Web小説             

  フェイドアウト             原作 周防 元水     

第5話 埋立      

 澪に飲まれ離れていく…。

 世津…。薄らぐ意識の中で呼び続けた。湖を外海と結ぶ澪の勢いは人力を遙かに超え為すすべもなく流された私は、やがて澪と交わる角建網に架かかっていく。水圧が動きを止め、次第に増す潮位はいつしか暗い海底へと私を追いやっていく。

 何かに架かる小さく揺らぐ藻のような自分を見ていた。そこには背景となるものは無く、周りには人々が溢れている。ぼんやりと横たわる、木とも道とも想える筋状のものに私は動きを止められ右へ左へと揺れ動く。私を呼ぶ隣人たち、友、親。隔絶され邪音のない余りにも遠い世界。私は躊躇しそして余りにも寂しく小さく見える。苦しさから伸ばされた手は、鮮やかに輝く円形の明かりを掴み取り、私は暗黒界から白の世界へと殻を脱ぐ様に抜け出る。安堵の中での遠離る思考は、私をあの時の若き漁師の元へと導いていく。傍らに世津が居た。そうだ、そうに違いない…。その瞬間、若き漁師は姿を変え暗黒の中へとねじれ溶け込んでいく。留まることなく遡る思考は、やがて私の故郷へ辿り着く。
 幼い私は障子に写る父母の作業を見ている。私は一人取り残され、誰もいない空間で、見える筈の無いものを見る様になっていた。秋の農作業は、収穫の悦びとは別に現実とは隔絶した異様な世界を目前に演出させる。間断無き発動機の破裂音は辺りを引き裂き物陰に静寂を生む。籾をこき取る回転ドラムはもうもうとした埃をまき散らし父母を無口にする。家の中に逃れた私は、板戸の小さな節から漏れた一筋の光に心を奪われ、次元の違う世界の存在に気付いていく。細塵は時に切れ時に繋がる1本の筋を浮かび上がらせると、自身の存在と共に見えなかった小宇宙の存在さえも印象付け、信じさせていく。
 幻影が時を深く抉る様に駆け抜けると、あれ程名を呼び続けていた人々は深遠の淵に消え去り、代わって静かでそして心地よい感触が我が身を包み始める。柔らかなどこか覚えのある不思議な安堵感が次第に彩度を増すと、繰り返される嘔吐の中、私は私の在処を捉え始めた。

 静かな朝まずめを迎える頃だろうか。日の光の下、湖上では現実の有り様を遮るものがない。埋立地が見える。年中色とりどりの帆林で囲まれる周知の地は平たく延ばされ大橋をも従えていた。投錨時の目立て地となる遠景としての村櫛半島がそこに在り、昨夜の在処と出来事を時を追って炙り出させる。

 長い慚愧の思考が過ぎ去ると気怠く距離感の無い朦朧とした時が訪れ暗黒界へと落とされていく。人々の声が彼方に聞こえる。母は紅にそして父は白く友は青の帯に閉ざされその帯は闇に紛れ私の行く手を塞ぐ。発叫の縁に輝く円形の明かりは再び現れ、私はこれまでとは違う世界の中に蘇った。私は世津の手の中にいた。気が付くとそこに世津がいたのだ。小さな砂浜は、砂粒一つ一つにまで陽を呼び込み白や赤、黄色と輝く。頭上は河口へと向かうカワウがくの字を描く。人丈程背後の芦林にはフナムシと赤い蟹が潮騒に合わせ群動く。かつて人が訪れたことなどないであろうこの砂浜は、アオサや流木と共に二人をも受け入れ、当たり前の様に海原を広げてみせる。何ら変わらない埋立地はすぐ其処に横たわり、見えなかった別の世界は同じ湖上の此処に在る。
 何処にも見付けられなかったもの。惹かれ、追い、私は 此処に来たのだ。

TOP フェイドアウト 前ページ 次ページ 先頭