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西夏王陵

第11章 春節と銀川市への旅


春節の前のこと
この年2000年の春節 (旧正月)は太陽暦の2月5日にあたり,中国全土はこの日の数日前から旧正月の第10日目(初十)過ぎまでは所謂お正月休みに入る。 この時期に観光旅行するのはかなりの程度の不便を覚悟しないといけない。
私は敦煌から帰るとすぐに2月1〜2日 省内の韓城へ一泊の旅に行った。 ここは史紀の作者司馬遷の故郷で彼の墓もあるところである。 ここは次の章で紹介するとして,以下ではその次の2月7日からの銀川(ぎんせん yinchuan)への旅行のことを記す。
韓城から帰って風邪と下痢にかかり学内のクリニックに行く。 陽気な女医のおばさんが話の枕にいきなり 「中国をどう思うか? 貧しいだろう。」などと言う。 当日と次の日にペニシリンを一本づつ注射してもらう。費用は約30元。
春節前から街は新年を迎えるお化粧が商店街や公園や大通りで始る。 太陽暦のお正月前もごく一部でそういう雰囲気があるが,春節の比ではない。
大年三十(大晦日=2月4日)には留学生のために留学生専用食堂「友誼会館」で餃子を作って食べる会が催され,私も餃子を包む真似ごとを生れて始めてやってみた。 若い人もけっこう楽しく挑戦して盛り上がっていた。
2月5日の午前零時前に西安市内でも南門で歴史物の一大ページェントが行われ,室友HS君も元気のよい仲間のバキスタン人学生たちと夕方から見物に出かけた。 若い人もそれぞれ出かけて行ったようであった。 私は大晦日の前日に市内の中心街へ買い物に行き,余りの人出と寒さに閉口し,早早に帰宅した覚えがある。 後で人に聞くと大晦日の当日夕方6:30頃から深夜1:00頃まで,混雑防止策として車による市街地城壁内への進入と退出が規制されたので,帰るに帰れず,深夜すぎてから寮まで歩いて帰ったという話を聞いた。 私は部屋でテレビを見ながら,全国各地の春節を迎える現場中継放送をずっと見ていた。 江沢民の演説が始った時刻くらいから,窓の外から遠雷のような爆竹の音が間断なく聞こえてきた。 零時を過ぎて10分くらいまで続いていたように記憶する。
2月6日 春節恒例の興慶宮公園の舞龍(or游龍)なるものを見物に行く。数日前に興慶宮公園へのアクセスを“実地検証”したとき,入場切符売場に春節休暇の期間それが行われるという掲示が出ていたので一度見て置こうと思ってのことである。家族連れが圧倒的に多かったが,思ったほどの人出はなかった。
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西安 興慶宮公園の門前の賑わい
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公園内の春節用の飾り
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興慶宮公園の舞龍(or游龍)
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興慶宮公園の舞龍(or游龍)
その日その足で銀川への旅行に出掛けた。 銀川は井上靖の小説「敦煌」にも出てくる西夏王国の首都であったところであり,中国のピラミッドといわれる王陵が残っている。 西夏は独特の西夏文字を造り出した国である。もう一つのお目当ては,有名な張藝謀の名画「紅高粱」(紅いコウリャン)の撮影が行われたセットがそのまま映画村として保存されている場所である。


2月6日夜〜2月10日朝 銀川市への旅
銀川市は陜西省の北方,寧夏回族自治区の省會(省の首府,省都)である。 寧夏回族自治区の人口の約三分の一が回族である。 しかし回族は多く田舎に住んでいて,市内にはそれほど多くない。

