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楊貴妃墓にある彼女の像
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乾陵の無字碑

第12章 西安郊外等探訪


この章では,私が歩いた を簡単に紹介する。

中国では鉄道網が日本ほど密ではない。 その代わりバス交通網が発達している。 都市と都市を結ぶ路線,都市と近郊の町や村をつなぐ路線がある。 縣城(日本で言えば郡や町の役場が所在する町)からは,さらに細かいバス路線網が四方へ広がるといった風である。バスで近郊へ出掛けるには,タクシー以外では,バスを利用するしかない。 西安にも数ヶ所長距離バスターミナルがあり,私も度々利用した。 大半は座席の狭い,満員ぎゅうぎゅう詰めの小型バスであるが,何しろ料金が安い。 (→ 西安の各長距離バスターミナルの簡単な紹介<別紙> を参照 )



A. 河南省の都市篇

鄭州市,開封市へは二泊三日の文字どおりの駆け足で旅行した。 西安発09:42のY202列車で東の鄭州(16:44着予定)へ。
西安駅2Fの外国人(香港・台湾人を含む)用窓口で切符を購入した時,私の前に並んでいた男は買入代行屋らしく,一人で何種類もの切符を買い,おまけに横から彼のところへ購入を頼みに来る者まで現れ,全くいらいらさせられた。
Y202列車の車中では軟座(一等車)に乗ったが,途中駅に「洛陽」があるせいか日本人観光客が多い。 私はノートパソコンを広げていた出張中の中国人サラリーマン二人と相席になる。 コンピュータ関連の仕事をしているという。 お喋りのあと,二人にカードゲーム(打朴克 dapuke)を誘われたが,ルールをよく知らないので断わって眺めていた。 ゲームの名前は「大呀小 da ya xiao」というそうだ。 3が一番高い札で,4が一番安い札,交互にカードを場に出す。 一枚づつ相手より上位の札を出すか,或いは2ペア又は3〜6枚の連番(数字さえ合えば種類は無関係)を出す。 相手より上位の札がなければパスする。 パスのとき彼等は「走zou」と言っていた。 これは相手に「お前やれ」と言う意味らしい。 Jackを鈎(gou),Queenをquan(チュアン),Kingをkeiと呼んでいた。
洛陽までは定刻通り走っていたが,そこから東は遅れに遅れ,結局一時間延着した。

鄭州は現代の東西南北交通の要衝地である。 到着後すぐに帰りの切符を買った。 窓口が方面別に20余りあり,いずれも長蛇の列。 横合いから知らぬ顔で割り込む(挿隊)人がチョロチョロいて,口喧嘩になっていた。
駅前で夕食を済ましてからホテル探しに出発。 すぐ近くのホテルのフロントの価格表を見たら標準間(ツイン)258元とあったので,2泊ではあるが勿体無いのでやめ,外へ出る。 するとえらく元気のよいおばさんが追いかけてきて,八掛けにすると言う。 200元以下でないとだめと言うと,近くの「中南大酒店」で安く泊めるというので,ついて行った。 ここは標準間(ツイン)なら100元だったが,経験のため「豪華套間(デラックススイートルーム」180元というのに決めた。 しかし,広い客間・寝室・浴室のセットなので,冬の一人旅には広すぎ,またいささか寒かった。 このホテルは食堂はないようだが,昼間は軒先で中国式の自助(所謂バイキング)式のコーナーを営業するので便利。 昼飯をここで取った時,烏龍茶を買ったら蓋が堅くて開かない。 見かねたのか店の小姐が一ひねりで開けてくれた。


鄭州で行ったところ

商代遺址
3,500年前の商代(紀元前16世紀〜BC1066)の都邑の城壁。 石碑がなければ,街の真ん中にある大きな長い堤防か丘くらいにしか見えない。 上には点々と木々が生え茂っている。 公園化されているが入場料は不要。 上も下も市民のよい散策路になっている。当時一部で工事が進められていたから,さらに見栄えのよい公園になっていることであろう。 見終わって歩いて駅前まで帰る。 「天池」という小さい朝鮮料理屋があった。 「天池」は長白山(朝鮮名:白頭山)の上にあるきれいな池の名前である。
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商代遺址
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商代遺址
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商代遺址
二七塔
所謂ツインタワーである。 1923年の軍閥に抵抗した「二七スト」を記念して建てられたもの。 ある角度では双頭,ある角度では一体にみえる。
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二七塔
 
