私の部屋から撮影した雨の日の漢学院新楼の
正面ロビーの屋上
新楼の北側,狭い道路越しに見た風景, 大きい建物は
中国人学生の寮の一つ
漢学院の定例行事として,毎学期 秦始皇兵馬俑博物館の見学と陜西省内外への遠距離旅行が行われる。
前者は9月18日の小雨交じりの日であった。 参加費は50元。 学院からは高速道路で約1時間くらいの臨潼区にある兵馬俑博物館見学のあと,秦始皇帝陵の近くでは一時停止のみ,陵には登らずに華清池へ直行。 ここでは蒋老師がいろいろ説明役を買って出てくれ,西安事件のときの窓ガラスに残る弾痕などのエピソードについて知ることができた。 又来る途中に通過した橋(baqiao サンズイ+霸)について蒋老師から,ここが古来ここが長安を去る人を見送る一番遠い境界であったと教えてもらい,これも歴史の勉強になった。
実は兵馬俑も華清池も,この前年ツアーで西安に来たときに一度見学したところなので,なつかしいという感じで見て回った。 ここ臨潼区には,そのほかに項羽と劉邦がスリリングな会見をした鴻門之會の遺跡がある。 一度行きたいと思いながら結局果たせなかった。
ある日学院のロビーを通り掛かった時,韓国人のL君にいつもの口癖で“イマダサン”と呼び止められた。 彼は一人のいい身なりの中国人の青年と座り込んで話しをしていた。 聞くとその青年,といっても30歳前後と見受けたが,日本語かできるという。 家庭はクリスチャンだが,日本文化に大変興味があるという。 山口百恵はもちろんであるが,高倉健の名前,映画監督の黒沢明の名前も知っていた。 中国語の発音で言われるので直ぐには分からなかったが。 更に驚いたことは最近の韓国映画もよく見ていることで,「西便制(ソピョンジェ)」というパンソリをテーマとする映画も見ていた。 名前が思い出せないが,その主演女優が好きだというので,「呉貞孩 オジョンヘ」のことかと言うと,そうだとの答えだった。 予想もしなかったことだったので,変わった人もいるものだと思ったが,映画という娯楽芸術の影響の大きさも実感した。
10月1日(金曜日)は国慶節。 この日の前には校庭でパレードの練習をする学生の姿がよく見られた。 国家の休日としては2000年以降一日から三日になったが,実際上取られる休暇は,ここへ休日を振り換えることで土日を含め約一週間くらいある。 漢学院も10月1日(金曜日)から10月9日(土曜日)まで休み,この間に 「語言實践」 と銘打っての遠距離旅行が実施され,私も参加した。 10月10日(日曜日)には授業があった。
研修旅行は10月4日夜 夜行列車で出発し,陜西省の北隣りの甘肅省蘭州へ行き,以後バスで臨夏市,劉家峡水庫,炳靈寺,夏河,蘭州と巡り,10月9日(土曜日)朝 西安に帰着するという,かなりハードな旅であった。 蘭州以外は,甘肅省の中の臨夏回族自治州と甘南蔵族(チベット族)自治州の一部を通過したので,中国の中のエキゾチックな場所を巡ったことになる。 黄河が側を流れる平地の蘭州から3000m近い高地の町までを周遊したので,日本で言えば長野県・岐阜県一円をバスで上へ下へと駆け巡ったようなもの。 一行の人数は我々新入生とアメリカ人の短期留学生で約40名。 自己負担費用は720元。
出発前の学院ロビーにて (左)Miss.朴 (中)私
(右)Mr.金<日本留学希望,歌の名手>
10月4日夜 20:20pm西安発〜10月5日朝 09:00am蘭州着
