活動記録(あゆみ)

これはミントの家が出来て5周年記念(1996年3月)に発表された文章です。

ミントの会の始まり

1987年7月7日、養護学校の母親たち数人が、子どもの将来を共に考え、勉強し合おうと、集まりました学校を卒業してからも、明るい未来が開かれているように、今のうちからいろいろなことを知っておきたいという思いからでした。ビデオを見ての意見交換や、養護学校の先生や施設の職員を囲んで、お話を伺ったりしました。

仲間づくりのため畑作業もしてみました。この畑にはえていたミントのさわやかな香りから、私たちの集まりを「ミントの会」としました。ミントは香りばかりでなく、その強さも魅力です。刈られても踏まれても、根を伸ばしてまたはえてくるのです。
ミントの強さと母親たちの強さが重なります。

父親たちの参加

母親たちの活動が始まって間もなく、ある施設で、ドイツの障害者の村のビデオを見せていただけることになり、皆に呼びかけました。すると驚いたことに、全員が両親そろって参加したのです。ともすると母親だけが子育ての前面に出てしまいがちな中で、そろいもそろって、障害を持つ子どもの将来を共に考えられる夫婦であったことに感動しました。
そのとき以来のメンバーで、活動を続けています。

その頃、母親たちは過2日の活動をしていましたが、父親たちも独自に定期的な集まりを持つようになり、それが会の発展に大きく影響しました。

子どもたちが集まれる場づくり

子どもたちの将来を考えるためと、会員の親睦を兼ねて、春、夏休みに、障害者の収容施設や通所施設を数か所見学もしました。しかし、特に収容施設では、どの親も自分の子どもの将来を重ね合わせることができませんでした。この子どもたちが家庭の中に存在するだけで、その果たす役割の大きさを、どの親も感じていたことでしょう。
「地域で生活させたい」「家から通える場所がほしい」という思いが一致しました。そして父親たちが本格的に動き始めました。

会員の1人が土地を提供してくれることになり、自分たちでログハウスを建てようという計画が持ち上がりました。しかし計画を進めていくうちに、だいぶお金がかかりそうだという話になり、それならいっそのこと、お金を出し合って、ある程度の大きさの建物を建ててしまおうということになりました。

母親たちも会の資金集めのために、フリーマーケットやバザーに参加したり、家庭用オープン2台でパンを焼き、施設の職員などに買ってもらったりして、着々と準備ができていました。

それにしても建物を建てるとなれば、かなりのお金が必要です。最終的に1人200万円×6人という数字が出ました。この他に、大型のオープンを入れてパンの店にしようということで、知り合いの方々に寄附ををつのり、多くの協力が得られて、1991年3月に35坪の「ミントの家」が完成しました。

パンの店開店

その年の5月にはパンの店をスタートさせることができました。どうしてパンの店かというと、パンクッキーなら販売しやすいこと、作業内容の種顆が多いので、子どもたちが働くようになったとき、その子に応じて参加、活動ができること、その他、店を通して地域の人とふれ合うことができる等の理由からです。

この時点では、まだミントの家で働く子どもは誰もいませんでした。ミントの会が始まってからわずか4年弱という短い期間に、これだけの建物を造ってしまったのです。

自然のなりゆきといえばそれまでですが、それにしてもすごいことをしてしまった、これからもしていくのだ、と建物を見上げながら思ったものです。それから5年間、多くのボランティアの方々の応緩を得て、店は順調に営業できました。

新入社員を迎える

ミントの家の運営は話し合いの結果、事業所としてやることになりました。重度障書者の働く場としては大冒険です。

1993年3月にまず指導員を雇い、4月には社員第1号の小杉祐太君を職安を通して雇い入れました。2人を迎えて、営業の幅も広がり、今までの店での販売の他に、外売りも始めました。これが祐太君の大事な仕事になり、指導員とおそろいのエプロン姿で、毎日励んでいます。

新しいメンバーが加わる

1994年には、ミントの会の趣旨に賛同し活動を共にしたいと1家族が仲間入りしました。
長年6家族でやってきましたから、その中に入ってくるのは決心のいったことだと思います。しかし、毎日のパンづくりをはじめ、両親共にミントの活動に積極的に参加し、今では大事な一員になっています。

職場らしくなって

1995年春には中学卒業後、富士見学園で生活訓練をしていた黒柳昌弘君と、家庭の事情で横浜から浜松へ移ってきた耳の不自由な木村千広さんが入社。さらに2名の指導員も加わり総勢5名の職場となり、ようやく働く場としての体制が整ってきました。活動内容も充実してきました。外売りの販売先も増え、重いパンケースを難なく運ぶことのできる昌弘君は頼もしい存在になっています。またパンに係わる補助的な仕事の他に、独自の仕事として廃油石けんづくりも軌道に乗ってきました。

千広さんについては耳の不自由な人を受け入れることについて、私たちにも戸惑いがありました。決して積極的というわけではありませんでしたが、まあ何とかなるでしょう、という気持ちで構えることなく、仕事に就いてもらいました.しかし、何とかなるもので手振り身振りでオープン繰作もすぐにマスターし、今や工房でなくてはならない存在となっています。

5周年を迎えて

1996年3月、開店5周年を迎えました。4月からは新たに、高等部を卒業した平井若枝さんと武藤真由子さんが入社します。そして 育児休業中だった指導員が復帰、社員5名、指導員3名のメンバーで、6年目の一歩を踏み出すことになります。

日々の活動を大切にコツコツやってきたら5年たったというのが実感ですが、その何げない日常の積み重ねの中で見えてきたものがたくさんありました。どんなに障害が重くても、その人に応じた仕事や一役が必ずあるということも、祐太君や昌弘君の仕事ぶりではっきりと証明されました。これは次に続く後輩たちにとってどんなに心強いことか、はかりしれません。

そしてこれから

小羊学園の理事長だった故山浦俊治氏が、心理学者のウィリアムジェームズの「人間の性質の中には、その人が常になりたいと考えている通りになる強い傾向性かある」という言葉を引用して励ましてくださったように私たちはこの言葉を心の糧として、がんばっていきたいと思います。

21世紀のミントの家はどんな形でいるのでしょうか。
夢はふくらみます。

1996年3月記