だ面白い事実と言うことになるのではないのか…!!。
 何故なら、人類の運命やその歴史とはすべて「神」が管理運営していることを示す歴然とした証拠となるものと言えるから…!!!。

 いくら威張っていても やはり、我々は「神」の手のひらの上で踊っているに過ぎない存在なのであろうか…!!!!。

確か、誰かが言っていた、「自然は全体として一つの自然なのである。決して自分を破壊に導くことは無い、何故なら、個の破壊は全体の破壊につながるからである…」と…。

まさにその通りである、サイコロはその目を通してその事実を我々に教えてくれているのである。

  

さあ、なぜであろうか、非常に大切なところであるが、これだけではとてもあなた方には判らないであろう。

 では下の図を見て欲しい、これなら一目瞭然であろう。なぜ西洋式の「サイコロの目」は破壊的であって、自然の姿としては合わないものであり、考えられないものであるのかが……!!?。

要するに、下図におけるA群とB群の関係を見ればよく判るはずである。西洋式で天と地を合わせた場合には数(●)の重合衝突が起り、天地の合一は成り立たつことは無い、ただ自然崩壊があるだけである。しかし自然を敬愛する日本式では破壊は無く、すんなりと天地合わせ、すなわち陰陽の結と言うものがスム−スにいくのである。

そもそも、「サイコロの目」とは10ヶ存在し、それぞれの目は転がりながら「連れ添うべき数(伴数)を見出すものなのである。
転がりながら伴数を見出し、結び合って涅槃()の状態に入って行ことく、それが自然界の自淨作用であり、自然の織りなす偉大なる循環作用の大道なのである。それはまさに大きな自然の理であり、自然の大律なのである。

 恐らく、超古代の聖達はその仔細をある程度庶民に知らせるために、ありふれた正6面体の道具に封じ込んで世の中に出したのであろう。それとも正9面体が作れなかったので正6面体を利用してある程度の秘密を公開し、残った重要な部分は秘密のままに置こうと考えたのかも知れない。

 要するに、正面体によるサイコロには最早自然(神)の秘密はないのであり、すべては、失われてしまっているのである。

 「サイコロ」、それはただ面白い遊び道具として一般民衆の中に残って現在に至っているだけである。しかし、彼等は頭が働いた、
何故なら「サイコロ」を二つ用いて、自由自在に「9「の目を呼び寄せ、それを「最高の数」として利用していたからである。、

その歴史に関しては正倉院に盤双六と言うものがあることから平安時代以前にはすでに存在していたと考えられる。とにかく古い時代から連綿として受け継がれて来たのは間違いなく、確かである。心ない大陸志向の者達の中には大陸文化の名残であると言っているが、この日本式の「サイコロの目」は古代日本にその確かな由緒を持つものである。

 本当の目(ドット)は10ヶあってこそ、自然(神)の秘密は開かれ、その理は明らかになるものである。しかし、今までその事実を史上誰も考えたことは無く、今まで誰一人としてその事実を知る者とていなかったのである。

別に威張るわけではないが、私がここで初めて口にし、公開するものである。そこで、ひょっとすると考え不足を来しているところもある可能性もある、願わくば、諸兄の鋭い洞察力を発揮して足らざるところを補って少しでも完璧完成なものになるように一つ力を貸していただきたい。こればかりは少々力不足の感が否めない、何せ、十数年前に記した資料から抜き取って転載に及んでいるのであるが、年も年であり、記憶も完全に失われてしまっている現状なのである。甚だ情けない心情であり、大変苦しい胸のうちである…!!。

この日本式の「サイコロの目」の仕組みを知ることにより、すべては明らかになるのである。また「神の数学」の基本理論である0=9の理論も大成され陽の目を見ることになるものである。この「サイコロの目」こそは難解と言われる自然の仕組み、成り立ちに一石を投じるものであり、驚くべき理を秘めているものである。決してなおざりにすべきものではない、そのことだけは知って欲しい…!!。

 「サイコロの目」は天地をつなぐ錠と鍵であり、それは「陰」と「陽」の象として永遠の扉を開くものである。
 

 上図のA群の数図を見て欲しい。 この●で記された「ひふみ数列」を真ん中で折り返す、すなわち、天と地を合わせるのである。すると驚いたことにすべての●は重なることはなく、見事に嵌めこまれて完結図9(0)となって丸く納まるのである。要するに、これは天(陰)と地(陽)とは本来組み合わさるべき相対の自然象であり、結ばれて無(0)に還るものなのである。

さあ、次は図2である

これは天明さんの言葉、すなわち、「マコトの道にかえれよ、マコトとは0,1,2,3,4,5,6,7,8,9,10と申してあろう、その裏は10,9,8,7,6,5,4,3,2,1,0で合わせて22であるぞ」の言葉の真実を証明するものである。その言葉のマコトを十分に目と手で十分に吟味してほしい。この場合の最後の10,は一桁に置きなおして1と見ると当然循環的な構造になっていることを意味することが判る。
 更には9は同じものであることもよく判るはずである。すると、併せて22の言葉の意味も自然に判り、すべては弥栄となるものである。

また、このA群の中心を点対称に回転させたものがB群であり、それらの図を対称線で折り返せば全体の数(●)は見事に空所に嵌めこまれてオ−ルとなり、に還るのである。それは「神の数学」の法則(9=0)のマコトを裏書きするものでもある。

要するに、A群が「ひふみ神示」の言う「表」の数、 0,1,2,3,4,5,6,7,8,9,10であり、B群がその「裏」の数である10,9,8,7,6,5,4,3,2,1,0となり、確かに意味が通じることになるのである。要するに、その二つの数群、A群(陰)とB群(陽)をそのまま重ね合わせることにより大弥栄を迎えるとの意味である。大弥栄とは1,8(いや)でますます栄えるという意味であり、1+8=9で大往生となると言う意味である。 さあ、その大往生の意味を考えて貰いたい。来月の講座でその正しい内容を講ずるつもりなので、それまでの約1ヶ月完懸命に考えて新たな知の一石となるような論理性のある答を出して貰いたい。
                                        【往生】…この世を去って別の世に生まれることを意味する言葉である。

更に進もう。次の図は最終的な「大完成の図(涅槃の図)」であるが、恐らく、この意味内容を知る者は誰もいないであろう。これはそれほど哲学性をもつものであり、遥か人間知を超えた宇宙の一大真理を表して止まないものなのである。

さあ、自然()とあなたの「知比べ」である、がっぷり四っに組んで戴こう。勝ち負け等は問題ではない、その真摯な態度がものを言うのである。これはまさに数の語る「宇宙自然の真実理」であり、現代科学知にとっても十分に参考になるはずである。頭を柔らかくして内容を十分に検討し、その上で更なる論証へと進んで貰いたい。


 さて、さて、これら群と群の図の関係をしっかり見てほしい、何か頭の中をよぎるものがあるはずである。そう、それは間違い無くアメリカで墜落したUFOの中で発見された通称<システム オブ ナインズ>の数表とまったく同じものなのである。それは次の通りのものである。すなわち、0+9、1+8、2+7、3+6、4+5のすべては9になっている図であり、学者達は解明不能としてお蔵入りにしたいわくつきのものであ。それを一つ思いだし、比較して貰いたい。

更には古神道から見出された「神の数学」の中で通常に用いられている公式、<0=9>が存在するが、その由縁もまったく同じであり、同じ形を持っていると言うことが良く判って来るであろう。何と、日本の「サイコロの目」「宇宙人の数式体系」「古神道」、これら3ケがまったく同じ「数の真理」の存在を述べ立てているのである。一体全体、これは何を意味するものであろうか…!!。