中国で硬臥車(二等寝台車)に乗るのは初めての経験である。 侯車室(待合室)での立ちっばなしの時間待ちもまた楽しいもの。 昔昔の修学旅行の気分を思い出す。 乗車時間になると,改札つまり検札が始めるという合図の列車番号案内ランプが点き,急いで行列を作り,その場で改札を受けてから,早足でプラットフォームへ進む。 改札のとき外国人はパスポートを見せなければならないと,誰言うとなく言うので私も他の学生に倣って切符とパスポートを出したが,後から考えると何もパスポートなどを見せる必要はなかった。 発車後しばらくして車掌さんがやって来て乗車券と引き換えに青いプラスチック牌(座席番号札)を渡してくれる。 これをなくすると数元弁償する必要がある。 乗車券は下車の30分くらい前に,プラスチック牌との交換で返してくれる。 硬臥車(二等寝台車)の寝台は上中下の3段である。 車中では消灯時間(22:00時頃)までカードをして時間を過ごす。
蘭州駅前で貸し切りバスに乗車。 蘭州市内で朝食を取る。 食堂は麺が日本のものに似ているという「馬子禄牛肉面館」。
バスで移動開始,途中「康家崖」というところで小休止,ここで “本格的な”中国式公衆トイレを初めて利用。 料金2毛[=2角]。 いつの間にか道を歩く人は殆ど白い円帽を被った回族ばかりになる。
15:30pm臨夏 (ling xia)市到着,遅い昼食の後,街を散策。 夕刻回教寺院「大拱北 dahongbei」を参観。
臨夏市 回教寺院「大拱北」の中庭にて
清眞宗派に三派あり,@老教,A新教,B三秦教。 ここは@に属する。 教祖から第29代目の人がこの派を興した。 「大拱北」は清の康煕12 (1694) 年に創建,1950年に一度破壊されたが,1981年再建された。
この街の商店は早々と閉まる。 お祈りの時間帯なのかもしれない。 散歩の途中,土産物店で飾り小刀を35元で買う。付添いの学院の老師がまけるように交渉してくれたが,埒があかず。次の日夏河 (xia he)へ行ったら同じようなものをどこでも安く売っていた。当地臨夏市で宿泊したホテルは河海飯店。
10月6日朝 劉家峡水庫(ダム湖)へ行く。 路傍の農家の屋根の上に黄色い玉米/包谷(トウモロコシ)を載せて乾燥している。 まるで黄色い瓦のようである。 船着き場から乗船,ここは黄河の上流である。 両岸は傾斜のきつい山肌が迫る。 緑の少ない,紫色に輝く, 峨峨たる山容が水面からほぼ真っ直ぐに立ち上がる景色はなかなかのもの。 船上は記念写真会場と化す。 約1時間で目的地の炳靈寺石窟の船着き場に到着。
劉家峡水庫の沿岸風景(1)
劉家峡水庫の沿岸風景(2)
Mr and Mrs.H&M 中央がHS君
(左)IA嬢 (中)Asha from Moscow(右)A嬢
(左)Miss.姜
船着き場に降り立った一行にたちまち数人の子どもがまとわりつく。 私にも小さな女の子がついて来て一緒に歩き出す。 彼女は私に弁当箱のような容器から取り出した石ころを二つ握らせて次のような意味のことを断片的に言った,『これを上げます。 学費を助けてください。 私の家はあの山の上にあって,ここから歩いて4時間掛ります。・・・・』 お金をくれという直接的な科白はなく,価値のない石ころを商品に仕立てての小さな商人である。 2元紙幣を与えると,お礼のつもりか,彼方の山を指しては名前を教えてくれる。 しばらく併行してから頃合いをみて『謝謝,叔叔(xiexie shushu)』といって引き返して行った。 小学生低学年くらいの女の子だった。 観光船が着く度に“商売”をして生活費を稼いでいるとしたら,果たして学校へ行く時間はあるのだろうか,と思った。
