緑の地球ネットワーク
春季ワーキングツアー(山西省大同市)
<2006.03.25〜04.01>

 


2006.03.29(水) ―晴―    陰暦:03/01

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低い丘のような白登山
 
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白登苗圃 管理棟入口
   
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通路に新疆ポプラ<新疆楊樹>を植える
 
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白登苗圃
   
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高見さんから松苗と野ウサギの話を聞く
 

  8:30 ホテルを出発,張家口へ至る東北方向へ向かう道路上を大同縣周士庄鎮の白登苗圃<白登育苗基地>へと向かう。  車中ではいつものように高見さんがガイド役を買って出て要所要所でマイクを持って解説をして下さる。  これは一週間のツアー中変わらぬ情景であった。  バスが御河を渡る。  昔の御河は「あばれ川」で,氾濫を鎮めるために人々は牡牛の像を建てた。  市街地東北部に今10トン大の牡牛像が大通りの中央に据えられている。  バスはわざわざその横を通過する。  牡牛とは反対に,龍は「荒ぶる神」なのである。
  今日の天気予報では最高気温14℃,暖かくなるはず。  市街地を少し外れた右手に「◇◇大学」(名前聞きそびれ)の建物が見える。   今まで大同には大学がなかった。   ただ開校には手間取っているらしい。
  大同市北部の新榮区へ通じる環状高速道路が建設中とか。  いつの日か北京から大同を経て内モンゴルの集寧そして包頭まで楽々と車で走れる時が来るだろう。   大同城区(市街地)のすぐ南に火力発電所が二ヶ所ある。  バスからも遠く微かに見える。  旧式のNo.1は大同市内用,新鋭のNo.2は全量北京に送電される。  第二発電所は賃金水準からみても北京の飛び地であるとのこと。   地元の人は汚染は大同に残り,いいとこだけ北京に持っていかれるとひがむ。
  車窓の右手に政府の食料備蓄倉庫が見える,さぞかし十分な食料が詰まっているのでしょうなと高見さんの解説が続く。  90年代以降大同では大体奇数年が旱魃の年になっているという経緯と関係があるのかもしれない。

  高見さんの自著『ぼくらの村にアンズが実った_中国・植林プロジェクトの10年』<日本経済新聞社2003年5月刊行>の中国語翻訳書『雁栖塞北 (yanqi saibei)_来自黄土高原的報告』<国際文化出版公司(2005年4月)>の題名の解説 : 「栖(qi)」は旧字体では「棲」で,「住む」 「(鳥が木に)止まる,巣を作る」意味がある。  「塞北(saibei)」は第一義としては万里長城以北の土地のことであるが,ここでは大同市を意味する。  というのは大同市の北限にある万里長城はいわゆる外城で,大同市の南部にも内城が切れ切れに残っていて,ここの塞はその内城の意味である。  また,雁北という表現も大同周辺を指すが,そういう内城の一つ雁門關の北という意味とのこと。

  或るガソリンスタンドに金龍の文字が書かれていた。  これは金龍グループの経営する会社で,実は我々の大同市での宿舎であるホテル,雲岡国際酒店(四つ星クラス)はこの金龍グループの経営するホテルで比較的新しい。

  左手遠方にながらかな丘のような白登山が見えてくる。  ここは歴史上有名な白登之戦の故地である。  BC200年の厳冬,匈奴の王冒頓単于(ぼくとつぜんう--単于=首長の意)が中原を征した漢の高祖(劉邦)をここで打ち破った。  冒頓は敗走すると見せかけて北上する漢の32万の大軍を平城の白登山に誘い込み七日間包囲した。  劉邦の命は風前の灯になる。  ここで劉邦麾下の策士陳平が策を献じる。  陳平は高価な贈物をかき集め密かに冒頓単于の閼氏(あつし=夫人の意)の下へ行き,漢軍は包囲を解かせるため絶世の美女を呼び寄せようとしている,単于がそれを見れば忽ち寵がその女に移るであろうから,その女が来る前に囲みを解いて劉邦を逃がすがよいと告げる。  閼氏は冒頓に,二国が争うべきではない,漢の地を得てもいつまでも留まることはできません,漢王にも神助があるでしょうと訴える。  神通力の高い巫女でもある閼氏の言葉を信じ,又先に降伏してきた漢軍の寝返りの疑いも抱いていた冒頓は遂に一方の囲みを解く。  漢軍は撤退し匈奴と和親之約を結ぶ。  毎年貢物を匈奴へ贈ること,王女を単于の妻として送ることなどの屈辱的な講和条約である。  以後60年間,漢武帝が大規模な対匈奴戦争を開始するまで,匈奴は北方の草原地帯に一大遊牧国家を築き上げることとなった。