  さて、問題はここからである、なぜ西洋式の「サイコロの目」は自然破壊的な形を持っているのかを探らなければならない、素直な心があれば幼児にでも判るものではあるが、疑心暗鬼な心、洋西洋風な物質偏重な知に染まっている者は恐らく理解出来ないことであろう。例えば人間の数字を用いてこれを表したた場合には何も不思議は無い、ただ 3+6=9が現れるだけであり、何も問題は見出せない。そこにはただただ数字が流れてただ答が出るだけの無機的な姿があるだけである。

 ではサイコロの目を用いて同じ計算を行って見よう…。まずは3+6である。

 自然とは秩序と調和に満ちて美しいものである。その心でこれを見ると、これらのすべての象数は天地と左右と言う2っの面、そして斜めと言う神の座に対してすべて対称的な姿を持って鎮座していることが良く判るであろう。まさに、合理性を持つ自然(神)の姿である。 それらのすべてがこれら「サイコロの目」に現れてしっかり鎮座しているのである。また、重複重合は秩序破壊であり、存在不能を語るものである。要するに、物理的にも二つの物質的存在が同一位置を占めることはあり得ないということである。

 

さて、面白くて、神妙な「サイコロの目」の話はまだまだ尽きないのであるが、今回はこのあたりで一応とどめ置き、来月の「サイコロの目」 2に稿を譲ることにしたい。 恐らく次回もこの「サイコロの目」に関する稿は続き、諸氏を更に苦しめことになるはずである。

この後はますます神秘性と物理性が土俵の上でぶつかり合っては波乱万丈の内容が展開され、あなた方の心を混乱の巷に陥し入れることになるであろう。しかし、心を落ちつけ、十二分に時間を取って考えさえすれば、すべては常に整合性と合理性を持つものとして終始しているので決しあなたを戸惑はせることは無いはずである。

それはあなた方の想像力の限りを超えた驚くべき超現象の存在として心を震わせるであろうが、最後には仲良く手を握って大団円に納まることになるのである。恐らく、誰も想像したことも無い不可思議な事実の存在を暴き、更には現代先端物理における電子理論の総仕上げを語るものとしてまさに有用なものである。是非、最後まで十二分に見届けて、まずは安堵の息をついて欲しい。

 これらは一つの数の不可解物語である0=9の完全なる論証でもあり、現代科学の思考的な背景としても甚だ有用なものと考えてもいいであろう。また、その過程の状態は視覚的にも物証的にもあなた方を十分に満足させてくれるものと考えている。

次回はそのあたりをなるべく易しく講義することにしたい。とにかく、すべてが世の中にはまったく知られていない「数の超知の物語」の中から思いつくまま、ランダムな形で出稿講義しているのである。要するに、気分次第で題を取り上げていると言うことである。

恐らく、前後のとり違い、生半可な数の計算、説明不足、思い違い、など多々あると思う、是非指摘して戴きたい。その時は資料を添えて改めてこの講で説明を申し上げることにしたい。

次回は今回の続きとして「サイコロの目」に潜む「あの世の秘密物語」と共に現代西洋科学が裸足で逃げ出すような新たな「宇宙自然の秘密」を開示して諸氏の度肝を抜くことにしたい。

今の世の中では大ボラ吹きと思われるか、それとも狂人扱いにされてしまうかも知れない、しかし、真実はどうあっても真実であり、曲げて迎合する訳にはいかないのである。 まあ、それもそれでいいではないか…!!。

 一人くらいピエロの役を果たして、真実の歌を口づさみながら知に飢えている人々の心を慰め、励まそうとするドンキホテ−のような愚かな者がいてもいいであろう。今の世はあまりにも知の偏りがあり過ぎてまことに面白くもなく、住みづらいと知るべきである。
 特に「数学」からは若者達が逃げ出している、何故なら、余りにも数学は偏りすぎ、同時にすべてはマンネリ化して興味が湧かないからである。ぐいぐい心を引っ張って行くような新鮮なタイトルが最早皆無であり、新しい題材とて何も見つからないからである。
 このままでは早晩、国の運命も危うくなるような気がする。なぜならば、マンネリ化した頭脳からは新しいものは生まれない、国のためになる素晴らしいアイデア等は浮かんで来ないからである。 まさに問題であり、手は少しでも早く打たなければならない。
 「神の数学」は片寄った知を中和するカンフル剤であり、いびつになった心を矯正するための緩和剤としても甚だ有効であることを知って欲しい。恐らく、青少年達の考え過ぎて病んだ心をリフレッシュし、明日への望みをつなぎ、遥かな未来へと導いてくれるはずである。もし、懸命に真実に向かって進むだけの気概があればである。心を優しく包んでくれ、傷ついたがんぜない脳を癒してくれるものである。

                                      < これらすべての図及び内容は「神の数学」の『真実の数学』からの転載である。>  
                                                  
                (2013年 3月の部 完)

  大古神道の秘密 『9の秘密』を探る(その4) 
  
  大自然の歌、究極真理の数(9)の歌を聞こう

     完結数≪9≫の大秘密を語る(2)

                 2013年月 謹んで上載(3/26


 
現代文明が数千年かかっても気がつかなかった驚くべき「数」の秘密を明かそう。これら「数」についての最近の考察ではC・G・ユングの著書「自然現象と心の構造」が有名である。彼は「数」には概念だけではなく何かそれ以上のもの単なる量以上の何かを含んでいる自律的な実体であり、更には自然数は元型的な性格を持ち、元型と共通して意識に先行し、元型に類比出来るような相対的な自律性持っている存在であると喝破して数の持つ本質を調べ上げようとしていたのである。
 しかし、残念ながら、その後に続く研究者には恵まれずすべては途絶えてしまっているのである。
 《自律》=外部からの制御を脱して自身の立てた規範に従って行動することであり、それ自体で独立の意識価値を持つこと。

 超古代日本においては「数」とは神の知を持つものと言われていたのであるが、それも大量の大陸からの敗残兵の襲来と共に流入した大陸文化に押されて歴史の闇の中に消えてしまったのである。その残滓は今から約1400年前の聖徳太子の著したと言われている『先代旧事本紀』の中の「神文傳(かみふみのこととぎ)」に僅かに残されているだけである。が、今の日本人はそれさえ知らない。

そこには次の言葉により太古の数の内容とその存在が示されている。

 「数の道は理(ことわり)を含む。その理(ことわり)は玄(ふかき)を有(たもち)て在り。
                              この詳細説明は<「神の数学」が語る「真実」と「その証明」(5)>にあり。

 
 これはまさに世界中が騒然となるような大変意味のある言葉であるが、それすら日本人は知らない。恐らく、考えれば余りにもショッキングな内容なので信じることさえ出来ず、ただ無視しているのであろう。
 あなたが、知者を自認するような誇りある御仁ならば、一つこの意味を考えて見ることである。

敢えて言って置きたい、このフレ−ズこそは現代文明を根こそぎ変えてしまうような大きな意味をもっているものであり、最大の歴史言葉と言うものである。これはまさに、古代人の知は現代人のそれよりも遥かに優れていたと言う何よりの証拠と言えるのである。  さあ、そのあたりをじっくり考えて戴こう。

 次に日本の歴史の上に「数」が謎を秘めた意味ある形で姿を現すのは昭和の時代に入ってからである。

 それもハッキリとした「数の体系」と言う形のものではなく、予言的な展開の結末と言う形を持って突然現れて来たのである。
 それが岡本天明さんの「ひふみ神示」であり、現代知に逆らうような不可思議な姿を持って書かれているものである。しかし当時は誰も顧みる者とていなく、放り出されたままであったのである。

今になって、世の中の学のある者がこぞって飛び付き、数の語る内容を解き放とうとしたのであるが、如何にせん数の基本構造が現代数学とはまったく異なるので誰一人として答を得た者はいない。ただ、皆が皆同じ言葉をオウムのように繰り返すだけである。