この地は絲綢之路(シルクロード)の要衡にあたる。 シルクロードはここで黄河を渡り,北路と南路に分かれるとのこと。 炳霊寺 (bing ling-si)石窟は,司馬氏の東晋が滅びた後の五胡十六国時代,西秦(385〜431)王朝が作り始め,北魏、北周、隋・唐と代を継いで造営されてきた。 183の窟龕,694の石像,92の泥塑像が現存するが,最大の仏像は唐代の弥勒菩薩石像である。大半の石窟や壁画は修復中のようで,中には入れない。 窓越しに覗き見る程度である。 洪水対策の堰堤が設けられていて,観光客はその上に設置された回路や木道を歩いて参観する。
炳霊寺・弥勒菩薩石像(1)
炳霊寺・弥勒菩薩石像(2)
ここから約3時間,渓谷沿いに標高2800mの山間の高地にある夏河 (xia he)へ移動。 時折悠々と道路を横切る羊の群れに一時停止。 流石に肌寒く一部紅葉もみられる初冬の気候。 友誼賓館に宿泊する。 かなり老朽化したホテルで照明は薄暗く,シャワーのお湯も余り出ない。 ただ食事はおいしい。 羊肉料理もいい味である。 セーターを着込み,厚い靴下を履いて寝る。 HS君と終始同室である。
10月7日 晴天の陽光の下でみる夏河の町は空気も透明度が高く,建物も山並みも全て輪郭がはっきりと見える。 ここは蔵族(チベット族)の多く住むこじんまりとした町である。この町の中心は拉卜楞寺(Labuleng-si)という蔵傳佛ヘ(チベット佛ヘ,即ち喇嘛(ラマ)ヘ) の大寺院である。 拉卜楞 [ラプラン] とはチベット語の「佛の宮殿」という言葉が訛ったもの。 建築様式は中国式とチベット式の混合方式である。 ここはチベットのラサ以東における最大の佛ヘ教育施設である。 聞思院(大經堂)などの幾つかの院を見て廻ったが,聞思院の中は薄暗く,灯明は牛maoniu(ヤク)の脂肪で作られた蝋燭で,猛烈に臭い。 「学僧」もそこで修行しているので,外来者は静かに歩かなければならない。 ここには多くの「学僧」が宗教・哲学・美術工芸・音楽などを15年掛けて学ぶ場所でもある。 中国の仏教寺院によく見受けられる建物の名称を書いた額の類が一切掲げられていない。 ここは本来信者や学僧のための寺であり,観光対象ではないのだという宣言をしているようなある種の潔癖さを感じた。
拉卜楞寺(ラプラン寺)
最左が薛老師,右から二人目が小楊老師
拉卜楞寺前の広場 全員記念撮影
拉卜楞寺前の広場 最右が蒋老師
拉卜楞寺・聞思院
夏河の町の大通り
見学の後街の通りをぶらつきながらホテルに帰り昼食を済ませると,郊外の平原へ出かけて乗馬を楽しむ。 観光客用の乗馬コーナーが平原の一角にあり,蔵族(チベット族)のおばさんやその子どもたちが,一回21元で乗せてくれる。 先に1回1時間と聞いていたが,それはかなりいいかげんで,彼等は金儲けをしたいだけだから一刻でも早くおしまいにしたがる。 轡を取ってもらう身としては,気が弱いと,降りてくれとそれとなく言われると,妥協してしまいがちだ。 生きのいいアメリカ人の男の子などは勝手に単独で馬を駆って走り回っていた。 ひと走り,いやひと歩きのあとはテントでお青酒(ハトムギから作る20度くらいの酒)を賞味する。
平原の騎馬
HS君の勇姿
馬に乗る"アガシ"たちの格好よさ
轡を引くチベット族のおばさん
帰路,街はずれでバスを降り,眺望がよいと言われる丘に登り,市街地を眺める。 実に吸い込まれるような不思議な美しさを感じ,Shangrillaということばを連想した。 何気なく登った斜面は祭りの日に大マンダラを広げて掛ける斜面であった。 下の写真の左奥に拉卜楞寺が見える。 丘を降りて河縁のお堂を通ってホテルへ帰着する。 お堂の一階部分は経車又はマニ車が,小さい釣り鐘のように全周にずらりと取り付けられている。 経車又はマニ車にはお経が書かれてあって,これを手で回せばお経を読んだことと同じなのだそうである。 ラマ教寺院にはどこでもある。 清・乾隆帝ゆかりの北京の雍和宮にもひとつだけ大事そうに飾ってあった。