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鄭州駅
 
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放課後の小学校校門の
お出迎え風景
河南省博物院
1999年改築された新しい博物館。 敷地面積は10万余平方メートル,建築面積は7万8000平方メートルある。 青銅器などは素晴らしいものが展示されている。 私は僅か一時間くらいしか見る時間がなかったので,よけい名残惜しく辞去した。



開封市は鄭州のすぐ東にある古都である。 私は鄭州駅前の長距離バスターミナルから乗合いマイクロバスで一時間45分もかけて行き,半日のみ慌ただしく見物した。 バスの客引きをする車掌のおばはんに一旦捕まると,他の大型バスに乗ろうとしても,がんとして解放してくれないのには,腹が立ったが,大型バスも強引で横柄なおばはんに遠慮してか,乗せてくれない。 事情がよく分からないままだったが,おばはんが配った切符はどうも白紙切符のようなものだったらしい。 他の乗客は一旦車を降りて,窓口へ行って,数字か文字をプリントしてきた様子なのである。 幸い私の隣りに座った中年女性が私の分まで一緒に持って行って処理してくれたので助かった。 中年女性は戻って来てから,『氣死!(もう,しゃくにさわる)』とつぶやいていたから,これは本来おばはんのやるべき仕事なのだと思った。 運賃は12元だったが,開封から乗った帰りのマイクロバスでは9.5元だったから,これまた許せない。

開封は戦国時代以降七代の王朝の首都とされてきた。 特に北宋時代に繁栄を極めた。 しかしそれ以後の度重なる黄河の氾濫と戦乱のため明代以前の古い文物はほとんど地下に眠ることになったという。

開封の歴史や名所については,「夢の都」に詳しい。 ここは中国人の韓さん(西安外語学院の卒業生で現在日本で仕事をしている方)のホームページである。
中国河南省と日本の三重県とは,三重県津市と河南省の省都鄭州市がほぼ同じ北緯35度であり,河南省に名所旧跡が多く観光に力を入れている等,三重県との共通点が多く,また,両国大使館の推薦等もあって、昭和61年11月19日に友好提携を結んでいる。 (三重県ホームページより)


開封で行ったところ

龍亭
この場所は五代十国時代の後梁・後晋・後漢・後周の宮殿があり,宋も金も前代の遺址の上に皇宮を建てた。 更に明朝が周王府を建て,現在の建物は清代初期に「万壽亭」として再建されたものである。
宋代御街
龍亭の南に連なる大通りで,宋代の建物を模して作られたストリート。
清明上河園
龍亭の西にある。 実を言うと「地球の歩き方」に詳しい説明がなかったので,ここへ行かなかったのは失敗。 北宋時代の開封の繁栄した様子を描かれた「清明上河図」をもとに復元したテーマパーク。
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龍亭の正門
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龍亭の正門
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龍亭
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龍亭内の潘家湖
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宋代御街
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宋代御街
禹王台公園(古吹台)
古吹台は戦国時代 梁の惠王に始る。 盲目の音楽師 師曠がここで楽を奏したことから吹台の名が生れた。
繁塔
冬の閉館時間は17:00らしく,行った時は夕闇が迫る午後六時前だったので,管理人のおじいさんが明日朝来いという。 今晩鄭州へ戻るというと,わざわざ門を開けて,懐中電灯で塔の内壁を照らしつつ説明をしてくれたのがよい思い出である。
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古吹台(入場券の写真です)
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繁塔(左に同じ)