ただその中で大変興味深いものがある。それは「ひふみ神示」はこの後現れるべくして現れて来る本体の先駆けとしての単なる内容予言書であると述べられていることである。故に、その本体が出現しない限り内容を極めることは出来ないと言われているものである。それは次のような言葉である。

   ≪「ひふみ神示」は経綸の計画書じゃ≫、

   ≪束ねの神は、束ねの人は後からぢや。 あとから出るぞ≫、

   ≪少しの時の早し遅しはあるなれど、いずれは神示通りに出てくるぞ≫

                                                          ……「ひふみ神示」より

 それから半世紀の間、誰一人として「ひふみ神示」の持つ難解な数の意味を解き明かすことが出来なかったのは御承知の通りである。ただ題目のように「ひふみ神示」の文句を繰り返すだけであり、肝心の内容に切り込むことなどはまったく出来ず、ただ、頭をひねるだけであった。何故なら、あまりにも内容が破天荒であり、余りにもすべては常識に外れていたからである。

ところがひょんなことにより20世紀の末あたりにある場末の学の無い男が神の啓示によるとして滔々と「太古の数」の存在と「その理」の講釈を始めて世間の笑い者になると言う事態が起ったのである。その男は「神の数学」と称するものを引っ提げて意気揚々と東京都内で講演の始めたのであるが、哀れにもその中に学者達や博士号をもつ大先生達にリンチ状態にされ、挙句の果てには講演の原稿までも内容チエックを受ける羽目になったのである。そこで嫌気がさして完全に講演活動からは手を引き、それっきり田舎に引きこもってしまい、2度と顔を出す事はなかったのである。

 これは私の単なる愚痴であり、余分な入らぬ事を申し上げたようである。まことに失礼…!。

 とにかく、私の言いたいのは「ひふみ神示」の完全解読を望むなら「神の数学」の持つ自然の数理をべ−スに解読しない限り到底無理であり、ただただ暗闇を手探りするようなもので、決して正解に至ることは出来ないと言うことである。残念ながら…!?。

何故なら、現代数学の基礎は直線系に対して、自然系の「神の数学」は循環系の姿と言うまったく異なった顔を持ち、そもそも、基本計算体系がまったく違うところから始まっているからである。その計算の例は「神の数学」の中には山のようにある。要するに、「現代数学」と「神の数学」の対比計算が沢山あると言うことである。それらを見るがよい、「現代数学」の計算は理に合わぬ凸凹な姿で埋まっているのに対して、「神の数学」の計算はまことに全体がスム−スで見た目も美しく誰の目にも驚嘆の光が走るものである。
 おりあらば、不日この講座の中でそれらの詳細を掲げて諸氏に供する積りであるが定かではない、天命が控えているからである。。

 基本体系が異なれば内容の表し方もまったく異なるのであり、答さえも異なって来るものである。

 そもそも、超古代の言葉を現代言葉で解き明かそうと考えることが大いなる間違いであり、ナンセンスなのである。その結果として、大いなる矛盾と不整合を孕んで、ただただ行き違いに終わって意味無しとして捨てられるだけなのである。

 例えば、「ひふみ神示」を読むと、その中に「卍も十も九も」の不可解な言葉があり、この最後の九の意味が誰にも判らず今でも苦労しているようである。これは「神」を意味する文字であり、この意味は「仏もヤソも日本の神も」であり、九は「神」と読み、九九は「神々」と読むのが正しいのである。

要するに、「神の数学」における「ひふみ…九九算」は「ひふみ…神々の算」となるのである。また、9=0と置けば,「ひふみ…00の算」となって内容的にもピタリ一致し、そこには齟齬等は何もないものである。それは「ひふみ…九九算」を開けば、すべては0になることからも判る。横に加算した10ヶ縦に加算した10ヶ二つの斜め数を加算した20ヶ、すべてが0になるのである。
 試みるがよい。要するに、定石通りに計算を行えば、現れる答は全て0になるという不思議が現れるのである。

 

今月の主題は先月に引き続くもので「サイコロの目」の語る神の秘密である。その誰も知らない神の秘密を解き明かしながら、現代知では考察不能な自然の「巧みな仕組み」を学び取ろうと言うのである。恐らく、私の説明だけでは片手落ちの部分もあり、完全な説明には諸氏の鋭い洞察力と直感を借りなければならないであろう。これを更に感性の鋭い日本人の手で完璧な理論性を持つものとして仕上げれば、多分、現代科学の更なる進歩にもつながるはずであろう。同時に、これは人類の持つ知の巾が大きく広がることにもなるのである。

現在、実証を重んずる現代科学は余りにも抽象的な理論に走り実証主義からは大分外れてしまい、その隙間を埋めようと必死にもがいている最中である。恐らく、この「サイコロの目」理論はその隙間を埋めるためのひ一つのコマとして有用であり、必要であるような気がするのであるが…!!。 

そのあたりのことを諸氏と共に考えよう、とにかく考えるだけの価値は十分にあるものである。

最近の人達はダイレクトな答を求めることにおいては大変懸命ではあるが、その間の思考過程や因果回路などのバイパス的な考慮は余り得意ではないように感じられる。本当はじっくり考えることが最も大切なことなのである…!!。それを省き、答に至ろうとするのは、やはり、○×式等による結果主義を大切にしている今の教育のせいなのであろう。 

たかが遊び道具の一つである「サイコロの目」ではあるが、そこには現代科学知ではまったく歯が立たない究極の自然哲学的な意味内容が含まれているのである。しかも、その意味内容の真実は学者達は知らず、何と「サイコロ」を扱う遊び人達が知っていたと言うのだから事は穏やかではない。要するに、市井にはそれだけの古代の知がひそかに残っていたと言うことであろう。
 そこから出される結論とは我々の祖達はしっかりとその自然の秘密を知って密かに伝えていたと言うことであり、西洋科学を身につけた学者達には縁の無い知、知ることが叶わなかった独特な知と言わざるを得ないものである。
 ハッキリ言えばこれらは西洋知にはない純然たる日本独特の知であり、まさに世界に誇るべきものと言っても決して過言ではない。

それが花札やサイコロでは「九の目」を『カブ』と称して最高の吉数とし「十の目」は「ブタ」と言って凶数、最も位の低い数として扱っていたのである。本来、「十の目」が出た場合には本来は九より多い数なので喜ぶべきなのであるが、そうではなく101と同等として「ブタ」扱いにされているのである。また「サイコロ」は最高の数はまでであり、それ以上の数を求めるには「サイコロ」を2ヶ用いて以上の数を求めると言う素晴らしい手法までも彼等はしっかり知っていたと言うことである。

要するに、2ヶの「サイコロの目」の合計を競い合い、合計が二桁になった場合には一桁化して数を競い合ったのである。その姿が何となく「神の数学」の応用とも言うものであり、まさに古代知の姿を彷彿させるものと言えるものである。

  まずは先月の自然の表す「サイコロの目」の図を改めてここに転載することにしょう。

  
  

 上の図は自然数のあるべき変化体とその正しい組み合わせを示しているものである。その姿はまさに秩序と調和に満ちてただただ感動あるのみであり、また同時に自然は素晴らしい知を持ち、到底人間知などは遠く及ばない事を示している大いなる図である。
 しかし、今回はこの巧みな造作に心を寄せたり、感傷に陥っているような場合ではない。なぜならば、この奥にはもう一つの謎である「この世」と「あの世」の不可思議な仕組みが織り込まれているからである。まずはそのあたりの秘密を覗いて見よう…。

「あの世」とは見えない「意識の妙理の世界」であり、そして「この世」とは見える「物質的な構造世界」を意味するものであり、そのあたりのことは当然あなた方も知っているはずである。しかし、西洋科学と言う旗印を背負っている現代の学者達はそのあたりの真実は何も知らないようである。 今のところ、その真実を知ろうと先端的な物理学者達は懸命に探索しているようであるが、悲しいかな、最初の出発点に誤りがあったのでどうあっても、どうもがいても目的を達することが出来ない状態なのである。