  高見さん曰く,若し劉邦が白登山で死んでいたら,漢帝国は存在せず,漢字とか漢族という言葉は別の言葉で後代に伝わったことであろう。  これから行く苗圃(苗畑)の名前を白登山苗圃とする原案を提唱したのは自分だが,漢族である武春珍所長はじめ所員は最初まったく乗り気ではなかったとのエピソードを披露される。

  バスは平野の真ん中にある白登苗圃に到着。  公式名称は「中日合作白登育苗基地」。  ここは国際協力機構(JICA)の、草の根技術協力のプロジェクトとして2004年末に造成を開始したもの。  面積は公称7ha(=105畝(mu)),実質は8ha。  植えられていた小老樹群を伐採し根を引き抜き大石を取り除いてと,大車輪で整地し,2005年3月31日ワーキングツアーが訪れた機会に開所式を挙行したと聞く。

  ここの責任者馬占山さんが紹介され,馬さんがこの基地の経緯と実情を説明してくれる。  大同市林業局を定年退職したベテランである。  鳥打帽をかぶりいかにも親方といった風采の方。   現在ここでは60万株を育てているとのこと。   ここは砂の多い土質で針葉樹の育苗に適している。
職員は3名,臨時工は今は13名だが,最大(4月の植え付け時)は30名まで増やすとのこと。   広い苗畑の一角で農婦の服装をした人たちが畑の手入れをしている。

  今日の実習は場内の通路脇の並木としての新疆ポプラ<新疆楊樹>の植え付け,  新疆ポプラは白楊に属する。   ポプラ苗は一年物を一度同じ高さに切り揃えてから芽を伸ばしたものである。  今日植えるのは五年物,長さは5〜6メートルくらい。  馬占山さんの指導によると,並びを直線にするためには「三点一線」方式,つまり前の木を見るのではなく,一本をおいてその前に植えた木を見て位置を確かめながら植えていくのである。   もっとも植え穴は既に大きめに掘ってあり,基準になるべき木は20−30メートル置きに既に植えられている。

  作業のあと高見さんに現場で説明を聞く。   井戸は一日24時間の突貫工事で1週間で掘削した。  深さは80メートルある。   機械式の上総(かずさ)掘りとも言うべき方法で,大きな銛を突き落とし水を注入し,時々バケツで泥と水を汲み上げるもの。   井戸の断面を言うと,最初の黄土層,次いで3層の帯水層を貫き最深部も黄土層となっている。   黄土層では井戸パイプの周囲に粘土を,帯水層のところは砂礫を詰めてある。  能力は20㎥/day Hrである。   地下水面は大同市内では毎年2〜3メートル下がりつつあるという。

  実生の松の苗畑では,幼苗の間の成長が極めて遅いため,冬の間野ウサギによる食害と冬季の乾燥から護るために土をかぶせている。  ウサギは冬は緑がなくて飢えているから食べられるものかと思って次から次へと何でもかじってみるのである。  野ウサギは保護動物なので本来殺してはいけないが,やむを得ずわなで捕獲している。  毒を使うわけにもいかない。  高見さんがわざわざ土を除けて松の幼苗を見せてくれたので納得する。
  ここにある苗は,トウヒ<雲杉>,トショウ<杜松>,イブキ<桧柏>,モンゴリマツ<樟子松,獐子松>,アブラマツ<油松>,シダレニレ<垂楡>トネリコ<白臘>,マイカイ<玫瑰>など。  中国は今緑化ブームで商品として苗がよく売れる。

  ホールの中の壁に貼ってある白登苗圃の解説文の漢字はすべて繁体字で書いてある。  日本人が読んで分かるようにとの配慮だとのこと。  ここで知ったが「松」の正字は「鬆」らしい。   後の話であるが,帰路急に思いたって北京で買った「中国高等植物図鑑 第一冊」には,学名からみてモンゴリマツとみられる松を<獐子松>」と書いてあった。  発音は樟子松の樟と同じzhang(一声)であるから,どちらも通用するのかもしれない。   また,普通の中国語辞書では<油松>を引くと訳語が「チュウカマツ」と出てくる。  中には「アカマツ」と書いている電子辞書もあるが,「中国高等植物図鑑 第一冊」には<赤松,別名遼東赤松,短葉赤松>が別に掲げられているから別物。

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地球環境林
   
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地球環境林
 
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地球環境林を通り「カササギの森」へ至る“立派な”道
遠方にみえるのが本当の森に成長した松林
 

