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厳冬の玉門關遺跡にて

第10章 敦煌市への旅


真冬の敦煌に行くのは人には絶対勧められない。 しかし学期終了後の期間しか残されていない私にとっては致し方のない選択であった。 今回は経費節減のため汽車で往復することにし,切符の手配は西安長安北路の「二環」に近いところにオフィスを構える「陜西海外旅游公司」の日本部に依頼した。バス停なら“体育場”で下車するとすぐの所。ここの存在はM先生に教えられた。 手数料は高いが,こまめに連絡してくれ,信用が置けるところである。 代々「外院」の日語系の卒業生を採用しているようだ。 私を担当したのも卒業したばかりの劉雨薇さんであった。
もう一つ有利なことは,ここでは帰りの切符も手配してくれる点である。といっても実際には「陜西海外旅游公司」が敦煌の旅行代理店に手配を依頼するのであり,「陜西海外旅游公司」の指示に従い,帰りの切符を証拠書類持参で自分でそこへ受取りに行かなくてはならない。その切符は通常の切符ではなく,「代用票」(写真下中央)という名前の切符である。初めて見た時はこれで乗れるのか心配になったほどである。そして敦煌の旅行代理店へも手数料を先払いする必要があるから,随分高くつくことになる。
鉄道の切符を鉄道駅以外の販売所で購入した場合の切符代+諸経費の事例は下記の通り。
  金額 備 考
206元
3元
50元
硬臥票 (2等寝台) ------<写真(左)>
西安車站送票服務費 ------<写真(右下)>
「陜西海外旅游公司」手続費
345元
10元
50元
50元
軟臥票 (1等寝台) (代用票)------<写真(中央)>
烏魯木齊(ウルムチ)鉄路局柳園站延伸服務收費 --<写真(右上)>
「陜西海外旅游公司」手続費
敦煌的「太陽能旅行社」手続費
714元  
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火車票
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代用票
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烏魯木齊鉄路局柳園站
延伸服務收費憑据(拾元)
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西安車站送票服務費
(参元)
1月25日〜1月26日

本当は新疆省烏魯木齊(ウルムチ)の手前の吐魯番(トルファン)まで行きたかったが,日数が多くなり次の小旅行の日程と重なるので,敦煌だけにとどめた。それでも片道36時間を要する。
西安発庫爾勒(コルラ)行きの367列車で10:26amに出発し,翌日夜遅い22:18pm 柳園駅(2004年現在 敦煌駅と改名,以下同じ)に到着,ここは交通上の拠点である以外には何もない砂漠の中の小さな町。当夜は柳園駅前の柳園賓館に宿泊。
列車の車中は満席,中国人の家族連れが多かった。 春節前に故郷へ帰る人の移動がすごいと聞いていたがその通り。また彼らはよく食べる。中には食べ過ぎて吐いた子どもまで出る始末。
我慢と忍耐の一昼夜半が過ぎて,駅へ降り立ち外へ出ると,タクシーが寄ってきて30元で敦煌までどうだと勧誘する。予め電話で予約を入れて置いた柳園賓館も,ネオンが消えていて探すのに苦労する。標準間で一泊82元。ここは帰りにも一泊した。フロントの娘さんも割と愛想がいいので気分よし。シャワーの熱水供給時間は9:30pm〜11:30pmのみ。

