緑の地球ネットワーク
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集合写真(一枚50元→5元) 後列右端に私
構内前庭のヤナギハグミ<「百年沙棗樹」>
雲岡石窟
雲岡石窟
雲岡石窟
雲岡石窟
今日は午前中が雲岡石窟の見学で,バスはホテルを8:30に出発。 大同旅行社の女性観光ガイドが付く。 彼女はお昼頃観光が終わっての帰りのバスの中で,学校に行っているらしい彼女の子どもとママの口調でケータイで連絡を取っていた。
石窟へ到着する前に簡単な概略説明がある。 大同市の名勝古跡としては遼時代の観音堂や明時代の烽火台などがあるが,世界遺産の雲岡石窟が第一。 中国には石窟が約百ある。 最古のものは新疆省のキジル千仏洞,ベゼクリク千仏洞。 敦煌石窟は色彩に特色がある。 天水の麦積山石窟(ここは私は行っていない)は塑像で有名。
雲岡石窟を作ったのは仏教を国教とした北魏で,もともとは大興安嶺に住んでいた鮮卑族,初代皇帝道武帝(太祖)は鮮卑族拓跋部の出身の拓跋珪(371〜409) である。 386年に現在の内モンゴルの盛楽に都を定め国号を魏とし,398年に現在の大同に遷都した。
雲岡石窟は東西1キロメートルに亘って造営され45の石窟があり,大は17m,小は2cmの石仏像が5,100体(51,000体?)ある。 AD460年から64年をかけて開鑿された。 甘粛省敦煌の莫高窟、甘粛省天水の麦積山石窟、河南省洛陽の竜門石窟と並んで、中国の四大石窟の一つに数えられている,等々。
以下は高見さんの補足:
飛鳥時代の仏像は北魏様式といわれる。 AD 493年,北魏は都を南の洛陽に移した。 既に造営に着手していた皇帝陵も捨てての慌ただしさであった。 何か気候上の激変があったのかもしれない。 偶然か否かヨーロッパに於ける4〜6世紀頃のゲルマン大移動と時期が重なる。
政府は雲岡石窟付近の岩山に緑化を強力に進めた。 世界遺産認定のための努力の一つではあるが,果たしてそれは善か悪か。 石窟の中には地下水の伏流水によって風化したものがある。 それにしても1500年の長きに亘って保存されてきたのは,周囲が乾燥地帯であるという自然条件のためである。 緑化を進めることは却って保存のためにはよくないのではないかという皮肉な疑問が沸いて来る。
ここに,「青磁蜜煤炭」という炭鉱会社があり,地下の廃坑を一般に見学させるコースを設けている。 当地一帯には露天掘りはない。 炭層は地下100m以下のところにあり,多層をなしている。 ここにボタ山がないのは,石炭のみを掘り出すことが可能だからである。 ただ,「猿がリンゴをかじるような」採掘方法だとの批判もある。
10:00〜11:50 雲岡石窟第1窟から20窟までの見学。 写真では何度も見た石仏をこの眼で見ることができて“シアワセ”という気分になる。 神殿の柱のように彫りこまれた太い石柱,木造建築における斗拱(ときょう)という木組みが岩の彫刻で表現されているところなどに興趣を覚えた。
第10窟付近の前庭に樹齢百年と伝えられる「百年沙棗樹」がある。 ヤナギハグミである。 なつかしいものに出会ったような気持ちになった。 また第20窟前の広場には大きなニセアカシア<刺槐(cihuai)>がある。
門外の土産物売り場でふと毛沢東語録が目に留まり,今まで買ったことはなかったが,ボランティアでやっている「微風の会」基金の中国東北地方の奨学金贈与対象生徒からの提出作文翻訳業務に役立つかもしれないという気がしてついチョッカイを出した。 20元というので値切ってみたが,不可,買うのを止めた。 しかし翌日北京動物園内の売店で英訳の付いたものを同じ20元で買ってしまったのだから,どうせ買うならここの貧しそうな売り子の娘さんから買うべきであったかと反省したものである。
温室内の胡楊の幼苗
各種のポプラ<楊樹>の苗木
枝垂れ楡<垂楡>の苗木
<垂楡>の掘起こしは機械にお任せ
環境林センタ正門前での記念写真
12:25 環境林センター<環境林中心>へ到着する。 場所は南郊区平旺郷平旺村である。 ここは典型的な近郊農村で野菜の栽培が盛んで経済的にも余裕がある地域である。 早速管理棟のホールでバイキング式昼食をいただく。 簡単なメニューであるがなかなか美味しい。 中庭に枝垂れ楡<垂楡>の木がある。 木の実は食用になる。 毛沢東時代の3年自然災害(1959〜1961年の大飢饉で実際は失政による人災,1500万人から2500万人が死亡したと推定されている)時にも食用に供されたという。