B.西安郊外篇
韓城−西安の北東200kmにある。 バスで4時間。 城東バスターミナルからVolvo製ボディの大型空調バスに乗った (40元) 。

司馬遷墓
「史記」の著者太史公司馬遷(BC145?〜BC86?)は西漢の人で,当地(当時の地名では夏陽)に生れた。 ご承知のように彼自身は罪人の汚名を着たまま死んだ。没年も正確には不詳である。 ここは後代に造営された「公墓」である。 遥かに黄河を見渡す丘の上にある。 彼を敬愛する代々の王朝が増築や改築を繰り返した。 最近では1980年にも補修がおこなわれている。 入場料20元。
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司馬遷墓
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司馬遷墓
党家村
古い四合院形式の民家が多く残っている村。 自称「小北京」とか。 家を空けて商売に出る者が多かったというから,日本で強いて当てはめれば近江商人の家であろうか。 この村には二大姓「党」と「賈」が多く,それが地名にもなっている。 四合院は口の字形の建物が一体になるもので,北に向かって正面の門を入ると目隠しの壁“照壁”があり,その左に主人の部屋がある。 韓国語で言えばサランバンであろうか。 正面奥に正房(客廰),その手前に中庭を挟んで左右に東廂房と西廂房がある。 東廂房の軒は西廂房の軒よりも少し高い。 日本でCCTVを見ていたら,ここの紹介番組が放送されていて,ここの四合院の特色の一つは二階屋が多いことだと言っていた。
入場料15元 + ガイド料40.2元(は少し高すぎまっせ,村の党書記局さま)。
魏長城
魏長城は戦国時代の魏国(BC400〜BC200)の時代の土の長城。 畑と雑木林のつらなる丘の上に高さ約1.5m,長さ約1kmの土塁が残っている。 今は雑木と雑草で覆われている。
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魏長城
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魏長城 (道路で断ち切られた個所)
龍門
昔 禹王(黄河の治水に大功があったという神話伝説の古代帝王)廟がここにあったという碑が橋のたもとに残るのみ。 橋の向こうは山西省である。 黄河が狭まる本当の龍門はもう少し上流になるそうである。 登龍門という言葉はここから出ている。
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龍門
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龍門
文廟・韓城博物館
正月休みで館内には入れなかったが,庭を歩いたのみ。 入場料(15元)だけはしっかり取られた。
普照寺
丘の斜面にあるラマ教(西蔵佛教)寺院で,1316年創建。 特に興味はなかったが,タクシーが最初に連れていったのがここである。 当地の名勝旧跡巡りの定番に入っているのかもしれない。 入場料5元。




C.西安郊外篇(2)
大体は長距離バスを利用したり,或いは「西綫一日游」(咸陽博物館→茂陵→華港西綫旅游購物中心→乾陵武則天生平館→乾陵黄土民族村→乾陵→法門寺)という中国人向けの西安西方の観光ツアーに加わって観光したりした。 下記のチラシによると,入場券代は別で45元,優待価格30元。 (「東綫一日游」は35元,優待価格20元,「華山一日游」はすべて込みで230元)で事実30元だった。 このツアーは移動距離が長いため,慌ただしいし,我々には行く価値のない所も含まれる。 これに参加してひとまず大体を見ておいてから,後で個人的に選んでゆっくり行けばよい。
-咸陽博物館,乾陵,茂陵,法門寺,楊貴妃墓,周原遺址−

咸陽博物館
秦の兵馬俑は等身大であるが,ここにある漢代の兵馬俑は小さくて可愛らしい。 大体館内のどの建物もあばあさんが番人をしている。 最初に入る建物には大きな石製の太鼓が二つでんと据えられている。私が初めて訪れた時,客が他にいなかったので,これは石鼓ですか?などと聞いたら,しっかりした口調で説明してくれた。 刻んである銘文のことを聞いたら,私は字が読めないという返事だったのには少し驚いた。 二度目に「西綫一日游」で行った時は,若い女性案内人が出てきて説明していた。 大団体のみ若い女性が対応するらしい。 入場料は20元。
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「旅游指南(東綫一日游)(西綫一日游)(華山一日游)」チラシ
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咸陽博物館
乾陵 (唐高宗李治と則天武后<中国語では女皇帝“武則天”>の合葬墓)
・初めて行った時は長距離バスに乗った。 4時間くらいかかった。 切符売場で乾陵(qian ling)と何度言っても通ぜず,とうとう紙に書いて用を足した。 バス停名称としては,普通はその手前の乾縣の方が一般的なので,その所為かもしれない。 どういう配置になっているかよく知らずに行ったので,バスから降ろしてもらった所は西蘭公路沿いの乾陵博物館であった。 高宗の娘7歳で死んだ永泰公主を葬った墓を取り込んだ博物館である。 入場料は20元。
そばに乾陵地宮模擬展館というのがあったので,入ったら,若い娘さんが有料で説明をしてくれるというので,それも語学研修?と思いお願いしたが,ここは単なる人形館である。 入場料15元+説明ガイド料10元