西夏は古代に西北地区に居住した羌族の一支族,党項(タングート)族の造った国である。 5世紀南北朝時代末に頭角を現す。 はじめ現在の青海省東南部にいたが,唐初には四川・青海・西蔵の交わるあたりの草原に住むようになる。 党項(タングート)族の中でも拓跋氏が主導権を握るようになり,やがて彼等は東へ移動して来る。 唐末期 黄巣農村起義軍鎮圧に功があったため唐朝より酋長拓跋思恭が定難軍節度使の位と李姓及び爵号夏国公を賜る。 1038年李元昊が即位し国号を「大夏」と称し,都を興慶府(現在の銀川市)に置く。「西夏」とは「宋の西にある夏」という意味の他国から見た呼称である。
唐 (618〜907)
五代十国(907〜979)      金(1115〜1234)
    遼 (916〜       1125)  
          西夏(1038〜       1227)        
    北 宋 (960〜1127)         南 宋 (1127〜1279)
元 (1279〜1368)
西夏は唐・宋の文化を積極的に吸収し,また佛教に対する信仰も大変篤かった。 最盛期の国の版図は今の寧夏回族自治区・内蒙古・甘肅省西北部(敦煌のあるあたり)・青海省の北部にまたがる広大なものであった。 1227年チンギスハーン(成吉思汗)率いる強大なモンゴル軍によって攻め滅ぼされる。 因みに1227年(嘉禄3)日本では第8代執権北条時宗の父で第5代執権になる北条時頼が誕生している。
モンゴル軍は西夏の復讐を恐れて西夏を徹底的に破壊し殺戮した。 元朝になっても宋・遼・金の紀傳体專史は作らせても西夏にはそれを作ることをしなかった。 ために西夏の歴史は他の史書の「西夏傳」の中に記録されるのみである。 モンゴル軍は西夏征服戦争を六度遂行し,チンギスハーンはその六度目の途上今の甘肅省清水で死去している。 その遺言は西夏にとって大変厳しく苛酷なものであったようである。


2月7日
朝 銀川駅に着いてすぐ,翌翌日の帰りの切符を買ってから,@路又はJ路バスで約30分かけて市街地へ,目星をつけていた安いホテル「銀川賓館」へ行くと,今暖房が故障しお湯が出ないといわれ,近くに別のホテルを見付けて聞くと,正月休みで営業していないという。 次の候補と考えていた「銀川飯店」まで三輪人力タクシーで行くと,本当は冬休み中で,暖房はあるが熱いシャワーはない,それでよければ泊めてくれるとの返事。 ここに80元×2泊でチェックインしたが,私以外に他には客もなし。
本日の観光スポット
海寶塔(海宝塔,通称「北塔」)
銀川の北の郊外にある。 五胡十六国(東晋十六国)時代 匈奴の夏王朝初代の赫連勃勃により建てられたと伝えられる。 現在の塔は清代に再建されたもの。 私が行った当時 塔の東を南北に走る幹線道路を拡張建設中であった。 今はスムーズに行けるようになっている筈。 入場券を買おうとすると,窓口の老人から『・・証はないのか?』と聞かれ,分からないと言うと,耳が遠いと思われたらしく,一段と大きい声で『証,老人証・・・・』と言われたので訳が分かった。 老人身分証を持っていると大割引乃至無料なのである。 つまり私は充分老人に見られたということである。 退役軍人にも同様の恩典があることは別の場所で見聞した。
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海寶塔(海宝塔,通称「北塔」)の正門
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海寶塔(海宝塔,通称「北塔」)
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塔上からの俯瞰
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屋根瓦の曲線美
 
帰りは何の交通手段もないので,市内まで歩いて帰り,承天塔 俗称「西塔」を敷地内に持つ寧夏博物館へ足を伸ばすが,翌日まで休館中。食事は幸い近くに「寧豊餐飲娯楽廣場」という大きな中国式ファーストフードの店が営業していたので大いに助かった。


