緑の地球ネットワーク
春季ワーキングツアー(山西省大同市)
<2006.03.25〜04.01>

 


2006.03.28(火) ―晴―    陰暦:02/29

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希望果園
 
   
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希望果園
最高地点の貯水槽
 
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小学校校庭での交流会
制服は私立校,私服は公立校の生徒
   
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小学校校庭での交流会
 
 
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小学校校庭での交流会
私立校男子生徒の“千手観音”の踊り
   
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小学校校庭での交流会
 
 
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“再 見”
 

  朝起きてすぐ村の中を散歩する。   快晴である。  空気が冷たくやはり日本の二月のような寒さである。  弘前市のY・Hさんが小学生の子どもたちに纏いつかれるようにして現れる。   彼の話では子どもたちは朝食前6時頃に学校に行って勉強し,朝食後に改めて登校し,放課後もまた学校で夜まで勉強するという。   なんという学習熱かと感心する。  技術系の教育畑にいたというY・Hさんは学校教育に大変関心が強い。   高見さんによると,ここには私立の小学校まである。   公立小学校の元校長であった人が経営していて,学費は年800元にもかかわらず,生徒数はいまや公立を遥かに追い越しているらしい。  学校の名前は私もカメラに収めた霊泉小学。  当初は仮住まいの寺小屋のようなものだったが,今は立派な二階建て校舎になったとのこと。   鄭秋梅さんは字が書けない。   昔の貧しかった村の,まして女の子とくれば小学校に行くことすら贅沢だったのだろう。   現在の農家の親たちは自分の子どもには教育を十分受けさせてやりたいと思うはずだ。   ここは農村でもかなり教育熱心な村のようである。

  馬家で朝食のあと記念写真を提案すると,昼食もここで食べるのだからと鄭秋梅さんが言う。  といっても,ちゃんとした会話をしたのではなくて,「中午(zhongwu),中午」(正午)「吃飯」と言って食べるジェスチャーをしてくれたので理解したというのが会話の実態である。  ならばと荷物を置いて広場へ集合する。

  高見さんたちの案内で小学校附属果樹園(希望果園)の見学に行く。   “希望(xiwang)” の意味は“希望工程” (希望プロジェクト)即ち家庭が貧しくて学校に行けない子どもを経済的に援助する全国的なプロジェクト,に通じると思われる。   “果園”入り口,管理ハウスの前に「中日合作  希望果園   大同市総工会  霊丘縣紅石楞[leng但し本字は木偏でなく土偏]郷人民政府 二零零三年三月二十日」 という碑がある。  山の広い斜面にはアンズのほかナツメ・リンゴ・クルミなどが植わっている。   総面積は約60ha。  元は大部分未耕作の荒地であったらしい。  ブドウ園もあるが,寒気に曝されないよう冬季には小枝を土に埋めておくというのが驚きである。   傾斜地の保水には苦労がある。  最上部の丘の上に手造りの巨大なコンクリートの水槽がある。   畑に潅水するときは下からポンプアップして水を貯めて利用するそうである。   苗を植えたあとの手入れも人手がかかる。   家畜の侵入防止や虫害から護る薬剤散布の手間も要るし・・・・。
  全体で四万株が植わり,うち50〜60%が実がなるようになっている。   “経済林”の収入は600元/年・人に上り,近年“失学shixue”(貧困のため学校に行けない,あるいは退学すること)する生徒はなくなり,客観的に見て当初の目的は達成した,と総工会の担当者が挨拶する。

  次いで村の中心に戻り,広い道沿いの畑に新疆ポプラ<新疆楊樹>を植える作業に入る。  新疆ポプラの苗,といっても3メートル以上に伸びたものであるが,道路脇の小川に根を浸してあった。  これを畑に運ぶ。   例によって植え穴は村人が既に掘ってある。   村人が模範を示してくれて直ぐに数人の村人とともにツアー客全員が群れて作業に取り掛かる。  列をまっすぐに揃えることが肝要。   低地なので土はかなり湿っている。   凍結して掘り進められない穴も少なくない。  2時間あまりで完了。