要するに、現代西洋科学は出発点において「神」などの属する「見えない世界」はないと棚上げして、一切その分野に立ち入ることを禁じてしまったのである。それが有名なデカルトの「神の棚上げ」である。それがその後の片チンバの科学世界観、すなわち唯物論に始まる物質だけの「実の世界観」を生んでしまい、真実からますます離れるだけの方向に進んでいるのである。

本来は「見える世界」と「見えない世界」が表裏となった対世界と言う関係を持って存在しているのであるが、しかし、我々現代人は「見える世界」、すなわち物質的な概念しかなく、ゆえに「見える世界」が自然のすべてであると思い込んでいるのである。

そのあたりを天明さんは次のように申し述べている。

 
   @   「人間の目は一方だけしか見えん。表なら表、右なら右しか見えん。表には必ず裏があり、左があるから右があるのじゃ。自分の     目で見たのだから間違いはないと、そなたは我を張って居るなれど、それはただ一方的な真実であるぞ。独断は役に立たんぞと申      してあろうが…。

 

A   「喜びの本体はあの世、現れはこの世、あの世とこの世を合わせて真実の世となるのぞ、あの世ばりでも片輪、この世ばかりでも片輪、マコト成就せんぞ、あの世とこの世は合わせ鏡、この道理よくわきまえよ…。

 

B   片輪車でトンテントンテン、骨折り損のくたびれ儲けばかり、何時までしているのぞ、神にまつろえと申してあろうが…。【神にまつろえ=神の言うことを聞け】
                         ……「ひふみ神示」より


 
 本来、「見える世界」の背後にはまったく同じ姿の「見えない世界」がピタリと貼りついて相関状態にあるのである。、それが日本神道で言う「表裏一体」、「合わせ鏡」と言う言葉であり、その由緒となるものである。しかし今の日本神道においてはその仔細を明らかにしょうなどの心意気はまったくない。何せ、西洋科学知に押され気息奄々の状態であり、刃向かう気持ち等はまったく無い現状である。
 本来ならば、日本神道は西洋科学知を一蹴してもなお余る「天地の叡智」に恵まれている果報者のはずなのであるが…!!。

もし、必要なら「見えない世界」をそれをそのまま我々の「見える世界」に転移させて平行な形で見ることも可能なものでもある。
 但し、それは概念上の操作だけであり、頭の中で考えるだけの業としてである。実際は不可能なことではあるが、概念上では可能なのである。それは現実世界と映画の中の世界との違いとの差と同様なものと考えてもいいであろう。

それを行うためには一定のある手順が必要である。いや、手順ではなく作法と言うべきものかも知れない。その作法に沿って正しく行うと何と裏の「見えない世界」が「見える世界」と並列的な並びとなって現れて来るのである。それが間違いのない真実であることは数多の「神の方陣」の仕組みが証明してくれる、すなわち、この仕組み作法を持って検証すれば「神の法陣」の全ての次元表が同じように動き出し、意味のある同一的な内容を見せてくれるのである。

その一切の手順作法をマニアル的な形で垣間見せてくれるのが天の数歌である「ひふみ九九算表」であり、そこにある「天」と「地」の数が示す日本古来の聖なる数物語の数々なのである。何と、それは天と地、すなわち、「見える世界」と「見えない世界」は180度ひねられた相対的なものであることが描かれていると言うショッキングな事実があるのである。

そんな馬鹿なことなどとは言ってはいけない、要するに、今のところ、人間の知はまだそこまでまだ到達していないので不可解と言うのであり、大いなる謎と叫んで天を仰いでいるのである。要するに、そこまで知るにはまだまだ時間がかかると言うことである。

我々の世界は「あの世」と「この世」がしっかりと組み合わさった完全理合構造体である。完全理合構造体とは「陰」と「陽」が完璧な形で裏表の関係をもって存在し、しかもそれらは相互的には180度反転した形で結ばれている最高の安定状態を保っているのである。180度の反転とは我々が知っている「凸レンズ」の作用がそれである。要するに「凸レンズ」を通して見る景色は完全な真逆な状態、180度反転した状態に見える、それとまったく同じなのである。

そう言えば、天明さんの「ひふみ…神示」にもあるではないか…!!。

「霊界のことは現界から見れば妙な事なれど、それでちゃんと道にははまっているのであるぞ。一ひねりしてあるのじゃ、天と地の間に大きなレンズがあると思えば段々に判りて来るぞ。」 …。

何と「神の数学」にある通りのことを天明さんは「ひふみ神示」の中で既に述べているのである、この事実を語る図は最早諸氏には何回も披露しているのであるが、心を込めて見ていないのでわからないのであろう。もう一度改めて仔細を書き置くのでこの真実を心の目でしっかり検証して心に納めていてほしい。

 


 一つ上図の「ひふみ九九算表」をマジマジと穴のあくくらい見つめて貰いたい。するとどうやらまったく同じものの「表」と「裏」の存在であったものが、中心で180度反転して結合したものであることが判るはずである。それが「あの世」「この世」の姿である。

何と言う不思議な図であろうか、これはまさに「易」で言うところの「太極図」である。何と、「太極図」の原図とはこの古代日本の「ひふみ九九算表」であったのであるだから、ここから矛盾無く「両義」、「四象」、「八卦」の象が生まれ出ているのである。

また。この図から、宇宙次元は4ヶ「見える世界」5ヶ「見えない世界」9ヶから構成されていることが解る。
 要するに、我々の世界は「4次元的な構造世界」であり、残りの次元世界は「見えない世界」となって相対的な関係をもちながら、裏側にしっかり存在しているのである。例えば、「表」に凸の力が働けば、同時に裏」には凹の力が走り互いに打ち消し、相対的には力は0となってエネルギ−の変化はまったく「無」になるのである。それがエントロピ−0を生み出す自然の仕組みと言うものなのである。裏と表でお互いに打ち消し合っているのですべては変わる事も無く永遠性を保っているのでらる。
よく図を見るがよい、「見える世界」と「見えない世界」はお互いにエネルギ−の走る向(数字の走る向き)きは反対になっているではないか…!!!。要するに、すべては、(+)と(−)の関係で打ち消し合ってになっていることを語っている驚くべき天啓の図なのである。

この図をもう少し真剣に詮索してそこに納められている大真理を見てみよう…!!。

ここには驚くべき大真理、すなわち、「見える世界」と「見えない世界」がそれぞれ正面向いて陣を張って存在しているのではなく、まったく同じ姿をもって「表」と「裏」の関係の中で「裏」というまったく見えない場所に存在していることが解る。
 要するに、「表」の我々からは決して見ることの出来ない「裏」と言う場所に位置しているものである。例えば、我々は常に表をむいている、だから決して自分の背中は見えない、見ることは不能なのである。それとまったく同じことである。
 
 現代物理学者はいろいろと言っている、10次元の中の4次元は我々の世界であり、残りの6次元は小さく畳み込まれて見えない状態になっていると…。でもその表現には何となく無理があり、彼等も「見えない世界」の表現方法に大変苦慮していることが伺われる。

 

@  その「表」と「裏」を頭の中で強引に引き裂くのである。まずは上端の裏表を引き裂き、そのまま下端まで持ってくるのである。完全には二つに引き裂くのではなく、その下端で「表」と「裏」を?いだ状態に置くのである。

A  そこで下方にある「裏」をそのまま左右を180度ひねるのである。それが「この表」の姿なのである。

B  もし、この作業をアラビヤ数で行えばひねったり、上下さかさまにすると数は完全対称ではないので数字が上下左右に踊って何となく違和感を覚えてしまう。しかし自然の数●(ドット)は完全対称性を持つのでどのように転化変転しても常に同じ姿をとどめているのである。まことに素晴らしく、重畳な姿である。