2月8日
当日はタクシーであちこち廻るつもりで,街中で一台と交渉し,150元で合意した。 尤も観光が終了したあと最後には175元払うことになったが,かなり遠いところまで行ったので仕方なしと諦めた。 気が弱いのでしつこい値切りは苦手。
本日の観光スポット
西夏王陵
アクセスは全く問題なし,西の郊外にある広い道路が通じている。まずはお伽の城のような新しい西夏博物館の中で参観者一同そろって“講解員(解説員)”の小姐から解説を聞く。ここはもともと研究所があったところらしい。 パネルや展示品もよく整っている,展示品は当然すべて模造品ではあるが。 20世紀初め内蒙古の黒水鎭から大量の西夏文字文書が発見されたが,ほとんどロシアが持っていった。 現在西夏文字の研究が最も進んでいるのはロシアと日本であるなどという説明もあった。 解説は30分程度で終わり,あとは外へ出てご自由に3号陵を見学くださいという。 王陵はこの付近一帯に9号陵まで発見されているが,7号陵だけが仁宗の寿陵と比定されているだけで,その他は推定であり,異説もある。 3号陵は李元昊すなわち景帝の泰陵ではないかと言われている。滅ぼされた王朝の悲劇であろう。
1960年代までは一部の王陵は牧羊地にされたり,また王陵の周囲にある多くの陪葬墓(臣下の墓)の中には,壊されて整地されたものもある。 1970年代になって本格的な発掘が開始された。
☆西夏王陵 3号陵 平面図を参照

王陵内城の最奥部にある陵台は,今は高さ20m強の八角形の錐体で,巨大な黄土製の藁ぐろ状の盛り土にしか見えない。 しかし往時は瑠璃の屋根瓦を戴き,煉瓦壁で覆われた華やかな塔であったそうである。 全体構造的には唐・宋の王陵の構築方式に依っているが,西夏独自の点もある。
一例を挙げれば,宋の陵台は土を叩き固めた長方形の覆斗式で,陵台は内城の中心線上にあり,かつ陵台の下に墓室がある。唐の陵台の中には乾陵のように自然の丘そのものを陵台にしているものもある。 しかし西夏の陵台は,上記のように塔の形をしており,内城の中心線から少し西へ偏った位置にあり,墓室は陵台の前,約10mくらいの位置に置かれている。 これは佛教信仰から来ている。少しでも西方浄土に近くして,神聖なる塔の下には王の遺骸を埋葬しないものとしたようである。
3号陵の碑亭にあった碑座の石像は,実物は市内の寧夏博物館に保管されているが,ここ西夏博物館入口正面に,数倍に拡大された石膏の模造品が置かれている。 縦方向に極端に圧縮された裸体の男女双像で,顔が異常に大きい。まるでインカかアステカ文明の遺品のようで,人の目を引き付ける。
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西夏王陵の西夏博物館
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西夏王陵の「闕台」
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西夏王陵の「陵台」説明板
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神門越しに見る「陵台」
鎭北堡西部影視城 (映画村)
ここはもともと明代の要塞の跡であったところ。 中には映画のセットが撮影当時のまま保存されている。 周囲が黄土の荒れ地であるので,まるで西部劇に出てくる砦のような感じがする。 ここで撮影された映画は,47本あり,入口横のパネルに一覧表が書かれている。 最も有名な映画は第3番目に撮られた「紅高粱」で,保存されているセットもその関係のものが多い。 私も田舎家のセットの室内の壁に貼られている主演女優・鞏莉(コン・リー)の写真の前で記念の写真を撮ってもらった。
要塞の外には“騎馬”や“騎駱駝”を楽しむ場所もある。
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西部影視城の入口を入ると目に付くもの
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西部影視城の全景
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映画「紅高粱」の「月亮門」
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城内に残る"大躍進"時期の「土高炉」遺址
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「紅高粱」の「家」のセット
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「紅高粱」の「酒場」のセット
賀蘭山岩画
ここは車が入れない山地にあると聞いて,断念した。 原始時代の人間が岩に刻んで描いた画があるところ。 行かなくても,寧夏博物館に詳細な展示館があるので,これを見れば大体分かる。
宏佛塔 (賀蘭山岩画の代わりにここを選択した)
ここからも多くの遺物が発見されたそうである。 今の塔は綺麗に修復されている。 修理前の無残な姿の写真が寧夏博物館にある。市街地の東北方向,賀蘭縣のかなり田舎の畑の中にある。境内には芝居を演じることができるような宏佛塔劇場という舞台もある。わが運転手氏も道を聞きつつたどり着いた。 境内は一応柵と塀で囲まれて,番小屋に守衛さんもいる。 特に説明板もなく,入場料を取るような所でもない。 運転手氏が番小屋に声をかけて挨拶し,そのまま入ることができた。
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宏佛塔
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宏佛塔
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宏佛塔境内の劇場
道々話しを交わした運転手氏も日本の所得の大きさと物価の高さ,高級電気製品や自動車の相対的な安さについては情報を持っていた。 日本の住宅建設費用は100uあたりいくらかと聞かれて困った。後日西安の町角で貰った某マンションの宣伝ちらしには,100uあたり最低16万元,平均22万元とあった。日本円にすると220万円,300万円になる。
分かれ際に聞いた餃子のうまい店「仙酔亭」で夕食代わりに餃子を最小発注単位の四兩を頼んだら20個くらいあり,無理無理平らげたら,腹の調子がおかしくなった。
正月のこと,そんなに食べ物屋が営業していない。翌日朝は繁華街にある麦当勞(マクドナルド)にそっくりの美国夏威夷漢堡(アメリカハワイ・ハンバーグ)という軽食店で食事をした。若い人で賑わっていた。