環境林センターは1994年計画立案,1995年春着工したもの。 「緑色地球網絡」の初代所長祁学峰が,あちこちの縣にバラバラにプロジェクトがあるだけでは管理ができないので,センターをつくって全体を統合し牽引していくべきだと提案したこと, そしてGEN代表の立花吉茂氏も同じ趣旨からパイロットファームが必要と説いたことから計画が動き出し,もともと果樹園であったこの地に3.5haでスタートしたもの。 初期の頃は経済的にも苦しかったので,水も電気も無償にしてもらっていた,高見さん流の偽悪的表現では「盗水・盗電」していたそうである。 トラクターも運転手付きで村から借りていた。
2000年には北側にコークス工場の進出話が出て,それを差し止めるため一挙に20 ha(250m×820m)まで拡大させた。(土地使用権は20年間)
1999年には,中華全国青年連合会が主催した 「環境保護国際ボランティアキャンプ」が,ここで開催され,英・独・米・日・中の青年が9泊もして汗を流し,その翌年も同じように数泊した実績があり,中国の北部の緑化事業の“顔” “看板”になった。
ここの業務は簡単に言えば,緑化協力プロジェクト用の育苗(外販も行う),各地区の問題点に対する研究。
外の大きいトイレに行った帰り,管理棟の背後にあるビニールハウス前の中庭へ回ってみると,地面を箒で掃いたような跡があった。 我々が来るからそうしたのか,そういう行為が習慣になっているのかは分からないが,管理の目が行き届いている気配は感じられた。
今回の巡回先ではどこでもそうなのだが,ここでも高見さんの「老朋友」が会いに来ている。 14年の歳月の積重ねは重い。 当初大同で緑化協力事業を始めたころに付き合いのあった中国側の人たちが今は政治的なエライ人に出世していて,人間関係が決め手になるここ中国では仕事を進める上で大いに助けになっているという。 例えば,当時の協議の相手方山西省青年連合会の主席は,共産主義青年団(共青団)の書記で支樹平さん。 副主席は,副書記の郭良孝さんであったが,この人は今,大同市の市長である。 支樹平さんはスピード出世して河南省共産党委員会の副書記で党中央委員会の候補委員になっているとのことである。 環境林センターを今の場所に決めたのは支樹平さんの尽力になるものであり,ここは彼の出身地なのである。
食事後,高見さんからまず温室を案内していただく。 ここで私が見たかったものは胡楊の苗である。 シルクロードでお馴染みの木である。 塩害に強く,葉の付け根に塩の結晶を作る。 まだ幼い苗なので葉は柳の葉に似ている。 これが大きくなると丸い葉になる。 大同へは1950〜1960年代に西北地区から導入されたものが残っていたので,種を取ってここに播いて育てている。 温室内にある植物は,そのほかにオオヤマレンゲ,シラカンバ,麗人草,マイヅルソウ,行者ニンニク,ヤマモクレン,トチの木などの苗である。
次いで外の苗畑を案内していただく。 ポプラ<楊樹>はドイツのODAで建設されたポプラ研究所(大同市の西隣の朔州市)から2002年に@5元で四十数種を購入した。 ポプラ苗畑の向こうの大きな樹にカササギが巣を作っている。 ポプラの苗は次のように作られる。 15cmの苗が2.5mに伸びたら,秋に根元から切り落とし,地下室に保存,15cmに切って挿し木して増やす。 四五年で立派な苗になる。 切り株からも生育する。 今年の苗の価格は直径8cm物で15元と,よい。 中国では物価も政治の影響を敏感に受ける。 朱鎔基首相は緑化植樹を勧めたので苗の価格もよかった。 ただし緑化の行き過ぎもあり,美観のため農耕に便利な道路沿いの農地をつぶして植樹するところが出てきたので,2005年温家宝首相は道路沿いの農地には植えないようにとの談話を出した。 そのため新疆ポプラの苗の価格が少し下がった。 今年(2006年)は山西省省長が緑化に熱心なためまた値段が持ち直した。
畑の中に一台のショベルカー(日本語通称でユンボというやつ)がある。 日立系のもので,借り物だとのこと。