乾陵の内城そのものはさらにそこから3キロ西北にあり,天然の丘陵を利用して造られている。 シーズンならば人力三輪タクシーなどが屯しているが真冬には誰もいない。 しかたなく歩いて行く。 坂道の途中の農家に中には窯洞(yaotong)のようなものも見えた。 乾陵では少し雪が残っていたが,頂上まで登ってみる。 周囲の畑の畦がまるで等高線のように陵を取り囲んでいる。 陵の南を南北に走る石を敷き詰めた司馬道(神道)の両側に並ぶ翼馬,駱駝,石馬,石人などの石刻が面白い。 1960年に一度墓室へのトンネルの掘削に手が付けられたが,石と鉄漿で堅牢に封じてあることが分かり,当時の技術では無疵で開けることは無理との判断で中断されている。 二度目に「西綫一日游」ツアーに加わって行ったが,一行の中国の南方人たちの中には,乾陵がまだ発掘されてないことを聞くと,見る価値がないから入場しないという人が少なくなかったのにはびっくりした。ここでは外国人とみると土地の老人らしき人が説明ガイドをしてやろうと寄ってくるが,中国語の分からない振りをするに越したこと無し。 帰りのバスは東の西蘭公路まで歩いて出れば拾える。 入場料30元。
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乾陵(遠くに見えるのが陵台)
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乾陵
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乾陵(賓王石人像)
茂陵 (漢武帝の陵)
「西綫一日游」ツアーで行ったが,若くして死んだ霍去病将軍の墓の前に建造された茂陵博物館に駐車する。霍去病と張騫は共に武帝に仕えて西域で活躍した。 墓の前に石刻像を置くのは霍去病と張騫が最初であるが,これはもともと西域の風習であったという。 茂陵そのものはバスの車窓から見るだけ。
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茂陵博物館
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茂陵博物館(霍去病将軍の墓)
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茂陵
法門寺
長距離バスで行った時は,西安駅前の陜西省西安汽車站から扶風へ(9.5元),扶風から法門寺へ(1元)と,計4時間くらいかかった。 帰りのパスは高速道路を通ったので2.5時間で玉祥門汽車站へ帰れた。 ここはお釈迦様の遺骨(佛舎利)があることで古来から知られていた。 「帯ィ尓游西安」という詳しい観光解説書に次のような記述がある。
「BC485年釈迦牟尼がマガダ国からコーサラ国へ行く途中亡くなった時,付近の八カ国は火葬した舎利(骨灰)を八つに分けて持ち帰り塔を建てて供養した。 佛典によると,200年後,阿育(アショカ)王が法力によって佛骨舎利を84,000に分け,一日で世界各地に84,000の塔を建て供養させた。 法門寺は阿育王塔の一つである。相伝によると法門寺は東漢年間に建てられ,寺名を阿育王と言った。 唐初になって名前を佛法之門という意味の法門寺と改めた。・・・法門寺塔が1981年に西半分が崩れたので再建するため1985〜1987年に取り壊した時,塔の基礎部分に地宮を発見し,そこから多くの珍らしい文物とともに佛舎利4枚が見付かった。 ・・・・佛教協会が鑑定したところ4枚のうち第3枚が佛祖の真の指骨で他の三枚は“影骨”であることが分かった。・・・・」 ここで見た資料と写真の中に,「佛骨」の科学的検査の結果でも人間の骨であることは十分に有りうることであること,江澤民がそれに触れて間違いなく「佛骨」であると言ったなどというものもあった。 本家の印度では何も残っていないので唯一法門寺だけが本物の佛舎利を持つ寺であるという。 尤も滋賀県の石塔寺も三重塔を阿育王塔といい,時代的には法門寺よりも遥かに後代のものであるが,似たような伝承を持つ。 どうもキリストの復活に対する議論と同様,宗教上の信仰に対しては口を挟まないのが賢明のようである。 1988年に再建された13層の塔の地下に入れば,塔の地宮の見学ができる。 宝物は別棟の法門寺博物館にある。 ここの門前で線香を売るおばさんたちの売込みが甚だしつこい。
入場料15元,法門寺博物館入場料18元。
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法門寺
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法門寺
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法門寺
楊貴妃墓
これは馬嵬(ma wei)という田舎にある。 安禄山の乱で京長安を逃げ出した唐玄宗皇帝(明皇)の一行は,この地で部下たちに叛かれ,楊貴妃(楊玉環)とその兄楊國忠を殺さざるを得なくなる。 これを「馬嵬の乱」と呼ぶ。 この黒幕は皇太子で次の王となった肅宗であるとの説が有力。 成都から再び長安へ復帰した玄宗は彼女が埋められた場所を探させるが,混乱の中で何の目印も残していなかったため,彼女の鞋が落ちていた所で霊を慰めた。 そこが現在墓とされている処。 西安から鳳翔,岐山,扶風方面行きのバスに乗り「馬嵬」で降り,歩いて僅かに東方へ引き返すと,直ぐに路傍にある門前の石段に出会う。 墓所には白居易が「・・・在天願作比翼鳥 在地願作連理枝・・・」と詠った長恨歌を毛澤東が書いた碑文が飾られている。 楊貴妃の白亜の塑像も近年のもののようである。 私が訪れた時も観光客のための休憩施設などを裏の方に建築中であった。 ここに限らず近年政府が観光資源へお金を投じていることが認識される。 このあたりは街道沿いの家や工場や僅かばかりの商店以外には,なだらかな傾斜地に畑が続く。
入場料15元。
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楊貴妃墓前の道路
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楊貴妃墓正門
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楊貴妃墓
周原遺址
ここが周人発祥の地である。 地名の周原から国号の「周」が取られた。 直接タクシーで行けば早く行けるが,バスを使うと現地到着までに苦労が多い。 以前長距離バスで乗り合わせた農村の青年から,ここへ行くには岐山縣の縣城 「鳳鳴鎭」から周原遺址へマイクロバスが出ているという話を聞いていた。 先ず玉祥門汽車站で岐山行きバスを探したが,今日はないという。 代わりにかなり南の蔡家坡鎭へひとまず行けば何とかなると思い,高速道路を通る宝鶏行きに乗る。 蔡家坡で降りたら,そこはまさに高速道路上,そこから鉄道駅のある蔡家坡鎭まで20分ほど歩き,運良く岐山行きのマイクロバスを見つけた。 着いたのはもう昼過ぎ。 岐山縣の縣城の道路は雪解けの泥だらけの道,周原遺址へ行くマイクロバスを探す時間が惜しくて,また仮にあったとしてもこの時期は一日二三回くらいだろうと見切りをつけ,タクシーに乗る。 また運のいいことにこの女性運転手が周原博物館の責任者であるお年寄りの方(賀世明さん)を見知っていたので,勤務しているはずの鳳雛村の「周原遺址文物管理所」 (但し,ここには文物は何もなく,みな陜西省博物館や扶風青銅器博物館や周原博物館などに保管されている ) へ行くが留守のため,狭い村の路地を車で自宅まで押し掛けた。 そこから寒い中を車に同乗して田舎道を踏破して各所に散在する周原遺址をほとんど全部案内して戴くことになった。 その時お礼として入場券並みの20元くらいしか差し上げなかったことを今でも申し訳ないと思っている。 そもそもここへ行きたいと思い立ったのは下記のような新聞記事を西安晩報(2000.01.07)<別紙 in Unicode>上で見つけたからである。 三千年前の西周時代(BC1066〜BC771)の遺跡に今でも新しい発見があることが驚きだった。
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西安晩報(2000.01.07)挿絵
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西安晩報(2000.01.07)



