今まで、このスペースではでは語りつくせないぐらい本当にいろいろな課題・難題がありました。一難去っては、また一難・・・。眠れない夜も何度もありました。けれども今までに経験した「この人(障害者)たちの人権はどうなっているんだ!」という怒りや悔しさがパワーになり、何があっても鉄の意思でやりぬくぞ!と思って取り組んできました。
知的にも、身体的にも最重度の重症心身障害児と呼ばれる娘ですが、実は娘には本当にいろいろなことを教えてもらっています。私の人生の師であり、パワーの源です。彼女のおかげで私は強くなりました。
以前NHKのテレビ番組を見ていたら、ベルギーで障害児を持つ親が番組の中で、「この子に障害があると告知を受けたとき、私たち夫婦はひどく泣いて取り乱してしまいました。すると長年つき合いのあるホームドクターが『泣いている場合じゃない。あなたたちがちゃんとしていれば、この子はいくらでも普通に生きられるんだ』というのです。そのことがわかるのに数ヵ月もかかりました。」と話していました。私は、絶句しました。数ヵ月・・・私の場合は数年、いやそれ以上かかりました。
私たちは、安心できない時、よく「先が見えない」という表現を使います。トンネルの中で出口が見えないと不安になります。障害児を持つ家族の心配の多くは「わが子は将来幸せな人生が送れるのだろうか?」という不安に起因しています。「はなみずき」で実施したアンケートにも、「このままでは死んでも死に切れない」「親は歳をとり、子は大きくなり・・・先のことを考えると不安だらけ」等々異口同音の内容が多数寄せられました。どんなに重い障害を持った人たちにも、心豊かな生活が保障されることが、目で確かめられるようになって初めて親は安心して子と別れることができ、子は親から自立することができるのです。
前述のベルギーでは、街の中にハンディーをもつ人たちが1人の人間として当たり前に暮らせるシステムが整っていたのです。
だからこそ私たちは、自分たちの地域にもそんな社会を実現させようと思いました。「福祉サービスの受け手から担い手になろう」と決意しました。私が市議会議員に立候補したのもそこがスタートポイントでした。
「愛する富士市を、愛せる富士市へ。」・・・私の次のステップは、この富士市を誰にとっても住みよい町=愛せる町にすることです。その目標に向かって今日も頑張っています。 |