1月27日

中国は北京標準時間で統一されているが,ここはかなり西に寄っているから,実質1時間は日出が遅い。 柳園から敦煌まではバスで本来約2時間の行程である。バスターミナルに予定時刻の9時前に行く。料金は10元。 中型マイクロバスはそこから柳園駅へ行き,駅前の旅館から出てきた客を拾い,再びターミナルへ引き返し,そこで運転手は姿を消し,車は一向に発車する様子がない。客(中国人ばかり)が怒り出し事務所へ押しかける。 どうやらその車の運転手は客が満員にならないので,行かないと言ったらしく,別の車と運転手氏が行くという(らしい)。言葉がさっぱり分からないので,不安ながらとにかく皆が動くように後に従って動くしかない。この車輌交換のどさくさで私は財布を落としたことに敦煌に着いてから気づくが既に手後れ。幸い三分割してリュックの中にもお金を余分に持っていたので,不自由はしなかったが。バスの中でも遠慮なく床に唾を吐く客がいる。
海のような砂漠の中を突っ走りオアシス都市敦煌に着いたのは正午を回っていた。 さすがに寒い。じっとしていると脳の中まで寒さが侵入してくる感じ。 コートのキャップフードを被って歩かないと耳が霜焼けになりそうである。 しかし雪は全くない。 敦煌の長距離バスターミナル近くの「友好賓館」へチェックインする。 正面玄関が風除けの黒いシートですっぽり覆われていて,まるで「本日休業」といった風情。 客もあまりいない様子。 とりあえず一泊40元を前払いする。 きれいとは言い難い部屋だが寝るだけの場所なのでここで充分。 但しここも客に合鍵を渡さないので,自分の部屋へ出入りする度に服務員の娘さんに頼まなければならないのは,田舎のホテルによくあるタイプ。フロントで,「莫高窟」を見物するためのタクシーの手配を依頼する。

午後の観光スポット
莫高窟
土産物屋も陳列館もみな休業中。 観光客などいないだろうと思ったら,それでも七八人の観光客が莫高窟の入口にいた。 夏ならいる日本語ガイドも今はいない。 拝観料は50元だが,学割が効いて半額になる。 研究員風のガイド氏が出てきて案内してくれるというので,中国人観光客に混じってついていく。 全石窟492窟のうち通常コースとして拝観できる石窟は:
  • 16,17窟(蔵經窟)
  • 328窟
  • 329窟(初唐)
  • 427窟(随代)----飛天像
  • 428窟(北周) ----壁画にはインドの影響が見られる
  • 231窟(中唐)
  • 珂羅版(コロタイプ版)の画像
  • 96窟----大佛(26m)−−唐,西夏,宋三代の壁画
  • 148窟(盛唐)---- 涅槃像(AD775)

※最も有名な美人観音のある57窟は別料金の特別コースとのこと。
※聖徳太子の「天壽國繍帳」の阿彌陀佛のモデルが393窟にあるという。

石窟付近はより寒く,余りの寒さのためか,ガイド氏は説明もそこそこにどんどん回っていく。 同行してくれたタクシーの運転手氏は「夏はもっと丁寧に説明してくれる」と言う。 客の方も寒さでじっくり見る元気がない。 私が日本人と気づいたガイド氏が簡単な日本語で補足説明を少ししてくれた。 崖全体が壮大な寺院であることを見聞しただけでも,ここへ来た価値はあると自分を慰めた。
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莫高窟
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莫高窟
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莫高窟
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莫高窟側から向こうの丘を見る
 
鳴沙山月牙泉
車止めの柵の所で進入を制止されるが,5元払って入口まで車で入る。 観光客の姿は皆無。 入場料20元払い,入る。 門の付近に客待ちの駱駝が数頭いる。 その辺で砂の丘の写真を撮っていると,バイクに乗り皮ジャンパーを着てカメラバッグを肩から下げたカメラマンらしき風体の男性が10元で,月牙泉まで乗せて往復してやるというので,話に乗る。 ものの数分で砂丘に囲まれた月牙泉に着く。 手慣れた様子で私の立つ位置を指示して私のカメラで写真を撮ってくれた。
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鳴沙山
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鳴沙山
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月牙泉と鳴沙山
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月牙泉(背後の小さな池だが凍結していた)と鳴沙山
 