 要するに、左右に対して対称でありながら、同時に上下に対しても対称と言うことである。すなわち、上下左右の90度変位と言う四相に対して等しい相を見せているのである。これが自然象の特徴なのである。すなわち、宇宙及び自然万象はすべて対称に作られている、対称こそが一つの宇宙原理であり、それを基本としてすべてはデザインされていると言うことである。

 ちなみに、現代物理学はそのあたりをどのように見ているのであろうか…?!。物理学の専門書を見てみてみようではないか。

 「対称性は分子や原子または素粒子、あるいはそれらの相互作用にも見られる自然特有の基本構造である。」

    「物質と宇宙を支配しているものは対称性原理であり、すべてはこれに従っている。」

 「物理法則が広い意味でのロ−レンツ変換に対して不変である、すなわち対称であるとすれば空間反転及び時間反転に対しても対称性が成り立つ。」

 まあ、早く言えば大宇宙においてのすべてのものは対称性を持っている、それは空間や時間さえも同じことであると言っているのである。

 

このように、科学者達はお互いに難しい専門用語を用いてまくしたてているのであるが、我々にはその意味が一向に解らず、取り付く暇も無い。何故なら、彼等は自分達だけが理解出来る用語、あるいは専門符丁や専門関係式などを用いて会話をしているからである。察するに、下々の者には関係ない、一切知る必要が無い、退ってなさいと言うことなのであろうか…!?。。

果たして彼等自身も相手の言うことを十分に理解し、意味のある会話を交わしているのであろうか…?!。

もし、そうであるなら、なぜこのような長い物理学の不毛の時代が続いているのであろうか…?。



 さて、ここまでは余録であり、簡単なものである。これからが「本番の語り」が始まるのであり、これから先はしっかり考えて貰う必要があるのである。これはまさに「神の知」への一つの挑戦であり、自然の道理を解き明かすものであることを知って欲しい。同時にこれは我々の知の概念を一段と向上させることにもなり、現在の盲目状態から半盲目状態へと脱却を図ることとなるのである。

さあ、重大な自然の象証である「サイコロの目」をモデルに、改めて自然の真実についての真剣な考察に入ろう。そこには現代物理論を凌駕するような驚くべき自然の理が隠され、我々を盛んに手招きしていることをお忘れなく…!!。

我々の知っている「サイコロの目」とは現実世界の「見える目」であり、そこには同時同所的な存在である「見えない目」が潜在していることを知らなければならない。まずは、ここで述べる「見える目」、「見えない目」の単語の意味を諸氏と共に考える必要があるのである。これは今まで誰も考えたことの無いものなので説明には苦労する、恐らく、あなた方も話が展開するにつれて理解することに困難が伴うかもしれない。そのような時には直感と洞察力に出番を頼み、無心になることである。

その最大の理由が「九つの●(ドット)が揃えば、なぜそれが0(ゼロ)になるのか…?」であろう。

まさに、これは不可解極まる謎と言うものであり、説明するにも甚だ苦労するところである。何せ、前例の無いものなので…!。
 とにかく、常識には無い表現なのであなた方の目や耳にも慣れることも難しく、奇妙に聞こえることは間違い無いであろう。
 しかし、それでも懸命に考えることにより、やがてはこの史上最強の謎も間違いなくあなたの軍門に下ることになるはずである。
 この問題は今まで現代科学が立ち入り禁止としていた部門であり、考えてはならない「裏世界」の存在に関する問題なのである。
 だから、判らない、難しいのは当たり前なのである。判らないと言って別に悲観する必要などはさらさらない。

もし、これが解明されると今まで誰にも解らなかった古代インドの「9はエンプテイ (空)とフル(満溢、充満)の二つの意味がある」という数の謎が一気に解けてくることになるのである。

「陰」とは見えない事象=Aすなわち、潜在的なあるべき事象であり、「陽」とは顕在性のある見える事象である。
 この二つは常に対となって存在していることを知らんければならない。陰陽とは「陰」があれば、必ず「陽」も同時にあり、常に双対的で不可分な関係で存在しているものである。 決して一方だけの存在はあり得ず、一方だけの存在は不可能なものなのである。

自然の「サイコロの目」とは必ず「陰○」と「陽●」が同時に存在している象であるが、悲しいことに我々に見えるのは陽●と言う「物質世界の相」だけであり、凹と言う「見えない世界」はまったく我々の目には映らないのである。何故なら、我々は「見える世界」の住人だからである。 それは我々は陸上に住んでいるので陸上のものは見えるが、水中のものは見えないとまったく同じ事と言えよう。

例えば、目が2の場合、「見える●」が2ヶと「見えない○」の7ヶが同一面に同局同時的に存在していると言うことである。この場合、●はであり、○はと考えてほしい。それ故に、「の目」のサイコロ面には見える●が2ヶと、見えない7ヶが同時同所的に存在しているのである。 但し、我々の目、すなわち「見える世界」からは外部のである●の2ヶしか見えないのであり、他方、「見えない世界」からは内部のであるしか見えないのである。

 ただし、中央に存在する神の目から見た場合には●が2ヶと○の7ヶが同時同所的に存在していることがハッキリ見えると言うことになるのである。要するに、「見える世界」と「見えない世界」の両方が同時に見通せると言うことであり、それがすなわち「神の目」と言うものである。

  すると2+7=9は次のようになるのである。(じっくりと考えてほしい…!!)


 要するに、凸凹が完全に嵌合して凸凹が無くなる、すなわち「見えなくなる」と言うことである

この2+7の場合には完全結合が可能なのである。なぜならば、「」と「」は陰と陽との関係下にあって結ばれることにより完全に姿を消してしまう。要するに凸凹が綺麗に納まって見えなくなる、すなわち無、空になってしまうのである。

本来、自然の象、すなわち、天地間のあらゆる有象無象の出来事は陰(凸)と陽(凹)の現れの違い、すなわち、陰と陽の相互的な優勢劣勢の形を持って常に転変推移し、常に変動してまたたいているのである。

 今回は少々飛んでいる話なので理解するには大分時間を要するであろう、しかし次のことだけはしっかりと覚えていてほしい。

本来の自然の数とは「● ●● ●●● …」のようにドットで表される数の象印≠ナあり、いわば「数の象形文字」「自然的な認識文字」ともいうべきものである。それにより数≠フ本来のもつ意味はそのまま目に見える形となり、しかも、表示されている意味や仕組みさえもはっきりと見てとれることになるのである。それはとても人間の持つ数の形ではとても表現できないものである。

すなわち、ドット(●)は数≠表わすための宇宙の象形的なサイン文字であり、その「並べ方(形状)」やその「数の場(位置)」などには「宇宙普遍な情報」「神の隠された秘密」などの「大いなる神の知」が組み込まれているものであり、それを解き放つことは我々の夢見ていた「自然の理法」が自然自然に人類に解放されていくことになるのである。 

 

もっと頭脳明晰でもっと知の飛んでいる方は次のように考えてもいいであろう、すなわち、●はエネルギ−○は空間と…、そしてエネルギ−と空間が定量的な関係をもって創り上げているものが宇宙次元であると…。

 その二つは時間と共にの定量性がどんどん変化していく、それが時間経過と共に変わる形態進化の姿なのである。すなわち、空間とエネルギ−、そして時間の三者が絡まり合って常に転移変転していく姿、それが自然宇宙次元の本当のエネルギシュな姿であり、千変万化して止まない自然の姿なのである。

するとエネルギ−と空間は互いが密接で不可分な関係で追従し合うことにより、そこには自然のうちに大きな論理性が生れ、そこには一定の法則が成り立ち始めるのである。それが宇宙自然の律であり、法則と呼ばれるものである。

