【百体観音菩薩】
この地域では珍しい百体観音の仏像である。 百観音とは、西国観音霊場が33ヶ所、板東観音霊場が33ヶ所、それに秩父観音霊場が34ヶ所の合計百観音で、それらの寺を巡拝しなくても、ここに参詣すればその御利益を授かるというものである。 天明年間の火災で井戸に投じ、その後に彩色を加えたため、惜しいことに創作年代は確定できないが、近世初頭のものであろうと推定される。本堂内陣の須弥のガラスに安置されています。 |
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西 脇 | 左 脇 |
【朝鮮通信使の紫峰の揮毫】
朝鮮国からの我が国への使節は、天正(1950)11月の豊臣秀吉との引見がその最初である。その後、文禄・慶長の役を越えて、徳川家康によって両国の関係修復が図られた。以来、通信使の来訪は慶長12年5月20日を第1回目とし、文化8年(1811)は対馬で幕府の特使として会見したのに止まっているので、宝暦14年(1764)2月10日を最後とする都合11回に及んでいる。 海岸寺に通信使が訪れたのは、その第4回目の寛永13年(1636)12月1日の復路であった。江戸の将軍家からの帰途、清見寺に休息する目的で峠越えをして来て、おりからの出水で興津川の川止めにあい、しばらく逗留した。一行の中にいた紫峰が木片に「海岸菴」と書き、以前は観音堂とのみ称していた堂宇を、これに因んで以後はその名称を使用したと伝承されている。清水市内では、清見寺と真珠院と共に、有名な墨跡の一つである。 |
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【中村松蔵の鏝絵(こてえ)】
松蔵は静岡市車町の左官職人であった人である。森田重兵衛(半蔵)の五男として、天保7年(1836)に生まれた。漆喰細工の名人である「伊豆の長八 駿府の太十」と言われた鶴堂こと森田太十は彼の甥にあたった。中村氏の養子となり、鏝絵の名工として知られた人であった。海岸寺にある《龍と吉祥天女》は明治35年の春に制作したもので、松蔵の67歳のときの作品である。 明治38年3月28日に享年70歳で没し、静岡市安西1丁目の瑞光寺に葬られた。その辞世は 「百までも 生き永らへよ 皆の衆 我は浄土へ 往くぞ嬉しき」 と言った。 |
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