  馬家で昼食。  麺・豆腐干と胡瓜の炒めもの・トマト(砂糖少し振りかけ済み)・卵焼き・大根の細切り(砂糖水漬け)・麻婆豆腐・包子(=餡入りのマントウ)。  食後我々とと鄭秋梅さんと息子のお嫁さんと記念写真を撮る。  20歳になるという実の娘さんは一度も顔を見なかった。   母屋の前の一郭に,田の字状に仕切られた一坪菜園がある。  仕切り線が低い土手になっている。   ここにも天水を一滴たりとも逃がさないという思考が日常の習慣になっている様子が伺われたように思った。   日本ならば「排水」を第1義に考えるところを,まず「貯水」を考える発想は乾燥地ならではのものである。
  この家は表門<大門>の中に更に小さい門<二門>がある。  煉瓦を積んで作った門で,人が通りぬける部分が大きな鍵穴型になっている。   鄭秋梅さんに名前を聞いたらjue-lya:-men という答えだった。  さて一体何か?  私が推測した文字は“絶霊門”?,“角梁門”?。  家の西南の隅にあるのがきまりの“厠所(cesuo) ”は典型的な農家風のもの。  コンクリート製の大きな四角な立方体の深い穴に板が二枚渡してある。  ただし穴の入り口寄りの一面は傾斜面になっていて,後で糞便を肥料として取り出しやすくなっている。   白い紙は我々ツアー客が落としたものであろう。   この家の人はどうしているのかと少し疑問。   意外に臭気はない。  灰をかぶせているらしい。
  記念写真撮影のあと馬宅を辞する。   来年もまた来てください,と鄭秋梅さん精一杯の笑顔で送り出してくれる。

  午後13:30からは上北泉村小学校の校庭で交流会。   二つの小学校の小学生出演者――公立の上北泉村小学校と私立の霊泉小学校の生徒――と大勢の父兄が待ち構えている。  子どもたちの出し物は踊りと歌が主。  愛知万博の中国デーの日に見た「千手観音」の舞踊が私立の霊泉小学校の生徒たちによって演じられたのには驚いた。   中国ではかなりポピュラーな演目なのかもしれない。   男の子二人によるやぶ歯医者のコントまで出てきた。  やんやの喝采と爆笑で会場が沸く。  返礼として日本人側は「上を向いて歩こう」「北国の春」を歌い,50歳台以下の「若い人」はそのほかにジェスチャー入りの「□□をください」とかいう歌(題名を忘れました!)を演じる。   我々が「北国の春」をばらばらな音程で歌い始めたら,すかさず小学生たちが中国語で“北国之春”を合わせてきた。   あわてて指揮者の先生が止めて,改めて日本人老学生の合唱という名の“乱唱”が再開という場面もあった。   声を聞いていると,年輩者でまともな合唱の経験があるのは東京からの唯一の中年女性T・Tさん(?)だけのようである。  彼女は合唱でもちゃんとハモっていたようだったから。  一時間あまりの時間があっという間に過ぎ14:40お開きとなる。

  ここで,教室の外壁の柱に貼られていた標語が面白かったので,紹介する。

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帰りの車窓から“恒山”を見る
 
   
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帰りの車窓から
“前方200m,事故多発区”の標識
 

  バスで4時間弱をかけて雲岡国際酒店へ18:30帰着。   帰路,快晴の空を背景に改めて北岳恒山の姿と火事の跡を見上げる。
  晩餐はホテル内でとる。   宴席で出るアルコールはビールのほかは汾酒である。  近年はどの蒸留酒も36度が一般的だという。   この席で初めてT・Iさんと会話を交える。  T・Iさんから,海外旅行していて危険な地域はアメリカであって,アフリカは誤解されているが実は大変安全である,ということを教わる。
  高見さんはウェイトレスを呼ぶ時,必ず「姑娘(gu-niang)!」と言っている。   “小姐(xiao-jie)”,という言葉は今は中国のカラオケの席にはべるホステスやバーのホステス等等に対して使われることも多いと聞く。  品格が落ちているのである。  “小姐”は本来尊敬語であったはずだが,言葉というものは使い古されると下品になるもの。  今や“三陪小姐(sanpei xiaojie)” (陪/陪/陪etc(酒・歌・ダンスに付き合う/酒・歌・おしゃべりに付き合う/それ以上のこともある))という新語も生まれているくらいである。   崔さんに,若い“男性服務員”にはどう呼び掛けたらいいか聞いてみた。  私のような年輩の男が呼ぶのなら,“先生(xiansheng)”とか “小伙子(xiaohuozi)” と呼べばいいと教わる。

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