夕刻,「雅月軒」へ電話しようと思ったが,中国語での電話は自信がないので,敦煌第一のホテル「敦煌国際大飯店」のフロントへ行って代わって電話をしてくれるよう頼んだ。 「雅月軒」とは名古屋中国語教室の“同学”Kさんの知己のHYさんという方が経営していると聞いていた料理店で,そのHYさんが以前勤めていた職場がこのホテルという関係がある。 「雅月軒」へ顔を出してちょっと挨拶だけでもして置こうかという積りであった。 最終的には自宅に電話が通じて,思いがけずHYさんと彼女の夫ZR氏が揃ってホテルへ顔を見せてくれた。 恐らく既に夕食を済ませていた二人は私を食事に招待してくれた。 聞けば,春節前で店は閉めており,たった今旅行から帰ってきたばかりとのこと。 ZR氏は今は敦煌の飛天国際旅行社に勤めている。 食事のあとZR氏はかなり強引に,電光石火,私に飛天賓館のデラックスな部屋を取ってくれ,更に翌日 玉門關・河倉城・漢長城を見たいとう私のために友人の車(サンタナ)の手配まで面倒を見てくれた。


1月28日
本日の観光スポット
玉門關
河倉城
敦煌博物館
ZR氏とハンドルを握る友人氏とHYさんと私の四人で一路西へ出立,郊外に出たあたり,七里鎭というところでは青海石油公司の従業員社宅の増設工事中である。 砂礫の原の中,我々が走る舗装道路だけが一條真っ直ぐ伸びている。 そのまま進めば「陽關」だが,車は北東へ進路を変更,舗装が尽きたところに有料道路の料金所がある。 これがいわばこの観光地の入場料にあたるのかもしれない。
通行料金のメモ から
 
44席のバス------------100元
8トン以上の車-----------60元
5トン以上の車-----------50元
4トン以上の車-----------40元
3トン以上の車-----------30元
2トン以下の車-----------20元
今走っているのはゴビ砂漠(戈壁灘gebitan)で,ゴビ(戈壁)とは石ころや砂や駱駝草(球のようにからまって転がる草をそう呼ぶらしい)の入り混じった平地を言い,「沙漠」(shamo,砂だけの平原)ではないとのこと。 玉門關は敦煌から75km,約2時間の所にあるが,一旦ここは通過し先に河倉城へと急ぐ。河倉城とは古代玉門關や烽火台に駐屯した兵士たちの為の食糧倉庫として丘の上に築かれたもの。 今は粘土の壁が残るのみ。しかし,私には玉門關以上に感動を与えるものであった。 このあたりに来ると,原といってもかなり起伏がある。 しかしコブのような小さい丘の頭が,計ったように同じ高さに削られている。 強い風のなす大自然の技巧であろう。 寒さで頬が痛い。 帰路玉門關に寄る。 むろん今の時期観光客など来ているわけがない。 市内に戻り昼食の後,飛天賓館でみなさんに別れを告げる。 本日の車代として,安くしてもらった450元をお支払いする。

春節前の市場の賑わいを見つつ,敦煌博物館に行くが,どうも実質的に正月休みに入っているもよう。 門衛のおばさんが室内監視員の娘さん二人を駆り出して来て,私一人のために玄関を開いてくれた。 玉門關や漢代の長城の版築方式の模型による説明資料がある。 地上部分は蘆葦梱や蘆葦層と沙土・礫石(泥と小石)の厚い層とを交互に積み上げ固めてあり,沙土・礫石の中には蘆葦縄が混ぜてある。 地下部分は胡楊柴を羅布麻でサンドイッチ状に押し固めてある。 入場料10元
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玉門關
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河倉城
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河倉城
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春節直前の敦煌の市場の賑わい
当日は夕刻柳園まで帰り,柳園賓館に一泊。翌日29日朝代用切符を持って列車に乗る。西安近郊から敦煌に働きにきている若者3人と同室になる。彼らはこれから約2週間の春節(旧正月)休みに入る。 1月30日夜,西安に帰着。

一口メモ

カードの種類:スペード(黒桃) spade,クラブ(梅花) club,ダイヤ(方片) diamond,ハート(紅桃) heart

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