ただし、これはかのアインシタインでさえ突きとめることの出来なかった大いなる次元物理象の姿であり、その真実については近い将来に改めて誰かが言い出すことになるであろう。

まだこの続きはある、言いたいこと、書きたいことは山ほどある、しかし、残念ながら今月はこれでぺ−ジ数は満杯なので締め切ることにして、残りは来月へとつなぐことにしたい。

また来月を楽しみに…!!。           

                    (今月の部 完)


      大古神道の秘密 『9の秘密』を探る。(その5) 
  
  大自然の歌、究極真理の数(9)の歌を聞こう

        完結数≪9≫の大秘密を語る(3)

                 2013年月 謹んで上載(5/28

 さあ、今月をもって「数(9)の歌」は最終の稿を迎える、余りにも突飛な話、今まで一切世には出て来なかった法外な話ばかりなので、恐らくあなた方は面喰って目を白黒させていることであろう。
 しかし、これらすべては誰一人として知る者もいない本来の有るべき「数の物語」であり、まさに自然の究極の姿を語る歴史上まれに見る「神の知の物語り」と言うべきものである。

 あなた方も既に知ったはずである、日本独特の「サイコロの目」には驚くべき自然の大律が編み込まれ一つの秘隠状態にあることを。それを今回語ろう、それはこの「サイコロの目」と古神道の祝詞である「ひふみ…天地の数歌」の二つの間には驚くべき関連性があり、お互いに絡み合いながらその確かな道筋を歌い上げていると言う驚くべき事実の存在についてである。しかも、そこにあるのは我々人間知の業などではなく、まさに希有な神受の業と言うべきものである。それが事実ならば、何と怖れ多いことであり、何と奇しき自然の叡知のほとぼしりなのであろうか…!!。

  恐らく、あなた方は口をあんぐりと開けて目を白黒させることであろう。この事実はそれほど奇想天外な驚くべき事実であり、とてもとても信じる事などは出来ないものであろう。知に鋭敏な方にはまさにショックなスト−リ展開であり、ただ愕然として気が動転するだけであろう。
 しかし、何回も心で検証を重ね、全体的な筋を見るにつけ、そこには決して矛盾や不整合は見られないことに気がつくはずである。

 恐らく、この事実はまさに古神道の祝詞「ひふみ…天地の数歌」の恐るべき神髄として広く語り継がれ人々の心に残り、未来永劫に語り伝えられていくであろう。まさに日本の大いなる誇りであり、史上何処にも無い古代の知の驚くべき存在を語るものである。

 それにしても日本と言う国はまことに不思議な国である、数千年前に端を発した古神道にこのような現代物理学を跪かせるような驚くべき物理性を持った「自然の理」が秘隠されているのは一体どう言うことなのであろうか…!!?。まさに、古神道恐るべしであり、驚くべきことを伝えている古代の知宝であり、古代に対する我々の認識を一変させるものである。

 

そこにある答は一つである。それは超古代の日本には高度な知的文明が花咲いた過去を持った事実があると言うことである。
 また、それにより推察されるのは現在の華々しい日本民族の活躍の基、すなわちその温床となるものが大いなる過去に存在したことであり、今花開いている日本文明はこの過去の知的文明のDNA的な再現作用であると言うことである。要するに、その時空的な響き、繰り返しの響きが今ここで共鳴的な再現象として現れていると考えるべきである。
 それは過去の事実と現在が時を越えてシンクロニシテイ的に結ばれると言う時の再生現象であり、循環現象と言うものであろう。
 遠い過去に起きた一つの文明現象が今ここに時空的シンクロニシテイとして再現し、再び花を咲かせているのであり、まさにこれはユングの言う時空の因果の一致、すなわち、「時の循環」の表れを見せているものと言ってもいいものである。
 それが諺の言う「歴史は繰り返される」と言う有名な言葉の意味であり、時の循環現象というものであろう。

 その確かな証明となるものが古神道の奥儀祝詞である「ひふみ…天地の数歌」の確たる存在であり、そこにある誰も否定できない数多の「数の語り」の現れなのである。今までは噂こそあれ、実際にその内容を証明する手立てがまったく無く、ただ有名無実なもの、白昼夢的な作り話として揶揄され無視されて来たものであり、誰にも相手にされずにただ時のはざまに佇んでいただけである。

今になって思へば、古神道の中には「人類最大の叡智が潜んでいる」とか「宇宙の物理現象に結びつく驚くべきものが秘隠されている」、「古神道は近代物理学を先取りし、さらに進んでいるものである」と先人達が喝破していたのであるが、その言葉はまことに正しいものであり、まさに真実を突いたものであったのである。

 今までは西洋志向かぶれの心無い学者達が日本にはそんなものが有る筈はないと否定し、更には歴代の超古代文献等を単なる悪戯ごとの偽作と断じて放逐し、ただ自らの溜飲を下げて満足していたのである。その上我々もそれにつられてそのように思いこんで、一向に目を向けようともしなかったのである。まことにお粗末な次第が罷り通っていたことに今になってようやく気がついたのである。

 まあ、それらは追々と考え、まずは現実的な「数の理」の存在を披露申し上げることにしよう。

もう一度復習の意味を込めて次の数計算の姿を改めて見て見ようではないか…。


 


 満杯とはすなわち、すべてが過不足無く、満足の中で無心状態にあるもので、それがと言う中庸な姿である。言いかえれば、0の状態こそが不満足や欲望の無い神の至高の姿であり、人の心に例えれば、まさに極楽涅槃の境地とも言えるものである。

これが本当の自然のあるべき本来の姿であり、自然の求める本望意識の境地であり、その終点の姿でもある。
 我々もこれらのあくなき自然の秘密を学ぶことにより更なる未来を渡って行くことが出来る可能性が見出せるのかも知れない。

 上の表にある通り、10とは(満杯+1)であり、1ははみ出た姿であり、やむを得ず余ったものである。要するに、次の救済の対象となるものであり、けっして自然は放っておくことはしない。

要するに、自然は残ったものだけを更に集めてまた満杯を作り、出来る限りの満足を計ろうとしているのである。

そこにあるのは自然の慈悲の思いであり、決して見捨てないと言う愛の心と言うものである。前にも何度か述べたように自然には破壊の心は無く、共有愛、相互愛、満足愛の意識が強く動いて、決して飽くことの無いものである。

我々もそれを知らない限り、決して本当の自然の心には辿りつくことは出来ないのであり、決して平和、平穏、歓喜にあふれる「世の中」を作ること等は出来ないのである。その真実を学び、心得てこそはじめて永遠の理想郷の実現が可能となるものである。

古の賢者達はこれらの自然の心の存在を知り、それを学ぶために数の一桁化を盛んに行って自然の知(心)を知ろうとしていたのである。それがバビロンの占星術であり、ヘブライの数秘術の本当の由来なのである。彼等はそれにより自然の姿とその仕組みを知ろうと懸命に数と向き合って、その教えを受けようとしていたのである。

それは東洋でも同じであり、それが同じ型である日本の9進法や古代インドの数学形式の存在である。恐らく古代中国の歴代皇帝が愛して止まなかったとされる9の数」も同じ轍から生まれたものであり、恐らくはインドから伝播したものと考えてもいいであろう。
 
 今回はまた別な手法で改めて(9=0)の謎に迫ってみよう。9=0が成り立つのは自然は循環態で成りたっているからであり、それはすなわち、自然のすべては原点に回帰しながら永遠性を保っていると言うことを教えているものである。
 しかるに、あなた方の概念は全ては流れ流れて無限に至り、決して戻ることは無いと言うのが「知の原理」の基本なのである。
 そこには大きな隔たりがあり、両者は決して相交えることはないものであり、決して交叉はしない心を持っているのである。