2月9日
本日の観光スポット
寧夏博物館(俗称 西塔)
正月休み後本日から開館,私が最初の入場者。 あまり客も来ない。館員の紳士がほとんど私につききりの形で質問に答え説明してくれた。 館内には回族文化展示館もある。 彼等が主に海のシルクロードで西方から来たこと,時期としては唐代から始り特に元時代に大量に渡来したとパネルに説明があった。 館員氏は彼等は“凝集力”,言いかえれば仲間意識が強いと言う。 彼によれば日本人もそうだとのこと。 少人数で海外へ出れば,どの民族でもそうなるのではないかと反論したかったが,うまく中国語が出てこなくて,もどかしかった
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寧夏博物館内の承天塔
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寧夏博物館の入口
玉皇閣・鼓楼・南門廣場 など
市内の見物をする。 南門広場では凧あげや大道芸がおこなわれていたり,子供連れの人々が多く出歩いている。銀川火車站(銀川駅)は比較的新しい建物のようである。 駅構内の床におがくずを撒いては丁寧に掃除をする光景を目撃したが,珍しく且つ新鮮に見えた。駅前の広場に色んな食べ物を売る屋台が営業している。 腹下しの身には稀飯(おかゆ)が有り難かった。午後3時17分の列車に乗る。
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玉皇閣
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鼓楼
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南關清眞大寺
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南門廣場
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「美国夏威夷漢堡」店
(アメリカハワイハンバーグ)
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銀川火車站(銀川駅)
 
2月10日朝
西安着07:50。 寒いところから帰って来た所為か,随分暖かく感じた。 駅前の屋台でまた稀飯(おかゆ)とバオズ(包子)の朝食をとっていたら,若い学生と思われる男女に話掛けられた。 私を西安に初めて来た外国人の旅行者と見て,兵馬俑に案内しようとしたように思われる。 彼等としばらく英語と中国語で会話していた。 屋台の娘さんがあとから彼等はあなたの友達なのかと尋ねられたから,よほど親しく見えたのかも知れない。但し列車内で交わされる方言はさっぱり聞き取れないことは,いつもの通り。
寮に帰り,昼には日本人学生KT君の部屋で日本人学生数人と彼の調理したインスタントカレーライスを御馳走になる。 日本食に飢えているから文字どおりの大御馳走であった。
一口メモ

中国人の写真好きは有名です。 ある中国人学生が学友のガールフレンドを連れて部屋へ来たとき彼女が両親に作ってもらったというアルバムを見せてもらったことがあります。 洋風のドレス・中国伝統服旗袍(チーパオ)・日本の和服などをモデルのように着た全く個人的な写真集で400元(約6000円相当)もしたそうです。 月収の額からみて相当な比率を占めるはずのこの金額は一人っ子に注ぐ親の愛情の量を示す一例でしょう。

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