緑の地球ネットワーク
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霊丘自然植物園
管理棟と最高地点の南天門を望む
霊丘自然植物園
最高地点から下山する一行
マイカイ(バラ科<玫瑰>)を植える一行
冷たい風と雪に見舞われる
模範植樹をする李向東さん,左から二人目は
通訳の崔文さん,その右事務局のN・Aさんと高見さん
早朝同室のT・Mさんとホテル周辺を散歩する。 一回り歩いた後でホテル近くに戻ると,そこに小公園があった。 私も韓国語はかじったことがあるのだが,T・Mさんはなかなかの韓国通であることを知る。 先般,仲間と全羅南道の珍島(チンド)へ行ったとのこと。 公園でおじいさんと少女が二十四式太極拳をやっていた。 T・Mさんも太極拳ができる。 私は二三年やったのにすっかり忘れてしまっていた。
8:30頃ホテルを出発し,唐河に沿って霊丘自然植物園に向かう。 バスは溪谷を太行山脈に分け入る。 唐河は太行山脈を通り抜けて河北省の大西洋ダムに注ぎ,保定市の水源になる。 将来“南水北調”プロジェクトが完成すると,北京の水源にも利用されるとか。 太行山脈は山西省と河北省を東西に仕切る屏風のような山塊である。 全長が500km,幅は最も広いところで180 km,最高地点は標高2200 mに達し,高山植物の宝庫でもある。
霊丘自然植物園の最初の構想は1998年頃GEN代表立花吉茂氏が,植生の研究や種子採集など緑化推進のためにはどうしても植物園が不可欠であると力説したことから始まった。 霊丘縣の自然林を探索して回った。 ナラ<櫟樹(lishu)>・クルミ<核桃樹(hetaoshu)>・シナノキ<椴樹(duanshu)>・トネリコ<白臘樹(bailashu)>・ナナカマド<花楸?(huaqiu)>などが茂っていた。 ナナカマドは幹の直径が20cm以上ある,実が白い絶滅危惧種である。 7ヶ所の候補地から一つに絞ったのがここ霊丘縣上寨鎮南庄の当地で,86haの百年間の使用権を総工会を通して購入したという。 1,100元とのこと。 1999年3月から事業開始。
この自然植物園は山麓から省境界をなす尾根までを包含する一帯の山地そのものである。 管理棟近くの平地には苗畑もある。 ここの責任者李向東さんが概要を解説してくれた。 李向東さんは,GEN立花代表が彼の栽培しているリンゴ園を見ただけで,本人に会うまでもなくスカウトすることを決めた人材である。
植物園の最高地点は1318.6 m,地図上でも南天門という名前がついている。 麓からは600〜700 mの高低差がある。 全体を14の区域に分け,11が栽培区。 地形に従い異なる種を植えている。 以前は放牧が入っていて禿山であったが,放牧を入れなくした今は潅木主体に樹木がよく生育している。 気候の厳しさから生育速度は遅いが,すばらしい植物園になるでしょう,ということだった。
午前中は管理棟に近い山腹に背の低いマイカイ(バラ科<玫瑰>(meigui) --ハマナスの近縁種)を植える作業をする。 深い植え穴は既に職員によって既に掘られているので,我々の仕事は苗を運び上げて植え,表土をかぶせて水をやるという手順である。 傾斜地なので苗運びも辛いが,本当は穴掘りがいちばんきつく忍耐の要る作業であろう。 後でも経験するが,地下がまだ凍結している場所もあり,そういう場合は次の穴に向かい,凍結が解けた分だけ掘り下げるというのが現地の人のやり方であるとのこと。 水やりは下にある大きな水槽からポンプアップしたものをホースから直接かけていくもの。 これはもっぱら武春珍さんが自ら担当した。
即席麺とパンの昼食のあと管理棟近くの苗畑と自然植物園を山の頂上に至るまで高見さんに案内していただく。