(1)岐山縣京當郷鳳雛村の南 西周甲組宮室(宮殿,宗廟)建築群
姫姓の周人の先祖古公亶が姫姓の部族を率いて彬縣から岐山の下の周原へ移住し,時代に城郭や宮室を修築した。 周太王(古公)・王季・三代百余年を経て文王の晩年商(殷)を滅ぼすために岐山からシ豊feng<現在の西安の西>へ移住する。 周の武王の時,東に進攻し,商(殷)を滅ぼして周朝を建てる。
北に見える岐山(1651m)は山形が二こぶ状に“分かれて”いるところからその名が来ている。 岐山の名は遥古の黄帝の頃に起源する。 歴史書に「鳳鳴岐山」の記載がある。織田信長が名付けた「岐阜」の岐は岐山から取られたのだと賀世明さんの説明あり。 この宮室は先周の周太王が建設した所,1976年から発掘が開始された。 西廂房2号室(亀室)の地下の窖穴(周王档案室) からは17,000余の甲骨片が発見された。東側の深い発掘坑には今でも穴の断面や底に瓦や瓦当(がとう)の破片が多く残る。 賀世明さんが掘り取ってくれた破片は今も私の本棚の中にある。 行った当時は元宵節(旧暦1月15日)の日で,村の舞台では演芸が催されていて大勢の村人が集まっていた。
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周原遺址(鳳雛村)「宮室平面図」
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周原遺址(鳳雛村)