  白登苗圃で簡単なバイキング式の昼食を取る。   一緒に出たビールは雲岡干啤酒,さすがに昼とあってあまり飲んだ人はいない。

  ここからまた少しバスで移動し同じ大同縣の聚樂郷へ移動する。  北方に采涼山(2145m)がある。  GENは地元と協力してその南麓にあたる丘陵地帯の一郭に2000年から松の造林を行った。  「采涼山プロジェクト」と呼ぶ緑化活動である。   ここの「地球環境林」は1999年当時一本の木も草もない荒地であった。  総面積は300ha,ただし資金と人力の面から一挙にはできないので毎年50 haづつ六年間に亘って植えていったとのこと。
  植えたもの:モンゴリマツ<樟子松,獐子松(zhangzisong)>ヤナギハグミ<沙棘(shaji)>ムレスズメ<檸条(ningtiao)>との混植。  混植のメリットは虫害が少なく,松自体の生育にもいいとのこと。  ヤナギハグミを選ぶのは,苗につく微生物−フランキア(Frankia)−には共生的窒素固定能力があるから。  松が成長したあとヤナギハグミは自然に枯れて死ぬ。   ムレスズメは根が強く深くて旱魃に強い反面,松が欲しい水分を横取りする欠点もある。
  この乾燥地帯では山の北側<陰坡(yinpo)>の方が日陰があって樹木の生育には有利である。  南側<陽坡(yangpo)>は日陰がないので乾燥しすぎて生育には不利なのである。  現在大同市でも<陰坡(yinpo)>の植林は既に殆ど終わっていて,立派なカラマツの林ができている。   残っているのは<陽坡(yangpo)>である。  六年間で296haを植えたが,当時の聚樂郷の党書記が熱心であったことも大きい。  2002年にはここの活動が中央から「京津プロジェクト」に指定され,2006年までに更に1200haが植えられた。

  松を植えるにあたって日本から菌根菌(=植物の根にできる植物と菌との共生体をつくることができる菌)の技術を導入し,良く根が伸びた強い苗を得ることができたことも成功の要因である。  ここで利用した菌根菌はマツ林に生えるアミタケの菌根菌で,その胞子を持ってきて根に共生させるのである。   中国の現地の植え方にも「生活の智恵」的な合理的な工夫がある。  北側<陰坡(yinpo)>が苗の生育にいいのなら,植林する地面に人工的に<陰坡>を作ろうではないかというもの。   ここは南向きの斜面であるから,夏に等高線に沿ってまず幾筋もの水平溝と土手をつくる。  溝は降った雨を蓄え冬季には水分が凍結する。  翌年春に土手の北側,溝の底(即ち陰坡にあたる)に1m間隔で植える。  春になって溶け出した水分が苗の根に与えられる。  松はまるで膨張するように一年に一節づつ伸びる。  松の生育量は正直にその前年の降水量に比例する。
  松は3300本/haの密植でスタートとするので,成長につれて当然間引く必要が出てくる。   20年経てば間伐材として利用できるまでに成長する。  丘陵の途中から見るとプロジェクト初期に植えられた松によって今や青々とした松林が形成されつつある情況を見ることができる。
  隣接するGENの「カササギの森<喜鵲林(xiquelin)>」までは未舗装ではあるが車の通れる道が登っている。(写真)   毎年偉い人たちが視察に来るため聚樂郷が整備してくれたもの。  毎年豪雨で崩れるがその都度修復されるのでありがたいとのこと。

  閑話休題,中国では清明節(今年は4月5日)に墓参をし墓の前で紙銭を燃やす習慣がある。  火事になるからと禁じられているが,なかなかやまない。  我々のバスがこの道を登りかけたとき,赤い大きな横幕をバスの屋根で引っ掛け一時停車。  横幕には「上墳厳禁焼紙」(お墓へ参った時紙を燃やすこと厳禁)と書いてあった。

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喜鵲林の管理棟入り口
   
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喜鵲林を流れる清流
 
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喜鵲林
   
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武村正義先生一行の植樹記念碑
 
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マツの植え方を説明する馬占山さん
   
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マツを植える
 
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アブラマツ<油松>
   
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「退耕還林」
 
  前記の活動状況説明を聞いたあと再びバスで「カササギの森<喜鵲林(xiquelin)>」まで上がって行く。  ちょうど丘陵の小ピークにあたるところに管理事務所がある。   この名称については,最初中国側が用意した名称は「大同青年林場」(管理棟のドアの上にこの名札が残されている)であったが日本でGENが名前を募集したところ,「カササギの森」が票を集め,中国側もそれがよいと同意したもの。   敷地面積は600haという広大なもの。