ハシバミ<榛子(zhenzi)>・オニグルミ・ハクビショウ・ネグンドカエデ<複葉槭(fuyeqi)>・ハクビショウ・リョウトウナラ<遼東櫟(liaodongli)>・イタヤカエデ<元宝槭(yuanbaoqi)>・<山桃>(shantao)・ウンリュウヤナギ・シダレヤナギ<垂柳>・キンモクセイ・シンジュ(ニワウルシ―<臭椿>(chouchun))・シラカンバ<白樺>・ニンジンボク<荊条(jingtiao)>などを見る。
リョウトウナラの2〜4メートルになったものが頂上尾根に近い所にも生育している。 多くは切り株から芽生えたものであり,根元から分かれて幹が伸びている。 落葉が溜まりつつある。 このよい循環が廻りだすと一年に4〜7m生長する。 小さいハシバミが育っているが,これはいずれナラが大きくなると日陰に入ってしまい枯死する。 自然界の競争はナラ同士にもあり,弱い木は枯れていく。 山頂の尾根は河北省と山西省の境界になっている。 河北省側にはカラマツ<華北落葉樹(huabei-luoyeshu)>が多く見られる。
シダレヤナギ<垂柳>について言えば,古来日本に輸入されたヤナギは雄ばかりであるが,雌のヤナギは柳絮を飛ばすのが嫌われたのかもしれないとのこと。
自然植物園の麓に湧き水の集まる小渓が形成されている。 ここに水槽と簡単な流量計が設置してあり,継続観測中である。 この付近の湿地にはヒメガマが育ち,蘭科のアツモリソウ<大花杓>が育ち,ウメバチソウの群落もあるとのこと。 ここにも野ウサギが出没するので名人?が罠を仕掛けているが,引っかかるのは日本人ばかりとの笑話。
上北泉村
小学校前広場にある碑 “地球環境林示範村”
上北泉村
歓迎の踊り “熱烈歓迎,熱烈歓迎”
携帯電話の中継塔
上北泉村スナップ
上北泉村スナップ
上北泉村の小学校の校門
私立の小学校“霊泉小学校”
今は私立の方が生徒数が圧倒的に多い
馬平さん宅
右が我々が泊まったオンドル<炕(kang)>のある部屋
馬平さん宅で
馬平さん宅で
左からS・Fさん,息子の若嫁さん,鄭秋梅さん,Y・Yさん
15:00頃下山し管理棟へ。 そこを出発し紅石楞[leng但し本字は木偏でなく土偏]郷の上北泉村へ下る。 今夜はここの農家に分宿するのである。 橋を渡って村の大通りに入ると,大勢の子どもと女性たちの歓迎の踊りの輪に囲まれる。 銅鑼の伴奏付きである。 まさに村を挙げての大歓迎で,いささか面映い。 メンバーの多くがこの踊りの輪に加わった。 ひとしきり踊りが終わり,村の党書記の鄭海水さんが挨拶をする。 ここで小学校果樹園の建設という形でGENの協力が始まったのが1996年で今年はちょうど10年目の節目になるという。 環境林(果樹園のことか)だけの収入が500元/人・年になり,生活向上に役立ったことは大成功であったとのこと。 帰国後に読んだメールマガジン「黄土高原だより」No.353号の中で,高見さんは出迎えた村人の群れの中に10年前に一緒に作業をした青年(当時は8歳の腕白坊主)たちが相変わらずいたことに,1980年代から始まったこの村の果樹栽培による村興しの成功と活性化を読み取り,ある感慨を覚えたことを書いている。 村の入り口になる唐河に架かる立派な橋も五年前に大勢の人の寄金と協力によりできたもので,それまでは歩いて渡るか農業用車両でおし渡るしかなかったとも高見さんは書いている。 村の中央には携帯電話の電波中継塔もあり,新築中の家も見られる。
この夜は数人づつ6班に分かれてのホームステイとなった。 この村には毎春ワーキングツアーが来ているので,日本人客は泊め慣れているはずである。 私が割り当てられた家は馬平(MaPing)さんの家である。 同宿者は神戸のS・Fさん,埼玉県のY・Yさん(リピーター),東京からの若いK・O君である。 招じ入れられたのはオンドル<炕(kang)>のある部屋で,多分ご夫婦の居室なのであろう。 土間の壁際に大きなテレビが置いてある。 部屋の奥に厨房がある。 ここは「母屋」の北半分で,南半分が,私は入らなかったが,息子夫婦の部屋らしく,床はタイル張りで高価な家具・調度品が置いてあるそうだ。 