(2)扶風縣黄堆郷雲塘村の西南300m 最近発見された大型建築基址群
ここが新聞記事が報道した場所。 畑の真ん中にある。 当時発掘したばかりで,未だ筵をかぶせてあった。 東西23m,南北13〜16.5 m。 鵞鳥の卵大の石が敷き詰められた石の道がこれほどきれいに保存されたまま発見されたのは初めてのことという。 西周中・晩期の貴族の宅院跡であると推定される。 台基の北約10 mの所に東西に壕溝が掘られているが,建物との関係は未だ不明。 このあたりはどこを掘っても何が出るとのことだった。
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周原遺址(雲塘村)
 
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周原遺址(雲塘村)
−卵石路面−
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賀世民氏とタクシー女性運転手
 
(3)扶風縣黄堆郷齊家村 東の 平民住宅及び制陶作房
小麦畑の中に古道の跡がある。 小麦畑の地面から5〜6m下の崖下に制陶作房の跡である灰坑が点々と残る。

(4)扶風縣黄堆郷召陳村の 大型中型建築基址群
西周中・晩期の貴族の邸宅跡である。 発掘されてから年月が経ており,今は埋め戻されて只の塀に囲まれた空き地に見える。 隣りに召陳村の「周原遺址文物管理所」があり,門前に周太王(古父亶)の塑像が立っている。 賀さんは『ここには何もないから管理所の看板の写真を取りなさい』とのことだった。
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周原遺址(召陳村)
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周原遺址(召陳村)
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召陳村 「周原遺址文物管理所」




D.西安市内篇
いずれも市内バスや自転車で巡ったところ。 青龍寺,半坡博物館,陜西歴史博物館,碑林博物館,興慶宮公園,唐天壇遺址,唐大明宮麟コ殿遺址,絲綢之路(シルクロード)出發地,易俗社劇場(秦腔)
青龍寺
空海(弘法大師)ゆかりの地。西安市,日本の四国四県,日本の高野山が資金を出して,1982年から三期に分けて青龍寺遺址の上に空海記念碑,惠果・空海記念堂と青龍寺公園(日本式)を造った。 雪の青龍寺もまた趣がある。 第3章の付属資料のバス便のところで触れたが,高台の上にあるこの地へ行くまでの道が意外と分かりにくい。
半坡博物館 (半坡遺址)
比較的小さい博物館。 古代の竪穴住居跡をすっぽりドームで囲っている。 別棟にある展示品の中に動物の骨で作った釣り針を見て,子どもの頃習った教科書を思い出した。 行った当時は冬の春節前,ほとんど観客がいない。 入場料20元に対して,50元札を出したら,お釣がない。 窓口のおばさんが,帰りに渡すからと入場券の裏に証拠文を裏書きしましょうと言ってくれたのだが,私は時間はあるから待つと言ったら子どもに近くの商店へ両替に走らせ,結局15分くらい待つことになった。 その間少しおばさんと話ができた。
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西影路から青龍寺方面への道
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青龍寺
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青龍寺 (惠果・空海記念堂)
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青龍寺 (空海のパネル)
 
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半坡遺址博物館
(遺跡がすっぽりドームで覆われている)
陜西歴史博物館
西安へ行くならここの見学は絶対欠かせない所と思う。 入場料は25元。
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陜西歴史博物館
碑林博物館
書の好きな人にはたまらないところであろう。 私には石像のほうが興味があった。室内撮影禁止なので,西安で買った安いカメラで盗み撮りしたら,失敗した。 入場料は20元。
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碑林博物館
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碑林博物館(石亀)
興慶宮公園
唐の興慶宮があった所。 玄宗皇帝(明皇)の即位前の私邸であった所を,彼が皇帝になったとき興慶宮と改めた。 とてつもなく広い。 ほぼ街の1ブロックがすべて公園なのだ。 写真は第11章にも載せた。 玄宗と楊貴妃が共に花を愛で,歌をうたったという沈香亭もある。 最初バスで行った時,その路線のバス停「興慶宮公園」は北口にあり,そこには入口もなく,東の門までてくてく歩いて入った。 なお正門は南側にある。 日本人には何と言っても阿倍仲麻呂の歌碑であろう。 入場料は12元。
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興慶宮公園の沈香亭,旧正月に秦腔(京劇)を上演中
唐天壇遺址
外院と陜西師範大学のある師大路のもう一つ南の通り天壇路にひっそりと残っている。 草木が生い茂る小さな丸い丘である。 すぐ近くに女子大生用の小さな寮らしきものあり。
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唐天壇遺址
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唐天壇遺址
唐大明宮麟コ殿遺址
 