  「カササギの森」という名前から受ける印象から,ここに来る前は何となく既に鬱蒼とした森林があるものと頭の中で考えていたのだが,我々日本人の目から見れば森林予定地といったほうがよい。   管理棟のあるあたりの標高は約1450m,背後には黄土高原特有の深い「谷<溝(gou)>」がえぐり込まれている。  きれいな清流もある。  その清流も近年上流で鉱山開発が行われ,汚染が始まったのは残念なこと。   2004年夏にそこに上流から鉄砲水が襲って来て一旦は荒地になったが,今はポプラなどが自然に復活しつつある。   上流にはシラカンバ,アスター<翠菊(cuiju)>も生育しているという。
  「カササギの森」は,聚樂郷で50年の使用権を取得し,2001年4月着工したもの。    使用権料は霊丘自然植物園(86ha)の1,100元と似たような金額とのこと。    設立の目的は,
  1.  GEN大同事務所として生態系回復の試みや研究を自前で行う実験林が必要になった
  2.  ワーキングツアー参加者からの,植えた樹木の生長を継続的に目で確かめたいという意見

  管理棟の横に広い窪地があり,犬が二匹いる。  2004年からここで鶏のひよこを飼っていた。  彼等は虫を食べてくれていた。  しかし鳥インフルエンザ<禽流感>が流行ってきたので,みな食べてしまったとのこと。  犬のうち一匹は,高見さんによると,客に吠えないので,名犬ラッシーならぬナッシーだという。  ひよこの番はよくやっていたそうである。  なるほど大勢のツアー客には吠えない。  しかし,私が一人で通りかかると吠えたてた。

  管理棟の谷側の空き地には各団体の記念植樹とその小さな記念碑が点在している。  そこに立って谷の対岸の丘陵を眺めると,斜面に畑の跡らしい等高線が見える。   そこも「退耕還林」政策により,耕地から山林に戻されつつある。

  ここでの作業は,アブラマツ<油松(yousong)>の植え付け。  土質は黄土に砂が混じっていて作業は楽である。  現地の方の説明指導を受けてから開始。  根を覆う樹脂の底面と上面を取り除いてから植穴に入れる。   指導する人の中の背の低い方が植えた後しっかり足で踏み固めるようにお手本を示す。  こうしないと「活不了(huobuliao)」(生きていかない,根付かない)と言うのだが,ちょっと踏みつけ過ぎではないかと心配になる。
  敷地内に植えられた樹木はモンゴリマツ<樟子松,獐子松(zhangzisong)>やアブラマツ<油松(yousong)>以外には,トウヒ<雲杉(yunshan)>,ライラック<丁香(dingxiang)>,ハマナス<玫瑰(meigui)>,トショウ<杜松(dusong)>,地這のイブキ<沙地柏(shadibai)>など。   霊丘自然植物園から運んだ落葉広葉樹のリョウトウナラ<遼東櫟(liaodongli)>もあるという。
  育ちはいまいちであるが,イブキ<桧柏(guibai)>,モクゲンジ<[木+欒]樹(luanshu)>ハシバミ<榛子(zhenzi)>オニグルミ<楸子(qiuzi)>ハギ<胡枝子(huzhizi)>,イタヤカエデ <元宝槭(yuanbaoqi)>もある。
  自然に咲く花としては,ヒゴタイ,ユリ,マツムシソウ<藍盆花(lanpenhua)>がある。

  起伏のあるこの丘陵地帯のあちこちにテーブル状の小隆起がある。  地図では大同火山群と表記される火山である。  全部で16〜17個ある。  ゆっくりジュルジュルと噴出した溶岩が層をなして堆積したものである。  専門家には特有の価値が認められているが,素人には一見して火山とは分からない。  大同市当局は観光資源にしたいと考えているがどんなものか。   以前はGENもここの軽石を取って来てろ過用に利用したことがあるが,今は採取禁止になっている。

  同じ大同縣に,遇駕山という山がある。   西太后が義和団事件の際西安に避難する途中そこを通過した所である。

  今日の晩餐はホテルの外へバスで出かけて,「孫子家 [彡+刷]羊肉」という店で羊肉の火鍋とシャブシャブのミックスのような料理を戴く。   鍋の中が韓国国旗「太極旗」の陰陽巴の形のように仕切られていて,片側は薄味スープ,片側は激辛のスープを食べる人が自分で調合するのである。  これは比較的新しい食べ方らしい。

  今夜は郷里が同じ岡山のK・Oさんと同室である。  現役時代は瀬戸大橋の建設と管理に携わった方である。  私生活ではトライアスロン競技で長年活躍したという猛者。  今はいろいろなボランティア活動などに従事,その一つが後楽園・烏城の観光ガイドとか。

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