言葉を変えて言うと、「神の数学」は循環態であり、「現代科学」は直線態であると言うことである。「ひふみ…天地の数歌」は循環態であり、決して直線態ではないものである。そのあたりを図で表して見てみよう。 考えるがよい。


 

 見て判ることは循環態とは01234と下りの循環で始まり、56789と昇り循環に転じ、最後には平らな状態(平衡)の9=0となって終わりを告げているものである。最初と最後は同じもの、それが循環態の基本の有るべき姿であり、同じ姿をもって永遠に向かう姿である。循環により決して切れ目のない永遠な状態を保っているのである。ひょつとすると、それはただ同じ場において循環を繰り返しているのではなく、時間と交差することによりスパイラル状態に進展して行くと言う仕組みになっていると考えていいのかも知れない。

西洋の神の言葉、すなわち、聖書の黙示録にある言葉は次のような言葉がある。

 「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終りである。」黙示録22章13節

 これはすなわち、「神(自然)は循環態であり、すべて自然とは循環により廻り廻る存在である。だから、自然を解くには循環をべ−スに考えなければならない」と言っているのである。

 見るがいい、まさに始めと終わりは同じもの、すなわち09は同じものと言っているではないか。

 ここにあるのは「01234」の下向きの数列(−)と「56789」の上向きの数列(+)と言う完全に位相が正反対の数列である。
 要するに、進行方向が完全に逆、すなわち(+)と(−)と言う完全な逆位相を持つ二つの数列が存在していることを示している。
 しかるに、直線法では123456789とただ一直線に並ぶだけであり、何も本質的な違いは見ることが出来ない。

何と我々の「現代数学」では一切の差は見られず、ただ1差の数がまっすぐ無限に向かってに並ぶだけである。

 一つの考え〔その1〕

 位相的に考えると、まずは01234と下がり、次は同じ距離を56789と上り元の位置に戻ったものである、すなわち、最初のの位置に還ったのである。それを数式で表せば、01234Σ=1、56789Σ=35、よって1+35=36→9(0)、

 または1+8=9、すなわちなのである。だから、1=−8が成立するのである。

 これを連続数と考えると、0123456789Σ=45、4+5=9→0となるのである。

 まずはこの図を天地(縦)で折ってもらいたい、するとそこにある数(重なった数)のすべては9になり、になるのである。
 同じ事が「ひふみ九九算表」でも言える、すなわち中心天地で折っても、あるいは左右の中心で折ってもすべてはであり、となる。 その事実を余すことなく描いているのが上記の1から9までの「サイコロの目」でもある。真ん中で折るとすべてには9の目」が現れて何事かを囁いていることを知るであろう。

  一つの考え〔その2〕

(+)の数(−)の数についての人間の持つ概念は実数虚数の姿であるとしている。

 しかし、自然には実数とか虚数の概念は一切無い、すべては人間の生み出したバ−チャル的な考えである。それは一つの人間の編み出した場当たり的な数の概念なのである。そのようなものは自然には無い、すべては人間の作り出した架空の存在なのである。

 自然にはそんなものは一切必要ない、なぜならば、あるのはすべて実数だけであり、虚数なんて言うものはない。
 しかも、自然の持つ(+)と(−)の意味は位相上の方向や関係を意味するものであり、(+)の方向と(−)の方向は完全に正反対、逆相を表すものである。恐らく、自然には大、小などの私欲的な概念はまったく無く、あるのは方向的な違いの認識だけであろう。

  一つの考え〔その3〕

 ちょうどいい、これは「神の数学」の計算に使えるものである。その例を示そう。諸氏は1−3=7、2−3=8、3−6=6、などの計算式に疑いの目を持って眺めているはずである。どうして−27であり、−3なのか、その疑いをここで一つ払拭して見よう。

「神の数学」における(+)とは右回転(時計の針の進む方向)の方向であり、(−)とはその逆の左回転方向を示すものである。 
                                                                 <上図を参照>

だから、−3とはを起点に左方向(マイナス方向)へ進む、するとそこにはがある。同様に2−3を起点に左廻りに3ヶ進む、するとそこにはが見出されるのである。3−6を起点に左方向へ6移動する、するとそこにはの数が見出されるのである。
 同じようにして、1+3=4を計算して見よう、まずは、を起点に3ヶ右廻りに移動するとがあり、またはを起点に右回りに移動する、やはりそこにあるのはの数である。すべからく計算は正しいことを示し、我々を唖然とさせるのである。試みるがよかろう。

このように考えていくと何の不思議も無い当たり前の計算式であり、小、中学生でも出来る簡単なものである。それはすなわち、本当に自然とは美しい形と単純さを持って作られていながら、すべては理に叶い、道に叶っているものと言うことである。
 また、そのすべては秩序と調和を持って永遠の姿を謳歌しているものであり、まさに窮極、極限の状態を持つ次元体なのである。

 

さあ、次はこの項の最後の牙城となるもの、すなわち最初に記した「サイコロの目」と古神道の祝詞の「ひふみ…天地の数歌」の間には切っても切れない関連性があると言う驚くべき事実を一緒に検証して見ようではないか…。

 要するに、「サイコロの目」の中の●の代わりに「ひふみ…天地の数歌」の数ををそのまま置くのである。

 

  何とここには1234567889「ひふみ天地の数歌」の姿が現れているではないか…!!。
 更には合わせてになる「サイコロの目」の組み合わせを見つけて見る、するとそのΣ数もすべて同じようにになると言う不思議があるのである。要するに、ここには矛盾、不合理などはまったく無いと言うことである。じっくりと時間をかけて検証するがよい、面白い事実がまだまだ見つかるはずである。 すべては神の計り事であるが誰一人として知る者はいない。

このままでは何となくたまたまとか偶然とかが作用したものとの声が聞こえて来そうである、そのような不調和音を払拭するために更にもう一つ「宇宙原理表(ひふみ九九算)のB段目の数列を掲げて置くことにする。十分に検証するがよい、心いくまで…!!。

これは更にCDEFGHの段…と続くもので、そこには決して矛盾や不整合はない。まさに天啓の図の現れと知るべきである。
 ここには現代人の知らない「数のあや」がいろいろと秘隠されて、開らかれる時を首を長くして待っているのである。
 ここにある不可思議な事実は神の知のほとばしりであるが誰一人として見出した者はいない。

これらの数の語りを余裕を持って判じることが出来れば、あなたの心は最早1ランク上の意識波動状態に入ったも同然である。
 最早、何事にも動じない盤石な心、大きな許容の心を持ったと言えよう。1ランク上の意識波動状態とはすなわち、「知」とは人間だけの独占物ではなく、それより遥かに大きく、広い「自然知」が宇宙にはこのように存在していると言う事実を知ることにあるのである。



  さあ、どうであろう、ここにも123456789の「天地の数歌」がダイレクトに現れて何かを囁いているではないか…!!。
 知に自信のある御仁は是非ともそこにある「神の秘密」を解き放って世に出して貰いたい、あなた方なら出来るはずである。
 
 これでも納得のいかない御仁は更に続く「ひふみ九九算表」のCDEFGH…段目を同じ手法を持って十分に検証してそれらの真実を理解することであり、それによって自身の心の目も開くことになるのである。
 それには何回も何回も納得するまで計算をすることであり、そこにある答を十分にねぶり廻して自由な考察をすることである。

すべては神の心のままの現れであり、すべてはシンクロしてワンネス・フィノメノン(oneness・phenomenon)として見事な形で鎮座ましましているのである。単なる偶然、単なる一致などではないことが解るはずである。

すべては意味のあるものであり、「神の心」、「神の真髄」がしっかり籠められているものである。

 
 いかがであろうか。すべては図と数のあやなす理がもたらす「真実の数理」の物語であり、その確かな存在を立証する「数の語り」である。これらの事実を知らずして現在の「現代数学」を更に発展させようとしても、それはただ徒労に終わるだけであり、どうあっても自然の本質や仕組みは決して姿を現すことはないのである。