夏河全景(1)クリックで拡大画面
夏河全景(2)クリックで拡大画面
夏河全景(3)
大マンダラを広げて掛ける斜面
マニ車を回しに来るチベット族
華やかな色に塗られたマニ車の列
夕食のあと,拉卜楞寺のSANDAN師を招いての講話と質疑応答があった。 師に対して私も,チベットに対する中央政府の締付けのことから連想し,政治的な圧力の有無を質問したが,答えは90%圧力乃至影響を受けているが,我々は一切気にしないというものだった。
10月8日 7:00 am起床,8:00 am出発,14:00 pm蘭州到着。 黄河沿いの清眞料理の店「成功手抓美食樓」で昼食。 水車公園に行く。 明代嘉靖年間に造られた潅漑用の水車を保存して公園にしたところ。 西安へ翌朝7:00 am帰着。
帰りの夜汽車_若い人たちと模擬タバコ
帰りの夜汽車_カードゲーム後の乾杯
帰りの夜汽車_休憩タイム
後日談
旅行から帰って数日後,韓国人のMr.權が主体となって,学院に対して抗議の質問状を提出する動議を参加者全員に呼びかける小集会が開かれた。前回の旅行は学生側負担金が600元だったと聞いていたのになぜ今回は720元なのか,収支決算を公表せよ,また,旅行中アメリカ人グループを優先的に待遇したと感じられる節あり,などというもの。いかにも韓国人らしい自己主張の強さを見せつけられた。収支決算書は後日掲示板に貼り出された。それに,たしかに学園としては毎期の定例行事で分かりきったこととしているのであろうが,旅行の詳しい日程表などが全員に配布されることなど一切なかったことを見ても,日本人には理解しがたい呑気さというか,細かい気遣いのなさが感じられた。この種のことはこと旅行に限らない。”無駄な”経費は省いたとも勘ぐられるが,まあこれも中国式と割り切るしかないか。
H夫人に聞いた話であるが,以前 今回のような学園長距離旅行で上海に行った時,学院長の娘さんが(恐らく付添いの名目で無料で)ついて来て,そのわがままぶりに大迷惑を被ったことがあるという。公私の混同や公費の流用も幹部の特権の一つ。
10月9日午後 西北大学図書館報告室にて行われた「第6回 陜西省 大学生日本語弁論大会」 を知人のすすめで聞きに行った。 内容的にも,日本語としても,なかなか見事な発表が多く,驚いた。 テーマが「日本の若者に何を望むか」というものだったから,耳の痛い話もあった。 殆どの人は日本への留学経験もない。 従って中国人の若者に対する反省の言葉を述べた意見が多かった。 これからの若者は自己中心主義、金儲け主義を排し,他人への思いやりをもたなればならないという主張である。 目を閉じて聞いているとまるで日本人学生が演説しているような気がした。
一口メモ
幸い私たちは経験しませんでしたが,寮の個室で時にトイレットが詰まって流れなくなるという悲惨な事故が起きます。 原因は紙が詰まるからです。 中国では排水管が太く作られていません。 普通は始末した紙は備え付けのごみ箱に捨て,トイレットに流さない習慣があるからです。 私は聞いてはいたが,まさかこの寮でもそうなのだとは露知りませんでした。 私は日本の自宅ではシャワレットを取り付けているから,紙は極く少量で済みます。 ある日本人学生がこの種のトラブルを起こした時,私の室友に確かめたら彼は弁えていて,しかるべくやっているとのこと。 詳しいことを聞くのも憚られたので,自分は自分流のシャワレット方式を考案して以後それに依って実行したものです。 これ以上のことはここには書けません。 よろしく拝察ください。
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