トネリコ<白蝋樹(bailashu)>は別名タモ,日本ではアオダモというと野球のバット材が連想される。 中国では伝統武術に使われる白蝋棍に用いられる。 霊丘自然植物園のトネリコは中国種であるが,ここのトネリコは米国種(Fraxinus americana)である。 旱魃には強く,北京の街路樹にも多く使われている。
仁用杏は一昨年種を埋めたのが昨年伸びて約1.5mに成長している。 これは実が小さく種の大きい品種である。 根の上で切って株の裂け目に優良種を接ぎ木する所謂クローン栽培を行う。 実生のままだと不良品が混じっている恐れがあるからである。
畑の一郭に見本園がある。 将来は子どもたちに樹木を教えるコーナーにしたいという高見さんの構想である。 いろんな木が植わっている。 イタヤカエデ<元宝槭>,◇◇◇(名前聞き漏らし-----雲岡石窟から種を拾って来た実生の苗),サイカチ(マメ科-----これも雲岡石窟から種を拾って来た。 トゲが太くて痛い),桑(木材としても有用),シナサワグルミ(どうしようもない木。 伸びては冬枯れの繰り返し),リョウトウナラ<遼東櫟>,モクゲンジ< [木+欒]樹>,ネグンドカエデ<複葉槭>,シダレヤナギ<垂柳>(雌樹------柳絮を飛ばす。 日本に入って来たのは雄樹ばかり)。
次いで井戸を見せてもらう。 2001年,敷地拡大に伴い水不足が予想されたので,北京の日本大使館に頼み(qqtn高見さんの言い方では:日本大使館の杉本公使に泣きついて)日本外務省草の根無償資金協力に支援を求めて深さ140mの井戸を掘った。
井戸堀りとあわせて敷地内に土壌浄化による汚水処理施設を建設した。 炭鉱住宅の各家の生活廃水沈殿槽から導管で廃水(COD 230ppm)を敷地内へ引き入れ,省面積タイプの簡便な浄化処理施設である。 処理後の水は金魚が飼えるほどの清浄度である。
沈殿槽→ろ過槽→(ポンプアップ)→土壌浄化工程(麻袋に混合土壌を入れたもの,目地部は軽石,下部はグリ石)→タンク
処理能力は250㎥/day。 当地域の一軒当り水消費量は100〜200g/day(日本の東京では一人当り400g/dayというから,実に東京の1/10に相当),従って一万人用の水を供給できる計算になる。 中国の田舎ではこの程度の規模の施設でも十分役に立つ。 この技術は大阪産業大学の菅沼教授に来てもらい,大阪環境技術研究所の助力を得たもの。 コストは“わずか”300万円。 日本の下水処理施設は大掛かりなもので自治体赤字の一因にもなっている。 近々九州の遠賀川流域でもこのような浄化装置を導入するそうである。 ただ昨年は旱魃のため,炭鉱住宅の生活廃水すら出で来なかったとのこと,旱魃のすごさが分かる。
問題は,よく停電があること。 そのためアオコが発生するのでタンクの上に樹脂製の波板で屋根を作ってある。 コントロールパネルもタイマーとフロートスイッチのみの簡単なもの,日本のボランティアの人が部品を持ち込んで組み立てた。 コストは5万円なり。
以上で見学は終了,このあと一時間強,男は苗の引抜き,女は温室での花摘みを行う。 苗の引抜きというから楽な仕事と思ったら,さにあらず。 2メートル近く伸びてしっかり根も張った枝垂れ楡<垂楡>をシャベルで掘り起こすのである。 大汗をかいて作業するうちに,前記の借り物の一台しかないショベルカーがお出ましになり,あっという間に残りを片付けてしまう。
16:00から会議室で武春珍所長が環境林センターの建設の経過とその成果について総括的な説明を行い,そのあとこの緑化事業の十周年(2002年)を記念して作成された手作りの記録ビデオを鑑賞,今回のツアーの公式行事は完了した。 長いような短いような一週間であった。 名残惜しさとともに,今度は来年あたり夏のツアーに参加してみたいという気持ちが湧く。 シルクロードでback packer<背包族>をやってみたいという長年の夢とどちらを優先するかが問題。
晩餐はホテル内で総工会主催の歓送会という形でとる。 総工会副主席柴京雲さんの挨拶,当方の本日の団長S・Fさんの答礼挨拶,乾杯と続いて食事となる。 特に若い元気な若者たちが会を大いに盛り上げていた。 彼等は酒に強い副所長の魏生学さんとは言葉抜きで気が合うみたいである。 このあと石家庄行きの夜行列車で北京へ移動。 通訳の崔文さんは車中夜遅くまで若者たちに付き合っていたようだ。 ご苦労さまである。
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