北大街を北上し城外の北關正街から龍首村あたりで東に入るルートがタクシーも入れるアクセスのようである(私は自転車で行ったが)。 門前でこどもたちが凧上げに興じていた。
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唐大明宮麟コ殿遺址
 
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唐大明宮麟コ殿遺址
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遺址の隣りの空き地で
凧上げに興じるこどもたち
絲綢之路(シルクロード)出發地
長安城の西北西端の門,開遠門があった所。 今はそれを記念するものとして,駱駝を連れた商人の隊列の石像が並んでいる。
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絲綢之路(シルクロード)出發地
易俗社劇場(秦腔)
北京でいう京劇,四川でいう川劇,浙江省の越劇に対応する中国西北の古典芝居を秦腔qin qiangという。 ここは観光名所とはいえないが,秦腔が上演される芝居小屋である。 入場料は甲席(前)25元,乙席(後)20元くらいだった。 見物に行った日の出し物は「火焔駒」。 舞台の上部に扁額が掲げられてある。 「彈獨調古」(右から読むこと)の字の下に数人の寄贈者の名前が記されている。 その中に周樹人という名前がある。 魯迅である。 中華民國13年8月の日付があるので,1926(昭和1年)のことである。 魯迅は1924年現在の西北大学へ来て講演をしている。
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易俗社劇場 (屋根の部分)
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易俗社劇場
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1999年12月31日の中心街 鐘楼


西安生活地圖集 XI‘AN LIFE ATLAS (1997年8月第2版 中国地圖出版社 39.5元) の中に,「唐長安城區街坊歴代史蹟圖」というページがあった。 長安の市街地図上に安禄山宅白居易宅というマークがついていたので,無駄とは知りつつぼろ自転車を漕いで調べに行った。 現在の地図と重ね合わせると安禄山宅は建設大学という大学の構内にあったことになる。 白居易宅は,今は太乙路の東の坂のある汚い路地裏の一角にかつて存在していたものと思われる。 むろん記念碑も何もないが,「昔の光今何処」と歴史の一頁を覗いた気分がした。



見残したもの

見残したものは多い。挙げればきりがないが,革命の基地であった北方の 「延安」,神話上の伝説の帝王の陵「黄帝陵」,三国時代 死せる諸葛亮孔明が”生ける司馬仲達を走らせた”古戦場「五丈原」鎭,秦始皇帝の宮殿があった「阿房宮遺址」,周の都城の跡 「鎬京」「豊京」。 それから,私の興味を掻き立てたものの一つが,漢の武帝が作らせた広大な「昆明池」のあった「漢昆明池遺址」。 昆明と言えば今は,西太后が巨費を投じた有名な北京の頤和園の中の昆明湖のことを連想するが,既に同じ名前のはるかに広い人工湖を武帝が作らせていた。 今は往時の湖畔の東岸と西岸の位置に高さ3mほどの石像が立っているという。 牛郎と織女の像であるが,何を刻んだものかも判然としないほど2000年の歳月を経て風化が進んでいるらしい。

最後に,西安観光の目玉,兵馬俑の写真を掲げてこの章を閉じる。但しこれらは中国留学の前年,日本からツアーで行った時のものである。
bingmayong_01.jpg
兵馬俑博物館
一口メモ

(a)幼児用の紙おむつは中国語で紙尿褌という。

(b)西安の玉祥門の名の由来
国民党軍のhanzi_feng.gif玉祥将軍 (1882〜1948)の名前から来ている。 1926年北洋軍閥の劉鎭華率いる“鎭嵩軍”が西安城を包囲して八ヶ月に及んだ時,hanzi_feng.gif玉祥将軍が西北国民聯軍を率いて劉鎭華を撃ち破り,囲みを解いた。 この功績を称えてこの地を玉祥門と呼んだ。 ただ1928年にはこの路は既に開通はしていたが,城門はなかった。 現在の城門が建設されたのは1996年のことである。( 「帯hanzi_ni.gif游西安」<陜西旅游出版社 1993年6月第1版>による)

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