息子に嫁がいると分かったのは土間にお洒落なブーツがあったので,娘さんのものかと尋ねたら,「媳婦儿(xifur)」という単語が聞き取れたからである。 奥さんの名前は鄭秋梅(ZhengQiuMei),同じ村の出身である。 テレビの横に一昨年のツアーで来た方が撮影した馬さん一家の写真集が置いてあった。 馬平さんは六年前まで大同市の北部,多分新榮区の炭鉱であろうが,働きにいっていたが,今は村で働いている。 出稼ぎしなくても暮らせるほど豊かになったということなのだろう。 馬平さんは造林機?(それとも農業機械か?建設機械のようなものか?発音不明)の運転の仕事もしているという。 息子も同様であるというようなことが分かった。 こちらの中国語も頼りないが,先方の訛りも相当なもの。 私にとって田舎の人とじかに会話するのは全く初めての経験であり,難渋する。 標準語のliangの発音がliεa:になり,an がεa:に,liao がlya:になるらしいという規則性を掴んだような気がしたが,果たしてどうか。 食事は大きなボウルに別々に入った数種類の野菜と肉料理のおかずとご飯である。 ビールの小瓶も提供された。 トマトと大根に砂糖がかけられているのは中国らしい。 砂糖は貴重品なので客にしか出さないものらしい。
若いK・O君は明日の交流会で歌唱リーダーの一人に指名されたと不安そうな顔をしているので,以前ニュージーランドでMilford Trackトレッキングに参加したとき,日本人側は「上を向いて歩こう」を歌うのが恒例だったと教えてあげる。 歌詞は一番しか覚えていないのが残念であるが。
白黒のかわいい犬がいたので「抱来(baolai)的嘛?」(貰って来たの)」と聞くと「買来(mailai)的」(買って来た)ということだった。 名前を聞くと“Hei dεa:゙とのこと。 一晩考えて,“黒黛”か“黒旦”ではなかろうかと推定した。 生まれたばかりのような仔猫もいて甲高い声で鳴きながらチョコチョコ動き回る。 鄭秋梅さんが鳴き声をまねてしきりに「娘(niang) ,娘(niang)!」と呼びかけては相手になっていた。 ちなみに娘(niang)とは,お母さんという意味である。 Y・Yさんが炕(kang)の上に抱き上げて遊んでやっていると,そのうちふとんの上に粗相をしてしまった。 この家は息子と娘の二人の子持ちなので,一人っ子政策の中で,二人目は罰金をいくら納めたのか,という質問に対して,五,六千元だという返事があった。 そのほかのことでももう少し質問攻めにすればよかったと後悔がある。 馬平さんは大人しい人のようで,少し会話をしたあとは遠慮がちに立ったまま食事をかきこむようにして済ますと早々に出て行ってしまう。
そのうち隣の子どもだという幼い男の子が二人入って来る。 日本で事前準備項目の中にあった折り紙は準備していたので,きごちない手付きながら少し相手をして遊ぶ。 私のような芸無しはこういう時困る。 突然通訳の崔文さんを始め事務方の一行がどやどやと入って来る。 ちゃんと食事をしているかどうかを視察するため各班の宿泊先を巡回しているのだ。 Y・Yさんの話ではツアー費の中から食費代も給付されているそうだし,ゲスト用ふとんも貸与品だとのこと。 それはそうであろう。 S・Fさんは奥さんや自宅,神戸の写真などを出して鄭秋梅さんに見せていた。 私もミニ・アルバムは用意していたが,その夜は出しそびれてしまった。 どうもあまり親睦用小道具にはなりそうもない。 来る前に中国で家庭訪問すると私の次女に言ったら,歌を用意して行ったらどうと勧められた,そのときは聞き流してしまったが。 彼女が昨年スペインの巡礼の道を歩いたときの経験からそう言ったのであろう。 子どもたちが時間だから帰れと呼びに来られて行ってしまう。 余り夜更かしして電気代を使わせるのも悪い気がして,また疲れてもいたので9時前であったが就寝することにした。
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