要するに、すべては無明の闇に呑み込まれてただ漂うだけであり、決して自然的な正しい答を出すことなどは不可能なのである。

なぜなら、人間の手になる「現代数学」は真実を含まない欲望(物質)の数学≠ナあり、物質世界(見える世界)の追求を視界に置いて発展して来たものだからである。それはすなわち、相対的に存在しているもう一つの世界である「意識世界(見えない世界)」に対しては一切何も通じることはなく、すべては、まったく意味の無いロ−カル的な数学と化してしまうだけである。

それはすなわち、「現代数学」は全体性、太極性を持たず、ただ半端な姿、すなわち、物質世界だけに通じるものだからである。故に私は「現代数学は自然を解すことの出来ない欠陥数学であり、一つの不完全数学と言うものである」と公言して憚らないのである。

恐らく、これに対する学者たちの反応は、このような「神の数学」形式は偶然の産物であり、そんなものはある筈が無いと一蹴するだけであろう。なぜなら、彼らはこの大自然の理、すなわち、「物質世界」と「意識世界」の相対的な存在などはまったく理解することなどは出来ない小人達であり、恐らくは現代学者としての面子のために否定、もしくは無視しているだけであろうと思われる。

考えてみるがよい。ここにある9ケの数字が、このように歴然と1/36万した秩序のある形を取る偶然の確率は9の!(階乗)、すなわち9×8×7×6×5×4×3×2×1…、すなわち、1/36万である。偶然に存在する確率は殆ど0である。しかもそれが10ヶである。計算的には1/36万×10である。しかしここにはしっかりとこのように厳然とした姿で現れて我々の目を楽しましてくれているのである。

そこには、偶然なんかは何も無い、「すべては必然であり、何者かにより仕組まれたものである」ことを示唆していることを強く伺わせて止まないのである。その何者かの存在、それは恐らく、最近の先端物理学者達が探し求めている存在と同じものであろう。

要するに宇宙には我々が想像も出来ない超意識(神)が存在し、すべてを自在に操り、すべてを歴然とした規律を持つように意識的に作り上げて鎮まっているのである。その事実を今の今まで我々は知らずに「人知は偉大であり、我々の作り上げた現代文明がすべてである」と思い上がっていたのである。しかし、もうそろそろここらで心を改めるべ時が来ていることに気がつかなければならない。そのように「神の数学」は告げているような気がするのであるが…!!。

すべては遥かな昔に成るようにしてなったのであり、その仕組みはとうの昔に作り上げられてそれに沿って現実自然として遥かな時から営々と活動し、一つのレール上に規律を持って展開されて来ているのである。それが自然知と言うものである。

ただ、我々はそれらの事は何も知らずに嘆息しながら「ああではない、こうではない」と迷いながら懸命に独自の知の体系を作り上げ、自己を高みに上げようとして懸命な努力を積み重ねてきたのである。それが人間知なのである。

しかしよく考えて見れば、我々は何も無い暗闇を目暗滅法に探し廻り、我良しの知の体系を作り上げたのであり、真実であると言う絶対的なバロメ−タ−的なものは何も持ってはいないのである。それなら、これからは自然の創った真実性のある自然知を出来るだけ学び、それに頼る方が、よほど効率がよいと気がつくべきであろう。

何故なら、手間もいらず、時間も要らず、しかも決して間違い等は無いものであるからである。

偉大なる自然哲学の先駆者C・G・ユングは「人間は深いところで何者かに依存しており、何者かに導かれていることを決して忘れるべきではない」といみじくも述べている。

人間は、決して一人などではないのである。そこには何者かが常に同伴し、我々に語りかけているのであるが、誰も「そんなことはあり得ない」、そして「知らない、聞こえない」と思い込んで自分を偽っているのである。

恐らく、その人類に付き添っているもの(同伴者)が間違いなく「存在する」ことを人間に信じさせ、かつそれに沿う形で頭脳を覚醒させることが出来れば、我々の心もその事実を自然々に捉える事が出来て、その上、目にもだんだん映って来るようになるはずである。

要するに、すべては確証のある無し如何であり、歴然とした証拠があれば人間の心もどちらにでもなびくと言うことである。何故なら、人間の心は弱く、頼りのないものであり、強いものにはまったく弱いと言うどうしょうもない欠点があるからである。

この「神の数学」を、人は信じようとはしない。なぜなら数≠ノそのような力があると誰も思ってはいないからである。しかし、信じて数≠ノ教えを乞えば、数は素晴らしい神の知≠導き出してそこにある真実を容易に教えてくれるのである。私はこの「神の数学」が恐らくその嚆矢となるものと考えている。

たった一つの「サイコロの目」の表し方ではあるが、そこには凡庸な人間の持つ数字をいくら手繰っても到底判らない真実の仕組みがしっかり存在し、何かを囁いているのである。ひょっとすると、我々がアプロ−チするのを今か、今かと待っているのかもしれない。

 恥ずかしいかな、私自身も100%理解するだけの理解力や説明力(解析力)などは持ってはいない。

それ故に貴方の聡明なる直観や鋭い洞察力をもって更なる解読に期待したい気持ちで一杯なのである。

今はなるべく簡明かつストレ−トに私の記して置いた内容(十数年前)をそのまま記しているので、何か誤りがあるかもしれない。
 そのあたりは素直に受け止めて、その誤りを是正して正しいものに変えた上で理解して貰いたいと思う。

そこに在る真実は、先端科学者達が真剣に探求している「物理学の理論」をが語っているものなのである。彼等は長い時間を費やし、悩みつつ必死に考えを巡らしているが、その真実証明は未だに出来ずにもがき苦しんでいる現状である。
 そのため現代科学理論は現実的な証明がままならず、不完全のそしりを免れないものである。それが暫定的≠ニ言われている現代科学理論の最大の由縁であり、その理由なのである。

 さて、来月からは稿を改め、新しいタイトルで始めるつもりである。出来れば、もっと面白い事実を載せて諸氏と共に楽しんで見たいと思う。出来れば、根気のある中学生あたりでも十分に理解出来るような題材を探し、一緒に興じて見たい。さぞや面白かろう…!!。
 「神の数学」は立派な一つの学問である、なぜならば、そこには嘘偽り等は一切無く、すべては自然の持つ真実を記しているものだからである。学問の面白さを教えない現代の学校教育に少しでも役立てばこれ幸いであるが、まあ、数十年は無理であろう…!!。
 
 先端物理学者達は嘆いている、現代数学の手法ではまとまるものもまとまらない、何か新しい数学的な記述法があるはずであると…。それが出てこない限り、相対性理論と量子論の総合的な統一は無理であると…。なんとこの二つは対立した答を持ってお互いに譲らないと言うのである。例えば、素粒子のエネルギ−と質量は極めて小さく0に近いはずなのに、きちんと計算すると無限大になると言う悲劇が起ってしまうのである。なぜ、0になる筈のものが∞になってしまうのか、何か現代数学には大きな欠陥があると物理学者達は考え始まっているのである。「神の数学」の0(無限小)=9(無限大)の概念を用いれば直ちに理解が出来るのであるが…!!!。

 現代の物理量子論や相対性理論は現代数学的な概念を用い続けている、しかしどうしても合わないのである。物理学者達は新たな直感の到来をじりじりしながら待っている。必要なのはまったく新しい考え方の数学である。多くの物理学者達は超紐論か、ツイスタ−論の中にこの数学革命の種があるものと信じている「超ひも理論入門(上)」FDピ−ト著より                                        
                                                      完 (「サイコロの目」の記は以上)


                                                            






 

 

【神の数学本編 2.『9の秘密』】